【LCB】これはデートじゃない。たぶん。

 立ち上がって大きく伸びをした。

 机の上に置いた時計はちょうど0時を指し示していた。いつだか囚人の誰かに時計頭なのに時計がないと時間が分からないなんて変な話だと言われたけれど、本当にその通りだと思う。せっかくこの頭にしたのなら(誰の采配かは知らないけど)そういう便利機能をつけてくれてもよかったのに……と、どこかの誰かさんに文句をたれてみる。
 窓の外はいつの間にか真っ暗だった。今日は珍しく全てが順調にいく日で、17時頃には業務が終わってた。その後、みんなでお喋りしたりご飯を食べたりして、なんやかんやで解散したのが21時くらい。そこからはずっとPDAと向き合っていたから、3時間は作業に没頭していたことになる。我ながらなかなかの集中力だ。
 今日は囚人たちも比較的穏やかだったからっていうのもあるだろうね。まだ0時なのに耳を澄ましても喧嘩している声とか、物がはじけ飛ぶ音とかそういうのが聞こえてこない。なんて平和な夜なんだろう。

〈毎日こうなら苦労しないんだけどなー……〉

 なんてぼやきながらPDAに書き込んだ内容をさらっと見返して軽く息を吐いた。だいぶ、都市についても分かってきたような気になっていたけれど、どれだけ調べても知らないことが山ほど生まれてくる。

〈これじゃあダンテのノートっていうか……いつかダンテの百科事典になりそうだね……〉

 廊下にでると冬の寒さが身にしみた。全身の血が凍り付きそうで少しでも表面積を減らそうとして自然と肩が上がる。一応、車内は暖房がついているはずだけど、この寒さはどこかの窓が開けっぱなしだとしか思えない。そういうことがあると、いつもヴェルギリウスに冷たい目で見られるから……できれば彼に気がつかれる前に対処したい。
 いつにも増して静かな気がする廊下を、なぜだかちょっと後ろめたい気持ちで歩く。自然と忍び足になって、床がきしむ音にすら気を遣った。なるべく音を立てないようにそっと扉を開け、バスの方に向かうとたしかに窓は開いていた。けれど閉め忘れたってわけじゃないようだった。

〈あれ……良秀? まだ起きてたんだ。珍しいね〉
「……。時計……か。面倒なのがきた」
〈何してるの?〉

 誰もいない車内には良秀だけが残っていた。全開にした窓に肘をついて、口にはまだ火のついていない煙草をくわえている。一瞬だけこっちを見た彼女は次の瞬間には興味を失ったように窓の外に視線を戻した。

「べつに? しいていえば暇つぶしだ」
〈寒くないの……? 震えるくらい寒いんだけど……〉
「軟弱」
〈……今のは、何かを短縮したわけじゃないよね〉

 良秀はシャツ一枚で上着すら羽織っていないのに本当に寒くないみたいだった。さっきから悲しいくらい縮こまっている私と違ってひどくリラックスしているように思える。その姿はいつも通りしなやかで、なんとなく野良猫を彷彿とさせる。

「用・無・失……チッ……どいつもこいつも……」

 ライターはカチカチと音を立てるばかりで一向に役目を果たそうとしない。良秀の機嫌は見るからに急降下して触るだけで火傷しそう。
 だけど、今日はもう少しだけ話したい気分だった。

〈ちょっと待っててね……はい〉

 ポケットを漁って奥底に眠っていたライターを取り出す。初めて会ったときに、そのくらい持っておけと言われたからとりあえず買っておいたものだ。
 隣に並んで火を差し出すと、良秀は少しも遠慮せずに唇を寄せて煙草に火をつけた。整った顔が急に近づいてきて、一瞬心臓が飛び跳ねた。勝ち気な目が伏せられると普段は意識しないようなまつげの長さに妙に目がいった。まるで彫刻のような造りだ。まつげの間から覗く瞳は血のように真っ赤で、どんな災厄があってもいいから触れてみたくなる。時々幼く見えるのは顔に対して目の割合が大きいからだろうか。

 切りそろえられた黒髪は一本たりともほつれることはなく、つややかに周囲の光を反射する。ホンルみたいに、自前のシャンプーを使ってるわけじゃないだろうに、どうしてこんなに髪が光を放っているのか疑問だった。肌だってまるで陶器でできているみたいだ。近くでみても、これっぽっちも存在を感じさせない毛穴はいったいどこへ消し去ったのだろう? それに――。

「……ふ、時計」

 次の瞬間、真っ赤な瞳がはっきりと私の目とかち合って満足げに細められた。そして一瞬の間もおかずに視界が真っ白に染まる。

〈わっ!!!?!?〉
「褒美、だ。一吸い目が一番うまいからな」

 そういって良秀はまた窓の外に目を向けた。彼女の小さく開けた口から白い煙が空に昇っていくのをみてようやく自分が煙草の煙を吹きかけられたのだと理解した。

「それから、ジロジロ見るな。気が散る」
〈あ、うん。ごめん……〉

 目なんてないはずなのに、一体どうやって把握したんだろう。自分の視線がバレていたと思うと急に恥ずかしく思えてくる。

〈――ところで……わざわざ窓まで開けて何を見てたの?〉

 気恥ずかしさを誤魔化すように話を切り替えると、良秀は何も言わず、ん。と顎で外を示した。示された先には丸い月が浮かんでいた。暗闇の中、まるでそこだけ浮き上がるみたいに自分の存在を主張して下界を明るく照らしている。だから明かりもないバスの中がこれほど明るく感じたのかと合点がいった。

〈ああ、満月! きれいだね〉
 そのことない良秀はぴくりと肩を震わせた。
「なんて?」
〈え……いや、月がきれいだよね。って話?〉

 チクタクと時計の音だけがむなしく響く。良秀は一度、月を見上げた。いっそ忌々しいとでも言いたげな表情で。そして大きく息を吐いた。

「……くだらないな。時計。あれが本当に美しく見えるのか?」
〈……えーっと、きれいだから見てたんじゃないの?〉
「誰がそんなこと言ったんだ? いいからさっさと質問に答えろ。アレのどこが美しいって?」
〈そういわれると難しいけど……なんか、明るいし……うーん……〉

 言葉を詰まらせながら考える。たしかに、なんとなくのイメージできれいだと言ってみたものの、具体的にどこがきれいかなんて考えたことがなかった。返答に悩んでいると良秀は呆れ果てたように窓枠から離れた。

「結局はその程度だ。せっかく記憶を失ったのに、その辺の連中の言葉を猿真似して本当に何が美しいかなんて考えもしない。反・出・脳・ほ……だ」

 良秀は吐き捨てるようにそう言って廊下へ戻っていった。バスの中には私一人がぽつんと残された。引き止める言葉はたくさん知っていたけれど、それを口にする勇気はなかった。
 なにしろ、その言葉すらも誰かの真似事でしかなくて、確実に自分のものだと言える自信がなかったから。今の彼女が、その程度の言葉で歩みを止めてくれるとも思えない。

 バスの中に吹き込む風は冷たいというより肌を刺すような鋭さを伴っている。窓を閉めるついでにもう一度冷たく輝く夜空を見上げた。
 一体、良秀は何を思いながら月を見上げていたんだろう? 先ほどよりもいくらか輝きを失った満月に問いかけても答えはなかった。


◇◆◇


「到着」
〈うわっ!!?!?〉

 カロンが一言つぶやいた次の瞬間、身体が浮遊感に包まれて、そのまま前に飛び出した。キキィーッ!! という甲高いブレーキ音と囚人たちの悲鳴が混ざり合い、それと同時に車内のありとあらゆるものが空中を舞って、囚人たちは前の座席に派手に身体をぶつける羽目になった。……中には人間離れした体幹で微動だにしていない囚人もいたけれど。

 バスが完全に停止してから、額を抑えながらヒースクリフが真っ先に立ち上がった。

「だからァ……!! その急ブレーキを辞めろって何度言ったら分かるんだよ!?」
「止まりたいときに止まるの。運転手のいうこと、絶対」
「速度を下げればいいだけの話だろ!? おまえ、本当に免許とか持ってんのかよ!?」
「カロン、合図した」
「ハァ!? あの、到着の一言が合図だって言いたいのか!?」
「ちょっと、ヒース……。あんま叫ばないでよ~。ただでさえ頭揺れて痛いんだってば~……うう。ダンテ~、大丈夫? 盛大に頭ぶつけてたけど」
〈うん……ギリギリ……〉

 考え事をしていたせいで酷い目にあった。内容はもちろん昨日の夜のことだ。バスの後方からは囚人たちが各々うめき声やら不満やらをたれながら起き上がる声が聞こえた。

「ふむ。予定よりも早く到着しましたね」
 ファウストは先ほどのダメージをこれっぽっちも感じさせずに言った。
「う、うう……ファウストさん……。今日は何をするんですか?」
「これからリンバス・カンパニーの別部署と打ち合わせがあります。……ですから、皆さんが実際に動くのはその後になりますね」
「あ……、じゃあそれまで自由行動、ってことですか?」

 イシュメールはそわそわした様子でパンフレットを握りしめている。ファウストは何も言わずにじっとこちらを見つめた。
 ……それを決めるのは私の役割ということなんだろう。囚人たちの期待に満ちた視線を感じながら口を開く。

〈まぁ……いいんじゃないかな。特にやることもないし〉

 その言葉を待っていましたとばかりに歓声が上がって囚人たちは急に元気になって話し始める。
「え! ほんとに!? 実は私も気になってるお店があったんだよね~。巣なんてなかなかこれるものじゃないし、一生機会がないと思っていたのに~!」
「ハッ……! もしやここはかの有名なフィクサーの第八の故郷とも呼ばれているあの伝説の――」
「わぁ~。八つも故郷があるんですか? 帰省するときに困っちゃいますね~」
「なんかすごく商業的な匂いがするんですけど……各翼がスポンサーだったりするんですか?」
「おお! イシュメール殿! よく質問してくださった! 実はそれには大湖よりも深いふかぁぁぁいワケが……」
「いや……聞いてないです。ていうか……それ絶対騙されて……わっ!!?」

 イシュメールの背後からぬらりと現れた良秀がパンフレットをかすめ取った。イシュメールは目を見開いて、心臓に手を当てたまましばらく硬直し、深いため息を吐く。

「貸して欲しいなら一言言ってくれればいいのに……心臓止まるかと思ったじゃないですか。」

 良秀はイシュメールを一瞥するだけで何も言わなかった。その代わりとばかりに奪い取ったパンフレットにじっと視線を注いでいる。
 ……やっぱり整った顔だなと思った。その瞳が伏せられると自然と昨日の出来事を思い出す。髪の美しさも肌のきめ細やかさも昨日と何一つ変わらないのに何だか心の距離だけが遠い気がしてならない。

 そうやって、懲りもせずに良秀のことを見つめていると不意に赤い瞳と目があった。その表情は心底鬱陶しいと言わんばかりだった。くわえていた煙草を手に持ち替えると唇が小さく動く。その口の動きからしても、表情からしても言いたいことははっきりしていた。

〈……み、る、な……かぁ。うん……手厳しいなぁ……〉
「ん? なになに? 秘密のやりとり? 私も混ぜてよ~ダンテ~!」

 ますます騒がしくなる車内を見回してヴェルギリウスが大きくため息をついた。

「……まったく少し自由を与えただけでこれだ。とにかく、そういうことですから……ダンテ。くれぐれも、騒ぎを起こさないように。それから……はぁ。これも毎回言っているが……我々は集合時間に遅れた者を待ってやるほど暇ではない」
「……ふむ、今回の議題とメフィストフェレスから会議室まで移動することを考慮しても十六時には戻れるでしょう」
「それじゃあ、またその時間に。解散」

 一部の者はバスの外へ駆けだして、一部はのんびりと、一部はいつもと変わらない様子でバスから降りていく。
 私はというと……ロージャに肩を抑えこまれて再びバスの座席に座ることになった。しばらくすると、車内には私とロージャとイシュメールの三人だけが残った。

「……それで〜? ダンテ〜? 良秀とのあの秘密のやりとりは何だったの? いつの間にそんな仲になったの?」
「そんな仲なんですか? そんな感じには見えなかったですけどね……?」
「しっ! イシュはそういうの鈍そうだし、今はダンテの話を聞いてるんだから!」
「あー……でもたしかに、今日はよく良秀さんの方を見てましたね?」
〈そんなにわかりやすいかな……なんか、ショック……〉
「えっ、ちょっと待って! 今認めたね!? なんでなんで? なんで急にあのクールビューティーちゃんの虜になっちゃったのかなぁ~!?」
〈と、虜……っていうか……! そういうわけじゃないんだけど、えっと……〉

 チクタクといつにも増して時計の音が早く、大きく聞こえる。私が動揺していることで、ロージャは目をさらにキラキラと輝かせ始めた。その熱が伝わったのかイシュメールもチラチラと様子を伺ってくる。二人の期待と実際の落差が大きすぎてもはやどこから話せばいいのか分からなかった。実際は二人が喜びそうな話題は何一つないのに! 強いて言えば昨日から、コテンパンに言われているくらいだけど……この子たちはそういう悲しい話でもパフェが食べられるんだろうか?

〈えっと、誤解してると思うよ……本当に……〉
「うんうん! 誤解誤解! そうだよね~! クールビューティーっていうかぁ~良秀って意外とあーみえてかわいいところあるよね? 時々野良猫と心を通わしているところとかみるし! すごいんだよ~、猫じゃらしの扱い方が完璧なの。あ、あとで写真譲ってあげるね」
〈そういうことじゃない!〉
「じゃあどういうことなんですか?」
〈うっ……だから……これって言わないとダメ?〉

 二人は当然と言わんばかりに頷く。もはや言わないと許してもらえそうにないので諦めて口を開いた。

〈はぁ……だからね、本当にそんなことなかったんだってば。情けない話だし……本当はあんまり言いたくないんだけどね……昨日の夜にたまたま一緒になって……〉

 あらましを説明する。二人は時折茶化しながらも、かなり熱心に話を聞いてくれた。普段の指示もこれくらい真面目に聞いてくれればいいのに、なんて気持ちがうっすらとわき上がるほどには熱心だった。

〈それでね。窓の外に月が浮かんでて、満月だったから“月がきれいだね”って言ったら――〉
「え、ダンテ。ちょっと待って。月が綺麗っていったの? 良秀に?」 
〈うん――やっぱり良くなかったかな。そのあと、具体的にどこがいいのかとか色々質問されて……たしかに、月のどこが綺麗かって問われると難しいんだけど、でも昨日のは考えるよりも先に言葉にでてたんだよね……それで、反吐が出る。脳死でそんなことほざくな。って怒られちゃって……やっぱまずかったよね……〉
「いやいやいや! まずいまずくない言えば、ぜんぜんまずくないけど~。へぇ~、ふ~ん、そーいうことなんだぁ……」
「――あ、なるほど。良秀さんってたしか……」

 何やら二人だけで同意がとれたようだった。すっかりついていけなくなった私にロージャがにまにまとした顔のまま告げる。

「あのね~ダンテ~。“月が綺麗だね”って言葉、それって良秀の地元じゃ有名な告白文句なんだよ」
〈ええ!? いや、でも、うーん……そんな雰囲気じゃなかったよ……? ……殺されるかと思ったし……〉
「照れ隠しじゃない?」
「あ。だからその後に色々細かく質問してきたとか……?」
「ハッ! そんなに言うなら私のどこが好きなのよ! みたいな? そういうこと?」
〈いや、絶対違うと思うよ……〉

 そうかなぁ、と食い下がるロージャの後ろでイシュメールはしっかりと言葉の刃を研いでいた。

「じゃあ一度ハッキリさせましょう。そういうダンテさんは良秀さんのことどう思ってるんですか? 昨日いろいろあったっていうのは理解しましたけれど……それにしたって見蕩れているようにみえますよ」
〈それは……〉

 十二人の囚人のうち一人? ただの部下? たしかに、思わず目で追いたくなるようなそういう側面があるのも否定しないけれど……それが特別な感情かと問われるとよく分からなかった。でも昨日、無性に声をかけたくなった理由は……やっぱりよく分からない。

 月の美しさを問われたときと同じだ。まるで暗闇の中に閉じ込められて身動きがとれなくなったみたいに答えに詰まっている。どの言葉も自分の思っていることを託すにはとても頼りないような気がして何も言えなかった。

「あの……ダンテさん?」

 イシュメールが不安そうに声をかける。そのとき、不意にバスのドアが開いた。
 そこには良秀がいた。良秀はまっすぐ私の方をみて、人差し指をくいくいっと動かす。

「来い」
〈! うん〉
「ついでに、これも借りてく」
 そういった良秀の手には先ほどのパンフレットがあった。
「あ、はい。どうぞ……」

 良秀に腕を引かれてバスを降りた。外は寒かったけれど昨日ほどではない。むしろ凜として清らかな空気が心地いい。巣というのはなんだかどこもかしこも工業的で最新鋭なのかと思っていたけれど、ここはどちらかというと落ち着いていて、目に見えて自然豊かな場所だった。

 開きっぱなしの扉の内側から、ロージャとイシュメールの会話が聞こえた。
「イシュ~……あのパンフレットって、デートスポットとかも載ってたっけ?」
「さぁ……。ムルソーさんが覚えているはずなんで聞きにいきましょうか」
 その言葉を聞いて考える。
(……。まさか、デートってことはないと思うんだけどな……)

 のぞき込んだ良秀の顔はいつも通りだった。だけど、さっき甘い話を沢山ささやかれたせいで何だか妙に心臓がドキドキしている。もしかしたら……なんて淡い期待と、私の不用心な一言で傷つけてたりしないだろうか? なんて不安が同時に襲いかかってきて、何を口にしたらいいのかも分からない。
 そんな私を見て、さすがに哀れに思ったのか良秀は静かに肩をすくめた。

「戯・言。放っとけ。そんなものよりも、もっとためになるだろうからな」
〈ためになる……?〉
「これからおまえの真・芸を探しにいく」
〈えっと……真の芸術? それって……?〉
「そう。これ以上ないくらいのお膳立てだろう?」

 そう言って押しつけてきたパンフレットの表紙には“芸術の巣”と大きく記されている。パラパラとめくってみても、他の巣とは違って、文化的な施設の紹介が多かった。驚くべきことに、翼が関わっている美術館が巣の中に五つもあるらしい。
 これまで訪れた巣の中には、美術館の美の字もしらないような場所がたくさんあったから、それから比べると多すぎるくらいだ。それから、この世で最高級の色が出る絵の具を売っている画材屋だとか注目の画家の紹介とか、そういう情報が半分以上のページに費やされていた。もはや巣のパンフレットというより、それこそ画家やアーティストに向けたカタログのようになっている。

〈それで……この美術館にいくの?〉
「話が早いな」

 ぱらぱらとパンフレットをめくり、良秀の言葉を咀嚼して出てきた言葉は“意外”の一言につきた。

〈なんか、意外だな。こういうのって興味ないのかと思ってた。なんていうか、しっかりと我があるから……というか、うーん、言い方悪いかもしれないけど、人のこととか興味ないのかなって〉
「ふっ、当然。どれほど下らないものを芸術といって崇めているかを見に行くのさ。おまえのはついでだ。それに今更何を見ようが、結局は万・短・至・芸……だ」

 良秀はいつも欠かさず持ち歩いている刀を見下ろして不敵に微笑む。あれがどれほどの凶器で、鞘から抜いた瞬間どんな大惨事が待っているかは身をもって知っている。
 だからだろうか? このお誘いはなんだか……。

〈……なんか、すごく……危険な香りがするな……。他の人の作品が気に入らないからって、喧嘩売ったりしないよね?〉

 良秀は何も言わずに小さく笑うだけだった。良秀の機嫌がいいときは大惨事の前触れか、もしくはすでに大惨事が起こった後だ。その表情を見て、ついに覚悟が決まり、私は一層気合いを入れた。気合いで防げる大惨事なのかは分からないけれど……とにかく気合を入れた。ないよりはマシだと思ったから。

(まぁ、だけど……)
 
 チラリと横目で良秀の表情を見上げる。彼女の目は生き生きとして太陽みたいに輝いていた。

(私を選んでくれたのは、燃え上がりそうなほどにうれしいなぁ)

 たったそれだけの飴で、これから確実に起こるであろう大惨事も見逃してあげたくなるんだから、やっぱりロージャとイシュメールが言うように、私も相当彼女にのぼせているのかもしれない。


◇◆◇


(困った……)

 引きずられるままに美術館へやってきたものの、なんとも場違い感が強くて大きな部屋の隅で時計の置物として生きていく以外に道がなかった。さっきから何かを勘違いされているのか展示品だと思ってジロジロ見られるのも耐えがたい。真上にちょうどライトがあって、いい感じに時計を照らしているのも勘違いされる原因なのだろうけど……こうも展示品だと思われていると、突然動いてびっくりさせるのも悪い気がする……。

 さすが芸術の巣というだけあって、美術館にはかなり人が入っていた。年齢性別、職業を問わず、ありとあらゆる人が壁にかけられた絵や部屋に置かれたオブジェを鑑賞していた。

 ちなみに一緒にやってきた良秀は入館するなり「一人で見るから適当にまわってろ」などと言ってどこかへ消えてしまった。館内は思った以上に広く、三フロアに分かれていたから探すのは骨が折れそうだ。

 来場者の列が途切れたところを見計らって謎の時計オブジェから人間に戻って、ようやく展示品に目を向けることができた。
 私をただのオブジェだと思っていた人たちはぎょっとした顔でこちらを見ていたけれど、そんなの知ったことか! そもそも勘違いする方が悪い! うん。こうでもしないと、良秀とも出会えないだろうし、せっかくここに来た意味がなくなってし。

 そんなわけで気合を入れ直して、心機一転、他の来場者と一緒になって壁の展示品を眺める。

〈……おー〉
〈…………。うん……〉
〈……。んー…………〉
〈…………。あー……………〉
〈…………………。うーん……?〉

 よくわからない。

 キラキラとした額縁の中にはいろいろなものが描かれていた。何故か変な色で塗られたリンゴだの、ドロドロに溶けた花だったり、気分が悪くなりそうなほど高い彩度で塗りたくられた人の顔……。特定の何かを描いていない作品も多くて、それに関してはもはや訳が分からない。しかし、どういうわけか、そういう作品の方が人気が高いらしくて、中には5センチメートル四方の絵画に二十人も人が集まって、あそこの塗りがどーだの、この絵の具はどーだのと活発に話し合っていた。わざわざ長い時間待ったのに、残念ながら私には初めて筆を持った子供が適当に幾何学図形を描いたようにしか見えなかったけど。

〈……もしかして、これってすごさを読み解くために知識が必要……? こんなところに飾ってあるんだし、きっといいものなんだろうけど……うーん……〉
 そんなわけでフロアの半分も見る前にすっかり高尚な気持ちはなくなっていた。
〈これ、良秀は楽しめてるのかな……?〉

 だとしたら楽しみ方を教えて欲しいくらいだ。無理矢理連れられてこられた子供みたいな気持ちで、廊下を行ったり来たりしてみるも、どうもこの姿は人目につくようで、好奇の視線から逃れるためにまた作品を眺めて首をかしげるのを繰り返す。

 目の前のキャンバスは鈍い灰色の下地に赤とも茶色ともつかない色の線が何本も重ねられていた。線はまっすぐだったり、途中でためらったように歪んでいたり、所々途切れては別の方向に伸びている。絵の中央には黒く塗りつぶされた楕円が浮かんでいて、その周囲だけ絵の具がやけに厚く盛り上がっていた。近づくとナイフで引き裂いた痕や乾ききる前に指でこすったような痕が残っていた。

 タイトルは『再生』

(うーん……再生ね……。再生っていうには……うーん、希望がなさそうな絵だな……)

 なんて思いながら腕を組んで見ているとスーツ姿の二人組がやってきてちょうどその作品について語り始めた。

「これは……最近、力を伸ばしている実力派の作品ですね。この美術館にも何点か飾られていますよ。少なくとも先週きたときには五点ほどありましたね。まだきっと残っていると思いますよ。そんじょそこらの作品では太刀打ちできないようなものでしたから。その中でもこれは傑作です。この作品は現代社会における『断絶』と『再接続』をテーマにしているんです」
「なるほど……重ねられた線が他者との関係性をそのまま示す意図があるということですね。そうなると真ん中の黒いものは個の内側ですか」
「くわえて時間の積層もあると私は思いますがね。もちろん、言うまでも無いですが……明確なモチーフを排除することで、この作品はただの絵画の域を超えてそれぞれの記憶や経験を投影させて、対話を促そうという意図も感じられます」
「うーむ……やはり素晴らしいですね……成長が末恐ろしい……
 一通りの説明を聞き終えて、再び絵を見上げた。
〈……ふーん……〉

 諦めて隣の部屋へと向かった。今までの大きな部屋の壁に作品が並んでいるスタイルではなくて、そこは一作の、超大作のためにあつらえられたような部屋だった。部屋の中は眩しく、壁一面を贅沢につかってたった一枚の作品が展示されている。

〈わっ……大きい……〉

 相変わらず絵画は色とりどりの絵の具で塗りたくられているようにしか思えないけれど、やはり大きさというのはそれだけで迫力になる。

〈ここまで大きいと、なんか凄そうな気がする……〉

 それにこの作品は先ほど見たものとは違っていて何となくわかりやすかった。背景は明るい空色。その上に黄色と白色が軽やかに散らされている。円や破線が繋がって花びらのような形をつくっている辺りからも、なんだか明るくて心が安らぐような絵だった。

 それにくわえて、どうやら目玉展示の一つでもあるらしくて、作品を紹介するカードまで置かれていた。初心者からすればこれほどありがたいこともないだろう。そこには難しい言葉で十行程度の解説が記されていた――が、どうやら私が感じた印象であっているようだった。前向きで、健やかで、見る人の背中を押してくれるような――? とにかく、そういうものらしい。

〈なんだかここにきて、はじめて理解できた気がするな~〉
「――なにが?」
〈わっ!!!? びっくりした!!!〉

 汽笛の音が響き渡り鑑賞していた人たちの視線が一斉に集まった。なんとも気まずい。だが良秀はそんなこと気にも止めない様子でつまらなそうに絵画を見上げる。

〈もっと普通に声かけてよ……〉
「勝手に騒いだだけだろ。で……これの何が理解できたって?」
〈あ、えっとね。なんていうんだろうな。あんまりかっこよくは説明できないけど……春みたいに暖かくて、見るだけで前向きになれる……と、思わない?〉
 良秀は作品を一瞥してこれっぽっちの遠慮もなくはっきりと告げた。
「駄・作」
 その声は低くも高くもなく、いたってニュートラルで。断定でも挑発でもない、ただありのままの事実を告げているだけのように見えた。
「正気か? 時計……いっそ哀れだな」
〈ええ……そうかな……。なんか、かっこいいような気がするんだけど……〉
「無駄な金がかかっているだけだ。筆も絵の具ももっとマシな使い方がある」

 周囲のざわめきが大きくなる。そもそも私が注目を集めた後だったのも影響しているだろう。中には作品そっちのけで良秀と私を見て眉をひそめる人もでてきた。

〈えっと、えっと、でも、なんか、深い意図があるみたいだよ。紹介のカードによると……〉
「それがむしろ証明だろう。真の芸術が、その程度の言葉で語り尽くせるとでも? むしろそのカードを額に入れてやった方がよかっただろうな。そうすれば、ここの連中はありがたがって自信満々に解説し始めるだろうから」
〈ちょ、ちょっと、良秀――? 声、抑えて……〉
「何・意」
 何の意味がある? と問うた言葉にすぐに答えは出せなかった。
「黙ってみてろ」

 良秀は煙草に手早く火をつけて大きく一吸いする。もはや部屋中の誰もが良秀のことを見ていた。あの絵画すらも、良秀のことを見ているような気がした。

「お客様! 館内での喫煙は――」と、すぐに警備員が駆けつける。だけど、そんなことよりも前に注意しないといけないことがあったのかもしれない。たとえば、そう。
 館内への武器の持ち込み禁止とか。

「目を離すなよ。時計。そこが特等席だ」

 良秀は絵画に向き直った。まるで強大な敵と対峙するみたいに、部屋の中央でまっすぐ絵画を見つめたまま、滑らかな動作で刀を引き抜く。よく手入れされた銀色の刃が周囲の光景を鮮明に反射した。その刃に、良秀の瞳が映った。赤い瞳は炎よりも明るく煌めき、誰にも止めることができないほどの強い意志が浮かんでいた。

〈あっ……〉

 四六時中絶えず鳴り響いている時計の秒針が、一瞬だけリズムを崩したような気がした。
 警備員が止めるよりも早く、彼女は一歩踏み込み巨大な絵画をまっすぐ上から下へと斬った。音もなく。きっと絵画だって斬られたことにはしばらく気がつかなかったんだろう。まるで時間が止まったようだった。空色が割れ、黄色が流れ落ち、裂け目からは裏地の暗い色が露わになる。

 やっていることはただの破壊行為だ。そんなこと分かっている。だけど、不思議なことにそうは思えなかった。むしろ、この絵が初めて自由に飛び立つように見えた。細かな慣習とかお決まりとか、そういうものから解き放たれて……まるで産声をあげているみたいな……。
 均一だった明るさに影が生まれて意味の無かった色に緊張が宿る。
 続けざまに、今度は横に斜めに、まるでこの絵画の存在ごと消してしまいたいのではないかと疑うほど念入りに良秀は絵を切り刻んでいく。斬られるたびに絵は新しい表情を見せた。

〈……っ〉

 もはや言葉もなかった。到底言葉なんかで言い表せる感情ではなかった。心臓がドクドクと激しく脈打って周りの音も耳に入らず、ただ一心にその光景を見ることしかできなかった。いや、むしろ、それ以外にこの世の中に価値なんてないとすら思える。

 良秀が刀を大きく振るう。すると絵画の破片がまるで花吹雪のように頭上に降り注いだ。私たちのことを祝福してくれているみたいに。パラパラと舞う色とりどりの紙片を、ただ、息を飲んで、呆然と見守る。心臓が熱い。クラクラして立っているのもやっとで……。

「ふっ。真・芸にはほど遠いが悪くないな」

 それは他の客も同様だった。誰も彼も、声を出す気になんてなれなくて、この余韻を永遠にかみしめていたいような気すらする。
良秀は思い出したように私の方を見て柔らかく口角をあげた。目が痛くなるほどの強烈な照明をものともせずに、いや、そんなもの、引き立て役にまわらせてしまうくらいに、今の良秀は輝いていた。

〈……きれい……〉

 彼女は無残な残骸と化した花吹雪を容赦なく踏みつけて私の手を取った。私と同じように、良秀も高揚していた。それが何だかすごく嬉しかった。

「ふふっ。ダンテ、次いくぞ」


◇◆◇
 


 その先の美術館でも良秀は目玉作品をざくざくと切り開き、作品の新たな一面を露出させていった。良秀にいわせれば、どの美術館も見るに堪えない作品しかなかったらしい。たしかに良秀が手を加えたものはどれも言葉も出なくなるほど美しかった。――それはそうなんだけど……のんきにそんなことを言ってられない事情を思い出すと頭が痛くなる。

〈どう考えても……やりすぎだったよね。私たち〉

 良秀はこちらの言葉を聞いているのかいないのか。煙草をくゆらせながらぼんやりと赤く染まる空を見上げていた。ヴェルギリウスの念押しが心に突き刺さる。騒ぎを起こさないどころか、隣にいて止めなかった罪は重い。厳密には止めようとすら思わなかったんだけど……。

〈まさか巣のタブーとかに指定されてないよね? あそこって一応翼の美術館なんでしょ? 私たちがやったことって、相当、失礼なことだと思うんだけど……〉
「さぁな。そのときはそのときだ」
〈……まぁ、それもそっか〉

 なんだかもうどうでも良くなってきたので、諦めて良秀の隣に腰を下ろした。芸術の街らしくただのベンチにも細かな意匠が施されていた。美術館の側に併設された公園だからというのもあるだろう。そしてどうやら、座り心地は考慮してないらしい。
 クリスマスが近いからか、公園に生えた木には電飾が巻かれていて公園の敷地を隔てるフェンスにも電飾がびっしりと巻かれていた。きっと何かと芸術を重んじるこの街のことだから、このイルミネーションも感動的なものなのだろうな……と思いをはせる。ただ残念なことにイルミネーションの点灯は17時からだそうだ。集合時間は16時なので、これを待っていたら我らの無慈悲な案内人に置いていかれる。

〈それにしても本当にすごかったなぁ~……心がドキドキして、駆け出したくなるような力があった。頭で理解するよりも先に、身体で分かるって感じ? うーん、本当に、不思議な感じがしたな……ああいうのを見ると、私も何か描いてみたくなるね。……センスがあるかはわからないけど……〉
「うだうだ言ってないで描け。ほら」

 ぽいっと手渡された木の枝を持ってうろたえてしまう。いざそう言われると何を描けばいいのかなんて分からなかった。

〈……といわれると悩んじゃうね〉
「理・不・能。好きなものを描けばいいだろう? 課題ってわけでもあるまいし」
〈好きなものか……うん〉

 さっきの美術館でみたような、高尚なものなんて描けるわけもないし、ましてや良秀の芸術なんかには到底及ばないだろう。だけど、それでも描きたいものがあるとすれば……。

 私たちはいい年して、公園の地面に絵を描いた。夕日が二人の影を長くする中で描き続けた。
 脳内の理想と違って手は思ったように動いてくれないし、何度も同じ場所に線をひいては消してを繰り返す。それでも、頭の中にははっきりと理想があった。網膜の裏にはっきりと浮かぶ。あの真っ赤な瞳、艶やかな黒い髪、整った顔立ち……それも綺麗だけれど、それよりももっと綺麗なのは、いつもどこかで気を張っている鋭い目が、時折ふっと優しくなるその瞬間。出会ったころに比べれば比較的そういう場面も増えたような気がする。
 もしこの場所が、良秀にとって心穏やかに過ごせる場所になったら……。全ての重みを肩代わりしてあげることはできないけれど、私は最後の最後まで側にいるつもりだから……。だからせめて、これからの良秀が進む道に、溢れんばかりの光と希望が詰まっているといいなと思う。

 そんなことを思いながら描いた絵はやはり素人クオリティで、自分でも恥ずかしくなるような出来だった。もはや何を描いたのかすら分からない。かろうじて人ってことは分かるくらいのものだった。良秀にはひどく酷評されるだろうなと思うと、今すぐにでも消してしまいたくなる。

「下・手」
 案の定、良秀の評価は厳しかった。
〈やっぱり、思いつきではじめてもうまくいかないものだね〉
「……普段、俺のどこをジロジロ見てるか分かるな」
〈えっ、良秀を描いたかわかったの!?〉
「ッ……! チッ………………」
〈どうして分かったの? 正直、描いてるうちに自分でもこんがらがってきちゃったんだけど……〉
 良秀は少し口ごもり、気まずさを誤魔化すように煙草をふかした。その動作は間違いなく照れ隠しだった。夕日のせいか、そうでないのか、頬がわずかに朱色を帯びる。
「……見れば分かる。こんなの……いつの時代もありふれたテーマだろう?」
〈うん。そうだと思う〉

 この漠然とした思いに名前をつけるなら、きっとそれは「愛」に他ならないだろう。一人で寒さに凍えているのなら、隣に座って体温を共有したい。理不尽に涙を流すなら一緒に泣いて支えてあげたい。踏み出す勇気が欲しいなら優しくその背中を押してあげたい。そしていつか、大空を舞う勇気を取り戻したら、そのときは私のことなんて忘れて好きなところに飛びたてばいいのだ。

〈……私はね、あなたに夢の中だって寂しい思いをしてほしくない。記憶を失う前の私がどう考えてたのかは分からないけれど、最近はこう思うんだ。助け合って生きたっていいんじゃないかな……って。だって一人で生きていくには都市って随分大変なところみたいだし……どういうわけか、ちょうど話を聞いて、手を握れる距離にいるからさ。だから、私の隣が良秀にとって心地いい場所になるように頑張るよ〉

 煙草の煙が宙に消えていく。良秀は何も言わずに目を閉じた。その顔は普段からは想像もできないほど穏やかで柔らかいものだった。

「告白。というか……もはやプロポーズだな」
〈えっ!?!? あ、そういえば、弁明してなかったけど、月が綺麗っていったのはそういう意味じゃなくて……!!〉
「ハッ……命拾いしたな? 誰だか知らんヤツの言葉なんかで告白されたら、それこそ……く・へだっただろうから」
〈うん……だけど、今日思ったのは……もしかしたら……昨日も綺麗だと思ったのは月じゃなくて良秀だったのかもって……〉

 その瞬間、パッと目の前が明るくなった。赤に白に黄色の色とりどりのイルミネーションが一斉に光り始めて私たちを照らした。

〈あ、え!? イルミネーションの点灯って、たしか十七時だったよね!!!? 良秀、急ごう!! まさか私を置いていくことはないと思うけど、絶対ネチネチ言われるから……!!〉
 良秀の手を取ってイルミネーションの下を駆けていく。いつの間にかイルミネーションを楽しみにしてやってきた恋人たちが街には溢れていて、あちこちでロマンスが始まりそうな感じがあったけれど、そんなもの気にしている暇もなかった。
 ――少し嬉しかったのは、反射的に握っていた手を良秀が振りほどかなかったこと。握り返してくれるわけではなかったけど、小指くらいには力が入ってたんじゃないかな?

 


その後――。一時間以上も遅刻をしたということで、私と良秀はヴェルギリウスにこっぴどく叱られた。しかも今日に限って、他の囚人はお行儀良くしていたみたいで……そのせいで火力が分散することもなく、しっかりと叱られた。美術館を襲撃したこともちゃんと知られていて、それもしっかりと叱られた。
 お叱りが終わるといつものように戦闘指揮が始まり、いつもより若干厳しいフィードバックがあった。

〈囚人の業務終了を承認します……〉
「ありがとうございます。今から変動可能性のある最大十二時間の就寝および休息を開始します。良い夜を」

 ようやく業務を終えたころには月はだいぶ高く昇っていた。私たちのせいで、一時間も業務終了が遅くなったと思うと申し訳なくて示しがつかなくて身体が自然と丸まってしまう。

「あはは~、こっぴどく叱られてたもんね~? ドンマイ! それでそれで? デートはどうだったの!? 盛り上がりすぎて時間も忘れたってことでしょ~!?」
「……ダンテ。……ロージャ殿より聞き及びたるが……まことに、でぇと……なりや?」
「……管理人様。部下に手をつけるのは……いえ、管理人様の行動に口を挟むつもりはありませんが……どうしてもと仰るならわたくしが……」
「なんでお二人は自分のことでもないのにそんなに取り乱していらっしゃるんですか~? 仲良くなるのはいいことですよ」
「補足しておくと、リンバス・カンパニーの社内規則に社内恋愛を禁止する条項は含まれていない」
〈……。ロージャ、イシュメール……広めたの?〉
「私は止めましたよ。憶測だけで話すのは良くないって……だけど、ロージャさんには無意味だったみたいですね」
「だからぁ、イシュ。何度も言うけど憶測じゃなくて確信なんだってばぁ! で? で? どうだった? 良秀のキュートな姿は見れた!?」
〈あー………………〉

 ちらりと良秀の方を見る。今日の出来事を喋ったら殺すという目をしていた。

〈うん。忘れた。完璧に忘れた。何も覚えてない〉
「何それ!! 私が二人が遅刻してる間どれだけヴェルの機嫌をとってたと思ってるの~!? じゃあいいよ。良秀に聞いちゃうもんね。どうだった? 楽しかった? 何したの? 二人で手つなぎながら走ってきたときはびっくりしたんだよね~!」
「う・ざ」
「とかなんとかいって、なんだかんだ嬉しそうなんじゃない~? 照れてるのかなぁ~?」
「いい度胸だな……」
 良秀の目に冷たい殺意が宿る瞬間を見た。
〈あ……ロージャ……!? ちょっと、やりすぎかも……! 良秀も疲れてるだろうし、今日はこのくらいにしておいた方がいいんじゃないかな~!〉
「おい。時計……おまえ、俺の顔が好きっていったよな」
〈……うん……〉

 何か、なんか、すごく嫌な予感がする。

「それなら、今から最高の笑顔を見せてやる」
〈………………………。うん〉
「ちょっとダンテ!!!!?!? 恋バナは楽しいけど、惚れた惚られたで特別扱いとかやめてよね!!!?!?」
「俺の趣味に付き合うっていうならこの程度許されるだろう」
「うわぁ~~~!!! 早く止めてよ~!!!」
 ロージャはバタバタと逃げ回り、やがて私の後ろに隠れて小さくなった。背中を痛いほどドンドンと叩かれてようやく冷静になった。
〈はっ……えーっと、良秀……? ロージャも……悪気があったわけじゃないと思うし……今日のところは……許してあげてもいいんじゃないかなぁ〉
「浮気者め。まぁ、任せろ。後ろの人間だけを切り刻むなんて造作もないことだ。結局、今日も真・芸は見られなかったからな……俺が手本を見せてやる」
「……僕は……今回はロージャさんが悪いと思いますよ……」

 良秀の瞳がまるで獲物を追い詰める狩人のように鋭く光る。いうまでもなく、その口元は今日見た中でも一番楽しそうに歪んでいた。


おまけ
「時計」
 振り返ると、良秀が自分の隣の席を指していた。座れってこと……だよね? と思いながら、おずおずと隣に腰を下ろす。何か秘密の話だろうか? と身構えたけれど、どうやらそういうわけじゃなさそうだった。珍しく煙草もくわえてないようだったから、火が目当てかなとも思ったけれど、そうでもないらしい。
 呼びつけるだけ呼びつけて、良秀はまぶたを閉じたから。
 動揺が時計の針に出たのか、一瞬だけ気だるげに瞳が開かれる。
「……うるさい……」
 その言葉にすら普段の鋭さは感じられない。そしてまた瞳が閉じられる。どうやら我慢できないほど眠いみたいだった。良秀にしては珍しい。暇さえあれば四六時中寝ていられるような囚人もいるけれど、どちらかというと良秀は神経質で、そもそも寝ないか、目は閉じていても感覚だけは永遠に研ぎ澄まされているようなことがほとんどだったから。しかし、今日は明らかに無防備だった。まとっている空気もどこか柔らかい気がする。
(静かな方がいいなら、隣に座るのは邪魔じゃないかな……どうせ、チクタク音はとまらないし……)
 そんなことを心配しているうちに肩に愛おしい重みが加わった。思わず叫びそうになってけれど、気合いでこらえた。つもり。耳を澄ませば良秀の規則正しい吐息が聞こえてくる。
「……わぁ~……人前で寝てるところ初めてみるね」
「またいつもの狸寝入りじゃねーのか?」
「だとしたらヒースクリフさんは真っ二つにされてるころじゃないですか?」
「はぁ!?」
〈あの……寝てるみたいだし……静かに……〉
「てめぇ、そんな気遣い俺にしたことあったか!?」
「そーだそーだ! 良秀ばっかりずるーい!」
〈ヒースクリフは騒いでも起きないじゃん……。ロージャはそもそもあんまり寝てるところみないし……〉
 声を潜めて話す。けれど、二人は容赦なく騒ぎ立てるからあんまり意味は無いかもしれない。ただ、これは私のエゴだけど、良秀の安眠を邪魔したくなかった。
「そりゃ~だって、裏路地の子はそう簡単に寝ないよ。寝ているときに変な薬打たれて攫われて~気がついたら二十五区みたいな話もあるんだよ? いつだって警戒してなきゃ。良秀もそっち派だと思ってたんだけど~……あーらら……かわいらしい寝顔しちゃってさぁ~。妬けちゃうね」
 ということは、良秀は私の隣を安全な場所として選んでくれたということで。
 それはとても光栄で嬉しいことだった。
〈……おやすみ。いい夢を〉