【オリジナル】アイビーに燃える

概要

絶世の美女、アメリア・スレイターはその輝く美貌と破天荒な性格を振りかざし、社交界の女王として注目を欲しいがままにしていた。言い寄る男には事欠かさず、立派な紳士を誘惑して堕落させる日々。
そんなある日、アンナの婚約者であるディラン・エドワーズに出会う。見栄えは良いが、自分の魅力に振り向かない不遜な男に腹をたて、アメリアは当てつけのように早まった結婚を決意するのだが……。

目次

第一章 一話

 イギリスがどれほど広大な土地を持ち、無限の労働力と血気盛んな若者と、数多くの由緒正しい良家の淑女たちを召し抱えているとしても、アメリア・スレイターに優る美人はどこを探したって見つからないだろう。
 それは普段からアメリアをよく思わない年頃の淑女たちも、彼女を取り巻く強壮で強靭な若い男たちも、今は前線を退いた年嵩(としかさ)の老紳士たちも誰もが認めるところだ。その輪郭は程よく丸みを帯び、輪郭を取り囲む黒髪は絹のように艶があり、いつでも不思議と仄かに甘い香りを漂わせていた。肌は陶器のように白く滑らかで、豊満なバストと引き締まったウエストは女としての魅力を前面に押し出している。形のいい鼻に、厚すぎず薄すぎない感じのいい口元、整った眉、瞳を縁取る睫毛は長く、その瞳が悪戯っぽく細められたり、女優さながらに伏せたりする度に思わずはっとせずにはいられない。そして、長い睫毛の奥には澄みきったエメラルドのごとき瞳が浮かび、ホープダイヤモンド〔呪われた宝石。持ち主が次々と不幸になる〕にも似た輝きを放っている。
 それはまさしく魔性の輝きだった。一目見た瞬間に心の最も深いところに刻み込まれ、思考を根こそぎ焼き尽くしてしまうほどの危うい魅力。その光に囚われれば誰であろうと骨抜きにされ、ついにはその華奢な身体を抱き寄せ、その瞳を独占したいと思わずにはいられなくなる。
 まさしく、この輝く深緑の瞳こそがアメリアの最大の武器だった。どんな紳士でもこの瞳にかかればいとも容易く傅(かしず)かせることができたし、退屈に目を伏せれば紳士たちはありとあらゆる方法で機嫌を取ろうと力を尽くした。ひとたびその瞳に憂いを帯びた悲しみの色が浮かべば紳士たちはまるで自分の心臓が引き裂かれたかのような苦しみを味わい、あるいは、アメリアがちょっとした気まぐれで、天使のような愛らしい微笑みを浮かべれば、どれほど堅物として名の知れた男でも彼女に思いを寄せた。それどころか、どうかもう一度自分のために微笑んでほしいと切に願い、そのためなら家財を投げ売り、心さえも捧げてしまえるような、そんなどうしようもなく危うい感情に心を支配されることになるのだ。
 そして、その程度で済むのならまだ救いようはあるが、アメリアの内面に触れてしまえばいよいよ取り返しがつかない。
 無敵の美貌を持っているからこそ、アメリアは活発で溌剌として恐れ知らずで、悪く言えば我が儘(わがまま)で自由奔放な人間に育った。売られた喧嘩は買わずにはいられないし、一度決めた事は何がなんでも成し遂げる行動力と我の強さがある。万が一にでも自分の我が儘が通らないなら、激昂し、周囲に当たり散らすことも日常茶飯事だった。その上、大層な気分屋で短絡的な思考の持ち主だったので、激しい怒りに身を任せたかと思いきや、次の瞬間には一転して花が咲くような笑顔をみせることもある。その表情は春の天候よりも目まぐるしく変化して節操がないほどだ。
 その気まぐれで、自由で、破天荒な様子はエチケット本に書かれるような理想の淑女には程遠いが、その移り気な気性こそがアメリアの美しさに拍車をかけていることはいうまでもない。そういう不安定な一面にこそ人は興味を惹かれてしまうものなのだ。その意志の強さも、その自由奔放な振る舞いも、その全てがアメリアの瞳に恐ろしいほどの輝きを与えて、彼女の魅力を何倍にも高めているのだから。
 ひとたびその激しい内面に触れてしまえば、誰であろうと本格的にアメリアから目を離せなくなり、「はい」と「いいえ」しか言葉を発せない生真面目な淑女たちは色褪せ、それはそれは退屈に感じることになる。そして、しまいには本気でアメリアを愛するより他になくなってしまう。それはちょうどアイビーが立派な白亜の邸宅を覆い尽くしていくのに似ている。一度その瞳に囚われれば、耐え難い魅力は心の深いところに蔦を張り、どれほど崇高な魂ですら抜け殻にしてしまうのだ。そして困ったことに、アメリアの魔の手に絡め取られた名家の紳士たちは今では数えられないほどに膨れ上がっていた。それも、偶然というには些か不自然なスピードで。
 アメリアはその美貌を武器に、淑女であれば必ず身につけるべき教養の数々を屑入れに投げ捨て、娘時代の大切な時間をもっぱら紳士を誑(たぶら)かすために使っていた。その有り余る魅力は男性に対しては特に有効的で、例えばそっと手に触れて上目遣いで目をパチパチさせたり、何かを言いかけて憂いを帯びた表情で口を噤んだり、それだけで男たちはいとも簡単にアメリアに溺れ、蕩けるほどの甘い言葉を贈り、愛の印を願う羽目になった。
 しかし、どれほど熱烈に愛を語られたからといってアメリアが求婚を受け入れることはなく、未だに誰一人としてアメリアの愛を勝ち取った男は存在しない。それどころか熱烈に愛を語られるほど心はどんどん温度を失っていき、しまいには凍りついてしまうような気さえした。これは単純な話で、社交界の女王として燦然(さんぜん)と光り輝くアメリアは狙った男性の愛を必ずその手に収めたものの、その実、誰かに恋心を抱いたことなんて一度たりともなかったのだ。男性という生き物はロマンチックではあるものの、単純で分かりやすく、何を考えているのか、何を望んでいるのかなんて手にとるようにわかってしまう。褒め言葉には常に定型文で答えが返ってくるし、挙げ句求婚の言葉なんて酷いもので一言一句同じ言葉を囁かれることもしばしばだ。その上、アメリアからすれば回りくどい求婚なんてセンスの欠片もなかった。一体誰が月や花や星に喩えられて喜ぶっていうの? そんなものよりもわたしの方がよっぽど輝いているっていうのに!
 男性というのはまるで型通りの人間ばかり。理解が及ぶから、深く知ろうという気にもならない。もしも海がその底まではっきり見通せるほど明るい色をしていたなら誰が命を賭して潜り、探査してみせようと思えるのだろう。人は未知にこそ心惹かれ、手を伸ばすというのに。
 そういうわけで、アメリアが紳士たちを誑かしているのは質の悪い趣味に他ならない。そこに恋や愛という人間の最も原始的にして崇高な感情はなく、ただ悪い喜びと承認欲求を満たされる果てしない快楽のみがある。そのため、アメリアは紳士からの愛を勝ち取ったとしても、のらりくらりと求婚を躱(かわ)して、やがて同じ言葉に飽き飽きしたアメリアが悪戯げに「でも、わたしって貴方のことは本当に尊敬しているけど結婚相手としては見られないの」といってこの歪な関係は終わりを迎える。
 本来、淑女であるなら誠実で控えめであるべきだし、ましてやその美貌をむやみやたらに振りまくなんてことは決してしてはならない。そういう卑しい手段を取るのはせいぜい中流階級から抜け出したい成金のご令嬢くらいのもので、本当に家柄のいい歴とした淑女であるならばその美貌はひた隠しにして、本当に重要な局面――つまり結婚相手を手中に収めるとき――以外で日の目をみせてはならない。少なくとも、公の場で誰彼構わず振り撒いていいものではない。と、母エレンは何度もアメリアに説明したが本人の心にはまるで響かなかった。それどころか、それを聞いたアメリアは不思議そうな表情を浮かべると鏡を覗きこみ、首を傾げた。どうしてこんなに綺麗で美しいのに、それをひた隠しにする必要があるっていうの?
 この件に関してはスレイター家で一番年嵩(としかさ)で、暇さえあればアメリアに小言ばかり言っているオルコットが母よりもよっぽど直接的な物言いで言及していた。
「奥さまもあんな回りくどい言い方じゃアメリアさまは理解できないっていい加減学ぶべきだよ。いいですか、お嬢さま。そんなとんでもない行いばかり続けていると今にどこの家の舞踏会にも呼ばれなくなりますよ。歴とした貴婦人のヘンダーソン夫人やベネット夫人がなんと仰っているか、まさかご存知ないとは言わせませんがね! それに、今に寄りつく男性もいなくなって旦那探しにも事欠くようになりますよ。なんたって、身持ちが悪い女っていうのはそれだけで事故物件みたいなものですからね。貞操を疑われても仕方ない。ああ、まさかスレイター家にこんなとんでもないお嬢さまが生まれるなんてねぇ! アメリアさまみたいなお気楽な人間は今にどこの馬の骨ともしれない悪漢にキズモノにされちまうだろうね」オルコットはそれを想像して眉間に皺を寄せると小さく身震いした。
 キズモノがどういう意味なのかはアメリアは良く分かっていなかったが、オルコットの吐き捨てるような言い方を聞く限りとにかく恐ろしいことであるのは理解した。実際、アメリアはそういった見え透いた脅しをそれなりに真に受けて、一時は夢に見るほどに怯えていた。しかし、それも代わり映えしない日常の中ですっかり忘れてしまった。待てど暮らせど一向に悪い男は影も形もみせないし、今のところ舞踏会の招待状も絶え間なく家に届いている。それどころか寄り付く男に関してはいなくなるどころか増える一方だった。どこからともなく、アメリアの噂を聞きつけた男たちが光に群がる羽虫のように姿を現し、自分だけは真に愛される自信があるといった様子で、自ら進んでアメリアに身を投じていく。そして“元恋人”という名の犠牲者が増える度にエレンは心を痛め、オルコットの眉間の皺(しわ)は更に深く刻まれていくことになる。誠実で心の清らかなキリスト教徒である二人は特にアメリアの不誠実な行動に我慢ならなかったし、どうにかして正しい道に連れ戻すことこそが自分の使命だと理解していた。
 そして、アメリアの横暴な振る舞いに我慢ならないのは何もエレンやオルコットだけではない。良家の淑女や年頃の娘を持つ貴婦人たちも心の沸き立つ思いだった。何しろ、アメリアという悪女がいるせいで舞踏会のダンスを断られたり、密かに思いを寄せていた人物を奪われたりすることがしょっちゅうなのだから! 貴婦人にしてみても、娘のためにせっかく見繕った男を掻っ攫われるのだからたまったものではないだろう。その上、アメリアの態度は傲慢でとても淑女的とはいえないし、何より美貌を鼻にかけているようでむかっ腹が立った。そういうわけで、アメリアと良家の淑女たちの間にはクレバスよりも深い溝があり、それは年々深さを増している。
 こういった一面もあったにせよ、アメリアは年頃の淑女を除く大抵の人間に愛されてきた。外見さえ美しければ、どんな悪癖があろうとも大した問題にはならないというのは世の常だし、もし仮にアメリアの身勝手な振る舞いに腹が立ったとしても、彼女が気まぐれに笑顔を浮かべれば誰だって許してしまうのだから事が荒立つこともない。それどころか、アメリアは気分さえ良ければ場に活気と華やかさを与える素晴らしい逸材だったので誰もがその機嫌を伺っていた。

第一章 二話

 今日のアメリアといえば、すこぶるご機嫌で朝から愛らしい笑みを家中の人間に振りまいていた。どうして機嫌が良いのかといえば、実に一ヶ月ぶりに舞踏会へ行くお許しがでたからで、久しぶりに〈ネザーブルック〉を覆い尽くす曇天が晴れ、太陽の暖かな日差しが家全体に舞い込んだかのようだ。アメリアは鈴の鳴るような声色で流行りの歌を口ずさみ、五分置きにマントルピースの上の時計を確認し、すれ違う使用人全員に抱きつき、キスをして幸せをお裾分けしていた。
 まさか一ヶ月前に名前も顔も知らない、遠い親戚の葬式に参列したお陰で、こんな苦汁を飲まされる羽目になるとは一体誰が想像できただろう。舞踏会は毎週のように開催されているというのに、その中心たるアメリア・スレイターが参加できないとは!
 その葬儀自体も退屈で欠伸を噛み殺すのがやっとで、アメリアはどうにか翌日の舞踏会を思い描くことによってこの苦行を乗り切った。アメリアの中では故人が棺に収まった時点でこの陰鬱でつまらない葬儀はおしまい。明日からはいつもの日常が始まると思っていたのだが、どうやら世間一般ではそうではないらしい。翌日になってみれば、ソフィーに招待状を取り上げられ「お葬式も済んだばかりだというのに舞踏会になんて行かせませんよ! まだ喪に伏す期間でしょう!」と、ぴしゃりと言い渡されたのだ。アメリアはしばらく失意と絶望に襲われ、小さな体は引き裂かれんばかりだった。
 アメリアがその瞳に涙を浮かべて泣きついてみてもソフィーは石のように頑固で「世間体が悪い」の一点張りで、その日は部屋に閉じこもり、ベッドに突っ伏しながら悲嘆に暮れてさめざめと涙を流した。何よりも辛く悲しいのは、自分のいない場所で何やら楽しげな物語が進行し、かたや自分は部屋でいじけるしかないという事実。丘の向こうでは今日も弦楽団が往年のワルツや流行りの新機軸を披露して、娘たちは色とりどりのドレスに身を包み、髪には一輪の生花を差し、意中の相手の腕に抱かれながら軽やかなステップを踏んでいるというのに。それを想像すると、無念やら悔しいやらで頭がおかしくなりそうだった。
 あんな下手なステップしか踏めない馬鹿娘よりもわたしの方がよっぽど体重を感じさせずにステップが踏めるし、誰よりも美しく着飾れるのに。空席の女王の席に我こそはと名乗りをあげて、さも女王同然に振る舞う娘たちを想像するといよいよ我慢ならなくなってアメリアはちょうど目についた陶器の花瓶をドアに投げつけ、それを叩き割った。
 
 しかし、そんな苦汁を飲まされるのも今日でおしまいだ。今朝、父――ブライトン家を訪問するための旅支度を調えていた――に半ば泣きながら縋り付いた結果、ついに舞踏会に参加するお許しを頂けたのだ。喪が明けるには少し早いくらいで、どうして急に許しがでたのかと使用人たちは顔を見合わせながら首を傾げたが、その裏にはこういった事情がある――。
 葬儀が明け、喪に服してからというもの父、ジョージ・スレイターは紳士という紳士に出会う度に「ミス・スレイターは一体どうして舞踏会に参加しないんです?」と激しい質問責めにあっていた。それは年齢、場所を問わず、驚いたことに、時には初対面の紳士にでさえ質問されることがあった。紳士たちはお決まりの質問の後には「ご息女がいないと退屈で仕方ない」とか「彼女がいないのなら舞踏会なんて行く価値もない」とか、思い思いの言葉を繋いで、いかに社交界がアメリア・スレイターを熱望しているのかを長々と説明してみせた。それだけであればジョージの堅牢な道徳心は崩れることはなかっただろう。しかし、ここ数週間というもの、ついにはアメリアを毛嫌いする貴婦人までもがジョージに泣きつき、どうか参加をお許しくださいと懇願し始めたのだ。「ミス・スレイターがいらっしゃらないと折角招待した方々が一曲も踊らずに帰ってしまいますの」と加えて説明する声は屈辱に震えていたが背に腹は代えられないという覚悟が滲んでいた。それから極めつけには愛娘の涙――そんなわけで三方向から攻められた砦は今朝ついに瓦解し、アメリアは晴れて自由の身となったのだ。

 アメリアはもともとお気楽でちゃらんぽらんなところがあったので、父の言葉は神の言葉と受け取り、許しがでるなり今夜の楽しい催しを頭の中に思い描いた。退屈で陰鬱な喪中であるということはその小さな頭の中からはすっかりと抜け落ち、その代わりに頭を埋め尽くしたのはシャンデリアの煌々たる灯りや男たちの神経を昂ぶらせる熱い羨望の眼差しだ。閉じた目の裏には既に体験したみたいに今日起こるであろう事柄が鮮明に想像できた。
 まず、今日の舞台であるベネット家のサルーンは招待客で埋め尽くされて足の踏み場もないほど。家具も床も顔が反射するほどピカピカに磨かれ、至る所で活気溢れる談笑が繰り広げられている。老紳士の落ち着いたしゃがれ声や若い男たちの活気にあふれるテノール、娘たちの高いソプラノが入り混じり会話はうねりとなって大きくなったり小さくなったりを不規則に繰り返す。会話は決して途切れることなく続き、時折グループの輪を大きくしたり小さくしたり、あるいはどこかの大きい集団に吸収されたり、そこでは新しい出会いがあって懐かしい再会がある。使用人たちはグラスを片手に忙しなく招待客の間を縫って歩き、その裏ではてんやわんやの大騒ぎが繰り広げられている。どこかで酒を飲んで勢いづいた男たちの小競り合いがあって、女達は水面下で火花を散らしあっている。
「でも、そんな活気も無限に続くわけじゃないわ。いつまでも始まらない音楽に皆が飽き飽きして、わたし目当てでやってきた紳士たちが肩を落とし、どこの会話にも気怠さが見え始めた頃……オーバー・スカートをいっぱいに膨らませ、髪に挿した生花の甘い香りを存分に漂わせながら今日の主役たるわたしが登場したらみんなどれほど喜ぶかしらね? きっと主役の登場に会場には活気が舞い戻り、弦楽団は待っていましたといわんばかりにカドリールを奏で始めるに違いないわ」
 まるで目の前にその光景がみえるみたいだ。アメリアはシャンデリアの煌々たる灯りの下、自分がどれほど愛らしく振る舞えるかを考えて悦に浸った。
 ドレスの裾からペチコートをちらりと覗かせ、何気ない風を装って様子を窺(うかが)う男性に意味ありげな微笑みを浮かべよう。それから、ロンドンでも指折りの弦楽団の五重奏に合わせて誰よりも可憐にステップを踏むのだ。周りには一緒に踊りたくてうずうずしている男たちを思う存分侍らして、そして今日はどんなイケてない男たちにも目配せして、その小さなハートをいっぱいにしてやろう。
「間違いなく、あの嫌味なお馬鹿さんたちにとってはつまらない会になるわよ」意地悪と同情の籠もった、しかし憎めない声色でアメリアが笑うとソフィーは作業を中断してアメリアに向き直った。若い乳母は薄い唇をツンと尖らせ、眉間に皺(しわ)を寄せて不満をありありと表現している。腕にはアメリアが脱ぎ散らかした青と白と赤のドレスがかけられ革命軍の面持ち。薄いブラウンの瞳は毅然(きぜん)と細められ、横暴な女王を是が非でも止めてみせるという覚悟が伺えた。
「いつもみたいに散々な振る舞いをしようと企んでいるみたいですけど、そうはいきませんよ。そもそも、本当ならあと一ヶ月は静かに過ごすべきだっていうのに――本当に旦那さまはお嬢さまに甘すぎますよ。いつもみたいに散々な振る舞いをするようなら引きずってでも連れて帰りますからね」
 ソフィーは鼻息を荒くして詰め寄ったが、アメリアはどこ吹く風で天鵞絨(びろうど)のカウチで頬杖をつきながら未だに楽しい妄想に耽っていた。ソフィーの小言なんて耳にも入らず、頭の中では既に弦楽団の奏でる力強いカドリールが響いていて今にも踊り出したいくらいだ。
「それに、アメリアさまの最近の行動はいい加減目に余ります。奥さまがどれほど嘆き悲しんでいるかなんて興味もないんでしょうけどね、奥さまの体調がなかなか良くならないことも、半分くらいはアメリアさまの非道極まる行いに心を痛めているからだと確信していますよ。わたしだけじゃなくて、ダーシー先生もそうおっしゃっていましたから間違いありません。どうせ見逃してくれるだろうと甘く捉えているみたいですけど、今日に限ってはわたしも他所のお嬢さまたちの味方ですからね。いいですか? 今日は誰とも踊らないこと! 参加するっていうだけで常識がないのに、紳士を取っ替え引っ替えして踊っていただなんて噂がたてばどうなるか……」
「それで、どうなるっていうの?」アメリアはぶっきらぼうに答えて続けた。「無茶なこと言わないでよ、ソフィー。あと一ヶ月も家に閉じこもってたらわたし本当におかしくなるわよ。大体そんな馬鹿なこと誰が決めたっていうの? 若い女にとって社交のない一ヶ月がどれほど長いか知らないんだわ」
 それにしたって本当に退屈で長い一ヶ月だった! 毎日やることといえばピアノと裁縫くらい。しかもそのどちらも地獄のような時間だった。ピアノは日頃の練習が物をいうらしく自分でも笑ってしまうくらい不出来だったし、ジョージアナがこれみよがしに隣で弾いてくるのにも腹が立った。その上、慣れないことをしたせいで指が不自然な形で固まって、しばらくは指を伸ばそうとする度に鈍い痛みが走るのもうんざりした。だからといって裁縫はもっと最悪で思い出したくもない。五目縫う間に一回は針を指に刺すから指先は血だらけだし、糸は気がつかない内に不思議な結び目を作ってアメリアを苛つかせた。その上、縫い手の気性が反映されているのか、どうにか仕上げた刺繍も縫い目がガタガタで見るに堪えない出来だった。そんなわけで刺繍にも早々に嫌気がさし、結局窓の外を眺めて誰か知り合いが通りがかる事を祈る以外にやることがなかったのだ。あの苦しい一ヶ月に比べれば、どんな不出来な男性と話すのだって楽しいに決まっている。
「まったく、薄情なお嬢さんですね! たかだか一ヶ月が何だっていうんですか。故人を想う時間よりもご自身の魅力をひけらかす方が重要だと仰るんですね?」
「だって特別に関わりがあったわけじゃないもの。顔だって肖像画を見てやっと思い出したくらいなのよ? でも多分もう二度と忘れないでしょうね。この一ヶ月、毎日……えっと、名前が思い出せないけど、とにかくミスター・なんとかさんの事を思い続けたんだから。『あなたのお陰でもう一ヶ月も家に閉じ込められています』ってね。これだけ個人を思ったんだからいい加減許されてもいいってものだわ」
「いいですか、アメリアさま。あなたに人を想う気持ちがないっていうのはよぉくわかりましたが……そもそもこういうものは慣習じゃないですか。いちいち撥ね退ける方がおかしいってものですよ」
 慣習、という言葉にアメリアは嫌な顔をした。
「それにしたって、喪中なんてシステムもそうだけど……世の中にはよくわからないルールの多いこと。足首が見えるほど短いドレスを着ちゃいけないとか、お目付け役もなしに出歩いちゃいけないとか、恋人を同時に二人つくっちゃいけないとか。つくづく思うんだけど規則を定める人って理不尽だと思わない? わたしが神さまなら絶対そんなルールはつくらないわ」
 ソフィーはアメリアのとんでもない言葉の数々にぎょっとして、気の遠くなる思いだった。いっそこのどうしようもない娘を放って気絶できたらどれほど良かったか! しかし信心深く敬虔で、道徳に服従を決め込んでいるソフィーは意志の力で倒れそうになる体を食い止めた。ただ、その代償とばかりに眉間の皺(しわ)は更に深く刻まれることになった。
「そんなはしたない真似してごらんなさい! そんな方、誰が淑女として扱ってくれるものですか! 今日び娼婦だってそんな格好しませんよ。アメリアさまは歴とした家柄の淑女なんですから、それ相応の振る舞いが求められるのは当然のことでしょう。それから、恋人云々に関しては論外です。一体どうしてそういう発想に至ったんだか! 健全な子女ならそんな考え持つわけがありませんよ。まったく、奥さまが聞いたらどれほど悲しみになるか!」腕にかけていたドレスの一枚がはらりと床に落ちたのを拾い上げて、ソフィーは作業に戻った。床にはアメリアが脱ぎ捨てた色とりどりのドレスが散らばり布の花畑を作り上げている。それを一枚一枚丁寧に衣装棚に戻しながらソフィーの小言は延々と続いた。
「今のお嬢さまに必要なのは恋人でも華やかなドレスでもなくて神の言葉でしょうね」
「もう、冗談だってば。でも男性は時々、同時に二人と関係を持ったりするでしょ? この間だってそうよ。わたし、エドガーがまさかエマ・アボットといい感じだとはちっとも思ってなかったの。知らず知らずの内に邪魔したみたいだけど……でも別にそれが羨ましいって言いたいわけじゃなくてね」――だって”正式な”恋人は一人だけでも”非公式”の恋人は何人だって作っていいものね。目線だけならどれほどスリリングなことも約束し放題だし、それに誰も見てないならもっと大胆なことだって許されるわ――とは流石に口にしなかった。いくらこの乳母が自分に甘いからといって、こんなこと口にしたら承知しないだろう。「まぁ、とにかく驚いたって話。ねぇ、ソフィーは知ってた? あの二人、一体いつからそんな関係になったのかしら?」
「本当に知らなかったんですか? わたしはてっきりあてつけだと思ったんですけどね。なんたって、エマさまときたら、出会う人全員に言って回っていましたし。それはもう共有財産って感じで。他所のお嬢さま方の見解も嫌がらせで概ね一致していましたよ」
「あら、そうなの。それでいつから?」
「去年の十二月くらいですかね」
「ふうん」アメリアは気のない返事をしたが、内心では激しい怒りに沸き立って今にもおかしくなりそうだった。「十二月といえば、一年の中で最も重要な月だわ。何しろ月の後半にはわたしの誕生日があるんだから。このわたしの誕生パーティーの裏でこそこそと密会していただなんてね。エドガーも目線だけで散々スリリングなことを約束した仲だっていうのに、よくも他の女を口説いた唇でわたしに愛の言葉を囁くものだわ! しかもよりによって、その相手がエマ・アボットだなんて!」アメリアはその相手を思って唇を噛み締めた。
 エマ・アボットは異様に背の高い女で、その身長は男性と並んでもまるで遜色がなかった。瞳は蛇のように鋭く、意地悪に満ちていて、いつも嫌がらせのことばかり考えているものだから吊りあがった目尻はいよいよ元の位置に戻らなくなっていた。顔の周りには赤みがかった髪が取り巻き、その中央にはかくも立派な鷲鼻がそびえ立っている。その長身の割には痩せすぎで、少し動く度に全身の骨という骨が皮膚から飛び出しそうなほど浮き上がった。その上、彼女は女性らしいなだらかな曲線とはまったくの無縁で、肩から足にかけては切り落としたような絶壁があった。性格は高慢そのもので、誰かを見下さずにはいられず、いつも気取って顎を上げながら歩いているのが妙にアメリアの癪に障った。
 一方のエドガーは、大学を放校になるほどのやんちゃ坊主で、酒が入ると誰よりも喧嘩っ早いが、乗馬も射撃もダンスも右に出るものはいないほどの腕前の持ち主だ。賭け事だけは熱くなりやすい性格が災いしてあまり上手くいった試しがないとはいえ、正直なことをいうのならエドガーはアメリアの”非公式”の恋人の中でもかなり良い線をいっていた。愛するまでには至らなかったが、少なくとも好ましくは思っていた。散々愛の言葉を語り合い、事実一回は駆け落ちの約束もしたのに――とアメリアは遠い昔の記憶を思ってみたが、果たしてそれがどういう経緯で中止になったのかは思い出せなかった。
 結局、二人の関係は知らず知らずのうちにアメリアが破壊した訳だが、それでもこの一ヶ月間というものアメリアは釈然としない思いでいっぱいだった。それこそ、林檎が空に向かって落ちていったような……絶対的な理が揺らぐのを目撃したような気分だ。たとえ今、二人の関係が冷え切っていたとしても、エドガーの気持ちが一瞬でもエマに傾いたという事実だけは変わりようがないのだ。
「そんなこと信じたくもない。この世に存在する紳士が、少なくともわたしの目の届く範囲にいる紳士が、他の女に恋心を抱くなんてあってはならないのに……。もしかして、他の恋人もわたしを褒めそやす影では本当に思いを寄せる人がいるのかしら?いるでしょうね。きっといるはずよ。だって男性のいう愛がどれほど移り気なものかはちゃんとわかってるもの」
 誰よりも気の利いた贈り物をくれたジェームズも、誰よりも熱烈に歓迎してくれたハーディン家の三兄弟も、誰よりも詩的に愛の言葉を語ってくれたサイラスも、誰よりも強く抱きしめてくれたローガンも、誰も彼もアメリアが別れを告げればあっさりと身を引き、その挙げ句、一週間も放っておけばあっさり別の女に熱をあげようとする。一週間前はあれほど手を変え品を変え、アメリアの気を引こうと必死に言葉を尽くしたというのに。もちろん、アメリアの手腕を持ってすればもう一度自分に想いをよせるように仕向けるだなんて、息をするよりも簡単なことだったが、だからといってこの虚しさばかりはどうにもならない。
 どうやら紳士の語る愛というのは羽よりも軽く、ちょっとしたそよ風で飛んでいってしまう程度のものらしい。そして現実に存在する「愛」がその程度のものであることはアメリアも薄々気がついていた。そこに御伽噺に出てくるような我が身に差し迫る感情というのは存在しないし、そんなもの所詮作り話にすぎないのだろう。それどころか、現実はもっと過酷で残酷だ。現実には愛を受け取れるだけで御の字というもの。右を見ても左を見ても、愛のない結婚なんて山のようにあるし、意中の人と結ばれないなんて物語に見るまでもなく、世の中に溢れかえっている。
 だからといってすっぱり諦められるほどアメリアは大人ではなかった。迫りくる現実から目を背けながら、アメリアは未だに幼い頃夢に描いたような切々と湧き上がる恋心とか、何を捨ててでも手に入れたい愛だとか、心を通わせあった喜びとかそういう蜃気楼のようなものを未だに追い求め続けているのだ。
 とはいえ、素敵な恋をしてみたいと思う気持ちが恋人を山のように作らない理由にはならないし、男性が他の女に夢中になっているのはどうにも腹立たしい。世界の中心は自分でなければ収まりがつかないのがアメリアという人だった。ああ、神さま!いつか恋をしたらきっと一途になります。でも今は……。
「そうよ、男の人がいう愛の儚さはちゃんとわかっているもの。ちょっとしたことですぐに消えてなくなってしまうようなものなのよ。となれば、わたしの恋人たちだって、この一ヶ月でわたしのことなんてすっかり忘れて、他の女に目がくらんでもおかしな話ではないわ。だめよ、だめ。そんなの絶対許せない。ああ、今すぐにでも舞踏会が始まればいいのに! わたしのことを一目見れば、みんな他の女にかまけていた自分が恥ずかしくなるに決まってるわ。何しろ今日のわたしは一段と綺麗だし」アメリアは口角を上げて思い出したかのように姿見の前に飛んでいった。単純なもので、鏡の中に映る自分を食い入るように見つめていれば、うんざりする不安も不機嫌もどこかへ飛んでいってしまった。
 五段もあるオーバースカートにはそれぞれにギャザーがたっぷりと寄せられてふんわりとした理想のシルエットを描き出していた。動く度に左右に揺れる様子は鐘のようで、その度に裾からペチコートがちらりと覗く。鮮やかな緑地の裾にはくすみのない金色の刺繍が惜しげなく施されており、それは言うまでもなく豪華で優美だった。ドレスの前面には数え切れないほどの細かい襞が、滝のような荘厳な模様を作り上げている。実にこのオーバースカートを作り上げるためだけに四十ヤードもの生地が使われていた。胸元には白の繊細なレースがこれでもかというほどあしらわれ、アメリアの完璧な体型を引き立てている。不思議なことに、このドレスを身につけるとウエストが三インチは細くなった気がして、アメリアは自分のスタイルの良さを確かめるように腰に手をあてた。突き抜けるようなピーコックグリーンの生地はアメリアの肌の白さをより一層強調して、更にはグリーンの瞳をひときわ輝かせているのが自分でもわかった。首元にはソフィーの反対を押しのけて身につけたガーネットのネックレスがきらりと輝き、まさしく今日の装いは完璧そのものだ。
「まったく、うちのお嬢さんときたら飽きもせずに……」ソフィーは呆れて肩をすくめながら呟いた。しかし、知らず知らずのうちに作業の手が止まりいつの間にかアメリアに視線を奪われているのは本人も気が付かなかった。
「飽きるものですか! だって、今日のわたしはとっても素敵だもの。ソフィーもそう思うでしょう?」
「ええ、ええ。その派手なネックレスさえ外せばわたしからも言う事ありませんよ。この時期に身に着けていいものは真珠のアクセサリーだけだと何度言ったらわかってくれるんですかね? 大体、代わり映えしない顔ぶれなんですからそれほど気合いを入れる必要がどこにあります? もちろん意中の人がいるって言うなら話は別ですけど……」
「あら、意中の人ならいるわよ」
「えっ、どちら様です?」ソフィーは身を乗り出して、食い気味に質問した。その瞳は噂話に花を咲かせる娘たち同様にきらりと輝いて、内緒話をするみたいにひそひそ声だ。この乳母もまた娘たちに負けず劣らず、ゴシップとロマンスだけを食べて生きていけるような性質の持ち主だった。それから――本人は決して認めようとはしないが――絢爛豪華な舞踏会やドレスなんかにめっぽう弱く、アメリアの装いに毎回惚れ惚れしている。その上、なんだかんだいいつつアメリアが若い男たちを独占するのも鼻が高い思いなのだ。だからアメリアは、ソフィーと話すと数少ない女友達と話しているような気持ちになって、なんだか楽しくなり、つい言わなくて良いことまでべらべらと喋ってしまう。
「サー・ウィリアムさん。去年アンナの家でお会いした将校さんよ。あの人ったら、またすぐにお会いできますとか言ってたのに、結局一年もの月日が経ったのよ? 信じられる? まぁ、きっとあの人にとっては一瞬だったんでしょうね。見た目はそうでもないけど、それなりにお年を召してたはずだし……いくつだったかは覚えてないけど」
「そんなの社交辞令でしょう。真に受ける人がどこにいます」
「ここにいるわよ。わたし、放って置かれるのが一番嫌いなの。だってそんなの存在しないのと一緒でしょう? それに比べればどんな悪口も嬉しいくらいよ。きっと前回の振る舞いが悪かったんだと思うの。覚えてる? ほらあのときって女性一人に対して――どんなパッとしない女でも――五人は男性がまとわりついていたでしょ。だからきっとわたし、他にもっと素敵な人がいたか何かであの将校さんを適当にあしらったような気がするのよね。そんなわけで、今日は存分に良い思いをさせてあげるのよ」それで、求婚までされたら万々歳。そうでなくとも、その瞳に親愛を超えたものを見いだせれば十分だ。そうしたら今度は逆にわたしが一年間放っておいてやろう。きっと体が引き裂かれるくらいの絶望を味わう筈だわ。「他にも踊らないといけない人は沢山いるわよ。ちょっと心配なのは曲数が足りるかってことだけど……ほら、そこの手紙入れにいっぱい入ってるでしょう?」
 ソフィーはサイドテーブルの上に置かれた紫檀の小箱を見つめて、それを開ける前から未来を想像して露骨に肩を落とした。一体奥さまにどう申し開きしたものだろう?
 小箱の中にはインクも乾ききっていないような真新しい手紙がぎっしりと詰まっていて蓋を開けた拍子に何通かの手紙が圧力に耐えきれずに外へ湧き出した。その中身はどれもこれも熱烈なラブコールに満ちあふれていて、どんな顔で、どんな想いを胸に抱えて文章を綴ったのか簡単に想像できる出来栄えだった。並大抵の淑女であれば顔を赤くして倒れてしまいそうな言葉の数々、そして筆跡から伝わる切実な想い……実際、ソフィーは二通目の半分を読んだあたりで顔から火がでるのではないかと思って一旦手紙を閉じた。
「よくこんな手紙を山のようにもらって求婚を跳ねのけられますね」
「ソフィーもそういうのが好きなの? わたしは月とか女神とかそういうのに形容されたってこれっぽっちも嬉しくないし、これっぽっちもときめかないわ。それに読みにくいったら、人間って興奮すると字の大きさが行ごとにバラバラになるのよね」
 手紙に気を取られているソフィーを横目で確認してから、アメリアはテーブルの引き出しから秘蔵のコロンを取り出し、身にまとった。バレないかとヒヤヒヤしたが、ソフィーは恋する乙女よりも真剣に手紙と向き合っていた。唇を横に結び、顎を引いてひたすら緻密な字を追いかけている。しかしどうやら三通目を読みきった辺で限界を迎えて、四通目からは送り主だけをなぞった。エドガー・リード、ジェームズ・レミントン、レイ・エイデン、ブレイステッド中尉、サイラス・ノークスなど、実に三十通。その中には幼なじみもいれば、アメリアのことなら何でも知っていると豪語するソフィーですら初めてみた名前もある。
 手紙は表現の違いこそあれど、おおよその流れは似通っているようだ。つまり、最初に熱烈な愛の言葉が綴られ、その後には「早く社交界に戻ってきてほしい、そしてその暁にはぜひ一緒にダンスを」と続く。
「まさか、全員と踊るおつもりですか?」
「そうよ。わたし本当に退屈だったからお返事も書いちゃったし。ちゃんと約束は守らなきゃ」
「まったくなんて人でしょう! まだ喪中だっていうのに……また奥さまが涙を流しますよ。それに、言っちゃ悪いですが、これほど熱烈な手紙を貰って何も感じないなんて、今に人でなしと罵られてもおかしくありません。こんな――」ソフィーはもう一度手紙に目を通して、ちょっとした気まぐれで”アメリア”の部分を自分の名前に置き換えて悦に浸った。
「気に入ったなら持っていっていいわよ。どうせもう読まないし」
「本当に勿体ない、まさか送り主たちもこれほどぞんざいな扱いをされているとは思わないでしょうね」なんていいながらソフィーはさり気なくエドガー・リードと署名された手紙をポケットにしまい込んだ。何通か見た中ではエドガーのものが一番気に入った。「いい加減、アメリアさまも早く素敵な男性を見つけてくれればいいんですけど」
「またその話? みんな結婚、結婚って、もう本当にうんざり。お母さまもお父さまも、近頃じゃ使用人まで言ってくるもの。この間なんてジョンにも言われたのよ? 馬と酒が恋人みたいなあの人に! 普段はわたしに怯えてほとんど口も聞いてくれないのにね。それに叔母さまからも毎週のように手紙が届くし……」とはいっても父と母の話は聞き流し、ジョンは逆にからかって、叔母の手紙は早々に読むのをやめてしまったので誰の忠告もまともに聞いていなかった。だからといってうんざりしているのは本当だ。
「わたしは今日が楽しければそれでいいもの。それに誰だっていつかは結婚するものじゃない? そのいつかっていうのが今日ではないのは確かだけど、もしかしたら明日かもしれないし、明後日かもしれないし――」
「もしかしたら二十年後かもしれないですね。いいですか? アメリアさま。今は、それはもう惚れ惚れするほど美しいですけど、その栄光が永遠に続く訳ではないんですよ。いつまでもそうやって遊んでいるとすぐに見向きもされなくなりますよ? 年を重ねるっていうのは本当に恐ろしいことなんですから。どんな美貌も台無しになりますし、そうなったら教養の欠片もないアメリアさまは一生貰い手が見つからなくなりますね」
「なんですって?」アメリアは愕然として思わず聞き返した。美貌が台無しになって、それどころか貰い手もなくなる? 誰でも手放しに褒めてくれて、事あるごとに求婚してくる男がうんざりするほどいるっていうのに? いつまでも永遠にこの楽しい娘時代が続くような気がするのに、いつかは年をとって舞踏会の隅の方でパッとしない藤色の服を着て埃みたいに身を寄せ合ってコソコソと陰口を叩くようなおばさんになるっていうの? 飾り気もなければ色気もない服を着て、ダンスも踊れずに? それを想像するとゾッとして背筋が凍り、アメリアは恐る恐る鏡を覗き込んだ。もし今、皺(しわ)だの染みだのを見つけたら間違いなく発狂する自信があった。しかし鏡には相変わらず眩いばかりに美しい自分が映るだけで、なんだか急に自分だけはそういう老いや死という避けがたい悪夢が襲ってこないような気がしてきた。そんな不吉な言葉、まるで遠い世界の話をされているかのようだ。
「あそこにわたしが仲間入りするなんて、絶対ありえないわ。皺(しわ)が増えたり、腰が曲がったり、ましてやこの完璧なスタイルが崩れることなんてありえるはずないわ。だって生まれた時から綺麗で可愛いのに、ただ寝て、起きて、遊んでを繰り返すだけでそんな残酷な変化が訪れる訳ないじゃない?」
 それはもっともらしい意見に聞こえて、アメリアはほっと胸を撫で下ろした。きっとアメリアが忌避する貴婦人たちも彼女たちの娘時代には同じように思ったのだろうが、そんなことアメリアが想像できる筈もない。アメリアにわかるのは今、自分が実際に体験していることだけで十年先はおろか明日のことすら想像に及ばないのだから。そんなわけで、ついでとばかりに結婚した自分を想像してみたがやはり上手くいかなかった。だからといって、結婚せずにオールド・ミスだなんて揶揄(やゆ)されている自分はもっと想像できない。
「結婚が必ずしも幸せとはいいませんけど、少なくともその確率はあがるんですから。あんまり意固地になっているとジョージアナさまに先を越されますよ」
「天地がひっくり返ってもありえないわ。わたしはもういいからジョージアナの方に行って支度を手伝ってあげて。デイジーなんかじゃ役不足でしょ、きっと今にも泣きそうな顔をしてるわよ」アメリアはその様子を想像して小さく笑った。
 アメリアと妹のジョージアナの性格はほとんど真逆といってもいい。姉が無知で社交を愛したのに対して、妹は博識でいつも自分の内側にばかり目を向けていた。その性格は社交的とは程遠く、人が集まる行事をとにかく毛嫌いし、特にその中でも舞踏会なんて言葉を聞くだけで鳥肌が立つほど大嫌いだった。今日の舞踏会の参加に最後まで反対していたのもジョージアナだ。表向きは礼儀や倫理を掲げていたが、アメリアだけは単純に行きたくないだけだということを見抜いていた。舞踏会の何が嫌なのかといえば、まずダンスが嫌いだし、それに伴う会話、駆け引き、それから何よりもジョージアナは自分よりも遥かに劣っている男性にリードを取られるというのが我慢できなかった。そこがこの姉妹の何よりも大きな違いだろう。
 何しろジョージアナは自分の頭の良さに関して絶対的な自信があったので、誰にも言ったことはないがその辺の男よりは、自分の方が遥かに上に立つ資格があると自負していた。しかし世の中は理不尽で、女というだけでどこか頭の足りない存在だと認知され、庇護の対象になるのがどうにも気に入らない。そんなジョージアナにとって、ダンスなんてものは地獄そのものだった。自分より格下だと断言できる存在に腕を取られ、相手のペースに合わせてステップを踏み、面白くもない会話を延々と聞かされるのだから。
 唯一の楽しみといえば、紳士たちの討論に口を挟み、その話の明らかな矛盾点や現実不可能な理由を長々と説明することくらいだ。紳士は顔を真っ赤にしてどうにか面子を保とうとするが、興奮している状態で大した反論が出てくるはずもない。いつも男というだけでふんぞり返っている紳士たちが、自分の言葉でプライドを折られ頭を垂れる姿をみるのはかなり痛快だった。
 そんなわけで、ジョージアナは喪に服すという名目で舞踏会に参加する必要がなくなったの心の底から喜んだし、なるべく喪に服す期間が長引くようにいくつか姑息な裏工作もやってのけた。それなのに、時期尚早にも大嫌いな舞踏会に参加する羽目になった挙げ句、何の策略もない姉の泣き落としに屈することになったのだから今日のジョージアナは二重の意味で機嫌が悪かった。
「ジョージアナさまももう少し社交的ならいいんですけどねぇ」思う所は色々あるらしいが、アメリアには関係ないことだ。ソフィーは深い溜息をついて部屋を出ていった。

第一章 三話

 それからしばらく、アメリアは逸る心をどうにか抑えて、鏡の前で自分を見つめたり、髪型を整えたりしていた。そしていよいよ扉が控えめにノックされるとアメリアは待っていましたといわんばかりに飛んでいった。扉の先にはあからさまに不機嫌な妹が立っていた。ソフィーとデイジーの二人がかりで無理やり着せられた服が相当憎いらしく、ドレスの端を皺(しわ)が寄るほど力強く握っている。口はへの字に曲がり、少なくとも日付が変わるまではこの状態から戻りそうになかった。
 それからアメリアはジョージアナの出で立ちをまじまじと見つめて、なんとも歯がゆい思いを抱いた。ジョージアナのドレスは簡素も簡素で、舞踏会に向かう娘というよりは修道女のような出来栄えだった。折角、肩を露出させたドレスをまとえるというのに、その服はモーニングドレスのように露出が控えめで、ほとんど詰め襟といっても過言ではない。辛うじて白い鎖骨が覗いているがそれもレースの縁取りのせいでろくに見えない――それなのに、ジョージアナは落ち着かないらしくしきりに首元に手を持っていっては眉を寄せていた。それどころかネックレスもイヤリングもつけておらず、全くもって見応えがない。そんな様子なのでジョージアナはなんとなく厳格で近づき難いオーラを放っているように感じた。
「ネックレスでも付けたらどう? 貸してあげるわ」
「ネックレスなんて首輪みたいだし、そうやって、耳にじゃらじゃらつけるのもお断りよ。アメリアは男に媚びるのが好きかもしれないけど、わたしはそうじゃないから」
 アメリアは深く追求しなかった。どうせジョージアナに口論で勝てないのはわかりきっているし、何よりやる気のない淑女がいるのはいいことだ。自分と競うライバルが一人減るという事なのだから。
「本当に嫌になるわ。毎週のように会ってるし、こんな田舎で何か変わるわけでもないのに。毎回毎回、馬鹿みたいにめかし込んで、それで得られるのが紳士と踊る権利っていうんだから本当に呆れる! 早く終わってくれないかしら」
「なら楽しむことよ、楽しければ時間なんてあっという間に過ぎて行くでしょ?」
 ジョージアナは渋々姉の後ろに続いたがその歩みは牛歩も良いところだった。階段を一段下りる度にジョージアナは顔を暗くさせて、それとは反対にアメリアはどんどん笑顔になっていく。さながらアメリアがジョージアナの生気を奪い取っているかのようだ。ジョージアナはついに階段の途中で立ち止まってアメリアに問いかけた
「お母さまもお越しになるの?」相変わらず声は重々しくうんざりとした気持ちが溢れていた。
「いいえ? わたしとお父さまが必死に止めたもの。ダーシー医師ももう少し毅然とした態度ではっきりと仰っしゃればいいんだわ。きっとお医者さまの言いつけならお母さまも守るでしょうし」ジョージアナはアメリアの言葉なんてまるで聞いていないようで「ふうん」と短く興味なさげに返事をして踵を返した。「忘れ物を取ってくるから先に行ってて」
「忘れ物?」とアメリアは不思議そうに首を傾げてみたが、その考え事はすぐに中断された。階段の下にはエレンがソフィーに支えられる形で立っていた。エレンは遠目で見てもわかるくらい青白い顔をしていて、胸の痛みを庇おうとしているのか、背中が丸まっているせいでいつもよりも一回り小さく見えた。しきりに小さく咳をして、苦しみに顔を歪めているところをみると体調は良くなさそうだったが、エレンはアメリアを視界に捉えると口元にいつもの優しい微笑みを浮かべた。
「そんな心配そうな顔をしなくたって、大丈夫ですよ。これでも良くなっているんですから」エレンはアメリアにそっと近づいて、優しい手つきで頬を撫でた。病気のために母の手はほんのり温かくて心地がよかった。
「あまり羽目を外しすぎないこと、約束できますね?」
 病気を患っていても、母は相変わらず立派な貴婦人だった。一歩歩く度に優雅な衣擦れの音をさせて、張り上げている訳ではないのに良く通る声で家を見事にまとめ上げている。時折どこかが痛むのか、顔をしかめるがそれ以外は病弱な様子なんてこれっぽっちも見られない。アメリアからしてみれば、そうやって無理をするから回復が遅れるのだと思ったが、どれほど口にしても母は休もうとはしないのだった。もともと真面目でしっかりした人柄がここにきて裏目にでていた。医者によれば軽い風邪らしいが、エレンが頑なに休まないからか、それとも何か別の要因があるのか、かれこれ三ヶ月も経つというのに病は一向に治る気配が見えなかった。
「お母さま、心配しすぎると体に悪いってダーシー先生も仰っていたじゃないですか」できない約束は聞かなかったことにして、アメリアは母の手を握ってみた。指は肉がなく骨ばかりで、病気の過酷さを物語っている。よく見れば、少しだけ頬も痩けているようだ。
「アメリアさまが悪い遊びをお辞めになれば、奥さまの頭を悩ませる煩いごとも一つなくなりますよ」ソフィーの言葉も聞き流そうと決意したところで、丁度タイミングよくジョージアナが階段を下りる音がしてアメリアは救いの女神とばかりにそちらに目をやった。その瞬間、ジョージアナは慌てて手を後ろに回して何かを隠したようだった。例の忘れ物だろうか? お母さまに見られるとまずいようなもの? 幸いにもアメリア以外の二人はそれには気が付かなかったらしい。
 ジョージアナが隣に並ぶとアメリアは逸る好奇心を抑えられなくなってさり気なく首を伸ばしそれを覗き見た。パッと見ただけではよくわからなかったが、どうやらそれは古ぼけた本のようだ。表紙は日焼けして茶色っぽく変色していて、もはや汚れと区別がつかない。タイトルの黒字は霞んで拍子と殆ど一体化しており、辛うじてデボス加工の名残が見て取れるくらいだ。アメリアならば触ることすら躊躇しただろうが、ジョージアナにとっては宝物にも等しいらしく絶対に傷つけないよう細心の注意を払っているのが伺えた。
「きっとお父さまの書斎から盗み出してきたのね。本当にろくでもない忘れ物だわ。ダンスに会話に楽しいことが盛り沢山だっていうのに、いつでもできる読書なんかで時間を潰そうっていうのね」どうにかタイトルを読めないかと思って必死に目を凝らしてみると、それがどうやら解剖学の本であるということがわかって尚更ゾッとした。そんなことは露知らず、エレンはアメリアにしたのと同じようにジョージアナの頬を優しく撫でて落ち着きのある口調で続けた。
「ジョージアナ、あなたもですよ。ダンスのお誘いを頂いたらきちんとお受けすること。いいですね?」
 アメリアの頭の中はその非人道的な本のことでいっぱいいっぱいだったが、ジョージアナがしばらくの沈黙の後に「わかりました」と短く返事をすると衝撃で本のことも一瞬忘れかけた。「あのジョージアナが? 嘘でしょ?」ジョージアナの顔を覗き込んでみてもその表情からは何も読み取れない。その返答に面食らったのはエレンとソフィーも同様だった。

 外に出るなり、アメリアはジョージアナを問い詰めた。
「ちょっと、どういう風の吹き回し? まさか本当に踊るの? それからそのうんざりする本も」
 ジョージアナはびくりと肩を震わせて、玄関の方を振り返った。そして母の姿を探して――ちょうどソフィーに付き添われて寝室に向かおうとしている最中だった――どうやら聞こえていないらしいと判断してほっと肩を下ろした。
「お母さまに言いつけたら許さないからね」
「そんなことしないわ、楽しくもない。でもソフィーは絶対告げ口するわよ。それよりも、ねぇ、本当に踊るつもりなの?」
 ジョージアナは気分を良くして演説でもするみたいに得意げに話し始めた。
「ええ、もちろん。誘われたらね。でもそんなこと起こらないでしょう? わたし、アメリアの悪巧みは全部わかってるもの。悪いけど、さっきのソフィーとの会話筒抜けだったのよ」
 ジョージアナとアメリアは馬車に乗り込んだ。御者のジョンは相変わらずアメリアに萎縮しっぱなしで、軽くお辞儀をして、とても控えめに手を貸しただけだった。しばらくジョンをからかって遊んでいると遅れてソフィーも馬車に乗り込み、ジョンは真っ赤な顔をしたまま馬に鞭をあてた。
 馬車に揺られている間、ジョージアナは一言も発することなく黙々と解剖学の本を読み続けていた。何か面白くないことでも考えているようでその眉間には無意識的に皺(しわ)が寄っている。ソフィーはジョージアナが本(しかも淑女が読むようなものでもない!)を持ち込んでいるのを見て頭を抱え、しきりに「奥さまに面目が立たない」と嘆いていた。しかしジョージアナは自分の世界に潜り込み、ジョンは淑女たちの会話に口を挟む勇気もなく、アメリアはといえばどうやって紳士たちを魅了しようかと画策していたので、それを慰めるような言葉は誰の口からも発せられることはなかった。

第二章 一話

 一九世紀のこの頃、舞踏会や豪華な食事会といった贅を尽くした催しは、もはや日常の一部となり、毎週のようにどこかしらの家では友人を集めたパーティーが開催されていた。主催は力の限り趣向を凝らし招待客をもてなす――というのも、もしもその会に参加していたお喋りなご婦人が「あの家の人はもてなし方が独特ですわ」なんて婉曲(えんきよく)に知人に触れ回ったら、その家の面目は丸つぶれ、名声も潰えるというわけだ。もちろん、中にはイーストン家のようにただ純粋に招待客を楽しませたいと願う稀有な例もあったにしろ、そういう心根の綺麗な人間はそうそういるものではない。大抵の夫人たちの願いといえば、パーティーの成功と将来有望な結婚相手を娘に見繕うことくらいなのだから。
 どこの家も競うようにして派手で豪奢なパーティーを開いたが、その中でも群を抜いて立派なのはアボット家とベネット家の主催するパーティーだろう。ただしその性質には真逆で氷と溶岩ほどの差があった。
 アボット家は典型的な虚栄心にまみれた歴史の浅い貴族で、その凄まじい虚栄心は自らを没落の道に誘い込み、立ち止まることを良しとしなかった。一ヶ月に一度は必ずアボット家で舞踏会が執り行われ、そこでは毎回、最高級の鴨肉やロンドンの有名弦楽団、それから余興のための劇団や時代のスターまでとにかく富の証明となりそうなものが片っ端から並べたてられる。使用人は招待客一人につき二人つけるような贅沢ぶり。卸したての銀器は顔が反射するほど磨かれ、ギャラリーにはアボット夫人が買い集めた古今東西の代物がごまんと並べられていた。壁に掛けられたアステカの仮面は毎回、ニタニタしながら招待客を見下し、名も無い人物画は寂しそうに遠くを見つめている。
 アボット夫人曰く、「コレクター」らしいが、当の本人がろくな愛着を持っていないことは骨董品の上に積もった埃を見れば一目瞭然だ。今や埃は一センチにも及ぶ厚さで骨董品たちを覆い尽くしていた。
 何しろそんな様子だったので招待客がギャラリーに足を運ぶことはまずなく、当人がそのコレクションを見せびらかす機会はほとんど巡ってこなかった。アボット夫人は内心、それをよく思っていなかったので、時折迷い込んだ哀れな招待客を捕まえては埃にまみれたコレクションを指差し「これは二百ポンドで競り落としましたわ、こっちは三百ポンドと十シリング」などと鼻を高くしながら説明してみせた。しかし、その口から歴史や価値や逸話が語られることはない。何しろそんなことまるで知らないのだから――いくらで買い求めたのか以外は何も。
 一体、この王族さながらの華やかな舞踏会や、アボット夫人のコレクションにまつわる費用はどこから捻出されているのか? というのは町の密かな関心事だった。ミスター・アボットの年収だってせいぜい二千ポンド、そんなもの夫人のコレクションであっという間になくなってしまうだろうに! その上、少し下品なほど贅を尽くした舞踏会を毎月執り行っているじゃないか? そんな疑念から一つ二つとゴシップの種が芽吹き、それはいつの間にかアボット家の家紋をしっかりと覆い尽くした。つまり、アボット家は日々の食費を切り詰めたり、土地を売ったり、あろうことか金貸しからいくらか借金をしているとかいう噂だ。真偽がどうにしろ、こういうゴシップが芽生えた時点でその名声は潰えたようなものなのだが、虚栄心の言いなりであるアボット家の愚行は止まらない。長男のリック・アボットがグランドツアーで持ち帰ったお土産もあと数日もしないうちにすべて売り払うことになるだろうともっぱらの噂だ。
 その一方で、ベネット家はそれはそれは由緒正しい家柄で、建国以来の貴族だった。とてつもなく広い土地と何代かかっても使い切れないような大金を持ち、壮麗で格式高いお屋敷に、数え切れないほどの使用人を雇っている。当然この郡でもかなり上位の権力者で何代にも渡ってこの近辺を統治している――とはいえ、アメリアはたいして興味もなかったので覚えていることといえばそれくらいのものだ。とにかく、お金があって、土地があって、家が大きくて、そしてその一人娘のアンナ・ベネットは会う度にパリの流行最先端の服を身にまとっている。アメリアにとって一番重要なのは最後の項目で、それ以外は心底どうでも良い。
 アンナの身につけるドレスときたら、どれもこれも布地が二十ヤード〔十八メートル〕も必要な設計で、腰回りに寄せられたギャザーは他では類を見ないほどだったし、ドレープは床につくほど長く、ギリシア彫刻と見紛うほどに優美だった。デザインを手掛けるのはベネット家お抱えの服飾店――パリの高級服飾店が軒を連ねるリュー・ド・ラぺ通りに店を構えるちょっとした有名店――だ。モードの中心というだけあって、流行の取り入れはどこよりも早く、アンナはいつだって誰も見たことがないような最新の出で立ちを決まって素敵に着こなしている。アンナであればたとえ髪を全部剃り上げるとかいう奇抜なファッションでもこの上なく上品に魅せ、流行遅れの淑女たちを嫉妬と羨望の渦に陥れ、その手に鋏(はさみ)と剃刀(かみそり)を握らせることができるはずだ。そう思わせるものが確かに彼女には備わっていた。
 父親譲りのはっきりとした顔立ちに高い身長、それから母親譲りの透き通るような金髪に青い瞳。目は吊り気味で少しきつい印象があり、鼻は高くしっかりと筋が通っている。顎の先は常に上に向けられて、眉は他人を見下すために吊り上がっている。その青眼には教養と知性、それから名家出身のプライドといくらかの虚栄心が入り混じりあい、確かな輝きを放っていた。その姿は愛らしい天使というよりは戦いの女神アテナを彷彿とさせる。凛々しい美しさは棘のように鋭く、一見すると恐ろしくもあった。決して紳士にウケがいいタイプではなかったが、その自立した美しさは時と場所が違えば確かに人々を魅了したに違いない。そういう諸々の性質が絶妙な加減で混じり合い、アンナに無視しがたいスター性を授けていた。それは絶世の美女と謳(うた)われるアメリアでも無視し難いほどで、二人はちょっとしたライバル関係にあり、とにかく仲が悪い。いつだって二人の視線の間には激しい火花が見えるし、同じパーティーに参加しているとあらば、互いに嫌味の一つでも言わないと気が済まない。そんな二人の様子は気の弱いご婦人であれば気絶しそうになるほどで、その背後に悪魔の姿を見た回数はもはや数え切れない。
 アンナからすればたいした美点もないくせに、美貌というただ一つの天から授かった武器だけを振り回し、傲慢な振る舞いを繰り返すアメリアが許せなかったし、その態度が妙に鼻についた。名家出身のプライドは少しでも傷つけられると烈火のような怒りとなり、辛辣な皮肉という形をとって口から飛び出した。そんな言葉の棘を持ってして、勝ち気なアメリアを打ち負かすのはあまりにも甘美な悦びで、アンナの性格を捻じ曲げるのに一役買っていた。
 アメリアは言うまでもなく、この世の男性は全て自分のものにしなければ気が済まないし、社交界の頂点は自分しかいないと確信している。自分の縄張りを荒らす不届き者は誰であれ、噛みつかないわけにはいかないし、それからアンナのプライドの高さも性悪も、その全てが癪に障り、そんなわけでアメリアはアンナのことを毛嫌いしていた。
 とはいえ、ベネット家に近づくと心は疼いて、毎回のことながら逸る気持ちが抑えられなくなる。〈ノーザングリット〉はまさに豪邸という言葉がぴったりと似合う巨大な邸宅だった。ポーチカにはイオニア式の堂々とした列柱が六本横並びになっており、見事な庭園には季節ごとに色とりどりの花が咲き誇ってそれだけで圧巻の眺めだ。庭園の中央には大きな噴水があり、噴水は休むことなく水柱を天に届くほど高く打ち上げている。少し歩けば果樹園と温室があり、そこは常に芳しい匂いがして、紳士と二人きりになるにはうってつけの場所だった。舞踏会ともなれば、窓という窓から煌々と明かりが漏れて、数マイル先からでもその明るさを感じ取れた。アメリアは毎回、馬車の中からその景色を眺めるだけで居ても立っても居られなくなり、大抵は羽目を外しすぎることになる。当然、今回も例外ではなく、その荘厳な外観が丘の向こうから顔をあらわした時点で母のありがたい忠告はすでに頭からこぼれ落ちていた。夕焼けを背景に、黒いシルエットとして浮かび上がる豪邸は歴史ある城のように立派で、自然と心が躍った。
「アメリアさま。そもそも喪に服すべき立場であるということをお忘れなく。さもなければ奥さまに残酷な報告をすることになりますからね! まぁ、誰とも踊るなとはいいませんけど……ただし数人だけですよ。わたしが譲歩できるのはそこまでですから」あの紫檀の手紙入れに閉じ込められた山のようなラブレターのことを思うとあまり強くでることも出来ず、ソフィーは結局あってないような忠告を繰り返した。社交界がこれほどアメリアを熱望しているというのに、それを自分の判断だけで閉じ込めておく勇気も根気もソフィーは持ち合わせていない。これがスレイター家一番の頑固者であるオルコットだったなら断固として拒否する構えを示しただろうが、ソフィーは自分の考えを絶対的な正義だと思うにはまだまだ年齢が足りなかったし、自分の信念を貫くよりも適当な自己弁護を考える方がよっぽど得意だった。だから今日も「人前に出るだけで常識がないんだから、いまさら二、三人と踊ったって何も変わりませんよ」と自分に言い聞かせ、恐らく帰りの馬車の中ではさらなる言い訳を考える羽目になるのだろうとうっすら予感した。

第二章 二話

 馬車が止まるなりアメリアは弾かれたように馬車から飛び出して、恍惚とした面持ちで〈ノーザングリット〉を見上げた。三月の冷たい風がアメリアの愛らしい巻き毛を揺らし、それから少し遅れて甘い花の匂いが鼻孔をくすぐる。白亜の外壁は柔らかな月明かりに照らされて普段の厳しさをいくらか和らげていた。相変わらず荘厳とした屋敷には煌々と明かりが灯されて眩いばかり。遠くからは微かにオーケストラの演奏が聞こえ、それに混じってポーチにいても招待客の活気溢れる談笑の声が響いている。 
「これほど舞踏会を待ち望んだのなんてデビュタントのとき以来よ。でもわたし遂に戻ってきたのね。わたしのいるべき場所に!」今夜のことを思うだけでアメリアの心はうっとりとときめき、心臓が早鐘を打つのがわかった。体の奥底からじんわりと温かいものが溢れ、手足に途方もない力がみなぎるみたいだ。頬は自然と紅潮し、口元には愛らしい笑みが浮かぶ。小さな足は今にでも踊りたいと叫び、微かに聞こえる音楽に合わせて自然と体が揺れ動いた。
 アメリアは無意識の内に音楽の美しい旋律に耳を傾け、恍惚として目を閉じたがその音は背後の喧騒で掻き消された。
 アメリアは寝入りを邪魔された猫みたいに不機嫌になって、一転して冷ややかな眼差しで背後の馬車を見遣った。馬車の中では未だにジョージアナとソフィーが激しくやり合っていて、馬車に繋がれた二頭の牝馬も背後のやりとりにうんざりらしく頭をぐったりとさせている。面白いことに御者台に座るジョンも馬の仲間入りをしたみたいで、同じように頭を垂れていた。
「いいから早くそれを渡しなさい! まったくとんでもないお嬢さんですこと! こんな野蛮なものを持ち込もうだなんて、冗談じゃありません! 他のお嬢さまになんて言われるか!」
「煩いわね、あんまり耳元で叫ばないでよ。ほら、なんだか気分が悪くなってきた」
「またそんなこと仰って! もう騙されませんよ。そんなに都合よく気分が悪くなるものですか」
「それがなるのよ! ご覧なさいよ、ソフィー! ここにちゃんと明記されているじゃない! 読めないっていうのなら読み上げてあげましょうか? いい? 著者のアルフレッド・ウィリアムさんはこう仰ってるわ。第七章八節、魂の及ぼす肉体への影響について。我が国の偉大なる――」
「おやめなさい! 気分が悪くなったんだとすればそんな物を読むからですよ! さぁ、それをこっちに渡しなさい。ああ、本当に穢らわしい。よくも同じ人間の中身を調べようなんて気になったものです! ほら、早く渡しなさい。家に帰ったらそういった教育に害しかないものは旦那さまに言って処分してもらいますからね!」
「いやよ。それにわたしこの程度で気分が悪くなったりしないわ! 血や臓器がなんだっていうのよ」
 ジョージアナったらなんでそういうゾッとする話題ばかり持ち出すんだか。この場に似つかわしくもない。こういう豪奢な建物を前にしてそういう言葉を耳にするとなんだか急にこの場で殺人事件か何かが起こりそうな気がしてくる。白亜の邸宅を血で染め上げる必要なんてどこにあるっていうの? アメリアは二人のやりとりを見つめながら、かつてジョージアナが語った連続殺人事件の詳細を思い出して身震いした。
「まあまあ、ジョージアナお嬢さま。諦めなされ、書庫が丸ごと燃やされるよりゃよっぽどマシだろう」わなわなと震えるばかりのソフィーを見かねてジョンが口を挟んだ。それにしたってこの人、ジョージアナには諭すようなこと言えるくせに、頑なにわたしとは目を合わせないわね。
「だってそんなことできないんだから怯える必要ないじゃない。お父さまが代々受け継いだものなのよ? そんな大切なものを燃やすわけないわ。アメリアなら騙されるかもしれないけどね」突然引き合いに出されてアメリアはむっとして、その瞳にはほんのりと怒りの炎が揺らいだ。
「でも、わたしが火をつけないとも限らないわ。いいからさっさと降りてよ」
 ジョージアナは唖然としたが、しばらくの沈黙の後おずおずと馬車から降りた。アメリアの機嫌を探る顔は死神でもみたかのように真っ青で、赤みの足りない唇は小刻みに震えている。今、ジョージアナの脳内では頭に血の上った姉が書庫に火を放つ映像が繰り返し流れていた。アメリアであればやりかねない。それに、もしそんなことになったら失意のあまり死んでしまうかもしれない……。これから始まる退屈でうんざりする催しを思うと両足は鉄で出来ているのではないかと思うほど重かったが、それでもこれ以上姉の気分を害する訳にはいかず、ジョージアナは半分足を引きずりながら姉の後ろに続いた。とは思いつつもまるで気は進まず、アメリアとジョージアナの距離は開くばかりだ。
 ソフィーはしてやったりという表情でジョージアナを見た。それから揉み手しながら商人みたいに卑しい笑みを浮かべ、アメリアに近づいた。
「アメリアさま、それからあのおぞましい本もどうにかしていただけませんかね?」
「それはどうでもいいわ。確かにゾッとするのはその通りだけど、わたしの邪魔になるわけでもないし。あ、でも今日のわたしの振る舞いをお母さまに秘密にしてくれるって言うならどうかしてあげてもいいわよ」
 ソフィーはしばらく考えて、奥さまに秘密をつくるくらいならこの冒涜(ぼうとく)的な本の持ち込みを見逃そうと決意したらしい。小言を引っ込めて我儘(わがまま)な姉妹を呆然と見つめるとその代わりとばかりに深い溜息が溢れた。
 逸る気持ちはいよいよ抑えが効かなくなり、アメリアは牛歩の二人のことなんて置いてけぼりにして廊下を進んだ。サルーンに近づくにつれて音楽と談笑の声は大きくなっていき、心を丸ごと揺さぶられる。ペルシャ絨毯を踏みしめる両足は今にも駆け出したいと叫び、もはや制御不能だった。壁には立派な絵画が飾られていたが、そんなものアメリアの視界にすら入らない。アメリアが唯一足を止めたのは大階段の正面に飾られた一家の肖像画を視界に収めたときだった。肖像画の中ではアンナが眉を吊り上げながら不敵な微笑みを浮かべている。「きっと今日も戦うことになるでしょうね。そっちがそのつもりならわたしは逃げも隠れもしないわ」アメリアは心を闘志で満たすと勝利の予感に僅かに微笑み、そのままサルーンの入り口へと向かった。
 観音開きの大きな扉の前にはベネット夫妻が立っていて、さながらその様子は威圧的な門番のようだ。
 ミスター・ベネットは厳しい顔つきと、そのがっしりとした体格のお陰で実際の身長よりも遥かに巨大に見えた。黒い髪には既に白いものが混じっていたが、それすらも堂々とした態度のお陰でどこか洒落てみえる。それ以外に年齢を感じさせるようなものは何もなく、未だに衰えない筋肉がベスト越しでもはっきりとわかった。その隣ではベネット夫人が物腰穏やかな雰囲気を漂わせていた。身長こそ高いがミスター・ベネットのような威圧感はまるで感じられず、それどころかその立ち振る舞いは敬虔なキリスト教徒特有の感じを醸し出している。その独特の雰囲気の効果で、ベネット夫人が身につけるドレスはどれもこれも修道服のように見えた。――ただし、細部を細かく見ていけば、何気なく身に着けているドレスがどれほど贅を凝らしたものなのかは一目瞭然だ。それでも名家の貴婦人である割に親しみやすく感じるのは、この独特の雰囲気のお陰だろう。
 ベネット夫人はブロンドの髪と薄いブラウンの瞳の持ち主で、全体的に線が細く、手袋をはめた腕なんて少し握っただけで折れてしまいそうだった。しかし病弱な感じがまるでしないのはベネット夫人の気高さの賜物(たまもの)だろう。実際のところ、ベネット夫人は子供の頃から身体が弱く何度も死の淵を見てきた。大人になった今となっては、毎月高熱に喘ぐことこそなくなったが、未だにしばしば体調を崩すせいで肌はいつでも病人の青白さをしていた。
 一人娘であるアンナ・ベネットを毛嫌いするアメリアだったが、この夫妻のことは文句なしに気に入っていた。厳しい顔つきの割に案外ユーモアに富むミスター・ベネットも、誰にでも別け隔てなく接する心優しいベネット夫人も、どちらも心地よい雰囲気があった。ただ、今日だけは二人とも何やら様子がおかしかった。
 ミスター・ベネットはアメリアの姿を視界に捉えるなりその厳しい感じのする眉をピクリと動かして、ベネット夫人は傍から見てもわかるほどに体を硬くさせた。
「随分と久しぶりな気がしますな。このような日にお会いできて嬉しい限りです」そういう割には嬉しそうではなく、いつもみたいに慇懃なキスを受け取ることもなかった。アメリアは宙ぶらりんになった手を見つめて首を傾げ、今度はベネット夫人のことを観察した。夫人は何か悪い想像でもしたみたいに青白い顔をしていた。顔の白さでいうなら先程のジョージアナと大差ない。
「ええ、本当に……ようこそいらっしゃいました」絞り出せた言葉はそれだけらしく、続きの言葉が発されることはなかった。なんだかあまり歓迎されていないみたいね。普段ならまず「お元気でしたか?」と始まり「きっと冷えているでしょうからサルーンでお寛ぎくださいね」と続くものなのに。なんだか二人の態度には喉に小骨がつっかえたような些細な不信感があった。
「一体なんだっていうの? ベネット夫妻は聡明だし、いくらわたしのことが内心で嫌いだとしてもそれを態度に出すような人たちじゃないと思うけど……」と考えたが、アメリアの思考は招待客の談笑の声に流されて散り散りになった。「ま、そんなことどうだっていいわね。何しろ、夢にまで見た社交界はすぐそこなんだもの!」
 アメリアは思考をさっさと屑入れに投げ入れると、様子のおかしい二人に一礼して、ついにサルーンに足を踏み入れた。
 サルーンではシャンデリアの灯りが煌々と輝き、人工の太陽みたいに招待客を照らしていた。床はしっかりと磨かれてドレスが反射するほど光沢がある。招待客はあちこちで活気ある談笑を繰り広げている。視界には華やかにめかし込んだ淑女や立派な背格好の紳士がいっぱいに映り、その活気だけでアメリアは心が満たされる思いだった。
 アメリアは背筋をしゃんと伸ばし、ドキドキと高鳴る心臓を感じながら、口元に愛らしい笑みを浮かべた。唇を噛んで頬に赤みを差すなんて小細工する必要もなく、アメリアの頬は恋する乙女みたいに火照ってほんのりと朱が差している。アメリアは宙に浮いたような気持ちを抱きながらもサルーンの奥へと歩みを進めた。アメリアが一歩一歩と足を進める度に招待客は否応無しにアメリアに視線を向けた。女たちは恨みと嫉妬と憎しみの混じった目で。男たちは欲望と羨望と恍惚の混じった目で。注目が集まる度に全身に抗いがたい甘美な喜びが満ち溢れる。
 男たちは甘い香りにつられる虫みたいにあっと言う間にアメリアのことを取り囲んで我先にと挨拶の権利を奪いあった。
「アメリアさん! お久しぶりですね! 今日もいらっしゃらないのかと思いましたよ」
「戻ってきてくれて本当に嬉しい限りです。あなたの居ない舞踏会がどれほど退屈だったか!」
「相変わらず眩いばかりの美しさですね」
「もしよろしければ、一緒に踊っていただけませんか?」
 アメリアは自分が求められているという事実にご満悦で、にこにこと愛想のいい笑みを浮かべた。緑の瞳がアメリアの機嫌を反映しているようにきらりきらりと輝き、紳士たちはその懐かしい輝きに酔いしれた。
「ええ、もちろん! きっと一緒に踊るわ。だから絶対に他の方と約束なんてしないでね」
 アメリアの一言に、男たちは胸中を期待と喜びでいっぱいにした。どの顔にも愛を勝ち取った人間特有の誇りと自負が見て取れて、アメリアはそんな紳士を眺めては心の中で腹黒いことを思った。
「みんな本当に単純だこと! でもせっかく戻ってきたんだから今日はあの意地悪娘たちには良い思いをさせないわよ」アメリアは紳士たちの熱い眼差しと娘たちの嫉妬の眼差しをひらりと交わして今日の“意中の人”であるサー・ウィリアムを探した。

 サー・ウィリアムは会場の隅に置かれたテーブルを囲んで、何人かの紳士たちと話し込んでいた。テーブルの上には空のグラスが乗り切らないほどあり、何本かは既に床に落ちて粉々になった痕跡があった。テーブルを取り囲む紳士のうち、数人は既にすっかり出来上がって真っ赤な顔をしながら呂律も回っていなかった。しかし、どうやらサー・ウィリアムはそれほど飲んでいないようで、大声で管を巻く隣人をあしらいながら時折会話に口を挟む役割に徹している。
 アメリアは遠くからサー・ウィリアムを観察した。去年会ったときと風体は殆ど変わらず、軍人らしくしゃんと伸びた背筋は年齢をまるで感じさせない。それどころか、広い肩幅は更に広くなったような気がした。唇は相変わらず気難しそうに真横に結ばれてどことなく威圧感がある。ちらっとみただけでは楽しんでいるのか、そうでないのかも分からない……アメリアはそういうお硬い表情を見る度に、絶対に自分に惚けさせてドロドロにしてやるという気概が湧いてくるのだった。経験上、お堅い男性の方が女性に溺れると滑稽な表情をしてくれるものだった。
 それを想像すると自然と口元には微かに笑みが浮かび、アメリアはそのままの笑顔で集団に近づいた。
「こんばんは、サー・ウィリアムさん」
「これはこれは、ミス・スレイター。どうもご無沙汰しております。あなたのような方に名前を覚えて頂けるなど、これほど光栄なこともありませんな」サー・ウィリアムは慇懃にアメリアの手を取り挨拶した。「ミス・スレイターとお会いするのは丁度一年ぶりになりますかな? それにしたって前回から随分時間が空いてしまい申し訳ない。きっとうら若き淑女はわたしのことなんてお忘れだろうとばかり思っていたもので……」と言いながら、サー・ウィリアムはアメリアの瞳を覗き見て「どうやらますます美しくなられたようだ」と心の中で呟いた。
「まさか、そんなはずありません。それにしたって長い一年でしたけど……去年の約束を覚えていますか? ぜひ、また一緒に踊りましょうっていう約束です。今日はお越しいただけると聞いて、わたしとっても楽しみにしていたんですよ」
 アメリアの言葉にサー・ウィリアムは心臓を鷲掴みにされたように感じた。
「それは……、つまり一曲わたしと踊って頂けると捉えてよろしいのでしょうかな。いや、しかし……わたしのような年嵩(としかさ)の人間よりももっとお似合いな方が山ほどいるのではありませんか?」
 すぐにアメリアの誘いに飛びつかなかったのは、いくつもの戦火を潜り抜けた人間特有の勘が何かを叫んでいたからだ。一体どういうことだろうか、目の前にいるのはただの可愛らしいお嬢さんだというのに……。それに何より名誉なことではないか? サー・ウィリアムは顎髭をさすりながら自分の不可解な心を解き明かそうとした。しかし丁度その時、共にテーブルを囲んでいた男の一人高らかに声を張り上げ、やむおえず思考は中断された。
「これほど素敵な淑女に誘われたのなら答えは一つしかありませんぞ、ウィリアム大佐!」
 アメリアは大きな目をパチパチとさせた。煙草をやりながらそこに座っていたのはオールポート市長だった。六十代前半のくたびれた男性で髪も髭もほとんど白くなり、前回、クリスマスパーティーで見たときよりも山羊髭が更に五センチは伸びていた。
 この市長は、もう十分「老人」と呼ばれる年齢だというのに、心の中は未だに青年のような気力にあふれている人だった。政治談義には必ず口を挟まずにはいられないし、酒の飲み比べとあれば記憶を失うまで飲む。それからその腕っぷしを世間に知らしめたいと思っているし、密かにアメリアのような若く美しい女性と踊りたいと願っている――ただ実際に踊りの相手をするのは彼の肉付きの良い奥さんくらいのものだ。既にブランデーをかなり呷(あお)っているらしく、顔は真っ赤で声は演説でもしているみたいに大きかった。
「どうして市長さんがここに?」
「えぇ、そりゃ、わたしがいないでどうするっていうんですか。いやいや、何しろ今日は記念すべき日ですからね。わたしとしても嬉しい限りですよ。この会を祝わずして一体何を祝うっていうんです?」
「記念すべき日?」アメリアは一瞬とんでもない自惚れを発揮して自分の復帰を祝っているのだと思ったが、その考えはすぐに訂正された。何しろ、今日この舞踏会に参加するなんて誰にも言っていないし、まさか予測できたとも思えない。今朝のやり取りは奇跡のような収穫で、自分でも上手くいくとは夢にも思っていなかったのだから。それに何より、アメリアを祝うなんてアンナが絶対に許さないだろう。
 アメリアがきょとんとしているとオールポート市長は酒の入ったグラスを傾け、それを一気に飲み干した。それから上機嫌になって快活に笑って続けた。
「なぁに、あと一時間もしないうちにわかりますよ。ミス・スレイターが知ったら大層驚くでしょうなぁ――えぇ? どうしても知りたいと? いやいや、わたしにも守秘義務というものがありますから。わかるかな? あまりべらべら個人情報を話すなという悪法でね……。ふむ、まぁ、そのうちはっきりすることですが、どうしても今すぐにというのならその辺の浮ついてるお嬢さん方に聞いてみるのがいいでしょう。わたしの見たところ、今や彼女たちは大英博物館にも負けないくらいの知見を有していると見える」
 あの娘たちが? と、アメリアはあまり乗り気ではない視線を投げつけた。娘たちはいつにも増してめかしこみ、きゃあきゃあと甲高い声を上げ、良くわからない話題で盛り上がっている様子。その集まりの中には普段から何かにつけてアメリアに突っかかってくるエマの姿もあった。しかし、どうやら今日ばかりはアメリアにちょっかいを出すよりも優先したいことがあるらしく、何人かの淑女を集めて悦に浸って講釈を垂れている。あの中に混じると思うとちょっとゾッとしちゃうわね。面白くなさそうなアメリアの視線に気がついたのかオールポート市長は慌てて弁解した。
「いやいや、急がずともそのうちわかることではありますがね……さて、紳士諸君。わたしの論説はどこまで話したかな……ああ、そうだ。つまり我が国は無限の働き手を求めているという話です。ええ、皆さんの仰りたいことはわかりますとも。つまりこの制度にはとんでもない欠陥が存在するといいたいわけだ!」オールポート市長の話は長年壇上で話してきたからかどこか演説口調で、時折妙に声を張り上げたり逆に小さくなったりと忙しなかった。ただその内容はアメリアにとっては理解不能もいいところで、新救貧法だの救貧法委員会だのという小難しい言葉が矢継ぎ早に耳に飛び込んできた。しかし、どうやらアメリアにとっては理解不能でも紳士たちにとっては恰好の獲物らしく、オールポート市長の言葉は何度も遮られテーブルについた紳士たちの持論が次々に語られる。身振り手振りも異様に大きくて、すぐにでもテーブルの上から空びんを叩き落としそうな勢いだった。
「なんだか随分つまらない話で盛り上がってるのね。ジョージアナが聞いたら大喜びしそうだわ」アメリアの退屈に気がついて、サー・ウィリアムはアメリアに向き直ると丁寧にその手を取った。
「いつまでも貴方のような淑女をこんな場所に留めておくわけにはいきませんな。こんな場所にいても退屈なだけでしょう。それで、先程の返事ですが――もしまだ気が変わっていないのなら、ですが――是非とも一緒に踊っていただきたいものです」
 その返事にアメリアはぱっと笑顔になった。
「本当ですか?」アメリアはちらりと周囲の様子を窺った。どうやら紳士たちは揃いも揃って議論に花を咲かせているらしく、アメリアの姿なんてまるで目に入っていないようだ。都合のいいこと! アメリアは内心でにやりと笑い、そっとサー・ウィリアムの腕に手を置き、体を密着させると、上目遣いで可愛らしく目をぱちぱちさせてみた。なんだか知らないが、こういう動作に男性が滅法弱いというのは経験則でわかっていた。ウィリアム大佐も当然その例に漏れず、アメリアに目を奪われ、自分が十数年は若返ったような気がした。
「あなたのために一曲目は空けておきますね」そして今度は蝶のように身を翻して軽く顔を赤らめるといい。深追いは禁物、あまりベタベタしすぎると安い女だと思われちゃうもの。数々の経験則に基づいて、アメリアはそれだけ告げるとドレスの端を摘んで優雅に一礼してその場から去った。
 サー・ウィリアムはその後ろ姿を追いながら、いつもの癖で白髭の生えた顎を擦り、自分も髭が似合わないほど若ければ……と帰らぬ時を思い返した。その一方でアメリアは急激に自分の心が冷めていくのを感じていた。
「あの様子だと案外すぐに夢中になってくれそうね。なんだか拍子抜けだわ」巻き毛を指で弄びながら、どうしようもない心の疼きにやきもきしていると背後から聞き慣れたテノールが響いた。「アメリア! アメリアじゃないか!」それは紛れもなくエドガーの声だった。
 アメリアはくるりと背後を振り返り、人混みの中にその姿を見つけて明るい笑顔を浮かべた。ダークブラウンの髪はどこに居てもよく目立つ。それに糊の利いたラッフルシャツに今風の洒落た燕尾服を着こなす姿はこの会場の中でもトップレベルに素敵で自然と目が惹かれた。人と人の間を力強くかきわけながらアメリアに近づくと、エドガーは慣れた手つきで手を取り、そこに恭しくキスを落とした。その様子はアメリアをどこかのお姫さまと勘違いしているかのようで、今にでも片膝をついて挨拶してもおかしくないと思わせるものがあった。
「随分姿をみないからてっきり社交界が嫌になったのかと思ったよ。元気そうで何よりだ」鳶色の瞳は嬉しそうに細められ、再会の喜びを隠そうともしない。それどころかいつの間にか両手を握られていて、両手に感じる確かな熱と圧力はアメリアの途方もない承認欲求をいくらか満たしてくれた。
 アメリアもつられて柔らかい笑みを浮かべたが、すぐにハッとして冷たい表情を顔に張り付けて顔を逸した。だめよ、だめ。今日は口も聞いてあげないって決めたんだから。いくらエドガーがいつも通りに熱くわたしを求めてくれるからって、エマとの一件がなかったことにはならないもの。そのことを思い出すと目の前の男に無性に腹がたって、アメリアは力ずくでその手を振りほどいた。エドガーは振りほどかれた手を見つめて怪訝そうに眉をひそめた。
「なぁ、アメリア。なんで僕にだけ手紙の返事を書かなかったんだい? 他の男友だちの自慢げな顔を見せてやりたかったよ。それから、僕がその間どれほど退屈していたかもね。何しろ君から三行でも返事がくるなんて空から槍が降ってくるみたいなものだし――まぁ、返事の内容が全員一緒だとわかったときのあいつらの顔は本当に傑作だったけどなぁ! でも僕が退屈して嫉妬に胸を焼かれる思いだったていうのは本当のことさ。一体どうしてこんな酷い仕打ちを? 正直、自分でも悪くない出来だったと思うんだけどな」エドガーは心底わからないといった表情でアメリアの瞳をじっと覗き込んだ。その瞳には理不尽に対する苛立ちが微かに滲んでいる。沈黙を貫くアメリアに小さく首を傾げながらエドガーは視線を下げ、先程みすみす逃げられた両手を恨めしそうに見つめた。普段なら振りほどくなんて絶対にないのに、一体どういうことなんだろう? エドガーは懲りずにもう一度白く細い指に触れようと手を伸ばしたが、その手は先程よりも無慈悲に払いのけられた。
 ここまで邪険にされるとさすがのエドガーも黙っている訳にはいかなかった。
「ところで、今日の君は随分冷たいね。せめて理由くらいは教えてくれると大助かりなんだけどなぁ。当たるなら僕以外の男にしてくれると嬉しいものだね」その声には呆れと困惑と苛立ちが入り混じっている。エドガーの態度はこれっぽっちも悪びれる態度ではなく、それどころか無実の罪に苦しめられる善人そのもののように見えた。この人、本当に心当たりがないっていうの? それともわたしが何も知らないと思ってたかをくくっているの? その真意を探りたくてエドガーの鳶色の瞳を覗きみたが、やはりその態度はやましいことなんて何一つないと宣言している。「いいわ、心当たりがないっていうのなら突きつけるまでよ」アメリアはエドガーの瞳をキッと睨んだ。
「当然の報いよ。よくもエマに愛の言葉を投げかけておきながら図々しくもわたしの返信なんて待ち望めたものね」
 アメリアの言葉にエドガーは目を剥いて声を荒らげた。
「僕がエマに!? 一体誰がそんな訳のわからない噂を流したんだ!」エドガーは会場全体をぐるりと見回して、遠くの方で女友だちと楽しげに話しているエマを見つけると忌々しそうに眉をひそめた。
「違うの? エマが言い触らしてまわってたって聞いたんだけど」
「違うもなにも、根も葉もない噂さ! そんな馬鹿げた噂で君との仲を引き裂かれたらたまったものじゃない! もちろん僕の言葉を信じてくれるね? 何しろ長い付き合いだし、僕が君にぞっこんだっていうのは言うまでもない話だろ? それに悪いけど彼女は僕の趣味じゃないし……。それにしたって、一体どうしてエマもそんな勘違いしたんだ? 勘違いさせるようなことは言ってないはずなんだけどなぁ」エドガーは顎に手をあてながら首を傾げてしばらく考え込んだ。そもそもエマは苦手な部類だし、社交辞令的な話しかしていないはずだけど……。いや、待てよ。それかもしかして、扇子を拾ったときのことだろうか? 確かあのときは――と思ったところでエドガーは自分の両手がアメリアの小さく柔らかな指先で包まれていることに気がつき、思わず思考が止まった。先ほどまでの冷たい態度が嘘のように、アメリアはすっかり気を良くしてご機嫌な笑みを浮かべていた。
「どうだっていいわ。そんなこと。きっとあまりにも人気がないからおかしくなったのよ。男性に免疫がない女ってちょっと微笑まれたくらいでその気になるものでしょ?」アメリアの少し意地悪を混ぜた微笑みに当てられるとエマのことなんてすぐにどうでもよくなり、エドガーはさっさと思考を切り替えた。とにかくアメリアから許しを貰えたというのなら他に重要なことなんて何があるだろう? 今この小さな手と輝く緑の瞳は確実に自分のものだっていうのに。過ぎた勘違いを蒸し返すのもつまらない話じゃないか。
「それならもう君の前でしか笑えないな。もちろん今日は僕と踊ってくださいますよね?」
「もちろんいいわよ、でも曲数が余ってたらね。わたしの分も神に祈っておくことだわ。今日は何曲あるのか知らないけど……でも沢山ありそうよね。だって今日は妙に盛大だもの。弦楽団じゃなくてオーケストラだし、それに市長さんもいらっしゃったでしょう? それにみんな一段と気合いが入っているみたいだし、誰か素敵な方でもお呼びしてるの?」
 きょとんとしているアメリアにエドガーは得々として、大袈裟に腕を広げてみせた。
「本当に何も知らないんだな。君が居ない間にとんでもない大事件が起こったのさ! この一ヶ月間その話題で持ち切りだったんだ。きっとアメリアがあの場に居たらとんでもないことになってただろうなぁ、いや、今日もとんでもないことになりそうだと僕は思ってるけどね。何があったか知りたい?」
「もちろん!」アメリアは身を乗り出して答えた。
「なら一曲目は僕と踊ってくださいますね?」
「あら、そんなにわたしが良いの? でもダメよ。もう先約があるもの。二曲目ならいいけど」
「ちぇ、なら仕方ないな。二曲目でも相手が君であることを思えば十分誇らしいことだしね」エドガーは長身を屈めてアメリアの耳元に唇を寄せた。それから、ついでとばかりにその愛らしい唇を覗き見ると抗いがたい欲望を感じ、慌てて目を逸らした。アメリアの赤い唇は熟れた果実のように、あまりにも魅力的だった。
「いいかい、アメリア――」エドガーは慎重な口調で小さく囁いた。アメリアは緑の瞳を輝かせて、エドガーの囁き声を聞き逃すまいと体を寄せている。エドガーはその事実に誇らしさすら感じてこの時間が永遠に続けばいいのにと心から思った。
「――噂によると、今日この場でミス・ベネットの婚約発表があるらしい」
 全身に電流を流されたかのように鋭い衝撃が襲い、アメリアは弾かれたようにエドガーを見上げた。しかしすぐにはその言葉の意味を理解できなくて、頭の中には『ミス・ベネット』と『婚約』の二語だけがぐるぐると渦巻いている。なんですって? アンナが婚約? 理解できない言葉の羅列に頭がずきずきと痛み、その痛みの隙間で先ほどのベネット夫妻の煮え切らない態度を思い出して妙に合点がいった。つまり自分の愛娘の晴れ舞台をわたしに邪魔されないかヒヤヒヤしていたってことね。段々と冷静になってくると今度は頭の中に山のように質問が湧き上がって目眩がした。
「それで、お相手は誰なの? わたしの知っている人? たいした人じゃないといいんだけど……」
 エドガーは期待通りの反応にご満悦で続けた。
「とんでもない! それどころかとんだ資産家って話だ。僕も詳しいことを知っている訳じゃないけど、なんでも年収が二万ポンドもあるとかないとかって噂さ。何年か前から単身でアメリカに渡って、そこでもたんまりと金を稼いだとか」
「二万ポンド!? そんなのあり得ないわ、一体何をしている方なの?」
「由緒ある貴族だってところまではわかってるんだが、渡米してからの足取りは誰も知らないんだ。これもまた噂だけど、中には人に言えないような仕事だって言うやつもいるね。で、思い立ったみたいにこっちに戻ってきたのがつい先月のこと。ロンドンに大きなタウン・ハウスがあるんだけど、その邸宅が珍しく活気に溢れていて、隣人が中を覗いたら主人がいたって話だ。摩訶不思議な縁組ってほどではないけど、それでも不思議には変わりないね」
「もういらっしゃってるの?」
「まさか、遅れてくるに決まってるだろう。そんなわけで、淑女たちは浮き足立ってるってわけさ」
「それで、その方のお名前は?」
「ディラン・エドワーズ」

第二章 三話

 エドガーと別れたあともアメリアの頭の中ではずっとその名前が渦巻いていた。エドガーは大層なお金持ちという噂しか知らないみたいだったが(言いたくなかっただけかもしれない)その他の噂についてはゴシップ好きな娘たちが自分のことみたいに鼻を高くしながら色々教えてくれた。オールポート市長の言う通り、彼女たちの聞きかじった知識は水を向ければ湯水のように溢れてきた。
「アメリアって本当に遅れてるのね。年収が二万ポンドだなんて誰に聞いたの? わたしは三万ポンドだって聞いたわ」
「それに噂によれば射撃も乗馬もダンスもロンドンでは右にでる人がいないとか。その上とってもかっこいいって」
「東の方のなんとかって国の女王さまから寵愛を受けているとかね。西だったかもしれないけど」
「これは確かな筋から聞いた話だけど、アメリカでは金鉱をいくつか買い取ったんですって! それで巨万の富を築いたってわけ」
「そうそう、それから舞台女優のリリーと親しい仲だって聞いたわ。楽屋に入って行く姿を見た人がいるとか」
「わたしは何かの戦争で武功をあげたって聞いたけどな。その時の記録がうちの図書室にあるんだって。えっ? 確認なんてするわけないじゃない。あんなところに閉じこもっていたら体を悪くしちゃうわ」
 噂を聞く度にアメリアの心の中は落ち着きを取り戻していった。何しろ、そのどれもが荒唐無稽な話に聞こえたし、人から伝え聞いた話を少し大げさに話すなんてよくあることだったからだ。それこそ今さっきエマとリックの出まかせに踊らされたばっかりじゃないか。
「いくつか事実が混じっているかもしれないけど、この分ならば特に心配する必要もなさそうね。噂では大絶賛だったけど、実際に会ってみたらそうでもないなんてことはよくあることだし。どこのどなたかは存じ上げないけど、もし噂通りの人物だったとしたらわたしを差し置いてアンナなんかと婚約するなんて絶対許せないもの。きっと実際は小金持ちの成金か何かね。それにアンナがそんなに良い縁談に漕ぎ着けるとは思えないわ」アメリアは新しい登場人物に心を躍らせ、口角をゆっくりと上げた。
「そうだわ、せっかくだしその素敵な紳士とやらに少しだけちょっかいをかけてみようかしら。もし噂通りに聡明な人ならわたしに引っかかる訳もないだろうし。それで、もしこの縁談が白紙に戻ったとしてもそんなことわたしの知ったことじゃないわね。そもそもそういうのって繋ぎ止められないほうが悪いもの――むしろ、そうなったら喜ばしいくらい」腹黒い企みに胸は高鳴り、質の悪い喜びが全身を駆け巡る。不思議なことに、倫理や道徳を無視すればするほど与えられる快感は抗いがたいほどになっていくのだ。
 そのとき――悪事を働くとその後で決まって正義の使者が送られるように――アメリアは何かに導かれるようにして壁際に座る一人の淑女に気がついた。その人物は正義の使者としては申し分なく、顔立ちにその善良さがにじみ出ていた。淡い緑色の品のいいドレスに身を包み、茶色の髪をふんわりと肩にかけ、静かに会場を見守る姿はまさに貴婦人と見間違うような風態だった。淑女はアメリアに気がつくとパッと花が咲いたような笑みを浮かべた。
「アミィ!」メアリーは顔を綻ばせてアメリアに呼びかけた。アメリアはその呼びかけに快く応じて、一直線にメアリーの側へと向かう。
 メアリー・イーストンはアメリアの唯一の女友達で唯一の親友だった。誰にでも別け隔てなく優しくて、だからといって八方美人かというとそうでもない。むしろ正義感が強く、悪いことはきちんと正すことができる芯の強さを持っている。その上、絵画も手芸もピアノも上手で、まさに理想の淑女を体現しているようだ。茶色の瞳はどこかぼやけているように見えて、どんくさい印象を与えたが、話してみればメアリーがいかに聡明で思慮に長けた人物であるかわかるだろう。
「アミィ! 久しぶり、元気だった?」
 メアリーはふわりと優しく微笑んだ。そういう優しさに触れるとアメリアも自然と優しい笑顔を浮かべ、「もちろん」と答えながら、メアリーの隣に腰を下ろした。
「ここのところずっと会ってなかったからなんだか随分久しぶりな感じがするわね。手紙は書いていたけど……手紙なんかだとわたしの伝えたいことの一割も書けないのよ。元気そうで本当によかった! こういうことをいうのもどうかと思うんだけど、わたしもアメリアが早く戻ってきてくれてとっても嬉しいわ。貴方がいるととっても楽しいし、それに――」メアリーは一瞬何かを考え込むようにしたが、すぐに取り繕うように話し始めた。
「ああ、そうだ。リック・アボットには会った? グランドツアーから帰ってきて、是非貴方に話したいことが沢山あるんだって。彼だけじゃないけどね。もう片手じゃ足りないくらいの人から言伝を頼まれちゃった。あまりにも大勢から言われるものだから、ずっとここで隠れてたの。丁度入り口からは死角になってるし、こんな奥まった場所までは誰もこないから」
「他には誰から?」
「ええっと……ハーディン家の三兄弟と、エドガーとローガンとエルドレッドさんとダニー・カーシュとか? ああ、それからサー・ウィリアムも。でもこれ以上わたしが伝えることなんて何もないわよね。どうせ自分から話しかけにいくんだから。きっと言わないだけで貴方と話したい人は五万といるわ。さっきもね、ベネット夫人に質問する人がいっぱいいたのよ。アメリアは今日こそ来るんでしょうね、って。ベネット夫人も流石にお疲れでしょうね」メアリーは優しくベネット夫人に同情深い笑みを浮かべたが、アメリアの脳内は先程列挙された名前でいっぱいだった。
「アメリアって居ても居なくても結局話題の中心人物なのよ。本当に事細かに教えてあげたいわ! その場にいないのにみんな実物が見えているみたいに褒め始めるんだから。わたし、聞き耳を立てるつもりはなかったんだけど何しろ盛り上がってたから――それでもう、男の方があまりにも褒め称えるから自分のことみたいに恥ずかしくなって真っ赤になっちゃったのよ。それから、ご婦人も……ええっと、内容は詳しくいわないけど――アメリアの話題で持ちきりだったわ。でも正直それはちょっと困っちゃった。例えばアボット夫人とかなんだけど、『あなたは年齢の割に良識がありそうですから』とかって言って婦人たちのグループにわたしを招き入れるんだもの。わたしなんて頷くので精一杯なのに」
「あのつまらない話を黙って聞けるってだけでも十分過ぎるくらいじゃない? わたしなら五秒も耐えられないもの」ついさっきの、歳をとって壁際で悪口を叩くご婦人になる妄想を思い出してアメリアは渋い顔をしながら答えた。
「わたしも難しい話だったら頷くしかできないと思うわ。年齢を重ねるほど人って考えに深みがでるでしょ?」
 アメリアは反対側の壁にずらりと陳列された婦人たちを見つめた。隅を選ぶようにしてまとまって座っている様子はまるで埃みたいで、遠くからみてもヒソヒソと嫌味を言い合っているのがわかった。メアリーはたとえどんなに性格の歪んだ人でも美点を見出す才能に長けていたから、きっとあの意地悪なご婦人たちも称賛されるべき存在に仕立て上げることができるのだろう。ただアメリアにそんな特性はなく、婦人たちの意地悪に歪んだ顔を見ながら飽き飽きして返した。
「深みが出ているのは皺じゃない? それに、エドガーから聞いたわ。わたしのことよりももっとスキャンダラスな話題があったんでしょう?」
「なんだ、もう知っていたのね。残念だわ、わたしが驚かせようと思ったのに! もしかして手紙に書かなかったこと怒ってる? でも何も意地悪じゃないのよ。ただ、いつ戻ってこれるかわからなそうだったから……もしも貴方抜きでこんな素敵なイベントが企画されているって知ったらきっと悲しむだろうと思ったの。でも今日みたいな良い日に戻ってこれるなんて、きっと神さまの思し召しね」メアリーは天使のような微笑みで膝の上で両手を組むと宙を見上げた。まるで天使か何かが本当に見えているかのような動作で、アメリアもそれを真似してみたが何か崇高なものがみえることはなかった。目に入ったのは豪華なシャンデリアと天井に施された豪華なレリーフだけだ。
「メアリーは確かに良い子だけど、少し良い子すぎるところがあるわ。世の中に真に悪い人なんて誰もいないと本気で思い込んでるし、今日のイベントもこの場にいる全員が心の底から喜んでいるとしか思えないのね。別にわたしは嬉しくもなんともないのに」
 そんな話をしている間にも、アメリアには無数の熱い視線が向けられていた。メアリーはそもそも気が弱く、特にそれが紳士とくれば気後れしてしまうような質だったのでどうにも落ち着きがなかった。しきりに巻き毛を触ったりドレスの裾を整えたりしている。
「相変わらず人気者ね。わたしがあんまり引き止めたら怒られちゃうかしら」
「そんなことさせないわ。だってわたしの大切なお友達だもの」
「そういってもらえると本当に光栄だわ。わたし、時々アメリアに見合わないなって思うことがあるから。今日だってアンナの大切な日なのに、わたしったら自分の事ばかり考えてるの。ねぇ、アミィ。わたしどうしても貴方に相談したいことがあって」
「相談?」アメリアは首を傾げて聞き返した。メアリーは少し顔を赤らめて、しばらく言いにくそうに言葉を探して、小さな声でアメリアに耳打ちした。
「本当に、あの時アメリアがいてくれたら真偽を見極めてくれた筈なのに――あのね、アンディ・ヴァンスさんっていらっしゃるでしょう? もしかしたら、わたしあの人に気に入られてるのかもって思って。ねぇ、だとしたらどうしよう?」メアリーは話しながら顔を真っ赤にして終いには俯いた。
 本人は隠しているつもりだろうが、メアリーがアンディ・ヴァンスに長いこと憧れを抱いているのは誰の目からみても明らかなことだった。二人で一緒にいるときメアリーがどれほど幸せそうに微笑んでいるのか知らない人はいないというのに。当の本人はここでも紳士に対する奥手をことごとく発揮してまるで進展がないのだ。メアリーを知る人たちは皆、メアリーの幸せを待ち望んでいるというのに。
 アメリアは何が問題なのかまるでわからないという風に小首を傾げながら返した。
「よかったじゃない。でもどうして手紙に書いてくれなかったの? 全然そんな素振りもなかったじゃない」
「だって、もしわたしの勘違いだったら恥ずかしいでしょ? ……ねぇ、どう思う? この髪飾りもヴァンスさまに頂いたんだけど……でも……アメリアならきっとわかるでしょ? だってほら、わたしなんかよりもよっぽど人気だから」
 アメリアは改めてその髪飾りをまじまじと見つめてみた。花をモチーフにした上品な白い髪飾りで、メアリーのお淑やかさを尚更際立たせているようにみえる。繊細な加工が施されているあたりそれなりに値が張りそうだ。そうでなくたって紳士が淑女に贈り物をする理由なんて一つしかないだろう。
「そうね、きっと好きだと思うわ。だってこれほどメアリーに似合う髪飾りも他にないもの」
「そうだといいな。でもわたし、本当に不安なの。貴方みたいに社交的じゃないし、綺麗でもないし、上手く話せる自信もないし……貴方に言わせれば男性の愛なんて風見鶏みたいなものなんでしょう?」
「それどころか、あんなの物語の中だけの産物だけど」と思ったが、優しいアメリアは何も言わずににこりと笑っただけだった。
「それにしても、メアリーがそういう贈り物を受け取るなんてびっくりだわ」
「淑女なら受け取らないって思う? そうよね。わたしもね、最初はこんな高価なもの受け取れませんって言ったんだけど。でもどうしてもって言われて受け取っちゃったの……今日もこれを付けてこようか、凄く悩んだのよ。受け取らなきゃよかったとまで思ったけど……」
「それで、メアリーはどう思ってるの?」
「えっ!? わ、わたしは選べるような立場じゃないわ。そんな、滅相もない!」
「もし――というか、本来そんな仮定もいらないんだけど――ヴァンスさんが結婚して欲しいって言ったら結婚するの?」
「ちょ、ちょっとまってよ。アメリア! わたしそんなところまで、考えられない」
「ねぇ、メアリー。好きか嫌いかの二つで答えてよ。わたしが理解できるように」
「……好きか嫌いかでいうなら好きよ。それにわたしがいいって言ってくれるのなら喜んで……」メアリーは消え入りそうな小さな声で囁いた。顔は真っ赤になって白い手袋をはめた手でぱたぱたと扇いでいる。
「ねぇ、アミィ。あなたは本当にヴァンスさんがわたしのこと好きだと思う? それだけが怖いの。一人だけ舞い上がってるなんてちょっと滑稽でしょ? みんなそういう人のことを陰で笑うんだもの」
「絶対大丈夫よ。男性が女性に贈り物を贈る意味なんて一つしかないもの」
 それにしても、アンディったら少しはセンスがよくなったみたいね。アメリアは頬を赤らめるメアリーを眺めながらかつての恋人との思い出を振り返ろうとしたが、思い出せたことといえばつまらない口説き文句とうんざりするような贈り物の数々だけでそれ以外はからっきしだ。
 メアリーはその間も上気した顔をパタパタと仰いで、何か他の話題を探っていた。
 これ以上同じ話題を続けたら気絶しちゃいそうだもの。それに結婚なんて、本当にアミィったら気が早いわ。まだ婚約は疎か、合意にも至ってないのに――でもきっと本気で祝ってくれてるのね。やっぱりアミィってとっても優しい。
 メアリーは婚約という言葉で今日の輝かしいイベントを思い出してうっとりとした笑みを浮かべた。アメリアにとって、アンナは目の上のたんこぶでしかなかったが、メアリーからすればかけがえのない友達の一人なのだ。
「ねぇ、アミィ。エドワーズさまって噂通りの人だと思う?」
「まさか! 正直あの半分も当たっていたら上出来ってくらいじゃない?」
「アミィならそう言うと思ったわ。でもわたしは全部本当だったらいいなって思うのよ。だってそうでしょう? アンナは立派な淑女だし良縁に恵まれたならそれってとっても素敵なことだわ」
「そう? わたしは別に――ねぇ、待って。あの人だかりは何?」
 サルーンの入り口を取り囲むように人の輪が出来ている。囲んでいるのは主に若い娘たちで、遠くに居ても黄色い声が聞こえてきた。
「きっとエドワーズさまが到着されたのよ。わたしはここにいるからアミィは見に行っていいわよ」
「メアリーは気にならないの?」
「気後れする質だって知ってるでしょう? それに、その――」メアリーは顔を耳まで真っ赤にしながらちらりと視線を上げた。その先にはアンディ・ヴァンスの姿があり、しきりにメアリーの方をちらちらとみて様子を窺っているのがわかった。
「なんだ、二人っきりになりたいなら早くそう言ってくれればよかったのに」
「そ、そういうわけじゃないわ! ……それに居てくれるなら居てくれたほうが助かるくらい。だって、今だって不安でおかしくなりそうなのに――」
「きっと今日か明日には正式に言い寄られるわよ」アメリアの一言にメアリーは耳の先まで真っ赤に染めて小さく俯いた。唇は恥ずかしそうに噛み締められていたが、その唇が小さく弧を描いているのを見てアメリアはさっさとその場から立ち去り、サルーンの入り口に視線を向けた。
 既に入り口は人で溢れかえっていた。人の輪は三重にも四重にもなり、娘たちは少しでも前に出ようと躍起になっている。普段は娘の淑やかとは言い難い行動を非難する母親やお目付役も今回ばかりは黙認だ。それどころかもっと前に出てほしくてやきもきしているくらいだった。
 既に入口付近は人で溢れかえっていてとてもじゃないけど渦中の人物を拝めそうにはない。どうやら同じラインに立っているエマはその高い身長のお陰でその人を視界に収めたらしく、棒立ちのまま目を見開いて固まっていた。人の壁に困り果てて、背伸びをしてみてもアメリアの低い身長ではせいぜい人の頭が見える程度だ。
 渦中の人物を一目見るなり乙女たちは示し合わせたみたいに顔を赤く染めて、口々にその紳士を称賛している様子。徐々に高まっていくその異様な熱気に頭がクラクラした。入り口付近に集まった人たちはほとんどスターを取り囲む熱狂的なファンのようなものだった。他人のことなんてまるで目に入らず、皆が皆自分の世界に入り込んでいる。それこそ足を踏まれても気が付かないくらいには。
「それほど素敵な人だって言うの? まさか、ありえないと思うけど――」熱気に飲み込まれると視界が揺らぎ、心臓が大きく脈打って、指先が冷たく痺れたみたいになっていく。
 狂気的な賑わいはアメリアに途方もない好奇心を授けるには十分すぎた。「そこまでいうのなら――」アメリアは意を決して、小さく息を吐くとドレスの端を軽くつまんで無限にも思えるような人と人の間に飛び込んだ。小柄を活かして人と人の間を強引に縫って、色とりどりのドレスをかき分け、ただひたすら奥へ奥へと進んでいく。
 人の波は力強く押し流されそうになると自分がどっちを目指していたのかもわからなくなる。人混みの中は凄い熱気で、皆声を張り上げながら紳士の容姿だとか諸々について褒め称えているものだから耳が痛くなった。その上、誰かのつけているコロンが他の女のコロンと混ざり合い、異臭となって鼻腔を突き刺した。何度も足を踏まれそうになり、ドレスのレースが他のドレスの飾りに引っかかり、気をつけなければとんでもない醜態を晒す羽目になりそうだ。
 これ以上人に揉まれていたら頭がおかしくなりそうよ、と思ったときアメリアはついに最前列の光を視界に捉えた。アメリアは安堵に気を抜いて……思い返せばそれが良くなかった! 紳士を取り囲むこの集団は、一度誰かが体勢を崩せば雪崩のように連鎖的に衝撃が伝わるようにできていた。アメリアが気を抜いたその瞬間、誰かが体勢を崩したらしく背後で甲高い悲鳴が上がり、その衝撃は瞬く間に最前列へと伝搬され、あろうことかアメリアに降り注いだ。力を抜いた体は思ったよりも簡単に押し出され、挙げ句その衝撃で誰かの足に躓き、体勢を崩してそのまま前につんのめり、アメリアはバランスを崩して悲鳴と共に倒れ込んだ。反射的に目を瞑り、痛みも覚悟したが、気がつけばアメリアは渦中の男に抱き留められていた。
「大丈夫ですか?」
 頭上から育ちの良さそうな、上流のアクセントで問いかけられる。
 そんなわけで図らずとも、アメリアはこの賑わいの中心人物を至近距離で拝むことに成功した。人混みの中はあれほど煩かったのに、今は何の音も聞こえない。今だってさっきと変わらず、いや寧ろスキャンダルを前にして今まで以上に観衆は声をあげていたが、アメリアの耳にはこれっぽっちも届いていなかった。それほどまでにアメリアは、渦中の人物に釘付けにされた。
 なるほど、確かに淑女たちが示し合わせたみたいに顔を真っ赤にするのも頷ける。目の前にいる紳士は確かに色男だ。それこそ、今まで見たことないくらいには。年齢は二十後半といったところだろうか。身長が高く、紺色の見るからに上質なコートをラフに着こなしている。顔立ちは言うまでもなく、全てのパーツが完璧に配置されている。黒い瞳は力強く煌めいて溢れんばかりの才気を演出していて、どこか読めない雰囲気もどことなくミステリアスで好奇心をそそられる。
 アメリアがまじまじと観察していることに気がつくと、男は楽しそうに目を細めて笑った。その微笑みは、あまり感じがいいものではなかった。どちらかといえば小馬鹿にするような笑みで、アメリアはムッとして視線を逸した。どうやらその反応もどうやら紳士にとってはただの楽しい出来事の一つにしか過ぎないらしい。
「お怪我はありませんか? その綺麗なドレスも無事だといいんですが」
「ええ、大丈夫です」
「それはよかった」男は少し考えるような素振りをみせて、アメリアにそっと耳打ちした。「随分とお転婆なんですね」その言葉にアメリアは顔を真っ赤にして紳士の事を激しく睨んだ。ディランは目を細めて楽しそうに笑っている。信じられない! 人の、それも淑女の失敗を蒸し返すなんて! あれが事故だったことはこの人もわかっているはずなのに! それにわたしにだけ聞こえるようにいうなんてずるいわ。もっと公にしてくれれば、反論だって出来るのに! アメリアの怒りはどこにも発散できず、ただ紳士を睨むことでどうにか平静を保っていた。紳士の方はまるで気にしている様子はない。
 頭の中は怒りと羞恥でいっぱいだったが、微かに残った理性が自分はこの得体の知れない紳士を誘惑しに来たのだと思い出させた。確かに、アクシデントはあったにせよ、これほど近くにいられるのは幸運なことだ。少なくとも、紳士を取り囲むだけで声もかけられない凡庸な女たちとは違う。アメリアは一旦さっきの紳士らしからぬ態度と行動は水に流して、とびっきりの笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます、助かりました」
 並大抵の男であればそれだけですぐに熱っぽい表情を浮かべるというのに、その紳士は軽く笑っただけだった。これに驚いたのはアメリアの方だった。今までわたしぼ笑みで振り向かなかった人はいないっていうのに! 改めてまじまじと男の様子を窺ってみたが、黒い瞳が細められているだけでそこに熱っぽさのようなものはこれっぽっちも感じない。それどころか、こちらの腹黒い考えもまるっきりお見通しであるかのような雰囲気を感じる。
「足を痛めているかもしれないから後で医者に診てもらったほうが良い」
 それだけ言い残して男はさっさと行ってしまった。男がサルーンの中へ歩く度に人混みはモーゼの海割りのように真ん中から裂けていく。ディラン・エドワーズが自分の側に近づくと淑女たちは顔を更に赤くして、もしたまたま視線があったりでもしたら気絶してしまうのではないかというほど異様な興奮と熱気があった。
 アメリアはその後ろ姿を呆然と見送り、紳士に対する初めての敗北に悔しくなって唇を血が出るほど噛み締めた。

第三章 一話

 華々しいトランペットの音とともにオールポート市長が壇上に登ると、招待客たちは話を止めて一斉に頭を上げた。オールポート市長は既に千鳥足寸前という様子で軸が定まることなく、常に前後左右に揺れ動いていた。顔は立派な赤ら顔で、その手にブランデーのボトルが握られていないのが不思議なくらいだった。
「お集まりの紳士淑女諸君、まずはこのような良き日にこうして相見えることができたことを心から嬉しく思います。皆さまのほとんどは今日ここで発表されるある重大な事柄について既に事細かな詳細まで存じ上げているとは思いますが、まずは我が国の華々しい建国から語るのが良いでしょうな」
 ああ、やっぱり始まった! アメリアは露骨に嫌な顔をしてため息をついた。
 オールポート市長の長話はまずこの国の設立から始まり、聞いたこともないような女王の名前や戦いや国名なんかが延々と続く。しかも市長はまるで自分がその苦難をあたかも体験して実感したかのように毎秒に力を込めて話すものだからこれぽっちも話が進まないのが常だった。淑女はもちろん市長の話なんてはなから耳に入っていなかったし、流石の紳士たちもこれにはお手上げで誰も口を挟むことなんて出来ず、右も左もまじめくさった顔で床を眺める以外他にないのだ。そしてやっと聞き覚えのある単語が耳に入ってくるようになっても終わりはまだまだ遠く、その頃になればオールポート市長の中で一年が経過するのに十五分はかかったし、少しでも政治や戦争の話になれば脱線して事あるごとに聴衆の中から反論が飛んだり即席の討論会が開かれたりするのだからたまったものではない。生き生きしているのといえば紳士とジョージアナとメアリーくらい。メアリーは政治の話なんてまるでわからないというくせに、「こうして立派な人たちがこの国には大勢いると思うと嬉しくて」などと語っていた。アメリアにはさっぱり理解できなかったが、メアリーはオールポート市長の建国話を何百回聞いても決まって最後には涙を流す特殊な性質を持っていたので今更驚きもしなかった。
 例によって例の如く、アメリアは十分も経たない内につまらなすぎて何だかすごく眠たくなり、必死に欠伸を噛み殺していた。それは他の娘たちも同様で皆つまらなそうに鏡面磨きの床を眺めている。ああ、いい加減終わってくれないかしら。そういうのは男性だけの集まりで話せば良いじゃない。わたしは政治の話なんてどうでもいいし、婚約発表だってどうでもいいのに。でもこの退屈な話が続くくらいならさっさと発表してくれたほうが何百倍もマシだわ。一体いつになったら踊れるの?
 退屈なアメリアに反して、ジョージアナは随分楽しそうで休むことなく文句を呟いている。
「オールポートさんったらまた間違えてるわ。あの人、清がどこにあるのかわかってないのよ。その説明だと丁度アメリカの辺りになるってわからないのかしら。それにインドだってまるでこの国と陸続きみたいに説明するじゃない。それに年代も五十年はズレてるし……」妹の声はアメリアを更にげんなりさせた。そして更に三十分は長々と話が続き、やっと解放の光が見え始めた頃にはアメリアはもちろん他の淑女たちもすっかり疲弊しきっていた。
「こうして力強き愛国の紳士たちと麗しの淑女の皆さまの住まうこの国が良き日に恵まれ、今日新たなる良縁が結ばれたのです!」淑女たちはハッと顔を上げてここ一時間で最大の集中を見せた。それに気を良くしたのかオールポート市長の声はクレッシェンドで大きくなり、会場のボルテージを底上げしていく。
「ご紹介いたしましょう! ――ディラン・エドワーズ」
 会場が沸きたち、大歓声の中で渦中の人は丁寧に一礼した。それは少し優雅すぎるくらいで、アメリアからしてみればちょっと気取りすぎだったが決して悪くはなかった。何しろオールポート市長のうんざりする声をもう聞かなくて良いんだから、たとえそれがどんなに趣味の悪いお辞儀でも誰だって拍手で迎え入れただろう。それにしたって拍手が通常のそれよりもだいぶ長く続いたのは、御方の並々ならぬ容姿やいくつもの過激でロマンチックな噂ありきのものだ。実際、オールポート市長はこの騒ぎを静めるのに相当の時間を費やした。
「皆さま! どうか静粛に! ええ、ええ祝福の気持ちはわかりますとも! さぁ、落ち着いて! 静粛に――!」市長の額には汗が伝い、どれほど力強く声を張り上げようとこの大歓声には敵いようもない。肩で息をしながらリネンのハンカチを取り出し汗を拭う市長を冷ややかな視線を投げつけた。何しろアメリアはこの熱狂とは無縁で、メアリーのように心の底から二人を祝福できる優しい心は持ち合わせていないし、騒ぎ立てる娘たちのようにあの男に心酔する気にもなれない。それどころかすっかり忘れていた怒りが鮮明に蘇って腑が煮え繰り返るのを感じたほどだ。
 拍手をしているのは――もっとも、まばらすぎて拍手と呼べるのかは定かではないが――あくまで礼儀からで、祝福の心はどこを探しても見当たらない。そろそろ腕がなくなってしまいそうだったし、この腕の異様な重さは翌日の激痛を思わせた。手のひらの感覚は既になくなって痺れたようになっている。アメリアは熱狂の渦に揉まれながら惜しみない拍手を送られる二人に退屈な視線を投げかけ「早く終わらないかしら」と静かに呟いた。
 不意にディランと目があい、また嫌なところを見られたと間の悪さに苛立って眉を寄せた。また何か失礼なことでも言ってきそうね、何しろわたしがイライラしているのが楽しくてしょうがないみたいだし……とアメリアは楽しそうに細まる瞳と柔らかな笑みを浮かべる口元を分析した。ディランはアメリアに目配せすると肩を竦め、右手を高く上げるとそれを優雅に動かしオールポート市長を指し示した。たったそれだけの動作で、大混乱にあった観衆はハッと市長に視線を戻し、まるでこれからとんでもなく重要な話が始まるような気さえして息を殺して市長の言葉を待った。
 ディランの動きは何か人の注目を惹くものがあって、市長本人ですらこの壇上に誰か別の、自分よりも高い地位の人間がいるのではないかと感じるほどだった。市長は間抜けな表情で辺りを見回し、ディランが指し示した人物が自分であることを思い出すと堅苦しく咳払いをして話し始めた。あるかなきかの威厳を保とうと努力しているものの、ディランのあとに見てしまえば市長もくたびれた老人に過ぎず、目を瞠るものなんて何もなかった。
「最初のリールを踊るのは二人で、異論はありませんな」オールポート市長は赤ら顔でサルーンをぐるりと見回した。大抵の淑女は是非もなくと頷いていたが、その中にオールポート市長はアメリアの今にも爆発しそうな不満顔を見つけて慌てて目を逸し、異議申し立ての時間はさっさと終わらせたほうが良さそうだと判断しさっさと長い演説を締めくくりにかかった。
「さぁ、それでは皆さま! 善は急げと申しますし、麗しい淑女の皆さまも退屈で飽き飽きしていることでしょう。道を空けて、お二人に盛大な拍手を!」
 合図と共に割れんばかりの拍手が響き、しっかりとした地盤までも揺るがし建物全体が歓喜に打ち震えた。アメリアはそんな歓声の中一人でさっさと壁際に移動してソファーに体を沈めた。人の名声なんて心の底から興味がないし、ましてやアンナがもてはやされているところなんて見ても楽しいはずがない。豪華なオーケストラが二人のために音楽を奏で始めると、アメリアはドレスの裾を整え始め、聞き覚えのある楽曲を鼻歌交じりになぞり機嫌を良くした。何しろこの素敵な曲も一ヶ月もご無沙汰だったのだから。曲が始まるとアメリアの周りにはあっという間に数え切れないほどの紳士が集まった。会場にいる男たちだけでいうなら、本日の主役の二人の踊りを眺める人よりもアメリアに視線を送る人の方が多いくらい。アメリアは自分を取り巻く男たちを見つめて満足げな笑みを浮かべた。
 幸運にもアメリアの近くに陣取ることに成功した男たちは彼女を近くで見つめ、あれこれ話を振る特権を抱きしめ、惜しくも遠巻きから見つめるだけの紳士たちは歯がゆい視線を絶えず寄越し、どうにか会話に混じろうと水面下で熾烈な争いが巻き起こっている。誰もが羨む一番の特等席――アメリアの隣――にはリック・アボットが座っていた。普段ならば遠巻きで見つめることしか出来ない彼がこうして特等席を陣取れたのはまさに奇跡といっても良く、普段から会場の端の方で縮こまっていたのが幸を奏していた。
 リック・アボットは決してハンサムというわけでもなく、むしろどちらかといえば鈍臭くてパッとしない男だ。顔のパーツ自体は悪くないのだが、本人の卑屈な思考が顔つきにありありと表れてその全てを台無しにしていた。着ている服も上質なものだったが、サイズが合っていない上に長いこと買い替えていないから生地がよれているため、どこかだらしなくみえる。その上、リックは極度のあがり症で特に女性の前では口数がうんと少なくなった。性格はといえば凡庸で生真面目、それから不思議なことに大切なところで決まって失敗するという稀有な性質がとにかく人生の邪魔をしていた。そういう数々の性質からリックに求婚された女性は眉をひそめて「貴方みたいな方に求婚されるなんてわたくしも安く見られたものですこと!」と立腹し、リックの自尊心はほとんど擦り減って卑屈なまでになってしまった。
 そんな自分が今こうして社交界の花たるミス・スレイターの隣にいるだなんて……、リックは紳士たちの嫉妬混じりの視線に怯えながら憧れのアメリアをまじまじと観察した。白い肌は近くで見ると絹よりもきめ細やかで、唇はふっくらとして憧れを抱かずにはいられない。ガラス玉のような瞳は透き通り、リックはその色味がモスグリーンよりもアイビーグリーンに近いと初めて気がついた。それに女性――特に素敵な女性――はどうしてこうも甘い香りを漂わせているのだろうか?
「ミス・スレイター……その……」リックは思わずアメリアに話しかけたが、続く言葉は特に思いつかなかった。女性を前にするとどうしても何を話して良いのかわからなくなってしまうのだ。アメリアは優雅に踊る二人から目を離して「なぁに?」と急かした。リックは慌てて話題を探そうと周囲を見回して本日の主役の一人であるディラン・エドワーズに目を留めた。そして妹のエマ・アボットが一ヶ月も前から彼の人についてあれこれと楽しげに話しているのを思い出した。何だか分からないが、女性はそういう話題が大層好きらしい。それに何しろ、この一ヶ月エマの語る噂話の数々をずっと隣で聞いてきたので話す内容もはっきりしている。話題に事欠くリックが飛びつかない理由がなかった。
「とても立派な人ですね」
「ええ。とても”ご立派”だわ。本当にね」アメリアはドレスに皺が寄ることも気にせずに不貞腐れて頬杖をついた。視線の先には華麗なダンスを披露するディランとアンナの姿がある。ええ、ご立派ですとも! このわたしを馬鹿にしてまるで相手にしないくらいには! リックはアメリアの不機嫌にはまるで気が付かず、同意が得られたこと喜々としてこの話題を続けた。
「僕もいろいろな噂を聞きましたよ。――その、エマがずっと話していたので。なんでも広大な土地の持ち主らしいですね。リヴァプールの方には一万エーカー〔40平方キロメートル、東京ドーム870個分〕もある大豪邸があるとか聞きました」
「ええ。そうね、それで年収がおいくらだったかしら? そんなこと心底どうでもいいけどね」
「エマは三万ポンドだって言ってましたよ」
 先程娘たちから聞いたときよりも一万ポンドも値上がりしていることについては気が付きようもなかった。何しろアメリアは今やリックの話なんて半分も入れていないのだから。
「それに乗馬と狩りでは右に出るものがいないとか……えっと、それからダンスも」
「そうみたいね」
 別に一緒に踊っているわけでもないのに、見ているだけで心臓が高鳴って、アンナの細長い指先がディランの骨張った手に包まれる度に思わずハッとして自分の手の安否を確認せずにはいられない。どうやらそれは他の淑女たちも同様らしく、皆一様に顔を赤らめ、アンナを自分に置き換えて悦に浸っているのが手に取るようにわかった。
「それから――」
「ちょっと静かにして」怒気を含んだアメリアの声にリックは萎縮して真面目くさった顔で自分の指を見つめ始めた。きっとまた何か気に障ることをしてしまったんだろう……でも一体何が気に障ったんだろう? 何しろ、さっきまでは気さくに応対してくれたのに――とリックはアメリアのことを覗き見た。その瞳はディランとアンナに向けられている。「きっと、ミス・スレイターは二人の踊りを鑑賞したかったんだろう。考えればわかりそうなことじゃないか! 他の女性だってみんなそうしてるし――女性にとっては結婚も婚約もすごく嬉しいことなんだから、友達として感動に浸らせてあげる時間くらい設けるべきだったんだ」的外れな反省を余所に、アメリアは二人を観察し、はらわたが煮えくり返る思いだった。
「そんなに素敵だっていうの? あの不躾な男が! 確かにダンスは上手だし、見た目もいいけど。ちょっと躓いただけだっていうのに、まるでわたしが淑女じゃないみたいな扱いをして……! あんな不当な扱い初めてよ。それに――」アメリアはさっきの一連の流れを思い出して更に唇を不愉快に歪めた。
「それに、わたしの思惑なんてまるでお見通しって顔して。それにしたって、一体どうしてわたしの魅力が通じなかったのかしらね。今だって、これほど沢山の取り巻きがいるし、わたし以上に素敵な女性なんて存在しないはずなのに……。きっとあの時躓いたからに違いないわ。わたしが普段から使用人みたいにバタバタ走り回ってる品のない女だと思ったのよ。あーあ、本当に失敗した! でもいいわ。あのくらいのミスすぐに挽回してみせるもの。わたしがどれほど多くの男性に求められて、どれほど可愛らしく微笑むのかを知れば黙ってはいられないはずよ。何しろ今までわたしの輝きを前にして正気を保てた人なんて存在しないんだから。でもそれにはまずわたしに視線を向けて貰わないとね」それらしい答えに納得して、アメリアは唇の端をきゅっと持ち上げ、リックに向き直ると愛らしくえくぼを強調してみせた。
「ところでリック、さっきからずっと言おうと思ってたんだけど、グランドツアーから帰ってきてなんだかすごく素敵になったみたい! それからウィンストン、その服、新しく仕立ててもらったやつでしょう? ねぇ、エイデン、何の話してるの? わたしだけ除け者なんてずるいわよ」
 四方八方に笑顔を振りまき、遠くから見守っていた紳士たちには目を伏せて魅惑的な微笑みを向けた。それに忙しく、会話はほとんど耳に入っていなかったが当たり障りない相槌をうてば紳士たちは水を得た魚のようにあれこれと話を始め、そしてその賑わいに誘われるように取り巻きは徐々にその数を増やしていく。
「きっと、この賑わいにはあの人も目を向けずにはいられないわよ。誰だって楽しそうな会話には自然と聞き耳を立ててつま先が向いてしまうものだもの」期待を込めて緑の瞳をちらりと上げ、アメリアは度々ディランを覗き見たがまるでこっちを気にする素振りは見られない。その割に釣り針には狙ってもいない男たちが次々とひっかかり、今やアメリアの取り巻きは元の二倍にまで膨れ上がっている。
 振るわない成果にむくれ、次々と集まる紳士たち全員に明るく振る舞うのもうんざりしてきた頃オーケストラの演奏が不意に小さくなった。主役二人だけの独壇場が遂に終わりを告げたのだ。壁際でうっとりとしていた淑女たちも意中の人に手を引かれ、続々と中央に踊りでていく。アメリアを取り囲む紳士たちが一体この中から誰が選ばれるのかと固唾を飲んで見守る中、アメリアだけは自分の思考に夢中だった。
「丁度良いわ、この集まりももう解散よ。気分は良いけど煩くて敵わないし、何よりあの男が引っかからないっていうのならこんなことしていても仕方ないもの。それに、こんな遠い場所で賑わうよりも、近くでわたしのダンスとか微笑みとかを見せた方がよっぽど効果的に決まってるわ。きっとあの人、わたしがどれほど可愛くダンスを踊るか知ったら驚きのあまり声も出ないでしょうね」

第三章 二話


 サー・ウィリアムとのダンスは楽しいわけでもなかったがアメリアは会場一見事に踊り、全ての話題に可愛らしく笑顔で対応してみせた。そして今の笑顔には流石にあの不躾な男も目を惹かれずにはいられないだろうと踊りながら度々ディランのことを覗き見たが、相変わらず成果は振るわずサー・ウィリアムとのダンスは終わりを迎えた。
「どうやら今日のミス・スレイターは誰よりも気を引きたい方がいらっしゃるようですね」というサー・ウィリアムの去り際の言葉にはどきりとさせられ、あるかなきかの罪悪感を少しだけ揺さぶられた。
「悪いことしたかしら、ダシにつかったようなものだものね。でも、だからってあの人を諦める理由にはならないわ。ちょっと悪いけどエドガーにも生贄になってもらおう」今までまるで成果が上がっていないにしろ、次こそ上手くいくような気配がした。「そうよ、エドガーはわたしからみてもそれなりに素敵だし、きっとわたしと踊っているところをみたらあの人の痩せ我慢も限界を迎えるに違いないわ。さて、エドガーはどこかしら」と当たりを見回そうとして、背後から柔らかいテノールが響いた。
「やぁ」
 アメリアはその声の主を確認して、内心で密かに笑みを浮かべた。「エドガーを犠牲にする必要もなかったわね。やっぱり放っておけなくなったんだわ。まずはさっきの無礼に対する謝罪でも頂きたいところね。そうすればまぁ、一曲くらいなら踊ってあげてもいいし……」口角が上がりそうになるのを必死に押さえながら、アメリアは素っ気なく顔を背けた。
「あら、何のご用かしら。ダンスならもう予約がいっぱいですけど」
「それは丁度良かった。もし密かにわたしと踊りたいと思っていたら可哀想だと思ったんだ。何しろわたしも予約でいっぱいだからね」
「なら何しにいらしたの?」
「やっぱり期待していたんだな」ディラン・エドワーズは口角を上げて、アメリアのことを頭の先から爪先まで品定めするように眺めた。
「別に、そういうわけじゃありませんけど」
「それなら一体誰にその人気具合を見せつけようとしていたのかな。お転婆娘さん?」眉を上げながら小さく肩を揺らすディランにアメリアはムッとして食らいついた。
「またその話を蒸し返すおつもり? あれがちょっとした事故だったことくらい普通の紳士ならお分かりになると思うんだけど。たった一度のミスでこれほどつまらない思いをさせられるとは夢にも思いませんでしたわ。人を淑女じゃないみたいに扱って――」
「淑女は男性を山のように侍らせたりしないのでは?」鋭い指摘にアメリアは一瞬狼狽えて言葉を詰まらせた。ただ、ディランの人を小馬鹿にしたような笑みを眺めていると何か言ってやらずにはいられなくなりすぐに口を開いた。
「そんなこと、だって仕方ない話でしょう? この容姿は持って生まれた物だし」
「ええ、馬鹿な男たちを魅了する快感の虜になるのも仕方のない話です」
「それの何が悪いっていうの?」
「やっと本性がでてきましたね。お嬢さん?」アメリアはハッとして唇に指をあてた。ディランは相変わらず楽しそうに目を細めて喉の奥で笑っている。唇を噛み締め、苦渋を飲み干すと鳩尾の下が妙に疼いて気分が悪くなった。全身が怒りと屈辱で小さく震えて過去の考えなしな発言をした自分を張り飛ばしたい気持ちに駆られる。それと同時に目の前の男に平手打ちの一つでもかましてやりたい気持ちになったが、それは両手を激しく掴むことでどうにか堪えた。
「わたしは用がありますから、この辺で失礼しますわ。無駄話に付き合うほど暇じゃありませんから」ディランを鋭く睨みつけ、ぷりぷりして壁際に戻ろうとすると背後で軽い拍手の音が響いた。
「今のはなかなかにそれっぽい仕草でしたね。まぁ、座って。白状するとダンスの誘いにきたんですよ。君の甲斐甲斐しい努力に免じてね」背後から聞こえた告白にアメリアは足を止めて驚きに目をパチパチさせた。そしてディランに背中を向けたまま、にんまりとした笑みを浮かべてみせた。なんだかんだいいつつも、ちゃんとわたしの魅力には釘付けなんだわ。ちょっと態度は気になるけど、でも気になる女性にそういう態度しかとれない男性もたくさん見てきたからそれほど不思議でもないわ。
 そう考えれば今までの不可解な言動にも納得できる。さて、どうやってからかってやろうかしら! 当初の予定とはちょっと違ったけど、ここまでくればもうこの紳士もわたしの玩具同然よ。何しろわたしと踊りたいくらいには好意があるってことだし、好意を抱いている紳士がどれほど扱いやすいかなんて誰よりもわかっている。
「あら、そうだったんですか。でもさっきも言った通り予約がいっぱいですから。でもどうしてもって仰るなら……」アメリアはちらりとディランの顔を覗き見た。きっと期待に満ち溢れた顔をして、あれこれ言葉を尽くして楽しませてくれると思っていたのだがディランは相変わらず皮肉っぽい笑みを浮かべていた。
「君は本当にどうしてもわたしを傅かせたいみたいだな。悪いが、そこまでするつもりはなくてね。やっぱりこの話はなかったことに」
 アメリアは愕然として聞き返した。
「わたしよりも他の女性の方が楽しめるって仰っしゃりたいわけ?」
「楽しめるかどうかはさておき、ただでさえダンスの相手を独占されているのにこれ以上相手がいなくなったら可哀想ですから。祭事好きな市長のためにも少しは男性を譲ってあげてはどうです?」既にいろいろと聞かれたくない話も聞いてるみたいね。きっとあの小娘どもの仕業ね。とアメリアは壁際でくすくすと含み笑いを浮かべる淑女たちを睨みつけた。だから紳士に人気がないのよ。人の足を引っ張ることばかり考えてるから。
「馬鹿なこといわないでよ。結婚できないんだとすればそれは努力不足だわ。みんなわたしのせいみたいな顔するけどね。あの子たちの話なんて話半分で聞いたほうがいいわよ。何しろ面白いと思えばどんな脚色もいとわないもの。あの子たちにかかれば魚も空を飛ぶわ」
「とはいえ、ダンスの相手を独占しているのは事実だ」ディランはさっきまでアメリアが座っていたソファーに未だに溜まっている男たちに視線を向け、同情の籠もった表情をしてみせた。
「相当笑顔を振りまいたらしい。ただ、君と結婚するには相当根気が要りそうだ。何しろその性格だし、貰い手が実在するかはともかくとして敬意を払わずにはいられないね」
「あなたもわたしが売れ残るとかって仰るのね」今朝のソフィーとの会話が脳裏に呼び起こされた。
「以前にも言われたことがあるのか。だとしたらいよいよ真面目に検討したほうがいいだろうね」
「あなたね――」全身の血がカッと沸き立ち、平手打ちでもお見舞いしてやろうと手を上げたところで、その手首を掴まれて阻止された。そして流れるように手にキスを落とすと、魅力的な微笑みを浮かべた。
「そういえば自己紹介がまだでしたね。初めまして、ディラン・エドワーズです。こうして可愛いお嬢さんと知り合えるのならイギリスもそう悪いものではないですね。それはそれとして足は大丈夫ですか? 必要なら知り合いの医者に連絡しますよ。どれほどお転婆だろうと医者にかかる権利はありますからね」
 アメリアは一瞬狼狽えつつも、次の瞬間には毅然とした態度を取り戻し、こうして正面に立たれるだけでも酷い侮辱とばかりにディランの手を払い除けた。
「ご心配なく。かかりつけの医者くらいうちにもいますから」そう言い放ち、アメリアはさっさとその場から立ち去った。
 ああ、本当に許せない! 人のことを馬鹿にしてそんなに楽しいっていうの? どうやらこの会場であの男の本性を知っているのは自分だけらしく、淑女たちはフリーになった紳士を取り囲み、背後からは口々に称賛する声が響いている。何よりもアメリアを苛立たせたのはディラン・エドワーズが自分以外には極めて丁寧な態度を崩さないという点だ。背後で繰り広げられる楽しげな会話が耳に飛び込むなり、傷つけられたプライドが疼き、体の内側を掻きむしりたいどうしようもない衝動に駆られる。今に淑女たちは今までのお返しとばかりに高慢な顔つきをして近づいていくるだろう。「今日は何だか悪巧みがうまくいかないみたいね? 勘が鈍ってるんじゃなくて?」なんて言いながら。つまらない未来を想像して、アメリアは奥歯を噛み締めた。
「これ以上ここにいたら頭がおかしくなりそうよ」周囲を見回して誰でもいいから自分の傷ついたプライドを復活させてくれる人を探し、その瞳がリック・アボットを捉えた。
「リック! 丁度良かったわ。ねぇ、一緒にテラスにでもいかない?」
 リックは言葉に詰まり、この可愛い女性が自分にかけてくれた言葉を飲み込むことすら多大な時間がかかった。長い時間をかけてどうにかこうにか絞り出せたのは「もちろんです」という一言だけだった。
 何しろリックは女性をエスコートする経験が殆どなかったので、アメリアの手を握るのにもおよび腰で、まるで少し触れただけで崩れ落ちてしまうみたいに慎重だった。女性の歩幅というのもまるでわからず、ただ配慮しなければいけないという知識だけが先行して一歩に一フィートしか進まない有様だ。それでも、そういう度を越した丁寧さはアメリアのプライドと自尊心を回復させるのに最適だった。
 テラスへと向かう螺旋階段を上っていると、背後からワルツとエドガーが何か大声で叫んでいる声が聞こえた。そこでアメリアはやっとのことでエドガーとの約束を思い出した。きっと声もおおかた自分を探しているか、既にやけ酒が始まってハーディン家の三兄弟とやりあってるのだろう。エドガーは酒が入ると異様に喧嘩っ早くなるのだ。
 アメリアは螺旋階段の上からサルーンの方向をじっと見据えた。
「でも、サルーンにいてもイライラするだけだし。あそこで苛立ちを抱えるよりはテラスでのんびりしている方が何倍もいいわ。たとえ相手がリックでもね。エドガーには後できっと埋め合わせしよう――そのときまで意識があればいいけど――何しろ酔ってるときのあの人の相手って結構面倒だものね」

第四章 一話

 あの後、しばらくリックとつまらない話を続け(不思議と何の話をしていたかについては記憶の闇に葬られている)気の利かないリックが上着も貸してくれなかったのでアメリアが冷え切ってサルーンにもどるとエドガーは案の定いなくなった姫を思ってヤケ酒をしてハーディン家の三兄弟に喧嘩をふっかけており、アメリアの帰還があと数分でも遅ければ今日この家の正面で想像したような事件が起こってもおかしくなかった。相変わらず、例の紳士は訳知り顔の意地悪っぽい視線をアメリアに投げかけていたが幸いなことに向こうから積極的に接触するつもりはないらしい。そういうわけで不愉快を抱えながらも、アメリアはエドガーを含む面々と散々踊り明かし、ソフィーの肝を冷やした。
 帰りの馬車の中、ソフィーは不機嫌を隠すことなく無限に小言を呟いていた。
「随分な振る舞いでしたね。このことは奥さまにきっちりとご説明させて頂きますから……まさか酷いだなんて仰りませんね? それにこんなに体を冷やして、今に風邪を引くに決まっています。それから常々言っていますけど……何曲も連続して踊るのはいかがなものかと思いますよ。何しろ紳士のみなさまはか弱い女性の方がお好きですからね。アメリアさま、聞いています?」
 アメリアは馬車の中から外をぼんやりと眺めては、黒い木のシルエットと柔らかな月明かりに今日の楽しい一日を投影してうっとりとしていた。ソフィーの言葉は頭の中にはまるで引っかからず、水のごとき滑らかさでどこかへと通り過ぎていく。ただ、そうして自分の世界に没頭していたアメリアも次の言葉には目を剥いて対応するしかなかった。
「でも、アンナさまの恋人に手を出さなかったのは感心でしたよ。わたしは今にあの方と手を取って踊り出すかと本当にヒヤヒヤしてましたから! 当たり前の倫理は備わっているようで安心しました」その一言で闇夜に浮かぶ木々のシルエットが顔を歪め、自分のことを小馬鹿にしているような気さえした。
「わたしが屈辱を味わったっていうのに随分嬉しそうに話すのね! わたし、あの人に限らず裏表のある男性って大嫌い。それからわたしのミスを揶揄う人も――そういう点でいうならあの人は本当にアンナによくお似合いだわ」
「品のない女だと思われても仕方ありませんよ。わたしも驚いて言葉を失ったくらいですから。肩を割り込んで最前列に躍り出て、挙げ句恥を晒すなんて。わたしだったら恥ずかしくてダンスなんてしてられませんよ。きっとエドワーズさまも同じように思ったに違いないですね」
「見ていたのね?」
「それはそうですとも。あの会場で知らない人なんて誰もいませんよ。そしてこれから貴女のお母さまも知ることになるでしょうね。もちろん、喪中にも関わらず大層楽しそうにお過ごしだったこともきっちり報告させていただきますから。まさかあれほど大人数の目に触れる行いばかりするとは思いませんでしたよ!」
 アメリアは視線を逸して誰か味方してくれそうな人を探したが、ジョージアナは相変わらず本の虫だしジョンは知らず存ぜぬを貫いている。アメリアはしゃべり倒すソフィーを無視して窓の外に視線を戻した。
 既に馬車は見慣れたいつもの道に戻っていて、窓の外には〈ネザーブルック〉の外観がはっきりと見て取れた。それを見ると、アメリアはいつもどこか安心するような落胆するようなそんな気持ちを抱くのだ。きっと魔法がとけたシンデレラも同じような気持ちを抱いたに違いない。〈ネザーブルック〉の外観はベネット家のそれとはやはり大きく異なっていた。惨めとは言わないまでも、あの絢爛豪華なお屋敷を見た後だと少しくらい見劣りすると思っても仕方のないことだろう。大きく豪華な噴水もなければ、壮麗な花壇があるわけでもない。煌々とする灯りもなければ、出迎えるフットマンもいない。使用人たちも同じ家で寝泊まりしているが、〈ネザーブルック〉は活気に乏しく、どこか萎縮しているように感じた。
 だからといって自分の生まれ育った家が嫌いになることなんてどんな事が起ころうとあり得ないと断言できる。アメリアにとって、このクリーム色の外壁も他の家と比べれば小さな庭園も、その全てが自分を守ってくれる大切でかけがえのない存在だった。どんなに辛いことがあろうとも家に戻って母の優しい顔をみれば決まって安心するし、淑女然とした家はどんな砦よりも堅牢に自分を守ってくれる。たとえどんなに見劣りしようとも〈ネザーブルック〉はアメリアの帰る場所だなの。
 
 家に着くなりジョージアナは瞬く間に馬車を飛び降りて家に戻っていた。三人を出迎えたのは使用人のデイジーで馬車の音を聞きつけて居間から飛び出したらしい。頬はにわかに赤く染まり、唇をきゅっと噛み締めている。その視線は御者のジョンにちらちらと向けられていて、彼が馬の毛並みを整えるのを遠巻きにうっとりと眺めている。
「デイジー、ちょっと。今すぐこのうっとうしいドレスを脱ぐのを手伝って頂戴、もううんざり」まるで他の三人なんて目に入っていないという様子だが、ジョージアナは情けも容赦なく言いつけた。家に一歩足を踏み入れるなりシニヨンを引きちぎらんばかりの勢いで外し――あまりに乱雑で何本かの髪の毛を巻き込んだ――男みたいに大股で廊下を抜け、階段の奥へと消えていった。マナーにうるさいオルコットがみたら口から泡を吹いて倒れること必至だ。
 言いつけられたデイジーは眉を八の字に曲げ、今にも泣きそうな顔をしてジョンとジョージアナの消えていった階段を交互に見た。
「あとでたっぷり時間はあるでしょう? それにこんなところをミセス・オルコットにでもみられたらそれこそ大問題だと思いますけどね。わたしもなるべく早く終わらせていきますから。ところで奥さまは起きていらっしゃる?」
 ソフィーはどうやら馬車の中で溜め込んだ鬱憤を一刻も早く晴らしてやりたいらしい。この生意気なお嬢さんに現実というものを教えてやろうと息巻いている。アメリアはうんざりして小さくため息を漏らした。
「明日でもいいのにね。お母さまもちゃんと寝ていてくれればいいんだけど。神さま、どうか今日くらいはそっとしておいてください」投げやりにアメリアは神に祈りを捧げた。だが日頃の行いのせいか、それとも単に信心が足りないせいか、天に祈りが通じることはなかったようで、ソフィーが質問するや否や居間の奥からスレイター夫人の声が響く。
「アメリア、ソフィー。こちらへいらっしゃい」
「さぁ、アメリアさま。天誅のお時間ですよ!」
 してやったり、という顔のソフィーを見てますます嫌な気持ちになる。アメリアは今まで散々可愛らしい悪事を重ねてきたが、それでも怒られるのは嫌に違いない。ソフィーに怒られて堪えるほどか弱い心は持っていないアメリアだったが、それが母親となると途端に弱いのだ。より正確にいうのなら母に落胆されるのが嫌だった。いつでも穏やかで優しく、理想の母であるエレンから見限られるのはアメリアにとって死ぬよりも恐ろしいことだ。アメリアは逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、ソフィーがそれを許してくれそうにもない。それに、自分がいなければソフィーが話に尾ひれをつけるような気がしたし、正当な反論をするためにも逃げるわけにはいかないのだ。
 重い足取りで居間に入ると暖かい空気が頬を撫でた。スレイター夫人は暖炉の側に置かれた安楽椅子に腰掛けていた。膝の上には布切れを繋ぎ合わせた膝掛けがかけられ、その上には裁縫道具が置かれている。アメリアを見るなり、スレイター夫人は優しい微笑みをその顔に湛えた。
「わたしが忠告を聞かないのはお母さま譲りに違いないわね。ダーシー医師に散々忠告されたのに……それなのにわたしばっかり糾弾されるんだから嫌になっちゃう」
「アメリアさま! 実のお母さまに向かってなんて口の利き方をするんですか!」ガミガミいうソフィーにアメリアは悪びれない態度で舌先をちろりと覗かせた。アメリアの生意気な態度にソフイーは眉をキッと引き締めて心の内で先程よりもはっきりと報復を誓った。母は使用人ほど口うるさくもなく、優しく愛娘の頬を撫でた。
「心配には及びませんよ。むしろベッドの中にいるよりよっぽどいいんです。それに今日は体調もいいですしね。お帰りなさい。楽しかった?」
「それはそれはお楽しみでしたよ。会場中の紳士たちに取り囲まれて、それはお幸せそうでした」すかさずソフィーは口を挟んだ。
「もちろん、楽しかったし幸せだったけど、それの何が問題だっていうのよ。そもそも、そんなの魅力の足りない女たちの僻みじゃなくって? そんなのいちいち気にしていたらキリがないわ。何をしたわけでもないし。許嫁が居るわけでもないのに。わたしが誰と踊ろうが誰に囲まれようが自由じゃない」
「いいえ、奥さま! お聞きください。わたしはアメリアさまがずっと小さい頃から乳母として見てまいりましたけど、最近のアメリアさまの行動は本当に目に余ります! 奥さまの前では可愛らしく猫を被っているようですが、このソフィーには本性をむき出しで襲いかかってきますからね。今日なんて、会場中の男性という男性に声をかけてダンスの誘いを言葉巧みに誘導して、その上ろくに相手も決めずに皆さまの心を惑わしておりました。それにジョージアナさまもとんだお嬢さまですよ。奥さまとあんな約束をしておいて結局誰とも踊らないんですから。席を立ったのはわたしが頼み込んだピアノの演奏のために一回だけで、それもとんでもなく短い曲でした。ああ、それに、それにとんでもなく冒涜的な本まで持ち込んで! 本当にお二人とも、とんでもないお嬢さま方ですよ! 旦那さまに今すぐお手紙を出すべきですよ。この厄介なお嬢さんをこっぴどく叱ってもらわなくては! きっとアメリアさまには鞭打ちとかじゃないと伝わらないんですよ! 今日はそうでもありませんでしたけど……今にミス・ベネットの婚約者に手を出そうとするのはわかりきってます」
「鞭打ちですって!? よくもそんな怖い妄想を口にできるわね! それに、あの男に関しては――そんな訳ないじゃない。さっき馬車で散々言ったでしょ? あんな意地悪な人――」
 スレイター夫人は実の姉妹のような二人の言い争いを一通り聞いて、この場には場違いなほど優しく笑った。
「お止めなさい、ソフィー。まぁ、でも貴女の言いたいことはよくわかりました。アメリアとジョージアナにはわたくしからしっかりと話しておきます。それから手紙も出すことにしましょう。さぁ、早く着替えて、それからジョージアナの着替えを手伝ってあげなさい。いいですね?」
 優しい声色ながらもどこかはっきりとした意志を感じさせる声でスレイター夫人は告げた。ソフィーは納得してはいないようだったが、そう言われてしまえば首を縦に振るより他になかった。アメリアは勝ち誇ったような笑みを浮かべてソフィーをみやった。
「厳しく仰ってくださいね」
 その言葉にはどうせそうはならないのだろうという落胆がありありと映っていた。何しろエレンの瞳は慈愛の女神も驚くほど優しく、いつも通り瞳には優しい明るさが宿っていた。少し困ったように笑う様子からは厳しさなんてかけらも感じられない。これはいつものことで、たとえアメリアがどんな悪さをしようともエレンは貴婦人の風格を崩すことはなかった。アメリアはただの一度だって声を荒らげる※怒られたことはないし、それどころか使用人を叱る時ですらエレンは優しく諭すような言い方をするのだ。だからソフィーがいなくなった時点でもうこっぴどく叱られる心配はなくなってアメリアは胸を撫で下ろした。その安堵が伝わったのか、エレンはやはり困ったように眉を下げた。どれほど言われようとも愛娘に声を荒らげる気にもならないし、ましてや手厳しい態度をとることもできないのだ。
「さ、ここに座りなさい。悪戯娘さん。そこは寒いでしょう。それにしたって本当に困った子ですね。魅力を見せびらかすようなことはおよしなさいと言ったでしょう。本当の淑女は決してそんなことしませんよ。まったく……見本となる行動は示してきたと思いたいですが、貴方の行動を見ているとそれも不安になりますね」母の口調は優しく、怒られているような気持ちにはならなかった。エレンが柄にもなく鞭でも取り出していればアメリアも立ち振る舞いを改めたかもしれないが、何しろアメリアは目に入れても痛くないほど可愛がっている一粒娘なのでそんなことは誰にもできなかった。そんなわけでお叱りと言っても、大抵はこうやってエレンを困らせるだけで終わるのだ。
「ごめんなさい、お母さま」アメリアは母の肩に頭をもたげて、可愛らしく謝罪してみせた。そう言われてしまうと、もうこれ以上怒る気にもならないのがエレンの性質だった。エレンは眉を困ったように下げながら、アメリアの頭を優しく撫でた。もうお叱りは終了したらしい。ソフィーがここにいればまた声を荒らげてブツブツと文句をこぼしたに違いない。
 エレンの手はそのままアメリアの仄かにピンク色をした頬に向かった。ぽかぽかとした母の手は優しくて、とても心地よい。エレンはアメリアの成長を確かめるように全身をじっくりと眺めた。
「かわいいお嬢さん、本当にあなたはわたくしの宝物です。アミィ、今年でいくつになりましたか?」
「次の誕生日で十九になります」
「本当に早いものですね。アメリアにとっては退屈な時間だったかもしれませんけど、わたくしにとっては本当にあっという間でした。アミィ。そろそろ身を固める時期ですね。いつまでも可愛いお嬢さんでいて欲しい気持ちもありますが、きっとアミィは結婚した方が幸せになれますよ」
「でも……わたし、今でも十分過ぎるほど幸せです」
「ですが、オールド・ミスなんて呼ばれることには耐えられないでしょう。こら、アメリア。聞いていませんね? うんざりかもしれませんがしっかりお聞きなさい。いいですか? 早く素敵な方を見つけなさい。この家には息子がいませんから、あの人が亡くなったら財産は全て遠い親戚に渡ることになります。ですから結婚して自分の財産を持って欲しいのですよ」
「結婚しても自分の財産とは言えません」
「ですが食事に困ることも家に困ることもないでしょう。アメリア、今日あなたのお父さんはブライトン家に限嗣相続を解除するように頼みに行きましたが、恐らく今回もうまくいかないでしょう。本当ならそれが一番いいはずですけど……」
 長男の居ないスレイター家の財産はミスター・スレイターの死後、スレイター家の遠い親戚であるブライトン家の長男、ジュード・ブライトンが相続することになっていた。それはもちろん、爵位、土地、建物を含み、いずれはこの家からほとんど無一文で追い出されるということを意味している。エレンはこの問題が浮き上がる度に、この忌々しい病気さえなければとやるせない気持ちを抱いてきた。
 相続人が相続を放棄すると宣言しさえすれば、爵位はともかく土地と財産はアメリアに渡ることになる。可愛い娘たち二人を守るために、ジョージ・スレイターは今まで何度もブライトン家に赴き、交渉を続けていたが未だに成果はない。それどころか前回の訪問の際にはブライトン家はハイエナの目つきで、財産は一シリングたりとも譲る気はないと宣言していた。
「わかりますか? このお屋敷もスレイター家のものではなくなるのです。それどころか爵位もなくなるのです。わたくしたちはこの家を出ていかなくてはならないんですよ。ああ、やはり良くわかっていなかったのね。さぁ、これで涙を拭きなさい。少し驚かせましたね。でも、今すぐにというわけではありません。幸いにも貴方のお父さまは健康体ですから、少なくともアメリアが結婚するまでは絶対にここで暮らせますよ」
「そんなのって、そんなのって、嘘よ! わたしたちがこのお屋敷を追い出されるっていうの? わたしだってお父さまの子供じゃない。このお屋敷はうちのものだわ。だってわたしも十八年間住んでるし、歴史を遡れば百年以上もスレイターが住んでるじゃない!」
「ですがそういう法律なのです。仕方ありません」
 アメリアにとって理解不能な法律は山のようにあったがその中でも遺産相続云々に関するものは特に理解不能だった。女というだけで出来ないことのなんと多いことか! 今までもこの類の話を耳にしなかったわけではないが、財産がなくなるといっても毎月の新しいドレスがなくなったり、ディナーの品目が一つ減ったり、そのくらいの想像しかできていなかったのだ。それが、まさか家を奪われることになろうとは!
 アメリアは愕然として部屋をぐるりと見回した。白い壁も臙脂色のカーテンも、マントルピースの上にかけられた家族の肖像画も、この家に存在するものならすべてを知り尽くしているのに。それが奪われるなんてとてもではないが信じられない。驚きを隠せないアメリアに対して、エレンはいつも通り優しく穏やかだった。エレンは穏やかな顔つきで裁縫道具を手にとり滑らかな手つきで針を動かした。何事にも動じない母を見ていると、心もある程度平静を取り戻した。
「それなら、どうやって生活すればいいの?」
「わたしが生きているうちはあなたにそんな苦労はかけませんよ。わたしがお針子になってでも誓って惨めな思いはさせませんとも。でも――」その続きはゾッとするほど激しい咳によって遮られた――しかし、それはどんな言葉よりも雄弁にエレンの考えを述べているように思えた。アメリアは泣きそうになりながら母の背中をさすった。コルセット越しでもわかるくらいに母の体は痩せ細っていて、発作みたいに咳を繰り返すエレンの額には玉のような汗が滲んでいる。しばらくしてヒューヒューと音が鳴るような荒い呼吸を整えるとエレンは優しく微笑んだ。心配をかけまいとしているのだろうが、アメリアの心配は募るばかりだ。エレンはどうにか平静を保ってはいるがその額には汗が滲んでいる。しかし、母は相変わらず気丈ですぐにまた裁縫の針を一定のリズムで動かし始めた。
「お母さま、お願いだからベッドに戻ってください。決まって夜になると症状が悪くなるじゃないですか。続きなら明日聞きますから――聞いていて楽しい話ではないけど――」エレンは首を小さく横に振って続けた。
「そうならない為に、早く結婚してほしいのですよ。宝石のように可愛い貴方の指がボロボロになったり、薄汚れたドレスを着ている所を見たいわけではありませんから。本当に、いつまでもあなたのことを見守っていられればいいのに」
 暖炉の火がぱちぱちと音を立てて弾け、揺らめく炎はエレンの青白い顔を照らし顔に濃い影を与えた。
 エレンが体調を崩してから半年になる。ダーシー医者はすぐに治るといっていたが、エレンの病状は良くなる兆しが見えなかった。それどころか、日に日に悪化しているような気さえする。それは本人であるエレンがよくわかっていた。エレンはアメリアに向き直り愛おしそうにその髪を撫で、相変わらず優しい口調で静かに告げた。
「可愛いアメリア。貴方は本当にわたくしにとっての宝物です。貴方の成長が見られないと思うと、残念ですけど……本当に、残念ですけどきっとわたくしはもう先が長くありません」
 心臓をギュッと握り潰されたような衝撃だった。一瞬言葉を失ったが、エレンの言葉をかき消すようにアメリアは声を大きくして返した。まるでこの言葉を聞きつけて本当に誰かが母の命を奪っていくように思えたのだ。
「縁起でもない! そんなこと、そんなこと絶対あり得ないわ!」
「自分のことだからよくわかるんですよ」
「そんなことないわ。だとしたら勘違いしてるのよ。だって、だってそんなはずないじゃない。お母さまだって一度も風邪をひかれたこともないし、初めて風邪にかかったから少し弱ってるだけよ! お母さまよりも何倍も身体の弱いベネット夫人はぴんぴんしてるし、お母さまが先に死ぬなんておかしいわ!」
 声を荒らげるアメリアに対してエレンは冷静なもので、その声色は泣きわめく幼子をあやすみたいに優しかった。アメリアにはどうしてこうも母が冷静沈着でいられるのか理解できなかった。
「人はいつか天に召されるものです。その順番は神しかわかりませんよ」
「でもそれは今じゃないわよ。絶対に!」母の声は穏やかなのに、アメリアの声よりもよっぽど影響力を持って聞こえた。ともすれば、神がそれを聞いて思い出したかのように病を悪化させてしまいそうだった。思考が止まって泣き出してしまいそうだったが、母のぬくもりが辛うじてそれを防いでいた。アメリアは母の肩に頭をもたげてしばらく考え込んだ。
 母の病気が治らない理由も、エレンが療養に専念しないからだろう。そしてどうして専念しないのかといえば――単に動いていないと不安になるというのもあったが――その理由の大半はアメリアが引き起こす諸々のトラブルに対応するためなのだ。アメリアが、例えばメアリーみたいに人畜無害ならエレンもここまで心配しなかっただろう。
 アメリアはそこではたと今日の夜の事を思い出した。ベネット家の前、馬車から降りようとしないジョージアナとソフィーの会話だ。あまりにも舞踏会が嫌で体調が悪くなったと訴えたときに力説していた言葉が急に脳裏に呼び起こされた。
「心が身体に影響を与えることもある……」そう思うと、なんだか急に母の首に手をかけているのは自分なのではないかという恐怖が全身を襲った。少なくともいい影響を与えている自信はない。それどころかアメリアの行いは毎回母を眠れなくなるくらいには悩ませているのだから。顔を真っ青にさせて、二の句を告げないアメリアの頬をエレンは相変わらず優しく撫でていた。
「こんなに優しいお母さまが死んでしまうなんて。そんなの絶対に間違っているわ。そんなの、絶対にだめよ。ましてや、わたしのせいでなんて――考えただけでもおかしくなりそう! そんなこと絶対許されないわ。たとえ神の意志だとしてもわたしは認めないんだから。お母さまが認めているとしてもよ」どんな事柄も、それに比べれば遥かにマシに思えた。そんなわけでアメリアの心は案外あっさりと決まった。
「わかったわ。お母さま、わたし、結婚します」
 その言葉に驚きエレンは細く息を吸い込み、その衝撃でまた発作のような咳が出た。なにか言葉を紡ぎたいらしかったが、咳に邪魔されて殆ど言葉にならない。やっと落ち着いたのは数分が経った頃だった。エレンは不安そうにアメリアの事を見た。どうして急に心変わりしたのかまるで理解できないという風だった。
「お母さまの気苦労を少しでも減らしたいのよ。きっとそうすれば、身体もよくなります。そうじゃなきゃ困るもの。お願いですからお体を大事にして! 死ぬなんて、ああ、本当に、そんな縁起でもないこと言わないで! わたし、良い子にしますから!」
 アメリアは殆どすがりつくようにそう言った。とにかく、大好きな母がいなくなるというのは何にも代えがたいことだった。それが結婚ごときでどうにかなるのなら喜んで結婚する。神に祈るくらいでどうにかなるなら、喜んでそうしよう。エレンはその説明を聞いても驚きすぎて声がでなかった。しかしアメリアの目が本気なのを見て、少し元気になったみたいだった。相変わらず優しく笑って、アメリアの頭を優しく撫でた。
「本当にそうしてくれるならわたくしも少しは安心できますね」エレンはまるで信用していないようだったが、アメリアは心の底から本気だった。
「もちろんですとも! ええ、もちろんですとも! 結婚もするし、お祈りもします。悪いこともしないと誓います! だから、お願いだからお母さまも無理しないでください」
 エレンはアメリアの頬におやすみのキスをした。
「もちろんですよ。さぁ、もう寝なさい」

第四章 二話

 
 扉を閉めて廊下へ出ると急に冬の寒さが身にしみた。それと同時にアメリアは途端に不安でしょうがなくなってきた。母の様子もそうだったし、何より成り行きで口走ってしまったが、結婚というのはアメリアにとって恐怖でしかなかった。不幸な結婚話なんて町に出れば山のように転がっていた。愛し合っていようと、打算的な結婚であろうと、結婚生活が上手くいくかなんて運次第だ。結婚すれば何もかも変わるのは男も女も一緒なのだ。誰だって幸せになりたいとは思うものの、その大半は上手くいかない。むしろ、幸せになりたいと強く願えば願う程不幸のどん底に転がり落ちていくものなのだ。
 それにアメリアにとって更に悪いことは舞踏会の花形で居られなくなるということだ。ついさっきまでは、あんな壁際でコソコソと悪口を言い合う夫人の仲間になんて絶対なるものかと誓ったのに、たった数時間でこんなことになるとは思いもしなかった。それにあのダサいドレスを着て、声を潜めて若い娘を非難しないといけないなんて。想像しただけで気分が重くなる。それだけで結婚は最悪も最悪だ。その上今日みたいに美貌を振りまいて紳士たちを惑わすこともできなくなる。
 嫌な事は山のようにある。パッとしない藤色のドレスも、貴婦人たちと顔を突き合わせていう悪口も、結婚生活への不安も、その何もかもが恐怖でしかなかった。人生の幸せな面しか目に入らないアメリアの背後に薄暗い闇が迫っているのを確かに感じていた。とはいえどんな闇も母の命には代えがたい。
 アメリアは自室に戻る前にジョージアナの部屋に向かった。無意識的に、この不安をどうにかしてくれる存在を求めていたのだろう。ジョージアナは既に服を着替えていて、ベッドの上に腰掛けて本を読んでいた。傍らには読み終わったらしい解剖学の本が置いてある。よく部屋にそんな冒涜的なものを持ち込めるものね、とうんざりした気持ちになった。
「何の用?」
 ジョージアナは顔も向けずに問いかけた。こちらの存在に気がついているだけまだマシで、全く気がついていないこともザラだった。アメリアはジョージアナの隣に腰掛けた。ベッドがギイと音を立てて軋んだ。ジョージアナは相変わらず本から視線をあげようとはせず、黙って読書を続けている。少し覗き込んで読んでみようかと思ったが、細かい字で良くわからない事をいっていたので十文字読んだあたりで嫌になって、さっさと用件を切り出すことにした。
「報告があって」ジョージアナは本を閉じて、不思議そうにアメリアの事をみつめた。
「わたし、結婚することにしたわ」
「へぇ、そう。どちら様と?」
「まだ決めてないけど、誰かと」
「いつ?」
「相手も決まってないのに決まってる訳ないじゃない。でも出来るだけ早く」
「どうして?」
「言いたくない」ジョージアナは不思議そうにアメリアの瞳を見つめた。しかしアメリアは隠し事ができない性質だったのでジョージアナはすぐにその理由に思い当たったらしい。息を飲み、目を見開く。
「お母さまからなにか聞いたの? 聞いたのね?」ジョージアナは真っ青な顔をしてベッドから立ち上がると落ち着かなそうに部屋中を歩き回った。アメリアはきょとんとした顔をしながらジョージアナに質問した。
「知っていたの?」
「知っていたもなにも、見れば分かるじゃない。使用人だってみんなほとんどその話題ばっかりだったわ。でも別にいいのよ。何人心配しようと結局何も変わらないんだから。重要なのは、そんな能天気な姉さまにお母さまが伝えたっていう事実よ。本当に、いよいよ最期が近いんだわ……」何かに突き動かされるように、ジョージアナは部屋の中をさまよった。何度か椅子や机にぶつかっていたがそれも気にならない様子だった。机の上の本を手にとって、パラパラと開いて、何かを思い至ったみたいに乱雑に机の上に戻す。引き出しの中から便箋を取り出したり、とにかく落ち着きがなかった。顔は真っ青だし寒くもないのに身体がかたがたと震えていた。ジョージアナはしばらく黙りこくって、決意を固めたらしく大きく頷いた。
「やっぱりロンドンのお医者さまに診てもらうべきだわ。今ならまだ間に合うかもしれない。あれは絶対風邪なんかじゃないわよ。お母さまだって、今回こそはきっと了承してくれるわ」
 ロンドンの名医にかかるべきだとジョージアナは初期の頃からずっと主張し続けていたが、それは他ならぬエレンの反対で実現していなかった。エレンはかかりつけの医師であるダーシーを信頼していたし、何より何度も世話になっているのに他の医師を頼ることは不義理に思えて仕方がなかった。ダーシーが平気だという以上、それを信じるより他にはなかった。それに、金銭的な問題もあった。スレイター家はタウンハウスを持っていないので、ホテルをとるかどこかの家を借りる必要があった。それから名医を雇うための金銭にしたってスレイター家の悩みの種だ。もし仮に、〈ネザーブルック〉まで来てもらうにしても、移動費も宿泊費も食費も当然スレイター家が持つことになる。残念ながら、ベネット家のように裕福ではないのでそれは最終手段だ。
 しかし、先程の絶望に比べればこの場はなんと希望に満ち溢れていることだろう。アメリアが絶望し打ちのめされたのに対して、妹はこんなにも賢明に希望を模索している。
「きっと初期の肺炎よ……全部あのヤブ医者が悪いんだわ。効きもしない薬ばかり持ってきて、お母さまを殺そうとしているのよ……!」
「ちょっと、落ち着きなさいよ。ジョージアナ! それは考えすぎだわ。あの人だって、まぁ無能ではあるかもしれないけど、お母さまを殺そうとするはずないじゃない」
「だとしたら本当にあの人は無能が過ぎるわ。どちらにせよお母さまを任せておけない!」
 アメリアはダーシー医師がそこまで悪い医者だとは考えていなかった。今まで生きてきた中でも何度も助けてもらっている。とはいえ確かにアメリアの贔屓目を持ってしてもいまいちパッとしない医者ではあった。ジョージアナは医者のせいだと断定しているようだったが、アメリアの意見では心労のほうが祟っている気がする。しかし、ジョージアナの言うことも尤もだと理解していた。
「それでどうするつもり?」
「紹介状を貰わないと。あのヤブ医者が簡単に認めるわけないけど……だって無能ほど自分を強く見せたがるもの」
「ならそれはわたしがやってあげる。わたしはダーシー先生はよくやってると思うけど……、ジョージアナがそう言うのなら手伝うわ」
 ジョージアナはまるで聞いていないみたいだった。ブツブツと何かを小声で呟きながら作戦を練っているらしい。よくわからないが、自分よりもよっぽどよく回る頭を持っていることはわかっていたので放っておいた。それよりもアメリアはダーシー医師をどうやって言いくるめようかとワクワクしながら考えを巡らせた。頭の固い人を言いくるめるのは楽しいし、それが母の命に繋がるのかもしれないのだから気合いも入ると言うものだ。
 アメリアが自室に戻るときにはもうさっき感じた不安や恐怖もどこかに行ってしまっていた。良くも悪くも影響されやすいアメリアは、ジョージアナの気丈さに当てられてすっかり元気を取り戻した。元気になれば思考も明るくなるもので、さっきは悲観的な想像しか湧かなかった結婚生活も多少は光明が差していた。
「わたしが男性関係で失敗するなんて思えないし、きっと結婚生活もうまくいくわよ! 問題は誰にしようかってことだけど――正直誰だって変わらないわ。お母さまを安心させたいって言うのが目的なんだから。そうだわ。次、わたしに会いに来てくれた人と結婚しよう! 嫌になったらまたいつもみたいにお別れすればいいしね」なんて適当に考えて、アメリアは楽しそうな未来を夢想してみた。そこには当然のようにエレンもいて、この家は未来永劫スレイター家のもので、アメリアはいつまでも可愛いお嬢さんだった。ジョージアナが考えた計画に失敗なんてあり得ないし、あの頑固な医者から紹介状をもぎ取れないなんて未来もなかった。
 

 次の日、お昼を過ぎるといつものようにダーシー医師がやってきた。週に一回の定期的な検診のようなものだが、ここのところは毎回言うことは同じで「しっかり療養しなされ」「それから、薬を忘れずに飲むこと」「なあに、来週にはカラッと元気になっておるわい」と言うのがお決まりだった。それに対するエレンの返答もお決まりで「本当にありがとうございます」「そう言って頂けると元気も湧いてきますね」「どうぞお茶でも。人が多い方がわたくしも元気が出ますから」というのが一連の流れだ。これはもはや流れ作業でその言葉にもなんら意味がなくなっていた。
 アメリアは椅子に腰掛けながらにこやかにそのやりとりを見つめていた。その隣には珍しくジョージアナが座っている。手芸道具は膝の上にあるものの、手は全く動いていない。厳しい目つきでダーシー医師を観察していた。ブロンドの髪に混じる白い髪の本数すら数え上げてしまいそうな勢いだ。
 ダーシー医師は六十代半ばの医者で、富の象徴かでっぷりと太っている。そのため手も赤子みたいにふっくらとしていて、紙に包まれた薬を渡す時なんて掴むために何回もつまみ上げなければならない。立派な口髭と顎髭、頬髭が顔ほとんど覆っている。若い頃はさぞハンサムでやんちゃをしたのだろうが、今ではその剛健さもほとんど失われていかにもパッとしないと思わせる何かだけがあった。それが流行遅れで体格にもあっていない服のせいなのか、それとも本人の偏屈な性質のせいなのかはわからない。ただ、肥大化した自尊心と虚栄心だけはアメリアでも簡単に見てとることができた。外科医なのに内科医の真似事をしたり、来週には治ると豪語したりするのもその辺が起因しているのだろう。
 エレンは先が長くないという割には、それをダーシー医師に言うつもりはないらしく、いつもと寸分違わないやりとりが行われた。ジョージアナは今にでもダーシーを糾弾してやりたい気持ちでいっぱいいっぱいだったが、なんとかそれを抑えていた。
「自分を殺そうとする悪魔にお礼をいうなんて、お母さまもどうかしてるわ」ジョージアナは小さくそう呟いて、応接間から母親を連れ出した。話し相手を失ったダーシー医師はアメリアに視線を向けた。アメリアの企みなんてこれっぽっちも気がついていないようだった。
「こんにちは、ダーシー先生」いつも通り可愛らしく挨拶して、アメリアはダーシーに近づいた。アメリアが男性に対して人懐っこいのはいつものことだが、今日は特にそれが顕著に思われた。ここのところ毎晩のようにこの医者から紹介状をもぎ取るための算段を考えてはみたものの、アメリアの頭では策を弄するなんてこともできなかった。そういうわけで、アメリアはいつものことながら正々堂々と真っ向からねだることにしたのだった。
 ありがたいことにも、ダーシー医師は自尊心と虚栄心の塊のような人間だったので先のことはさっぱり分からないながらも、とりあえずアメリアは彼の自尊心を満たしてやることにした。とりあえずは相手の気分を良くすればそのうちとっかかりも見つかるだろうという、ジョージアナが知ったら溜息をつきそうな荒い策略だ。ただし、アメリアがこの手法で数々の手柄をたててきたのは言うまでもない。
 ダーシー医師は少しドキッとして、自分が四十歳ほど若返ったような気持ちになった。しかし、長い人生の中で女には何度かひどい目にあわされてきたのですぐに疑心が心の中に湧き上がった。
「今日は随分と大胆ですな。そういう相手は何かしら裏があるというものですが……さて、次はどんな悪戯を思いついたんでしょうかな」アメリアは隠すこともなく、あどけないともいえる笑みを浮かべながら答えた。
「今日は悪戯じゃありませんわ。紹介状が欲しいんです。ロンドンのお医者さまの」
 当然アメリアの言葉にダーシーは良い顔をしなかった。何せ自分でもエレンの病状がこれっぽっちも良くならないのを分かっているが故に、そういった話題には一際敏感になっていた。ダーシー医師は顔をしかめて、軽く怒気のようなものを含んだ声で話し始めた。
「つまり、ミス・スレイターはわたしでは役不足だと仰っしゃりたいのですかね」
「え? まさか、そんな訳ないじゃありませんか。ご冗談がお上手ですこと!」アメリアはクスクスと笑ってみせた。その笑い方が余りにも子供らしく無邪気なので、ダーシー医師も自分の早とちりだったのかと首を傾げるほどだ。「ダーシー先生ほど患者に一生懸命で、知識に富んだ方はわたくし、他に知りませんもの。本当にお母さまを診てくださるお医者さまがダーシー先生で良かったって思っていますわ」
「それなら一体どうしてです?」不思議そうに首を傾げるダーシー先生にアメリアは魅惑的に微笑んで、声を小さくした。
「これはまだ誰にも言っていないんですが、もちろん秘密にしていただけますよね? わたし、実は結婚することに決めたんです! だって最近この辺では婚約が一大ブームみたいですし。それで、当然結婚式のドレスは真っ白で、トレーンが三ヤードもあるようなあるようなものがいいし、装飾も沢山欲しいし――それに、結婚式は絶対にロンドンのセント・マーガレット教会で挙げると決めていましたから、お母さまをロンドンに連れて行きたくて」
「病人をロンドンまで連れ回すのは感心しませんなぁ。式を挙げるのなんてどこだって大差ないでしょう。重要なのは神に誓うというところなのですから」
「そういうのって男性の視点です。男の方にとってはどうでもいいことかもしれませんけど、淑女にとってはとても大切なことなんですよ! ウェストミンスターは譲るつもりはありませんもの! でも馬車に揺られるだけでとんでもないことになるってわけでもないですよね?」
「まぁ、それはそうでしょうが……」何せダーシー医師にも原因の分からない病だったので、言葉尻は曖昧だった。
「もし向こうで何かあったらと思うと少し不安なのです……本当はダーシー先生にいらっしゃってほしいのですけど、何せお医者さまっていうのはお忙しい職業でしょう? 特にダーシー先生みたいな素敵なお医者さまなら尚更のことですわ。ですから、当日お越しになれないということもあり得ると思って。だから万が一に備えて、向こうにもお母さまを診てくれるお医者さまが欲しいのです」
 ダーシー医師は顎髭に手をあてて考え込むような演技をしてみせた。考え込むような姿勢をみせては居たものの、ほとんど心は決まっていた。何しろ、本人の肥大化したプライドが許さないだけで本当はダーシー医師もエレンの症状には本当にお手上げだったので早いところ理由を付けて他の医者に回してしまいたい気持ちがあったのだ。そこにきてこの話は渡りに船だった。アメリアはそんな気持ちにはこれっぽっちも気がついていなかったが、当然引くわけにもいかないのでダメ押しした。
「どうかお願いします。どうしてもロンドンで式を挙げたいんです。お医者さまのお許しさえあれば、わたしはこの国で一番幸せな花嫁になれますわ」アメリアは目に涙を浮かべながら必死に頼み込んだ。
「そうですなぁ……スレイター夫人本人が了承するのなら、そうしましょう」アメリアはパッと笑顔になった。医者も思わず見惚れて、初めからこの笑顔のために話していたかのような錯覚すら抱いたほどだ。
「それにしたって、ミス・スレイターと結婚する幸運なお方はどちらさまで? わたしはてっきり、あと数年はこのお屋敷に留まっておられると思っていましたがね」
 そのとき丁度外から馬の蹄の音がして、アメリアは跳ねるように窓に近づき窓を開け放った。吹き込む風に目を細めた。心は小さく高揚して酒を呷ったみたいに全身に火がついている。頭の中には今までの大勢の恋人の顔が思い起こされ、期待と緊張が体を走る。一体誰だろう? 素敵な人だといいんだけど――アメリアは目を凝らして、自分に選ばれることになる幸運なその人を眺めた。
 アメリアは口元に柔らかい笑みを湛え、くるりと医者に向き直って答えた。
「リック・アボットになりました」

第五章 一話

 このタイミングでリック・アボットが家にやってくるというのはなんとも不思議で、アメリアは応接間に緊張しながら入ってきたリックを見ながら一人で首を傾げた。何しろリックはアメリアに憧れてはいるものの、その気弱さから二人きりで会うなんて思いつきもしないような男なのだ。だからこそ、この大切なタイミングでリックがやってきたという数奇な事実には天の導きを感じざるを得なかった。そう考えれば存外悪い気もしないのが不思議だ。
 医者はリックの事を上から下まで品定めするようにじっくりと見つめた。「まさか自分が選ばれると思っていたわけではないが、なるほど。ミス・スレイターはこういうお方が好きなのか……わたしもあと何十年か若ければ良い戦いが出来たかもしれないが。それにしたって……」と、医者は目をぎょろつかせながらリックのことを観察した。
 ラッフルシャツの糊は取れかけでどことなく縒れていたし、クリーム色の布地はどことなく清潔感に欠ける。茶色のコートは本人の体格よりも大きめで、至る所に不格好な皺を作っていたし、何よりその色味が肌の色とあっておらずただでさえ薄ぼんやりとしたリックの印象を更に悪くしているように思えた。極めつけにクラバットの結び目は本来あるべき体の中心をすっかり離れ、首の側面にまで回ってしまっている。
 医者はひとしきりリックを観察してから、「ミス・スレイターは男を見る目がない」とやりきれない気持ちを抱いた。こうして外見を眺める分には褒められる点なんて何一つ見つからないし、どことなく人を苛立たせるおどおどした態度を見ている限り内面を知ったところでその評価が覆りそうにもない。
 観察を続ければ続けるほど、目の前のリック・アボットという男が医者にはいかにも矮小で頼りないような気がして、一体この男のどこに惹かれたのだろう、と医者の首はどんどん斜めになっていき最終的には床と平行になった。ダーシー医師の観察はどんどんと露骨になったが、その不躾な視線にもリックはまるで気がつかずに予期せぬ先客がいたことにおろおろして、視線をあちこちに移動させては自分の間の悪さを呪い続けた。
「どうも初めまして。医者のダーシー・スワンと申します」
「初めまして……ミス・スレイターの友人のリック・アボットです」
 医者は”友人”という言葉に引っかかったみたいだが、何も知らないリックはただ首を傾げるだけだった。この幸運な――もしくは哀れな――男はまさか自分がアメリアの恋人候補に選ばれているなど露程も思っていないのだ。それどころか今日だって、本人の卑屈な性格のせいで追い返されるのではないかと家を出るのに二時間は悩んだくらいなのだから。
 ただ、それは杞憂もいいところで、実際にはアメリアはエレンと同じく客人をもてなすのが大好きだったので、たとえその人がどんな醜男であろうと喜んで歓迎しただろう。
「誰か病人がいるのですか?」
「お母さまのお体が悪いのよ……、随分長いことお医者さまのお世話になっているけど、これっぽっちもよくならないし」
 医者に対する質問だったのだが、それをアメリアが答えたことでリックはすっかり狼狽えて、何を答えるべきかわからなくなってしまった。リックは救いを求めてダーシー医師のことを弱々しい目で見つめてみたが、医者は医者で何やら苦い顔をしていた。
 医者は毎週のようにエレンを診察していたが、実際のところそれはちょっとしたパフォーマンスに過ぎない。既に決まっている台本をエレンと二人で読み、そのあとに先週と同じ薬――喉の炎症を抑えたり、調子を整えたりするようなものばかりで病気そのものをどうにかするものではない――を処方する。この一連の台本の中で医学的知識が活躍する場面は特になく、エレンの病状が悪化しようと好転しようと何が変わる訳でもない。そもそも外科医である医者にはエレンがどういう病気を患っているのか見当もついていないのだから。もしかすればエレンの病状が変化するたびに誰よりも怯えていたのはこの医者かもしれない。
 自分が医者として役立たずなことは誰よりもわかっているからこそ、ダーシーは先ほどのアメリアの言葉に自分の無能さを看破されたような気持ちになった。その上、隣の未来ある恋人に嘲笑されるのではないかと思うとゾッとして医者は慌てて口を開いた。
「なぁに、心配ありませんよ。すぐにどこへだって連れていけるくらい良くなりますからな。まったく淑女方は感じやすくて困る。それでは、わたしはこの辺で失礼させて頂きます。それでは、スレイター夫人によろしくお伝えください」
 医者は口早に告げると帽子を手に取り、そそくさとその場を後にした。リックは捨てられた子犬のような目をして、ますます挙動不審になり、しきりに応接間に置かれた調度品や肖像画に絶え間なく視線を送った。いつだってアメリアと二人きりになりたいという気持ちはあったが実際にその機会が与えられると、途端に怖気付いて逃げ出したくなるのはいつものことだ。それにアメリアがずっと自分に視線を向けていることもリックにとっては不可解でならない。アメリアに関わらず、リックにとって女性というのは理解不能の謎多き生命体なのだ。
 アメリアはくすくすと含み笑いを浮かべた。それだけでリックの心臓は撃ち抜かれて身動きが取れなくなる。
「リックったら、もしかして、相当急いできたのかしら。クラバットが曲がってるわよ」アメリアはリックのクラバットに手を伸ばし、それをあるべき場所へと戻した。あまりにも近くて、リックの心臓は火がついたように脈動を早めた。ガラス玉のような瞳は相変わらず美しく、唇はいかにも柔らかそうに見える。小馬鹿にして笑いながらも愛しい人を見るようなその視線は生まれて初めて受けるものだった。この素敵な女性に気に入られていると思うと、心は浮足立って珍しくリックの心は誇らしさでいっぱいになった。それと同時に少しだけ勇気を出してアメリアをつねってみたいような気がした。そういうちょっとした悪戯の応酬はリックにとって密かな憧れだったのだ。それでも悩んでいる内にアメリアは蝶のように軽やかに離れていってしまい、振り絞ろうとした勇気はどこかへと霧散した。
「あの……スレイター夫人のことですが、早く治るといいですね」
「そうね。でも、わたし心配なんてしてないわ。お母さまが病気なんかに負けるわけないもの」
 アメリアは天使の微笑みを浮かべた。計画は全て順風満帆に進んでいる。それに何よりアメリアはもともと楽観的で前向きな性格の持ち主だったので、今では対して不安にも思っていなかった。先が長くないと告げられた時は動揺して言葉も出なかったが、もし今あの場面に戻ったのならエレンに毅然ともっともらしい理論を突きつけてその宣言を撤廃させることすらできるような気がした。
「ところで今日はどういったご用なのかしら」アメリアが笑顔で問いかけると、リックはハッとした。
「実は、グランドツアーのお土産を渡しに来たんです」
「まあ、それを口実に会いに来てくださったのね?」アメリアは下からリックの瞳を覗き込むようにして、愛らしく笑ってみせた。その表情にリックはたじろぎ、声がでなくなる。「リックって分かりやすくて面白いわ。グランドツアーで少しは耐性ができたかと思ったけど、そういうわけではなさそうね。エドガーなんてまるっきり別人ってくらい垢抜けて帰ってきたのに。別にどっちが良いって訳じゃないけど……」
 リックはアメリアに揶揄われて小恥ずかしいやら腹立たしいやら。しまいにはドキドキしすぎて気分が悪くなってきてしまい、とりあえず目的だけ果たして早く帰ろうと決意した。もちろんこの場の女王であるアメリアがそんなこと許す筈もないのだが……リックはアメリアと頑なに目を合わせなかったのでアメリアの目が好戦的にきらついていることにも気がついていなかった。「帰りたいみたいだけど、今日は求婚して頂くまで帰らせるわけにはいかないものね」アメリアの目はさながら腹をすかせた動物のようだ。
 リックはぎこちない手つきでコートから詩集を取り出してアメリアに差し出した。
 非常に残念なことにアメリアは淑女ではなかったので、自分の感情を隠してにこにこするなんてことはできなかった。アメリアはそれを受け取ると、本当につまらなそうな顔をした。アメリアのお気に召していないのを見て、リックは慌てて口を開く。慌てすぎて何をいうべきか考えずに話し始めてしまったので、言葉は酷くぎこちなくでまごついていた。
「これは、その。向こうの……淑女たちの人気の品なんですよ。僕は、内容までは知りませんけど……」
「ふうん。そうなの? ありがとう。とっても嬉しいわ」そういいながらアメリアはその詩集を軽く安楽椅子の上に投げた。堂々とした犯行だったが、リックはアメリアの上辺だけの言葉に安心してこれっぽっちも気がついていない様子だ。
 紳士から淑女への贈り物としてありがちなのは詩集や美しい花なんかだったが、アメリアはそのどちらも対して嬉しいとは感じなかった。詩集を贈られても書斎に飾られるだけなのはいうまでもないし、だからといって花を貰ってもどう愛でればいいのか良くわからない。それと同じくらいポピュラーな贈り物として裁縫道具も貰ったことがあったが、結局二、三回使って引き出しの奥深くにしまい込んでしまった。
 アメリアが真に欲しいと願っているのは、大ぶりの宝石が使われているジュエリーだとか、アンナが身に纏っているようなパリの最先端のドレスだとかそういうものだ。それ以外の全ての物はアメリアにとって等しく無価値で退屈で視界に入れるのも飽き飽きしてしまう。
 とはいえ、実際にリックがその足りない感性をどうにかこうにか振り絞って、アメリアに似合うドレスを贈ったとしてもアメリアにはそれを受け取ることなんて出来ないのだ。
「いいですか、アメリア。これは淑女として当然の嗜みですが男性から肌に身につけるものを貰ってはなりません。それから高級なものもです」とエレンは度々アメリアに言い聞かせたものだ。もっとも、実際に目の前に綺麗なドレスを出されたら食いつかずにはいられなかっただろうが。幸いなことにもアメリアに贈り物をする紳士たちは淑女がそういった類のものを受け取れないということを知っていたので、歯痒い思いをする必要もなかった。そんなわけで大抵の贈り物はアメリアの琴線に触れることはなかった。特に詩集なんてその最たる例だ。そして一番貰う頻度が高いものでもある。
「それにしたって男の方って一体どういう意図で詩集なんて贈るのかしらね。詩なんて読んだってわたしの心が動かされるはずないのに。だって文字の羅列だもの」
 とりあえず、受け取ってもらえたことにリックは安堵して肩の荷を下ろした。しかし、目的を達成してしまったので今度は何を話せばいいのか分からなくなってしまい、まごまごと口を動かしている。何か話題を振らなければと思うものの適切な話題を見つけられないらしい。リックの視界はあっちこっちに動き、アメリアはそんなリックをまじまじと見つめた。
 昨日は何の気もなしに接していたというのに、まさか一夜明けただけでこれほど人生において重要な意味を持つ人物になろうとは思わなかった。確か最後に会ったのは五年前だったが、印象はほとんど変わっていない。相変わらず、愚鈍で間抜けそうな顔つきはそのままだし、身長はある程度伸びたようだったが、骨格的に脚が短いからかあまりそういう印象も感じない。冷静になればなるほど、自分の結婚相手としては相応しくないと思うのに、結婚という二文字を意識すると心臓が微かにざわつくのが気がかりだった。それに、この神がかったタイミングでリックがやってきたというのもアメリアにとっては無視し難い事象だった。神なんてろくに信じていないのに、変な所でロマンチストなのだ。
「でも、とにかく……愛の告白を聞いてみないことには話にならないわ。きっとその段になればわたしもこの人と結ばれたほうがいいのかはっきりわかるはずよ」アメリアはあのつまらない贈り物のことはすっかり頭の隅に追いやって、機嫌のいい笑みを浮かべた。愛の告白を引き出すなんて彼女にとってはあの詩集を読み終えるよりもよっぽど簡単な話なのだ。
「五年も会わないとまるで別人みたいね。昨日も言ったけど、明るいところで見るともっと顕著だわ。五年前は散々一緒に悪戯をしたっていうのに、グランドツアーから戻ってくるとみんな大人の男性って感じになるんだから。なんだか置いていかれた気分」
「多くの人はそうかもしれませんが……」
 リックは最初こそ揶揄われているのだと懐疑心を抱いたが、否定してもあの手この手で褒めてくるので最終的にはそのお世辞をまるまる信じ込んだ。それどころか、これほど褒めてくるのだからきっと自分に気があるのだとすら思い始める始末だった。グランドツアーから帰ってきてもリックはアメリアにとって相変わらず良い玩具だった。こうもわかりやすく手の平の上で踊ってくれるとアメリアも楽しくなったし、もっとその勘違いを加速してやりたくなる。
「本当に驚いちゃった。きっと向こうの空気には人を成長させる成分が含まれているのね。それか、向こうの歴史とか芸術とかがそうさせるのかもしれないけど。なんだかすごく知的になったみたいだもの。ねぇ、まさか今すぐ帰らないといけないっていうわけでもないんでしょう? 折角だからわたしにもお話を聞かせて欲しいわ」
「きっとつまらないと思いますよ」
「あら、それは聞いてみないとわからないじゃない。いいからお話になって? それともわたしとお話するよりも優先したいことがあるの? だったら――」
「まさか! こうして、お家にお邪魔させて頂けるだけでも本当に光栄です。その、うまく話せる自信はありませんが、是非お話させてください。きっと退屈はさせませんから」
 アメリアは小さく肩を竦めた。「きっと退屈な話になるわね。男の人の話って口説かれる時以外は対して面白くないものだもの……まぁ、いいわ。それで気分が良くなるっていうなら黙って聞くぐらいの分別はあるもの」
 最初はまごついていたリックだが、アメリアのあまりにも華麗で気前のいい相槌にどんどん乗せられ、アルコールでも入っているみたいに饒舌になって話を聞かせた。アメリアはどんなつまらない話でもにこやかに聞いて、所々で質問したり大袈裟なリアクションを取ることができるというたるい稀な特技があったので、リックはいよいよ本当に自分が生まれ変わったような気がした。女性を前にこれほど上手く話せたことは初めてだったからだ。それどころか家族を前にしても壁に向かって話してもこれほどうまく話せたことはないだろう。
 アメリアは予想通り退屈していた。リックはアメリアに特に向こうの文化や暮らし方について熱く語ったが、アメリアにとってそんなことはどうでもいいのだ。知りたいことは単純明快で、向こうではどんなドレスが流行っていて、どんな髪型で、どんな素敵な舞踏会を開いているのか。アメリアの興味はこれに尽きる。
「ただ、リックからこの話を聞き出すのは無理でしょうね。どうせ舞踏会にもろくに参加していないに決まってるもの。毎週のように参加していればもっと女心っていうのがわかっても良いはずじゃない? でも、もしかしたらパリの話は聞けるかも。この際、パリの文化史でもかまわないわ。いい加減名前も知らない街の話を聞くのもうんざりだもの」そこでアメリアは少し考えて話に割って入った。丁度リックがヴェネツィアの文化史について語り始める時だった。
「パリにも行った?」
「ええ。もちろん。それでヴェネツィアでは驚くべきことに――」
「その話はもう飽き飽き。それよりもパリの話が聞きたいわ」
 リックはしばらく黙って卑屈な気持ちになったが、アメリアと話して気分が上がっていたのでその気持ちもすぐにどこかへ消えてしまった。それどころか、この失態を取り戻すべくもっと饒舌になりそうな気がした。
「淑女はパリに目がないですね。エマにも同じようなことを聞かれましたよ。もちろん、パリにも行きました。ただ、高慢ちきな女ばかりでうんざりでしたね。女性にかけては我が国の淑女たちのほうがよっぽど美しいし立派です。五年間で本当に色々な場所を巡りましたが――」リックはごくりと唾を飲んだ。ここで一旦失った(と本人は思っているが実際は存在しない)好意を取り戻そうと思ったのだ。
「五年間で本当に色々な場所を巡りましたが、それでもあなた以上に美しい方はお見かけしませんでしたよ」
「まぁ! ご冗談がお上手で」くだらない文化史を延々と聞かされるよりはよっぽど楽しい話題になった。と、アメリアは可愛らしい笑みを浮かべた。リックは段々大胆になってきて、すかさず口を開いた。
「いや、これは冗談ではありません」抑揚の変化だけで、アメリアはこの先に愛の告白が待っていると察知してアメリアは今日一番の集中を見せてリックの言葉を待った。「本当に、僕がこの五年間どれほど貴方を焦がれてきたことか」熱い言葉の最中に不意に手が触れて、リックは慌てて手を引っ込めた。そして自分が言った言葉の数々を思い出し、恥ずかしくなって何も喋れなくなった。アメリアの魔法が解けていつものパッとしない自分に戻っていくのを感じた。アメリアはきっとけたけたと笑うだろうと思ったのだが、今回ばかりはそんな様子も見られなかった。
「本当に?」アメリアはそっとリックの瞳を覗き込んでいた。リックがいかに女慣れしていないとはいえ、ここで目を逸らしてはいけないということだけはわかった。そのためリックはありったけの勇気を振り絞って、アメリアのキラキラと輝く瞳を見つめ返した。その真剣である種の気迫のある表情を見ていると、なんだか脈が微かに速まったような幻想を抱いた。「ああ、どうしよう! まさかこんなに真剣な表情をされるとは思わなかったわ。それに、この心臓の脈打ちはどういうわけなの? もしかしてわたし、本当にこの人のこと……好き、なの?」
 ”好き”という単語に呼応してアメリアは顔を真っ赤にしたが本人はそれを好意からくる赤面だと勘違いしてますます混乱の渦に沈んでいった。実際のところアメリアの抱いている感情といえば、思春期によくあるような自分の想いを素直に直視する気恥ずかしさだけだったが、本人はそれを知るには少し子供だった。

第五章 二話

 その反応に困惑して勘違いを起こしたのはリックも同じだった。何しろもう何百回と同じようなことを言っているのに、いつものアメリアと来たらどこ吹く風なのだから。それかもしくはとてつもなくからかわれるか。どちらにせよ、こんな反応は一度だってみたことがなかった。
 普段より口数が少なくて、困ったような恥ずかしそうな、そんな表情を浮かべるアメリアは普段とはまた違う魅力を放っていた。アメリアは自分の変化についていけずそれどころではなかったので、自分がどれほど魅力的に映っているかなんてまるで考えられなかったが、リックはあっという間にその魅力にのめり込んでいった。その上、謎の自信が身体中に漲っていて、普段ならできないことも軽々とできてしまう気がした。
「もっと近くに座ってもよろしいですか?」
「ええっと、……もちろん」
 リックはアメリアの隣に腰を下ろした。ドレスの裾を踏まれていたが、アメリアは自分の変化に混乱していてそれどころではなかった。
「今日は、なんだか……とても綺麗ですね。いつも以上に、ああ。本当に」リックは気の利いた口説き文句が出てこない自分に軽く苛立ったが、幸いにもアメリアの耳には殆ど何も届いていなかった。紳士たちを篭絡させる遊びにハマってはいたものの、その実アメリアはとても初心な生娘だった。そのため、この時アメリアはリックと結婚して、二人でキスするところを想像して頭が真っ白になっていた。
 この辺りまでくると、最初は半信半疑だったリックも本当に自分に惚れているのではないかと思ってもしかたのないことだろう。実際はアメリアはリックに惚れている訳ではなく、ただキスとかそういう抽象的な夫婦の営みに関して顔を赤くしていたのだが、そんなこと理解しろという方が酷というものだ。
 リックの方も普段なら気後れしてしまってもおかしくない状況だったが妙に乗り気だった。それはアメリアが先ほど献身的にリックのことを褒め称えていたからで、アメリアの芸術的なまでの褒め言葉の数々に乗せられて普段は小さく縮こまっている自尊心が大きく主張していた。「どうして急に僕に惚れたのかは分からないが、そんなことはどうでもいいさ。大切なのは、このチャンスを逃してはいけないということだ」リックは大胆にもアメリアの手を上からぎゅっと握った。それは痛いほどだったが、ちょうどその時、アメリアの脳内では熱烈に抱きしめられるという想像をしていたのでアメリアは実際に抱きしめられたような感覚に陥って金縛りにでもあったみたいに身体が動かせなくなった。
 手を払いのけられる訳でもなく、言葉が返ってくるわけでもなく、ただアメリアは顔を赤らめて硬直していた。そのためリックの勘違いはますます加速して、アメリアが自分に好意を抱いているという考えを確信した。どうしていいのか分からずに、ただひたすら視線を動かして、何かを言いたげにするアメリアは男の庇護欲と支配欲を存分に刺激したらしい。リックは存分に勇気を振り絞った。握った手に力が入ってアメリアは小さく顔を顰めた。
「アメリアさん、あなたは……まるで、女神みたいだ。あなたのその瞳で見つめられるだけで、僕は何でもできるような気持ちになります。まるでミノタウロスに立ち向かうテーセウスのように! アメリアは僕にとってアリアドネーみたいな存在で……」リックの声は尻すぼみで、最終的には応接間に静寂が訪れた。普段のアメリアであればこんな頓珍漢な求婚、最後まで聴き終わることもなく跳ね除けてけちょんけちょんに言っているところだったが、なにしろアメリアは冷静じゃなかった。
 未だに痛いぐらい握られた手だって普段ならさっさと振り払っているが、振り払えていないのは混乱していたからだ。普段の求婚は軽く跳ね除けてからかうための儀式のようなものだが、今回は訳が違う。
「つまり、その。僕と結婚して頂けませんか?」
 この言葉を聞いた時アメリアはドキドキして倒れそうになった。これは別にリックのことを知らず知らずのうちに愛していたとかではなく、まさしく恋に恋をしているような状態だった。アメリアは恋人とするキスやハグやその他一連の流れを想像して今までないくらいにドキドキして舞い上がっているのだ。さもなければリックにトラウマが一つ増えていたことだろう。
 そんなつもりも一切なかったのだが、リックの求婚に対してアメリアは一端の淑女らしく顔を真っ赤にして(尤も、告白される前から赤かったが)丁寧にそれを断った。動揺していたし、何より母の言葉を思い出したからだった。「淑女なら本当に好みの方から求婚されても、三回は断るべきです」という文言は耳にたこが出来るほど聞いて知らず知らずのうちにアメリアの身体に刻み込まれているようだった。
 リックはそれを淑女らしさの証だと好意的に判断した。自分がまさか何とも思われていないなんて思いもよらない。彼も淑女が一回では求婚に応じることはないと知っていたし、何よりアメリアの手は未だに自らの手の中にあるのだから、きっと次回、それかさらにもう一回求婚すれば確実に了承してくれるというそこはかとない自信があった。
 一方のアメリアも、自分があまりにもドキドキするものだから、遂には「わたしって本当にリックのことが好きだったんだわ」と致命的な勘違いをし始めた。
 人間が度々無関係な事柄同士を結びつけてそこにさも法則があるかのように説明するように、アメリアもこの胸の高鳴りを勝手に好意と結びつけた。自分がこれほどドキドキして足もおぼつかないような状態になっているのは、つまり知らず知らずのうちにリックを愛していたからに他ならない、と。
 もしもこの場にいつだって聡明な判断を下せるエレンか、理性的なジョージアナでもいればアメリアは自分の愚かな勘違いに気が付き事が致命的になる前に手を打てたに違いない。それでもこの場にはアメリアの勘違いを訂正してくれる人物は誰もいなかった。少なくともドアの影から一部始終を見守っていたソフィーにはそのつもりはまるでなかった。
 数々の偶然と勘違いから二人の中が急速に縮まっていくのをドアの影からソフィーはしっかりと見ていた。ソフィーは部外者だったし、何よりアメリアのことをよく理解していたので、アメリアの抱いている感情が恋ではないことにはすぐに気がついた。ただ、アメリアが早く結婚することは一族の、ひいては《ネザーブルック》全体の悲願だったのでその勘違いはとても都合が良い。だからソフィーは何も言わずに、使用人の部屋へと急いで足を運んで家中の使用人にこのとんでもないゴシップをばらまいた。そういう理由からアメリアとリックの恋物語は瞬く間に家中に広まることになった。アメリアは周りの空気に特に影響されやすかったので、ますます乗り気になってこのとんでもない勘違いを更に深めていった。

 それから一週間後のこと、アメリアはソフィーに唆されてリックの恋文に返信を書いていた。とはいっても実際に恋心を抱いている訳でもなかったので大して筆は進んでいなかった。それにしたってリックの手紙は退屈でアメリアでなくても飽き飽きしてしまうような文面だったが、正直に言うならまんざらでもなかった。上から下まで文字でいっぱいで、いつもの数十倍も堅苦しい文体でアメリアにはその内容は殆ど理解できなかったにしろ自分に対する熱烈な思いが綴られているということはなんとなく理解していたので気分も良かった。
 アメリアはペンを置いて、リックの手紙を眺めた。
 内容は同じような言葉の繰り返しだった。つまり自分がいかにアメリアを愛しているのかということと、それからアメリアがいかに自分の心を掴んで離さないのか。追伸には次の舞踏会のあと是非うちに泊まって欲しいと書かれている。その追伸の部分は特にアメリアの顔を赤くさせた。
「つまり、きっとその後に求婚されるんだわ……! ああ、どうしよう! 不安な気持ちがないわけじゃないけど……でもきっと上手くいくわ。だってリックもわたしに夢中だし、それにきっとわたしも気に入っているんだから上手くいかないわけがないもの」
 アメリアはもう一度その手紙をまじまじと見つめた。ふと、アメリアは昔ソフィーから聞いた物語を思い出した。その物語は恋する乙女が戦争のために愛する人と引き裂かれる話で、戦地から送られた手紙に口づけするシーンがあるのだ。戦争で引き裂かれてはいないものの、もう一週間も会っていないので十分にそういうことをする資格はあるように思えた。ただこれっぽっちもそんな気持ちにはなれなくて、アメリアは首を傾げた。アメリアがもう少しこの考えについて深く考える時間があったのなら、自分の抱いている感情が恋ではないと気がついたかもしれないが、あいにく思考は近づいてくる馬車の音のために中断された。アメリアは窓に近づき、二頭立ての立派な馬車を見つけるとパッと笑顔になった。
「メアリーだわ!」手紙を机の上に放り出して、アメリアは階下へと駆け出した。アメリアが玄関ホールについたとき、丁度馬車が止まり、メアリーが御者の手を借りて降りてきたところだった。ふわりと淡い青色のドレスが広がり、メアリーはアメリアを見つけるなり輝かしいほどの笑顔でアメリアに近づいた。
「アミィ! ねぇ、聞いて!」挨拶もなしに切り出すメアリーは顔を赤く染めて、居ても立っても居られない風だった。普段大人しいメアリーがこれほどはしゃいでいるのは初めてのことで、アメリアは目をぱちぱちさせた。
「なにか良いことでもあったの? 中でゆっくり聞かせて」
「ええ、そうね。そうしましょ。ああ、本当に、どうしようかしら!」小走りで二人は応接間まで向かった。「きっとアンディ・ヴァンスさまと何か進展があったのね」とアメリアはあたりをつけた。いつも穏やかなメアリーがこれほどはしゃいでるとなるとそのくらいしか考えつかなかった。
 二人でソファーに腰をかけると、さっきまでの勢いはどこへやら。メアリーはすっかり恥ずかしがって、声も出せなくなってしまったらしい。なにか言いたいことはあるらしいが、言葉にならなくて、何度か口を開けたり閉じたりを繰り返している。
「アンディ・ヴァンスさまと何かあったの?」アメリアが助け舟を出すと、メアリーは尚更顔を真っ赤にした。
「わたしって、そんなに分かりやすいのね。ちょっと恥ずかしいわね……でも、そうなの。あのね、アミィ! わたしね、その……アンディ・ヴァンスさまと合意に至ったのよ! あ、感想は言わないでね! 今、言われたら恥ずかしくて倒れちゃいそうだもの。それでね」メアリーはアメリアの手に手を重ねた。メアリーの手はとても温かくて、底なしの優しさをおすそ分けされているみたいだった。
「今日はアミィにお礼をいいたくてきたの! 本当にありがとう、アメリア。あの時貴方が強引に言ってくれなかったら、わたしずっと端っこでうじうじしてたと思うの。本当にありがとう。ねぇ、わたしがはしゃぎすぎだって思う? でも、普通の人にとって見たら求婚されるって本当に嬉しいことなのよ。アメリアは慣れてるかもしれないけどね」
 アメリアはいたずらっぽく笑って「そうでもないわよ?」と切り出してみた。メアリーは思わぬ返答にきょとんと首を傾げている。アメリアはメアリーにそっと耳打ちした。
「実はね、わたしも近いうちに結婚するの」
 メアリーは目をきらきらと輝かせながら息を飲んだ。
「まぁ、それって本当? それならわたしたち、本当に一緒ね! 同じ気持ちを共有できるなんてなんて素敵なんでしょう! それで、お相手は誰なの?」
「リックよ」
「まぁ! そうだったら素敵だなって思っていたのよ。本当に嬉しいわ。ああ、よかった! 正直、嬉しい反面少し心細かったの。でもめでたいことなんだからって考えないようにしていたけど……アミィも一緒なら怖いものなんてなにもないわね」
 メアリーは手放しにアメリアの結婚を喜んだ。メアリーにとっては自分の結婚よりも友達の結婚の方がよほど大切らしい。その後は二人で子供らしく無邪気にこれからの事を話した。ウェディングドレスの形に始まりどこの教会がいいとか、ウエディングケーキの大きさなんかを二人で楽しく話していった。互いに初心だったので、夫婦の行う当然の営みについては二人共示し合わせたようになにも言わなかった。メアリーの方はさておくとして、アメリアに関してはあまりにも知識がなくて触れたくても触れようがなかったというのが真実だが。何しろ、生粋の生娘だったので夫婦のあれこれに関しての知識はキスで止まっている。声を小さくして、子供は何人欲しいとかそういう話にもなったが、一体全体何をどうしたら子供が生まれるのかはアメリアにはさっぱりわからなかった。
「それにしたって、アメリアもこれぽっちもそんな感じを出さないんだからびっくりしちゃった。どうして急に結婚するつもりになったの? こういったら怒るかもしれないけど、わたし、てっきりアメリアはどこかの国の王子さまが迎えに来てくれるまで誰とも結婚しないと思っていたのよ」
 アメリアは一瞬暗い顔をした。結婚の話ですっかり忘れていたが、元はと言えば母の病状が悪化したから結婚をすると決意したのだったと今更ながらに思い出したのだ。とはいえ、エレンは心労がなくなったからかここのところはそれなりに元気だった。だからアメリアも最近ではその重い話もすっかり忘れることが多くなっていた。それに、紹介状をもぎ取る算段も立っているし、ジョージアナの説得も凡そ上手くいっていると聞いていた。全ては順風満帆だ。それに最初はそういう特殊な理由から結婚を決意したものの、実際に結婚を前にしたらあながち悪い話でもないような気がしてきたのだから、悪いことなんてなにもないとすら思えた。
 ただ、この湿っぽい話をこの場でするつもりにもならず、アメリアは適当に場をはぐらかした。「わたしの話はいいじゃない。そんなことよりメアリーの話をしましょうよ」
「えっと……あのね」メアリーは言いづらそうに視線を下げて、やがて意を決したみたいにアメリアの手を優しく握った。
「実は、わたし――その、自分でもあまりに節操がないと思うんだけど――実はね、三週間後には結婚式を挙げようと思うの」
「え、もう結婚するの? まるで戦時中みたいね」
 何しろ、通常のスケジュールだと婚約を発表してから大体一年もの歳月を経てようやく結婚に至るものなのだから。そのスケジュールを短縮して良いのなんて戦争でも起こっていない限り許されず、強引に結婚に至ろうものなら意地悪な夫人たちが陰で散々言うはずだ。そうでなくとも、立派な貴婦人を母に持つのならそんなこと許されそうにない。
「アミィもやっぱりそう思う? でも今わたしの家は戦争もかくやって状態なのよ。ほら、お父さまが――」
「そんなに悪いの?」アメリアはミスター・イーストンの朗らかな声としゃんとした出で立ちを思い返しながら心配そうに眉を寄せた。何かの流行病にかかったと数週間前にメアリーの手紙で知らされていたのだ。
「まさか! アミィって本当に優しいのね。それがね、お父さまったら今まで人生で一度も寝込んだことなんてなかったから遂に天からの迎えが来たんだって妙に深刻に捉えてるだけなのよ。わたしから言わせればどうしてあんなに怯えてるんだかわからないくらいよ。ほら、わたしって二ヶ月に一回は寝込んじゃうし。それでお父さまったらどうしても生きてるうちにわたしの晴れ姿を見たいって聞かないの。もちろんお母さまは泣くほど反対していて……ちょっと気の毒なくらいだったけど――でもわたし正直よかったって思ってるのよ。だって一年もあったら男性の気持ちなんてすっかり変わってもおかしくないでしょう? それに善は急げっていうじゃない。ねぇ、もちろん参加してくれるでしょう?」
「もちろんよ! 何があっても絶対に!」
「ありがとう、アミィって本当に優しいのね」
 どんな小悪魔であれ悪党であれ、メアリーにかかれば優しくて良い人になってしまうのだ。少し歯がゆさを覚えつつもアメリアはその言葉を受け入れた。
「ね、アメリア。ハネムーンの行き先はどこが良いかしら。お母さまは親戚をまわるくらいにしなさいっていうけど、でも折角だからドーヴァー海峡を渡ってヨーロッパに行きたいような気がしない?」
「もちろんそれもいいけど、わたしなら湖水地方に行きたいかも。それかマンチェスターとか! わざわざ海を越えなくたって素敵な場所は山ほどあるものね」
 二人の楽しい話は夕方まで続いた。二人は果てしなく楽しい空想の世界を共有したのだった。メアリーと二人で楽しい結婚生活の夢想を繰り広げたおかげでアメリアもすっかりその気になっていた。アメリアはメアリーが帰ると自室に戻り、例の返信の続きを書き綴った。熱っぽさは相変わらず足りないものの、それなりの出来にはなった。最後の一文に「早くお会いしたいです」と書き加えれば立派な恋文のような体裁がとれた。次の日の朝一番に使用人に手紙を届けて貰うように命じて、その日の午後にはリック本人がやってきていた。

第六章 一話

 結婚式の招待状が届いてからというもの、アメリアはその日数を指折り数えては、期待に胸を膨らませてうっとりとした溜息を漏らした。あと数日もすればメアリーは間違いなく世界一幸せで美しい花嫁として歴史に名を残すことになるだろう。かのヴィクトリア女王にだって負けずとも劣らないことは想像に難くない。あの優しい瞳が溢れんばかりの幸せを讃えて、無垢で純真な真っ白のドレスで身を包み、小さくて情緒溢れるあの額に花冠を載せて、教会を優雅に歩く姿を想像するだけでアメリアは珍しく心暖かい気持ちになった。これが他の女性の結婚だったならアメリアもここまで気分が踊ることもなかっただろうし、それどころか機嫌を悪くしてちょっとした嫌がらせに興じたっておかしくない。
 しかし、今回の主役はメアリー・イーストンなのだ。アメリアのこの世で唯一の友達であり、生涯の親友、誰にでも分け隔てなく優しく接する天使のようなメアリーの門出をどうして祝わずにいられようか。
 ここ最近ではどこの家庭でも身分に関わらず、示し合わせたようにこの幸せで美しい花嫁のことを祝福しあっている。メアリーは誰にでも分け隔てなく優しかったから、しかもそれが打算なんて一切ない無償の奉仕によって成り立っているのだから人々から嫌われるはずもなく、誰もがその日を今か今かと待ち望んでいた。

 メアリーの周りは既にお祭りムードだったが、主催となるとそうもいかない。なにしろ決めないといけないことも、やらないといけないことも山のようにあるのだから、浮かれるのは当日までお預けだ。
 メアリーは式の準備でてんてこ舞いらしくあの日以来〈ネザーブルック〉に顔を出すこともなかった。ただ、その代わりとばかりに日報のように送られてくる手紙には結婚式の内情が事細かく記されていた。それこそ、当日の飾り付けからウェディングドレスのひだ一つに至るまで、メアリーの丁寧な字で便箋に溢れんばかりに綴ってあり、手紙を開く度にそのとてつもない情報量にアメリアの脳みそはパンクして目眩がするほどだ。
 とはいえ、その手紙はなんとも楽しいもので、アメリアは手紙が届くたびに返信に二時間は時間をかけていたし、毎日手紙が届くのが楽しみで仕方がなかった。手紙といえばリックの恋文も日報のように送られてはいたがそっちの方はたいして面白くもなかったので早々に封を開けるのをやめてしまい、気がつけばアメリアの手紙入れは未読の手紙で溢れ返っていた。その上、アメリアの叔母から手紙も乱雑にそこにしまい込まれていたので、いよいよ見るのも嫌になってきた。恋人が見つかる前ですらうんざりするほど手紙が送られていたが、最近ではますますその量が増えている。内容は大体、今ロンドンではどういう式が流行しているとか、結婚する前に一回遊びに来てとかそういうものだった。こういった手紙の数々はこれっぽっちもアメリアの心に響かない。「まだ正式に決めた訳じゃないのに、本当にみんな気が早いんだから! 誰でも結婚式って聞くと我を忘れちゃうのね」
 アメリアもいずれは結婚するのだが、全く実感がなかった。確かにこの間、求婚された時は結婚を激しく意識したものだが喉元を過ぎれば熱さを忘れるように、アメリアはすっかりその熱を失っていた。それどころか家でアメリアの結婚の話題が持ち上がっても、しばらく首を傾げてやっと自分のことだと認識するくらいなのだから。これほどまでに興味がないのはリックのことを露ほどにも思っていないからに他ならないが、アメリアは相変わらずで、それはきっとメアリーのことで頭がいっぱいだからだと思っていたし、リックの方もあれ以来返信がこないのも恥ずかしがっているのだろう、とおめでたい勘違いを続けていた。
 新しいドレスを買ったりメアリーに手紙を書いたすると瞬く間に時間は過ぎていって、あっという間にメアリーの結婚式当日になった。アメリアは逸る気持ちを抑えられずに日が昇る一時間前には部屋の中を行ったり来たりしてドキドキする心を必死に押し沈めていた。
「本当に楽しみ! だから神さま、お願いだから今日は何もトラブルが起こりませんように。たしかにわたしの行いは目に余るかもしれませんがメアリーにだけは迷惑をかけないでください」
 あいにくメアリーから事細かく話を聞いていたので、目新しいワクワク感はないものの、それでもやはり親しい友人の結婚というのはなんだか言い表せないくらい嬉しいものがあった。

 日が昇る頃にはイーストン家に向けて馬車が動き出していた。東の空が夕焼けみたいに赤く染まり、大地を赤く照らしている。この日はメアリーの結婚を祝うみたいに雲ひとつない晴天だった。アメリアはこの日のために買ってもらった真紅のドレスを身に纏って、今日起こるであろう楽しく素晴らしい時間を頭の中に思い浮かべた。ありがたいことにメアリーの手紙のお陰で今日のスケジュールは詳細まで頭に入っていた。
 まず招待客がイーストン家かヴァンス家に集まる。皆、今日を祝う気持ちでいっぱいで新郎新婦を見るなり心の底から祝福を述べる。メアリーは綺麗なドレスに身を包んで、いつもみたいに少し顔を赤くして丁寧にお礼を述べるに違いない――それで、主役だっていうのにいつものもてなし癖を存分に発揮して招待客の世話をすることでいっぱいいっぱいになるだろう。それで、人数が揃ったら全員で一緒に新郎新婦の家の丁度中間にある小さな教会へ向かうのだ。その道すがらでは男たちは誰かが密かに持ち込んだ酒を呷って散々上機嫌になって賛美歌をずれた音程で先取りして歌うのだ。轍の残る道には真っ白なレースフラワーが咲き誇り、春らしい心地の良い風に首を左右に揺らしている。教会では少し退屈なくらい厳粛に式が執り行われることだろう。殆どの招待客は聞いてるふりをするか潔く船を漕ぐか……それでもメアリーだけは牧師さまの言葉に玉のような涙を目に浮かべながら何度も頷くのだろう。
 教会での諸々の手続きが終わればイーストン家で盛大な披露宴が執り行われる。披露宴ではまたオールポート市長の長い話を聞く羽目になりそうで、恐らくこのタイミングで招待客たちは肩の力を抜いて午前中の疲れを癒やすことになるのだろう。オールポート市長は群の誇りともいうべきメアリーの結婚に有頂天になって、いつもの二倍は歴史話を語ることになる。食事は豪華で、メインディッシュに雌七面鳥とマトンの腰肉、それからずっと裏庭で元気にしていた鴨肉のローストなんかが立派に並び、アントレにはオイスター料理やビーフ・オリーブ、スイーツにはゼリーやお決まりのプディングがある。イーストン家の気がかりといえば、オールポート市長のことで、彼の辛口好きに合う料理がどうしても見つからなかったとか、洒落たスイーツのためにイタリアまで使用人を遣わせたとかそういう事細かな事情についてもアメリアは完璧に熟知していた。
 その後にはみんなお待ちかねのダンスがある。選曲はアメリアも手伝っていたので何番目にどの曲が流れるかもわかっている。きっとそこまできたらみんな楽しむことに夢中になって、メアリーの結婚のことなんてすっかり忘れてしまうでしょうね。でもわたしだけは最後まで忘れないわ。
 アメリアは今日起こるであろうことを頭の中で何度も何度もシミュレーションしたが、だからといって楽しみが減る訳でもない。どれほど頭の中で物語を思い描こうと、それでも現実は想像なんて軽く越えてくるものなのだから。

第六章 二話

 イーストン家のこぢんまりとした――しかし、赴きのある――立派な邸宅には既に今日というめでたい日を祝うために大勢の人間が押し寄せて、メアリーは主役だというのにあっちこっちに出向いて招待客を出迎えていた。応接室やサルーンや客間は全て開放されて、至る所に人が溢れかえっている。
 アメリアがイーストン家に到着すると、メアリーは一層目を輝かせて嬉しそうに駆け寄った。そのドレスはとても美しい白のシルク地で、ドレスには金色の花を模した刺繍が縫い付けられている。青い空を背に佇むその姿は絵画のように完成されていて、なによりその顔に讃える笑みが幸せそのものだった。髪にはユリの花を小粋に挿して愛らしく頭を揺らす度に甘い香りが広がる。
「本当に綺麗だわ。素敵」
 メアリーは少し恥ずかしそうに肩をすくめて笑った。
「皆さんそういってくれるけど、ちょっと気恥ずかしいわ。なんだかお世辞を言わせてるみたいで申し訳ないし……」
「そんなことないわ! 本当に、本当にとっても素敵よ!」自分の頭の中に大した語彙がないのが本当に悔やまれた。メアリーは顔をほんのりと赤くして今度は黙って称賛を受け取ったが本人がお世辞と勘違いしていることは誰が見ても明らかだった。メアリーったら本当に自分がどれだけ素敵かなんてまるで気が付かないのね。今日のメアリーは一段と綺麗で、マリアさまと見紛うほどの暖かい美しさで満ち溢れている。そんなメアリーと一言会話をしたいがために、招待客は些細な理由を見つけてはメアリーを呼び、その嫋やかな表情とゆったりとした口調を楽しんだ。
 しばらくすると、ミスター・イーストンの号令で一行は教会へ向かうことになった。メアリーの言う通り、ミスター・イーストンは病み上がりとはまるで思えないくらい強壮でいつもの朗らかさを変わらずに持ち合わせていた。
「ほらね? アミィ、きいて。お父さまったらあんなに元気なのに、今日まで命が持つかとかそんなおかしなことばかり言ってたのよ」
 ”挙式の前日に花嫁を見ると不幸せになる”というジンクスのために、幸せな花婿はここにはいなかったが、アメリアは道中で楽しそうにずっと話をしているメアリーを眺めながらアンディがこの太陽のような笑顔を見たらどんな顔をするだろうとしきりに想像した。そういえば、アンディって生花に滅法弱いのよね。わたしの恋人だった時も、わたしがちょっと気取って生花を挿すだけでメロメロになってたっけ。
 緑の草木が空気を爽やかに彩り、春の暖かな風が優しく頬を撫でる。遠くからはコマドリの鳴く声が聞こえる。白いドレスに身を包んだ幸せな花嫁は行列の後ろの方で、アメリアや、使用人と話をしていた。男性陣は先頭の方で集まって、酒を飲んだり賛美歌を口ずさんだりしている。そよ風が吹くたびにメアリーの茶色の巻き毛がふわりと靡くのをアメリアは楽しそうに見つめた。
「本当に良い日ね」
「ほんとにね。わたしって本当に幸せ者よ。わたしなんかのためにこんなに沢山の人が集まってくれるんだもの。神さまに感謝しなくちゃいけないわね。できれば虹も見れれば良いんだけど……」
「虹? どうして?」
「アメリアったら知らないの? そういうジンクスよ。わたし、本当に舞い上がっちゃって色々なジンクスをいっぱい調べたの。アメリアもきっとそうなるわよ。ねぇ、ところで、ずっと気になってたんだけど……リックのところにはいかなくて大丈夫? 先頭の方にいるでしょう? もしわたしが邪魔してるんだったら――」
 アメリアはきょとんとして目をぱちぱちさせた。リック? どうして急にリックの話になったんだろう。としばらく考えてやっとのことで婚約の話を思い出した。アメリアは視線を前方に飛ばして、やっとのことでリックの後ろ姿を見つけた。そういえばリックも来ていたのね。リックは大騒ぎしている紳士たちとは少し距離を空けて、一人でとぼとぼと歩いていた。身長はそれなりにあるはずなのにその後ろ姿は妙に小さく見えて、何だか卑屈を絵に描いたようだった。
「別に邪魔なんてしてないわ。こんなこといったら怒るかもしれないけど、リックのことなんて今まで忘れていたくらいよ。わたしそれくらい今日を楽しみにしてきたんだから! わたしのことはいいからメアリーの話をしましょうよ」
「そうも言ってられないわ! だって結婚したらしばらくは旅行に行くでしょ? だから、今のうちに存分に聞いておかなくちゃいけないのよ」
「え、じゃあわたしの結婚式には参加してくれないの?」
「まさか! 絶対参加するわ! 何があっても! たとえその日、大地が裂けたとしても!」メアリーはアメリアの手を優しく包み込んで力説した。「だって大切なお友達の晴れ舞台だもの。わたしこそ、こんなこというと怒るだろうけど……正直、自分の結婚式よりもあなたの結婚式のほうがずっと楽しみなのよ。おかしな話なんだけどね。ドレスを選んだり、食事の準備をしたり、ケーキの要望を聞かれたりして、わたしこの頃ずっと今日のために準備してきたけど。寝る前に決まって想像するのはあなたの結婚式なんだから」アメリアは小さく首を傾げた。相変わらず、リックと自分の結婚式の場面は何一つ想像できないというのに、メアリーは一体どんな未来を想像しているんだろう。
「ありがたいけど、主役がそんな感じじゃ困るわ」アメリアが苦言を呈すれば、メアリーは照れくさそうに笑った。
「嬉しいんだけど、なんだか気恥ずかしいのよ。アミィにはきっとわからないと思うけど。わたしはこんな大勢に注目されることなんてそうそうないもの」メアリーは改めて一同を見回し、心の底からの笑みをその顔に湛え「本当に良い日。わたしは幸せ者だわ」と呟いた。
「もっと良くなるわ。まだ今日は始まったばかりなんだから」

 教会での挙式は厳格に進んだ。アンディ・ヴァンスは紺色のかっちりとした礼服を身に着けて、式の途中その視線が何度もメアリーに注がれるのをアメリアは見逃さなかった。メアリーは本当に幸せそうで今日一番の笑顔を浮かべては、気恥ずかしそうに視線を逸らすというのを何回も繰り返した。窓から降り注ぐ光の道はスポットライトみたいに二人ばかりを照らして、二人が天の気に入りということをしっかりと示していた。
「きっとわたしとリックだったならこうはいかないわ。そもそも太陽が拝めるとも思えないもの。観測史上最大の嵐でもおかしくないでしょうね」
 アメリアはジョージアナと母に挟まれながら木製の椅子に腰掛けて、母の隣には父ジョージ・スレイターが座っている。エレンは今のところ体調を悪くする兆候はなかったが、ジョージアナは式の最中でも何度もさり気なくその様子を窺っていた。教会の空気が悪いのを密かにジョージアナは心配していたのだ。
 式の大半には集中していたアメリアだが、いざヘインズ牧師の長い話が始まると流石にうんざりし始めた。牧師の話はオールポート市長の演説と同じくらい面白みがなく、その上、説教臭い話が特にアメリアを見ながら語られるものだから毎回うんざりさせられるのだ。
「主は妻を夫にとってのふさわしい助け手として創造なされました。妻はいつでも賢く、家庭という極めて重要な場を守り仕切るという役割があります。更には夫を支え、子供を慈しみ、女主人として召使いを統べる役割があるわけです。その豊かな情緒や微笑みは本来家族に向けられるべきものであります。嘆かわしいことに、淑女の中にはそれを弁えていない者もおりますがね」ヘインズ牧師は意味ありげにアメリアに視線を向けた。当然この牧師にもアメリアの悪評は届いていて、一度くらいはとっちめてやりたい気持ちでいっぱいだったのだ。それなのにアメリアは礼拝にもほとんど参加しないのでその機会はついぞ与えられることはなかった。アメリアが不満っぽく牧師を見返すとヘインズ牧師はわざとらしく咳をして続けた。
「一人の男と一人の女が結婚する時、もはやその二人は個々の存在ではなく一体となるのです。幸せな夫婦になるために大切なことはたくさんありますが、聖書にはこのように書かれています。『妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自分がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです』また、夫についてはこのように書かれています。『夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は、自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる』この大原則を守れば必ず幸せになれることでしょう。結婚についての有名な話はマタイによる福音書の十九章にも書かれている通りです。有名な章ですのでご存じの方は共に暗唱していただいても結構です」
 といっても、アメリアは当然知らない話だったし、それは他の参列者も同様で、暗唱に参加できたのはイーストン家の人間とジョージアナだけだった。しかし心細い感じはせず、むしろ全員が堂々と聖書の一節を唱えたので圧巻ですらあった。その後も牧師の長くてつまらない話は延々と続いた。「さて、敬虔なる信徒である皆さま方はご存知かもしれませんが――」
「この人、いつまで喋るつもりなのかしらね」アメリアは苛々して教会をぐるりと見回した。どうやら牧師のありがたい話に飽き飽きしているのはアメリアだけではないらしく、参列者のほとんどは上の空だった。良家の令嬢はメアリーの顔に自分の顔を当てはめて、隣にまだ見ぬ素敵な男の人、もしくは密かに思いを寄せている人を作り出して楽しい妄想を繰り広げ、顔をほんのり赤らめている。一方で紳士たちは時折アメリアに視線を送ってその瞳だけでいくつかスリリングな約束を交わそうと尽力し、その他の貴婦人や紳士は感銘を受けたようなふりをしつつもその実何も聞いていないのは明白だった。この場で牧師の長くて面白みのない話を大真面目に聞いているのは、新郎新婦とイーストン家の面々くらいのものだ。
 参列者を観察しながら、アメリアはふとアンナの姿を目に留めた。今日もお高く止まったドレスを身にまとい、その隣には例の不躾なディラン・エドワーズがいた。「メアリーったら、アンナはともかくあの男にも招待状を出したのね。今のところお行儀よくしているみたいだけど、今にわたしに突っかかってくるに決まってるわ。ああ、でも今日こそはあの姑息な挑発に乗らないようにしよう! だって、メアリーの晴れ舞台だもの……わたしが騒ぎを起こしたら台無しよ。今日一日くらい耐えられるはずよ。きっと、何も起きなければ――」
 アメリアは二人から視線を逸して、しばらく適当に辺りを見回したりヘインズ牧師の口癖を数えたりしたが、それも長くは続かなかった。ただでさえじっとしていられない質なのだ。アメリアはあまりにも退屈になって、参列した紳士たちに可愛い微笑みを見せつけてその反応で遊びだした。リックは牧師の話を子守唄に船を漕いでいたのでアメリアの行いにはまるっきり気がついていなかったが、隣に座っていた母にはすぐに気が付かれて何度か腕を指で小さく小突かれた。ちなみに牧師は眼鏡をくいっとあげてアメリアの事を信じられないという目つきで見つめたがその程度で折れる精神は持っていない。
 そのあと、ようやく長い話が終わり、いくつかのお決まりの歌を歌う段になるとエレンはアメリアに小さく耳打ちした。
「式の最中くらいは大人しくしていなさい。本当にどうしようもない子ね。ヘインズ牧師も呆れていらっしゃいましたよ」
「その代わりこの場にいる大勢の紳士は楽しい思いをしたはずです」
「口答えはお止しなさい。この件に関しては家に帰ってからきっちりと――」式の最中はほとんど黙っていたからか、突然話したのでエレンの身体は驚いて激しく咳込んだ。ジョージは心配そうに妻の背中を摩った。
「一旦外の空気を吸った方がいいんじゃないか? 何しろ、ここは埃っぽいだろう」
「いいえ、平気ですわ。すぐ良くなりますから――」激しい咳の間にそう言ったものの、今日の咳はいつもよりも厄介そうだった。収まりそうな予感はなく、苦しそうに喘いで、額には汗が滲んでいる。顔は青白くなり、瞳孔が大きく見開いている。
「お母さま、ひどい汗です。顔色も悪いし、どうか無理しないでください」アメリアはハンカチを取り出してエレンの額や首元を拭った。ジョージアナは心配と恐怖でエレンと同じくらいに顔を真っ青にして、その様子を黙って見つめている。
 本人の言葉とは裏腹に咳は一向に良くならず、エレンは口元にハンカチをあてて酷く咳き込んでる。それも深い咳で、一回咳き込む度にエレンの肩が大きく上下するのがなんとも恐ろしかった。
「少し席を外そう。外に出ればきっと落ち着くだろう」ジョージはエレンの手を取り――その瞬間、アメリアはエレンの握りしめたハンカチが赤く染まっていることに気がついて呼吸を忘れた。エレンはすぐにそのハンカチをポケットにしまい込んだが、脳裏に焼き付いた赤色はなかなか離れることはかった。
 このことに衝撃と不安を抱いたものの、アメリアが冷静でいられたのはそれが意味することをまるで理解しなかったからだ。アメリアは不安そうに母の背中を追いかけ、その姿が見えなくなるとジョージアナに振り向いた。
「ねぇ、ジョージアナ。今、お母さまが――」丁度そのタイミングでパイプオルガンの伴奏が始まり、アメリアの質問は中断された。それにこの状態のジョージアナに聞いてもろくな返答が得られそうにないのは明白だった。顔は難病を患っているみたいに真っ白で、両目を見開き両手は小さく震えている。不安に思うばかりに眉はぎゅっと中央に寄せられていかにも体調が悪そうだった。

第六章 三話

 
 式が終わると一行はメアリーの家に戻って楽しい披露宴が始まった。アメリアは今日は静かにしていると今朝から何度も心に誓っていたものの、いざパーティーが始まれば楽しくなってしまってそんな誓いもすっかり忘れて自分の愛嬌を存分に振りまいてパーティーを満喫していた。時折母の容態が気にかかり、顔に暗い影がかかったがそれでもおおよそ元気だった。幸いにもアメリアの頭の容量は小さく、例の赤色のこともすっかり頭から抜け落ちていたのだ。何しろ今日はどれほど数多くの紳士にじゃれつこうと、何をしようと咎めてくる母も使用人もいないのだから。
 エレン・スレイターとジョージ・スレイター、それからソフィーを含む数人の使用人は披露宴に参加せず早めに帰宅した。アメリアの事実上のお目付け役はジョージアナだったが、彼女は彼女で母の容態を心配するあまり、役に立つ状態ではなかった。そんなわけでアメリアは、母への心配は一旦心の隅に押しやってお目付け役なし、という特殊な状況を存分に甘えることにしたのだ。
 エレンは会場を去る時、本当に申し訳ないとしきりに語ったが、メアリーはこれぽっちも気にしなかった。
「しっかりお休みになってくださいね。わたしのことなんて気にしなくて結構ですから」それからアメリアに向き直って続けた。「アメリアも心配でしょう? もし心配だったら一緒に行ってもいいのよ」
「それ本気で言ってるの? この間ダーシー先生にも言われたけど、わたしがいるとお母さまの容態が悪くなるらしいわよ。変に気を揉まれるより、ここに居たほうがいいのよ。少し心配だけど、きっと大丈夫よ」
 披露宴の料理には鴨やウズラなどの珍味も出されとにかく豪華で立派だった。ウェディングケーキは三段になっており、シュガーペーストが美しくそれを取り巻いていた。側面には滝のように白い花と緑の葉っぱの飾りが砂糖細工で作られていて、招待客は感嘆の声をあげた。
 アメリアは誰よりも、いうなら新郎新婦よりも幸せだったといっても過言ではない。誰もがメアリーとアンディを祝福していた。食事は賑やかに進み、用意された料理がほとんど平らげられると招待客は新郎新婦に対して贈り物を贈ることになった。アンナは新婦に対して、とんでもなく値の張りそうな宝石箱を贈った。金額のかかりそうな物を贈るのは別に新郎新婦を思っているわけではなく、ただ自分の財産を誇示したいように見えた。アメリアが渡したのは金の指ぬきだったが、メアリーはたとえどんな贈り物も心の底から喜んで幸せそうに微笑むのだった。
「本当に、こんなにいい人たちに囲まれてわたしは幸せものね!」とメアリーはうっとりしながらしきりにそう語った。そうやってにこやかに笑うメアリーを見ていると誰でも心穏やかな気持ちになった。メアリーは本当に素敵な花嫁で、この場は明るくて、途方もない希望に満ち溢れていた。
 時間はあっという間に進み、食事が終われば食後の倦怠が全員を包み込み披露宴はしばしの休憩となった。淑女たちは昼寝と舞踏会に向けての着替えのために客間に引きこもり、紳士たちはそのままサルーンに残ることになった。
 アメリアとジョージアナは同じ部屋で、アメリアが白と緑の絹のドレスに着替える間にもジョージアナは不満タラタラでずっと文句を呟き、かと思えば急に黙り込んで、母のことを思って小さく震えるというのを繰り返していた。
「朝から散々連れ回されたっていうのに、その上着替えて楽しくもないダンスに参加するなんてうんざり。それにアメリアはよくお母さまにあんなことがあったっていうのに、よくそうやってケロッとしていられるものね。人の心ってものがないんじゃないの? 一度頭を診てもらったほうがいいわ。きっと何か異常があるのよ、本当に心なし。ああ、お母さま……だからわたしは反対したのに」
「ジョージアナ、いい加減にしてよ。第一わたしたちが心配したってどうしようもないじゃない。わざわざこの楽しい会を台無しにしようっていうの? わたしだって心配だけど、でもそれとこれは別の話だわ。そうやってブツブツ言えばお母さまの容態が良くなるならともかくね」
「いいえ、姉さまはひどい人よ! 普通ならお母さまが心配で何も手につかなくなるはずだわ」
 アメリアは肩を竦めてジョージアナの攻撃をやり過ごし、ふと教会で聞こうと思ったことを思い出した。
「ねぇ、ジョージアナ。さっき聞こうと思ってたんだけど――お母さまってそんなに悪いの? 実はさっき、お母さまのハンカチが赤かったんだけど――」ジョージアナは手にしていたグラスを落として、ガラスが辺りに飛び散った。それでもジョージアナはまるで気がついていないようで、愕然と目を見開きながらアメリアに詰め寄った。
「血を吐いたって……それって、喀血……!? ねぇ、それ、本当なの!?」ジョージアナは顔を真っ青にして、すぐに全身がカタカタと小さく震え始めた。アメリアには全く思い至らなかったことだが、知識豊富なジョージアナはそれがどういう意味を持つのかこの短時間でしっかり理解したらしい。
「こんな所で油を売ってる場合じゃないわ……! 喀血なんて、本当に冗談じゃない! やっぱり結核だったのよ……! あのヤブ医者め!」ジョージアナの瞳孔は揺れて、色々な感情が交錯して声までもが震えた。
「わたし、今すぐダーシー医師の所に――」まるで話を理解していないアメリアを押しのけ、部屋を出ていこうとしたところでジョージアナはその場に崩れ落ちるように倒れ込んだ。
「ジョージアナ!?」
 アメリアはジョージアナに駆け寄ったが反応はない。どうやら気絶しているらしい。触れた手はまるで死体のように冷たくて、ぐったりと力なく倒れる小さなは精巧な蝋人形のようで全身から血の気が引いていく思いだった。視界が歪み、脈動に合わせて小さくなろうとする。何よりいつも冷静なジョージアナがあれほど取り乱すのも初めてみたし、それに自分が思っているよりもお母さまの容態は――いや、今はやめよう。
 どうにかこうにか唇を噛み締めて、気絶こそ免れたもののアメリアは目を見開いてしばらく呆然とした。そして、突然意識を取り戻したようにハッとして、体が動くようになると部屋を飛び出した。
 とにかく、誰か人を! アメリアは廊下を闇雲に走り、誰か助けてくれる人がいないかと周囲を駆け回った。キツく締めたコルセットのせいで、どれほど大きく息を吸っても肺にはほんの僅かな量しか空気を取り込めず、視界が何度も縮まった。脇腹は引き千切れんばかりに激痛を放ち、足がもつれて何度も転びかけた。そうしてしばらく休憩もなしに走り回ってみたものの廊下はしんと静まり返っている。肩で息をしながら柱に手をつき、もう片方を今なお痛み続ける脇腹に当て、アメリアは微かに思考を巡らせた。立ち止まると急に耳の奥で血の流れる音がして気が狂いそうだ。
「このままじゃ、誰かを見つけるより前にわたしが倒れちゃう……、一体どうしてこういうときに限って誰もいないの!?」
 焦燥感にイライラして、それが功を奏したのか酸欠で薄れかけていた意識は段々とはっきりしてきた。「人が消えるなんてあるわけないんだから……落ち着くのよ、アメリア! でも、それじゃあ使用人は一体どこに行ったっていうの?」手早くサッシュを緩めて新鮮な空気を体いっぱいに取り込むと徐々に頭にかかった薄靄が晴れてきた。冴えた頭で消えた使用人たちの行き先に思考を巡らせて、アメリアが最初に思いついたのはキッチンだった。
「そうよ。あれほど豪華な食事を用意するっていうんだから誰かしらはキッチンで指揮してるに違いないわ。この際、料理番だろうと誰だろうと構っていられないし、とにかく誰でもいいから冷静な人が必要よ! わたし一人で何ができるっていうの? さぁ、今はとにかくキッチンへ!」
 覚悟を決めると、アメリアは大きく息を吸って再び走り出した。階段――先程まではあれほど人の詰めかけていたのに――を滑るように駆け降りて、ひたすらに廊下を走る。静まり返った廊下はなんとなく不気味で薄気味悪く、開いた客間のドアからは何か異形が覗いているような気さえして頭がおかしくなりそうだ。ドレスを握りしめながら、普段よりも二倍は長く感じる廊下を抜けて、ついにキッチンの白い飾り扉が見えると心の中に安堵が広がった。しかしその安堵も長くは続かない。アメリアの見立てに反して、キッチンには人影一つなかった。
 鍋からは煙がもくもくとあがり焦げ臭い匂いがキッチンを満たしている。包丁はまな板の上に置き去りにされて、まるで本当に人が消滅したみたいだ。
「すみません! 誰かいませんか! 誰か!」あらん限りの声で叫んだが返事は聞こえてこない。それでも諦めずに声を張り上げると途端にむせこんで喉の奥で血の味がした。ひどく咳き込んだせいで、立ち止まっているというのにろくに息も吸えず、それでも肺は酸素を求めて大きく息を吸えと命令するものだから、咳はひどくなるばかりでアメリアはほとんどパニックに陥っていた。苦しくて目には涙が溜まり、しゃくりあげるような呼吸が止まらない。
 それでも砂粒ばかりの理性が残ったのは丁度サルーンの方角から人の声が聞こえたからだ。アメリアはハッとしてサルーンへと足を向けた。もう走る元気どころか歩く元気すらもなかったが、それでも早歩きでサルーンへと向かう。まるで気が付かなかったがどこかで足をぶつけたようで、さっきからじんじんとした痛みが広がっているのだ。痛みと苦しみで顔をしかめながら、アメリアは自分に言い聞かせる。「そうよ、サルーンに行けば……暇々している男性がわんさかいるんだから。きっと誰かは助けてくれるに違いないわ。ええ、そうですとも」
 サルーンは相変わらずの活気で、アメリアのパニックを落ち着かせるのに少しばかり協力してくれた。アメリアが入り口付近でテーブルを囲み、大声で何かを語り合っている紳士たちに近づくと男たちは話を中断し、淑女たちは着替えの時間ではなかったかな。と不思議そうに首を傾げた。
「どうかしましたか? ミス・スレイター」
「ああ、よかった。どうか助けてくれませんか。家中を探し回っても誰もいなくて……その、ジョージアナが気絶して――」アメリアがそういうなり、場には笑いが巻き起こり紳士たちの大半は興味を失ったみたいに元の話に戻った。
「なんだそんなことですか。いやいや、妹さんが取るに足らないというわけではなくてですね……第一女性が気絶するのなんて日常茶飯事じゃないですか。少し休ませればカラッと元気になりますとも! それかもしくは他の女性に頼んだほうが助けになってくれるでしょうね。使用人を探してみては? 何しろ、我々は気付け薬など持ってはいませんし」
「だから、誰もいないんです。お願いだから一緒にきてくれませんか?」
「ミス・スレイターは考え過ぎですよ。ソフィーは一体どうしたんです? 自分の家の使用人に頼むのが筋ってものでしょう。それかスレイター夫人か――」
「二人とも今日はもう家に帰りましたわ。もうこの際誰でもいいんです、だから一緒にきてくれませんか」
「おや、そうでしたか? ま、何にせよ……ですね、気を揉みすぎるとろくなことがありませんよ。それに、あまりにも舞踏会が嫌で気絶したフリをしているだけなのではありませんかな。だとすればそのまま放って置くのが一番優しいっていうものですよ。さぁ、こんな場所淑女の居ていい場所ではありませんよ。早く部屋に戻って、使用人にでも助けを求めることですね」
 まるで話が通じない。頼みの綱の紳士たちも飲んだくればかりで、アメリアはいよいよ途方に暮れて、それと同時にさっきのパニックが胸のすぐそこで燻っているのがわかった。どうして誰も助けてくれないの? それどころか誰も真面目に話も聞いてくれない。男たちは既にアメリアのことなんてすっかり頭から抜け落ちたらしく話を再開して夢中になっている。アメリアは今にも泣き出したいのを必死に抑えつけながらその集団から離れ、サルーンの扉に寄りかかった。足取りは異様に重く、絶望に足を引かれているみたいだ。ああ、でも一体どうしよう……ジョージアナにまさかの事態がないとは限らないし……あのまま床に転げておくのも心もとない。だからといってわたしに何ができるっていうの? 両手が小さく震えて呼吸がしゃくりあげるようなものに変わっていく。さっきからの頭痛は更に激しくなり、眼球の裏にまで鈍い痛みが広がっている。足は石像を凌ぐほど重くて、もう動かせそうにない。アメリアは成す術なく俯いて肩を落とし、目頭に涙が溜まっていくのを感じた。
「大丈夫ですか?」頭上から降り注いだ声にアメリアはハッとして顔をあげた。そこに居たのはディラン・エドワーズだった。このときばかりは前回のディランの無神経極まりない行動を思い起こす余裕もなくアメリアはその瞳を見つめて、どうしようもなく縋り付くような表情を浮かべた。
 ディランはそれを見て小さく笑うと冗談めかしてアメリアに問いかけた。
「さぁ、ダーリン。落ち着いて。一体何があったんだい?」
「ジョージアナが気絶して――それでわたし、人を探してたのに……誰も助けてくれなくて……」アメリアは今にも泣き出しそうで、変な呼吸が邪魔して声が妙に震えていた。それに思考もままならず、子供みたいにぽつぽつと今までの出来事を説明するくらいしかできなかったが、ディランはその拙い言葉からしっかりと状況を読み取ってくれたらしかった。
「そりゃ随分な災難だ。神には随分嫌われているらしい。それで、妹さんはどこに?」
「……助けてくれるの?」
「もちろん――君がわたしみたいな男を最愛の妹に近づけてもいいっていうなら。もっともわたしも気付け薬なんて持っていませんから、結局誰かを呼ぶ必要がありますがね。さ、わたしを案内するまで倒れないでいてくれると大助かりなんだが」
 助けてくれる人が現れたと思うと急にパニックが落ち着いて、多少は冷静に考える頭も戻ってきた。アメリアは少しだけいつもの調子を取り戻して、ディランのことを見つめると唇を尖らせた。
「倒れたりしないわ。……あなたにも置いていかれたらわからなかったけど」
「それはよかった。ところで、歩くのにもわたしの助けが必要かな」
 言い方こそ癪に障ったが、正直動く気力がないのはその通りだった。体は安堵したからか急にさっきの疲れを思い出して今や感じる重力は二倍にも三倍にもなっていたのだから。アメリアは無言のまま不貞腐れながら右手を差し出した。どうしてこの人ってこういう言い方しかできないのかしらね……でも、気が利くし優しいのは本当だわ。
 ディランの手は大きくてとても暖かくて、荒れ狂った心を落ち着けるには最適だった。繋がれた右手から体に直に生気が流れ込んでくるような気さえする。
「サルーンに来たのは失敗だっただろうね。確かに使用人は山のようにいたけど、彼らは彼らで酔っ払いどもの要望を満たすのに手一杯さ。それに酔っ払いどもはそれ以上に使い物にならないし」
「どうしてあなたは正気なの?」
「酒に強いって噂は聞きませんでしたか?」
 ディランは眉をあげてアメリアのことを小馬鹿にしたみたいに見やった。この人ったらまたそんなこといって……とアメリアは憤慨したが、その軽い態度に救われているのも確かだった。少なくとも、さっきまで荒れ狂っていた心臓は今や規則的なリズムを取り戻していて穏やかそのものだ。
「どうだったかしら――でも、覚えとくわ」
 二人はジョージアナの元に戻る前にメアリーの部屋を訪ねた。ディランに言われてからハッとしたが、最初からメアリーの部屋を訪ねればよかったのだ。何しろ花嫁を美しく着飾るために何人かの使用人がとどまっていることは明白だったし、それにたとえそうじゃなくてもメアリーの周りにはいつも優しい人が集まるのだから。
 ディランが部屋の扉を叩くと中からはすぐに使用人がでてきた。使用人は意外な組み合わせに驚きを隠せない様子で二人を交互にみてから口を開いた。
「何のご用でしょうか? あいにくお嬢さまは着替え中でして……」
「ジョージアナが気絶して、お願いだから一緒に来てくれませんか?」アメリアが事情を説明すると、部屋の中から大きな音がしてすぐにメアリーが飛んできた。シミューズ一枚にショールを羽織っただけのあられもない姿だったが、どうやら本人はそんなことまるで気がついていないらしい。
「アミィ、それって本当なの!? わたしのことは良いから早く行ってあげて! ほら、早く! あ、ちょっと待って――お水も持っていって――ああ、アミィ。心配でしょう?」ショールは両手で止めているだけなのに、アミィの手を握ろうとするものだからショールは肩をずりおちそうになった。
「ミス・イーストン。準備中のところ恐縮ですが、アメリアさんのことはお任せしてもよろしいでしょうか。わたしも向こうに行ったほうが手伝えることもあるでしょうから」ディランのその声にメアリーは初めてその存在に気がついたらしく、一瞬硬直してすぐに顔が真っ赤になった。しかし、出てきてしまった手前逃げ帰るのも失礼だと思ったのか、ショールをぎゅっと握りしめて羞恥に耐えつつ震える声を発した。
「ええ、もちろんです。それでは、その失礼します。行きましょう? アミィ」扉を閉めるなり、メアリーはベッドまで一直線に向かいその側に膝をつくとベッドに深く顔を埋めた。
「ああ、どうしよう! アミィ、わたしきっとはしたない女って思われたに違いないわ! まさかアミィはそんなこと思ってないわよね。だって、わたし、驚いてそれどころじゃなかっただけなのよ」メアリーはそのままえんえんと泣き始めそうなくらいだったが、アメリアの心中を思うとずっとそうしているわけにもいかなかった。自分のことを後回しにして、メアリーはアメリアの側に駆け寄ってその両手を優しく包み込んだ。
「ごめんね、アミィ。あなたの方がよっぽど辛いはずなのに……それに比べたら別に、肌を見られることくらい大したことじゃないわ。本当よ、ちょっと取り乱したけど……ジョージアナなら使用人がきっとよくしてくれるわ。さぁ、ここに座って。ああよかった、貴方まで倒れたらわたしも倒れちゃうもの。お水でも飲んで、さぁ」
 アメリアからみれば今介抱が必要なのは自分よりもメアリーの方な気がした。相変わらず、耳まで真っ赤にして動揺が手に現れて水差しから大量の水を机にこぼしていた。
「わたしがやるわ、メアリーは座ってていいわよ」
「そんなわけにはいかないわ。だってあの人から申しつかったもの。はしたない上に約束も果たせないくらいなら……」
「もうだいぶ気分がいいのよ。さっきは……本当にひどかったけど。でも今は平気よ。さぁ、変わって」メアリーはまだ抵抗していたが、確かに今の自分では水差しの水をすべて使っても一人分のグラスしか用意できないだろうと判断するとしぶしぶ水差しから手を離し、ベッドに腰掛けた。黙っているとさっきの痴態を思い出して泣き出したくなるので、メアリーは他愛もない話を続けようと努力したが、何を話しても頭の中は恥ずかしさでいっぱいで、すぐに話は止まってしまう。
「きっとあの人なんとも思ってないわよ。事故みたいなものだし、あなたの優しさからきたものだってちゃんとわかってるわ」アメリアが水の入ったグラスを差し出すと、メアリーはそれを手に取り涙で目を潤ませた。
「ああ、アミィって本当に優しいのね……。わたしなんて自分のことでいっぱいいっぱいなのに、こんなにわたしのことを気遣ってくれるなんて……本当にありがとう……」
 二人は水を飲みながら、しばらく他愛もない話を続けた。そうしているうちにメアリーも落ち着いたらしく、顔の赤みがだいぶ引いてきた頃に使用人が部屋に戻ってきた。
「ジョージアナさまがお目覚めになりましたよ。今は部屋のベッドでお眠りになられてます。一応使用人を一人つけていますけど、それにしても相当ショックをお受けになったみたいですね?」使用人はアメリアの事をじぃっと見た。使用人はどうやらアメリアのことを疑っているらしかった。あながち間違いではなかったので、アメリアは何も返すことはできずに、視線を小さく下げるだけだった。メアリーはその非難げな視線に気がついたのか、アメリアをかばうように声を上げた。
「きっと疲れていて、何か行き違いがあったんでしょう。人って疲れていると色々敏感になるものだから、今日は沢山歩いたし、仕方のないことよ」メアリーからしてみれば、優しいアメリアを庇うのは当然のことだったが、アメリアは庇われる度に自分の軽率な発言を恨む気持ちでいっぱいになった。
「ところでアメリア、体調はどう?」
「わたしならもう平気よ」
「よかった。それじゃあ、わたしが着替え終わったら一緒に階下にいきましょう? わたしってラッキーかも。一人であの場に出ていくのってちょっと緊張しちゃうもの。でも無理はしないでね。顔色はだいぶ良くなったけど、まだ本調子じゃないだろうから。あ、わたしのことは気にしなくていいからね。なんだか大したことがないような気がしてきたの……やせ我慢じゃなくてね。だってあの人悪い方には見えないし……」あの場面を思い出したのか、メアリーはまた顔を少し赤くしただけで今度は取り乱すことはなかった。
 メアリーが着替えたのは淡い緑色のドレスでこれも言うまでもなくメアリーによく似合っていた。アメリアも走り回ったせいで崩れた髪型とドレスを直し、準備が整うと二人は揃ってサルーンへと足を運んだ。階段の途中でメアリーは立ち止まり、とても神妙な面持ちでアメリアの顔をじっと見つめた。
「ねぇ、アミィ。わたし、あなたに折り入ってお願いがあるの」
「お願い?」
「ええ! 今日この場でアミィの婚約も発表しましょうよ。もちろん、あなたとリックが良ければ……なんだけど。その名誉をわたしに譲ってくれたら本当に嬉しいなって思って」
 アメリアは何度か目をぱちぱちとさせると「もちろんいいわよ」とあっさりと答えた。両親に話を通してはいないとはいえ、いつかは本当に結婚するつもりだったし何か不都合が起こる未来も考えられない。それにきっと、リックの婚約者なのだという自覚が自分にも生まれれば二人の未来についても考える気が湧くだろう……今の所はそんなことうんざりして考えたくもないけど。メアリーは溢れんばかりの笑顔を浮かべて、アメリアの両手を優しく握った。
「本当に? ありがとう、あとでリックにも聞いてみるわ。わたしね、アメリアのことは一番の友達だと思ってるからこの場でそんな幸せな発表をできたらどれほどいいかってずっと考えてたのよ。リックも許可してくれるといいんだけど……」メアリーは両手の指をぴったりとくっつけながら天井を仰ぎ見てその未来を思い描いた。
 サルーンへ舞い戻るとメアリーの予見通り、視線はどちらかというとアメリアの方に集中した。だからといって全く集中されないというわけにはいかず、酒の回った男たちが指笛を鳴らして今日の主役をもてはやそうとするとメアリーはすっかり萎縮してしまって、顔を赤くしてアメリアの後ろに隠れた。アメリアとしては主役を立てたかったのでこれほど落ち着かないこともなかったが、メアリーは本当にホッとしているみたいだ。「アメリア、本当にありがとう。その、一緒に向こうまで行ってくれると嬉しいんだけど……こんなところで一人にされたらわたしもジョージアナみたいに気絶しちゃいそうなのよ」二人は人混みを避けて壁際の長椅子まで足を運んだ。天鵞絨張りの長椅子に腰を下ろすとメアリーはやっと落ち着けたらしく、小さく息を吐いた。
「メアリーったら、わたしがいなかったらどうするつもりだったの?」
「右手と右足が同時に出て笑いの的になったに違いないわ。本当にわたしってラッキーね――あ、その、ジョージアナのことは本当に可哀想だとは思うんだけど……わたしって本当に無神経でひどい女ね。気を悪くしないでね、そういうつもりで言ったわけじゃないの。ただ、友達に恵まれてるなって思っただけだから」
「そんなこと言われなくてもわかってるわ」
 メアリーがホッとした笑みを浮かべると、その時、リックが人混みを抜けてえらく神妙な面持ちを浮かべながら近づいてきているのが見えた。その雰囲気は戦地に赴く兵隊さながらに決意を伺わせるものがあって、その決意といつものどこか気弱な雰囲気が合わさってなんだか可笑しかった。普段ならアメリアと目を合わせるだけでも狼狽えるリックがこうして自らアメリアに接近する勇気を抱いたのには訳があった。つまり、ジョージアナが倒れたと風の噂で耳に入れたリックは妹思いのアメリアはさぞ心配しているに違いないと思い、その心配を紛らわせて自分の株をあげようと考えたのだ。実際にあと一時間ばかり早くその決意をしていたならアメリアはリックに尊敬の念を抱いたかもしれない。
 意気揚々と近づいたリックはその場にメアリーもいることに気がついて、もしかしてまたいつもの間の悪さを発揮したのだろうか? と不安に駆られたが、それはメアリーの天使のような微笑みによって払拭された。
「リック! 丁度よかったわ。後で会いに行こうと思っていたのよ。実はね、リックに相談があるの。二人の婚約発表をこの場でわたしにやらせてもらえないかしら。もちろん、リックがちゃんとした場で発表したいっていうならわたしはそれに従うけど……実はね、アメリアにはもう了承をもらっているのよ。驚いたでしょう?」
 リックは驚いてアメリアのことを凝視したがアメリアは涼しい顔で目をぱちぱちとさせるだけだった。リックはあの輝かしい日以来アメリアが自分につれないことに思い悩み、ついにはやはり揶揄われていただけなのだと暗い妄想に耽るようになっていたのだ。だというのに、この進展はどういうことなんだろう。まだ彼女の両親に話をつけてないとはいえ、アメリアが社交界に大々的に告知するのを許可するなんて! まるで社交界の公認の仲にしたいみたいじゃないか! もちろんアメリアはそんなことまるっきり考えてはいないが、リックはアメリアの行動をそう解釈した。するとみるみるうちに体中に誇りと自信が溢れ出して、全身に活気が溢れるのを感じた。
「ええ、もちろんです。ミス・スレイターがそういうのなら……僕は今すぐにでも構いません!」リックの威勢のいい答えにメアリーは花の咲くような笑顔を浮かべた。
「本当に!? 嬉しいわ、二人ともわたしのわがままに付き合ってくれてありがとう! わたしすぐにでもお父さまに報告してくるわ。ちょっと待っててね」そう言い残すとメアリーは足早に駆けて人混みの中へと消えていった。リックはその後ろ姿を目線で追いながら、誇らしさに胸をいっぱいにしながら、更なる勇気を胸にアメリアに向き直った。その顔には柄にもなく勇者の如き勇ましさが浮かんでいる。
「その、ジョージアナが気絶したって聞いたけど、大丈夫でしたか?」
「ええ、今は眠ってるって」
 アメリアが思ったよりも冷静に告げたのでリックは逆に動揺してしまった。リックの脳内だと、今にも泣きそうな声色ですがりつかれるという予定だったのだが。アメリアはディランの冷静さとメアリーの果てしない優しさを存分に浴びて、すっかりと復活していたのだ。リックは一頻り動揺して、それから二人の間には長い沈黙が訪れた。
 サルーンは美しく優しい主役が戻ってきたことでますます賑わいをみせて、あちらこちらで楽しそうな談笑が響き渡っている。リックは長考の末に「それはよかった」と小さく言葉を返したがその返事は騒音に掻き消された。サルーンでは今や数々の会話が賑やかな活気を持って繰り広げられていた。淑女が控えめに、しかし苛烈に紳士を取り合う声。紳士たちの政治談義。幸せな新郎新婦をもてはやす会話。リックの頭の中には微かに続く言葉も思い浮かんでいたのだが、その音の波に攫われてすっかり何を言おうか忘れてしまった。どうにかこうにか振り絞った声は頼りなく聞こえて自分でも肩を落とすほどだ。
「あの……今日もダンスがあるらしいですね」
「そうらしいわね」思ったよりも自分の声が暗かったのは心はともかく体が疲れ切っていたからだ。ダンスであれば何時間でも踊れるアメリアも、不安に駆られながら終わりのない悪夢を走るのは相当堪えた。ただ、そんなこと露にも思わないリックはきっと自分が何か気に障ることをしてしまったのだと勝手に思い込んで勝手に萎縮した。
 アメリアはリックの勘違いにはすぐに気がついたものの、いちいち訂正してリックの気を和らげてやる気にもならず、アメリアはぼんやりと会場を見つめながら柄にもなく考え事をしていた。ジョージアナが気絶する前に顔を真っ青にして呟いていた言葉の数々。喀血、結核……どこかで聞いたような気がして記憶の引き出しを開けたり閉めたりしてみたものの、記憶は散らかるばかりで目的のものはいつまで経っても見つかりそうにない。
 二人の間に気まずい沈黙が流れる中、どこからともなくシーッと鋭く息を吐く音が聞こえ、サルーン内の会話はデクレシェンドで小さくなっていく。招待客たちは皆不思議そうに首を傾げ、皆が一様に壇上を眺めた。壇上には今日の主役である二人が立っている。相変わらずメアリーは人に注目されるのが気恥ずかしいらしく顔を真っ赤に染めていた。
「紳士淑女の皆さま、本日はわたしと……それからこの美しい妻のためにお集まり頂き誠にありがとうございます。淑女の皆さんのお待ちかねであるダンスに移る前に、先程メアリーから耳にしためでたい事柄についてお話する時間をいただければと思います」
「先日のベネット家での贅を尽くした婚約発表は記憶に新しいと思います。更に今夜の結婚披露宴……そしてこの場にはもう一組のカップルが存在するのです。わたしの愛すべき妻のために、公表する許可を頂けた愛国の徒を紹介しましょう。リック・アボットとアメリア・スレイターです!」
 会場の視線が一斉に壁際のアメリアとリックに向けられ、一拍置いてから淑女たちの悲鳴のような歓声と紳士たちのどよめきが湧き上がり、会場は一気に混乱に包まれた。特に紳士たちの混乱ときたら、一体どうしてアメリアはよりにもよってあのリック・アボットなんかと! というところに集約されている。生まれて初めてこれほど大勢の目に曝されることになったリックは少し我を失って興奮気味にアメリアに囁いた。
「わぁ、すごいですね……みんな僕たちを見ていますよ! ほら! あちこちで歓声が沸き起こって……これって、お辞儀か何かをした方がいいですよね?」昔から英雄のようにこうやって誰かに注目されたかったことを思い出してリックは有頂天だった。何しろ、この歓声(そのうちの半分は異議申し立ての声だったがリックにはそう聞こえたのだ)は英雄の凱旋よりも大きく、力強いではないか! そう思うと自分がなんかとてつもない偉業を達成したような気持ちになる。ああ、それに隣にはこんなに美しい未来の妻を置いているだなんて!
「好きにしたらどう?」アメリアの声はそれなりに冷たかったがリックはそんなことまるで気が付かなかった。何しろアメリアにとって注目を浴びるのは日常茶飯事だったし、その上、隣にいる男が子供みたいにはしゃぎまわっているのが妙に馬鹿らしく思えてならないのだ。アメリアの返答を受けて、リックは意を決して会場に向かって何度かお辞儀をしてみせた。リックの一礼はそれはそれはぎこちなくて、前回のディラン・エドワーズがしたものよりも随分見劣りしたが、その瞳には確かな自信と得意げになる気持ちが溢れ出ている。アメリアはそれをぼうっと見つめながら、思考に耽った。
 そういう意味でいえば、ディラン・エドワーズさんの対応は素敵だったわね。堂々としていて、舞い上がることもなかったし、傍目からみても素敵だったし――と考えてアメリアは急に天からデコピンでもお見舞いされたような気がした。わたしったら、なんてとんでもないことを考えてるのかしら! 一応は、未来の主人の隣だっていうのに、この人よりも他の人の方が素敵だなんて――でも、そう思うのは事実だし、それとこれとは別問題だわ。結婚するからって他の男性を好ましく思ってはいけないなんて訳じゃないし。
 メアリーの面目を潰すわけにもいかないので、アメリアもそれなりのお辞儀を披露したが見る人が見ればやる気がないのもすぐにわかっただろう。それでも、努力してリック以外にはまるで興味がありませんみたいな、そんな風を装うのは何よりも難しいことだった。何しろ生まれてから今まで、この小さな頭の中は無限の紳士たちへの憧れと尊敬と思い出でいっぱいなのだから、今更一人に絞れと言われた所で無理がある。そんなわけで、アメリアのお辞儀も適当なものだったが壇上のメアリーは大満足らしく、子供みたいに小さな両手を可愛らしく叩いて目には感動の涙を浮かべていた。この中で純粋にアメリアを祝う気持ちでいるのは明らかにメアリーだけだった。他の娘たちはどちらかといえば、やっと鬱陶しい女がいなくなると喜んでいただけだし、紳士たちに関しては祝ってすらいないのだから。それでもメアリーは会場全体がアメリアを祝福していると確信しているらしく、一頻り感動に浸ってからアンディ・ヴァンスに向き直り、純粋すぎる瞳である提案を持ちかけた。
「ねぇ、予定だと最初のリールはわたしたちだけで踊ることになっていたけど……アメリアとリックも一緒に踊っていいと思わない? それから、アンナとエドワーズさまも。確かにこの会の主役はわたしたちだけど、婚約だってそれと同じくらい喜ばしいことでしょう?」この提案にアンディは困った顔をした。アメリアが踊るのならば、この美しい妻を招待客に見せつける機会はほとんど奪われてしまうに違いない。しかし……とアンディはメアリーの澄み切った純粋な瞳を覗き見た。
「そうだな……まぁ、きみがそういうのなら。仕方ない」メアリーを自慢できる機会が失われるのは手痛い損失だが、彼女を悲しませるよりはいくらかマシだ。アンディがその旨を高らかに宣言すると会場はますますの歓声(と、どよめき)に包まれ、リックは一成一番の勇気を振り絞り、アメリアの手を握った。
「ミス・スレイター……その、もし、よければ……一緒に踊りませんか? 今日の主役もああいっていることですし」もう少しロマンチックに誘えないものかしらね。この人、と思いながらもやはりメアリーを思えば断るなんて選択肢はなから用意されていない。
「ええ、もちろん。最初からそのつもりでしたわ」と答えたその瞬間、母のことが頭をよぎり心臓が大きく脈打つのを感じた。それから、妹の手厳しい批判を思い出して、心の中に暗雲が立ち込めたような気がした。普段ならこんなつまらないこと思い出しもしないのに、妙にセンチメンタルな気持ちになるのは未だにさっきの疲れが残っているからだ。アメリアは首を振って、その暗い気持ちを振り払った。
 母の事は一旦記憶の奥底に封印しよう。そんな嫌な事柄を一人で考えるなんて、こっちの気がおかしくなっちゃうもの。それよりも今はこの場を楽しむことよ。何しろ、今日までずっと楽しみにしてきたんだから。アメリアは酒に酔うように一旦この素敵な場に酔いしれることにした。それはまさしく現実逃避だった。でも、それがなんだっていうの? ジョージアナだって気絶という逃避をやってのけたのだから、わたしだってこのくらい許されるはずよ。

第六章 四話

 リックの気合は十分だったが如何せんそれが空回りしがちで、ダンスは相変わらず退屈だった。肩や手に妙に力が籠もっていて、なんだか妙に疲れるし、そのせいで重心がどこかへ行ってしまうものだから身を委ねたらそのまま倒れそうな不安定さがあるのだ。本当はもう倒れ込みたいくらい疲れ切っているというのに、テンポの合わないリードに振り回されるのはただ立っているよりもよっぽど辛いのだ。それに、どうやらリックは二つのことを同時に出来ないらしく、踊りに夢中になれば一言も発せないほどに集中してしまうし、逆に会話に夢中になれば足が疎かになり、何度もアメリアの足を踏みつけた。
「本当に、この人どうしていつもこうなんだろう? 話しながら体を動かすのがそんなに難しいことかしらね? まぁ、メアリーが楽しそうだからいいけど……でもそういう特別な理由がなかったらリックと踊るのなんてお断りよ。普段の五倍は気を使わないといけないんだもの。――それにしても」とアメリアはもう一組の方に視線を向けた。「それにしても、ディラン・エドワーズさんって本当にムカつくくらいダンスがお上手だわ。あの人がわたしに夢中になって我を忘れるくらいになったらどれほど心が満たされるかしらね。まぁ、前回は手痛い敗北を味わったわけだけど」どうやらディラン・エドワーズは今まで自分が堕としてきた男たちとは何かが違うらしい、とアメリアは冷静に分析した。ちょっと優しくして、ちょっと特別な笑顔を見せただけでアメリアに陶酔して心ごと明け渡してしまう、そういうある種幸せな愚かさとはどうやら彼は無縁だった。それどころか、こちらのそういうあくどい考えを見透かして、馬鹿にするのが大層好きらしいし。「でも、今日の彼は親切で優しかったわね? 一体どういう心境の変化なんだかわからないけど……。ま、何にせよ、わたしの目的に変わりはないわ。わたしが困っていたら助けずにはいられないくらいには気になってるってこともわかったし、わたしに婚約者がいようが、ディラン・エドワーズさんがアンナの婚約者だろうが関係ないわ。わたしを前にして冷静でいるなんて許せないもの。絶対にわたしに熱をあげさせてみせるわ」と思ったところで、アメリアの思考はリックが足を踏みつけたことでぶつ切りになった。アメリアはため息を押し殺しながら自分たちを観察する紳士の顔をちらりとみた。
「まぁ、いいわ。今だけは我慢しよう。この義務みたいな一曲さえ終わればあとは誰とだって踊り放題だもの」長い一曲が終わり、リックの下手なダンスから解放されるなりアメリアは次のパートナーを探すために会場をぐるりと見回し、そしてちょっとした違和感に気がついた。普段ならうっとうしいほど付き纏い、どうにかアメリアと踊る名誉を授かりたいと目をギラつかせる男たちが誰も話しかけてこないのだ。遠巻きに自分を観察する視線だけは感じるものの、誰も決して近づこうとしない。アメリアは目をぱちぱちとして首を傾げた。自分の周りに取り巻きがいないなんてどういうこと? しばらく頭を捻ってからアメリアは初めて婚約発表の持つ重大な意味を理解した。
 結婚するからといって他の男性と楽しい思いをしてはいけない訳がないと思っていたのは自分だけで、普通の倫理観を持つ男であれば婚約を発表した女に我先にと近づいて甘い言葉をかけたり、気を惹こうと努力することはないのだ! ましてや二人きりでダンスを踊り手に触れ、体に触れ、心にまでも触れようとするなんて考えるだけで罪というものだろう。アメリアはそれに気がついてひとしきり愕然として過去の軽率な自分を途端に恨めしく思った。まだまだ社交界の頂点から降りるつもりはないというのに、自ら終止符を打つような馬鹿な真似をしているとは! アメリアはクラクラして壁際に置かれた椅子に成す術なく座り込んだ。
 リックはアメリアの取り巻きがいないことを良いことに、堂々とアメリアの隣という特等席を陣取り、どうにか二曲目も一緒に踊ることができないかと気の利いた誘い文句を考え始めた。しかし考えれども考えれども陳腐なセリフしか頭には浮かばず、そうこうしている内に二曲目のワルツが始まってしまい静かにうなだれた。「三曲目はきっと一緒に踊ろう。それにしたってまさかご両親から許可を得たわけでもないのに、婚約を発表しようとするなんて。ミス・スレイターはきっと僕のことが本当に好きでたまらないんだろうな! 今だって僕が誘えば花のような笑顔を浮かべて手を取ってくれたに違いないし、きっと今不機嫌そうに見えるのは僕がもじもじしているから嫌気がさしたんだろう。それか、もしかしたら僕と一緒だから緊張しているのかな……そうだとしたらなんて誇らしいんだろう! きっと駆け落ちしてでも僕と一緒になろうとするに違いないな」リックがそんな妄想に勤しむ中、アメリアは未だに現実を受け入れられず悶々とした時間を過ごしていた。
「まさか、このわたしがいつも内心で馬鹿にしている壁の花になり下がるとは! ああ、本当に婚約発表なんてするんじゃなかった!」
 アメリアは羨望の眼差しで軽やかに踊る娘たちを見つめた。それぞれがとんでもなくめかし込んでいて、あわよくば自分もメアリーのような幸せな花嫁になりたいと思っているのが手に取るようにわかった。さらにはアメリアがパートナーに事欠いて壁際で不貞腐れているとみるや、いつもの仕返しをするみたいに娘たちは見せつけるように何倍も優雅に踊ってみせた。それが更にアメリアの苛立ちを加速させて、心に暗い陰が立ち込める。
 二曲目が終わるとリックは意を決してアメリアをダンスに誘ったが、その返答はなんともつれないものだった。
「いやよ。何だか今日はすごく疲れてるし。それにあなたとこれ以上踊ったらわたしの足がぺちゃんこになりそうだし。お願いだからわたしのことを思うなら一人にさせて」
 きっと受け入れられるだろうと思っていたリックは驚いて声もでなかったが、このアメリアの不可解とも取れる態度にはすぐに納得がいった。「きっと、さっきのダンスで緊張して疲れているんだろう。いつも堂々としているから忘れそうになるけど、ミス・スレイターだってか弱い女性なんだから。それにしたってなんて可愛い人なんだろう! そうだ、あとでさり気なくお水でも渡したら喜ぶだろうか? うん、そうしよう。それから甘いものも持ってきて――きっと喜んでくれるに違いない」相変わらずの的外れな想像をしてリックは席を外した。まさか自分の妄想がほとんど正反対であることなんて思いつきもしない。
 アメリアがリックに席を外すように頼んだのには二つの理由があった。まず一つ目はいつまでもリックが隣にいたのでは、たとえ自分と踊りたいと密かに思っている人が居たとしても近づくに近づけないと思ったからだ。いくらなんでも婚約者を隣に置いている相手に近づく愚か者はいないらしい。でも、リックの目がないところなら――もしかしたら、取り巻きが戻ってきてまた良い思いができるかもしれない。二つ目の理由はもっとシンプルで、いい加減リックのつまらない話に相槌を打ったりするのが面倒になったからだ。
 アメリアは期待を胸に会場の紳士たちを見回した――が、思ったような成果は得られなかった。目は合うものの、誰一人近づこうとはせずあくまで静観を決め込むつもりらしい。
「あーあ、つまらないの! みんなあれほどわたしのことを愛しているだとか何だとかって言ったのに、婚約したら何も言ってくれないどころか近づいてもくれないのね。所詮はわたしへの思いもその程度ってこと?」
 今や紳士たちとの間にはとてつもなく分厚い壁を感じる。もうその指にも肩にも触れられないようなとても分厚い壁だ。それどころか声が通るのかすら怪しいものがある……。だからといって、他の娘たちが楽しそうに踊るのをただ眺めるだけなんていうのはアメリアにとっては耐え難い苦痛で、アメリアは必死に紳士たちに天使の微笑みを向けてみたがやはり食いつく男は誰も現れなかった。体は勝手に音楽に合わせて揺れ動くというのに、一緒に踊ってくれる相手だけがいない。
 その上、更に面倒なことに、男性はこの微笑みをどうにか躱すというのに、呼んでもない女ばかりが普段の鬱憤を今こそ晴らしてやろうとアメリアの周りに集まってきた。
「あら、アメリアったら退屈そうね。今日は踊らないの?」
「なんだかこうしてアメリアが一人でいるのって珍しいわね」
「なんだか今日は男性の数が多いような気がしない? わたしなんてもう両手いっぱいの人からダンスの申込みを受けちゃって困ってるの」
 娘たちの嫌味を聞く度に心の奥底で黒い感情が渦巻くのがわかった。わたしはこんなに踊りたくてたまらないっていうのに! それにこの中でわたし以上に可憐に踊れる女が存在するっていうの? それなのに、こんなところでダンスの相手もなしにこんな品のない悪口を聞くしかないなんて!
「よかったじゃない。でも気をつけてね。あなたたちの踊りって拍子も動きもしっちゃかめっちゃかで見るに堪えないから」
「それでも踊らなかったらこの場に存在しないのと同じだと思うけどな」
「よく言うわ、普段は壁の側がお決まりのポジションだっていうのに!」
「でも今日は違うもの。誰かさんのお陰で」
 他の娘たちの悪口であれば我慢できたが、それがアンナ・ベネットによる悪口となると途端に我慢の限界になった。近づいてきたアンナは高飛車に頭を反らし、意地悪を絵に描いたように眉をあげている。
「アメリアったらてっきりエドワーズさまを狙ってるものとばかり思っていたけど……貴女にも素敵な縁談があってよかったわね? とってもお似合いだと思うわ」アンナは目を細めて扇子を口元に当てて嫌味っぽく笑った。その笑みは遠回しにあの程度の男しか捕まえられないなんて、と言っているのがはっきり聞こえた。メアリーも同じようなセリフを言っていたはずだが、一体どうしてこうも差が生まれるんだろう。血管が沸き立つのを感じながら、アメリアはアンナを睨みつけた。
「どうもありがとう。あなたも愛想を尽かされないように気をつけたほうが良いわ。わたしはリックがいなくても、求婚してくれる相手には事欠かさないけど……あの人を逃したら貴女みたいな高慢ちき――失礼、自我の強い方は貰い手が見当たらないでしょうから。わたし、お友達がオールド・ミスだなんて呼ばれているのは見たくなくってよ。今日び婚約破棄がないってわけでもないし」
「それってどこの階級の話? わたしは聞いたことがないわね」アンナは何を言われても余裕そうな笑みを浮かべるだけだ。その余裕が異様に癪に障って、もしこの場にワイングラスかなにかでもあればそれを投げつけてやりたいような気持ちに駆られた。
 しばらくそんなやりとりが続き、やがて束の間の休息を堪能した弦楽団が美しい音色でワルツを奏でだすと、淑女たちはみな互いの顔を見合わせて口角をニッとあげ、沖に向かって波が引いていくみたいに一斉にその場を立ち去った。未だにパートナーの居ないアメリアだけを残して。立ち去った娘たちはみな約束した男性に手を取られ、アメリアのことなんてすっかり頭から抜け落ちたみたいに恍惚とした笑みを浮かべている。
「一体わたしが何をしたっていうの? こんな苦渋を飲まされるいわれは全くないわ!」アメリアは眉を顰めながら頬杖をつき、もどかしい気持ちでいっぱいになりながら娘たちの踊りを眺めた。踊りたくてうずうずしている両足は勝手にワルツの拍子を刻む。ああ、本当にあの娘たちダンスが下手だわ! わたしならもっと――!
 
「やぁ、楽しそうだね」頭上から声がしてアメリアはパッと顔をあげた。誰であれ構ってくれるのが嬉しくてアメリアはその瞬間、優しい笑みを浮かべたがその人物――ディラン・エドワーズ――を視界に捉えると少し気恥ずかしくなって視線を逸した。ディランは断りもなしにアメリアの隣に腰を下ろした。ソファーがぎしりと音を立てて沈み込み、なんだか少しドキッとした。それが悔しくてアメリアは至って平静を装って答えた。
「楽しくなんてないわ。それどころか退屈で退屈で死んじゃいそうよ」
「この前、出会ってからというもの、随分な進展があったらしいね。とりあえずは礼儀に則っておめでとうと言っておきましょうか」
「なんでそう含みを持たせた言い方しかできないのかしらね」
「それはわたしがまるで納得してないからさ。もちろん君の元恋人たちはもっと納得いっていないはずですけど……ま、いいでしょう。それにしたって一体どうして彼なんかを? これに関しては君の審美眼を疑わざるを得ないな。いい男――少なくとも彼よりマシな男なんてこの世にごまんといるはずですけど」
「まぁ。わたしの婚約者を侮辱しようって仰るの?」
「事実を述べるのが侮辱に当たるならそれも仕方ない」
「リックを選んだのは……別になんだっていいでしょう。一つ言えるとすればわたしはリックのことがきっと好きだし、彼を選んだのは運命みたいなものだったわ」
「運命。ああ、いい言葉ですね? 適当に決めたのを擁護するにはこれ以上最適な言葉が見当たらないな。いいや、別に白状する必要はありませんよ。ただ、わたしの予想はおおよそ当たっていそうだ」
「どういう下劣な予想を立てたんだか知らないけど、聞く気も起きないわね。そういう風にいうならわたしも聞きたいことがあるの。一体どうしてアンナなんて選んだの? あなたならどんな女性だって選び放題でしょう。地位で選ぶにしたって、もっと性格のいい人はたくさんいるでしょうし。見た目で選ぶのなら――」
「自分が選ばれないのがありえないって?」声をあげて笑うディランをアメリアは鋭く睨みつけた。
「わたし、あなたがいい人なのか悪い人なのかわからないわ。さっきのお礼の一つでも言ってあげようかと思ってたのに。どうしてわたしにはお行儀よく出来ないのかしらね」
「それは自分の胸に聞いてみるほうが早いだろうね。お転婆娘さん」
「あなたみたいな意地悪な人が恋人じゃなくて本当に良かったわ。リックは口が裂けてもそんなこといわないし――」
「面白みに欠ける? ああ、きっとたまたま選ばれたのが彼じゃなければ君ももう少し楽しい時間を過ごせていたはずだろうね。ご愁傷さま」
「そんなこと、思わないといえば嘘になるけど、でもわたし確かにリックのことは好きなはずよ」
「これはお笑いだな、まさか本当に自分があの男を好いていると思っているのか! 一体どうしてそんな勘違いが始まったんだか」
「どうしてもわたしとリックの仲が気に入らないみたいね……でも、婚約を発表したのは失敗だったかもね。まさかリックとしか踊れなくなるなんて夢にも思わなかったもの」こんなこと言ったら普通の男性なら面食らうわね。
「しばらくして、君たちの歪な関係が公になればすぐに女王の座に返り咲けるさ。君なしでこの社交界が成り立つとも思えないし……」
 その時サルーンの入り口に水の入ったグラスを手にしたリックの姿が見えて、ディランは心底楽しそうに目を細めて口角をあげた。それから喉の奥で低く笑うとアメリアの耳に顔を寄せて小さく囁いた。「さぁ、愛しの恋人のお帰りだ」わかりやすい揶揄にアメリアがムッとして睨みつければディランは笑いながら去っていった。
 リックは去りゆくディランを見つめながら首を傾げた。
「一体何の話していたんですか? 随分楽しそうでしたけど……」
「別に、何でもないわ」笑顔を浮かべればリックはすぐに気恥ずかしそうに目を背けた。
 やっぱりあの人は一筋縄じゃいかないみたい。でもいつかは――

第七章 一話

 メアリーの結婚式から数日、〈ネザーブルック〉は一見して普段の通りだったが、確実に何か黒い噂がどこかに潜んでいた。決して公の場には出てこようとはしないが、使用人が二人集まれば声のトーンを落としてなにやらヒソヒソと話し合うし、父も口数少なく何かを思い詰めているのが嫌でも伝わった。誰も口にはしないが、どうやらエレンは相当悪い状態にあるらしい。アメリアとしてはメアリーの結婚という喜ばしい出来事の余韻にいつまでも浸っていたい気持ちだったが、我が家はそれを良しとしなかった。家は誰か亡くなったみたいな静まりようで足音一つにすら気を使う状況だし、使用人たちは暗い顔をするばかりで話し相手になりもしない。まるで地面をじっと見つめていればエレンの病気が治ると信じているみたいに、皆口数を少なくしてじっと一点ばかりを見ているのだ。それどころか、オルコットなんて「実のお母さまが病に伏しているというのに、よくそんなに元気で居られますね」とか「奥さまが食べ物を一欠片も食べられないというのに、よくそんなにお腹に入りますね」とかいってくる始末。
「それなら、わたしが悲しそうにしたりご飯を食べなかったりしたらお母さまの病気が治るっていうの? なにかの儀式じゃあるまいし、わざわざ病人を二人に増やす必要がどこにあるのかしら。黙っていれば事態が解決するわけでもないんだから。わたしだって心配だけど、それをわざわざ態度に表す必要ってあるのかしら」
 アメリアはこの空気に本当に嫌気が差していたし、もっとおおっぴらにいうなら飽き飽きしていた。
 使用人たちが集まってコソコソと死期の話をしているのなんて見るだけでゾッとしたし、結核だとか喀血だとか葬式だとかそういう単語も本当にうんざりだ。それなのにそういう単語は最近では一時間に一回はどこかから風に乗って聞こえてくるのだから。みな、エレンの前では気丈なことを言ってみせるくせにその実、誰もエレンが病を克服するなんて考えていないらしい。希望をちらつかせながらいつ死ぬのか打算するなんてやりたくもない。
 だからアメリアはこのことについては深く考えるのをやめた。心の底から、母は大丈夫だと盲信することに決めたのだ。もっともそうでもしなければエレンが死ぬよりも先にアメリアの心が限界になって何かの病気にかかりそうだったし、まして使用人たちみたいに真面目くさった顔で床を見つめるほど暇でもない。
「こんな話題で持ち切りになるくらいなら、わたしの結婚について話し合われる方がまだ何百倍もマシだわ。あーあ、いっそのこと駆け落ちでもして強引に話題を塗り替えてやろうかしら」
 この件に関しては礼儀や規則を重んじるソフィーも珍しく同意見らしく、ここのところアメリアの部屋にますます入り浸るようになっていた。屋敷を埋め尽くす黒い噂もアメリアの部屋だけは立ち入ることができないのだ。
 そんな折に届いた叔母からの手紙はアメリアにこの家から逃げ出すとってまたとないチャンスとなった。どうやら噂は千里を瞬く間に走るようで、手紙にはリックとの婚約についての話題がびっしりと書かれていた。手紙にはところどころ『大層優雅に二人でワルツを踊った』とか『リック・アボットのお辞儀はあまりにも優雅で貴婦人が気絶するくらい』とか心当たりのない話も盛り込まれていたが、とにかくちょっとやり過ぎなくらいの喜びに満ち溢れた手紙だった。
 アメリアが目を輝かせたのはその手紙の後半部分だった。リック・アボットとの婚約発表の話題をひとしきり書ききれば、それに負けないくらいの熱量で『ぜひとも直接会ってお祝いを言いたいから、久しぶりに遊びにきたらどうかしら』と綴られていた。
「前回、アメリアの顔を見たのも半年も前のことですしきっともっと可愛いお嬢さんになっているに違いないと思います。まだシーズンには少し早いけど、貴方がロンドンをどこよりも愛していることは知っていますよ。それに、結婚式のドレスも仕立てなければいけないでしょうし……(気が早いというでしょうけど、喜ばしい出来事ですから)それに、丁度あなたによく似合いそうな布地を頂いたんですよ。そうでなくてもあなた宛てのプレゼントが山のようにあって置き場所に困るくらいです。婚約者のいるあなたに無理に受け取れとはもちろんいうつもりはありませんが、ちらりとみるくらいなら神さまも罰したりなんてしないはずです。それに、あなたがロンドンに戻ったらどれほど街が活気付くか! 想像するだけでも楽しみで仕方ありません。部屋に空きは十分ですから、ぜひとも遊びにいらしてください。追伸――もちろん数日といわずに一ヶ月は滞在してくださいね。ロッティ・アビー叔母より」
 アメリアは手紙を読むなりすぐに机に向かって返信を書き始めた。このもの暗い家から脱出できるならたとえ地獄からの招待でも喜んで受けたに違いない。しかもそれがロンドンというなら断る理由なんてどこにもなかった。アメリアは賀ペンを握り、ロンドンに住む恋人たちを想像して頬を緩めた。シーズンにはまだ早いが、アメリアがロンドンに来ていると知ればイギリス中のどこからでも、すぐに飛んでくるに違いない。相変わらずリックのことなんて脳裏にはなく、頭に浮かぶのは山のような男性に囲まれてちやほやされる自分の姿だけだ。
「アビー叔母さまへ。心の籠ったお手紙をありがとうございます。ご厚意に甘えて、一週間ほど滞在させていただきます」
 そのあとアメリアはすぐにその手紙を出して、旅行の準備をして、次の日の早朝にはソフィーを伴って家を経った。普段なら旅行ともなれば母と今生の別れみたいに抱き合って、父の頬に何度もキスをして、少し寂しそうにするジョージアナを慰めたりするものだが、今回ばかりはそのどれもなかった。アメリアが発つその瞬間ですらエレンは床に伏せていて顔も見れなかったし、ジョージアナはそんな母につきっきり。それどころか、旅行の話を切り出した途端鬼の形相で睨まれてそれ以降口も聞いてくれなかった。唯一父だけは玄関までやってきて見送ってくれたが、その瞬間ですら父はどこかぼうっとしていて心ここに在らずといった雰囲気だった。父に限らず、家中の人間はきっと数日が経ってからやっとアメリアがいないことに気がつくに違いない。
 アビー叔母さんの住むロンドンへは馬車で約四時間の道のりになる。長いといえば長い時間だが、女性という生き物は二人集まれば何百時間でも楽しい話題に花を咲かせることができるもので、アメリアとソフィーも退屈する時間はまるでなかった。その上、最近では家が暗いせいで明るい話題を振るのも躊躇う状況だったので、二人はここぞとばかりにメアリーの結婚やアメリア自身の婚約発表について言葉を交わした。
「それにしたって、どこの世界に両親に話を通す前に婚約を発表する人がいるんですか! そもそもご両親に話す前に婚約が結ばれていると思うのも大きな間違いですよ」
「でも反対されないのはわかりきっているじゃない。いつもは結婚しろ結婚しろっていうのに、いざとなれば反対するってソフィーったら変だわ。アビー叔母さんは喜んでくれたっていうのに、ソフィーは喜んでくれないの?」
「もちろん喜ばしいにきまっていますよ。ただ、手順をきちんと踏まなかったことに驚いているだけです。間違ってもこのまま、なあなあで結婚しようだなんて思わないことです。あとで奥さまと旦那さまにはきっちり話を通すこと! 固いこともいいましたけど、なんにせよ、明るい話題はいいものですからね。メアリーさまに続き、ついに次は我が家の番ですよ。はぁ、奥さまのお身体さえ悪くなければもっと盛大にお祝いできた筈なんですけどねぇ」
「でも、婚約発表も勝手にしたっていうのに、あんまり実感がわかないは一体どうしてなのかしら。メアリーはあんなにはしゃいでいたっていうのに、まだわたしとリックが結婚するなんて何かの間違いのような気がするのよ」
「誰だってそういうものに決まってますよ。きっと嬉しすぎて理解が追いつかないだけでしょう」
「そうよね。きっと嬉しいのよね……でもね、この件に関してあの|聡《・》|明《・》|な《・》ディラン・エドワーズさんは興味津々だったわよ。なんていってたかしらね……確か考え直したほうがいいとか、わたしが何か勘違いしているとか、とにかく散々いってくれたわ。わたし、あの人ってどうも気に食わないのよね。いや、気になっているのかしら? まぁ、どっちでも同じようなことね。ねぇ、ソフィー? 一体どうしてあの人はわたしの魅力に骨抜きにならないのかしらね」
「そんなの紳士の育ちがいいからに決まっていますよ。それにとんでもないお金持ちとなれば見る世界が違うんでしょう。アメリアさま、一応釘を刺しておきますけど。いくらアンナさまと仲が悪いからって、その紳士を奪おうなんて考えてはいけませんよ」
「あら、そういうのって繋ぎ留められない方が悪いと思うわ。それに、もし本当に聡明な人ならわたしの誘惑なんかに引っかかるわけがないじゃない」
「アメリアさま。試すようなことはおやめなさい! そんな烏滸がましいことが許されるとお思いですか?」
「本当に紳士なら許すわよ。少なくともそうせざるを得ないでしょう?」
「いいえ。なりません。第一リック・アボットさまはどうなさるおつもりなんですか? 正式ではないとはいえ、婚約は発表しているんですから、周りがどう捉えると思います?」
「リックとは結婚するわ。これは別。ちょっとしたお遊びよ、きっと誰だって大目に見てくれるわ。見てくれないとしても、それは未来のわたしがどうにかすればいいことだし」
 そう、何にせよ面倒なことはあとで考えよう。今はロンドンでの暮らしを満喫すれば良いのだ。

 アメリアが家からの脱出を試みる間にも、ダーシー医師とジョージアナの苛烈な戦いは戦禍の炎をめらめらと燃やしていた。事の発端は、披露宴の後、ジョージアナが家に帰って窮屈なドレスを着替えるよりも前に書いた一通の手紙だ。殴り書きの手紙の内容は本当に酷いもので、細々した手紙のルールは全て置き去りにして、その上スペルも文法も間違えばかりだったが、そんな細かい事考えていられるほどジョージアナは冷静ではなかった。とにかく一刻でも早く、あの悪魔にこの事実を突きつけ糾弾して十字架に磔にしてやりたい気持ちでいっぱいだったのだ。突き動かされるようにペンを走らせて、書いた手紙の内容はつまりこういう内容だ。”母は喀血しました。恐らく結核を患っています。ダーシー医師、あなたは本当に無能な医者です。疑いようもなく! あなたに母を任せることは出来ません。さしあたり、直ちに紹介状を書いてください。”
 この手紙に対する返事は数日後に返ってきた。その返信は妙に丁寧で、読むのも苦労するほど堅苦しい体裁を取っていた。長々とした長文で小難しい専門用語も混じっていたが、要点はジョージアナが送った手紙よりもよっぽどシンプルだった。”一度わたしが直接診断したほうが良いでしょう。明日の午後、そちらに向かいます。紹介状の件に関してはそこで。”
 ジョージアナはこの返答に当然納得しなかった。それどころか怒り狂って手紙を読むなりそれをビリビリに破いて暖炉に焚べてしまった。つまりは医者はなんだかんだ言いつつ、紹介状の件を先延ばしにしたのだ。ジョージアナはその長ったらしい文章から、医者がこれっぽっちもその気がないということをしっかり読み取っていた。
 医者の心変わりの理由は至極単純なもので、つまりは名誉に目がくらんだのだ。結核といえばロンドンでもどこでも大流行している病で、明確な治療法も見つかっていない。医者の見立てによればエレンの結核はまだ初期段階のものだった。つまり、これをどうにかこうにか(本人の免疫のお陰にしても)治すことができれば自分の経歴に箔がつく。死ぬ前に一度くらい医学誌に名前を連ねたいという欲求が抗いがたいほど大きくなり、患者を救う大義よりも自分の中で大きく膨らんだのだ。
 その返信の次の日、宣言通り医者は〈ネザーブルック〉にやってきた。応接間に座すジョージアナは怒り心頭という面持ちで、応接間に医者が入ってくるなり鋭い睨みを利かせた。
「ダーシー医師。一体どういうつもりですか? 早く紹介状をだしてくれませんか?」
 ジョージアナの鋭い視線に医者は一瞬怯んだが、すぐに落ち着きを取り戻した。身に纏わりついた虚栄心がジョージアナの鋭い視線を和らげている。医者は堂々とした態度を崩そうともせず、ひげをさすりながら当たり前かのようにゆっくりと発声した。
「その前に患者の容態を見るのが先だろう。スレイター夫人はどちらかな」
「わたしの手紙は読んでいただきましたよね。ダーシー先生にはもう診てもらいたくありません。今すぐに、紹介状を渡すかもしくはこの家から出ていって頂けませんか? 大切なお母さまを実験台として渡すわけにはいかないので」
 ここにアメリアがいれば、その可愛らしい笑みで場の空気を多少なりとも和ませることができたかもしれないがあいにくこの場にそういう役目はいなかった。応接間の空気は更に険悪になり、ダーシーは心の内にあった少しの罪悪感もどこかへ消えていく。
「随分、口の悪いお嬢さんですな。わたしは少なくとも、スレイター夫人のかかりつけ医でありますから、当然診察する義務があると存じますが。ところで、ジョージ・スレイターはどちらに? こういうことは本来家主と話す事柄でしょう」
「外科医が何を出来るんですか。一旦、お母さまの身体を真っ二つにして悪い部分を取り替えるおつもりで? もういいです。本当にうんざり、どうかお帰りください。紹介状とか、そういう正規の手順を踏むのも面倒です。直接門を叩きますから、さぁ、帰って」
 ダーシー医師は一瞬ぎょっとしたが、膨らみきった虚栄心の前ではそれも些細な問題にすぎない。医者は悪びれる様子一つなく、予め想定された問答を答えるように答えた。
「結核であるならば、むしろロンドンなぞ行かず、ここで療養したほうが良いというものです。劣悪な環境で悪化する病ですから」
 ジョージアナは苛々して、ダーシーのことを分かりやすく睨みつけた。浮浪者があの手この手で金銭にありつこうとするような、そういう狡い何かを感じる。結局は、母の命なぞどうでもいいのだ。何もできない自分がひどくもどかしくて、ジョージアナの瞳には涙が溜まっていった。
「むしろ、専門家であるわたしからいうなら――そうやって騒ぎ立てるほうがよっぽど患者に悪い。あなたもアメリアさんのようにロンドンかどこかへお出かけになった方がいいでしょう。ええ、そもそも心配するのはご自分の精神にもよくないですからな」
「わたしがお母さまの病気を悪化させてるっていうんですか? それも、こんな状態のお母さまをおいて遊びにいけっていうの? そんなの人でなしじゃない! 誰がアメリアみたいな人でなしになるものですか。病気のお母さまを放って遊びに行くなんて――本当に信じられない。わたしがお母さまのことをそれほど大切に思っていないとでも? アメリアは相変わらずお母さまのことなんてこれっぽっちも心配していないみたいだし、それよりも男性に囲まれる方がよっぽど好きみたいだけど……わたしはそんな風には考えられないです。だって、お母さまは最近ではほとんど何も口に入らないし、それどころか一日中苦しそうで話もできないくらいなのに……アメリアはいつも自分のことばかり。あんな姉を見習うなんてできるものですか」
 ジョージアナは姉を思い出して言葉尻を低くした。あの結婚披露宴での姉の行動についてはもちろんジョージアナの耳にも届いた。ただ、それは叔母がアメリアに宛てた手紙ほどに脚色されていて実際には程遠いもので、アメリアがこれみよがしに自身の婚約を発表しただとか、その割にはディラン・エドワーズさまとよろしくしているとかそういうものばかり。アメリアが妹のために言葉通り奔走したことはもちろん耳に届いていなかったし、アメリアの胸中なんてものも想像する気にもならなかった。そんなわけで、ジョージアナは少なくとも母の件に関してはアメリアへの信頼をすっかり失くして、一人で孤独の戦いをすることに決めたのだ。

第七章 二話

 結局、アメリアは当初の予定であった一週間をゆうに超える一ヶ月という時間をロンドンで過ごした。ロンドンでの暮らしは何かにつけてリックの名前がでてくる以外は本当に楽しいものだった。アビー叔母さんは可愛い姪を力いっぱいもてなし、名前も知らないような紳士が預けていった山のようなプレゼントに囲まれ、アメリアの予想通り噂を聞きつけて沢山の紳士が自分に会いにきてくれた。皆、再会を喜び、前のシーズンで会った時よりずっと美しくなったとかそういう言葉を山のように与えてくれるのだ。叔母は誰でもいいからアメリアの婚約を広めたくてしょうがないらしく、紳士たちを家に招き入れては喜々として吉報を広めていった。大抵はそのあと紳士の口数はずっと少なくなり、ソファーに座るアメリアの隣に得意げなリックの幻影が見える気がしてくるのだ。
 ただ、どうやら紳士たちの心にしっかりと根を張る倫理とか道徳とかそういうものも時間をかければどうとでもなるらしい。アメリアと一時間でも同じ時間を共有して、その緑の瞳が羨望の眼差しとなって自分に向けられたり、可愛らしい笑顔を向けられたり、それから二人きりになったときはもっと大胆にその手に触れて「やっぱりあなた以外考えられないわ」と目で訴えかけたりすれば、紳士たちも最初は驚愕するが、求められていると知れば悪い気はしないらしい。それに女性が誰しも囚われのお姫さまになりたがるのと同じくらい、男性は女性を助け出したい欲望に満ちあふれているようだ。そんなわけで、あっという間に悪党リック・アボットからアメリアを救い出す英雄像を脳裏に思い描いて、さっきまでのぎこちなさが嘘のようにアメリアと距離を縮めるのだ。
 そして紳士は仲間たちにこう噂を広めることになる。「アメリア・スレイターは婚約したらしい。でも彼女が本当に愛しているのは――」
 その噂が火種となり異議のある男たちは連日、山のように押しかけ、皆帰る頃には「やはり、アメリア・スレイターはわたしのことを愛しているに違いない」と確信するのだ。しかもリック・アボットという障害のお陰で紳士たちの愛は尚更激しく燃え上がりアメリアを喜ばせた。
 ロンドンでの一ヶ月は瞬く間に過ぎていき、いよいよアメリアが家に帰ることになるとアビー叔母は「あと二ヶ月は泊まっていったらどう?」と提案して、涙を目に浮かべながら別れを惜しんだ。それからロンドンでの暮らしを色鮮やかにしてくれた紳士たちも「必ず近いうちに伺います」と約束して、二人の将来を思い描き輝かしい笑みを浮かべた。
「この調子ならきっと次の舞踏会ではまたわたしが主役に戻れるに違いないわね」
 アメリアにとって都合のいいことは更に続き、家に帰れば一ヶ月前までは家中を覆い尽くし散々うんざりさせられた暗雲もどこかへと姿を消して、家には朗らかな空気が流れていた。一ヶ月前までは決して開かないと思った窓も今や全開に開けられ、春の心地よい空気を家に盛大に取り込んでいる。薄手のカーテンは風に煽られぱたぱたと靡き、庭園からはほんのりと花の香りが漂う。エレンはリビングの窓際に置かれたいつもの安楽椅子に腰掛け、そこから窓の外に広がる風景を静かに眺めていた。
「お母さま、今帰りました」
「おかえりなさい。今回は随分と長い滞在でしたね。まぁ、ですがきちんと返信を出していたのは褒めるべきでしょうね」母は病気なんて初めからなかったみたいにいつも通りアメリアのことを優しく出迎えた。アメリアのことを抱きしめると頬にキスをして、――未だに青白い顔をしているものの――優しく微笑んだ。母の後ろには背後霊みたいなジョージアナが立っていて、さも恨めしそうにアメリアを睨んでいる。
「アメリア、随分楽しかったみたいね」
「ジョージアナ、そういう言い方はおよしなさい。アメリアだってわたくしを心配する気持ちは同じはずですよ」
 エレンに言われてジョージアナは口を噤んだが恨めしそうに見る目だけは変わりようがなかった。
「体調が良さそうで安心しました。ダーシー先生の功績ですか?」アメリアの質問に答えたのはジョージアナだった。目を剥いて、いてもたってもいられなくなったようで、母の制止も無視して叫ぶ。
「馬鹿言わないで! あんなの黒魔術もいいところだわ。まるで科学的じゃない! まさか十九世紀にもなって古代の医術を体験するとはね……ダーシー医師のやってることは星占いと変わりないわ。お母さまが良くなったのは変に体を弄られることがなくなったからよ。決して治療のおかげじゃないわ。あんなの治療とも呼べないけど」ジョージアナはここ最近のダーシー医師の振る舞いを思い出して眉を顰めた。
「治療でも魔術でも、良くなっているのならわたしは気にしないわ」
「ああ、そうでした。アミィに良いお知らせができますよ。あなたときたら、ずっと正餐会を開きたがっていたでしょう。先日ダーシー医師からお許しを頂きましたから近いうちに執り行うことにしましょう。経過も良好ですし、いつまでも家に籠っているより人と接した方がいいとの判断です」
「そのせいでお母さまはここのところ療養が足りていないのよ」ブツブツ言っているジョージアナは無視してアメリアは目を輝かせた。それって本当!? なんて嬉しいんだろう! 我が家で催事をするなんて一体何ヶ月ぶりかしら!
「ジョージアナ。心配しなくても、わたくしなら大丈夫ですよ。むしろ少し動いた方が良いって自分でもわかるんですから。それに、可愛い娘たちの笑顔が一番の薬というものでしょう。できることならジョージアナの笑顔もみたいところですね。あなたは最近心配しすぎですよ。わたしはあなたのほうが病気にならないかと密かに心配なんですから」
 
 さて、リックはといえばメアリーの結婚式の次の日には屋敷を訪れ、両親に挨拶し正式な関係になろうと意気込んでいたのにも関わらず、いざ屋敷の前まで来てみれば家は暗雲に包まれ、背景に雷まで見える気がしたし、窓も扉も固く閉ざされてとてもじゃないがドアを叩く勇気はなかった。そういうわけでその日は情けなくも撤退し、そうして連日、玄関の前まで赴いてついにドアを叩く勇気が出たのはちょうどアメリアがロンドンに発った次の日だった。
 女中頭のオルコットが唇をへの字に曲げて、顎を高くしながら話してくれた内容によればアメリアはロンドンにいるらしい。今日こそは! と意気込んでいたリックはしょぼくれてしまい、いつもの卑屈が顔を出した。
「やっぱりミス・スレイターが僕を愛してるなんてまやかしなんだろう。ロンドンにもっと素敵な人がいて、駆け落ちの算段でも立てているのかも……いや、僕があの人を信じないでどうするんだ! 夫婦になれば僕が彼女を導く立場になるんだから」と、自分を励ましてはみたものの風の噂で運ばれるアメリアのロンドンでの生活はリックにはかなり堪えるものだった。毎日違う男性と歩き、夜にはいつものごとく山のような男性を連れているとか。それに彼女は実はリック・アボットなんてなんとも思っていなくて、本当に愛しているのは誰々だとか……それにしても一体本当に愛しているらしき人物が無数に湧いてくるのはどういうことなんだろう?
 そういう噂が耳に入るなり、リックは早く正式な関係になろうと決意を新たにするのだ。
「確かにミス・スレイターは移り気な人だけど両親に挨拶までしてしまえば流石に覆すことはできないだろう。それに彼女がこうして困った振る舞いをするのも僕の気を引きたいがためな気がするぞ……きっとメアリーの結婚式の次の日に扉を叩けなかった僕に怒っているんだ。それにしても一週間の予定だったのに随分長引いているな……いや、これも僕の忍耐力を試すために違いない。こんな機会僕の人生に二度と訪れないかもしれないんだから、間違いは許されないぞ」
 これを逃せば恐らく一生独り身か、もしくはかなり年上でプライドと偏見がぶよぶよの脂肪と服を纏って歩いているみたいな女と結婚するしかなくなってしまうだろう。それもお似合いといえばお似合いだったが、いくらリックといえど折角手にした千載一遇のチャンスを絶対に逃すまいとするだけの理性と分別は備えていた。
 アメリアがロンドンから帰ったという噂を聞きつけ、リックは次の日の午後には屋敷の前にやってきた。一ヶ月ぶりに見るアメリアはやはり格別の美しさで、リックの心の内側で柄にもなくどうにかしてこの人を自分の妻にしたいという強い欲望が芽生えるのを感じた。ああ、そしてそれはきっともうすぐ現実になるんだ。
「お久しぶりです。ミス・スレイター」
 アメリアは暖炉の側に置かれたソファーに優雅に腰掛け、その手には裁縫道具が握られていた。髪は耳の高い位置で編み込みになっていて残りの部分はシニヨンで可愛らしくまとめられている。リックはその髪に白い花が可憐に挿されているのをみてまるで天からの囁きがあって僕がくることを知っていたみたいだと密かに感動していたが、実際は今日訪ねると約束したロンドンの紳士のためのものだった。
「リック、久しぶりね! 今日はどうしたの?」
「その、僕たちの婚約についてそろそろご両親に話すべきだと思いまして……」婚約、というワードに反応してアメリアは露骨に機嫌を悪くしたがリックはまるで気がつかない。「ご友人もご結婚なされたことですしそろそろご自身の幸せを求めてもいい頃ではないですか?」アメリアはため息を押し殺しながら果たしてどうやってやり過ごすべきかと頭を捻った。
 自分の軽率な行いに悩まされるのはいつものことだったが今回は特にひどい。今ご両親に挨拶なんてしたら、次の舞踏会で約束されていたはずの女王の座は他の女に掠め取られるに違いない。失ってみて初めて分かったが、リックのために女王の座を明け渡すなんて絶対できそうにない。それに山のような紳士と踊りあかすこともできなくなるだなんて、想像しただけで気が狂いそうだ。結婚したらこの苦しみが未来永劫続くことになると思えば、結婚なんて愚の骨頂な気がしてたまらない。わたしったら、どうしてメアリーの結婚式が終わったらなんて言ったのかしらね? せめて来年の誕生日とか、もっと言いようはあったのに! そう思うとむしゃくしゃしてきて、アメリアは綺麗な布地を針で何度も突き刺して生地をぼろぼろに加工した。
「わたしはそうは思わないわ。えーっと、ほらお母さまの体調も優れないみたいだし? 今、挨拶になんて伺ったら驚いて病気が悪化するかもしれないじゃない」
「その、お言葉ですが……ここのところ体調も良さそうにお見受けします。それに、スレイター夫人も何か察するものがあるのではないですか……?」
 折角の布が穴だらけになってしまったので、もうこれ以上刺繍を続ける気にもならず、アメリアは膝の上にそれを置いて髪をいじり始めた。話が自分に上手く進まないのも腹が立ったし、リックのボソボソとした話し方も妙に癪に障る。いっそのこと普段みたいに盛大に振ってやりたいところだったが、それこそ母の病状を悪化させるような気がする。
「だからって急に悪化しないとも限らないじゃない」言葉に詰まりながらも苦しい言い訳を返す。
「それに、その、結核なのであれば、必ずしも治るとは……」リックは途中まで喋って口を噤んだ。いくら事実だとしても、当事者にいうべきことではない。ましてやそれが恋人とあらば尚更のことだ。たとえそれが夢物語であろうとも、絶対によくなりますと根拠もなく励ますのがいかにも紳士的な対応に思えた。リックが黙り込んだのをみて、アメリアはやっととんでもないことを言われているのに気がついた。もっとも、リックが心配したようにショックを受けることはなかったが。
「この人ったら何を馬鹿なこと言ってるのかしら。まさか本当に治らないとでも思ってるの? みんなそうだけど、どうして暗い未来ばかり想像したがるのかしらね。でも、これってチャンスだわ。もうこの人と話すのはうんざり! 都合のいい理由もできたことだし今日の所はお帰り願って、あと数日はショックで寝込んでるってことにしましょ。単純だからきっと簡単に騙されてくれるわ」
 アメリアは俯きがちに座っていたのでリックからその表情を見ることはできなかった。その表情さえ見えればアメリアがこれっぽっちもさっきの言葉に心を痛めたわけではないということがわかっただろうに!
 アメリアは口の中をぎゅっと噛んで目を潤ませた。ひどい演技だったが何せ相手はリックなので簡単に騙し通せた。リックはアメリアの瞳に涙が浮かんでいるのをみると狼狽え、アメリアの背中を撫でようか、それともハンカチを差し出すべきなのか、とひたすら混乱してその場に立ち尽くした。泣いている淑女に対する対応としては最悪だが、アメリアからすれば好都合だ。このまま強引に部屋まで帰ってしまおう。
「もう今日は帰ってください」
「そ、そんなわけには」
「だったらわたしがこの部屋をでていくわ。さようなら! しばらく顔も見たくないわ」
 アメリアはソファーからサッと立ち上がると、リックの隣を抜けようとした。
「ま、待ってください!」リックはアメリアの腕を掴んで引き留めようと思ったのだが、少し躊躇した結果狙いが外れてドレスを引っ張ってしまった。アメリアはドレスに痛覚があるみたいに勢いよく振り向いてリックを睨むと、さっきよりもよっぽど激しくリックをまくし立てた。
「ちょっと! ドレスを引っ張らないでよ! 本当に、貴方っていつもそう! わたしがどれほどドレスを愛しているかも分からないんでしょうね!」
「ご、ごめんなさい……」リックはすっかり萎縮してしまってなぜ呼び止めたのかすら一瞬忘れかけた。アメリアは腰を捻ってドレスの安否を確認したが、目に見える異常はなかったのでとりあえずほっと胸を撫で下ろした。本当にリックっていつもこう! 新しいドレスだってことにもまるで気が付かないし、気も使えないのよ。リックにむかついているうちに、アメリアはこの女性の扱いのなっていない男がどんな言い訳するのか気になってソファーに舞い戻った。ただしもう大人しくしていられる気はせず、腕を組み顎の頂点を高くあげた。
「で、なに? 言っておくけど、首の皮一枚繋がってる状況なんだからこれ以上わたしを怒らせたくないんだったら何も言わずに帰った方が賢明だと思うわ」
「その、これは大切なことなんです。なので、その……どうか話を聞いてくれませんか?」
「わたしのドレスよりもね。ええ、どうぞ。ただしまた挨拶がどうとかつまらないことを言いだしたら二度と敷居を跨げないようにしてもらうわ」
「そ、その、その件で……、うんざりさせているのはわかっています。けど、どうか聞いてください。その、僕は不安なんです」
「ふうん、そう。それで?」
 アメリアはつまらなそうに髪を指に巻き付けた。不安なのはこっちも同じだし、紳士ならたとえそう思っても口には出さないでほしいものだわ。男性よりも女性の方がよっぽど感じやすいものだし、紳士っていうのは女性を支えるものじゃないのかしら。
「というよりも、その、僕は怒っているんです。これは、不当な扱いですよ……。僕が拒絶されて何も感じてないと思いますか? それに、この一ヶ月どれほど不安だったかわかりますか? ミス・スレイターの噂はどこにいても耳に届きますし……不安と焦燥で夜もまともに寝られないんです。僕まで病気になってしまいそうなくらいなんですよ?」
「ふうん、そう。それで?」
「何も思いませんか?」
「そういう誘導尋問みたいなことってやめて欲しいわね。自分の望む答え以外受け付けないくせに。わたしがわざわざ気を遣って気持ちを言い当てる必要ってある?」
 アメリアはなんだか飽き飽きして、冷たい言葉を投げかけた。ああ、なんてつまらない会話なんだろう! こんなことなら部屋に籠もって、次の舞踏会のドレスを選んだり、もっと素敵な紳士を、少なくともこうしてネチネチ不平不満をぶつけてこないような素敵な人を引っかけて遊んでいた方が何百倍も楽しいのに!
「アメリアさんが、そういう風に感じるのは、つまり、あなたが本当に心のない人か、それか僕に興味がないからなんです。はっきり言ってください。本当は僕と結婚するつもりなんてないんでしょう?」
「そんなことないわ」
「だったら、どうして何かと理由をつけて断ろうとするんですか?」
「そこまで知りたいというなら教えてあげるわ。だって、今、挨拶なんてしたらわたしはまた誰とも踊れなくなる耐え難い苦痛を味わう羽目になるじゃない! 折角ロンドンで素敵な再会があったっていうのに! それにこの間の披露宴みたいにわたし以外の女が社交界で幅を利かせるなんて……まだわたしはそんな心の準備も出来てないし、そもそもそんなの真っ平だわ!」アメリアは披露宴での苦しい想いを思い出して奥歯を噛み締めた。女たちのつまらない嫌味は下手なラブレターよりもよっぽど鮮明に記憶に残っている。ああ、そしてその中でも特に一際、想像するだけで腹の底で黒い蛇が蠢くのはアンナ・ベネットのあの勝ち誇った笑みだ! アメリアはリックの後ろにアンナの亡霊が見えるみたいに激しく睨んだ。それがリックに抱いている呆れや怒りと腹の内でごちゃまぜになって、もしここに凶器があればリックを殴り殺さんばかりだ。当然リックは狼狽えて、さっきまでの威勢も忘れて縮み上がっていたのだが、そんなことアメリアには関係ない。沸々と湧き上がる感情をぶちまけるかの如くアメリアは声を荒らげた。
「それに、それにアンナ・ベネットの傲慢を圧し折るまでは自分の幸せなんて追い求められるものですか! 少なくとも、あの生意気な婚約者を跪かせて……アンナに勝利するまでは、悪いけど明るい未来なんて思い描けないわ!」
 捉えようによっては堂々と浮気しますと宣言しているようなものだったが、リックはそんなことまるで考えが及ばなかった。感情の荒波に揉まれて何でもかんでも口から飛び出すアメリアとは対象的に、リックは希望の光を手繰り寄せるかのように、冷静かつ慎重に言葉を返す。
「ということは、別に僕が嫌だからっていうわけじゃないんですか?」
「ええ。その筈だけど」
 リックはその言葉の意味を何度か脳裏で反芻して、喜びを隠しきれない様子でアメリアの手を強く握った。骨が軋む。
「本当ですか? 確かに、僕は少し早急過ぎたのかもしれません。何しろ、この間の婚約発表はちょっと突然でしたし……、そのせいでアメリアさんも混乱していますよね。でも、その……早く公認の仲になりたい気持ちも理解してくれますよね? その……あの、きっと心の底では同じ気持ちを抱いていると信じてますから……。でも、その……つまり――アンナ・ベネットさんとのあれこれとかについては僕にはよくわかりませんけど――その邪魔にさえならなければご挨拶に伺ってもいいということですか? 僕は、僕はそれでも一向に構いません! それよりも、それよりも早く公認の仲になりたいのです! アメリアがそうしたいというのなら、一度だけなら、そういう裏切りも喜んで許しますとも!」
 リックはすっかり興奮していて初めてアメリアの事を呼び捨てにしたことにすら気が付かなかったし、アメリアもリックの驚きの発言にそんなこと全く気が付かなかった。大きな目をぱちぱちとさせて、口をあんぐりと開ける。リックは、今なんていった? ただ両親に会わせるだけで例の紳士を誘惑するのも許してくれるって言ったの? それはアメリアからしてみればとんでもなく素晴らしい話だ。何せ普段感じている一抹の罪悪感も感じることなく、男遊びに興じられる訳なのだから! それも公認で! アメリアはさっきまでの怒りもすっかり忘れてきらきらと目を輝かせた。
「それって本当!? あなたって本当に心が広いのね!」
「その程度の忍耐で貴方を我が物にできるのなら、何だって大したことではありません。でも、できれば次の舞踏会で、こういうことは終わりにして欲しいけど……きっと結婚までに通常一年も時間があるのは心の準備をするためなんだと思います……だから、その。最初は辛いかもしれませんけど、きっと僕が……幸せにしてみせますから。どうか、公認の仲にさせて頂けませんか? 今日……それか明日にでも!」
 とにかく正式な関係になりたいと切望するリックは必死で頼み込んだ。確かにどうやらアメリアはまだ妻になる心の準備はまるでできていないようだが、そんなのどこの女性だってきっと同じはずだ。誰にだって心の準備は必要だろうし、やり残したことがあるというのならそれを成し遂げてからでも遅くないはずだ。確かに普通の淑女ならありえない内容かもしれないが、真に愛していればそれがなんだというんだろう! こんな僕を選んでくれた彼女をぞんざいに扱うことなんてできるわけがない。それにきっと両親に挨拶をすれば、彼女の気持ちも少しは落ち着くに違いないじゃないか。互いにこの微妙な関係は良くないに決まってる。
 これはたしかにアメリアにとっても悪くない話だった。これはアメリアにとっても悪くない話に思えた。何より、次の舞踏会で何の制約にも縛られず自由奔放に振る舞えるというのだから、他に何を優先することがあるだろう? もちろんその後にこのどうにも冴えない男と結婚する羽目になるのだが、それに関してはあまりにも遠い未来のことのように思えた。アメリアに想像できたのはせいぜい次の舞踏会までで、この男と家庭をもつとかそういうところはまるっきり考慮の外だ。
 アメリアは一頻り考えた気になって華やかな笑顔を浮かべた。
「もちろん構わないわ! わたしの邪魔をしないっていうのなら……今すぐにでも公認の仲になりましょ! でも約束は忘れないでね」
 そういった経緯で、アメリアは独身時代最後となるであろう舞踏会で縦横無尽に振る舞う許可をもぎ取ることに成功した。しかし払った対価の大きさにはこれっぽっちも気がついていなかった。それに気がつくのは舞踏会が終わり困った現実を直視することになってからだろう。

第七章 三話

 アメリアとしてはいつでも構わなかったのだが、いざ挨拶をするとなると今度はリックが緊張してしまい結局、リックが両親に挨拶したのは次の日の午後のことだった。
 当然といえば当然のことだが、アメリアとリックの交換条件を聞くとエレンは毅然とした態度で「そんな勝手なこと許されるはずがないでしょう?」と突っぱねた。「恋人がいるにも関わらず、他の男性と関係を持つなんて、そんなふしだらな子に育って欲しいと願った覚えはありませんよ。それどころか、リック・アボットさんに対しても不義理ではありませんか? そういうことなら、わたくしは受け入れませんよ」エレンの言葉に動揺したのはリックの方だった。
「いえ、その、僕は構いません」
「そうよ。お母さま、本人もこう言ってるわけだし。それにリックの勇気を無下にするなんてそれこそあんまりだわ」
「馬鹿なことをいわないで、アメリア。そんなことが許されると本気で思っているのですか?」
「まぁ、そう興奮するんじゃない。また病気が悪化したらどうするんだ。アメリアとはわたしが二人で話そう」
 アメリアはギクリとした。お母さまならきっと最終的には折れてくれると思うけど、お父さまは果たしてどうかしら。ドキドキしながら二人、部屋に残されアメリアの視線は緊張で心なしか下の方を向いていた。ただ、父の言葉は思ったよりもずっと思いやりに溢れていて優しいものだった。
「顔をあげなさい。小言は母さんかオルコットに任せることにしよう。ただ、今度の舞踏会ではソフィーにわたしから直々に目を離さないようきつく言いつけることにするがね。さて……アメリア。お前の母さんはあの婚約相手に対しては何も思わないみたいだが、本当にアボット家に嫁いでいいのか? 何しろあの家のお嬢さんとは随分仲が悪いし、それに対した財産もないだろう。彼が悪い男とはいわないが、いい男というわけでもない」立派な顎髭を揉みながら語る父の瞳には純粋にアメリアを心配する色が浮かんでいた。
「これがリード家の長男ならな」と、父は小さく呟いた。「リード家とは長い付き合いだし、お前もエドガーとは気心が知れているだろう。それにあれはなかなか感じの良い青年だ。この辺では類をみないほどな。それに向こうもお前を大層気に入っている。実は、お前にはいってなかったがミスター・リードには話が通っていたんだ。良い縁談だと思ったんだがな」
「え、そうだったんですか?」だからエドガーが時々わたしを自分のものみたいな目でみてきたのね。となれば、きっとこの間の婚約発表は衝撃的だったでしょうね。
「お前だってあの青年のことは大層気に入っていたはずだろう。それがどうして急にリック・アボットに心変わりしたんだ? 今からでもエドガー・リードと一緒になりなさい。悪い話でもないだろう? それとも、あの男にそれほど惹かれる何かがあるというのなら話は別だがね……」
 確かにどこが好きなのかはよくわからないけど……。アメリアはしばらく頭を捻り、答えが出ないまま頭痛だけが増していくのにうんざりしてすぐに思考を取りやめた。どこに惹かれたのかはわからないけど、でも、きっと大丈夫よ。だってあの日、結婚を決意したあの日、一番にやってきたのはリックだったわけだし。それってきっと天の思し召しってやつなのよ。それに確かにあの日は心臓が高鳴っていたし、それって恋ってことでしょう? あれ以来胸の高鳴りは感じないけど……きっとそういうものなのよ。確かにエドガーは気に入ってるけど、でもあの日のようなときめきを感じたことはないもの。
「いいえ、お父さま。わたし、やっぱりリックと結婚します。わたし、きっと幸せになりますから。どうかお許しください」
 父はしばらく考え、最終的には婚約を許可した。アメリアは部屋から出ると、ドアにもたれながら一人で首を傾げた。
 きっとこの判断は正しいはずだけど、でも一体どうしてこんなに心がざわつくのかしら?

第八章 一話

 待ちに待った舞踏会当日、アメリアはいつも以上に興奮と期待を抑えられないでいた。馬車の中でしきりに髪やドレスを整える姿はまるで今から愛しの恋人に会いにいくかのようだ。本当にそうだったならどれほどよかったか。とソフィーは何度目かの失意の溜息をついた。アメリアの隣に座るジョージアナは相変わらず舞踏会だというのに、お気に入りの本を持ち込んでいたが今日ばかりは注意もされなかった。
「ねぇ、ソフィー。今日のわたしって一段と綺麗だと思わない? 最近、思うんだけど困難があると人ってとっても美しくなるのよね」困難というのはリック・アボットのことだ。ソフィーはアメリアの言葉はまるっきり無視して眉を顰めた。
「さぁ、どうだか。アメリアさま……わざわざ忠告することでもないですが、リック・アボットさま以外と踊ろうだなんて考えないことです。奥さまも仰っていましたけど、恋人がいるのに他の男性に熱をあげるなんてとんだ浮気者ですよ。いい加減に節操というものをお持ちください」
「でも、リックは許してくれたわ」どれほど言われようともリックの許しがある限りアメリアは無敵なのだ。堂々と言ってのけるアメリアに、ソフィーは悔しそうに唇を真横で結び、鼻の穴を片側だけひくつかせた。
「まぁ、もし許されなくてもアンナを打ち負かすまではお淑やかな妻になんてなれそうにないのよね。今日こそはあの紳士を跪かせてやるのよ。今までのらりくらりとわたしの魅力から逃げ果せたみたいだけど、今日はそうはいくものですか」そう、あのアンナ・ベネットの悔しがる顔を見るまでは大人しくするなんて到底不可能だ。アンナが敗北感を顕にして、あの妙にコツコツ鳴るヒールを更に鳴らしながら顔を真っ赤にして踵を返すのを見届けるまでは、とてもじゃないがリックみたいな冴えない人と踊っている場合ではない。
「それから、他の女たちにも二度と逆らう気が起きないくらいにまでわたしの輝きを見せつけなくちゃ。わたしが前線を引いても伝説として語られるくらいにね。すぐに忘れられたらつまらないもの」アメリアは目を細めて、今日の武勇を想像すると不敵な笑みを浮かべた。
「もっとも紳士たちから声をかけられるとも限りませんがね。何しろ前回の披露宴ではそうだったらしいじゃないですか。まともな倫理観を持っていて婚約を知っている人なら話しかけることすら躊躇うはずですよ」ソフィーったらわたしのロンドンでの名声をすっかり忘れてるのね。どれほど強固な倫理観でも時間をかければ簡単に解けるのに。含み笑いを浮かべるアメリアを無視してソフィーは続ける。
「それに何しろ今日はわたしが人払いしますからね。旦那さま直々の命令ですから。今日という今日は覚悟しませんよ。それに、第一、アンナさまの恋人を誑かす計画も上手く行くはずがありません。それにアメリアさまは確かにお顔とスタイルは誰よりも秀でているかもしれませんが、教養となるとからっきしじゃないですか。上流の方々はそういうところもきちんと見ておられますからね。ただしリックさまとだけは踊ってもよろしい。いいですね?」
 誰がリックなんかと踊るものですか。あの人って色々気になる所はあるけど、その中でも特にダンスは酷いものよ。他にもっと素敵な人が沢山いるっていうのに、恋人だからなんてその程度の理由でわたしの自由を制限するなんて許さないわ。
 アメリアは何も返さず、ただ黙って馬車の外に視線を向けた。
 太陽は丘の向こうに隠れて、西の空は朱に染まっている。空にかかる白い雲はその光を受けて金色に染まり、雲と雲とが厚く重なった部分は仄かに暗い色をしている。丘の上に立つ樹木は逆光のために黒いシルエットだけが光の中に浮かび上がり、コントラストを利かせている。夕方の空には一等星がぽつんと光り輝いている。赤い空に一つだけ白く光るそれは自分によく似ているような気がした。
 それからしばらく、三人は話すこともなく各々が自分の世界に入り込んでいた。車輪がゴトゴト音を立てながら馬車は上下に揺れる。ジョージアナがページをめくる音。鳥の鳴く声。定期的に馭者の鞭が空気を引き裂く音が聞こえて、その度に馬車が大きく揺れる。その度にアメリアの心は期待に満ち溢れていく。
「ああ、本当に楽しみ! きっと、今日のわたしの輝きに当てられてわたしが婚約発表したことなんてみんなまるっきり忘れてしまうに違いないわ。周りには素敵な男性が山のように群がって、娘たちはハンカチを噛むしかできないでしょうね!」
 楽しい想像は尽きることなく、今日の舞台である〈グレート・ヒルズ〉へ向かう道中は退屈しないで済んだ。いよいよ壮麗だがどこか物寂しい雰囲気のある豪奢なお屋敷が見えてくると、ソフィーはもう一度きっぱりとアメリアに釘を刺した。
「いいですか、アメリアさま。男性に囲まれるなんてことのないように。結婚を控えた令嬢なんて少し存在感がないくらいの方が立派というものですよ。もちろんリック・アボットさまがどう言おうとに関わらずです。これは淑女として当然のことですからね! 当然奥さまにも言いつける羽目になりますから!」
「そんなの脅しにもならないわ」というのがアメリアの返事だった。
「いけません。身持ちが悪いと散々言っているでしょう。人の許嫁を誑かすなんて、今に天罰が下りますよ」
「望むところよ」
 ソフィーはこれ以上言っても無駄だと判断したのか、現場で実力行使に出る決心をしたのかそれ以上何も言わなかった。一連のやり取りをジョージアナは相変わらず無言で聞いていたが、ふいにページを捲る手を止めると魅惑的な輝きを放っている姉をじっと見つめた。そして何か決意を固めたみたいにゆっくりと口を開いた。
「わたしは、賛成だけどね。むしろ、姉さまとその方が仲良くなってくれれば良いと思うわ」思わぬ方向からの加勢にソフィーは大袈裟に狼狽えて肩を震わせた。
「まったく! この姉妹ときたら、二人して倫理観というものが欠如しているんですね! 本当に、お二人には驚かされっぱなしですよ。ジョージアナさまはまだ理性があると思っていましたけどね! ジョン! 聞きましたか? ジョンからも何か言ってくださいな」
 御者は急に話を振られて随分戸惑ったようだが、ちらりと後ろをみて――アメリアの苛烈な瞳で見つめられ――黙秘を決め込むことに決めたらしい。すぐに視線を前に戻して、何も言うことはないということを示すため小さく肩を竦めた。ジョージアナはどこか遠くを見つめながら自分の正当性を淡々と主張し始めた。アメリアはジョージアナの視線を追ってみたが何を見ているのかはさっぱりわからなかった。きっと自分には見えない未来の映像か何かが鮮明に見えているのだろう。
「理性があるなら仲良くするべきだって思うはずよ。要は、うちに足りないものを沢山持ってるんでしょ? 例えば、お金とか……繋がりとか。だったら仲良くして損はないじゃない。利用価値があるんだから仲良くするべきだわ。それでもわたしは男性に媚びるなんて勘弁願いたいけど――幸い、うちの人情のない姉さまは何にも感じないみたいだし。恥も外面も厭わずに手当たり次第やるに決まってるわ」男性と遊んだり頼ることの何が悪いっていうの? 少なくともわたしは一人で生きるようには造られてないはずだけど。
「まぁ、なんて事をいうんですか! そういう思考は物乞いの思考ですよ!」
「どうせお父さまが亡くなったら物乞い同然なんだから大差ないわよ。もしそうなったらわたしは毅然と餓死を選ぶけど、アメリアは浅ましく生き延びるでしょうね」
 それにしたってなんでこの可愛い子ちゃんはわたしに噛み付いてくるわけ? もしかしてこの間のロンドン旅行をまだ恨んでいるっていうのかしら。もうお母さまも治ってきたんだし、それに過ぎたことをどうこう言ったってしょうがないのに。
「ジョージアナさま、それは違います! たとえスレイター家が爵位を失っても貴族の娘であることにはなんら変わりはありませんよ! ええ、なにしろスレイター家は歴とした家柄なんですから。誰がその辺の町娘と、あろうことか物乞いなんかと一緒にするっていうんですか! 早くその恐ろしい思考を撤回なさいませ!」
 騒ぎ立てる二人をよそに、アメリアは窓の外を眺めていた。窓の外にはいよいよ〈グレート・ヒルズ〉の外壁が姿を現し、傾いた夕陽によってそのシルエットが黒々と赤い空に浮かび上がっている。こうして今日の舞台が間近に迫っていることを考えれば、ジョージアナの妙な固執もソフィーの立派な矜持ももはやどうでも良かった。二人の会話は一切耳に入らず、左から右に抜けていくばかりで、心臓が徐々にそのペースを上げていくことだけがこの世界が現実であることを指し示していた。
 しばらくすると馬車は庭園の曲がりくねった道に入り、やがては玄関の前で止まった。玄関前にはいつもの通り招待客たちが集まり、話に花を咲かせて一向にサルーンへは辿り着けそうにない。馬車が停まるなり、自ずと玄関先にいた人々の視線は馬車に向けられ、その馬車がスレイター家の馬車だと気付くと、これまで淑女と楽しく会話をしていた男たちは無意識に馬車に吸い寄せられ、置いてけぼりをくらった女たちは恨めしく馬車を睨みつけ、ヒールを地面に打ち付ける音が鐘のように響いている。
 アメリアは背筋から脳天に何か冷たくて甘美なものが流れるのを感じた。どんな形であれ、注目されるのは気分がいい――たとえそれがいい形であれ悪い形であれ。紳士たちはアメリアの格別の輝きに当てられて、みな一瞬我を忘れ、今すぐにでもアメリアに近づいてその柔らかな手を取り、肩を抱き寄せ、もしも許されるのならその柔らかい唇も奪ってしまいたいような欲求に駆られた。そうでなくとも、彼女の足元に傅いて永遠の忠誠を誓いたいような気持ちですぐに胸がいっぱいになり、誰しもがアメリアに駆け寄ろうとした。しかし、突然天に肩を叩かれたかのごとく倫理と道徳が体に巻きつき、それは敵わない。ああ、この美しい人は既に他の男と未来を約束しているのだ。しかも、それがリック・アボットだなんて。
 紳士たちの視線は一斉にリックに向けられ、彼らは本当は自分が手を差し伸べたいのを理性でグッと抑え付け、リック・アボットに道を譲った。リックは半ば押し出されるような形で群衆の中からアメリアの方へと向かった。紳士たちの顔にははっきりと落胆の色が目に見える。
「みんなわたしがリックの手を取って、リックとしか踊らないと思っているのね。そんなはずないのに! ああ、きっとみんな驚いて唖然とするに違いないわね」人々の心を裏切り、弄ぶことがこの世のどんな娯楽よりも楽しいことはとっくの昔にわかっていた。アメリアは期待に胸膨らまして、哀れなリックを見つめた。こうして他の男性と並べば一目瞭然でリックの頼りない表情は親をなくした仔犬のようだ。しかも、リックの隣にいたのは紳士たちの中でもかなり良い線にいっている部類のエドガー・リードだった。彼はほとんど約束されたような関係だったアメリアを奪われた怒りとこうして婚約者と同じくらい近くに立っているのに、手を差し伸べる役割が自分ではないことにひどく苛立っていた。
 リックには少し悪いけど、元々そういう約束だし。それにあとで埋め合わせればいいわ。ああ、こんなこと不道徳とわかっているのに、一体どうしてこんなに心臓がドキドキするんだろう。いいえ、きっと道徳を破るからこそドキドキするのね。胃が収縮して、体の内側からくすぐられているようなこの感覚はどうしてもやめ難いものがあるのだ。
 アメリアは馬車のステップに立ち、リックを無視してその手をエドガーの方に向けた。まさか自分がまだこの名誉に預かることができるとは! と驚きつつも、すぐにハッとしてその手を取った。その瞬間の場のどよめきときたら! 紳士たちの目はその光景に吸い付けられ、淑女たちはしばし唖然とした後に甲高い悲鳴をあげて友達とまさかのスキャンダルを騒ぎあった。
 一体どういうこと!? アメリアは確かリック・アボットと婚約したはずじゃなかったの? それなのに、白昼堂々……それも実の婚約者を前にしながら他の男の手をとるなんて! 淑女たちは声を上げながら、もしかしたらこの場で決闘が始まるんじゃないかと思って期待と恐怖で胸をいっぱいにした。それかもしくは殴り合いの喧嘩とか……噂では聞いたことがあるが、実際に自分の目で見たことはない。淑女たちは密かに期待しながらリックに目を向けた。リックは打ちひしがれるばかりで身動きも取れないらしい。
 アメリアは騒ぎ立てる淑女たちの間を優雅に抜けて玄関へと向かった。歩く度に赤いドレスが優雅に靡き、髪に挿した生花が甘い香りを放つことはわかっている。アメリアはこの庭園に咲き誇るどの花よりも艶やかで可憐な出で立ちだった。今日の彼女たちは妙にめかしこんで、頬に紅を差したり結婚式で使うような大ぶりの宝石を身に着けたりしていた。ドレスには卸したての新品を、それも最近の流行に合わせて洒落た感じで着こなしている。ポーチには娘らしい明るい色のドレスがあちこちに広がりまるで美しい庭園のよう。淑女たちがいつも以上に着飾る理由は考えるまでもない。アメリアが前線を退いたと聞いて、次の女王の座を、あるいは意中のあの人を射止めるため、それか勇猛果敢な令嬢たちは例のやんごとなき紳士にちょっかいをだし、あわよくば……とそれぞれの野心を秘めてそれが服装や目つきにありありと表れていた。
「まぁ、頑張ることね。でも上手くいくものですか、わたしがいるっていうのに勝手はさせないわよ」
 アメリアは玄関前の上がり段に登りその中央に立つと、邸宅の中へ入る前に思わせぶりに背後を振り向いた。眼前には見事な庭園が広がっている。庭園では薔薇のアーチがあちこちに置かれ、様々な形の花が生き生きと咲き誇っている。そのどれもが夕焼けを受けて真っ赤に染まり、自分の心と似ているような気がする。未だに唖然とする紳士たちは成す術なくアメリアを見上げ、スキャンダルに沸き立つ淑女たちも次はアメリアが何をしでかすのかと固唾を飲んで見守っている。
「オールポート市長が壇上でご機嫌になるのも理解できるわね。こうして見上げられるのは悪い気はしないもの。これはちょっとしたサービスよ」
 アメリアはまるで舞台挨拶みたいに、両手を広げてからドレスの端をつまみそれはそれは優雅なお辞儀を披露した。動作は緩やかで、ドレスの皺がゆっくりと重力に従って大きくなることすら鮮明に見て取れた。肌は仄かにオレンジに染まり、いつもの緑の瞳は少しばかり赤みがかって見える。たったそれだけの動作なのに、どうしてか外に出ていた人々の視線はアメリアから離すことができなくなるのはどうしてだろう。完璧な彫刻が不思議と心に残るのと同じように、美しい絵画を自然と心地よく感じるように、この光景には何か心に突き刺さるものがあった。それが夕焼けの効果なのか、夕焼けよりも赤いドレスのお陰なのか、それともアメリアの美貌のお陰なのか、それは誰にもわからない。ただその光景は天才の描いた絵画のように全てが完璧だった。
 それはたかだか数秒の出来事だったが、招待客には数時間にも数日にも感じたことだろう。誰もが息をするのも忘れ、その光景に見入っているのをアメリアは機嫌よく眺めてから邸宅の中へと姿を消した。
 
 中に入ればすぐに大階段が姿をあらわす。天井には豪華なシャンデリアが悠然と光り輝き、マホガニーの手すりを柔らかく照らしている。大階段には大勢の淑女や夫人が立っていて、それぞれ立ち話に興じている。その中には社交界にデビューしたての若い淑女も含まれて、その隣には年のいった使用人か母親が堂々と控え、百戦錬磨の強者らしくあれこれと指示を飛ばしている。ただ、あまり成果は上がっていないようで、娘の方は気が重いといった様子。アメリアがその隣を通ると母娘は声を潜め、小さな声で話を続けた。
「まったく、本当に不埒な娘ですこと。でも、あの女の素行は本当に酷いけど、紳士に対する態度だけは見習えるね。あんたもあのくらいの気概を持ちなさい」娘はそう言われても、アメリアの苛烈な輝きにすっかり圧倒されてしまいオロオロするだけだった。アメリアはそんな娘のことなんてこれっぽっちも視界に入れずに階段を登りきり、足早にサルーンへと向かう。長い廊下を抜けてサルーンに近づくにつれて、段々と一歩の間隔が広くなる。期待に足は疼き、早く踊りたくてたまらない。駆け出したいのを必死に抑えながら、真っ赤なドレスを翻し、キラキラと目を輝かせるアメリアはそれはそれは美しくて、誰も彼もアメリアに視線を奪われずにはいられなかった。

 サルーンの前には招待客に挨拶をするためにこの屋敷の女主人であるレミントン夫人が立っていた。その隣には結婚適齢期の愛娘、エスター・レミントンが立っている。レミントン夫人は髪をそれはそれは派手に巻いて、でっぷりとしたバストをゆさゆささせながら隣の愛娘に力説しているところだった。
「エスター、多少強引にでもあのお方を絶対にダンスに誘いなさい。あなたは本当に気弱ですけど、そのくらいは上手くやれるだろうからね。例のとんでもないお方が現れたらすかさず挨拶に行くように。そう、そうやって軽くドレスを摘んで――それにしても、幽霊みたいに青白い顔だねぇ。そんなに病気みたいな顔をしてたら誰だって逃げ出してもおかしくないね。ほら、寒くもないのに震えるのはおよし!」
「はい、お母さま……でも、わたしなんかが本当に一緒に踊って頂けるものですか?」
「心配しなくたって、きちんと物事を弁えていらっしゃる方ならむしろ向こうから誘いにくるはずですとも。悪い女に邪魔されない限りは」悪意の籠もった言葉を付け足して、レミントン夫人はアメリアに向き直る。アメリアの華美な服を上から下に舐めるように見つめて分かりやすく顔をしかめた。仕返しとばかりにアメリアもレミントン夫人を観察してみたが、どうやらこの哀れな夫人は自分が結婚してからというもの、ファッションや流行というものから随分と遠い場所を歩いているらしい。まるで二十年前から時が止まっている。
「随分と華美な恰好だねぇ、スレイター夫人も随分放任主義だよ。わたしなんて、自分の愛娘がこんな恰好をしていると思うとゾッとしておちおち寝てもいられないよ。スレイター夫人は何もおっしゃらないんだろう?」
「わたしはドレスくらい自分で決められますから。それに流行を知らないほど無知でもありません。レミントン夫人はご存知ないかもしれませんけど……」
 アメリアはレミントン夫人に目をやって、小馬鹿にしたように肩を竦めてから愛娘の方をちらりとみた。エスターは顔を耳まで真っ赤に染めていて、アメリアの視線が降り注ぐなり自分の装いを恥じて母の巨体の後ろに姿を隠した。そのドレスは流行遅れどころかもはや博物館に展示されてもおかしくないほどの化石だった。アメリアの当てこすりの通り、これは母に命じられるままに着たものだったし、エスター本人が見ても時代遅れ甚だしいものだった。ただ、自分の若い頃を思い出すらしく半ば押し付けられるような形で渋々身に付けているのだった。
「あの、お母さま……やっぱりわたしもう一着の方に着替えてきても……」
「お黙り、エスター! あんな破廉恥な恰好絶対に許さないよ」
 アメリアは二人の言い合いを聞いて眉をあげてエスターの方をみた。
「足を引っ張ってくるお方が同じお家にいると大変ね?」
「ミス・スレイターは年上に対する礼儀も弁えていないんだね。一体どういう教育を受けているんだか! 本当に、気に障るったらありゃしない! こら、エスター! どこに行こうっていうんだい! ここにいなさい、全く本当に……」
 レミントン夫人が動く度に体の贅肉という贅肉が別の生き物のように動くのがどうにも気持ち悪い。それにこんなところで時間を使っている場合ではないのだから。アメリアはレミントン夫人越しにサルーンを見て、いよいよ心臓がはち切れそうになった。
「レミントン夫人、中に入ってもいいですか?」レミントン夫人は鼻を鳴らした。脳裏に家畜の姿が浮かんだのは一体どういう訳なんだろうか。それから思い出したとばかりに夫人は付け加えた。
「好きにおし。それから帰りの挨拶は結構。もう顔も見たくないからね」
「それはわたしからしても有り難い限りですけど……もう少し避けてくださらないと入れないです。その……ふくよかでいらっしゃるから」
 レミントン夫人は最初何を言われたのか分からずに呆然として、そののちに顔を真っ赤にして怒りを顕にした。くすくすと肩を揺らしながら可愛らしく笑うアメリアに何か一言ガツンと言ってやらなければという使命感に駆られて、口を大きく開いたが、アメリアは危機を察すると少し丁寧すぎるくらいにお辞儀をして足早にサルーンの中に逃げ込んだ。

第八章 二話

 
 アメリアの不道徳な行いは瞬く間に招待客全員に共有されることになり、ソフィーは早速旦那さまになんて言ったらいいのだろうと震えた。紳士たちは未だにこの現実をどう処理すればいいのかわからず様子を窺っていた。
 スキャンダルを楽しむ令嬢たちの「きっと、リックことなんてなんとも思ってないのね! あーあ、アボットさまが可哀想。ほんとにアメリアってとんでもない人でなしだわ」とか「この中に意中の人がいて、婚約もその人を焦らせるための作戦なのよ」とかそういう言葉が聞こえ始めると、段々と意中の相手というのは自分のことなのではないかという気がして、アメリアに吸い寄せられていくのだ。何しろ、アメリアさんは今日はやらた僕の方を見てくるじゃないか。それもあんなに期待に満ちた眼差しで! 婚約のことは気がかりだが、淑女をいつまでも待たせるのは紳士らしくないに違いない。
 アメリアの周りには徐々にいつもの取り巻きが戻ってきていた。それをみれば、道徳と倫理に縛られた立派な紳士たちも尻に火がついたようになり、少しでも可能性があるなら、と天に負い目を感じつつアメリアに近づかざるを得ない。
 今やアメリアはいつも以上の男性に囲まれていた。その中心にちょこんと座って、勧められるままに料理を口に運んだり笑顔を振りまいたりする様はさながら小さなお姫さまのようだ。
 アメリアは上機嫌で会場を見渡した。入口の方では未だにレミントン夫人がエスターに意味のなさそうな作戦を話している。アメリアに煽られたことでそのボルテージは余計に上がって、もう息も切れないばかりに喚き散らしていたが(だからサルーンの中にも声が丸聞こえで、皆内心では面白がっている)それとは対象的に、愛娘の方は自分の装いがこの場に似つかわしくないことを気にするあまりまるで耳に入っていなかった。壁際では夫人たちが眉をつりあげ、冷ややかな視線を延々と送っている。みな示し合わせたみたに扇子を口元に持っていってえらく緩徐にそれを扇いでいる。扇子の裏でどんなことを言われているのかは想像に難くない。淑女たちは婚約発表をしたくせに相変わらず男に囲まれるアメリアを睨んだり、スキャンダルに夢中になったりしている。
「ああ、それにしたって今日は本当に楽しい! どこもかしこもわたしの話題ばっかり。それに今日はこの間みたいに踊る相手に事欠くこともなさそうだし、ああ、一生この時間が続けばいいのに。でもこんなことで満足していちゃだめだわ。こんなに好き勝手できるのも今日で最後だもの。もっともっと大勢を魅了して、わたしの輝きをその目に刻みつけてもらわなくちゃ。それから、アンナにも打ち勝たないといけないしね」
 そして、きっと今日こそは上手くいくような気がする。アメリアは視線を下げながらそんな予感に密かに口に笑みを浮かべ、不意に自分が陰に包まれたこと気がついて顔をあげた。目の前に立っていたのはエマ・アボットだった。エマは自分の脂肪の全くない、骨と皮だけでできた腕を組んで、眉を嫌味っぽく吊り上げながらアメリアを見下ろしている。
「あら、アメリア。今日も随分大勢に囲まれていらっしゃるのね」
 攻撃的で耳障りな声が脳裏に響いてアメリアは眉を顰めた。エマ・アボットはアメリアが最も嫌いな女の一人だ。身長が高く、女性らしい凹凸の全くない平坦でつまらない体型な上に、高慢で高飛車な態度が露骨に顔にしっかりと刻まれている。顔のパーツは悪くないが、痩せすぎで骸骨に眼球をはめたような見た目だし、何よりその醜悪な精神が顔に表れて全てを台無しにしていた。リックの薄ぼんやりとした顔つきとは似ても似つかなくて、毎回アメリアはこの二人が本当に血がつながっているのかと疑ってしまうのだ。
 エマは小さく鼻を鳴らしながら、アメリアの取り巻きをぐるりと見回した。
「あら、リックお兄さまを随分遠くに押しやってるのね」アメリアはこのときになってやっとリックもこの集団に加わっているのだと気がついた。どうせ惨めになるだけだから遠くにいればいいのに、それともわたしがこの中から自分を選ぶと本気で思っているのかしら。だとすれば、ちょっと救えないけど。
「ミス・スレイター、リックお兄さまと婚約なさったんでしょう? だったら、隣に座らせてあげるべきじゃなくて? もっとも、婚約者がいるのにこんなに人に囲まれようとする神経もわからないけど」
 この攻撃はアメリアよりも取り巻きによく効いたようだ。取り巻きの紳士たちはそれぞれが床にそっと視線を移して自分を恥じる気持ちでいっぱいになった。しかしアメリアはそんな攻撃まるで意にも介さず、心底鬱陶しいとばかりに腕を組んでエマのことを睨んだ。それにしたって、エマはどうしてもわたしがモテるのが気に食わないみたいね。
「エマは絶対反対すると思ったんだけど、そういうわけでもないのね。それならそんなに冷たい呼び方しなくたって良いじゃない? だってわたしたち、もうすぐ家族になるんでしょう?」アメリアはにこやかに笑った。それは嬉しいからではなく、エマの嫌がる顔が目に浮かぶようだったからだ。それにしたって本当にエマと義姉妹になると思うと吐き気がするわ! ただ、アメリアも喧嘩を売ってくる不届き者に一泡吹かせるためにはどんな努力も惜しまないタイプだったので、とびっきりの笑顔を浮かべて、エマを見つめた。
「お義姉さまとは呼んでくれないの?」
 エマは何も言わずにただ、鼻の穴をピクピクさせた。その目にはそんなこと死んでもお断りとはっきり書かれている。
「本当に貴方みたいな、女が存在すると思うだけで吐き気がするわ」
 二人の間にはヒリついた空気が流れ、今すぐにでも激しい舌戦が繰り広げられそうになるのがわかった。それを察してアメリアの取り巻きの紳士が二人の会話に口を挟んだ。
「まぁまぁ、ミス・アボット。別にいいじゃないですか。いつからこの国では自由恋愛が禁止されたんです? 確かに、道徳に反しているかもしれませんが、一体それが何だというんです。少なくともこうして社交に花を添えるという大役を果たしているわけですし……。それにわたしの見た所、この中にも例の紳士を狙うお嬢さんは沢山いると見える。いや、なに、先程からレミントン夫人が叫んでいるのを聞けば一目瞭然ですな。まぁ、もちろん一時の気の迷いのようなものでしょうし、それをいちいち指摘していては息苦しいというものですよ。ミス・アボットも密かに狙われておられるのですかな」
「わたしはそんなこと致しませんわ。ミス・スレイターと一緒にしないでくださいまし! 大体――」エマが長口上を唱えようとしたその時、サルーンの入り口でレミントン夫人が一層甲高い声をあげ、その場にいた全員が入口の方を自然に見つめた。
「まぁ! まぁ! まぁ! お越しいただき光栄ですわ! え? ああ、いえいえ、お気になさらずに! やんごとなき方は皆そういうものだと心得ておりますからね。それに待っている時間も楽しいものですよ。ああ、実はわたしには娘がおりますんですの。あら? あの子ったらどこへ行ったのかしら、ああ、いたわ。ほら、エスター! こっちにいらっしゃい! この子ったらもう十九になりますのに未だに恋人の一人もいないんですのよ。ええ、ええ! それはもう目に入れたって痛くないほどの可愛さでしょう? もしよければ――きっとそうしていただけると信じてますけど――この子と踊ってやってくださいませ! できればワルツを!」
 あれほど娘に言い聞かせていたのに、レミントン夫人は興奮のあまり一から十まで自分で説明していた。とはいえ、結果的にはそれで大正解だ。強引に要人の前に連れて来られたエスターは、恥ずかしさに顔を真っ赤にさせて一の句も告げられない状態だった。できるだけ自分を小さく見せようと肩を丸めて、相手の顔なんてとてもじゃないが見ることができない。
 サルーンで談笑を楽しむ淑女たちは誰もまだその姿も具体的な名前も耳にしたわけではなかったが、きっとディラン・エドワーズさまが到着したのだろうと肌感覚でそれを察し、淑女たちはさっと身嗜みを整えてから、その紳士を一目見ようと我先に入口へ駆けていく。先程までは噛みつかんばかりだったエマもその流れに連れられ、別れの挨拶もなしにどこかへ行ってしまった。入口につめかける淑女たちの数はすごいもので渦中の人物は拝めそうにない。
「何だか初めて会ったときを思い出すわ。今日はあんな失敗しないけど……それにしてもあの人ったら相変わらず人気者ね。一体いつまで猫被っているつもりなんだか! 本性を現したらみんなびっくりして声も出なくなるわよ」アメリアは色とりどりの華やかなドレスと嘘みたいにキラキラ輝く宝石で武装した女たちがディランを取り囲むのを見て呆れたように肩を竦め、遠くからその盛り上がりを眺めた。耳に入るのは黄色い歓声ばかりで肝心の渦中の人物の言葉だけは聞こえてこないが、その歓声が時折ワッと大きくなるたびに会場が確かに揺れたように感じ、その人が果たしてどんな会話を繰り広げているのか気になってしょうがなくなった。一体何を話してるのかしら……そんなに楽しいっていうの? アメリアはしきりに向こうに視線を送り、紳士たちとの会話もおざなり気味だった。何しろ、歓声が度々邪魔をするので紳士の言葉は三回も聞き直さないと聞き取れないのだ。
 しかし、その甲斐あってアメリアは揺蕩う波の隙間から深海を覗きみるみたいに、人と人の間からたまたま渦中の人物を拝むことに成功した。それは一瞬のことだったが、その姿は脳裏に焼きつき思わず息を呑んだ。白の小洒落たベストを前裾からちらりと覗かせ、ラッフルシャツは糊がしっかりと利いてピシッとして、クラバットの結び方なんて今まで見たことがないほど優雅で殊更素敵だった。ベストの上には立派な黒燕尾を羽織り、金のボタンは磨き上げられ鏡面になっている。片方のポケットに手を入れ、佇む姿はそれだけで立派な絵になるほど素敵で、その隣にアンナ・ベネットさえいなければアメリアは今すぐにでもその集団に駆け寄りさっきからその紳士を誘惑しようと躍起になっている娘たちにお手本を示しに向かったかもしれない。
 アメリアは一旦冷静になって、今度はもっとしっかりと集団を観察した。紳士を取り囲む女たちは一塊で同一の生物のようにも見えるが、その実一人ひとりがライバル意識を持っているのが伺えた。紳士の気を引こうと、あれこれ策を弄する淑女たちの熱気はこの距離にいてもはっきりと感じるほどで思わずクラクラしてしまう。さり気なく他のライバルを押し除けたり、口には出さない牽制だとか、そういった諸々の楽しい駆け引きを遠目で見ているうちに、何だか心の奥底が疼くのを感じた。それにアメリアからみれば、あの娘たちの慣れない誘惑なんてほんのお子ちゃまなのだ。
「それにしたって本当にあの子たちの下手な誘惑は見ていて滑稽だわ。息を止めているみたいに不自然に顔だけ真っ赤にして、表情の使い方も本当にお粗末だし……そんなに力を入れたらまるで怒ってるみたいに見えるってどうして気付かないのかしらね? それに、なんだか地位とかお金とかそういう下衆なものに目が眩んでいるのが丸わかりだわ。そろそろわたしがお手本を示しに行こうかしら。エドワーズさんがどれくらい忍耐強いかは知らないけど、きっとそろそろうんざりしている頃よ。それにしてもいくら下手な誘惑とはいえ……まるで意に介さないのはちょっと意外ね。まさかそれほどアンナを心から愛しているってわけでもないでしょうけど。大抵の紳士なら、誘惑されれば――たとえそれがどれほど出来の悪い女でも気を良くして鼻を伸ばすっていうのに」その時、アメリアの脳裏に電流が走った。
「そうよ。あの紳士をわたしの前に傅かせれば――女たちは泣いて悔しがるでしょうし、二度と大きな口叩けなくなるに決まってるわ! それに彼が他の女に靡かないっていうなら好都合だわ。あの娘たちはわたしとの差に絶望して泣きたくなるわよ! それに、アンナの婚約者だし……きっと自分を差し置いてわたしばかり夢中になったら悔しくてヒステリーを起こすわよ。もともとあの人は傅かせるつもりだったけど、まさかこうも上手くピースがはまるとはね! そうときまれば!」
 アメリアが瞳を輝かせ椅子から立ち上がり、集団へ足を運ぼうとしたその時、急に手首を捕まれアメリアはびっくりして振り返った。そこにいたのはリック・アボットだった。一瞬だけ、アメリアは「この人にもプライドというものがあるのね」と感動すら覚えた。だが、よく見ればその瞳はあまりにも頼りなく、肩を丸めてはアメリアの足元ばかりに視線を向け、満足に文句も言えそうにない様子。吹けば飛ぶほどの自信しかないことはすぐにわかった。
 リックはアメリアのことを引き止めたは良いものの何を言えば良いのかすっかり忘れたらしくうじうじとしている。そういう煮え切らない態度を見ていると無性にイライラするのだ。
「何よ、リック。今更止めようっていうの? 話が違うじゃない!」
「……それは、そうなんですけど……その」
 リックはアメリア越しに入り口の方向を見つめた。リックは入り口に向かった乙女たちの表情が、その人を見るなりみるみるうちに変わっていくことに気がついて途端に不安に駆られたのだ。乙女たちは示し合わせたみたいに顔を赤く染めて、口々にその紳士を称賛している様子。淑女らしさを弁えている彼女たちですらそうなるのだから、アメリアがどうなるかなんて火を見るより明らかじゃないか。きっと止めるなら今しかない。いっそのことこのまま腕を掴んで、テラスかポーチにでも連れ出せれば――と柄にもなく大胆なことを考え始めたところで、アメリアは強引にその手を引き剥がすことに成功した。力任せに掴まれたからか手首がじんじんと痛む。一体この人ってどうしていつもこうなのかしら。本当はわたしのことが嫌いなんじゃないの? そんなのありえないけど、でもそう考えた方がまだ納得がいくわ! だからいつもいつも気に障ることばっかりしてくるのよ。そうじゃなきゃ、本当にどういうつもりかじゃないじゃない。
「本当に見損なったわ。約束もろくに守れない方なのね」アメリアはリックを睨みつけながら残酷なほど辛辣な口調で告げた。その口調はあまりにも冷たく棘々しいものだったので、リックは途端に混乱して弁明を探して、会場をせわしなく見回した。そして、例の紳士が初登場のときと同じように沢山の女性に囲まれているのをみて、段々と記憶が混濁して、気がつけば不可思議なことを口走っていた。
「あの……。そ、そうだ。その、足は大丈夫ですか。ほら、確か前回……自分が気づいていないだけで酷い怪我かもしれませんし、今日は安静にしていたほうが……」言いながらリックはアメリアの表情を覗き見た。アメリアは目尻を鋭く吊り上げて、瞳孔を猫のように細めていた。普段なら尊敬と親愛を向ける眼差しには怒りだけが浮かび、その輪郭は普段よりいくらか鋭く見えた。そんなアメリアに萎縮して、言葉尻はどんどん小さくなって最終的には長い静寂が二人の間に訪れた。肌を、心を突き刺すような鋭い視線は今すぐ逃げたくなるほどで、全身が鋭利な剣でもってズタズタにされていくみたいだ。長い沈黙のあとアメリアは相変わらず冷たい口調で当然の指摘をした。
「それってもう一ヶ月以上前の話じゃない」それに、とアメリアは付け加えた。これは特に必要のない一文だったし、リックを傷つけることはわかっていたが大した躊躇いも罪悪感も感じなかった。「あのときだってディラン・エドワーズさんに抱きとめて貰ったから怪我はなかったし」
 リックは付け足された一言にまた自信を失い、自分の爪先をじっと見つめるより他になかった。ああ、もし自分が時間を遡り、あの場にいたとしたってあの紳士ほどスマートに助けられるとは到底思えない。助けようとして、間に合わなくて、婚約者のドレスやら手やらを踏みつけにしそうなことはなんとなく想像できた。暗い妄想に勤しむと自尊心はますます削れて、その代わりとばかりに卑屈ばかりが大きくなっていく。
「でも、もしかしたら……」
「しつこいわね」食い下がるリックにアメリアはぴしゃりと言い放った。アメリアはこんなつまらない会話を続けるよりも、一刻も早くあの不遜なディラン・エドワーズを打ち負かしたくてしょうがないのだから。ついにリックは「えっと」とか「あの」とかそういう声すら出せなくなった。しかし、何かを言わなくてはという思いだけは立派に持っていたので、頭が真っ白になりながらもリックはパッと脳裏に思い浮かんだ言葉を発した。
「グランドツアー! そうだ、グランドツアーの話をしませんか?」
「その話はこの前、十分すぎるほど聞いたと思うけど?」
「でも……」リックのか細い声は淑女たちの声に邪魔されてかき消された。アメリアは首だけで後ろを振り向いて、紳士の取り巻きたちをじっと見つめた。相変わらず向こうはすごい盛り上がりで、こっちの凄惨な空気と比べれば何百倍も楽しそうだった。
「まだ、沢山話したいことがあるんですよ。ですから、その。向こうで二人きりで話しませんか」
「わたしとの約束はどこにいったのかしらね。今日は妙に……いいえ、今日は。じゃないわね。いつも邪魔ばっかりだもの。貴方って本当に人の心がわからないのね」
「仮にも婚約者だっていうのに、この仕打ちは……」
 ああ、本当に早く解放してくれないかしら。アメリアはわざとらしく溜息をついてみせた。リックはどうにか弁明しようと、子供みたいに身振り手振りを大きくして拙い説明を続けているがアメリアの耳にはまるっきり届いていない。
 誰かこの人をどうにかしてくれないだろうか。と思いアメリアは周囲を見回してみたが助けになりそうな人は誰もいなかった。ソフィーは相変わらず鋭い視線で(なんだか、馬車の中で見たときよりも鋭い気がする)アメリアの事を監視していたし、その隣のジョージアナは姉の状況なんてまるで興味がないみたいで彫像らしく微動だにしないで会場を静観している。
 唐突にアメリアの視界にエマの姿が映った。エマは何やら壁の方でアボット夫人とその他数名の使用人やらに囲まれて何かを騒ぎ立てている。リックのつまらない弁明は相変わらず聞き流して、アメリアはエマの声に集中した。それなりに距離はあったが、大嫌いな声だったのでどうにか「ドレス」とか「あの女」とか「許せない」といった単語だけは拾うことができた。
「また、エマが何か騒いでるわね。どうせ有る事無い事でっちあげてるんでしょうけど! エマって本当に低俗な嫌がらせしかしてこないものね」エマが度々自分を睨んできていたのでおそらく「あの女」とは自分のことだろう。心当たりはまったくないがそんなこといつものことなので対して気にもならなかった。それにしたって今日はどんな間抜けな理由で騒いでいるのかしら、とアメリアは目の前のリックのことなんて忘れてエマをじっと観察してすぐにピンときた。
 エマの青緑のドレスは裾が破けてパンタレットが露出していた。どうせ自分の不注意でドレスを踏みつけにでもして、その罪を自分に擦り付けようとしているのだろう。アメリアはいわれのない罪を充てがわれた苛立ちよりも呆れが先行して真っ白な肩を落とした。
 本当にエマって、カラスみたいに狡猾な女ね。何でもかんでもわたしに関連付けてわたしの評判を落としたくてたまらないんだわ。いくらエマが嫌いだからって、綺麗なドレスに罪はないからわたしがそんな事するはずないのに。でもアボット夫人やエマを取り囲んでいるエマのお気に入りの使用人たちはそれをまるっきり信じ込んでるみたいだし。ああ、本当に馬鹿馬鹿しい! アボット家って方向性は違うにしても、人の邪魔をするのが本当に大好きなのね。アメリアはリックにちらりと意味深な視線を送り心の中で毒づいた。リックは何を勘違いしたのか、その視線を好意的に解釈したらしい。
「だから、その、確かに僕のやっている事は紳士らしくないかもしれないけど……僕はただ不安なんです。慈悲深いアメリアさんなら許していただけますよね」リックはまだ許すとも言っていないのに、許されると確信しているらしく目に希望の光を宿しながらアメリアの手を恐る恐る握った。ちょうどそのとき、アメリアの脳内はエマに対する毒とこの退屈な会話の終結を願う気持ちでいっぱいいっぱいでリックの話なんてまるで耳に入っていなかった。そのためアメリアは突然手を取られて、訴えかけられて訳がわからなくなって大きな瞳をぱちぱちとさせた。
「えっと、何だったかしら? もう一度言ってくれる?」また何か自分が早とちりしたのではないかと思って、リックは顔を青くしてさっきよりは自信なさげに、もう一度望みを繰り返した。
「どうか優柔不断な僕を許してくださいますか?」
 もうリックのぶつぶつ喋るのを聞いているのもいい加減うんざりしてきて、さっさと許してしまおうと思って口を開きかけたが、エマの甲高い声が聞こえて言葉は飲み込まれた。エマの方を改めてみると、そこにはさっきの集まりに加えて何人かの紳士が立って、エマの話を聞いているようだった。エマはさっきよりも声を高く張り上げて、時折目に涙まで浮かべながら、身振り手振りも大げさに力説している。
 リックの握る手が痛いのも忘れて、アメリアはエマを激しく睨みつけた。「あの女、内輪で盛り上がるだけならまだしも素敵な紳士に言い触らしてわたしの評判を下げようっていうのね!」今すぐにでもこの手を振りほどいてエマを怒鳴りつけに駆け出したいのを必死で抑え、アメリアは唇を噛み締めた。
「でも、そんなことできないわ。そんな必死に弁明したら本当にやったみたいだし。それに淑女なら、あんな分かりやすいやっかみに立ち向かうこともないわ。ああ、だからといって、この苛立ちがどこかに消えるわけじゃないけど! 本当に何もかもうんざりだわ。淑女らしく振る舞うために諦めないといけない事柄の多いこと! もしわたしが淑女じゃなければ、リックの足なんて踏みつけにしてエマなんて怒鳴りつけてやるのに……。本当にアボット家って邪魔者ばっかり」
 その時、アメリアの頭の中で唐突にパズルのピースがハマる音がした。
「そうよ、面倒な妹の相手をするのは兄の役割よね! 面倒な兄の世話をするのが妹の役割なのかもしれないけど。まぁなんだっていいわ」アメリアは、途端に笑顔になってリックの手を握り返した。不思議なことにアメリアが握り返せばリックの手に込められた力は緩み、すぐに逃げられるくらいにまでは弱まった。
「ねぇ、リック。貴方の紳士らしからぬ行動はこの際許してあげるからお願いがあるの! 難しいことじゃないし、本当に簡単なことなんだけど……あのね。わたしたちってもう結婚したも同然でしょ? それでわたし、貴方の妹のエマ・アボットも実の妹のように思っているの」ちょっと声は素っ気ないけど、リックは気がついてないみたいね――本当に単純な人。「それで、ほら、みて? エマったら、何か困った起きたみたいでしょ? だから今日は一日中エマの側に居てほしいのよ。きっと実のお兄さまが側に居たほうが気も休まると思わない? ああ、そうだわ! グランドツアーの話もしてあげればいいわよ。そうすればあの子の気も紛れるでしょ?」
 リックはその話を聞いて心の底から感動した。まさかアメリアがそこまで自分と自分の家族のことを思ってくれているとは夢にも思わなかった。エマは大切な妹だし、それが恋人の頼みとあらば是非もない。それに、これほど未来の家族を思っているアメリアが、パッと出の紳士に取られるだなんて急に変な幻想のような気がしてきて、自分の器の小ささが逆に恥ずかしくなった。
「アメリアさん……! 恥を忍んで告白します――実は僕はあなたがあの方に奪われるような気がして……それが心配だったんです。あなたを信じてもいいんですね……ああ、どうか信じてもいいと言ってください。どうか僕を安心させてくれませんか?」
「えっ? ああ、信じていいわ。ええ、神に誓ってもいいし。それよりも早く行ってあげたらどう?」そろそろ一曲目が始まってしまうような気がしてアメリアはそわそわし始めた。この人のせいでダンスの相手に事欠く羽目になったらどう責任を取ってもらえば良いんだろう?
 リックはまさかそこまで言ってくれるとは思わず、感動で目が潤むのすら感じた。アメリアの邪悪な腹の中にはまるで気が付かないまま、リックはその手を握り返してあっという間に頼みを承諾した。
「もちろんです! アメリアさん、あなたは本当に心根の優しいひとですね。僕だけじゃなくて妹のことまで心配してくれるなんて……」
「よろしくね。エマがもう大丈夫だって言っても今日一日中は付き添ってあげてね。女性って平気な顔しながら本心は傷ついているって結構よくあることだから」
 アメリアはエマの方に勇み足で向かっていくリックを見つめて悪戯げな笑みを浮かべた。リックの後ろ姿はさながら戦地に赴く勇敢な軍人のようだが、全て自分の手の平の上だと思うとなんだか凄く滑稽に思えた。
「リックって場をしらけさせる天才だから、きっと向こうの会話もとんでもなくつまらなくなるでしょうね。それにわたしも解放されて一石二鳥じゃない。我ながらなんていいアイディア! それに、わたしがこの話を言い出したって言ってくれればわたしは義妹思いの淑女に映るでしょうし、エマの話だって有耶無耶になるわ。てっきり帽子を乗せるためだけにあると思ってたけど、たまにはわたしの頭も働くことがあるのね」アメリアはリックをエマに押し付けて上機嫌でディランの方へと歩き出した。その道すがら、レミントン夫人は肉がついて指輪の埋まった指をしきりに弄りながらやきもきとしていた。興奮のあまり独り言の声量は随分大きくて、ディランを取り囲む集団の一番外側で暗い顔をしているエスターにも届いているに違いない。
「ああ、まったくあの子ったら、そんな遠くにいたら存在しないのと同じじゃないかい。ああ、それにしたってあの方……本当に素敵な人だねぇ! やはり育ちの良い方っていうのは育ちの悪い女に引っかからないように出来てるんだろうね」レミントン夫人はわざとらしくアメリアのことを見て鼻息を荒くした。
「おやおや、ミス・スレイター、どうせあの方を誑かしにいくんだろうけどね。どうせ失敗するんだから止めておいたほうがいいだろうね。それよりもお聞き! あの方ときたらエスターにだけ向ける視線が優しいんだよ。それに、ダンスの誘いも快く受け付けてくれたしね。あんたもお相手が居ないなら今すぐにでも、片っ端から声をかけたほうがいいんじゃないかい? それとも、頼み込むならうちのヘンリーと踊らせてやってもいいけどね」
 アメリアはサルーンの真ん中で、大勢の淑女に囲まれるディランをチラッと見て、レミントン夫人に向き直った。アメリアの瞳はこれから行う無謀な挑戦に奮い立ち、魅惑的な輝きを放っている。レミントン夫人はアメリアのゾッとするほど美しい微笑みを見て背筋が凍りそうになった。
「な、なんだっていうんだい。本当に……」
「たかだか一曲でそれほど喜べるなんて幸せなことですね。ところで、レミントン夫人。今日は何曲やる予定なんですか? カドリールとコティヨンは当然あるとしてですけど」
「ランサーズとスコティッシュとポルカですよ。それぞれの間にワルツが二回ずつ入るけど、一体それがどうしたっていうんだい? 頼むからこれ以上わたしに構うんじゃないよ。本当に何を考えてるのかわからなくてゾッとする。その狡猾な目つきも、何もかもだよ」体温が急激に下がっていくのを感じて、レミントン夫人は脂肪のたっぷり付いた腕を擦った。
「レミントン夫人の大切で大切で仕方がないヘンリーを貸し出す必要なんてありませんわ。ええ、そんな必要ありませんとも! だって、わたしはディラン・エドワーズさまと踊りますから。カドリールもワルツもポルカも全てです」
 それだけいうとアメリアはさっさとその場を後にした。大胆な宣言にレミントン夫人はぽかんと口を開けて、その場に立ち尽くすだけだった。

第八章 三話

 アメリアが誰よりも優雅に美しく、そして毅然とした雰囲気を漂わせながらヒールをコツコツ鳴らすと、ディランを取り囲んでいた女たちは厳しい視線を投げつけながらもアメリアの迫力に気圧されてしぶしぶ道を空けていく。女たちが左右に道を譲り、示し合わせたわけでもなく花道が姿を現す。アメリアはさながらスターのように、悠々と自分のための道を闊歩していく。
 ディランもすぐにアメリアに気がついて、アメリアに視線を向けた。二人の視線が真正面から衝突する。しばらく二人は何をするでもなく、ただ視線を交わしあった。時間にしたらほんの数秒のことだろうが、なんだかアメリアにはその時間が永遠に続くように感じた。なんだか、心臓が変な脈打ち方をしている。それを見透かしたみたいに、ディランは目を細めて小さく笑った。
 未だに腕にしがみついていたアンナを軽く引き剥がして、ディランはアメリアの方へと歩みを進める。二人の距離が近づくにつれて、どこからともなく、悲鳴とも歓声とも取れない声が上がり、娘たちはスキャンダルの予感にアメリアとアンナの顔を忙しなく見比べた。アンナ・ベネットに関しては傍目には悔しがっているような様子はこれっぽっちも見えなかったが、明らかに気分は害したらしくさっき婚約者を自慢していた時とは打って変わって不気味な彫刻のように無表情を浮かべている。アメリアは気のない風を装ってはいたが、内心は優越感でいっぱいだった。ほら見なさい、わたしが一番なんだから。
 ディランはアメリアの目の前まで歩みを進めると、悪戯っぽい笑みを瞳に宿しながらアメリアの手を取りその手に口づけした。それだけで紳士を取り囲んでいた淑女たちは過去一番の悲鳴を上げた。一体なに? この子たちったら、ただの挨拶でどうしてここまで盛り上がれるわけ?
「ちょうど良かった。もしよければ向こうで話しませんか?」
 アメリアは頷いて、ディランに連れ去られながら質問した。
「一体、あの子たちはなんだったの? 挨拶を初めて見るみたいな反応じゃない」
「なんだ、見てなかったのか。今日はあれほど丁寧な挨拶はしてないからな」
 ふうん、とアメリアは素っ気なく返しつつも内心では満足でいっぱいだった。思わず背後を振り返り、未だにきゃあきゃあと騒ぎ立てる淑女たちを見つめた。
「君が楽しそうで何よりだ。淑女たちの言葉を聞く限り今日は随分派手にやってるみたいですね。婚約者を差し置いて他の男の手を取ったとか」
「あの子たち、また言い触らしたのね。それでまたわたしを馬鹿になさるおつもりね? そうはいかないわよ。だって、これにはちゃんと理由があるんだから」
「理由? 一体どんな?」
「今日だけはわたしのしでかすことに文句を言わないって約束よ。あの人ったらすっかり忘れたみたいだけどね」アメリアは先ほどの出来事を思い出して壁際でエマにしきりに話しかけるリックを睨みつけた。
「それはまた。随分変な約束だな」
「だってそうでもしないといくらリックでも白い目で見るに決まってるわ」
「君がひと睨みすれば気を失うはずですけど、いや、そういう意味じゃない。一体どうしてその約束を一生分取り付けなかったんだい? そうすれば君は合法的に遊び放題だっていうのに。もちろん世間の目は厳しいだろうけどね」
「そ、そんなこと! それは流石にやりすぎだわ」
「まさか君からそんな言葉を聞くだなんてね。いつものお転婆はどこに行ったんです。そもそもやりすぎっていうなら彼の方じゃありませんか? 一体この世の誰に君が社交界で好き勝手するのを邪魔する権利があります?」
「そんな権利、神さまにだってあるものですか! ……でも、婚約っていう二文字にはその権利があるらしいわ。ああ、忌々しい! 本当におかしな制度よ。どうして複数の人と同時に関係を持っちゃいけないのかしらね。ましてや女なんて、婚約したら他の男性と踊るどころか目を合わせるのも気を使うべきって言われるんだから!」
「紳士っていう生き物は女性よりも女らしさを愛するから仕方ないね。淑やかで意見のない人形みたいな女が好きなのさ」
「あなたもそうなの?」
「まさか! もしそうだったら君と話していない……あのお手本通りの淑女を相手にするより君と喋っていた方がよっぽど楽しいんだ。君もそうだろう? 道徳に従ってつまらない恋人と壁際にいるよりも素敵な男を捕まえて骨抜きにする方がよっぽど好みだ」アメリアはなんだか自分の企みが見透かされているような気がして心臓が飛び跳ねるのを感じた。
「そんなことないけど――」
「なら一体どうしてわたしに近づいたんです? わたしを屈服させて自尊心を満たすためじゃないのかな。そろそろその可愛い手を重ねて愛らしい笑みでも浮かべるんじゃないかと思っていたところなんだがね。案外気に入られているようだし」
「あなたね――! ちょっと自意識過剰が過ぎるんじゃありませんか? 確かにあなたは素敵だけど、同じくらい素敵な人は他にも沢山いるもの。それにわたし、もっと優しくて立派な人が好みよ」
「たとえば彼とか?」
 男は横目でリックのことを見つめた。リックは今もなおエマに張り付いて楽しい時間を台無しにする責務の真っ最中だ。いつの間にか紳士たちはエマから離れたところで政治談義に花を咲かせている。随分盛り上がっているようだから、きっとエマの与太話もすでに頭の中から消えているだろう。エマは心底うんざりしている様子だったが、リックはお構いなしでアメリアに言われた通り熱を込めながらグランドツアーの話を聞かせている。
「まぁ、あれは慇懃というか無能なはにかみ屋なのかもしれませんが」
「ちょ、ちょっと! そういう風に言うのって良くないわ」
 ディランの散々な言い草にアメリアはギョッとしてすかさず口を挟んだ。ただ、本人はこれっぽっちも気にするつもりもないようで、アメリアの文句もまるで意に介さずに、つらつらと言葉を紡いでいく。
 「礼儀正しさも度を越すと滑稽だと思いませんか? ああいう性質は騎士というよりは奴隷ですよ。しかも本人は立派な騎士だと思い込んでるときた」男はくすくすと喉の奥で笑っている。アメリアは口をあんぐりと開けて言葉もでなかった。確かに自分も同じようなことを思うことはあったにしたって、それはあくまで思っただけで万が一にも口に出そうだなんて思った事もない。それなのに、目の前の男は軽々とその一線を、優雅なほどにあっさりと踏み越えてみせたのだ。
 アメリアは一瞬狼狽えたが、こういう不測の時にこそエレンとソフィーによる献身的な教育が役に立つというもので、アメリアの脳みそは完全に機能を停止していたが、口からは教えられた通りにオートマティカルに言葉が紡がれた。悪口には参加しない方が賢明だ。たとえそれが、どんなに些細なことであろうとも、不満は決して口にしない。態度でならいくらでも示して構わないが、それを言葉にした瞬間心無い諜報人がどういう風に尾ひれをつけるかわかったものじゃない。アメリアは澄ました顔でディランから顔を背けて口を開いた。
「そんな風に仰られる方とは会話したくありませんわ。軽々しくそういうことを仰られる方が陰でわたしをどういう風にいうのかはわかりますから」
「そうですか? 陰で噂するとしても、綺麗だなんだって美辞麗句を並べ立てられるだけでは? ああ、まぁ、もちろんわたしは褒め言葉に加えてさっきの出来事もきっちり話しますけどね。事実は正確に伝えたいですから。淑女には程遠いが、造形だけでみるなら立派っていうところですか」
「わたしを怒らせたいのか喜ばせたいのかどっちなの?」
 アメリアは馬鹿にされて顔を赤くしながらディランを睨みつけた。ディランはそんなアメリアを軽々といなして話を続ける。
「それはもちろん、怒らせたいに決まってるだろう。ただ喜ばせたいだけならもっとやり方は沢山ある。君だっていくつかは知っているだろう? 怒らせて、淑女らしさとかいう趣味の悪い仮面を引っ剥がしたいのさ」
「なら、もう十分目標は達成したのではなくて? とにかく、こういう話題を続けるつもりならわたしはもうお話しませんから。そもそもあなたが散々扱き下ろしたリックに関しては喋ったこともないじゃないですか。それなのに、性質を決めつけるなんておかしな話です」
「そう的はずれなことも言っていないと信じていますよ。あの紳士も励ましているつもりらしいが、今に逆鱗に触れると思いませんか? 予言してもいいが、確実に彼はあの綺麗なドレスを台無しにするだろうね。それで、また捨てられた子犬みたいな顔をするさ」
 それがあまりにも鮮明に脳裏に浮かんで、アメリアは思わず小さく吹き出した。ディランが満足そうに目を細めたのを見て、ハッとして冷静を装おうとしたが堪らえようとすればするほどダメになって最終的にアメリアは呼吸もままならない程激しく笑い転げた。
「あなたって、本当に悪い人ね」
「淑女なら顔をしかめてさっさとどこかへ立ち去ったほうが身のためですよ。わたしは悪い影響しか与えませんから」
「それならもう手遅れかもね。本当に、悪口で盛り上がるなんて最低だわ、わたしたち! 会話する気もなかったけど……まぁ、でもいいわ。なんだか楽しいし、もう少しお話に付き合ってあげる」
「話だけですか?」
「もちろん、お望みなら一緒に踊って差し上げてもいいけど」
「素直じゃないな。もう少しはっきり仰ったらどうです? わたしと踊りたくてたまらないって顔に書いてありますよ」
「随分と自信家なのね。まぁ、でも、そこまで仰るならはっきり言ってもいいわ。わたしと踊ってくださいませんか? できれば、全曲」
 ディランはしばらく静止して、数秒の間を開けて咽せるほど笑い始めた。アメリアはまさかこれほどまでに笑われるとは思っていなかったので少しムッとして、文句の一つでも言わなければ気が済まなくなった。
「断るにしたって、わざわざそんなに笑う必要ないじゃない! 本当にわたしに恥をかかせるのがおお好きなのね! 別にあなたに相手して貰わなくても、お相手は沢山いるんだから! ちょっと、それ以上取り憑かれたみたいに笑うなら――」ディランはアメリアの言葉を手で制止した。自分を落ち着かせるために息を大きく吐いているが、未だに楽しそうに胸の辺りで笑っている。
「失礼……ふふふっ、ああ、まぁそう怒らないで。怒ってる君もチャーミングだけど話が拗れるから。色良い返事をしようとしているんだから――流石に要望通りというわけにはいきませんが――そうですね。ワルツだけなら全曲踊っても良いですよ」アメリアの手を取りながらディランは柔らかく微笑んだ。アメリアは思わぬ返事に目をぱちぱちさせたし、聞き耳をたてていた淑女も紳士もそれは同様だ。密かにこの紳士とワルツを踊りたがっていた娘たちは唇を噛んで嫉妬に塗れた瞳でアメリアのことを睨んでいる。ディランはそんな娘たちに軽く視線を向けた。
「その代わりに君が背後から刺されてもおかしくない」
「あら、その程度何の対価にもならないわ。だって、ワルツといったらみんな目の色を変えるくらいのものだもの。本当にワルツは全部踊って頂けるの?」
「ええ、もちろん。むしろこちらから頼みたいくらいですよ。淑女の方々はワルツが大層お好きらしいが、わたしは正直うんざりなんだ。打算的でがめつい淑女と踊るくらいなら、まだお転婆娘と踊った方が退屈しないでしょうから。ただ一つ忠告しますが……一曲目は婚約者と踊った方が身のためですよ。わたしもそうするつもりですし」
 アメリアは殆ど聞いていなかったので、「ふうん」と適当な返事を返した。理由が何であれ、自分と踊ってくれるのは変わりはないのだから。それも、淑女たちが目の色を変えるワルツを! 淑女たちの嫉妬混じりの視線のなんと心地よいことだろうか! アメリアはますます上機嫌になって、感じの良い微笑みを浮かべた。
 最初の演目、カドリールはその辺にいた適当な紳士を捕まえて踊った。ディランのありがたい忠告はすっかり無視される形となった。何しろ、今更リックと踊るなんて考えられなかったのだ。ダンスはリックと踊るよりは楽しかったが、踊っている最中もアメリアの意識はずっとディラン・エドワーズとアンナに向いていた。
 それにしたってアンナの得意気な顔ときたら! それだけが唯一この完璧な絵を台無しにしていた。とはいえそれも一曲の辛抱なので、そんな些細な不満はすぐにアメリアの脳みそからこぼれ落ちた。
「わたしと踊ったら……ふふっ! ああ、本当に楽しみ! きっと気分良いわね。ただ気がかりなのは、今みたいに意地悪もなりを潜めてくれればいいんだけど……あれはアンナだからそうしてるのかしら。そこさえどうにかなれば本当完璧な相手なのに」
 アメリアは自分のパートナーには目もくれず、改めてディランの事を品定めするみたいにじっと見つめた。浅黒い肌に力強い瞳。鼻筋も通っている。その上他の男と比べても頭一つ長身だ。その割にしっかりと筋肉があるのが服越しにでもわかった。悔しいことに、容姿だけなら百人中百人が素敵だというだろう。「見た目だけなら、本当に好みだけど本人には絶対言ってやらないわ。だってあの性格ならどんなに馬鹿にされるかわかったものじゃないもの」不意にディランと目があって、アメリアは慌てて視線をパートナーに戻した。ディランの男らしさと比べると目の前の男のなんと老人じみたことか。年齢はそれほど変わらないはずだが、若者らしい覇気はこれぽっちも感じられない。このまま墓に直行する運命が顔つきにありありと表れている割に鼻だけ無駄に高くて自尊心が高そうだ。それに、自堕落な生活の賜物か、全身の筋肉という筋肉はすっかりやる気を失って小さく縮こまっている。生命力の欠片も感じられない枯れ枝みたいだ。
「まぁ、こうなるよりはあれくらい横柄な方がよっぽどマシね。ムカつくことには変わりないけど、でも少なくとも今みたいに退屈過ぎて死にそうになることはないもの。それにしてもわたしも良く今までこんなカサカサした人たちで満足できたものだわ。今こうして見ると、ひどい品揃えだもの」
 他の淑女と同じようにアメリアも暇さえあればさり気なくディランを覗き見て、退屈なカドリールは終わった。

第九章 一話

 いざ、ディラン・エドワーズとワルツを踊ってみてアメリアは本当に言葉も出ないほど驚いた。カドリールを遠くから見つめていたときにも感じたことだが、実際に自分が体験してみるのでは訳が違う。それとなく誘導しなくても自分の意図をしっかりと汲み取ってくれるし、それになんだかあるべきものがあるべき場所にあるみたいな不思議な安心感があった。きっとそれはリズムの取り方や重心の動かし方とかそういう些細なものから形成されているのだろう。
「さっきも思ったけど、貴方って本当にダンスが上手なのね。大体、長身の方ってわたしとは歩幅が合わないのに、それに……」さっきの退屈なダンスと比べたら、いや今までで一番楽しかったダンスと比べても、とにかく楽しくてついつい男の容姿とかそういうものまで褒めたくなってしまったがなんだかそれも癪だったのでその続きは口を噤んだ。ただ、ディランにはその続きがはっきりと聞こえたらしく含み笑いを浮かべた。
「別に隠さなくたって、さっきもだいぶ見惚れていたじゃないですか? 気づいた事があるんだが、君は本当に何でも顔にでるから分かりやすいな。しかも自分では上手く隠しているつもりらしいから本当に面白い」
「アンナに対してはお行儀良く出来るのに、わたし相手にはできないのね。そういう態度さえどうにかなれば、本当に理想の相手だと思うけど。紳士なら女性には少し慇懃すぎるくらいでちょうどいいってご存知だと思うけど」
「でも君は多少無作法な方が好みだろう。手を握るのにもいちいちお伺いを立てるような男は鬱陶しくて耐えられない。それからファーストネームで呼ぶのに一年もかかるような奴には振り向きもしない。それなのに大々的には礼儀を重んじるべきだなんて思ってもないことをいうんだからおかしな話だ。違います? アメリア」
「あなたって、本当に女性を分析するのがお好きなのね。でもお言葉ですけど、そんなことありませんし……それにそこまで仲良くなったつもりはありませんわ、ディラン・エドワーズさま、わたしたち別に仲良しってわけでもないでしょう」
「いいや、仲は良いと思うな。何しろわたしは君と知り合って数ヶ月だが……君のことはその辺の男よりは色々知っているわけだし。幸運にも二度もあなたを助ける名誉を頂けたわけですしね」アメリアは思い出したくもない失敗を思い出してムッとした。一体前回はどうしてこんな意地悪な男を頼ったんだろう。
「ご心配なく、これからは別の方を頼りますから。あなたの手を煩わせる羽目にはならないはずです」
「わたしは別に構いませんけどね。きみといると本当に退屈しない。ああ、でも気にいるのは構いませんが――間違えても恋に落ちるなんてことはやめてくださいね。君と結婚するのは相当根気が要りそうだし……せいぜい愛人が良いところだろうね。君は愛人としてはこの上なく優秀だが結婚相手としてはあまりにもお粗末だ」
「なんですって!? 愛人!? 有り得ない!」衝撃的な一言にアメリアは思わず顔を赤くして足がもつれた。ただ、悔しいことにこの相手はその対処も完璧だったので、余計に腹が立つこととなった。ディランは何食わぬ顔でアメリアをサッと抱き寄せ、やはり楽しそうに喉の奥で笑った。
「あんまり叫ぶと曲が聞こえなくなりますよ。ほら、リズムも崩れてる。それから淑女らしくしたいならこういう会話はせいぜい顔を赤くして俯くくらいに留めておいた方がいいだろうね」自分の淑女らしくない反応を思い出して、アメリアは本当にうんざりした。またこの男に付け入る隙を与えてしまったわけだ。
「誰だって侮辱されれば、ああなるに違いないわ。それに、あなたって自分のことを過大評価しすぎよ。誰があなたのことなんて好きになるものですか! どうせ見つめれば女なんてすぐに我が物にできるって思ってるんでしょうけどね。確かに、ダンスは本当にうまいし、容姿だって悪くないけど、性格は本当に最悪そのものだもの! 誰があなたなんて……」
「それは君もだろう。その上、地上の全ての男が自分に首ったけじゃないと我慢ならないらしい」
「それはあなたもじゃないの?」
「まさか! わたしのお気に入りだけで十分だ」
 お気に入り、という直接的な言葉でクラッとした。その言葉の裏にどれだけの女性を良いように扱っているのが見て取れるみたいじゃないか! そう思うとなんだか心臓がドキドキしてアメリアは思わず視線を下げた。きっとこの腕も何十、何百という女性を抱いてきたのね。身なりの良い人も、そうでない人も!これが歴とした淑女であるメアリーならこんなことを言われたら顔を真っ赤にして気絶してもおかしくないのに、気絶できない自分がなんだか恨めしい。
「そう純情ぶらなくても」楽しそうに笑うディランをアメリアは睨みつけて唇をツンと尖らせた。
「それに……わたし、リックがいるもの。わたしがあなたに熱をあげるなんて、天地がひっくり返ったって有り得ない話よ」
「わたしと踊りながら良く言うな。結局、忠告は受け入れなかったようだし」
 ディランは満足気な笑みを顔に湛えて、極めて紳士的にアメリアをリードした。それが完璧であればあるほどアメリアのどうしようもない苛立ちは増していくのだ。だからといって曲が鳴り止むまでは逃れる術もない。ディランの言葉にも苛々したが、何より苛々したのはやられっぱなしで何も成す術がないというところだ。今までだって――これほどではないにしても――紳士から軽くからかわれることは何度もあった。アメリアはその度に、逆に揶揄い返してやったのに。このディラン・エドワーズに対してはまるで策が思いつかない。全部手の平の上で、どういう反応が返ってくるのかも予習済みのような態度が腹の底を燻って気持ちが悪い。せめて、少しでもやり返せたら少しは気分も良くなるのに。そう、せめて、この男が少しでも自分に気があるような素振りを見せれば、糸を解くみたいに、この鉄壁の皮肉を打ち崩すことができるのに! ああ、そうなればどれほど素晴らしいだろうか! この少しでも粗があればそこをつついてケタケタと笑わないと気がすまない男を逆に笑ってやれるなんて!
 三拍子に合わせて上下左右に動いていると、段々とアメリアの沸騰した怒りも落ち着いて冷静に、少なくともそれを装えるくらいには冷静になった。アメリアは一旦息を吐いて、ディランの黒い瞳を真っ直ぐと見つめ返した。
「あなたこそ、わたしのことは好きにならないと仰るのね?」
 熱し易いアメリアの心に火が灯る。心に灯った炎はあっという間に全身に広がり、緑の瞳を挑戦的に輝かせながらアメリアは眉を小さくあげた。流石にディランもその煌めきを無視することはできなかったらしく、食い入るようにアメリアの瞳を見つめた。
「わざわざ君を選ぶほど変わり者じゃないな」
「そういう風に仰る方ほど単純ですぐに好きになるのよ。絶対わたしに熱を上げるようになるわ。そうしたらこっぴどく振ってあげる」
「ありえないね」ディランはあしらうように軽く笑った。

 ワルツの間、二人は存分に会場中の視線を独占した。令嬢たちは妥協した相手と踊りながら、もしくは壁際で嫉妬の炎をメラメラ燃やしながらアメリアに羨望とも憎しみとも取れるような視線をぶつけた。自分の娘をどうしても踊らせたいレミントン夫人なんて、嫉妬のあまり気分が悪くなってしばらく席を外したくらいだ。その中でも格別厳しい目つきでアメリアを睨んでいたのがソフィーとアンナの二名だ。少しでもこの視線に気がついていたのなら、さすがのアメリアでも多少は怯んだだろうが、アメリアはダンスに夢中でこれっぽっちも意に介していなかったー¥^
 そんなこんなで、アメリアはディランの態度にムッとしたり、軽薄な冗談が楽しくなって天使の笑顔を浮かべたりしながらワルツを踊り終えた。確かに引っ叩きたくなるほど腹が立つ事もあったが、まるでこちらの心を全て掌握されているかのようで本当に許せなくなる一歩手前で器用にも手の平を返して言葉巧みにアメリアを褒めたり、楽しい軽口を叩いたりしたので、いつの間にかアメリアも楽しくなってさっきまでの怒りなんてあっさりと忘れてしまうのだ。そんなわけで、全てを引っくるめて総括するならディラン・エドワーズとの会話やダンスはとても刺激的で心躍るものだったと言わざるを得ない。だから、アメリアはワルツを続けて二曲踊り終わると珍しく名残惜しいような気持ちを抱いて、手を離すのも惜しいような気持ちになった。

 次の曲はやはりというべきかリックと踊る気にもならず、適当に見繕った相手と踊ったがこれに関して言うなら本当に失敗だった。あんな男に頼み込むなんてちょっとプライドが許さないが、それでも、あの量産型の一端の淑女の中に飛び込んで多少下劣な手段を使おうとも、また淑女らしくないとか馬鹿にされようとも、持てるだけの武器を使って一緒に踊るべきだったのに! と、アメリアは曲が始まって数十秒もしないうちに後悔した。名前も知らない適当な紳士とのダンスはあまりにも退屈で欠伸が出た。まるで予定調和、何百回も見返した物語をなぞるみたいで何の面白みもなければ目新しさもない。さっきまではあれほど縦横無尽に飛び跳ねていた心も今やすっかりその元気を失ってしまった。その上、会話も退屈であんまり意味のない言葉を定型文通りに喋るばかり。
「様式美も悪くないけど……でも確かにあの人のいうことにも一理あるわ。礼儀に縛られて退屈させられるよりも、多少無作法でも楽しい方がいいに決まってるわ。それにしたって――」あまりにも退屈なのでアメリアの視線はディランの方向へ向かう。ディランはエスター・レミントンと踊っていた。演目はワルツではなかったので完全にレミントン夫人の望み通りとはいかなかったもののディランの方も紳士としての努めを忘れたわけではなかった。アメリアからしてみれば何だか意外な感じだった。むしろ頼まれたら率先して断るような気がしたし、それが明文化されていない規則なら殊更のような気がするのに。ただ、そんなことはすぐにどうでもよくなって、アメリアの視線はエスターにじっと向けられた。
 エスターはディランに手を取られ、顔を耳まで真っ赤にしながらも恍惚とした表情でディランを見つめていた。どうやら緊張のあまり会話もままならないらしいが、今やエスターは完全にディランのペースに飲み込まれ踊る前まではあれほど気にしていた自分の服装すら意識の外だった。
「それにしたって、エスターったら蕩けちゃって……! まさかわたしもあんな感じになってないわよね? きっと、平気よ。たぶん……あんなに馬鹿みたいにうっとりしてないとは思うけど、あれ以上あの不遜な男を図に乗らせる訳にはいかないもの。いいこと、アメリア? ああいう、自尊心の高い人は女性なんて簡単に意のままにできると思っているんだから、その鉄壁を崩したいなら少しくらい冷たくあしらうくらいでちょうどいいのよ。問題はわたしが熱しやすいことだけど……まぁなんでもいいわ! とにかく、やられっぱなしは癪だもの。本当に、あの思い上がったディラン・エドワーズさまがわたしにひれ伏すのを眺められたらどれほど気分がいいかしら!」アメリアの心がここにないことを見抜いて、幸運なパートナーは口を開いた。もとより、長いこと沈黙していて気まずかったのもある。
「今夜は随分冷え込んでいますね。それでも湿度が高いから対して寒くは感じませんけど……、珍しい天気ですよね? 体調を崩したりしてないですか? ここは少し肌寒いでしょう?」
「そうね、もっと楽しく踊れれば温かくもなるかもしれないけど」アメリアは退屈な上思考を邪魔されてとんでもなく不機嫌になって、半ば八つ当たりのように答えた。
「これは手厳しい。アメリアさんを満足させられる人なんて本当に一握りでしょう。わたしも頑張りますが、どうもポルカっていうのは苦手で」
 この一曲は妙に長く感じられた。それはあながち勘違いでもなくて、レミントン夫人の策略で弦楽団には長引かせるような指示が与えられていた。
 レミントン夫人はディラン・エドワーズがワルツを二曲もアメリアと踊っているのをみて、てっきりあの紳士は娘とは踊る気がないのだと思い、ふてくされて部屋に戻ると想い人に突き放された乙女のようにえんえんと泣いていたのだが、その後のポルカでついに娘が誘われたと聞いて慌ててサルーンに戻ってきたのだ。そこで、自分の一輪の娘がかくも可愛らしく踊っているのを見つけて、かれこれ三十年ぶりに走り、楽団のところへ向かうとしきりに手を叩きながら取り止めもない指示を出した。何しろ体型の割に細い脚でその巨体を支えるようにはできていなかったので、足首も痛くなったし、息苦しくて今度こそ本当に倒れそうになったが、その程度の苦痛なんてことはなかった。
「もっと長い曲はないのかい? もうこの際なんだっていいからどうにかこの曲をもっと長引かせておくれ! 同じフレーズの繰り返しでも構いやしないよ、どうせ誰も聞いてないんだからね。……ああ、それから、ワルツはもっと短くして頂戴な。そうすれば、あの憎たらしいミス・スレイターもがっかりするだろうからね。それにしても、本当にエスターったら、あの女よりもよっぽどお似合いだねぇ。もっとゆっくり演奏しておくれ! 少しでもこの光景を目に焼き付けておかないといけないからね」
 レミントン夫人はカーテンの陰から頬を真っ赤にしてたどたどしくステップを踏む娘を満足気に見つめた。この一連の出来事に誰よりも驚いていたのはエスター本人だ。最初のワルツをアメリアと踊っているところをみて、今日は自分の出番はなさそうだとホッと胸を撫で下ろしていたのだがワルツが終わるなり次の相手を申し込まれて訳もわからないうちに気がつけば手を取られていた。
 ディランはあれこれと話を振っていたが、エスターは足を動かすだけで精一杯でまともな返事なんて考えようもない。それどころか、ステップだってままならない。これほど身分の高い人と踊ることなんて今までなかったから、絶対に粗相がないようにとガチガチに緊張している。それでもディランの対応は極めて紳士的で優しいものだったので、ダンスが終わって女友達に取り囲まれたエスターは赤くなった顔をぱたぱたと扇ぎながら少し照れくさそうに感想を述べた。
「みんな、聞いて! あの人ってとっても良い人よ、本当に優しくて素敵な方だわ。だってね、わたしまるで役立たずで何を言われても頷くのがやっとなのに、あの人ったら怒りもしないで根気強く聞いてくれるのよ。それに、礼儀正しくて本当ならワルツを踊るべきだったんですがって言ってくださったのよ。わたしなんて一緒に踊れただけで御の字みたいなものなのに。本当に、あの人は素晴らしいお方だわ」
 遠くからその評価を聞いていたアメリアはうんざりして眉を顰めた。「良い人って、エスターったら騙されちゃって! エスター相手にはどれほど猫を被っていたのかは知らないけど、本性は分かりきってるわ」アメリアはディランに目を向けその様子をじっと観察した。他の紳士たちと比べても頭ひとつ抜けて高い身長。それから燕尾服越しにでもわかる筋肉隆々とした体格。その体つきは堅牢な砦を思わせた。顔立ちはいうまでもなく整っているし――と、力強い黒い瞳と目が合って急に全身に電流を流されたみたいな衝撃が走った。ディランはアメリアのことを人差し指で呼びつけた。その態度にむかついて、アメリアは顎を高くして唇を突き出した。
「こんなぞんざいな扱いを受けるなんて、本当に屈辱だわ。今まで一緒に踊った方々は皆わたしのところに迎えにきてくれたのに」
「だから毎回跪けって? 傲慢なお嬢さんだ。今までの相手だって君を怒らすと面倒だからそうしているんでしょうね」
「それからそういう事も口が裂けたって言わないでしょうね」
「中身のない会話をご所望ならそうしますか? 『今夜は随分冷え込んでいますね。それでも湿度が高いから対して寒くは感じませんけど……、珍しい天気ですよね』でしたか?」ディランはくすくすと小さく笑いながら先ほどの退屈なダンスのパートナーの口調を真似てみせた。アメリアもつられてさっきまでの不機嫌も忘れて顔に微笑みを浮かべた。
「盗み聞きしていたのね? ならわたしがどういう反応を返したかだって知ってるでしょ」背筋を伸ばして、胸の前で手を組みディランのことを仰ぎ見る。
「ええ、もちろん。それからずっとミス・レミントンのことを見ていたことも。それにしたって気が利かない会話でしたね。毎回あんな感じなのだとしたら結構な災難だ、君が退屈するのも無理がない。そうだな、わたしがやるとしたら……『ところで、こういう夜は星が綺麗に見えるんですよ。ご存知でしたか? よければこの後、一緒にテラスにでも。もちろん二人っきりで』とかですかね」ディランはアメリアの巻き毛を耳にかけると、アメリアの見知った笑みを浮かべた。それは男性が自分によく向ける類の笑みだ。アメリアは機嫌よく目を細めながら、悪戯っぽくその手を払いのけた。
 「あら、随分手慣れてるじゃない。そうやってガードの堅い淑女たちを誘い出してるのね。でも、残念。星よりもわたしの方が輝いていてよ」ディランは目を細めて心底楽しそうに笑った。
「ああ、そうだとも。君の前では星の輝きも霞むだろうね」
「当たり前よ。わたしがいるっていうのに呑気に星を見つめる時間なんて与えないわ。二人っきりっていうのは、まぁ、良い線行ってると思うけどね。だってここは邪魔者が多すぎるもの」
「君の場合どこにいっても敵だらけだろう。ただテラスに逃げ込めばお目付け役からは逃げられるな」ディランは横目でソフィーのことを見つめて小さく笑った。壁際に陣取るソフィーは怒り心頭という面持ちで、不機嫌さを隠そうともせずに眉間に皺を寄せながら腕を組み、顎を高くあげている。その顔は戦地に赴く軍人のように勇ましい。
「そろそろ実力行使に打って出る頃合いですかね」
「本当に、ソフィーったらわたしの邪魔しかしないんだから……」
「彼も彼で忙しそうですしね。ちょうど良い免罪符に浮かれ気味ですし」リックはいつの間にか壁際からサルーンの真ん中まで出てきていて、その隣にはあまり楽しそうじゃないエマが立っている。心なしか先ほど騒いでいたときよりも、生気を奪われ諦観にも似た表情を浮かべているように見えた。きっとリックの提案で一緒に踊ることにしたのだろうが、リックの退屈なダンスを知っているアメリアからしたら同情ものだ。とはいえ普段から威張り散らしているエマが枯れた花みたいに頭を落としているのは面白くて、アメリアは笑顔を浮かべた。
「本当に、どうしようもない人ね。エマもあんな空気の読めない人がお兄さんだなんて少し同情しちゃうわ。ちょっと考えればわかるようなことなのに」
 ディランも凡そ同じようなことを思ったらしく、二人は顔を見合わせるとどちらともなく肩を揺らして笑った。一頻り笑うとディランは軽く屈み込んで小声で耳打ちした。掠れた低音が耳に心地良く響く。
「一曲も終わらない内にあのお嬢さんを怒らせる結果になると思いません?」
「ええ、絶対に。わたしもそう思うわ」
 二人の予想通り、リックは始まってワルツが始まって一分も経たない内にエマのドレスを五回は踏んで、十回はステップを間違えた。そのせいでエマは更に機嫌を悪くして、そうそうに人混みを抜けて母親に甲高い声で兄の無能を撒き散らしていた。リックはその評価を隣で泣きそうになりながら黙りこくって聞いていた。それを見て、ディランは呼吸困難に陥るほど笑っていた。アメリアもそれに釣られて一瞬笑みを浮かべたが、ハッとして取り繕った無表情を浮かべてみた。恋人の失敗を笑うなんて、わたし本当にどうかしてる!
「あなたって、人の失敗が本当に大好物なのね?」
「失敗が好物というよりは、空回りしている人を見るのが好きなんだよ。それに、さも心配そうな顔つきで心にもない励ましを送って悦に浸る趣味もない。表向きは心配している風で心の中では笑っている方がよっぽど悪人だと思わないかい? 丁度今の君みたいに」
 人を追い詰める声色にアメリアはたじろいで思わず視線を逸した。確かに言っていることはもっともだが、だからといってアメリアの薄い倫理観からしても恋人の失敗を公に笑うつもりにはなれなそうにない。
「だって、一応は恋人だもの」言い訳がましくアメリアが言葉を付け足すと、ディランは目を細めて皮肉っぽい笑みを浮かべて、アメリアの腰を強く抱き寄せた。アメリアは突然のことに口をぱくぱくさせて、どうしたら良いのかわからないとばかりに視線をあっちこっちに動かした。その弾みで窓に映った自分自身と目があって、それがさっきのエスターと同じような表情をしているものだからますます狼狽えた。
「約束しますが、あと数ヶ月もしないうちに君の恋とやらが幻想だと突きつけて差し上げますよ」
「そんなこと、できる訳ないわ! だってわたしはたぶんリックのことが好きだし、愛してるはずだもの。それに、愛はその程度の障害はものともしないのよ」
「一体誰の言葉を借りてるんです? まずもって、君がしないといけないことは顔を赤らめることではなくてわたしを引き離して引っ叩くか、叫び声でも上げることじゃないですか? 生涯を誓いたいような方が本当に実在するのならの話ですけど」
 目に見えた挑発に、アメリアは瞳に炎を宿してディランの体を思いっきり突き放して出来うる限り鋭い視線で睨みつけた。
「そうやって――そうやって淑女の心を土足で踏み荒らして、あまつさえ、わたしの揚げ足をとって笑いものにするつもりなら――誰が貴方なんかと踊るものですか!」
 アメリアはそのままの勢いで決然と言い放つと鼻息を荒くしながら、人混みの輪から離れてジョージアナとソフィーが座っている壁際の方へと向かった。勇み足が激しく床を鳴らしている。その音にひたすら読書を楽しんでいたジョージアナも顔をあげて、怒髪天を衝く姉をじっと見つめて妹は静かに口を開いた。
「楽しそうね、姉さま」
「何が楽しいっていうの? わたしを苛めて……そんなのって最低だわ! あんな男、わたしの前からさっさといなくなれば良いのよ! 人の揚げ足ばかりとって、そういうのって本当に最低! 人として下の下よ!」
 ジョージアナの隣に腰掛けてアメリアはぶつぶつと文句をこぼした。もっともジョージアナは聞き上手でもないので大した慰めにはならないことはわかっていたが、とにかくどこかにこの苛立ちをぶつけなければどうにかなってしまいそうだった。ジョージアナはひとしきり文句を聞いて、一層気だるげに返事を返した。
「でも、楽しそうだったわよ。少なくともソフィーにはそう見えたみたいだし。もう踊らないの?」
「確かに楽しい時もあるけど――それでもその代償にこんな不条理を抱きしめないといけないっていうならそんなのこっちから願い下げよ! 誰があんな男と踊るものですか! まだリックの方が数倍マシよ、退屈だしうんざりするけどこんなに身が燃えそうなほど怒りを抱くこともないもの!」アメリアは喚き散らしながらディランのことをもう一度睨みつけた。一人では踊ることもできないので、ディランもいつの間にか壁際に移動していた。今度はダンスの相手も見つけられないような落ちこぼれの女たちに取り囲まれている。彼が少しでも心を痛めるような素振りでも見せれば多少は気分も良くなっただろうが、そんな様子はこれっぽっちも見られない。それがまたアメリアの怒りを加速させた。
「それは良い心がけですこと、アメリアさま。わたしの忠告はすっかりお忘れになったみたいですね? ワルツを独占するなんて一体どういうおつもりですか?」ソフィーは眉間に皺を寄せて、厳しい顔つきをしながら問いかけた。その声にはいつもよりも低音成分が多く、地獄の門が唸りを上げて開こうとしているかのようだ。
「他の家のご令嬢から、一体どういう目で見られていたのかお分かりになりますか? アメリアさまの行動一つでスレイター家の気品がどんどん下がっているんですよ。旦那さまの顔に泥を塗るおつもりですか? ああ、本当にとんだお嬢さまですよ! 愛すべき両親を貶めようっていうんですから! 恩を仇で返すとはまさにこのことですね」
「煩いわね、ソフィー。黙りなさいよ。大体誘われただけじゃない。本当に少しでも楽しいと思った自分を呪い殺してやりたいくらいだわ! 大体こんなに苦しい思いをしてるのになんでこれ以上怒られないといけないの?」
「アメリアさま! なんて口を利くんですか! 口を慎みなさい! それから今日という今日はとことん痛い目をみてもらいますからね! わたしも奥さまもアメリアさまのことを甘やかしすぎました。いいですか? 今日は、ずっとここにいてもらいます。誰であろうと踊るのは禁止します! お誘いを受けようともわたしが許しませんからね」ソフィーは毅然と言い放ち、アメリアはあまりにも酷な宣言に目を見開いて、ほとんど泣き出しそうなまでになった。
「ちょっと待ってよ! それって酷すぎるわ! わたしに壁の花になれっていうの!? そんなの絶対嫌!」ほとんど叫んでいるアメリアに対してソフィーは冷静そのもので相変わらず地鳴りのように低い声色で「いいえ、なりません」と答えるだけだ。アメリアは目尻に涙をいっぱいに溜めてソフィーの膝に縋りついた。
「ねぇお願い、ソフィー! それだけは勘弁して! たった何曲か踊っただけじゃない。それに今日は始まったばかりだし、わたしだって反省してるわ」
「ええ、リック・アボットさまとは一度も踊らずに。それに入口ではエドガーさまの手を取って。たったそれだけのことですよ。とにかく言い訳は聞き飽きました。いいですか? 今日という今日はわたしも譲るつもりはありませんからね。それから当然のことですが、今夜の話は奥さまと旦那さまにきっちりとお話しさせて頂きます」ソフィーはとりつく島もなく、目には決然とした意志を感じた。アメリアが膝に縋り付き、今に大粒の涙を溢しそうになっているのもお構いなしだ。何度か押し問答を繰り広げたものの、ソフィーは一歩も退こうとしない。
 アメリアの頭の中は絶望で支配されていた。ああ、折角今日は好き勝手できると思っていたのに、また壁の花になるだなんて……アメリアは肩を落としてわかりやすく項垂れた。サルーンには未だにワルツの音色が軽快に流れ続けて、娘たちは華やかなドレスを翻しその全員が自分を嘲っているような気がする。そう思うと絶望よりもカッと燃え上がる怒りが体中に駆け巡り、アメリアは世界を恨みがましい視線でぎろりと見回して心の内で毒づいた。
「ああ、もう! 本当に冗談じゃないわ。そんなの酷すぎるじゃない。それがわたしにとってどれだけ苦痛か分からないはずないのに! ソフィーこそ本物の悪魔だわ。いいえ、それもこれも、全てあの憎きディラン・エドワーズのせいよ! あの人のせいでこんな目にあってるのに、その本人はなんの制裁も受けてないっていうんだから尚更理不尽だわ!」半ば逆恨みのような思考を繰り広げながらアメリアは立派な柱時計に目をやった。最悪なことに柱時計はまだ十二時を示してすらいない。このままあと何時間もここに拘束されるのだろうか? アメリアは肩を落として楽しそうに踊る淑女たちから目をそらした。
 目を逸らした所で楽しそうな賑わいや、今も優雅に鳴り響く四重奏や磨かれた床を靴が鳴らす音はしっかりと耳に届いて脳内に鮮明な映像を作り出す。まるで世界に自分一人だけ取り残されたかのようだ。他の人間はあれほど煌々と灯る光を全身に浴びて輝いてるのに、自分の惨めさときたらない。アメリアは必死に音楽だけに集中しようと思って目を閉じたが、直接聞こえる音と背後の壁から反響する音が耳の中で混じり合ってひどく気分が悪くなった。その上ここは会場の中でも最も薄暗くて影が薄い場所で、ただでさえ人通りがないのに、たまに通り過ぎる人もちっとも自分に気が付かないんだから、まるで幽霊になったかのような気持ちになる。普段注目を浴びっぱなしのアメリアからすれば尚更のことだ。
「本当に最悪な気分だわ。ここっていつもこんな感じなの? 薄暗いし音も変に聞こえるし、ねぇ、ソフィー。ダンスは諦めるから、せめてもう少し明るい場所にいきましょうよ。こんな場所、人間がいられる場所じゃないわ。あと十分でも座っていたらカビが生えそうよ」
 ジョージアナはアメリアの言葉を聞いて本からパッと顔をあげた。年齢に似合わず気難しそうに口角を下げながら鋭い視線をソフィーに向ける。
「許しちゃダメよ、ソフィー。わたしはここが好きだし、もしアメリアに譲歩したらそこからあの手この手で逃げ出そうとするに決まってるわ」
「ジョージアナもわたしの敵になるっていうの、そう。本当にみんな意地悪が大好きなのね!」
「姉さまがどう思うかなんて関係ないわよ。そもそもこういう罰を受けているのは日頃の行いのせいなんだから、黙って罰を受け入れたらどう?」
「ジョージアナさまの言う通りです。なんと仰っしゃられようと、今日はここに居てもらいます」
 アメリアは再三のことながら深くため息をついた。いつの間にかワルツも終わり、今は次の曲のお相手探しで会場は盛り上がっていた。この場所が会場の中でもかなり人目につかない場所で、端の方に位置しているとはいえ、中にはアメリアに気が付く紳士も存在した。そういった紳士は珍しくアメリアが誰にも囲まれていないのを見て意気揚々と近づくが、アメリアに声をかける前にソフィーの鋭い視線に気がついてギクリとして踵を返す。ソフィーは番人のように厳しい顔つきで会場を常に睨みつけているのだ。そうして紳士の立ち去る背中を見る度、アメリアは駆け寄って父に許しを請うみたいに跪いてどうかこの苦行から開放してもらえるように頼み込みたくなるのだ。まだこの場所に幽閉されてから一時間も経っていないというのに、二十年は人と話していないような気持ちだ。サルーンの中心で踊っていた事実ですら夢まぼろしのように感じる。この薄暗い場所はそれだけでアメリアの気力を奪っていったが、唯一良かったところは人目につかないから淑女たちから挑発されることもなかったところだろう。もし、すでにパートナーが決まっている相手から挑発されたのならアメリアはいよいよ怒りで気が違ってもおかしくない。
 曲が始まるとまた、例の反響で気が滅入ってアメリアはどうにかこの場所から脱出する方法を模索し始めた。とはいえ、この音楽と楽しそうな談笑のせいで思考は対して進まなかった。何よりも気に入らないのは、諸悪の根源――とアメリアが確信している――ディラン・エドワーズが何のお咎めもなしにアンナ・ベネットと楽しげに踊っているということだ。かたや自分はこんなに魂を焼かれるような苦痛を味わっているというのに、随分な違いではないか! その上、アメリアが憎しみと羨望を込めた目で見つめていることに敏感にも感づいて、目を細めながら「だから言わんこっちゃない」という風な笑みを浮かべてくるのも腹立たしい。
 ただ、怒りが全身を満たしている間はこの不愉快な音楽も不快な薄暗さも誰とも踊れない寂しさも随分とマシになった。おかげで多少は思考にも集中できるようになったのだ。
「本当に、さっさとここを抜け出さなきゃ発狂しかねないわ。でも、どうしたものかしらね? ソフィーを出し抜くのは簡単だけど、でも上手くやらないといけないわ。これ以上気に障るようなことをして、この間の喪中みたいに参加を禁止されたらいよいよ死んじゃうもの! だからってこのまま黙ってここで座っているわけにもいかないけど……、とにかく誰でもいいからここから連れ出してくれる人が必要ね。悪事にも手を貸してくれるような大胆な人で、それでいてソフィーを丸め込めるくらい舌のまわる人……」アメリアはディランに一瞬視線をやってわかりやすく目を逸した。「あの人に頼み込むくらいなら、このままここで腐る方がまだマシってものよ!」そう思って、アメリアは一層力を入れて会場を見回してみたが頼りになりそうな人間はまるで見つからない。それどころか、何か厄介事に巻き込まれそうな雰囲気を感じてか、誰もが努めて視線を合わせないように努力しているみたいだった。
「本当に呆れちゃうわね。必要ない時はうんざりするほど手を差し伸べようとするくせにいざ必要になればは揃いも揃って無視するのね。本当に調子がいいったら! だから誰の言葉だって真に受けるものですか、みんな本心なんて口にするはずないんだから。本当に、それって、本当に吐き気がする」
 つまらなそうに紳士たちの顔を眺めているとふとリックの顔が目に入った。リックはエマの一件で未だに落ち込んでいるらしくエマの隣で小さくなっていた。普段から淑女をダンスに誘う勇気なんて持ち合わせていない彼は今日はほとんど消え入りそうなまでに小さくなっていて、時折顔を上げてサルーン全体を見回しては会場の力強い熱気に圧倒され、自分がどうしようもない人間に思えて肩を落とすというのを繰り返している。
「頼りないけど、人選としては悪くないんじゃないかしら? なんたって、一応はわたしの恋人っていう立ち位置なんだし。それにリックだってわたしを救えるのは嬉しいでしょうし、そのチャンスがあれば両手をあげてなはずよ。その上少なくとも大した関係もない紳士をひっかけるよりはソフィーの機嫌も悪くならないでしょうし。今はすっかり意気消沈って感じだけど、あの人の良いところは単純で扱いやすいところだもの。ちょっとおだてればどうとでもなるはずよ。ええ、絶対やりきってみせるわ! ここを抜け出しさえすれば、いつも以上にやりたい放題やってやるんだから! わたしを縛り付けようだなんて不可能だって思い知らせてやらなくちゃね」
 アメリアの決意を察したのか、リックは不意に顔をあげてしばらく辺りをきょろきょろしてからアメリアのことを不思議そうに見つめた。アメリアはちらりとソフィーの様子を伺ってから、ドレスに埋めていた手をほんの少しだけ持ち上げて小さく手招きした。その表情はさっきでの不機嫌をまるで感じさせず、悪戯っぽい笑みをたくさん湛えていた。いつだって大人を出し抜くのは楽しいものだ。
「わたしの手の平の上で上手く踊ってくれると良いんだけど。何しろ、リックってダンスが下手だから」
 リックはその合図には気がついたものの、それが自分に向けられているものなのか確信が持てないらしく、頼りない顔でしばらく辺りを見回した。そしてその合図がどうやら自分に向けられているらしいと気がつくとおずおずと立ち上がって対岸へと歩き始めた。その歩みのなんと鈍いこと! 自信のなさが歩幅の小ささにつながり、その上サルーン内を駆け回る使用人や自分のことばかりで周りなんてまるで目に入らない淑女なんかと何十回もぶつかりそうになった。身長の高い割に動きのとろいリックは会場の中心にいるとかなりの邪魔者だった。
 それにしたって今日ほどリックの空気の読めなさに感謝することもないだろう。ソフィーは相変わらず人を寄せ付けない鋭い視線を向けていたが、そんなものリックの前では何の意味もなさないのだ。それはそれとして、ただでさえリックの一歩は亀の歩みだというのに、どうやらアメリアの前に出るのは女王に謁見するのと同じくらい勇気が必要らしく、リックの歩幅はアメリアに近づくにつれて小さくなっていった。ついにはアメリアはそんな頼りない協力者に痺れを切らして、最後の二、三歩自分から近づいた。この程度なら流石に怒られることもないだろう。
 動揺するリックの両手を優しく包み込んで背筋を伸ばしてその瞳を覗き込んだ。宝石のような目をキラキラと輝かせながら、アメリアは少しだけ声を抑えてリックに話しかける。
「リック、貴方にしか頼めない大切なお願いがあるの」
「お願い……ですか? でも、僕にできるかどうか……他の方に頼んだほうが確実ですよ」
「そういう訳にもいかないのよ。別に難しいことじゃないし……とにかく話だけは聞いてくれるでしょう? あのね、わたしをここから連れ出してほしいの」
 リックは不思議そうに首を傾げた。
「ソフィーを見れば分かると思うんだけど、なんだか虫の居所が悪いみたいなのよ。それで、その理由がわたしが貴方と踊らずに他の人とばかり踊っているからなんですって! でもそれっておかしな話でしょう? だってわたしたちが一緒に踊っていないのはわたしの大切な義妹が悲しんでいるのを貴方が優しく慰めていたからでしょう? それなのに、ソフィーったら何か勘違いしたみたいで……、エマが元気になったなら必ず一緒に踊るはずなのに。少なくともわたしはそのつもりだったわ」まぁ、エマが元気になるなんて、リックが側にいる限りそんなこと起こらないけど。と心の中で付け足して、アメリアは続ける。「それなのに、ソフィーったら勘違いして気分を悪くして、意地悪なことにも今日はずーっとここに居なさいっていうの。信じられる? まだ始まったばっかりなのに。チャンスがあれば当然貴方とだって踊りたいのに、それもできないかもしれないの! そんなのってひどいでしょう? だからね、わたしをここから連れ出して欲しいのよ。王子さまみたいに。こんなこと頼めるのはリックしか居ないのよ。どうか頼まれてくれないかしら」
 アメリアはお得意の笑顔を顔いっぱいに讃えてリックの薄ぼんやりとした顔を覗き込んだ。大きな目をパチパチとすれば、てっきり一秒も間をおかずに即答されると思っていたのだが何やら様子がおかしい。返事がないどころか、リックは何か不安そうな顔つきをしながらモゴモゴしている。
「でも、またあの方と踊るつもりですよね?」
「あの方って、ディラン・エドワーズのことを言ってるの? だとしたら勘違いもいいところだわ! 誰があんな人と踊るものですか。本当にあの人の傲慢なところはうんざりなのよ。ねぇ、リック。そんな意地悪いわないで助けてよ」
「別に、意地悪って訳ではありませんけど……それに、僕がどうこうできるとも思えませんから……申し訳ないですが、僕はどうしたらいいのかわからないです。それに、ミス・スレイターを満足させる自信もないんです。きっと僕にはもううんざりしたでしょう?」
 アメリアの想定外は、リックは自分の失敗をかなり根に持つタイプだったということだろう。アメリアなんて、数分も経てばさっきのことなんてすっかり頭から抜け落ちるほどの楽観を持っていたので一切合切思い至らなかったが、リックは度重なる失敗になけなしの自尊心をえぐり取られていた。その上、妹のエマにはあのダンス以来自分のダメな点を事細かく指摘されて、気が滅入っていた。それから極め付けにディラン・エドワーズと楽しそうに踊るアメリアを目の当たりにしてすっかり卑屈になっていた。少しくらいおだてればすぐに機嫌を取り戻すだろうと思っていたアメリアからすれば大誤算だ。
 とは言われたって、ここで引くわけにはいかない。この際リックのどうでもいい感傷なんて知ったことではないのだから。アメリアは改めて気合を入れて、リックの手をぎゅっと掴んだ。淀んだ瞳を覗き込みながらアメリアは必死に説得する。
「そんなことないわ! それにやることも簡単よ。わたしと踊りたいって申し出ればソフィーだって黙ってはいられないと思うの。そうでしょ? 貴方はただ一言ソフィーに言ってくれればそれでいいの」
 必死なアメリアに絆されやすいリックは少し同情的な気持ちになって、どうにか手を貸したい気持ちになった。首を縦にふりかけて、ソフィーの鋭い視線と目があって肩をびくりと揺らす。
「……、やっぱり僕にはできません。助けてあげたい気持ちはやまやまですけど」
 その返答にアメリアは急に笑みを取りやめてつまらなそうに眉を下げた。これ以上は埒があきそうにない。ソフィーに怯えている以上、リックを頼るのは絶望的だろう。アメリアはその両手をパッと解放してから笑顔を怒りに変えてその瞳を睨みつけた。本当に頼りにならない人だわ。わたしが悲しむことよりもソフィーの眼光から逃れるほうが重要なのね。
「ならいいわ。そうやっていつまでも卑屈に縮こまってればいいのよ」そう吐き捨ててからくるりと踵を返すとアメリアはジョージアナの隣に深々と腰を落とした。ソファーに体を投げ出し、頬杖をついて全世界を敵とばかりに睨みつける。
「悪巧みが上手くいかなくて残念ですね。やはり、リック・アボットさまは良識を弁えた方です」
「お黙り、良識があるんじゃなくて勇気がないのよ。もしくはわたしに対する愛が足りないかね。ああ、もう本当にうんざりするったら」
「それはそうですよ。あんなとんでもない約束を一方的に承認させて、しかも見せつけるみたいな行動を繰り返しましたら、いくら温厚なリックさまでもお怒りになりますよ。捨てられなかっただけ有り難いと思うべきじゃありませんかね」
「それくらいの見どころがあればわたしも少しは楽しめるかもしれないけどね。あの人は臆病な羊だからそんなことできやしないわよ」と言い放ってから、我に返り、自分が恋人に対してとんでもない言葉を投げつけたことに気がついてアメリアは驚いた。一体どうしちゃったんだろう。確かにリックにはうんざりしているけど、普段ならこんなこと口に出したりしないのに……でも間違っているとはちっとも思えないわ。
「とにかく、今日は諦めることです。見ているのが辛いっていうなら早めに引き上げますか? それならジョンに伝えてきますよ」
 アメリアはソフィーの問いかけにはまるで反応しないでそのままの姿勢でサルーンをじっと観察した。会場では徐々に興奮と熱気のボルテージが上がっている。
 花のような淑女たちはあれほど楽しそうに紳士たちの間を行ったり来たりして愛らしい微笑みを沢山浮かべ、次は誰と踊ろうかと思案している様子。紳士たちもアメリアがいなくなったものの他の淑女たちが持て囃してくれるため満更でもないらしい。サルーンの至る所に紳士や淑女のグループができて、その集団からは絶え間なく笑い声と会話が漏れ聞こえてくる。
 かたや自分だけはこんなに薄暗い場所でカビが生えるのを待つしかないのに。ここは笑いも会話も紳士の熱い視線もない。流れるワルツは何曲目なんだかわからないが、耳に入ると勝手に足がリズムを刻み、心が揺れ動くというのに実際に踊ることは叶わず、苦しい心持ちで嫌いな女たちが蔓延るのを眺めるしかないだなんて。
 しばらくすると、アメリアはいよいよ我慢の限界になって久しぶりに口を開いた。長いこと不機嫌に身を任せて黙っていたからか、声を発すると喉の奥が確かに軋んだ気がした。
「ねぇ、ソフィー。まさか、わたしにここで餓死しろだなんて言わないわよね? 食事室から何か持ってきてよ。どうせわたしが行くのはダメなんでしょ?」
「そうですね……確かにあれほど踊り明かしたらお腹も空きますね。ただし――言うまでもないことでしょうけど――わたしが帰ってきたときにここにいなかったら、どうなるかおわかりですね? すぐに帰ってきますから変なことはしないほうがいいですよ。そうやって誠意を見せていればこの惨い仕打ちもすぐに終わるかもしれませんから」
 ソフィーはそれだけ言い残してサルーンから出ていった。アメリアはそれを見届けるなり、すぐに立ち上がった。あの様子だと本当に数分もすれば帰ってくるだろう。姉の大胆な犯行を見て、ジョージアナは信じられないとばかりに声を上げた。
「アメリアって、反省とか後悔とかそういうのはない訳? 絶対面倒なことになるってわからない?」
「わたしの気が狂うよりは面倒じゃないでしょ? 邪魔したら許さないから。あっ、それとソフィーに伝言を頼まれてよ。わたしを飼いならすには皺が足らないってね。じゃあね!」
 本当はもっと長々と言いたいこともあったがそんなことをしていてソフィーに捕まったら元も子もない。ドレスの裾を軽く摘むとアメリアはさっさと駆け出した。久しぶりの眩い灯りに目が眩む。それでも行く場所は決まりきっていたのでアメリアは構わず一直線でディラン・エドワーズの元へと向かった。
 ディランは数人の紳士たちを相手に話していた。その中には驚くべきことにリックも混じっていた。アメリアはリックの姿を視界に捉えるなり厳しい目線を向けた。どうやらディランはこの集まりでもその性質の悪さを遺憾なく発揮しているようで、聴衆の一人であるリックはわかりやすく狼狽えていたし、(もっともそれはアメリアと再会を果たしたからかもしれない)他の紳士たちも何だかばつが悪そうだ。
 ディランはアメリアに気がつくと口を閉じて、にこりと微笑んだ。
「このうちの誰に用があるんですか?」アメリアは一瞬だけリックに視線を送ってから小さな声で答えた。
「……あなたに。ちょっと来てくれる?」
「恋人を差し置いてですか?」アメリアは一瞬息を飲んで言葉に詰まった。本当に、この人って呆れるほど性格が歪んでるわ。どうしてもはっきり言わせないと満足できないみたいね? とはいえ、アメリアも鬱憤が溜まっていたので丁度いいといえば丁度いい。少し残酷な気持ちになったとはいえ、自分が助かるためならその程度なんてことないのだ。
「誰も彼も役立たずだから、あなたに助けてほしいって言ってるのよ。これで満足したかしら?」
 ディランは片方だけ眉を上げて皮肉めいた笑みを浮かべて紳士たちに上品な一礼を披露するとアメリアの手を取った。
「それでは、失礼。向こうへ行きましょうか」

第九章 二話

 集団から少し距離を置くなり、アメリアは自身の両手を握り祈るような面持ちでディランを見つめた。ディランは懐から金の煙草入れから巻き煙草を一本取り出すとそれを優雅にふかした。
「それで、わたしに何をしてほしいんですか?」
「わたしをここから連れ出せるって本当なの?」アメリアはしきりにソフィーの方を確認しながら早口に聞いた。切羽詰まっているアメリアとは裏腹にディランの言葉はいつも通りゆっくりしていて穏やかだった。耳に馴染みのいい上流階級特有のアクセントと南部アメリカのアクセントが混ざり合い、なんだか絶妙な加減でその声色に耳を傾けていると不思議な気持ちになる。
「ええ、もちろん。ただ、まさかわたしを頼るとは思わなかったね。今日はわたしに迷惑をかけないだとかなんだとかってさっき言ってなかったかい?」
 アメリアはなかなか首を縦に振らないディランにヤキモキして、その片腕にしがみついた。
「わかるでしょう? このまま何もせずにここに座っているなんてわたしにとっては拷問なのよ。足はワルツを聞くだけで踊り出そうとするし、この手だって素敵な人に引かれたくてしょうがないの。それなのに、あそこに座っていないといけない苦痛がわかる? 体がこのままバラバラになってしまいそう! それもこれも全部貴方のせいよ。だから貴方にはわたしをここから連れ出す義務があるのよ。お分かり?」
「さぁ、全くわからないね」
「貴方って、本当に――!」ディランの意地悪にむしゃくしゃして叫び出しそうになったとき、ディランは人差し指を唇にあてた。
「しっ、本当にこの口はちょうど良い音量っていうのが存在しないな。それからわたしの話は最後まで聞くことだ。いいね? 嫌いな事はそれなりに沢山あるがその中でも特に気分が悪くなる。……ですが助けるのはやぶさかでもないですよ。そもそも男という生き物は女性を救いたくて仕方のないものですから」
「連れ出してくれるのね?」
「ええ。三回もあなたを助ける名誉を頂けるなんて幸運ですね」
「……本当に不服ってことだけお伝えしておくわ。貴方と話してると頭がおかしくなりそうよ、心を引っ掻き回されて勝手に荒波をたてられる気分だわ」
「君がどう思おうとわたし以上の適任は存在しないね。さてどこへ行きたい? お望みとあらばどこへだって連れていきますよ。いっその事二人でパリにでもいきます? わたしはどうにもあの国は好きませんが、君は好きそうだし」
「冗談はよして。仮に二人で行くとしたってパリに着く頃にはどっちかの命がなくなってるでしょう? あなたは怒り狂ったわたしに刺し殺されるし、わたしは憤死しちゃうわ。まだ都市伝説になるつもりはなくってよ」
 ディランは楽しそうに笑って同意した。
「それもそうだ。さぁ行きましょうか。少なくともあのお目付け役なら出し抜けますよ」ディランはアメリアの手を取った。その自信に満ち溢れた言葉はアメリアの心を確実に落ち着かせていった。まだソフィーから逃げおおせたわけでもないのに、もう困難は訪れないとその手に触れた瞬間に不思議と確信できた。この人、本当に意地悪でどうしようもない無頼漢だけど……なんだかこの人に任せれば大丈夫だろうっていう不思議な安心感があるのよね。アメリアはだいぶ落ち着きを取り戻して柔らかい笑みを浮かべた。
「期待してるわ」

 二人が逃げ込んだ先はテラスだった。普段は賑わいをみせているテラスも、今は運命がそうさせているかのように人気がなかった。アメリアは頬に爽やかな風を感じて無意識に身体から力が抜けるのを感じた。静かなテラスに遠くから小さく聞こえるワルツの音だけが響いている。サルーンからは随分と距離があるから、ここまでは人の声も届くことがなかった。
 とりあえず、あの地獄のような場所から抜け出せただけでアメリアは大満足だった。それにきっとディランはいつもの意地悪を遺憾無く発揮するのだろうと思っていたのだが、想像していたよりもディランはずっと静かだった。最初に黙って自分の上着をアメリアの肩に掛けてからはたばこを吸いながら時折アメリアに視線を向けるくらいだ。
「本当に助かっちゃった。ソフィーも追ってこないし……諦めてくれていれば良いんだけど」
「もし仮に追ってきたとしても請け負った以上絶対に逃して差し上げますよ」ディランはアメリアの巻き毛を指に巻き付けて優しい笑みを浮かべた。なんだか、そういう表情を向けられると驚いて顔に熱が集まるのを感じた。きっと暗いからバレてないわ。
「あなたもたまには優しくしてくれるのね」
「わたしがタダで優しくするとでも?」
 アメリアはドキドキして気がついたら視線を逸らしていた。「なんだか知っている流れだわ。今まで紳士を誑かして何十回と同じような言葉を聞いたことがあるもの。きっと次にはキスをせがむに決まってるわ。それか愛の言葉を欲しがるか……でもどっちにしろ差し上げるつもりはないわよ」アメリアはドキドキしながら目を伏せた。
「あら、キスでもするつもりなのかしら」
 ディランはアメリアのことを見ると、肩を大きく揺らして咽せるほど笑い転げた。
「まさか! 今日び、ただの口付け一つにそこまで盛り上がれるのは珍しい。魅力的な提案ではあるが、君に入れ込むと面倒なことになりそうだ。欲しているところ申し訳ないがね」
「わたしがあなたからの愛を欲しているっていうの? 勘違いもいいところだわ! わたしだって頼まれてもお断りするつもりでしたもの」
「それはよかった」
 目を細めるディランにアメリアはふくれてテラスから庭園を眺めた。
「それなら一体何をお望みだったのかしら、無頼漢さん。聞くだけ聞いてあげるわ」
「簡単な話だよ。わたしは君とはもっとプラトニックな関係を築きたいのさ、可愛いお嬢さん。そこでわたしも正餐会に招待して頂きたいと思いまして」
 なんだか意外な頼みにアメリアは目を丸くした。
「わたしのことが気になってるってこと?」アメリアはしまった、という顔をした。こんな言葉を聞いたらきっとまた自意識過剰だの何だのといって笑い転げるに違いない。そう思ったのだが返ってきたのは案外感じの良い笑みだった。
「それは想像にお任せしよう。ただ気に入っているのは確かだ」
「断ったら?」
「強引に唇を奪ってみようか。君のお望み通りに」
 アメリアは機嫌のいい笑みを浮かべた。月夜に緑の瞳がシリウスよりも激しく輝く。
「冗談はよして! 元々お礼はしようと思っていたのよ。もちろん、そのくらい請け負ってあげてもいいわ。あなたのことは多分嫌いだけど、ちょっとくらい仲良くなってあげてもいいもの。退屈しないのは事実だし、それに今は気分がいいから」

第十章 一話

 次の日、アメリアはこっぴどく叱られた。だが、その心のこもった叱咤がアメリアの心に響くことはなかった。お叱りの言葉はアメリアの心の輪郭をなぞるだけでその中に侵入することはない。水を弾く絹のようなものだ。エレンはそんな徒労を根気強く続けて、言葉をかえながら賢明にアメリアの行いを責め立ててたので午前中に始まったお叱りはついにお昼のちょっとした休憩を挟んで午後に突入しようとしていた。流石にうんざりしてきて、ディランを勝手に晩餐会に招待したという爆弾を取り出すと、流石のエレンも驚き気絶せんばかりになってお叱りはそこで終了となった。ドアの影で聞いていた使用人たちもアメリアの発言に驚いて、その後は家の中はてんやわんやの大騒ぎだ。ソフィーは心底信じられないという風にアメリアを睨みつけた。
「まさか、わたしから逃げ出してこんなとんでもないお約束を取り付けるなんて思いもしませんでしたよ。次からは首輪をつけて壁際に縛り付けておかないとダメみたいですね! どうやらあの紳士のことを妙に気に入りのようですけど、晩餐会でもお話できるとは思わないことです。全く本当に……本当にとんでもないですよ。少し奥さまの体調が良くなったからってすぐに困らせるようなことをしだすんですから! 奥さまの体調が悪化したらどうするおつもりなんです? それに今アメリアさまがするべきはリックさまと仲良くして精々振られないように立ち回ることじゃありませんかね」
 こういった小言に精を出すのはソフィーだけではない。使用人、特にその中でもオルコットは招待客にやんごとなきお方が増えたことに伴う業務に走り回りながらもアメリアを見るたびにわざわざ足をとめて嫌味と説教を繰り返した。その言葉は相変わらずアメリアの耳には入っていなかったが、それでもオルコットは言わずにはいられなかった。もはや世間知らずで愚かなアメリアを叱りつけるのは一種の趣味のようなものだったので今更だ。こういう出来事がなくたって、オルコットは色々理由をつけてアメリアを叱りつけるのだから。
「それにしたって、お金持ちっていうのは何を考えているんだか。ある種の傲慢ですよ! きっと自分の願いは何でも受け入れられると思っているんでしょうね。事実そうなのかもしれませんけどねぇ! 普通の神経をしていれば図々しくも正餐会に呼ばれようだなんて考えないはずですよ。もっとも、それを許可するアメリアさまも大概似たようなものですが」オルコットは鼻にちょこんと引っかかっている眼鏡をあげてアメリアのことを蛇のようにぎろりと見た。
「ああいうお方は自分が参加することでわたしたちが喜ぶとでも思っているんでしょうかねぇ……その一声のせいでうちはてんてこまいだっていうのに! まったくこの準備もみせてやりたいくらいですよ! そうすれば申し訳なくてすぐに参加を辞退しますでしょうよ」
 それどころか、優雅にソファーに座って走り回る使用人をみてケタケタ笑っていてもおかしくないと思ってアメリアはオルコットにバレないように小さく笑った。オルコットはその動作を厳しい視線で睨みつけてから、まだ言い足りないとばかりに続けた。それにしたってオルコットの小言は長くて眠たくなってしまう。ただ欠伸なんてしたらこの愚痴だかお叱りだか分からない会話が更に二倍は長引くと察して、アメリアは必死に欠伸を噛み殺した。
「本当に忙しいったら! わたしなんか朝から走りっぱなしですよ。まさかリマウチを抱えてこれほど走り回ることになるなんてね。とんだお屋敷だよ。いいかい、アメリアさま。あなたさまの考えることときたら当日の装いくらいのものだろうけど、やんごとなきお方を招くとなると準備もそれはそれは大変なんだからね。お料理も殊更凝ったものにしないと面目が立たないし、調度品も床も窓もお顔が反射するくらいまで磨き上げないといけない。デイジーなんて最高級のお肉とお魚を手に入れるためてんやわんやだ。それにフットマンもウェイターも足りないし……本当にとんだ出費だね。その上、若いのは相変わらず使い物にならないときた! 挙句、奥さまもいつ体調を崩すかわからないしねぇ……」一通りの愚痴が終わると最終的にオルコットはアメリアのことを恨めしそうに睨んで続けるのだ。
「それもこれも全部アメリアさまがこんなとんでもないお約束を取り付けてきたせいですよ。まったくとんでもないお嬢さんだ」
 忙しく準備に追われているのは使用人だけではなくエレンも同様だった。むしろこの屋敷で一番働いているといっても過言ではない。エレンは朝から晩までサボりがちな使用人たちにあれこれと指示を飛ばし、困ったことがあればすぐに泣きつく若い使用人の手助けをしたり、その合間で丁寧な招待状を作り、ディナーの名目を決めたりととにかく休む暇がないほどだった。最初は皆、エレンの病状を心配していたのだがどうやら本人の言う通りベッドの上で静かにしているよりも動き回っている方がよっぽど気が紛れるらしい。相変わらず顔だけは青白かったが咳の頻度も随分減ってかつてのように屋敷中を衣擦れの音をさせながら淑やかに走り回る姿をみて、久々に〈ネザーブルック〉にはいきいきとした活気が戻っていた。
 ただ一人、納得していないのはジョージアナだった。ジョージアナは忙しなく動き回るエレンを見つけてはその膝に縋りつかんばかりの勢いで「そんなに動いたら今に体調が悪化しますから、どうかベッドに戻ってください」と泣きつくのだが、エレンの返答はいつも決まっていた。
「本当にジョージアナは心配性ですね。きっと色々な物事を知っているから不安も人より大きいんでしょう。でも大丈夫ですよ。ダーシー先生も許してくれていますし、それにお客さまをお呼びするというのに手を抜くことは出来ませんから」
 ダーシー医師は経過観察と称してエレンが率先して動き回ることを黙認していた。それに医師本人は今は患者の容態よりも医学誌に寄稿する原稿作成にもっぱら熱をあげていた。本人ですらまさかエレンがここまで回復するとは思ってもみなかったので、これは自分の治療のお陰に違いないと思いこんでいたのだ。もちろん実際の所はエレンの驚異的な生命力によるところが大きいのはいうまでもない。
 晩餐会の日が近づくに連れて、〈ネザーブルック〉はますます賑わいをみせた。家中のありとあらゆるものは磨かれ、埃一つなく、しばらく閉め切っていた正餐の間も窓を開け放ち日差しを沢山取り入れると途端に活動的な雰囲気を醸し出した。屋敷は思い出したみたいに活気を取り戻して、白い外壁をよじ登るアイビーまでもがますます天を目指して成長を始めた。小さいが美しい庭園の花たちはやっとエレンが構ってくれたことに気を良くしてここ数年で一番の咲き誇りようだった。
 アメリアはこの久しぶりの活気を全身で受け止めて心の底から楽しんでいた。エレンが病に臥してからというもの長らくなかった活気だ。一時期の暗雲立ち込める我が家とはまるで別の場所だ。今ではどこにいたって使用人たちが駆け回っている姿をみることができたし、使用人が二人集まれば銀器がまるで足りないだとか、リネンをどこにしまったかしらだとか、何か良いお酒を仕入れなければとかそういった話題で持ち切りになるのだ。そして大抵は二人だけでは何の解決にも至らず、使用人たちはエレンに縋りつきにいく。そうすればエレンはいつもの困った笑みを浮かべながら、まるで実の娘に対するみたいに(実際エレンは使用人たちのことを家族のように思っていた)優しく解決策を提示してあげるのだ。
「リネンなら去年屋根裏にしまったはずでしょう? 確か左から二番目の引き出しに山のように入っているはずですよ。一度綺麗に洗ってから使いましょう。それから銀器はイーストン家から少しお借りすることにしましょう。実は当日はイーストン家の料理人にも手を貸してもらう話になっているんです。お酒については主人をあたりなさい。きっと良い助言をくれるはずですよ」
 こんな風に使用人と話すエレンを見るだけでも正餐会への期待が高まり、否応無しにアメリアの心は踊りだして居ても立ってもいられなくなるのだ。活気あふれる楽しい日々は瞬く間に過ぎて、あっという間に晩餐会当日を迎えた。
 アメリアといえば朝起きてからというもの、ずっとそわそわしていて朝食の席ですらもどかしいくらいだった。朝食を食べてからは三十分おきに柱時計を確認しては「早く夜になりますように」と無意味な祈りを捧げた。晩餐会までの数週間は酷く短く感じたのに、今日だけは時計の針が妙に鈍間で一分経つのにも悠久の時間がかかっているような気がする。もどかしい気持ちを抱えながら、アメリアは応接間や正餐の間、撞球室やサルーンにふらふらと足を運んでは今日の夜を空想して天使のような笑みを浮かべてまわった。どこもかしこも久しぶりの来客に心が踊っているようで、年季の入った調度品は存分に磨かれて鼻高々という様子だし、銀の食器は自分たちを王宮仕えと勘違いしている。廊下には陶器の花瓶にアイビスやスミレの花が詰め込まれ、その甘い芳香が廊下を満たし、カーテンは洗われて汚れ一つなく窓の端の方にリボンでひとまとめにされている。
 アメリアは窓枠に手をついて窓の外を眺めた。眼前には春の景色がどこまでも果てしなく広がっていた。空には珍しく青空が広がり緑の大地を燦々と照らしている。風が吹く度に草原に波のような濃い模様が浮かび上がりそれが地平線の先まで動いては消えていく。木々は青々として生い茂り、風が吹く度に葉っぱ同士が擦れ合い心地よい音色を奏でている。屋敷の足元ではクロッカスや水仙が咲き誇り、白い外壁に寄り添っている。遠くからは春を知らせる小鳥の鳴き声。春の穏やかさを感じる季節はいつだってアメリアの心をくすぐる。
「ああ、早く夜にならないかしら。きっと今日は楽しい一日になるに違いないわ。アンナとかいうお邪魔虫がついてくるのだけが気に入らないけど……」
 エレンのような立派な貴婦人がまさか恋人のいる男性を一人だけ招待する訳にもいかず、結局のところエレンは二通追加で招待状を送る羽目になった。アンナ・ベネットとアメリア・スレイターの仲が険悪なのは何も今に始まった話ではない。二人が同じすれ違うだけで現場には妙な緊張感が漂うほどなのだから、今日だってどんな面倒事が起こるともしれない。それを危惧するだけでエレンの胃はキリキリと痛み、今にジョージアナの言う通りになってもおかしくないと思わせた。これに対しては使用人たちも厳戒態勢を敷いていて、誰も口には出さなかったが絶対に二人を近づけないようにしようという暗黙の目標ができていた。もっともそれが不可能であることも薄々感づいてはいたが……。
 時計が十一時を指した辺りでアメリアは我慢できなくなり、この日のために決めていたドレスにさっさと着替えた。今日の日のために習得した新しい髪型で、首には母の宝石箱から勝手に拝借したダイアモンドのネックレスを身に着け、アメリアは窓に反射した自分を見つめて可愛らしく微笑んだ。今日の自分も抜群に可愛くて素敵だった。正餐会の最中、紳士たちの視線を釘付けにすることは間違いない。もっとも、アメリアの脳内にあったのはディラン・エドワーズのことだけだ。「きっとあの人も気に入るわね……ふふっ! わたしを助ける機会を窺ってまで仲良くなりたいっていうならやぶさかじゃないもの。そして今日こそ――今日こそわたしの前に傅いてもらうのよ――!」
 そう決意するとアメリアの瞳は更に輝いたように見えた。そうして長い廊下を行ったりきたりしているうちに時間は過ぎて、気がつけば既に時刻は夕方に差し掛かっていた。朝には太陽が大地を燦々と照らしていたというのに、それから天気は随分と機嫌を悪くしたらしくいつの間にか空には灰色の分厚い雲が覆い、薄っすらと霧まで立ち込めている。
 その霧を抜けて、一頭の馬が駆けてくるのが見えた。毛並みの整った芦毛の馬に乗っているのはリック・アボットだ。薄い霧の中をかけてくる姿はさながら神話の世界のようで、珍しくなかなか悪くない風体だった。その様子にアメリアは少しだけ気を良くして巻き毛指に巻き付けた。
「そういえば前回はリックのせいで散々苦しめられたけど、まぁ許してあげましょ。素敵な淑女は愚者に寛容なものだもの。さ、行きましょう。お出迎えしなくちゃ」廊下を小走りに抜けて、玄関ホールへと向かう。
 玄関ではリックがコートに付いた水滴と格闘していた。その上質なコートは父からの借り物だったのであまり汚して返すのも憚られたが、この天気では仕方のないことだろう。それでも諦めきれずにどうにかこうにかならないものかと模索している。しかしそんな動作もアメリアが現れると一時中断となった。リックはアメリアの姿を視界に捉えるなり、背筋を不自然に反り返るほど伸ばして慌てて挨拶をしようとしたのだが、その瞬間に前回の苦い記憶が思い起こされて言葉を飲み込んだ。きっとアメリアさんは僕にうんざりしたに違いない。結局許しの言葉は未だに頂けていないし、それにあの後何通か手紙を出しても返信が返ってくることもなかったんだ。まさか目を通していない訳がないのだから、きっと僕の反省と後悔はアメリアさんには受け入れられなかったんだろう……、でも一体どうして今日のアメリアさんは機嫌が良さそうだぞ……? リックは暗い妄想に勤しみながらも一筋の光を見つけて、アメリアの瞳を相変わらずおどおどした様子で覗き込んだ。
「今日は天気が悪くて災難ね。でも神話に出てきそうな神々しさだったわよ。ただ、そうやっておどおどしてるとどんどん減点していくけどね」冗談めかして楽しそうに笑うアメリアにとりあえずリックはほっと胸を撫で下ろした。どうやら、前回のことは一旦不問にされたらしい。それがわかっただけで、リックは随分安心した。何しろ、前回のことが気がかりで今日まで夜もろくに眠れないくらいだったのだから。そのせいで、今日のリックは目の下に隈ができてひどい有様だった。
「そういうことなら、きっと僕の反省と後悔はしっかりと伝わったんですね? でも、一体どうして手紙に返信をくれなかったんですか?」
「えっ、手紙……? えーっと、ああ、あれのことね」一体どうやって言い訳しようかしら。まさか読んでないだなんて言えないし……。アメリアはしばらく頭を捻りどうにかこうにか言い訳をひねり出した。「だってこういう大切なことって直接伝えたほうがいいでしょう? わたし、あなたが来てくれるのをずっと待ってたのに。家に届くのは文字の羅列ばっかりなんだから」流石に苦しい言い訳だったかしら、とアメリアは伏し目がちにリックを観察した。どうやらリックはこの苦しい言い訳にもあっという間に納得したらしく、目を大きく見開いて首を縦に振った。それにリックからしてみれば、アメリアが自分のことを待っていたという一文だけで心の奥底から誇らしい気持ちが沸々と湧き上がるというものなのだ。
 リックは安堵に胸を撫で下ろして、やっと周囲に目を配る余力が生まれた。屋敷には自分たち以外には誰の声も聞こえない。どうやら自分が一番乗りらしい。それにしたって、一体どうして忙しなく廊下を行き来する使用人たちが自分をみてぎょっとしたような表情を浮かべるのだろう……と、玄関に置かれた柱時計に目をやり、リックは青ざめた。招待状にかかれていた時間よりもまだ二時間以上も時間がある。それと同時に思い返されたのは、母が度々苛立ち紛れに呟いている言葉だ。
「まったく、三十分も早く来るなんて。嫌がらせもいいところですこと! 準備の邪魔で邪魔でしょうがありませんね」リックは心臓が痛いほど締め付けられるのを感じながら、アメリアの瞳を控えめに覗いた。
「その、少し早くつきすぎましたよね……また後で出直した方が……」
「平気よ。もう準備なんてほとんど終わってるんだから。それにわたし一人で退屈していたのよ。むしろ丁度いいくらいだわ。さぁ、向こうでお話しましょ? 濡れてるし、早く暖炉の側に行ったほうがいいわよ」

第十章 二話

 それからしばらくすると続々と招待客がやってきた。馬が砂利道を踏みしめる音がする度に、アメリアは玄関に駆けていきそれはそれは愛らしく招待客に挨拶をしてみせた。それだけで招待客はすっかりアメリアの虜になって、応接間ではいつもの通り大勢の紳士に囲まれて上機嫌な笑みを振りまいた。
 招待状に記載された時間を過ぎてもアンナ・ベネットとディラン・エドワーズはやってこなかったが、これに関しては誰も気にしている人なんていなかった。アンナに限らず、何かしらの権力者たちは自分の権力をひけらかすためにわざわざ少し遅れてやってくることなんてしょっちゅうなのだから、きっと今回もその類に違いない。アメリアからしてみれば、アンナの到着なんて待たずにさっさと正餐会を始めてしまえばいいのにと思ったが、権威に従順で人としての通りを重んじるエレンはそうは考えていないらしい。
 結局二人が到着したのは招待状に書かれた時間から三十分ほど過ぎた頃だった。アメリアはいつもと変わらない退屈な会話に早々と飽き飽きしていたので、砂利道を馬車が跳ねる音が聞こえるなり目を一際輝かせて玄関へと飛んでいった。応接間から玄関への道すがら、オルコットにドレスを翻し走っているのを見つかりぎくりとした。オルコットは品がないとでも言いたげな表情をして顔のパーツを全体的に真ん中に寄せて、この場で叱りつけられないことを悔やんだ。丁度このとき、オルコットはエレンに客人にお茶を差し出すという重要な仕事を仰せつかったところだったのだ。

 アメリアはオルコットから逃げ果せて玄関まで向かうと、足を緩めて窓ガラスで装いを整えた。それから顔に魅惑的な笑みを湛え、玄関の扉を開いた。その瞬間強い風が屋敷の中に入り、玄関の間にかけられた肖像画がガタリと音を立てた。
 リックがやってきた時から立ち込めていた霧は時間が経つにつれてますます濃くなる一方で、今や一寸先も見通せないほどだ。その白い世界の中に御者の掲げるランタンの光だけが薄ぼんやりと浮かび上がっている。それは徐々に近づき、いよいよベネット家の馬車が姿を顕すとアメリアはその豪奢さに思わず息を呑んだ。
 馬車に繋がれた毛並みの良い二頭の牝馬は足並みを揃えて悠々と砂利道を闊歩し、その度に蹄鉄が軍隊のような小気味の良い音を発する。車輪は小石を跳ね飛ばして進み、馬車の通った後には立派な轍が出来上がっている。ディランはその馬車を先導するようにして青鹿毛の馬を巧みに操っていた。背景には分厚い雲があり、とうとう遠くでは雷鳴が轟くのが聞こえ始めた。なんだか、その風景も相まって今日のディランはいつもよりも荒々しく男らしい要素で溢れているような気がして、アメリアは自然と自分の装いを正した。もっとも、それは元からほとんど完璧だったのだが。
 アメリアに気がつくとディランは馬上から声をかけた。
「やぁ、なかなか良い天気だね。こんな天気だと今日は誰も帰ろうとしないだろうな」ひらりと馬から下りると、ディランは馬の胴体を撫でるようにして水滴を払ってから苦笑いを浮かべた。その毛並みの良い牝馬は耳を引き絞って不快感を顕にしていた。「ただ、レディは相当ご機嫌斜めだな。アメリア、悪いが少し持っててくれるか? まさか馬が怖いなんて言わないだろうな」
 手綱を強引に手渡され、アメリアは及び腰でそれを握った。もちろん通常の状態ならちっとも怖くなんてなかったが、これほど怒りを顕にしているとなると話は別だ。いつ噛みつかれるかわからないし、後ろ足で蹴り上げられたらきっとわたし死んでしまうわ! よくもこんな危険生物をわたしに預けるわね。それにしたってジョンは一体どこに行ったの? これは彼の仕事でしょう? きょろきょろと辺りを見回してみれば、屋敷の角で丁度大勢から死角になるような場所でデイジーとなにやら楽しそうにしている。かたやわたしは命の危険にさらされているっていうのに!
 アメリアは恨めしそうにジョンを睨みつけた。心のなかでは嵐のように恐怖と不安が舞い上がっていたが、その感情はすぐに別のもっと強い感情で上書きされることになった。
 ディランは手綱をアメリアに預けたかと思えば馬車の側へと向かい、馬車の中のアンナに手を差し伸べた。アンナはその手を取り、些か優雅すぎるくらいに気取って馬車から降りた。わざわざステップに足を置くのもヒールの音をさせて、ドレスは生地の量を自慢するみたいに存分に膨らませている。アメリアはその姿を見て、怒り狂う馬のことなんてすっかり忘れて眉を寄せると露骨に嫌な顔をした。
 アンナは優雅に地上に降り立ち、アメリアの姿を捉えるなりプッと小さく吹き出したらしい。
「アメリアったらいつから御者に転職なさったの? でも、あながち悪くもないわね。なんだか貴女って野性的……ああ、失礼。元気いっぱいだし、とってもお似合いだわ」
 アメリアは唇を血が出るほど噛み締めて、ジョンに叫んだ。その声に驚いたのか馬は嘶いだがもはや構ってなんていられない。
「ジョン! デイジーに現を抜かすのは構わないけど、仕事を放棄するならお父さまに言いつけてクビにしてもらうわよ!」
 アメリアの怒鳴り声で慌ててやってきたジョンに手綱を投げると、アメリアは他端に女王の威厳を存分に纏って、背筋を凛と伸ばし両手を綺麗に重ねてお手本のような立ち姿を披露してみせた。それから何かを言い返さなくては我慢ならなくてアメリアはアンナを毅然と睨みつけて口を開いた。
「それにしたって遅かったわね。牛ほど鈍間な馬なんていない方がマシなんじゃなくて?」
「たった三十分で何をそんなに気にしていらっしゃるんだか。アメリアって労働階級みたいなことを仰るのね」
「そういうわけじゃないわ。その三十分の間にとっても楽しい出来事が山のようにあったのに貴女だけ除け者は可哀想だと思ったのよ。でもその調子なら教えなくても良さそうね。どうぞ、お入りください。きっとみんな驚くはずよ。貴女がくるってことも頭の中から抜け落ちてるに違いないもの」
 促されてアンナはヒールを鳴らしながら屋敷の中へと入った。そして蛇のように鋭い視線で辺りを見回して程度が知れたとばかりに小さく肩を竦めた。
「そういえばこの家に招かれるのは初めてね。わたしずっと気になっていたのよ。あなたがどういう環境で育ったのか。今合点がいったわ。それにしたって一体どんな目論見があるのかしらね? 今まで頑なにわたしは招待しなかったのに」
「楽しい夜になるといいと思ってるわよ。お互いにね」
 短く返して、アメリアはチラリとアンナの後ろに視線をやった。ディランは二人の様子を交互に観察しながら肩を揺らしながら笑っている。本当に何が楽しいのかしら! こっちは本気でムカついてるっていうのに! 腹の底が沸々と沸き立ち、今にもその正面に歩み出て問い詰めてやりたい気持ちに駆られた。だが、そんなことをすればアンナはこの出来事を面白おかしく広めるだろうし、ディランだってせいぜい笑い転げるくらいが関の山だ。もどかしさに焼かれながら、アメリアはせめてもと鋭い視線でディランを睨み、すぐに顔を背けた。
 そしてその代わりにアメリアはその視線をアンナに向けた。今日のアンナの装いはいつにもまして豪華だった。可愛らしいというよりはシックで大人っぽい印象を与えるパールのドレスは最低限の装飾しかされていないシンプルな物だったが、それが不思議とアンナの端正な顔立ちを際立たせていた。そのドレスには古代ギリシアのような余分を徹底的に排除した美しさが秘められている。
 それからシンプルなドレスの代わりとばかりに、首元や耳には太陽ほどの光を放つ宝石をふんだんに身につけている。特に首元で光り輝くネックレスは五十ヤード〔約四十五メートル〕離れても眩しく感じそうなほどの輝きを放っていて、悔しいことにアメリアは視線を釘付けにされた。
 アメリアが宝石をじっと見つめているのに気がついて、アンナはわざわざ見やすいように顎を高くあげて、聞いてもいないのに情報を補足した。
「エドワーズさまから頂いたのよ。素敵でしょう? 宝石っていうのは誰でも良さが一目でわかるからいいわね」
 アメリアは興味なさげに「ふうん」と返して内心で歯噛みした。ディランもディランだわ、こんな素敵なものをアンナに贈るだなんて。アンナのことなんて対して気に入ってもいないはずなのに。
 アメリアはこの数分、二人を観察して二人が真に愛し合っているわけではないのだと確信していた。何しろ男性が愛に溺れたときの――ある種滑稽な――挙動のほとんどは知り尽くしているのだ。ディランからはそういった熱気はまるで感じない。少しでもそういった感情があるのならばわたしが気が付かないはずがない。それにアンナも表面上は仲良くしているようだが恋心を抱いているという風ではなかった。だから恐らく、その贈り物とやらもパフォーマンスの一環なのだろうと当たりはついた。だからといって羨ましがるなというのも酷な話だ。
「随分仲が良いみたいね」
 アメリアが嫉妬混じりに揶揄すればディランはその胸中を察したみたいに、いつもの冗談めかした笑みを浮かべて口を開いた。
「アメリアさんにも何か贈りましょうか?」その言葉にアンナは高い鼻をピクリと動かして目を細めた。
「まぁ! 本気ですか? 忠告しますけど、きっと贈るだけ無駄ですよ。何しろアメリアは物の価値なんてまるでわからないんだから」
「宝石の価値は学がなくてもわかると仰ったじゃないですか。それにお転婆娘も飾り付ければそれなりの淑女にはなるんじゃないですか?」クスクスと含み笑いを浮かべるディランをアメリアはキッと睨みつけた。
「あなたも相当しつこいわね」
「何しろあまりに衝撃的だったからね」ディランはまるで悪びれる様子もない。
「わたしはアメリアって淑女からは正反対の場所にいると思いますけど、そうね。宝石一つでこっちにこれるなら喜ばしいことだわ。ええ、とっても。でも、エドワーズさま。そういう性質は内面にこそ宿るものではありません? いくら外を飾り付けたって本質は何も変わりはしませんわ」
 アンナは口元に手をあてながら嫌味っぽく言った。
「それって自己紹介かしら?」
「そういう所を言ったんだけど、どうやら伝わらなかったみたいね」アンナは苛立ちに目を細くして、声を低くした。二人の間には今や一触即発のピリピリとした空気が流れていた。ここに招待客が通りかかったのなら慌てて踵を返すか、勇敢にも二人の諍いを止めようと声をかけただろう。しかし観戦するディランにその気はまるでないらしく、黒い目を細めて口元は柔らかな弧を描いている。それどころか、二人の争いに燃料を投下するのが自分の役目だと心得ているらしい。
「それもそうですね。だからわたしはあなたと婚約している訳だ。それに、アメリアの破天荒を首輪一つで抑えられるとも考えにくい……まぁ、それはそれとして、何か贈りますよ。ぜひともね」アンナはつまらなそうに唇を真横に結び、小さく眉をひそめた。アンナの中では既にディラン・エドワーズの財産は自分のものだったので、それがびた一文でもアメリアに使われると思うだけで腹わたの煮えくり返る思いだった。とはいえ、あまり強くも出られないのが事実だ。アンナは首を斜めに傾けてぶっきらぼうに毒を吐いた。
「それよりも馬の一頭でも買い与えた方が喜ぶのではありません?」
 ディランはそれがかなり気に入ったようで、肩を震わせながらアメリアのことを横目で眺めて「それはそうかもしれませんね」と笑い混じりに肯定した。
「あなたってば、わたしとアンナどっちの味方なの?」
「わたしは常に劣勢な方の味方ですよ」アメリアはまるで味方する気がなさそうなディランにつまらなくなって視線を逸した。それに気を良くしたらしくアンナの攻撃は続く。
「ところで、このドレスも素敵だと思いませんこと? 今日のために仕立てて頂いたのよ。貴女もたまには新しいドレスでも仕入れたらどうかしら。だって、そのドレスだって初登場はもう一年も前でしょう? 長く使うほど価値があがるものなんてお屋敷くらいじゃなくて? もちろん、それも十分な手入れがされてこそですけど」
 何か言い返したいところだったが言葉が出てこなくて、アメリアは口をつぐみ顔を赤らめた。そしてこの間の舞踏会で、エスター・レミントンが感じたのと同じ類の羞恥を存分に味わった。もちろん、あのドレスは五十年も前のものだったが流行に敏感な乙女からすれば五十年も一年も大差ない。流行遅れは総じて厳しい処分が下される。それははっきりとした扱いの差となって目に見える形になるのだ。
 ディランはジッと値踏みするような視線をアメリアに向けた。アメリアの整った顔から、細くしなやかな首と肩を見つめる。それだけでアメリアは服を脱がされて鑑賞されているような気持ちになって、ディランから視線を逸した。品定めするみたいに、その視線は下へ降りていき、アメリアの純白の手袋や開いた胸元とかそういう部分に向けられた。不躾な視線にアメリアは声をあげようかとも思ったが、緊張のあまり声も出なかった。それに、どちらかといえば、そういう失礼な視線をぶつけられることよりも、お気に召したのかどうかが気になった。気をつけてはいたけど、皺になったりしていないかしら? さっき散々走ったし、それかどこか破けていたり――。
 長い沈黙はアメリアの心を存分に不安にさせた。その不安はアメリアの瞳に如実に表れていた。視線はあっちこっちに忙しなく動き、意味もないのに手を揉むのが止まらない。
 どれほど長いこと待っても、ディランが何か感想を述べることはなかった。いつものなんとも取れない笑みを浮かべているだけで、その真意は測りようもない。三人の間には長い沈黙が流れ、それを見計らったみたいに女中頭が三人の間に割って入った。オルコットは言葉を発するより前にアメリアの非行をギロリと厳しく睨んだ。一体わたしが何をしたっていうのよ。
「お待ちしておりました。アンナ・ベネットさま。どうぞ奥へ、暖炉の側で暖まりくださいませ。すぐにお食事になりますから」
 アメリアはアンナとの戦いに夢中でまるで気がついていなかったが、いつの間にか玄関には大勢の使用人が集まっていた。みな、アメリアとアンナの接敵を感じて集まりはしたものの、誰一人として口を挟む勇気がなく壁際で小さくなっていたのだ。それで、結局この家一番の図太さを誇る女中頭が呼び出されたという訳だった。
 オルコットは役に立たない若い使用人たちを厳しい目つきで睨みつけ、その視線に慄き、使用人たちは顔を青くしてそそくさ持ち場に戻っていった。なんだか急にしらけた気分になって、アンナは軽くため息をついて、ディランの腕を掴んだ。
「行きましょう。エドワーズさま」
 アンナがディランの男らしい腕に絡みつく場面を目撃すると、全身に激しい衝撃が走り、衝撃が過ぎ去った後も手足は痺れたみたいにじんじんとした。まるで外でゴロゴロ言っている雷が自分に直撃したみたいだ。
「まったく、目を離すとすぐにこれですよ。頼みますから、余計な仕事を増やさないでくださいね!」オルコットの言葉もアメリアの耳にはこれっぽっちも届かなかった。アメリアは思考も呼吸も何もかもが止まり、廊下の奥に消えていく二人をじっと見つめて石像のように動こうとしない。
「アメリアさま?」
 一体なんだっていうの? 何がこうも心に引っかかるのかはわからなかった。ただ少なくとも良い気持ちではない。しばらく考えて”嫉妬”という二文字が頭に浮かんでアメリアは驚愕した。そんな語彙がよく頭の中にあったものだ! 少なくとも男性絡みで嫉妬したことなんて今まで一度もないのに! アメリアは二人が見えなくなった後も自分の思考に愕然としながら、誰もいない廊下をじっと見つめ続けた。
 そしてしばらくして、アメリアはあの不可解な衝撃についてこう結論付けた。
「馬鹿馬鹿しい! きっと、あのドレスが羨ましいのね。そうに決まってるわ。だってあんなドレス見たことがないもの。光を当てるたびに虹色の光を返すし、それにあれほど細かいラメが全体にあしらわれているのよ。きっとそうに違いないわ。そうじゃなかったら――いや、まさかね」
 アメリアの胸中なんてまるで知ったことではないオルコットは深い溜め息をついてエプロンを軽く叩いた。その視線の先には応接間のドアに群がる若い使用人たちに向けられている。
「きっと今日は若いのは仕事になりませんね。まったく、お若い方々はどうしてああも見え透いた男に引っかかるんでしょうかねぇ。アメリアさまもお近づきになってはなりませんよ。百害あって一利なしです。あんな見るからに軽薄な男よりもリック・アボットの方がよっぽど立派なもんですよ。どれほどお金を溜め込んでるんだかは知りませんけどね、お金で品位は買えませんからね」
 名前を呼ばれてようやく我に返ったアメリアは、オルコットの視線を追って同じように応接間の方を見た。使用人たちはドアに押しかけ、皆一様に頬を赤く染めて、例の紳士のことを一目見ようと躍起になっているようだ。なんだかそれを見つめていると不思議と胃の辺りがぞわぞわして、アメリアは眉を顰めた。
「まったく、仕事にお戻り! 今日はただでさえ人手が足りないんだから、そういえばアメリアさま。デイジーを見かけました? あれは若いのの中でも一番使い物にならないよ、一体朝からどこをほっつき歩いてるんだか。ほら、仕事にお戻りったら!」
 女中頭の一声で使用人たちは追い払われ、アメリアは応接間に入った。さっきと同じようにリックの隣にとりあえず腰を下ろす。ただ、さっきのようにリックのつまらない話に付き合う根気は既にどこかに消え失せていた。アメリアはオルコットがディランに対して口にした年寄りじみた言葉の数々を思い返しながらじっとその人を観察した。
「確かに性格は悪いけど、軽薄ってわけじゃないわね。約束はちゃんと果たす人だもの。その点だけは評価してあげてもいいわ。それと、見た目も……なんだか本当に評価が甘くなってるわね。わたしってこんな感じだったかしら?」深い思考の海に沈みそうになったところで、リックの声が耳に響いて思考は取りやめになった。
「またアンナさんとやりあったんですか? 使用人たちが慌てていたので……」リックはちらりとアンナを見て、すぐに視線をそらした。アメリアの目も機嫌次第では時折、恐ろしいほど鋭くなるがアンナはそれ以上だ。リックは毎回アンナと目を合わせる度に喉元にナイフを突きつけられているような気持ちになって背筋が凍る思いなのだ。
 アメリアはその質問には答えずに、アンナとディランのことをじっと見つめた。なんだかわけも分からず不安で、心臓が震えている。とにかくアメリアは何か安心できる言葉を欲していた。一体自分はどうしてしまったんだろう?
「ねぇ、リック。このドレスどう思う?」アメリアの声は珍しく不安げで、それはいくらリックでも理解できた。緑の瞳は何だか宝石みたいに潤んでいて、思わずリックは見惚れて慌てて言葉を紡いだ。
「えっと、とてもお似合いだと思います。そんなに素敵に着こなせるのは、ミス・スレイターくらいのものだと思いますよ……本当に。その。君はいつもとても綺麗だし……君がいるだけでまるでこの場が明るくなったみたいに感じるんだ。それに僕は君の笑顔をみるだけで、なんだか、その天使に微笑まれたような気持ちになります」
 リックは心臓をドギマギさせながら感想を述べた。時折つっかえながらではあったが、アメリアは根気強くその言葉を最後まで聞いた。リックが口にする言葉は褒め言葉ばかり、それも言いなれていないとはいえ心が籠もっている。むしろ、そのぎこちなさが自分のために必死になって言葉を探して連れてきてくれているようで、アメリアは生まれて初めてリックに対して、少しだけ、愛玩動物に抱くような愛着すら覚えた。手放しに褒めてもらえば、先ほどの漠然とした不安感も紛れて気分も上がった。
 アメリアは柔らかく微笑みながらリックの唇に魅惑的な視線を向けた。アメリアがそんな表情をみせたのは初めてのことだった。リックはドキドキしながらアメリアの唇に目をやった。艷やかでふっくらとした唇は妖しい魔力を帯びているかのごとくリックの瞳を釘付けにした。アメリアは柔らかく笑って、諦めたみたいに目を閉じて唇を突き出した。
 その時のリックの気持ちときたら! ついに鉄壁の牙城を崩すことに成功したのだ。社交界の中心、花の中の花! 誰もが憧れる女性に、ついに触れる許可が下りたのだ。全身が歓喜に打ち震え、甘美な喜びが全身を駆け巡る。
 もっとも実際のところはアメリアは今までも両手で収まらないくらいの恋人がいたし、その中の数人とはキスも経験済みだがそんなことリックの知るところではない。リックは思わず我をなくして、その唇にむしゃぶりつこうとした――しかし唇が触れるすんでの所でぴたりと止まると、ハッとしてアメリアから視線を逸した。ここは視線が多いことを思い出して強靭な理性が働いたのだった。すぐに後悔が襲い、アメリアの方に向き直ったがその頃にはもう既にアメリアはリックを見てすらいなかった。
 顔を背けるようにしてアメリアは反対方向を見ていた。リックから見えるのは小さな後頭部と形の良い耳だけだ。その表情がどんな落胆を示しているかなんて確認する気力もなく、リックは小さくため息をついた。きっとこんな好機は二度と訪れないのだろうと思うとリックの心は暗くて陰気な場所に沈んでいくのだ。

第十一章 一話

 リックとアメリアの間に流れる空気が微妙なのはしょっちゅうだった。階級の微妙に違う二人が探りを入れながら話すときのようなものだろう。リックはあまりにも控えめで相当据え膳をしなければ自分からいける質ではなかったし、それにアメリアもわざわざ二回も三回もチャンスをあげるほど我慢強くないのだ。
 リックは自分の女々しい行動について弁明したそうな空気を醸し出していたが、アメリアはそれにはこれぽっちも気がついていないふりをした。
「少しは反省することね。チャンスを掴めないし、それどころか自分に舞い降りたこのチャンスがどれほどの幸運かもわからないなんて間抜けもいいところだもの。なんだか少しでもリックをいいかもって思った自分が馬鹿みたいだわ」アメリアは不貞腐れて遠くを見つめた。リックはオロオロして落ち着きがなく、何か話題を振ろうとしては止めてを繰り返している。そのはっきりしない態度はアメリアを飽き飽きさせるには十分だった。
 なんだかリックと一緒に居てもつまらないわね。アメリアは応接間をぐるりと見回して他の話し相手を探し、ちょうどディランと目があった。リックと一緒にいるよりは、あの人に構ってもらった方がずっと楽しいわね、と思いアメリアは腰をあげた。そのとき、丁度エレンがオルコットを伴って応接間に入ってきてアメリアはばつが悪そうに顔を顰めて腰を下ろした。いくらアメリアといえど、母と口うるさいオルコットの前ではそこまで無茶をしようとも思わない。
 しかしオルコットは歴戦の使用人なので、アメリアとリックの間に流れる微妙な空気にはすぐに気がついた。二人のことを品定めするみたいにじろりと見回して、アメリアの態度を確認するとオルコットの眉間に刻まれた皺は更に深くなった。
「アメリアさま。お客さまがいらっしゃってるというのに、その態度はなんです? それに、リックさまをほったらかしにして」
 アメリアは相変わらず顔を背けて頬杖をついた。どうしてみんなわたしの楽しみを邪魔することに躍起になるのかしら。
「でたわね、偏屈夫人……」
「今なんとおっしゃいました?」
 オルコットは眼鏡をくいっとあげてアメリアを更に厳しく睨みつけた。睨みつけるあまり、上瞼が下瞼とくっつきそうになってピクピクと痙攣して、怒りに鼻の穴を大きくしている。アメリアは口角をあげてオルコットをみた。別に揶揄うのは誰だっていいのだから。
「オルコットったら、豚みたいだわ。そんな怖い顔で睨まれたら今にも泣いちゃいそうよ」
 喉を鳴らして笑う声がして、アメリアは慌ててそちらに目を向けた。いつの間にか音もなく、ディランは正面に立っていてアメリアが気がつくと軽く手をあげて挨拶した。この人ったらなんでいつもわたしの見られたくないところばかり見てくるの?
 オルコットはディランが登場するなり露骨に嫌な顔をした。オルコットからすればこの男――地位を振りかざして無理やり正餐会の枠を勝ち取ったこの不躾で礼儀知らずな男――は正餐会という華やかな場に飛び込んだ害虫のようなものだった。それに……とオルコットは男の出で立ちを見つめて顔を顰めた。アメリアが素敵だと心をときめかせる燕尾服も、オルコットに言わせれば些か派手すぎだったし、この男の顔にいかにも軽薄なものが浮かんでいて吐き気すら感じた。
「そもそも、まずは奥さまに挨拶をするのが礼儀ってものじゃないのかねぇ! 他の方たちは皆そうしているっていうのに。それなのに、その義務も放棄して……本当に傲慢な男だこと!」だからといってこの不躾な男が神聖なエレンに近づき、その手を取って挨拶に口づけでもしようものなら激しい怒りのあまり憤死してしまうかもしれない。
 黙りこくったオルコットを一瞥して、ディランは相変わらず人を小馬鹿にする笑みを浮かべるとアメリアの方に向き直った。「愉快な人ばかりで楽しい家ですね。ミス・スレイター」
 オルコットは怒りに唇をわなわなと震わせ、汚らわしいとでも言いたげな視線で男のことを激しく睨みつけ、鼻を鳴らすと足音を大きくさせながらその場から離れた。いつもは清楚な奥さまのためを思い、封印している下町時代の名残が前面に現れたが、この不躾な男と一緒にいるくらいなら、多少品のない行動をするくらいなんともなかった。
 ディランは楽しそうに小さく笑い続けている。
「アンナも言っていたが、君の育った環境が伺えるね。とても素敵な家だ」小馬鹿にした言い方にアメリアはムッとしてディランを睨みつけた。
「あなたはわたしが悪口をいうと絶対に聞き耳を立てるのね。本当に地獄耳もいいところだわ。そもそも紳士なら聞こえても聞こえなかったふりをするものじゃないの?」
「不思議なもので、今まで知り合った淑女たちとはそういう出来事がなかったんだが、ここのところ随分とそういう出来事に遭遇するな。そもそも淑女ならそんなこと言わないだろう。それに、君はどうやら人に内緒にしたい事柄が凡庸な淑女たちよりも随分と多いらしい。もう少し大人しくすることを覚えたほうが身のためだよ」
「知らない。そんなこと後で考えればいい話よ」
「そういう性質だから毎回困った目に遭うんだろうな」
 ディランは喉の奥で笑うと、じっとアメリアの装いに目を向けた。それだけでアメリアは金縛りにあったみたいに動くことができなくなって、呼吸すらも評価に影響するような気がして息を止めた。不安の芽が心の奥底に芽吹き心臓が冷たくなる。どうしてこの人、何も言ってくれないんだろう。アメリアは不安でどうしようもなくなって、頼りなく揺れる瞳でディランのことを覗き見た。ディランは目を細めて小さく笑うと腰を屈めてアメリアの耳元に顔を唇を寄せた。
「それはそうと、先程はチャーミングな誘惑を拒まれて残念でしたね。君が本当に優しい女性なら、もう一度くらいチャンスを与えてあげてはどうです?」
 ディランの低い声が能に届くとアメリアは心臓を鷲掴みにされたような気持ちになった。そして羞恥で顔を真っ赤にして唇を噛んだ。この人はどうしてこうもわたしが見られたくないと思っているところばかり見てくるのかしら! その上、わたしが嫌がると知っていながらわざわざ口にするなんて本当に下劣な人! とんだ悪漢だわ! 身体の奥底で怒りという途方もないエネルギーが爆発しそうになるのを感じたが、アメリアは理性の力でそれをどうにか封じ込めた。どうやらこの男をやり込めるには相当上手く立ち回らなければならないらしい。そしてそのためには、もっともらしい理論でもっていかにも淑女らしく理路整然と事実を並べるのが一番だとやっとアメリアにもわかり始めたのだ。
「ええ、もちろんそのつもりです。でも後で」
「後で、というと五十年後くらいですかね? いいや、それでもまだ早いな。きっと次に君が唇を譲ってもいいと思うのは彼の葬式のときですよ。情に流されて、強情な瞳も涙の一つは流すでしょうから。そうすればキスの一つや二つくれてやってもいいと思うでしょうね」
「あなた、わたしたちが恋人同士だということをお忘れになったのかしら。もっと近日中にチャンスは来ると思うけど」
「いいや、くるものか。そもそも君は彼のことなんてこれっぽっちも好いていないんだから。あるのは同情と倦怠くらいだろう。会話は愚か、婚約者の顔を見るのすらうんざりだとその愛らしい顔にはっきり書いてありますよ。ましてや口づけなんてもっての他だ。いい加減哀れな奴隷は解放してあげてはいかがです。彼にできることといえば君の邪魔をすることくらいでしょう」
 アメリアは答えられなくなって視線を逸した。ディランの言い方はかなり悪かったけど、その内容は確かに的を射ていた。リックの行動にうんざりさせられるのはいつものことだし、今だってオルコットには睨まれ、母には縋り付くような目線を向けられているっていうのに、まるでリックなんかと話す気にはならない。それに、隣でこんなに悪く言われているのにリックは相変わらず縮こまっているばかりで反論の一つもない。耳に入っているのかすら疑わしい……アメリアはリックの哀れな姿を一瞥してから、小さく言葉を返した。言葉にあまり自信はなかったが、こういう場面ならばこう答えるのが道義だった。
「でも、わたしはリックのことを愛してるわ……」――だけど、本当に? 芽生えた疑問は心にしっかりと根を張った。アメリアの弱々しい声をかき消して、ディランは続ける。その声は間延びしていてどことなく優しかった。
「それに、君は二度も三度もチャンスを与えるほど甘くない。わたしは君のそういうところが気に入ってるのさ。施しを与えるマリアじゃなくて、気高い女神の心にね」何を言われているのかはさっぱりわからなかったが、とにかく気に入っているということがわかってアメリアは芽生えた疑問は後回しにとりあえず機嫌を良くした。こういう話題の方がよっぽど得意。時々自分が何を考えているのかすらわからなくなるんだもの。
「あなたならきっとチャンスを逃すような真似はしないでしょうね」
「もちろん、それにあなたを退屈させるようなこともね」
 ディランはアメリアの手を慇懃に取るとその手に優しくキスを落とした。指先からじわじわと痺れにも似た不可思議な感覚が全身に上って、アメリアは思わず肩を竦めた。全身に熱が周って、何だか異様にドキドキする。アメリアは唇が離れた後も、その魅惑的な唇をもどかしく追って、それに気が付きハッとすると何だか途端に自分がとんでもなくはしたない女なんじゃないかと思って恥ずかしくて死にたくなった。それを誤魔化すように髪をわざとらしく整え、ドレスの皺を気にする素振りをしてみたがその動作はあまりにも大袈裟すぎた。何しろ、既に髪はため息が出るほど整っていたし、アメリアほどドレスの皺に気を払う女性も他にいないのだから。
 アメリアはドキドキしながらディランのことを覗き見た。顔には赤みが指していて強気な言葉とは裏腹に瞳は潤々としている。
「わたしを退屈させない自信があるっていうの? なら……なら、試してあげてもいいわよ。わたし、あなたの隣に座りたいわ。お母さまは絶対に遠くに座らせようとするはずだけど……」
「そんなこと、障害にもならないな。それより恋人はいいのかい?」
 また思い出したくない話を持ち出されてアメリアはムッとしてディランを睨んだ――そしてその唇が視界に入り、やはりまた顔を赤くした。なんだか今日は調子が悪い。
「障害にならないっていうなら早くお母さまを説得してきてよ。わたし、食事中ずっとリックのつまらない――」間の悪いことにリックはようやく意識を取り戻したらしく、アメリアの言葉を聞いて酷いショックを受けたみたいだった。しかし、言い直す気にはならない。だって事実だもの。アメリアは意を決した。「リックのつまらない話に付き合うなんて真っ平よ。それにあなたを遠目で眺めるの――」
 ディランはアメリアの言葉を手で静止して、満足げな微笑みを湛えた。そして、アメリアの隣で神に見放されたみたいに目を見開き愕然としているリックを一瞥して、エレンの所へと向かった。
「リック、弁明するつもりなんてないからね」アメリアはリックに向き直り、冷たい声色で突き放した。それにしても、こうして間近で見比べるとその差は歴然だった。ディランが荒々しい肉食獣だとすればリックは可愛らしい野ウサギだ。こそこそと畑の作物を食い荒らして生きて行くしかない。いや、それよりも自分が檻の中にいていずれは食われることもしらない家畜だ。飼い慣らされて、すっかり野生を忘れ、何をされようとも抵抗の一つもしない。きっと自分の命が刈り取られる瞬間ですら間抜けな驚き顔を晒すだけだろう。
 アメリアの言葉にリックは俯くだけだった。ここまで言われても、反抗の一つもないのね。やっぱりこの人にはプライドってものが存在しないんだわ。わたしを叱りつけるか、決闘でもしようって気概があればまだマシなのに。でもあの人と決闘なんて、わざわざ死にに行くようなものね。
 アメリアはクスッと笑ってから、ディランに視線を戻した。ディランはエレンと何かを話し合っている。しかし、どうやら穏便ではないらしく、隣にいるオルコットは今にもこの男の首を掻き切ってやりたいとウズウズしていたし、母の顔はみるみるうちに青白くなっていく。エレンは露骨に動揺しながら、ディランにいくつか反論していたが、それも最終的には品切れになりエレンは小さく頷く羽目になった。
「あっという間だったわね。一体どんな魔法を使ったの?」戻ってきたディランにアメリアは質問した。エレンは困り果てているらしく、物憂げなオーラを放っている。
「古典的な方法さ。脅しっていう。それにしたって君もなかなか傲慢だね。貴婦人ともあろう人が今日のためにどれほど緻密な計画を立てて、この会を成功させようとしているかはわかっているはずなのに。それよりも自分の愉しみを優先するわけだ」
「えっ、あなたお母さまを脅したの!? 可哀想なお母さま、きっと怖かったに違いないわ!」なんていいつつもアメリアは本当は飛び上がりたいほど嬉しかった。もしここに母とオルコット(と、それから彼の名誉のためにリックも入れておこう)が居なければアメリアはディランの首に抱きつき、その頬にキスをしていたに違いない。母を可哀想に思う気持ちも本当だったが、それよりも歓びが勝っていた。何しろ、ディランの隣にいれば退屈しないことなんて本当はわかりきっているのだから。
「要望通りにしたっていうのに手厳しいね。感謝の言葉の一つくらいあってもいいんじゃないかい?」
 アメリアはディランの瞳を覗き込んで、花が咲いたような可憐な笑顔を浮かべた。その笑顔に応接間の視線は自ずとアメリアに向いた。
「それもそうね。ありがとう」
「どういたしまして」

第十一章 二話

 そういう理由から席順は変わったが、だからといって大幅に変わったかといえばそうでもない。エレン・スレイターのような歴とした貴婦人は、婚約している二人を引き離すなんて、たとえどれほど脅されようとできるはずがなかった。たとえ自分の命と天秤にかけても、こればかりは譲れない。ということで、エレンは頭の中で招待客の人形をせっせと並べ替えては頭を捻り、最終的に苦肉の策としてペアはそのままに席の位置だけを変えることにした。エレンは内心で妙案だと思っていたのだが、実際に当人たちを席に座らせてみるといかにも問題のありそうな並びだと気が付き、胃がキリキリと痛むのを感じた。現実も想像のように可愛らしい人形だったならよかったのに、一番左端のリックは先ほどのチャンスを逃したことを未だに悔やんで暗い面持ちだったし、その右隣のアメリアはリックなんかと会話する気は一切なくディランに興味津々で、更に右隣のディランは何を考えているんだか分からない笑みを浮かべ、一番右端のアンナは不機嫌を隠そうともしないで一定のリズムで机に人差し指を打ち付けている。
 使用人たちは誰もが肝を冷やし、この正餐会がロシア式給仕〔使用人が一皿ずつ給仕していく方式。ただしメインディッシュだけは主人が切り分ける。もう一方のフランス式は大皿に載った料理を主人と女主人が取り分けるか、自分で取る〕であることを呪った。使用人たちは誰もが爆発寸前のあの四人に近づくのを嫌がって互いに押し付け合うような目線を交わしあった。
 もちろん困り果てていたのはエレンも一緒だ。エレンは招待客と見かけ上楽しげな会話をしながらも、果たしてどうやってこの場を穏便に収めようかと途方に暮れて、テーブルを挟んで向こう側に座っている主人に対してしきりに縋るような視線を送った。普段ならばこんな風に誰かと話しながら会話以外に頭を使うなんて礼儀がなっていないと思うエレンも今日ばかりはどうしようもなかった。それに招待客の方も、アンナとアメリアが恐ろしくて会話どころではなかった。
 ずらりと並べられたカトラリーが半分を切るまでは食事は比較的穏やかに進んだ。しかし楽しんでいるのはアメリアとディランだけでその他の招待客はいつ飛び散るか分からない火花に怯え、折角の豪華な食事もまるで味がしなかった。事態が急変したのは食事が後半に入ってからだ。丁度メインディッシュの丸ごとのローストチキンをデイジーが震える手でジョージの前に運び入れ、切り分けようとナイフを手にした所でアンナはいよいよ耐えきれなくなったみたいに口を開いた。その言葉は普段の気取った声色ではなく、素の苛立ちが透けていた。
「本当に、どういう神経をなさっているのかしら」大声を出したわけでもなく、どちらかといえば独り言ほどに小さな声量だったがその声は招待客の耳にしっかりと届き、場の空気を凍らせた。
「わたしが何をしたっていうの? わたしはただたまたま隣の席になった方とお話しているだけでしょう。嫉妬は醜いわよ。それともわたしの名誉を傷つけようっていうのなら相手になるわ」
「アメリア、口を慎みなさい。客人の前でそんなことをいうものではありません」エレンが慌てて口を挟んだが、一度火の付いた二人はそう簡単に止まろうとはしなかった。
「名誉? あなたにそれほど崇高なものがあるとも思えないけど。あったとしても既にご自分で擦り減らしたでしょう。性懲りもなくベタベタとして汚らわしい、はしたなくて見ていられないわ。あなたには御者よりももっとお似合いな職業があるわね、きっと天職だわ」それだけ言うとアンナは同じ空気も吸いたくないとばかりに椅子から立ち上がった。
「ミス・ベネット。まぁ、お気持ちはわかりますが、一旦落ち着いて……さぁ、アメリアさんも」客も慌てて二人の仲裁に入ったが、やはり二人はそんな言葉耳に入ることもなかった。
「娼婦がお似合いだって言いたいの!?」アメリアは弾け飛んで立ち上がり、思わずアンナを睨んだ。
「そういってるでしょう。あなたほど下品な方って見たことがないわ」
「なんですって!?」
「アメリア! いい加減にしろ!」父の低い怒声が響いたが二人の怒りはとどまるところをしらない。
 自分を挟んで火花が散っているのに、ディランは飄々としていた。優雅に足を組んで背もたれにもたれながら双方の言い分を楽しそうにきいている。まるで何かの喜劇でも鑑賞しているかのような態度だ。騒ぎを聞きつけ厨房から駆けつけた使用人たちはどうしたらいいのか分からなくなってドアのところで動きを止めている。
 ソフィーは涙目になりながらディランに駆け寄った。この場を収められるのは彼しかいないと本能で察していたのだ。そのとき丁度ディランは葉巻を取り出して火をつけたところだった。
「あぁ、エドワーズさま。どうか二人を仲裁してくれませんか?」
「無駄でしょうね。二人とも血の気が多いので」
 ディランはサラッとそういうとまた鑑賞に戻った。ただ、一瞬何かを考え込んだように真面目な顔をして、アメリアの手元に置かれていたナイフやフォークなどの武器をそっと自分の手元に移動させておいた。
「本当に、アボットさまがお可哀そうだわ。恥ずかしくないのかしら! わたしなら婚約者を前にして別の男性と仲良くするだなんて恥ずかしくて想像するだけでゾッとするわ。よくそうやって平然とした顔で立っていられるものね。人としての誇りやプライドなんてまるでないんでしょうね」
 アンナは鋭い視線を部屋全体に向けて顔を意地悪く歪めた。
「それに、黙認する家族も大概ね。これだから下流階級って嫌なのよ」
 家族、という言葉に頭にのぼっていた血がサァっと引いて、その瞬間アメリアは恐ろしいほど顔が青白くなったように見えた。それは例えるなら吸血鬼か死体のように青白く、その瞳孔は恐ろしいほど開いていた。
「本当に一体どういう教育を受けてきたんだか! スレイター家のお門も知れたわね!」
 何かに取り憑かれたみたいに体は制御を失い、腕はだらんと脱力して、頭の中は霞がかって徐々に外界の音が締め出されていく。その代わりに頭には高い耳鳴りとアンナの声だけが響いて、視界が急激に狭まっていくのがわかった。体が上手く動かないのに、頭は、細胞は、魂は今すぐ報復を! 鉄槌を! と雄叫びをあげている。
「こんな家で育ったからそうなるのよ」
 目の前が真っ赤に染まり、アメリアはほとんどわからない内に自分の背後にあった花瓶をひっつかんで、それを大きく振りかぶってアンナの脳天に振りかざした。花瓶は激しい音を立てて割れ、水と花が周辺に散らばり、独特の甘い香りを放った。アンナがその場に崩れ落ちるのを、アメリアは静かに見下ろしていた。綺麗なドレスの上には花が、献花のように積まれている。
「家族を悪く言わないで」自らの口から発された言葉はあまりにも低く、地獄の音がした。
 一瞬だけ柱時計は秒針を動かすのを止めた。そして長い一秒が過ぎれば途端に時間は動き出し、誰かの悲鳴とスレイター夫人の怒鳴り声が響いたがアメリアはそれすら耳に入らなかった。未だに視線はアンナに向けられ、自分のしでかしたことに対する恐怖とそれを上回るほどの胸の高鳴りだけが鮮明だった。徐々に口角があがり、遂には笑いだしてしまいたいほどの甘美な感覚が全身を駆け巡る。ああ、これは確かに異教徒を撃ち殺した歓びだ! 敵兵の臓腑を無惨に引き裂いた歓びだ! 大切なものを守り抜けた誇りと自負ですぐに頭はいっぱいになった。
 きっと、この勇姿にはみんな感じ入ったでしょうね! わたしは誇りを守り抜きました! アメリアは満面の笑みを湛えて母のことを見たが、母は目を見開き小刻みに震えるばかり。顔は真っ青で机を掴んでどうにか立っている状態だ。
 床に倒れ込んだアンナはぐらぐらと歪む視界の中で、床に落ちた銀のナイフを手探りで掴みアメリアの事を激しく睨んだ。アメリアはエレンに気を取られてその動作にはまるで気が付かなかった。次の瞬間、アンナは唇を噛み締め機敏に立ち上がり立ち尽くすアメリアの顔面めがけてそのナイフを振りかざした。アメリアは反射的に左腕を顔の前にだしその攻撃を防いだが、ナイフは腕に深い傷をつけて大量の血が流れ出した。
 その攻撃を最後に、アンナは力尽きてそのまま倒れそうになったがなんとかディランに抱きかかえられた。
「アンナさま!」使用人たちは思い出したみたいに一斉にアンナに駆け寄る。
「動かさないほうがいい。出血はしていないみたいだが、一応医者を」ディランの的確な指示がずいぶん遠くに聞こえた。アメリアはその光景をどうすることもできず呆然と見つめ続けた。ただ左腕の痛みだけが現実を知らしめ、血が流れ出れば文字通り血の気が引いた。
「アメリア! 貴方なんてことを! こっちに来なさい! 早く!」
 エレンはアメリアを激しく怒鳴りつけ、今しがた切り裂かれた部分を痛いほど強く握って動けないアメリアを強引に外へと連れ出した。いつもなら優雅に歩く母は大股で、足も上手く動かせないアメリアはほとんど引きずられるような形だった。普段は使っていない客間の一つにアメリアを入れると、エレンはアメリアを厳しい表情で睨みつけた。生まれてこの方、母のこんな表情は見たことがない。
「アメリア・スレイター! あなた、自分が何をしたかわかっているんですか!?」
 母はアメリアの両肩を爪が食い込むばかりに掴んだ。
「だって、アンナはお母さまやお父さまを馬鹿にしたのよ! そんなの許せるはずがないじゃない!」
「それでもです! 人に手を上げたのですよ!? それも女性に! 傷が残ったらどうするつもりです!? もし当たりどころが悪くて、一生後遺症が残ったら!? ましてや殺してしまったりしたら! それが本当にわかっているんですか!?」
「でも――!」
「アメリア!」エレンはアメリアの頬を力強く叩いた。乾いた音が静かな部屋に響き、体にとてつもない衝撃が走った。それは引き裂かれた左腕よりも痛くて、アメリアは思わず目に涙を浮かべた。
「ここで少し頭を冷やしなさい! わたしがくるまで出てはいけません!」
 それだけ言い残すとエレンは部屋を出ていった。ドアはバタンと音を立てて激しく閉められ、それが母との心の断絶を示しているようだった。アメリアは力なくその場に座り込んで、未だにジンジンと痛む頬に手をあてて、呆然とそのドアを見つめた。

 それからしばらくが経った。この部屋の暖炉には火が入っていなかったから、アメリアの体は氷のように冷え切って、全身の震えが収まらない。蝋燭の一本もない部屋は薄暗く、寒さと戦いながらアメリアは助けをじっと待った。刺された箇所は熱された鉄後手を当てられているみたいに熱を持ち、傷口を手で押さえても指と指の間からポタポタと血が溢れていく。まるでそれは生命力が外へと溢れ出ていくみたいだった。左腕の傷も痛かったが、それよりも痛むのは母に叩かれた頬で、母に叱られた心だ。
 聞こえる音といえば、窓を打ち付ける激しい雨音、それから嵐のような風が木を揺らしてぶつかる音。その音はまるで地獄からの使者が自分を迎えに来ているかのようで、アメリアは肩をあげて小さくなった。時折、閃光が空に走り時折、閃光が空に走り部屋を照らしては不気味な音が響く。雷が庭園の樫の木に落ちて轟音が轟くとアメリアは小さく悲鳴をあげて、膝に顔を埋めた。もう訳がわからなくておかしくなりそうだった。どうして家族のために刃を握ったのに、こんなに怖い目にあわないといけないの? どうして誰もきてくれないの? アメリアは寂しくて心細くて、いよいよ大粒の涙をその瞳に貯めた。
 それから時間を確認しようとして、柱時計に目を向けて、その長針が一分も動いていないことにパニックに陥りかけた。ただ壊れているだけだとしても、まるでこの責め苦が永遠に続くような気がしたのだ。そうでなくてもこの部屋は外界と遮断されて、世界に一人取り残されたような気分になるのに……誰も助けにきてくれない。それなのに閃光が空に走るたびに、床に広がる赤色の面積は大きくなっている。
「わたしが、わたしが悪者だからよ。みんなわたしなんて、ここで死ねばいいと思ってるんだわ。お母さまも、お父さまも、ジョージアナも、ソフィーも、みんなそう思ってるのよ」寒さと暗闇はアメリアの思考をネガティブな方向に引きずり込み、ついには涙を堪えきれなくなった。
 手足は既に痛いほど冷たくて感覚がなくなっていた。それに全身がカタカタと震えて仕方がない。アメリアは少しでも暖を取りたくて周囲を見回して、安楽椅子の上にひざ掛けを見つけた。長いこと座っていたからか、足の感覚はまるでなくなっていて、アメリアは這いずるみたいに安楽椅子に向かって、足をあげて座った。それから震える手でひざ掛けで全身を包んで、その上で静かに涙を流し、そのうち泣きつかれて静かに眠りに落ちていった。ありがたいことに、夢の中では不安も恐怖も感じなかった。

第十二章 一話

 その人物は、極寒の監獄の中で眠り姫のように眠っているアメリアにぎょっとして、考えなしにアメリアのことを抱きかかえた。吐息は信じられないくらい小さくて、体は芯まで冷え切っている。――とにかく暖を取らせるのが先決だろう。そう思い至ってから、男はふとアメリアの顔を覗き込んだ。普段なら桃色の艶やかな頬は薄暗がりでもわかるほど色を失っていた。それから視線は唇へと移動し、差し出された喉元をなぞり、強調された胸元へとたどり着いた。白い肌は規則正しく、微かに上下を繰り返している。
 男がその動きを愛おしく思うのと同時にアメリアは微睡みから目を覚ました。まだ意識はかすみがかっていて目を開く気にはならなかったが、背中と膝にまわされた逞(たくま)しい腕の存在にはすぐに気がついた。アメリアは懐かしい安心感に身を委ねながら、不意に幼少期を思い出した。「まだ五つにも満たない頃、父は歩き疲れたわたしを優しく抱きかかえてくれたっけ」父の腕の中はいつだって暖かくて、その規則正しい鼓動を聞いているとあっという間眠気がやってきたものだ。いつもシャツをよだれでべちゃべちゃにしたけれど、父は怒りもしなかった。今思えばきっとあの濡れたシャツは父の勲章だったのだろう。
 頬に当たるラッフルシャツの感覚は柔らかくて心地が良い。体はまるでゆりかごの上で揺られているみたいだ。アメリアは無意識に身をよじり、その柔らかな頬を男の胸に押し当てた。屈強な体は生命力に満ちあふれていて、触れているだけで心がじんわりと温かくなる。自分を守ろうとするその腕にアメリアはすっかり安心しきってほろりと涙がこぼれそうになった。「きっと、お父さまが助けにきてくださったのね」そう思ったのもつかの間、今度は漠然とした不安が全身を包んだ。「でも、本当にそんなことあるかしら? 何しろ、ついさっき――気絶するように眠り込む前――お父さまは珍しく声を荒らげて怒鳴っていたんじゃない?」記憶にある限り父があんな風に声を荒らげるところなんて数回しか見たことがなかった。その事実が裏付けとなって、アメリアは都合のいい妄想を頭の中から追い払った。「そうよ、そんなの都合が良すぎるわ。あり得ない、お父さまはわたしのことなんて許してくれないわ……。でもそれなら一体この優しい腕は誰のものなの?」
 次にアメリアの脳裏に浮かび上がったのはリック・アボットの姿だったが、それこそ一瞬で否定された。あの人がまさか大胆にもわたしの体に触れるなんてありえない。それなら一体誰が? アメリアは薄らと目を開けてその人を確認した。
「ディラン……?」散々泣いたからか声はかすれて、一言発するだけでも喉の奥が引き裂かれるように痛んだ。ディランはアメリアを見つめて、安堵の表情を浮かべた。背中に回された腕に力が入り、それが何よりも心地良い。「まさか、心配してくれたの? この人が?」念入りに確認しようとした次の瞬間にはいつもの表情を取り戻していたけれど、きっと見間違いではないはずだ。
「死体と見紛うほどの美しさだったよ。小川に沈んだオフィーリア〔シェイクスピアによる戯曲「ハムレット」の登場人物。気が狂い、溺死する〕もきっと同じくらい美しかったことだろうね。歩けるかい?」冷え切った足を床に着けると鋭い痛みが走った。その痛みはまるで神経に電気を流されたみたいな痛みだった。アメリアは小さく顔をしかめてつま先立ちになり、ディランの太い腕にしがみついた。
 ディランはそんなアメリアをみて噴き出して笑った。
「まるで下手なバレエだな。それか、わたしにすがりつきたいのか……」
 なんて言いつつもディランはアメリアの腰に腕を回して補助するのを忘れなかった。アメリアは足の痛みと戦うので精一杯でディランのいつもの素直じゃない言葉も、そんな行動も気が付かなかったけれど。
 それからしばらくして、次第に意識が覚醒し始めると、頭の中では疑問符が際限なく飛び交った。今にでも疑問の波に溺れてしまいそうだ。
「どうしてここにいるの? どうしてここがわかったの? それに、アンナは? まさか――」想像しただけでアメリアの心臓はバクバクと大きな音を立て始め、アメリアの瞳は不安で満ちあふれた。「まさか、死んだり――」ディランの返答を待つ間、アメリアの頭の中ではとりとめもない不安が駆け巡っていた。
「ああ、もしそうだったら……もしそうだったらわたしはどうすればいいの? もしアンナが死んだりしたら、わたしは殺人犯だわ。きっと一生牢獄の中で暮らすことになる。それにお母さまとお父さまの顔に泥を塗ることになる。人殺しを育てた女だと蔑まれ、きっと石を投げつけられるわ」そんな想像をしてアメリアは青ざめた。「……石を? 今だって、原因不明の病に悩まされているっていうのに? あれほど優しいお母さまに? そんなの、ああ! そんなのあんまりだわ! どうか、神さま!」
 頭が締め付けられるように痛くて気が遠くなる。アメリアは思わずディランの腕の中にもたれかかり、神に深く祈りを捧げた。
 それは時間にすればものの数秒の出来事だった。それでもアメリアには、この一瞬のうちに十年もの月日が経過し、自分の顔にも彼女が馬鹿にする老婦人たちのような深い皺が刻まれているのではないかと疑った。
「もちろん、無事に決まってる。あの程度で死ぬような女じゃないっていうのは君だってわかってるだろう?」ディランはアメリアの肩を抱きながら答えた。その手の温かさにアメリアが助けられたのは言うまでもないことだ。「彼女を亡き者にしたいなら悪魔と契約するくらいのものじゃないと上手くいかないだろうな。それよりも……」
 張り詰めた糸がぷつりと切れて、全身から力が抜けていく。ああ、よかった。大事にはなっていないのね。アメリアは力なくディランにもたれかかり、安堵にその瞳を潤ませた。
「むしろ傷ついてるのは君の方らしい。それにしたって一体どうしてここから抜け出さなかったんだ? 黙って天罰を享受するような敬虔な性質は持ち合わせてないと思ったんだが……まさか、急に信仰心が舞い戻ったわけでもないだろう?」アメリアは涙ぐむばかりで、どうにか涙が両目から涙がこぼれ落ちないように子供みたいに唇を噛みしめるのが精一杯だった。
「……まぁ、何もこんな場所で話す必要もない。ほら、いつまでも可愛らしく泣いていないで」
 ディランはアメリアの細い腕をとった。その体は疲れ切った子供みたいに、何の抵抗もなく引かれるがままに動いた。
 しかし、ディランの力強い腕が一生開かないと思えた扉をあっさりと開き、廊下からまばゆい光が差し込むとアメリアの足はぴたりと止まった。カーペットに作り出された光の台形はまるで自分を裁く天の眼だ。その瞬間、母の言いつけが頭の中をさっとよぎり、アメリアは顔を真っ青にしてディランの腕をきつくつかんだ。
「だめよ、だめ……ねぇ、一体どこへいくの?」
「ここではないところへ。ここは怪我人が居ていいような部屋じゃない」
 眠りに落ちる前の恐ろしい絶望が体の奥底からよみがえる。母の張り上げた声やあの時の表情が鮮明に思い返された。
「でも……でも、わたし、ここに居なきゃいけないわ。だって、お母さまに言いつかったもの。これは罰なのよ」アメリアはじっと一点を見つめながら、操られているみたいに言った。
「馬鹿なことをいうなよ。罰だと? 一体何に対する? そもそも自分の体を犠牲にしてまで守るべきものなんてあるものか。いいからくるんだ」
「いやよ! 離して! 行かないったら行かないの! 外に出るくらいならここで凍え死んだ方がまだマシよ! そうすればきっとお母さまだってわたしを許してくださるわ! でもここから出て、のうのうと苦痛から逃れたら、きっとみんな、今度こそわたしのこと許してくれないわ! いいから離して! 離してよ! お母さまもお父さまもわたしなんて死んだ方がまだ家族のためになるってそう思ってるのよ! いかないったらいかないの! やめて、触らないでよ!」
 アメリアはパニックを起こしてディランの厚い胸板を何度も叩いた。しまいには堪えきれず涙まであふれだした。すでに涙腺は腫れていて、涙が流れるたびにじくじくとした痛みを運ぶ。息を詰まらせながら言葉にならない言葉を叫び散らかすと喉の奥で血の味がした。しゃくりあげるような呼吸ではたいした酸素を取り込むこともできず、頭がクラクラしてきて今にも倒れてしまいそうだった。次第に胸板を叩く力もなくなって、アメリアはディランのシャツを両手でぎゅっと掴み、そこに顔を埋めながら小さな嗚咽をこぼした。アメリアの白い肩は小刻みに震えていて、まるで世界の理不尽を一身に浴びた幼子のようだ。
「……つまり、ここを出るつもりはないんだね?」耳元に囁く声は優しい。ディランは知らず知らずのうちに庇護欲を煽られ、アメリアを抱きしめながら普段よりも穏やかな調子で質問した。この筋肉質な腕に優しく閉じ込められていると落ち着きが舞い戻ってくるような気がした。アメリアは腕の中で何度も首を縦に振った。
「わかったわかった。さぁ、ダーリン、だから落ち着いて。無理に連れ出したりなんてしないとも」
 心地よい低音が耳に響く。ディランの腕の中は暖かくてどこよりも安心感があった。この屈強な腕に抱かれていれば何も怖くないと思える。アメリアはディランの胸に顔を押しつけてその力強い鼓動に耳を澄ませた。
 いつの間にか扉は閉じられて、部屋は再び仄暗い闇に包まれた。
「それにしても随分冷えてるな。こんな布切れでもないよりはいいだろう」ディランは上着を一枚脱ぐとアメリアの肩にそっとかけた。肩に感じる重みは心地よくて、ほのかに温かい。体中にじんわりと熱が広がるのが心地よくて、アメリアは温もりを求めるようにそっとえりに首を寄せた。「さ、こっちに座ろう。おいで」
 布張りソファーは柔らかく、疲れ切った体は沈み込んで全身の筋肉が緩んだ。ディランはその隣に腰を下ろし、端の方で肩を丸めるアメリアを見るなりからかいの表情を浮かべた。
「わざわざそんな端に座る必要もないだろう。いつから純情な乙女になったんだ? まさかわたしを嫌いになったわけじゃないだろう」
「……でも、きっとわたしたち仲良くしちゃいけないのよ」アメリアの言葉は小さく震え、存分に暗い声色だったが返ってきた返答は実にあっけらかんとしたものだった。
「何を今更」
 片腕をウエストに回され、軽々と体を抱き寄せられるとアメリアは戸惑って視線をあっちこっちに動かした。普段ならばこんなこと微塵も考えないが、母にこっぴどく叱られた後だというのもあって、どうにも天に顔向けできないような気がした。それに、そういう後ろめたさがあるせいでアメリアは自身の腕のやり場にさえ困る始末。ディランは落ち着きなく腕の位置を探るアメリアが面白いようで、喉を鳴らしながら的確な助言を授けた。
「腕を絡めたら?」
「そんなことできないわ」
「どうして?」
「だって、怒られるもの」
「一体誰に?」
「誰にって、全員によ」
 アメリアは半狂乱で答えながらムッとした。一体どうしてこんなわかりきったことを質問してくるわけ? 第一、今回の出来事も――いえ、ここのところの問題は全部ディランの責任だわ。わざわざこの人がわたしに関わろうとしなければ問題なんて起こりようもないのに。
「君にとって男の腕なんてただの腕置きだろう。それか暖を取るための道具か――」アメリアは、ディランのとんでもない言い分にぎょっとして反射的に否定した。
「そんなこと思ってないわ」
「それなら君は乙女みたいに男の腕なんかを信仰してるっていうのかい? それはお笑いだね。取り繕わずとも、いろいろな男をとっかえひっかえして日ごとに違う腕に抱かれているのを見れば、君がたいしたこだわりを持っていないことは明白だ。実際、その腕がそれなりに優しくて素敵なエスコートの一つでもできる気遣いがあれば、その腕が誰から生えているかなんて君にとっては心底どうでもいいのではありませんか?」
 ディランの言葉はとんでもなかったが、たしかに思い当たる節はある。しかし認めるのも癪でアメリアはそっぽを向きながら返した。
「そんなこと……、そんなことないわ。つまりあなたはわたしがだれかれ構わず愛を振りまいているとおっしゃりたいのね?」
「実際その通りだとお見受けしましたけど」ディランが眉を意地悪く上げながら返すと、アメリアはムッとした。「そうだとしてもあなたに糾弾されるいわれはないわ」
 アメリアの言葉にディランは肩を揺らして笑った。
「糾弾? そんなこと誰がするものか」目をパチパチさせるアメリアにディランは目を細めて続けた。「別にわたしは断罪するつもりはないんでね。そんなもの神にでも任せておけば良いのさ。わたしが言いたいのは、つまり……君にとって男なんていうのはその辺の石や草と何ら変わらないっていうのに、それを理解できない連中の言葉を真に受けるだなんておかしな話だってことさ。君のいう〝全員〟だって、女性がどの切り株に腰掛けただとか、どこの幹にもたれただとかをわざわざ気にする人はいないだろう? なぜならそれはちょっとした道具の一つに過ぎないし、その女性だって何の気もなしにやっていると分かりきっているからだ。それと同じことだろう:君はわたしをこれっぽっちも大切に思っていないのに、一体どうして連中のお怒りを真に受ける必要があるっていうんだ。適当に聞き流すのはお手のものじゃなかったのか?」そこでディランは一旦言葉を切って聞き捨てならない台詞を吐いた。「――それとも、わたしに何か特別な感情を抱いているのなら話は別だが――」その言葉にアメリアは心臓を鷲掴みにされたような気持ちになり思わず口を挟んだ。なぜだか心は動揺していて、喉から発された言葉は早口だった。
「つ、つまり、あなたはとにかくいろいろ言葉を尽くしてわたしを助けたくてたまらないってことね。そういうことでしょ? とにかくわたしに同情して……助けてくれようとしてる」
「きっと知らないだろうけど、傷ついている君はかなりチャーミングだ」思わぬ言葉にアメリアはますます戸惑い、ただ、どうすれば良いのか分からなくてディランの瞳を覗き返し適当な言葉を探した。「それで、都合のいい腕置きを利用する気になりました?」
「ああ、えっと、そうね……まぁ、そこまでいうのなら使ってあげてもいいわ」正直に言うのなら先ほどの会話なんて何も頭に残っていなかったが、アメリアは形だけそう言ってから腕を絡めた。やはりというべきか、この姿勢が一番しっくりくるように思えて、さっきまでの後ろめたい気持ちなんていうものはすぐにどこかへ霧散してしまった。それから、絡めた腕の太さと逞(たくま)しさに一瞬だけ酩酊して、理性が強くありますようにと神に願った。
「大体、形だけの反省ほど無意味なものはないだろう。もちろん人の婚約者にちょっかいをかけるのが言語道断だというのは言うまでもないこととして」ディランが何か口にしていたが、アメリアディランの腕の感覚を堪能するのに精一杯で、そんな言葉はまるで耳に入らなかった。
 ディランの腕は木の幹のように一本の芯が通っていて少し押したくらいではびくともしない。アメリアはディランの肩に頭を預けながらちょっとした思考を巡らせた。「一体どうしてこの人はこれほど強壮で力強いんだろう? まるで苦難なんてまるで何もないみたい。世の中の男性がみんなこれほど余裕があって、安心して身を任せることのできる人ばかりじゃないとはわかっているけど――でも、みんなこうだったらと思わずにはいられないわ。本当に素敵な人だもの」その思考は実に滑らかに、自然と心の内に浮かび上がった言葉だったけれど、理性ではまるで受け入れられなかった。アメリアはハッと顔をあげて、思わず驚愕の声を上げかけた。「わたし、今この人のことを素敵な人だって思ったの? 冗談でしょ? 何かの間違いよ。だって、少し前まではこんなこと思ってもみなかったのに」それから改めてディランの行動を思い返してみた。しかし何度考え直そうと、結論は変わることなく、それどころか証拠となりそうな言動がいくつか脳裏に思い出されるばかりだ。その事実が更にアメリアを驚愕させた。
 衝撃的な事実に打ちのめされながら、アメリアは少しぎこちなくディランに問いかけた。
「一体どうしてこんなによくしてくれるの?」
「一体どうしてって? なぜならわたしは君にこれっぽっちも腹を立ててないし、そもそも諍(いさか)いを止めなかったのはわたしの不手際だ。介抱するのも当然の義務だろう。本当に悪いことをした……傷が残らなければいいんだが」
「わたしのこと、怒ってないの?」
「まさか! それどころか君の行動には拍手を送りたいくらいの気持ちさ。君はよくやったよ。いや、むしろやりすぎたくらいだ。まさか、花瓶で殴るとはね――少しでも理性が残っていたのなら、次からは投げつけるくらいに留めておくことだ」
 アメリアは驚いて目をパチパチとさせた。長いまつげの上には露(つゆ)のような涙が丸まっている。きょとんとして首を傾げるアメリアに、ディランは柔らかく笑ってから詩を引用した。それはどこかで聞き覚えのあるフレーズだった。
「あの王子の胸は崇高な大望にふくらみ、いかなる結果が待ち受けるかは眼中になく、はかない頼りない命を運命にさらし、死と危険に産前と挑戦する。それもただ卵の殻ほどの問題のために。真の偉大さとはなにか。たいした理由もないのに軽挙盲動することではなく、名誉が関わるとあらば、たとえ藁しべ一本のためにも死を賭して闘う理由を見出すことこそ偉大なのだ〔シェイクスピア『ハムレット』第四幕第一場〕――まったくもってその通りだろう。この世に名誉よりも重いものなんて存在しないのさ。侮辱を前には戦うしかない。そういう意味では君はかなり偉大だろうね。名誉が傷つけられるとあらば考えるよりも先に体が動くたちだ。そういう性質の持ち主はなかなかいないし、わたしはそういうところをかなり好ましく思っている」
「わたしのしでかしたことを認めてくれるっていうの? 仮にも婚約者を傷つけたのよ?」
「それがなんだっていうんだ。君はよくやったさ。ただ一つ怖いのは、君の婚約者がわたしを訴えることだな。愛しのダーリンが傷つけられたからって血眼になっていないといいんだが」
 そんなこと天地がひっくり返ってもあり得なくて、アメリアは顔に小さく笑みを浮かべた。
「心配無用って感じね。ねぇ、ところでそれって誰の詩? どこかで聞いたことがあるけど思い出せないわ」
「全く本当に無知だな。一体どうやってその年まで教養を避け続けたのか気になってきたよ。シェイクスピアの『ハムレット』だ。名前くらいは聞いたことがあるだろう」
 アメリアは記憶をたどり、遠い昔にジョージアナがそれを読んで号泣していたのを思い出した。あまりにもジョージアナが薦めるものだから、アメリアも仕方なく手に取ったが、最初の数行で嫌気がさしたのを覚えている。
 どうやらその苦い記憶が知らず知らずのうちに顔に出ていたようで、ディランは肩で笑った。
「あまりいい思い出がないって顔だな。ただその気持ちは痛いほどに共感できる。わたしは昔から詐欺師だろうが皇太子だろうが何者にだってなれると思ってきたが、神父と詩人にだけはなれる気がしないんだ」
「あら、どうして?」
「神なんて嫌いだし、詩はまどろっこしくて嫌になる。だってそうだろう? どれほど肌の感触を想像したとて、実際に触れるものには敵わない。ましてやラブレターなんて愚の骨頂だ。そんなもので時間を潰すよりも直接手に触れて、唇を奪う方がよっぽどてっとり早い」それに関してはアメリアも反論の余地もないほど完璧に同意だった。ディランはアメリアのまつげについた涙を拭ってから小さく笑った。
「それでわたしの唇も狙ってらっしゃるのね」
「さぁどうかな。それにしたって、泣いている君はいつも以上に魅力的でつい甘やかしたくなるな。これほど敗北の似合うお嬢さんも他にいないだろう」
「褒め言葉として受け取っておくわ――それも、とっても下手な褒め言葉としてね。普通は泣いてるところを褒めたりしないのよ、今だってわたしきっと酷い顔をしてるわ。だから泣くのって大嫌い、目は腫れるし真っ赤に充血するし――ちょっと、やだ、覗き込まないでよ。次やったら向こうにいくからね。わたしは本気よ」
「冷静になったようでなによりだ。さっきのパニックは流石に肝が冷えた。もっとも、君を疎ましく思う淑女たちが知ったらさぞ溜飲がさがるだろうけどね」
 体が温まり、徐々に思考が落ち着きを取り戻していくにつれて、アメリアの心の中では後悔と気恥ずかしさが着実に大きくなっていた。アメリア・スレイターにとって自分の心の内を打ち明けるなんていうのは恥以外の何者でもない。それも、家族以外の人間、ましてや男性に真実を打ち明けるだなんてとんでもない話だった。
アメリアにとって男というものは自分の飽くなき遊び相手に過ぎないのだ。いつもその気にさせるのは自分の意思だし、別れるのも自分の意志一つだ。紳士たちは全て自分で決めているようなつもりになっているが、その実アメリアの全てアメリアの手の平の上。それはいつもそうだし、これからもそうでなくてはならない。そんな相手に辛い心の内を、言い換えるのなら弱味を見せるなんて想像するだけで恐ろしい話だ。ただの一度でも弱味を見せれば、きっと紳士たちはつけあがって横暴な振る舞いをするだろう(そう、これは経験則だが自分が特別なのだと勘違いさせるとろくなことにならない!)し、もしかしたら面倒になって自分から離れていくかもしれない。そんなのナンセンスにもほどがある。アメリア・スレイターという女はいつだって勝ち気で誇り高くて、心配事なんてこれっぽっちもありません。みたいな顔をしていないといけないのだ。何よりみんなそれを望んでいたし、そうしないと今まで築き上げてきた諸々は一気に崩れ去って凡庸な女の退屈な人生を歩む羽目になる。そんなの死んでもごめんだ!
 そう思うと先ほどの失態が取り返しのつかないことのような気がしてアメリアは顔を真っ赤にしながら唇を噛みしめた。「パニックだったとはいえ、わたしが弱音を吐くなんて……それも、よりによってこの人に! 一体どうして神さまっていうのはこういうろくでもない采配をするのかしら? もしこのことを言い触らされたらわたし、恥ずかしくて死んでやるわ……ええ、死んでやりますとも。そんな不名誉を被るくらいなら、命なんて惜しくないわ」それからアメリアはディランのことをキッと睨んだ。
「いっておくけど、別にあなただから打ち明けた訳じゃないわ。ただパニックだったし、あの場に居合わせたのならわたしはその辺の浮浪者にだって同じことを語ったわ。もしあなたがこのことを面白おかしく言いふらすようなら……」
「ご安心を、たいした言葉にもなっていませんでしたから。わたしが理解できたのは何か君を縛り付ける忌まわしい言葉があって、とにかく外に出たくないってことだけだ。それに、何も言いふらしたりしない」
 その言葉は何の根拠もなかったが、アメリアを安心させるには十分だった。この人がそういうのならきっとそうなのだろう。ならば何も心配する必要はないとすら思える。「なんだか、こんなに心を許すなんて変な感じ。きっと見られたくないところを散々見られてきたせいね。そのせいで、なんだかこの人は家族よりも身近に感じる」
 アメリアはすっかり安心しきってディランの肩に顔を寄せた。いつの間にか窓に打ちつける雨は更に勢いを増していて、雷鳴は鳴り止むところを知らない。窓枠は強風にガタガタと打ち震えている。それに伴い、部屋の温度はますます下がっていた。
「さて、アメリア。そろそろ君を縛る呪いが解けている頃だと良いんだが……まだこの部屋から抜け出すつもりにはならないかい?」
「でも……」たしかに体はすっかり冷え切って、今すぐにでも火に当たりたくて仕方がなかった。だからといって母の言いつけを無視することになるのがどうしても心をざわつかせた。母の氷のように冷たい言葉を思い出すと足はすくみ、思うように体が動かせなくなる。ディランはそんなアメリアをみて挑発的に目を細めた。
「そのときはわたしが守ってあげるさ。それとも歩けないってことにしてわたしに抱きかかえられようって算段かい?」
「なっ! あなたね――!」苛立ちに任せれば体はあっという間にソファーから離れた。ひとたび動いてしまえば、たいした労力もなく体が動かせるのが甚だ不思議だった。それまでは絶対に動かせないと思っていたのに。「ただの腕置きが生意気よ。ご心配せずとも一人で歩けます」
「そういわずに。腕置きとしては失格でもエスコートくらいはできるつもりですよ」
 ディランは魅惑的に微笑むとアメリアにその手を差し出した。アメリアはしばらくその手を見つめて悩み、最終的にはその手を取った。何しろ本当に体は冷え切っていて、少しの温もりも惜しいくらいだったのだ。その手に触れれば温かい生命力が一瞬にして冷え切った全身に広がった。アメリアは手を引かれながら、ディランの横顔をちらりと覗き、その好ましい顔立ちに何だか勝手に気恥ずかしくなって、フロックコートの襟に横顔を擦りつけた。肩に掛けた上着は甘い匂いを返した。

第十三章 一話

 二人は身を隠す場所として書斎を選んだ。理由は単純で書斎ならばいつでも暖炉に火が入っていたし、使用人もめったなことでは寄りつこうとしないからだ。
 書斎では暖炉の火がパチパチと小気味のいい音を立てながら燃えていた。アメリアは暖炉の側に腰を下ろし、それに手をかざして冷えきった体を温めた。返せと言われないのを良いことに、ディランの上着はまだ肩に羽織ったままだ。時折これが自分の匂いだと言わんばかりに心地よい匂いが主張する。その度にアメリアはまるで自分が強く抱きしめられているような気がして、暖炉の熱のためだけではなく顔がほんのりと赤らんだ。
 揺らめく炎に照らされ、上着は艷やかな光沢を反射している。アメリアは暖炉の側に置かれた安楽椅子に腰かけ、至るところに施された繊細な刺繍の凹凸をなぞりながらかすかに聞こえる雨の音に耳を澄ました。屋敷の北面に面している図書室では、南から打ちつける途方もない雨音は随分小さく聞こえた。その代わりに耳にはディランの足音だけが鮮明に届いて、まるでこの世界に二人っきりみたいだ。
「随分色々な本が置いてあるんだな。一体誰の趣味だい?」
「お祖父さまの趣味よ。ほら、そこの肖像画に描かれてるいかめしいお爺さん」と言いながらアメリアは壁に掛けられた肖像画を指さした。金の額縁には角張った輪郭に白く長い髭を生やした厳格そうな祖父が描かれている。その隣ではどことなくエレンに似た雰囲気の女性が柔らかく微笑んでいた。
「ということは隣の女性は君のお祖母さまか」
「ええそうよ。どっちも厳しい人でわたしは怒られてばっかりだったけど……ジョージアナはかなり懐いていたわ。ジョージアナが本の虫なのはきっとお祖父さまの影響に違いないわね」
 ディランはアメリアのことをじっと見つめて小さく笑った。「君はどっちにも似てなさそうだ」
「わたしはひい祖母さまに似てるのよ。お話でしか聞いたことないけど、なんだかすごく奔放な人だったらしいの。表にも裏にも恋人が山のようにいて、一応はひい祖父さまと結婚していたけど、きっとそれほど好きでもなかったんでしょうね。ある日ふらりと海に出かけてそのまま溺れて亡くなったの」
「それは……痛ましい事故だな」
「事故? とんでもないわ! きっと対岸に本当に愛しい人の姿でも見たのよ。そうでなくとも、何十回もその人を空目して馬車に突っ込むような人だったらしいし、そこで沈んでなくとも時間の問題に決まってるわ」
 アメリアはそう断言してみせたが、反論は思わぬ方向から飛んできた。
「いくら古い話だからって幼稚な妄想で事実を捻じ曲げるのはいかがなものかと思うわ、お姉さま」ジョージアナの声が聞こえるとアメリアはびっくりして肩をびくつかせた。「ひい祖母さまは足を滑らせて海に転落しただけって証言があがってるのよ。大体どれほど天気がよくったってドーバーからフランスの、それも砂粒みたいな人間なんて見えるわけないじゃない」
「盗み聞きなんて、お行儀が悪いんじゃない?」
「まさかここにいるとは思わなかったもの。どうしてここにいるの? それにディラン・エドワーズさまとご一緒しているってどういう了見? お母さまに見つかったら叱られるどころじゃすまないわよ。勘当されてもおかしくないわ。冗談じゃなくね」とんでもないことをいいながらジョージアナは手にした本を本棚に戻し、それからじろりとディランのことを観察した。
 実をいえばジョージアナはのっぴきならない理由からこの男を捜しまわっていたのだ。けれどその瞳にはいつもの癖で、男性に対する敵対心が浮かんでいた。今にでも噛みついて、こてんぱんに打ちのめしてやりたいのをどうにか理性で押さえつけているみたいな状態だ。牛の反(はん)芻(すう)みたいに口をモゴモゴと動かして言葉を飲み込もうとしているようだったけれど、結局我慢できなかったようで、しばらくの逡巡の後、ジョージアナは「もちろん、あなたのような人には言うまでもないと思いますけど、そんな話まるで科学的じゃありません」と嫌味を含めて付け足した。
「そうですか? たしかに論理的にはその通りでしょうけど、あながちありそうな話だと思いましたがね。そうでなくとも、わたしは女性の言葉は黙って信じることにしているので。女性の繊細さを思えば、狂言のような話が湧き出てくるのも仕方ないかと」
「お言葉ですが、わたしはそんなこと今まで一度も経験したことはありません」
 ジョージアナはそういった人種と自分を一緒くたにされたような気がして唇をへの字に曲げた。ディランはそんなことまるで気にしていないようで、ジョージアナの睨むような視線にも肩をすくめただけだ。
「この負けん気は確実に家系だね」その瞳には何やら楽しそうな色が浮かんでいる。
「あなたも物好きね。変にからかうと痛い目にあうわよ。ジョージアナにとっては男性ってだけで父を殺した憎き相手らしいから。それが素敵な人なら尚更」
 アメリアのありがたい忠告にも耳を貸さず、ディランはジョージアナに視線を戻すと、その細い腕に大切そうに抱えられた本たちに視線を送った。
「それは?」
「古い本です。ラテン語の。お読みになります?」
 わざわざラテン語という言葉を強調したのはジョージアナの知る無能な割に度々しゃしゃり出てくる男たちはこの言葉に滅法弱いからだ。年がら年中遊び呆けて学問なんて何も知らない無教養な男たちは、もちろんラテン語なんてからっきしだった。もしかすると聖書に出てくるような簡単な単語すら頭にないかもしれない。そんな相手に対して、ジョージアナが嫌味っぽく聖書の朗読を始めたりすると、男たちは悪魔が十字架を突きつけられたみたいにすごすごと退散するしかなくなるのが常だった。そもそもラテン語なんて学者でもなければお目にかかる機会もないものだし、仕方ないといえばもちろんなのだが。
 しかし、ディランはその挑発をものともせずに、本を受け取るとそれをぱらぱらとめくった。かすれた印刷の間にはジョージアナの手書きのメモがびっしりと刻まれている。
「医学書? それもかなり熱心に読まれているみたいだ」
 ジョージアナは相手がその内容をあっさりと言い当てたことに驚いて目をむいた。
「……ラテン語がお分かりになるんですか?」
「ええ、まぁ」ジョージアは暖炉の側でくすくすと笑いをこぼす姉を睨みつけた。「きっとお姉さまは知っていたに違いないわ。知らなかったにしても、予想はついていたに違いない! 一言教えてくれればこんな恥かかなくてすんだのに!」ジョージアナはわかりやすい当てこすりを恥じて唇を噛んだ。
「……学者を志していたんですか?」
「まさか。そういう性質じゃないんでね。厳しい我が家にうんざりしてオックスフォードに逃げ込んだだけですよ。学びといえば女の――いえ、人付き合いくらいのものですかね?」ジョージアナには気をつかった言葉づかいをするのに、自分にはあけすけな言葉を選ぶのが気にいらず、アメリアはむっとして頬を膨らませた。言いよどんだ言葉の先に何が続くのかは想像もしたくもないが、きっと二人っきりのときに問いただせば涼しい顔で、こちらの顔から火が出そうになるのもおかまいなしに一から十まで説明してくれるに違いない。でも、ご遠慮願いたいわね。
「それにしたって、どうしてこんな古い本を? あまり淑女の好みそうな話題じゃないだろう」
「でもジョージアナはこういうのが大好物なのよ。この間だって舞踏会にとんでもない本を持ち込んだんだから。えっと、なんだったかしら。たしか解剖学の本で……ええっと、アルフレッド・ウィリアムとかいうご光名な人が著者の……」
 ディランは目を見開いた。
「アルフレッド? まさか君の口からそんな懐かしい名前を聞くとはな。そのご光名な医者とは古くからの友人なんだよ」
 ジョージアナはその言葉を聞くと驚いたような、いよいよ覚悟を決めたような顔をした。どうやらその脳内ではアメリアにはほとんど備わっていない脳細胞が活発に活動しているらしい。唇の端を下げながら眉をしかめる表情は肖像画の祖父に瓜二つだ。
 しばらくしてジョージアナが決心を固めて口を開いたそのとき、廊下の向こうで使用人たちの行き交う声が聞こえ、アメリアの小さな心臓は緊張で信じられないほど大きく脈打った。呼吸でもしようものならあの部屋を抜け出したのがバレてしまうような気がして自然と息が止まる。
 静かな部屋に廊下の会話はよく響いた。
「アンナさまのお加減は?」
「ついさっき目を覚まされたわ」
「それにしても、アメリアさまもひどいことをなさるものね。躊躇なく頭に一発ですって!」
「まぁ、ねぇ。でももともと仲は悪かったわけだし」
「でもそれにしたってやりすぎだわ。アンナさまもお可哀想に。わざわざ招待されてきたっていうのに。これほど酷い話はないわよ」
「アメリアさまの横暴も日に日に酷くなるばかりねぇ、きっといつか天罰が下るわ。本人だけならいざ知らず、それがこのお屋敷に飛び火するようなことにならなければいいけど」
 次の瞬間、いつものようにオルコットの張り上げた声がして使用人たちは慌てて走って行った。その足音が小さくなるとアメリアはようやく呼吸を取り戻して、ホッと息をついた。
「そろそろ帰った方が良さそうだな。アンナの方が一段落したら君の腕も診てもらおう――まぁあんな医者でもいないよりはマシだ」
 その言葉に、ジョージアナは弾かれたみたいに顔をあげた。ダークオークの瞳は不安と決意で揺れている。それから震える足を一歩踏み出し、今日一番のはっきりした声色で紳士の名前を呼んだ。それはさながら代表者が宣誓のために一歩踏み出すみたいだった。
「ディラン・エドワーズさま、この機会にどうしてもお願いしたいことがあるんです。まだ知り合って間もないのに、本当に不躾なお願いだとは思うのですが」
「わたしにできることならなんだって」その言葉は呑気で、まるで他人事のような響きだった。口調は間延びしていかにも興味がないのがわかる。しかしそんなことジョージアナの瞳にはまるで届いていないらしく、それどころか今にもすがりつきそうな勢いだった。
「どうかお願いします、他に頼れる人もいないんです。あの、その前にひとつ伺いたいのですが……ダーシー医師についてどう思いますか?」
 アメリアはその言葉の真意を掴みかねて首を傾げた。一体ダーシー医師が何だというのだろう。ディランは相変わらず退屈そうに、そしてはっきりと言葉を返した。
「金儲けが得意そうな男ですね。もっとはっきりというならヤブ医者の部類だ」
「わたしもそう思うんです。それで……母はここのところひっきりなしに咳をしたり風邪をひいたりしていているんです。それに、この間は喀血まで……ダーシー医師は休んでいれば治るというんですけど……」
「まぁ、ロンドンの有名な医者にでも診てもらった方がいいでしょうね」
「ですが、その。本当に言いにくいのですが、うちにはそんなお金はないんです」
「それはそれは」ディランはつまらなそうに告げた。ジョージアナは段々緊張してきて生唾を飲んだ。
「その、それで、アルフレッド・ウィリアムさまとお知り合いなんですよね? ご光名なお医者さまの――」
 なんだかようやく事態が飲み込めてきて、アメリアは観客として二人のやりとりを見つめながら物知り顔をしてみた。「随分大胆な作戦だこと! つまりジョージアナはダーシー医師よりも頼りになりそうな医者を呼んでもらおうっていうのね」アメリアは妹の下手で不器用な誘惑を鑑賞しながら両足を空中でぱたぱたと動かした。妹の慣れない誘惑はもどかしくて、そうでもしていないと今に余計な口を挟んでしまいそうだった。
 今だってジョージアナは少し卑屈なくらいにへりくだって現状を説明しているが、あまりディランの心には響いていないようだ。それどころかどこか不機嫌にも見える。アメリアはその心の変化を機敏に感じとり、早々にその原因に当たりをつけた。恐らくディランは本来以上に平身低頭して自分の都合のいいように事を運ぼうとする魂胆が気にさわるのだろう。
 妹の頑張りを眺めながら、アメリアは自分ならどうやってその逞(たくま)しい腕にすがりつき、適当なデタラメを並べたてて(もちろん、きっとすぐに見抜かれるだろうけど)同情をひこうかと思考を巡らせた。――でも、この人ならはっきりと頼み込んだ方が早そうね。
 腕にすがりついて涙を浮かべるのは馬鹿な男に対しては極めて効果的だが、きっとこちらの策略を全て理解しているような人からすればかなり滑稽に映るだろう。ちょうど今、アメリアが冷めた気持ちでこの茶番を見つめているのと同じように。
「……それで……その。本当に不躾なお願いだと思うのですがどうかその人を紹介して頂けませんか? あの悪魔みたいなダーシー医師に母が殺されるのをおめおめと見ているなんてわたしにはできません」
 その言葉にディランはハッと息を吐くように笑って、暴君のような顔つきになった。この人もこういう顔をするのね。
「嘆願ならばお断りですね」粗雑にきっぱりと宣言する声色には何世紀も前から同じ言葉を何万回と耳にしてきたみたいな倦怠感が見てとれる。「それから同情をひこうとするのも。世の中には自分の環境をわざわざ劣悪にみせて金銭やら愛情やらをむしり取ろうとする盗人根性猛々しい方がわんさか溢れていますから。その上、自分でどうにかする気は毛ほどもないらしい。一体そんな連中にわたしが施しを与える必要がどこにあります?」
 顔を真っ赤にするジョージアナの代わりにアメリアはディランを睨みつけた。
「それは流石に言い過ぎってものだわ。ジョージアナをそんな下衆と一緒にしないで」
「何が違うって? せいぜい肌の色か、身分か、お高くとまった口調くらいのものだろう。その性質は君も嫌いな連中と大差ないはずだ。いくら金が有り余っているからって、そういう腐りきった連中に払う金は一ポンドだって持ち合わせがない」ディランの瞳には憎しみすら浮かんでいた。それからディランは口元に薄く笑みを浮かべてジョージアナに向き直った。「申し訳ありませんがわたしは力にはなれませんね。あの自堕落な医者が改心して、スレイター夫人の病状が回復できるように祈っていますよ」
「待ってください。でしたら、商談は?」ジョージアナのダークオーク色の瞳は小さく揺れていた。しかしその態度ときたら、とても十三の小娘には見えない。さっきまでの様子が嘘みたいに落ち着きはらって、身体はリラックスしてあるべき場所にしっかりと収まっている。その姿はまるでスレイターの家系に生まれついた者なら誰でも持ち合わせている意志の強さを全身で体現しているかのようだ。
「もちろん、ただでというつもりはないんです。わたしの言葉がそう聞こえたのなら謝ります。手を貸していただけるのなら……わたしに……わたしにできることなら何だってします」
「それで、何ができるんですか?」
 ディランは意地悪くジョージアナの身体のラインを見上げた。まだ女性らしい膨らみも丸みもない幼い身体はコルセットをきつく締めて詰め物をすることによって無理やりそれらしい形に仕立てあげていた。バストのあるかなきかの膨らみは少し腕が擦れるだけで激痛が走るし、全体的に痩せ型で魅力的な体型には程遠い。修道女のように露出が少なく、飾り気もないドレスは今の今までは鉄壁の防御を誇っていたはずなのに、その視線の前にはたいした効力を発揮しなかった。視線が注がれる度に一枚ずつドレスを剥ぎ取られ、シュミーズの内側まで見透かされているような気持ちになり気分が悪くなった。だけど、必要な犠牲というのなら……!
「命じられるのなら、この身体だって……」
 カタカタと震えて今にでも気絶しそうなほど青白い顔をする妹を横目で見て、アメリアは心の内で呆れて小さくため息をついた。
「ジョージアナって自分が誰よりも頭が良くて賢い選択ができると信じて疑わないみたいだけど、交渉術に関してはわたしの方がよっぽど上手ね。こういうのは事実を突きつければうまくいくって話でもないんだし。それに、それとなく決定権は握ってなきゃ今にでもとんでもないことを要求されるに決まってるじゃない?」
ジョージアナはうつむき、顔を真っ赤にして、今にでも悔し涙を流しそうだった。もちろん、駆け引きの苦手な妹が辱めを受けるようなことはアメリアも望んでいない。決心を打ち砕かれて今にも泣き出しそうな妹の姿は先ほどのわかりやすい低頭よりもよっぽど人の心を揺さぶるものがあった。それに、もともとこういう駆け引きはアメリアの専売特許だ。アメリアだって決して弁が立つわけではないけれど、交渉で――特に男性相手の――敗北したことはない。なぜだか知らないけれど、どれほど弁が立つと噂される人でも相手がアメリアというだけで毒気を抜かれてしまうものだった。
「ジョージアナの態度が頭にくるのもわかるけど、あの子の体なんてもらったって困るだけでしょ。そんなの意地悪だわ。そもそも、この取引はジョージアナが何を差しだすまでもなくあなたにだって利益があるでしょう?」――それから、わたしにはもっとね。
「たとえば?」
「だって、そのお友だちを紹介すればスレイター家はあなたにとんでもない借りができるようになるわけだし、その恩でうち脅して思う存分いいようにできるじゃない」
 アメリアのとんでもない言葉にジョージアナは面食らって口をぱくぱくさせた。
「この何も目ぼしいものもない家を脅して何の得があるんだ。金鉱でも埋まってるなら話は別だが――」アメリアはきょとんとしてさも当然のことみたいに答えた。
「どうして? 金脈はないけど、わたしがいるじゃない」
 それを聞くとディランはむせるほど激しく笑ってその目には涙が浮かべた。アメリアはどうしてこんなに笑われているのかわからなくて首を傾げながらその姿を見つめていた。
「たいした自信家――いや、自惚れ屋だな! 君は!」ディランはこれ以上面白いことはないとばかりに頭に手を当てて笑い転げている。思考の止まっていたジョージアナはハッとしてアメリアを見た。
「アメリアったら……なんてことをいうの!?」
「だって事実でしょ? どうして窮地から救ってあげたのに噛みついてくるわけ?」
「だからって、この人に我が家を好き勝手されることを許すなんてどうなるか――」と言ってみたものの、ジョージアナの優れた脳を持ってしてもどうなるのかは想像もつかなかった。しかし、この得体の知れない人物がきっとこの穏やかで淑女然とした我が家に嵐を巻き起こすことだけは明確に想像できた。ジョージアナは今もなお肩を大きく揺らして笑っている男を覗きみてゾッとするような気がした。
 ディランはようやく呼吸を落ち着けてアメリアのことをじっと見据えた。
「そういうことなら、いいでしょう。いや、是非にというべきなのかな。自惚れ屋のお嬢さんいわく、わたしは君を求めてやまないらしいし――しかもまた外れてると言い難いところも難点だ。そうだな。そういうことなら医者の紹介だけでなく、治療費も全額わたしがお支払いしましょう」
「そ、そんな! 何もそこまでして頂く必要はありません!」ジョージアナは目を白黒させて今にも気絶しそうだった。「そんなことさせたら、いよいよ何を要求されるかわかったものじゃない! わたしだけならば良かったけれど、家族まで巻き込まれるとなると話はまったく変わってくるわ!」
 ジョージアナの胸中なんてお構いなしにディランははっきりと言った。
「いいや、治療費も受け取ってもらおう。そこのお嬢さんによればそっちの方が実が多そうだ。……もっとも、どれほど金を積もうと完治の約束はできませんがね。あれは見たところ結核でしょう? 他の病気ならいざしらず、あれはたちが悪い。ですが世の中には寝込んだり元気になったりを繰り返しながら数十年も生きるご婦人も沢山いますから、スレイター夫人がそういう性質の方だと祈っておきましょう」
 その後もジョージアナはその必要はないと説得を繰り返したが一向に埒はあかず、この話し合いはジョージアナがしぶしぶ首を縦に振る結末で終結した。ジョージアナは静かな我が家にもたらされるであろう嵐を予感して、しきりにディランの瞳を恐るおそる覗き込み、どうしてもその黒い瞳が不吉の予兆に見えて暗い顔をした。一方でアメリアはお気楽そのもので、事の顛末にご機嫌で流行りの歌まで口ずさんでみせた。これで母の問題は一件落着だったし、何よりこれからしばらくは退屈な思いをしないで済みそうなのだから。
 アメリアが婚約を発表してからというものリック・アボットにまつわるうんざりする話は脂汚れみたいにしつこく全身に付きまとってきたし、そのせいで紳士の来訪もすっかり少なくなっていたところなのだ。たとえ家族がなんと言おうと、家族全員が愛するエレンの命の恩人ともなれば誰が追い返すことなんてできようか? きっと二人を近づけてはいけないとは思いつつもそんなことできる人間なんて居やしない。それに、アメリアには女特有の奇妙な直感めいた確信があった。「きっとこの人は確実に何度もわたしに会いにくるわ――それって本当に素敵! たしかに腹が立つところもあるけど、それ以上に楽しいし気があうのは確かだもの! それこそ今まで出会った誰よりも――しかもそれを誰も邪魔できないっていうんだから、これ以上はないわ」
 それからディランとアメリアは二人であの恐ろしい部屋に戻った。二人が去るときになっても、ジョージアナは痛ましいほど神妙な面持ちをしながら椅子から立とうとはしなかった。それどころか、視線を向ける力もないという様子で体を凍らせながらどこか遠くを見つめ、独り言のように挨拶を返しただけだった。
 二人が部屋に戻る最中にもディランは思い出したみたいに小さく笑っていてなんだかアメリアもつられて楽しくなった。窓の外では一年に一度あるかないかのひどい雨が今もなお降り続けている。空はずっとゴロゴロと音を立てていて、ついには近くのモミの木に雷が落ちて心臓が飛び出すほどの大きな音が屋敷中にこだました。耳にその轟音が残っているうちから、アメリアはますます気分を上向きにして小さく笑うのが抑えられなかった。
「ひどい雨だわ。きっと今日は誰も帰れないわね。もちろんあなたも泊まっていくでしょう?」
「もちろん」
 その返事にアメリアは満足げに微笑んだ。
「それなら太陽なんて一生拝めなくていいわ」
 幸いなことに、まだ迎えは来ていないようで部屋の中はこのちょっとしたお出かけの前と何も変わっていなかった。それからアメリアは肩にかかった上着の存在を思い出してディランに返そうとしたのだが、寒いだろうと言われて押し切られてしまった。事実この部屋はとても寒かったのでそれ以上は何も言わず、アメリアはありがたく好意に甘えることにした。
 とはいえディランと会っていたことは家族には確実に黙っておいたほうがいいだろう。少なくとも、ディランが母の命の恩人となり免罪符を手に入れるまでは堂々と関わるのは危険だ。ましてや二人きりでの密会が知れたらどうなるかなんて火をみるより明らかだった。なぜだか人間というのは年頃の男と女が二人でいるってだけでいろいろな妄想に花が咲くらしい。しかもそれが美男美女、その上男の方はとんでもない大金持ちともなれば瞬く間にイギリス全土に噂が広がることは明白だった。
 アメリアは迎えを待ちながら上質なフロックコートの刺繍をなぞり、これを一体どうやって隠そうかと頭を捻った。
「まさか堂々と肩にかけてるわけにもいかないし……」しばらく頭を捻り、最終的にはソファーの後ろに隠すことにした。あながち悪い隠し場所でもないだろう。わざわざ覗き込まない限り発見しようもないのだから。
 しばらく待って、ソフィーがドアをノックするとアメリアは急いで上着をソファーの裏に隠して何事もなかったかのように振る舞った。蝋燭を手に部屋に入ってきたソフィーは怪訝な顔をして、炎に照らされて顔の凹凸がおどろおどろしい影を作り出している。アメリアはその表情から、まさかジョージアナが口を割って出歩いていたのがバレたのかしら? と一瞬だけ不安になった。けれど、続く言葉を聞く限りどうやらそういうわけでもなさそうだ。
「アメリアさまが大人しくしているなんて、相当反省なさったみたいですね! まったく、いつもそのくらい素直ならいいんですけどね」そう言ってからソフィーは全身を震わせて、部屋をぐるりと見回した。「それにしても寒い部屋ですね……ここにも火を入れないと」そう言ってからソフィーはふいに蝋燭を高くかざした。その拍子に部屋の奥にまで灯が届き、床の血だまりがあらわになった。薄ベージュのカーペットには血液の酸化した赤色がはっきりと刻まれている。それを目の当たりにしたソフィーは思わぬ光景に気絶しそうなほど顔を真っ青にして叫んだ。ひとたびそれを認識してしまえば血のきつい臭いが鼻を刺激して吐き気すら感じる。
「アメリアさま!? この血は一体どうしたんですか!?」
 ソフィーはアメリアに駆け寄り、慌てるあまり手にした燭台を落としかけた。それから腕の傷口を確認して、その体が氷のように冷え切っていることに気がつくとその心を同情でいっぱいにした。
「こんな酷い怪我をしながら黙っていたんですか? ああ、アメリアさま! 早くお医者さまに診てもらいましょう! こんなに怪我が酷いと知っていれば……間違いなくアンナさまよりも先に診てもらうべきでしたよ! さ、立てますか?」
 ソフィーはアメリアの手をおっかなびっくり握り、控えめにその体を支えた。どちらかといえば狼狽えているのはソフィーの方だった。燭台を掴んだもう一方の手はカタカタ震え、口の中では「ああ、一体どうしましょう」としきりに呟いている。
「わたしが持つわ。燭台を落として家が丸焦げなんて遠慮したいし」
「そんな! とんでもないです! 怪我人にそんなことさせられませんよ。ああ、本当に大丈夫ですか? アメリアさま……お可哀そうに! こんな寂しいところで二時間も放っておかれて、それでいてこんなに気丈に振る舞おうとおっしゃるんですね?」
 ずっと前に血は止まっていたし、ディランのおかげで精神も随分落ち着いていたからアメリアは重病者みたいな扱いにおかしいやら気分が良いやらで笑いを堪えるのが大変だった。そんなこととはつゆ知らず、ソフィーはこれ以上ないほどの優しさでアメリアに付き添ってダーシー医師の元へと向かった。ダーシー医師は客間の一つを診療所として使っていた。ソフィーがノックも忘れて部屋に入るとダーシー医師はいくつか怒声を飛ばしたが、それも後ろにいるアメリアをみれば収まった。どの年代の人であろうと、アメリアの前では不思議と皆お行儀がよくなるのだ。ダーシー医師は椅子にどかっと腰かけて、そのはずみで机の上に所狭しと置かれた包帯や軟膏が飛び跳ねた。
「随分とベネット嬢にむごい仕打ちをしたらしいですな。スレイター夫人も良くならんわけだ。ほら、ここに座りたまえ。人間の頭部というのがいかに重要な器官なのか説明してやらんとならんみたいだ」
「ダーシー先生、それどころじゃないんです! アメリアさまはアンナさまなんて比にもならないくらいの大怪我なんですから!」
「あまり叫ぶんじゃない。大体、内蔵さえ無事なら日常の外傷で命に関わることになんてなりようがないものだ。女性というのは取り越し苦労ばかりですからな……ほら、見せてみなさい」アメリアが腕を差し出すと、ダーシー医師は怪訝な顔でアメリアのことをじっと見つめた。
「これは一体どういう経緯なんですかな?」
「ああ、ダーシー先生。アメリアさまは傷を負ってから二時間も極寒の中で一人ぼっちにされていたんですよ! どうか早く診てさしあげてくださいませ! これほど酷い話があるでしょうか?」
「あんたは黙っていなさい。こういうのは当事者に聞くのが一番良いんだからな」ダーシー医師は手早くソフィーを黙らせ、傷口をじっと観察し、仰々しく「ふむ……」と頷いた。
「もう血は止まっているようですし、傷については特にすることもありませんな。出血についてもまぁ問題ないでしょう。アメリア嬢は血の気が多いところがありますからな。むしろちょうどいいくらいだ。目眩がしたり気分が悪かったりはしないでしょうな?」
「とくにありません」
「今はなくとも、あとで何か病状がでないとも限らん。わかったらしばらくは花瓶なんぞ持ち出さずに安静にしておくことです。それにしても一体どういう経緯でこんな怪我を負うんだか、わたしには理解に苦しみますな。未婚の女だというのに、こんな怪我を負って……」
「ところで、傷は残りそうですか? ダーシー先生」
「少しは。だが、時間とともによくなるでしょう。だからって数日後に治らんと泣きつかれても困りますがね。ソフィーさん、あんたが少しでもアメリア嬢のためになりたいと願うのなら、毎晩軟膏を塗ってやることだ」
 それからダーシー医師はタオルにアルコールを含ませ傷口を消毒すると小慣れた手つきで包帯を巻きながら小さくぼやいた。「それにしたって、スレイター夫人も酷いことをなさる。ベネット嬢よりも重傷だというのは頂けませんが、かといって二時間放っておくような傷でもない」
「きっと怪我がこんなにひどいとは思わなかったんだと思います」
 アメリアはそう言いながら手袋に手を伸ばした。医者はそれを見るなり小馬鹿にするように笑った。
「無知なお嬢さんだな。まさか手袋をつけようって気じゃあるまいね。そんな傷を負っておきながら? まったく、言語道断ですぞ。どんな貴婦人でも腹の中に子供がいる時にコルセットなんてしないだろう」
「でもわたし指先には怪我をしてませんし……」アメリアは助け舟を求めてソフィーの方をみた。アメリアが言葉を濁した理由は単純で、手袋を身に着けている自分の方がより上品で愛らしいような気がしたからだ。たとえどれほど高級なドレスを身につけていたって手袋なしには締まりが悪いというものだろう。しかしどうやら医者はその理由を勘違いしていた。
「まぁ、気持ちはわからんでもない。貴婦人は淑女が肌を見せることに厳しいですから……とはいえその傷を思えば仕方あるまい」
「そうですよ、アメリアさま。万が一にでも爪を引っ掛けたりしたらどうするおつもりですか。こういうのは専門家に従うに限りますよ」
 アメリアは最後まで抵抗を繰り返したが、結局二人の猛攻に屈する形となった。
 アメリアが自室に戻ろうとすると診察室の前には大勢の使用人が詰めかけていた。
「呆れた! みんなして盗み聞きしてたのね」
「だって、ソフィーがあまりにも大声で嘆くものですから……みんな心配しているんですよ」ここにくる道中、ソフィーが散々大声で泣き言をもらしたせいでアメリアの外傷はすでに公のものになっていたのだ。感じやすい使用人たちはその腕にきつく巻かれた包帯を見て同情と哀れみで胸の中をいっぱいにして、各々がアメリアにとんでもなく優しい言葉をかけた。
「さぁ、アメリアさま。もう今日はお休みになりましょう。旦那さまも奥さまもきっとお許しくださいますよ。もし何か言われようともわたしがきっちりと説明しますから。ああ、こんなにお体も冷たくなって……! お部屋の暖炉に火を入れてありますからね、あとでホットミルクも持っていきますよ」
 怪我人というだけでちやほやされてアメリアはすっかり気分を良くした。使用人たちはアメリアのことをどこかの宮廷のお妃さまみたいに恭しく扱い、競いあってアメリアの後ろに行列をつくりあれこれと世話を焼いた。もしアメリアのドレスにトレーンがあったならその長い布を求めて何十人もの使用人が、砂糖に群がるアリのように手を伸ばしたに違いない。
 それからしばらく、アメリアは部屋で使用人をなだめてから、上着を回収するためにこっそりと自室を抜け出した。どうやらあの血みどろの部屋も客人を泊めるために使われるようで、使用人が何度も部屋に出入りしていた。
 あれほど冷え切っていた部屋の暖炉には火が入り、薄ベージュのカーペットも何ごともなかったかのように張り替えられている。心地よい温度にアメリアは頬を緩めて、流行りの歌を小さく口ずさんだ。もはやあの悪夢はどこか遠くへ消え去って、ここにはいつもの心地よい我が家が広がっていた。
 アメリアは壁とソファーの狭間に隠されたコートを回収し、それからちょっとした気の迷いでコートを力いっぱい抱きしめた。心地よい匂いに顔を埋めるとなんだか体が火照る。特段深い意図があった訳ではないが少しばかりいけないことをしているような気がして、それと同時に胸が高鳴るのが心底不思議だった。「けれど、悪い気はしないかも、なんて――」その時、廊下からアンナの声が聞こえた。その声にアメリアは悪事を糾弾された気になって身を縮み上がらせ、心臓が大きく跳ねた。衣擦れの音は徐々に近くなり、アンナの声もますます鮮明に聞こえる。心臓が激しく脈打ってアメリアは上質なコートを腕に立ち尽くしてますます慌てふためいた。「ああ、どうしよう! わたしがこんなところでディランのコートを手にしてるだなんて、アンナにバレたらきっと面倒なことになるわ!」心臓が激しく脈動して、首筋にじわりと嫌な汗がにじむ。天敵に睨まれたかのようにアメリアは足がすくんで動けなくなり、ただじっと開かれた入り口を睨んだ。まるで永劫の時間が過ぎたように感じた後、いよいよアンナのドレスの端が開きっぱなしの扉に見えるとアメリアは飛び跳ねるようにソファーの裏に体を隠した。幸いにも大きなソファーは入り口から死角になっていたし、側から見ればアメリアの身体はすっぽりと覆われて誰も隠れているとは気がつかないだろう。
 心臓が大きく跳ねて、アメリアは無意識の内に呼吸を止めてどうにか耳でアンナの動向を探ろうとしていた。てっきりこの部屋は通り過ぎるとばかり思っていたのに、衣擦れの音は部屋の内部にまで侵入して今まさにソファーの正面を通り過ぎる音がした。極度の緊張でアメリアは段々気分が悪くなってきた。
「もしかして、ここってアンナの部屋なの? 嘘でしょ? なんて運がないんだろう!」アメリアは頭を抱えた。「いよいよ姿を現す訳にはいかなくなったわね。きっと今わたしを見たらあることないこと喚き散らすに違いないわ。こんなことなら最初から堂々と対峙しておけばよかった。……でもこうなった以上最後まで隠れておくしかないわ。いつになるか分からないけど、アンナが寝た後にでもこっそりと抜け出そう……早く寝てくれれば良いんだけど」
 アメリアの願いに反してアンナがベッドに入ったような音は聞こえなかった。その代わりに静かな部屋には衣擦れと椅子を引く音、それから何か紙を開く音が聞こえた。恐らく手紙だろう。時折楽しそうに小さく笑う声が聞こえる。アンナが楽しい思いをしているときアメリアがつまらない思いを抱いているのはいつものことだ。「なんだか楽しそう。わたしは文字通り窮屈な思いをしてるっていうのに!」こんな狭いところにいたら今に体が固まって動けなくなってしまいそうだ。咄嗟に飛び込んだ姿勢はお世辞にも居心地の良い姿勢とは言いがたく、物音を立てないように細心の注意を払いながら体制を変えるのは至難の業だった。
 そんなアメリアのことなんてつゆ知らず、アンナはしばらくすると何かを気分よく書き始めたようだ。しかも筆記音は音楽のように一片の迷いもなく連続して、時々機嫌の良い笑い声がもれている。
 アメリアは息をひそめながらスキャンダルの芳しい香りに胸をときめかせた。このときばかりは丸めた背骨がソファーの脚にぶつかって痛いのも気にならなかった。
「きっと返信ね。それも、この感じは誰かに対する恋文に違いないわ。それにしたってお相手は誰かしら? ディラン・エドワーズみたいな立派な婚約者がいるっていうのに、それを差し置いて返信したくなる人っていうのは? きっと男の方は持参金目当てでしょうけど――まさか本当に愛し合っていたりして? アンナも人のことをとやかく言える立場じゃないわね。一体どんな人かしら――酷い男ならいいけど――でも、アンナのセンスは悔しいけど悪くないのよね。打算的だし狡猾な意地悪猫みたいな女だけど。ジェラードをこっぴどく振ったときなんてちょっと爽快なくらいだったし――」アメリアはその一部始終を思い出して口元に少し笑みを浮かべた。
 ジェラードといえばアメリアが今まで知り合った男たちの中でも特に経歴不詳の怪しい男だった。彼は見るからにお金にしか目がなくて、いつだって細かい金勘定をしていた。特に覚えているのは上着の扱いだ。
 ジェラードは借り物の上着の安否を常に気にしていた。椅子に座るときには、万が一にでもしわがつかないように燕尾服の裾を弾いてから座ったし、外では決して屈むこともなく、ましてや彼が馬に乗っているところなんて一度もみたことがない。毎回集まりがあるたびに子女に混じって馬車に同乗して、その場で一番金の匂いのする女に何度もアプローチをかけた。そしてその一番の標的はアンナ・ベネットだった。
 ジェラードは(ちょっとむかつくことに)美しいが裕福でもないアメリアには目もくれずにアンナにばかり激しいアプローチを繰り返した。
 しかし当のアンナの対応ときたら流石のアメリアでも少し同情するくらい酷い仕打ちだった。恭しく差し出された無骨な手には人差し指だけを返して男を散々まごつかせたり(当然こんな人に機転なんてあるわけない)、わざわざ名前を何度も間違えてみせたり、男に恥をかかせるためだけに彼を壇上に招待したりと、とにかくしたたかな攻撃を繰り返した。極めつけには、どこから情報を得たのか男の本名――驚くべきことに偽名だったらしい。しかしその名前はあまりにも普遍的すぎてアメリアの頭には残っていない――とその名前が何年か前の破産者リストの中に刻まれていることを言い触らして男のプライドを粉々に打ち砕いた。
 アメリアは破産者だとか借金がどれだけあるとか、そんなことは心底どうでもよかった。ただ自分を無視してアンナなんかにうつつを抜かしたことだけはどうしても許せない。
 そんなわけで、アメリアは少し意地悪な気持ちになり、傷心の若者を甘い言葉でかどわかして、その傷口を偽物の愛で埋めてしまった。それから、この哀れな若者を散々振りまわし、ジェラードが自分なしでは生きていけない頃になってようやくアメリアは満足して男を元の場所に戻した。それが華やかな社交界なのか、それともロンドンの腐臭漂う裏路地なのかはわからない。
 ジェラードとアメリアが一緒にいるのを見るたび、アンナはその尖った顎をくいっとあげて度々呟いたものだ。
「よくあんな人と付き合えるわね。今はどうにか盛り返しているみたいだけど、数年後には浮浪者の仲間入りよ」驚いたことに実際、数年後にはジェラードはいよいよ借金で首がまわらなくなって社交界からぱったりと姿を消してしまった。それ以外にもアンナ・ベネットがまるで預言者みたいに人の行末を言い当てるのは何度か見たことがある。その度にアメリアは自分には見えない運命の糸でも見えているのかと不思議な気持ちになるのだ。
「でも、アンナがエドワーズさんとの縁談をなかったことにするなんて想像できないわね。たしかにアンナとエドワーズさんはあんまり気が合わなそうだけど、打算的なアンナならみすみす年何万ポンドって大金を逃したりしないわ。ましてやこれ以上の人からアプローチがあるとも思えないし……それにしたって本当に楽しそうだわ」
 ソファーの裏なんて場所では自分の思考に集中するしかすることもなかったが、アメリアはジョージアナとは違って長時間自分の内側に潜れるような性質でもなかった。そんなわけでアメリアはアンナへの考察が一通り終わった辺りですっかり集中力を切らした。そうすると今の今まで忘れていた足腰の痛みを鮮明に感じるようになってますますうんざりした。それに加えて、いつまでたってもアンナの筆記音が止まらないこともアメリアをうんざりさせる要因の一つだった。「きっとお相手は一人じゃないわね」と心の中で呟いたのもすでに五回目だ。ため息を押し殺しながらアメリアは膝を抱え、上質なコートに顔を埋めた。すっかり慣れ親しんだ持ち主の香りが主張してアメリアは自然と頬を緩めた。

第十三章 二話

 扉が閉まる音がしてアメリアは目を覚ました。いつの間にか眠っていたようだ。アメリアはアンナの気配を探り、どうやらちょうど部屋を出ていったところらしいと察して、ソファーから抜け出して体を伸ばした。全身の凝り固まった筋肉が解れていく感覚が心地よい。柱時計は最後に確認してから一時間が経過していた。
 それからアメリアはハッとして机に駆け寄った。艶がある深い茶色の机の上にはやはりというべきか、便箋とペンが置かれていた。アメリアの想像通り、どうやらそれは恋文らしく、便箋の上には熱心な調子でお熱い言葉が並んでいる。人の恋文なんて見てはいけないとは思いつつ、その誘惑は抗いがたいものがあって結局アメリアは書き途中の手紙に目を走らせた。
 手紙はこんな風に始まっている。
 
 愛しのアンドレイ・アッカーさまへ。
 先日は心の籠もったお手紙をどうもありがとうございました。こうして返信が遅れたことも、あなたさまの海のより広い心でお許し頂けるものと思います。お忙しいアッカーさまのお邪魔になってはいけないと思えば、わたしが返答に及び腰になるのもご理解頂けるのではないでしょうか? ですが、こうして震える心を静めながらペンを手にとった以上、わたしの切々たる思いをしたためることをどうかお許しください。
 最初にあの心の躍る提案を目にしたとき、気絶しそうなほどの歓喜が込み上げました。誰だってあれほど優しい提案を受ければ心を躍らせずにはいられません。わたしは舞い上がって、もしもあなたさまが目の前にいるのなら、今すぐにでもその腕の中に飛び込み、何もかも全てを捨ててあなたさまと二人で逃げてしまいたいと心の底から思いました。
 ですが、アンドレイ・アッカーさま! わたくしはただただ不安なのです。あなたさまがそういう人でないとは分かりつつ、この身を真に捧げていいものか……どうか優柔不断なわたしをお許しくださいませ。それに身に余ることに、わたしはとある貴族の方との縁談を頂いている身……とても勝手なことが許される状態にはないのです。……しかし、もし本当にわたしのことを思ってくださるのならあなたさまから直接お言葉を頂きたいと願うのは罰当たりなことでしょうか?

 アメリアは身近な人間のとんでもない秘密を知ってしまった高揚と、すぐにでも忘れてしまうほどの小さな罪悪感に全身がくすぐったくなるのを感じた。
「要は婚約者との関係はそのままに、この人に愛の言葉をねだってる最中ってことね。それにしたって、なんてスキャンダル!」
 いくらアンナが預言者のように立ち振る舞えたって、よりによってアメリアにこの最大の秘密事を知られるとは思ってもみなかっただろう。しかし、これがアンナにとって真に最悪な出来事かと問われればそういうわけでもない。
 アンナにとって最悪なパターンとは、手紙を覗きみた人物がメアリー・イーストンのような正義の使者だったり、エマ・アボットのように腹黒い人間だったりする場合だ。
 もしもメアリーがこのことを知ったなら、友人の不実を自分の罪みたいに心の底から嘆き、色々な人物にところ構わず相談して、瞬く間にこの事実を公然のものにしてしまうことだろう。彼女の世界には悪いことを考える人物なんて一人もいないので、まさかその話を聞いた娘たちが「アンナ・ベネットの名声も潰えたわね!」なんて内心得々としているとは想像もつかないのである。もちろんエマ・アボットについては言うまでもない。彼女にかかれば次の日には隣国にだってアンナの悪評がとどろくはずだ。それもちゃんとした悪意を持って。
 その点、アメリアは良識を弁えていた。この件も今のところはベネット夫妻に報告するつもりもないし、ましてやディランに話そうだなんて頭をよぎりもしない。何しろアメリアは、若い女はもちろん年老いた老女だって――もちろん自分も含めて――何かしら胸に秘める特別な思いや隠し事があるものだと心得ているのだ。第一、自分が誠実な人間じゃないのに一体どうして人の不誠実を糾弾する気になるだろう。そんなわけで、アンナの秘密はアメリアの胸にしっかりとしまわれ、しかるべきときまで封印されることが約束されたのである。
 アメリアは小走りで部屋に戻り、その道中でクロークに立ち寄ってコートをしまっておいた。今日の濃密な出来事を思い出すとアメリアはぐったりして、今すぐにでも柔らかいベッドに体を投げ出したい気持ちになった。どうやらそれは他の人たちも同じようで、屋敷は静まりかえって話し声一つしない。聞こえる音といえばどこからともなく反響する使用人の足音だけだ。
 アメリアはその足音のうち一つに自室の前でばったりと出会った。それはデイジーだったが、なんだかアメリアは幽霊にでもあったような不気味な恐怖を覚えた。というのも、普段はどちらかといえば暗くて、いつでも目線を下に向けているデイジーがこのときばかりは見たことのないような満面の笑みを顔に貼りつけ、アメリアに話しかける声も普段の二倍の声量があったのだ。少し失礼だが、まるで気が違っているみたいだ。
「アメリアさま! 探しましたよ、ところでご加減はいかがですか? ダーシー先生はなんとおっしゃいました?」
「とくに心配ないそうよ」
「ああ、それは本当によかった! 実はとある方から直々に申しつかったんです。いい報告ができるならそれに越したことはありませんものね。それでは、おやすみなさい」
 デイジーは手短にそれだけ告げると〝とある方〟とやらに報告するために浮き足立って廊下を駆けていった。アメリアは首を傾げながら、その後ろ姿を見送った。

第十四章 一話

 アメリアは目を覚ますと、まどろみもさめない内に窓の外に視線を向けた。
 窓の外では重々しい黒雲が幾重にも重なり、朝とも夜ともつかない様相をていしている。普段なら心地よい朝の訪れを告げる馬小屋の鶏たちは仄暗い雰囲気におののいて今日は鳴き声一つ上がらなかった。森に住む鳥たちもひっそりと息をひそめているようで、普段の賑やかさはどこかに消え失せている。その代わりとばかりに遠くから雷鳴の足音が聞こえた。窓から見える品の良い庭園には旅人を迷わせる深い霧が立ち込め、その全貌を見渡すこともできない。たとえどれほどの武勲をあげた将軍であろうと、どれほど優秀で賢い馬を操れようとこの霧には手も足もでないだろう。せいぜい庭園を右往左往するのが関の山だ。
 アメリアは窓枠に手をつきながら満足げな笑みを浮かべた。
「これで今日も招待客は足止めってわけね。昨日はいろいろあってまるで社交を楽しめなかったし、たまには神さまも思慮分別を弁えたことをしてくださるのね」アメリアは部屋の隅に追いやったロザリオを見つめて、珍しく神に感謝の祈りを捧げても良いとすら思ったが、それはドアがノックされる音で取りやめになった。
 ドアを開けて入ってきたのは妙に不満顔のソフィーで、むすっと曲げられた唇は駄々をこねる子供みたいだ。その手には朝食が握られていた。皿の上にはベーコンやソーセージ、それからベイクドビーンズやトマトなんかが載せられて白い湯気がもくもくと立ちのぼっている。ほどなくして朝食のお馴染みの匂いが鼻孔をくすぐり、否応無しにアメリアの胃袋を刺激した。
 ソフィーはまさかアメリアがすでに目覚めているとは思わなかったらしく目を丸くして朗らかに朝の挨拶をしてみせた。
「まぁ、アメリアさま。お早いですね。傷の具合はいかがですか?」食器をテーブルの上に置くとソフィーは思い出したみたいに不機嫌な顔をしてカウチに腰を下ろした。大抵こういうときはソフィーの長々とした愚痴を聞くことになると相場が決まっている。「きっと、アメリアさまにとってはこんな部屋に閉じこもってないで散歩にでも出かけたほうが傷の治りも早くなると思うんですけどねぇ、何しろダーシー先生もそうおっしゃったんですよ? 朝食だって賑やかな場所で取るほうがいいに決まっているじゃないですか」
「それでもわざわざここに持ってきたってことはオルコット辺りに敗北したのね」
 ソフィーは口をへの字にして不満をあらわにした。
「あの人には本当に人の心ってものがありませんよ! それからあの偏屈な人を支持する使用人たちも。アメリアさまが昨日どれほど心細い思いをしたか想像すれば誰がこんなむごい仕打ちをできるものですか」
 家の中では昨日のアメリアの行動をめぐり、意見が真っ二つに分断していた。
 一方はアメリアのしでかしたことを断固として許さず、しばらくは(きっとこういう厳しい人のしばらくとは永遠を指すのだろうが)部屋から一歩も外に出さずに謹慎させるべきだという論調で、今朝の一幕ではこちらの軍勢が勝利を収めた。この軍勢では老練のオルコットが指揮官として旗を振るい、使用人の中でも年長の人間が多く属していた。対して擁護派は比較的若い使用人が多く、何より驚くべきは擁護派として誰よりも精力的なのはあの薄ぼんやりとしたデイジーだということだ。
「あの子ったら昨日と今日とではまるで別人ですよ。今朝から妙に張り切って、アメリアさまをお助けするんだって目を輝かせてましたし……一体何があったんだか。でもああいう精力的な味方がいるに越したことはありませんね。それも普段物静かなデイジーが張り切ってるってことで、わたしたちももっと頑張る気概が湧いてくるってものですよ」
「お母さまはなんて?」アメリアにとって一番重要なのは母の意見だった。オルコットに糾弾されようと、誰に何を言われようとある程度であれば聞き流せる。しかしそれが母の言葉となると途端に神の言葉よりも重要な気がしてくるのだ。結局、昨夜の厳しい言葉は撤回されることもなく、いまだにアメリアの心の奥底でくすぶり続けている。
「奥さまは……ああ、お可哀そうに! 奥さまはこの件でアメリアさまの次にお気の毒ですよ。何しろあの冷血な人たちに止められて身動きが取れないんですから! というのも、今朝、ダーシー先生が昨日の件で奥さまに苦言を呈されたんです。『あんたも随分手酷いことをなさる。あれほどの怪我ならすぐにでも診せるべきだっただろうに』と……その時の奥さまの表情ときたら! お顔を真っ青にして良心の呵責にさいなまれていましたよ! すぐにでもアメリアさまに謝りたいというご様子でしたけど、そこでオルコットがぴしゃりとこういったんです。『やめておき、あのワガママ娘にもいい薬になるだろう』って。本当にフランス女の使用人は主人に対して出しゃばりすぎですよね。本当にこんな口を利いたんですよ」
「その他には? ねぇ、たとえば褒めるようなことを言ってなかった?」
「涙も流さず黙って耐えていたことに対して、ですか? とくにはおっしゃってなかったですけど……でもわたしは褒められるべきだと思いますよ。自分のしでかしたことをきちっと反省して、態度でお示しになるなんて随分と淑女らしいじゃありませんか? まぁ、本来ならあんなことしないほうがよっぽど良いのは言うまでもありませんけどね。だからといってこの仕打ちは流石にやりすぎというものですよ」
 アメリアは身勝手な期待をまたもや打ち砕かれてなんとなく気持ちが沈んだ。よく考えてみれば事態はあの部屋に閉じ込められたときから何も進展していないのだ。たしかにアメリアに同情してくれる味方は数を増やしたけれど、それが一体なんだというのだろう。慰めてもらって勝手に自分の仲間が増えたような気がしていたけれど、実際はまるでそんなことはない。どちらの派閥もアメリアの行動には非を見出して、その後の処遇についてもめているだけなのだから。結局、アメリアの行動を根本的に理解してくれる人なんて誰も居ないのだ。彼だけを除いて。
 アメリアは誰よりも心強い味方の顔を頭の中に思い描いて小さく笑みを浮かべた。
「ソフィーはそういうけれど、やっぱりわたしのしたことが間違っているだなんて思えないわ。昨日は取り乱して自分が世界のすべての罪を背負っているような気になったりもしたけど……わたしは誇りと名誉のために武器を取ったのよ。それ自体は褒められるべきことだわ。それも、それが一家の名誉となればなおさらね。お母さまもお父さまも、あんな風に言われて頭にこないのかしら? そっちの方がよっぽどこの家をおとしめる行為じゃないの? わたしはアンナの言葉を耳にしたとき腸が煮えくり返るかと思ったのに……」この思いを口に出さなかったのは、変なことを言ってソフィーからの同情を失うのを恐れたからだ。
「何はともあれ、あのようなことは二度となさらないことです。今回のことは良い教訓になったでしょう」  
「ええ、そうね。そうかもしれないわ」と答えながら、アメリアは心の内で呟いた。「でも、わたしの思う教訓はこうよ。辛いときほど男性の力を借りるべき。それも頼りになる人のね」
ソフィーはアメリアの同意を得て、ますます勢いづいた。きっとアメリアは昨日の行いを深く恥じて反省しているに違いない。そんな勘違いのおかげで、ソフィーはアメリアに対してよりいっそうの優しさを寄せることになった。それから傷つき寂しい思いをしたであろうアメリアを励ますために力強く言いきった。
「ディナーまでにはアメリアさまの当然の権利を勝ち取ってみせますよ。それに実はもう算段もたっているんですよ。ぬか喜びさせるのも悪いと思って今まで黙っていましたけど……というのも、先ほどディラン・エドワーズさまが旦那さまと二人きりでなにやら話し合っていましてね」アメリアは突如口にされたその名前に驚いてフォークを落としかけた。それから昨日の諸々の出来事が頭の中で走馬灯のようによぎり、あのことだけは隠し通さないと、と気合いを入れると今度は指先が冷たくなった。
「ふうん、そうなの……」どうにか声を絞り出してみたものの、その声色は明確に動揺を示していた。
 アメリアはぎこちない様子で紅茶を口に運んでしきりに目線を泳がせた。アメリアの微かに上ずり、震えるような声にソフィーは何かを勘ぐり始めたようだ。ソフィーはアメリアに疑念の目を向けた。だからといってまさかアメリアとディランの間に特別なつながりがあるとは思ってもみない。
「それで、二人は何の話をしていたっていうの?」アメリアはソフィーの気を紛らわせるために慌てて質問を繰りだした。しかしソフィーは相変わらず注意深い目をアメリアに向けて、それからしばらくしてようやく思い出したように話し始めた。ありがたいことにひとたび話し始めると、おしゃべりな性格が幸いしてアメリアへの疑念はすっかり忘れてしまったらしい。
「誓って言いますけど、なにも盗み聞きしようってつもりはなかったんですよ? ただ、たまたまその姿を目撃してしまったものですから……ええ、エドワーズさまはなんだか恐ろしい表情で旦那さまと話し込んでいる様子でした。わたしたちはきっとアンナさまのことで怒り心頭に違いないと思ったんです! こんなことアメリアさまに言って追い詰めるつもりもありませんけど、普通、婚約者が傷つけられたとあらば決闘とか裁判とかそういうとんでもない大事に発展するものじゃないですか? それで、わたしたちはもしもそうなったときに、命すら投げだしていさかいを止められるようにと、不安な気持ちを抱えながら中の様子をうかがっていたんです。まさにあの空気は一触即発といった様子でしたよ!」実際のところ、話し合いはかなり穏便に進んでいたが、ソフィーは本筋が曲がらない程度に所々脚色を加えるくせがあった。それは本人の名誉のためであったり教育上よろしくないからだったり、そのほうがよりスリリングで魅力的に聞こえるからだったりした。
 その性質を理解しながらもアメリアは口を挟まずにはいられなかった。
「まさか、そんなはずないじゃない。だって――」と言いかけてアメリアは口をつぐんだ。「いくらなんでもあの人はわたしの味方だし、唯一の理解者よ……だなんて、ここで殺されるとしても言えないわね。何しろソフィーはわたしとディランが出会っていたなんて知らないわけだし、二人の間に起こった諸々の出来事は一切忘れて振る舞わなきゃね。わたしは圧倒的な権力者の最愛の女性を花瓶で殴りつけたとんでもない女で、ディランの一声で運命が左右される哀れな子羊ちゃんってわけなんだから。ソフィーの言葉にはちょっと怯えるくらいで丁度いいのよ」
 アメリアは筋書きをたてると、わざとらしく目を伏せた。それから声を小さくしてしおらしく言葉を紡いだ。
「自分のしでかしたことは分かってるけど、でも決闘だなんて……! ああ、わたしの軽率な行動のせいでそんなことになるだなんて……! でも、わたしはこれ以上の犠牲が必要だとは思えないわ……二人の女が怪我を負うだけじゃなくて、素敵な紳士がどちらか息を引き取るとだなんて……ねぇソフィー、まさかそんなことないでしょ? もしそうだったら一体わたし、どうしたら……」といいながら、アメリアは瞳に涙をためた。昨日の恐怖体験を思い出せばさして難しいことでもなかった。想像以上の反応にほだされやすいソフィーは慌ててフォローに入った。
「も、もちろん、そんなことありませんでしたよ! ええ、ちょっと脅かしただけですよ! それどころか、現実はわたしたちの想像とは真逆だったんです。なんたってエドワーズさまは旦那さまに謝罪していたんですからね。もちろん謝るといってもレミントン家のおチビちゃんみたいにじゃありませんよ。あの気の弱いお嬢さんはいつもビクビクして、年がら年中頭を下げて……ちょっと謝罪される方が嫌な気持ちになるってものじゃないですか? ですが、エドワーズさまは名家のご子息というだけあって本当にご立派でした。これっぽっちも卑屈な感じをださず、かといって自分の気持ちだけは正確に伝える技術に長けているんでしょうね。それはそれは堂々と『ご息女に怪我を負わせてしまい本当に申し訳ない』と。わたしにはああいう立派な方が何を考えているのかわかりませんけど、どうやらその思いだけは本当らしいですよ。というのも、アメリアさまの行いには一切触れることもありませんでしたから。旦那さまがアンナさまを気遣う言葉をかけてもまるで乗ってきませんでしたし。……それにしたってお心が広いっていうものですよね。少し怖いくらいに。普通ならこうはいきませんよ」
 アメリアは皿の上に載っている大嫌いなトマトをフォークの先でコロコロともてあそびながら心の中で呟いた。
「当たり前だわ。わたしに非なんてほとんどないもの。最初にしかけてきたのはアンナのほうだし、正当防衛ってものだわ。しいて反省点をあげるとすれば、もっと被害者面してから殴ればよかったってとこね。きっとみんなわたしがあまりに早く行動したものだからアンナの失礼極まりない発言は頭から抜け落ちちゃったのよ。みんなの腹の中がグツグツ煮えたぎったあたりで事を起こせば拍手喝采だったでしょうね!」
 アメリアの胸中にはまるで気が付かず、ソフィーの話は続く。
「その上、『ミスター・ベネットには不都合のないようにわたしから伝えておきましょう。こんなことで麗しいスレイター夫人の名声がくぐもるのもつまらない話ですから』なんておっしゃって、気遣いも欠かさないんです。……アメリアさまはどう思われますか?」
「どうって、何が?」アメリアはきょとんとして聞き返した。
「もちろんエドワーズさまのことですよ! 本当にただの善人だと思いますか?」
「善人にせよ悪人にせよ、気がきくのは確かだわ」
「またそんなことをおっしゃって……でも、いくら能天気なアメリアさまもきっとこの話を聞いたら仰天するに違いありませんよ!」ソフィーは今までの話なんて全て前座に過ぎないといった声量で身を乗りだした。それから急に声を囁きまで小さくして、ちらりと背後を確認した。なんだかその様子は逃亡兵のように必死で切に迫るものがあった。
「というのもですね、エドワーズさまはその話がひとしきり終わると突然ドアの方を振り向いて――きっとデイジーが騒ぎ立てたからわたしたちの存在に気がつかれたんでしょうね――あの悪魔みたいな黒い瞳を細めたかと思えば、何の脈絡もなしに旦那さまに小切手を手渡したんですよ! しかも、あとで執事のポールに聞いたところ一千ポンドとかいう大金です! 信じられますか? 表向きはスレイター夫人の治療のためにと言っていましたけど……でも、それが本心なのかは疑わしいものですよ。だって、まだ知り合って一日しか経っていないというのに、普通、他所のお家の女主人にそんな大金かけられるものですかね? それもその娘が婚約者にひどい仕打ちをした後だって言うのに。その婚約者にせっつかれて、なんていう理由があればわからなくもないですけど、まさかアンナさまがそんなことを頼むとも思えないですしね。しかもエドワーズさまの言葉はそれだけにとどまらず、ロンドンの名だたる名医を紹介したいとか……」
 アメリアはそれを聞きながら胸をなでおろした。「ちゃんと約束を覚えているようでよかった。やっぱりあの会話は現実だったのね」昨日の一連の出来事は起きながらに見た悪夢のようで、一日が経過した今ではどれが現実に起こったことなのかすら曖昧だったのだ。
「あの方が本当にただの善人ならこんな風に思うこともありませんよ。世の中にメアリーさまみたいな心根の優しい人がいるってことは重々承知してますから。でも、わたしにはどうにも裏があるように思えてならないんです」
「考えすぎだわ。あんまり人のやることなすことを疑ってるとジョージアナみたいになるわよ。それに、ソフィーだってさっき言っていたじゃない。とんでもないお金持ちの考えることなんてわかりようがないわよ。もしかしたら何か暗い過去があってそれに対する贖罪かもしれないし考えても仕方のないことだわ。それよりも、お母さまが名医にありつけるのならこれ以上に良いことってないでしょ? お母さまの病気が悪くなる度に我が家がお通夜みたいに暗くなるのはもういい加減うんざりだもの。ここら辺でしっかり回復してもらわなくちゃ」
「もちろん喜ばしいことに変わりはないんですけどね……でもその大金の出どころも果たして人に言えるようなことなのかは疑問ですよ。アメリアさまもいろいろと噂はお聞きになったでしょう?」
「まだそんなくだらない噂の話をしてるの? 噂なんてしょせん噂よ」アメリアは自分にしょっちゅう降りかかる身に覚えのない噂の数々を思い出しながら呆れ気味に答えた。しかしどうやらそれは罠だったらしく、ソフィーはアメリアの言葉を待っていましたとばかりに食い気味に話を遮った。
「案外そういうわけでもないらしいですよ。昨日ベティが思い切って噂について質問したんですけど、一体なんて返ってきたと思います? 肯定も否定もなく、ただ目を細めて微笑んだだけだとか。もしも全く心当たりがないっていうなら一体どうして否定しないんです?」
「ソフィーが何に気を揉んでるのか分からないけど、ディラン・エドワーズさまがお金持ちでお母さまを助けてくださるのには変わりがないじゃない。お金の出どころがそんなに重要?」
「ええ、もちろん! 何しろあのお方は事実上奥さまに対してお金を贈ったわけですからね。あの清廉で汚れをしらないエレン・スレイターさまに、ですよ。もし下劣な手段で稼いだお金なのだとしたら今すぐ突き返すべきです」
「でももう受け取っちゃったわけでしょ?」
 こういう話題になるとアメリアはいつも自分が除け者にされているような気持ちになる。一体どうして同じ家で暮らしているというのにこうも思考に差が出るのだろうか? アメリアからすればほんの些細なことでも、スレイター家の面々にとっては極めて重要な意味があるらしい。
「突き返すなんてできっこないわ。ディラン・エドワーズさまは一度決めたらやり遂げるだけの強さをお持ちだもの」
「強さ、というより……わたしにいわせればあれは一種の傲慢ですよ」といいながらソフィーはしばらく考え込んだ。「たしかにエドワーズさまなら旦那さまがなんと言おうと自分の言い分を押し通すに違いありませんね。何しろそうできるだけのお金も権力も持っていますから」
 アメリアが渋々といった様子で最後のトマトを口に運んだのを見届けてから、ソフィーは今日一日の陰鬱な業務を思って深いため息をついた。それからどうにかしてこの部屋にとどまる口実を探そうと部屋の中をぐるりと見回した。それから特に意味もなくマントルピースの上に置かれた小物の位置をいじることに精をだした。
 ソフィーが陰鬱としているのは今日の忙しさを確信しているからだった。実際、こうしてアメリアの部屋で今朝の一幕について話し合っている間にも使用人を呼び出すためのベルがひっきりなしに鳴りひびき、部屋の前を使用人が悪態をつきながら慌ただしく駆けていく音が聞こえた。
 今日はまさしく目が回るような忙しさで、普段ならば決して走らないあのオルコットですら、新品同様の真っ白なエプロンをひるがえして廊下を駆けまわっていた。走る度にスカートの裾から白いソックスが覗き、その度に年甲斐もなく顔を赤くして鼻を膨らませる。誰も気にしないとはいえ、スレイター家という聖域で自分がこんな恥ずべき行いをしているのが何よりも許せなかった。他の使用人たちも大なり小なり同じような気持ちを抱えているらしく、せめてもの償いに客人とエレン本人の前では走らないことを心に決めていたが、朝からてんやわんやで現場が混乱しているのはすでに大勢の知るところだ。
 ソフィーはそれを知っていたからこそ、こうしてだらだらとアメリアの部屋で時間をつぶしているのだ。ワガママな招待客にやれドレスが破けただの、お茶が欲しいだの、退屈でどうにかなりそうだのという要望をさんざ聞かされて屋敷を朝から夜まで駆け巡るハメになるのなら、こうしてうちのかわいいお嬢さんと他愛もない話を繰り広げていたほうがまだマシというものだろう。
 けれど置物の位置を探るのもいよいよ限界がきて、ソフィーは今度はアメリアの腕に巻かれた痛々しい包帯に目をやった。アメリアさまが紅茶を飲み終わったら通常の三倍は時間をかけて丁寧に傷口を消毒し、塗り薬を塗って、その後はダーシー医師に上手な包帯の巻き方でも聞きに行こう。そんな算段を立ててもう一度ソファーに腰を下ろした。わたしのためにもアメリアさまには紅茶を味わって飲んでもらわないと。
 それからしばらく、二人は意味のない会話を繰り返してとうとうアメリアが紅茶を全部飲んでしまうとソフィーは予定通り、散々時間をかけてアメリアの傷を手当した。それからソフィーが渋々部屋を出ていくと、ものの五分でアメリアは代わり映えしない自室にすっかりうんざりしてしまった。廊下の外では賑やかな音が聞こえるというのに、こんな部屋で一人だなんてこれ以上つまらないこともない。
「そうだわ、何もこんなところでじっとしていることないじゃない。たしかに使用人たちは顔をしかめるだろうけど、それが一体なんだっていうの? そもそも、罰なんて受ける必要もないもの」そう思うと心は自然と高揚してアメリアの両足は今すぐにでも外界に向かおうとした。
 この都合のいい言い訳がディラン・エドワーズによって授けられたものだとはまるで気がつかなかったけれど、何だかこの言葉は心に染み入るようだった。何度か言葉を反芻している内に心のどこかにあった良心の痛みすら消えていく。そうすると心はますます元気を取り戻し、普段の無敵っぷりを存分に振りかざす気分になった。
 それからアメリアは、自分の白くしなやかな腕をじっとみつめて、魅惑的な笑みを浮かべた。片方は包帯を巻かれていて残念な出来だが、もう一方は彫刻のように美しい。「手袋をつけないなんてなんだか変な気分! でも、この腕の効力を発揮する機会を逃すなんてありえないわね。ダーシー先生の言いつけとあらば使用人だって注意できないし、それに何よりこんなにバタバタしていたらわたしを叱りつける時間も惜しいに決まってるわ」とはいえ、何か部屋を抜け出す大義が必要な気がしてアメリアは頭を捻った。「そうだわ、ディランにお礼を言いに行くってことにしよう。わたしは長女だし、お母さまのことを気遣ってくださったというのならお礼の一つでもしないわけにはいかないもの。それが道理ってものだわ――もちろん、ソフィーの言う通り裏があるけどそれを知ってるのはわたしとジョージアナだけよ」
 そうと決まればアメリアはさっさと部屋の扉を開けて、外へと繰り出した。扉は拍子抜けするほど何の力もなく開き、何の精神的重荷もなかった。
 アメリアの予想通り、すれ違う使用人たちはみな客人の要望を満たすだけで手一杯らしくアメリアを見かけたところで、ぎょっとして目をむくか怪訝そうに眉をひそめるだけで誰も叱りつけることはなかった。それは廊下を駆け回るオルコットも同じだった。オルコットは遠くからアメリアを凝視して、ほぞを噛んだ。普段は手も足も出ないオルコットに勝てたのがうれしくて、アメリアは『ラベンダーズ・ブルー』を口ずさんだけれど、どうやら彼女はただではやられないたちらしい。顔を真っ赤にしながら悪魔のように恐ろしい視線でアメリアを睨みつけるその表情はあとで散々ひどい目にあわされそうな気がしてゾッとした。その表情があまりにも恐ろしかったので、さすがにアメリアの能天気な頭の中にも一瞬だけ影がよぎった。
「お母さまに言いつけるかしら? いいえ、でもお母さまだって厳しいことは言えないはずよ。だってわたしが昨日すごく傷ついたのは事実だもの。お母さまの良心が本当に痛んでいるっていうなら、ちょっとばかり部屋を抜けだして、ちょっとばかり男性を誘惑したって許してくれそうなものだわ」
 良心が痛むからと言って道徳を打ち倒せるわけではないだろうが、アメリアはその点をないまぜにしていた。何だかそう考えればふと心を覆った不安の影もどこかへと消えてしまい、アメリアは相変わらず軽い足取りで廊下を進んだ。
 しばらくすると厩舎の方から何やら声が聞こえて、アメリアは吸い寄せられるように声のする方へと向かった。そこにいたのはデイジーとジョンの二人だった。デイジーは興奮気味で演劇でもしているみたいに身振り手振りが大きい。その熱気に押されて厩舎の馬たちは耳を倒して警戒態勢をしいている。ジョンは仕事の手をとめて、様子のおかしいデイジーに圧倒されていた。
「ジョン! ジョン! みてください、これ!」その手には金色に光り輝く鎖が握られていた。見るからに重量がありそうで、デイジーの手からこぼれ落ちた分は重力によって重そうに首を垂れている。
「これを一体どこで手に入れたって?」
「エドワーズさまから頂いたんですよ。ああ、どうしましょう! あの人はくずみたいなものですがなんて、謙遜してましたけど。わたしこれが素晴らしい品だっていうことはわかるんです。ねぇ、ジョン。これを質に入れればそれはそれは盛大な結婚式が開けると思いません?」
 ジョンは押し付けられた金の鎖を握り、そのずっしりとくる重さに驚愕した。
「……でも一体どういう経緯で手に入れたってんだ? まさか、何か――」
「ちょっとした人助けですよ! なんでもアメリアさまの体調がひどく気になるらしくて。けれどご自身で近づくときっとややこしいことになるからってことで、わたしに頼まれたんですよ。それで、その報酬としてこれをくださったんです! その上、他にも細々としたお願いを聞いていただけるなら、いくらか対価は支払います。だなんて、ああ、本当になんてお心の広い方なんでしょう!」デイジーは興奮気味にまくしたてた。アメリアはその様子を影で観察しながら、昨日の夜の会話はそういうことだったのかとした。
「何だか様子がおかしいと思ったらそういうことだったのね。それにしても……」
 その瞳は遠目で見てもわかるほど瞳孔が開き、口角は道化のようにあがって引きつっている。その姿はまるで何かに取り憑かれているみたいで、はたからみれば狂気そのものだったけれど、どうやら本人には輝かしい未来しか見えていないらしい。
「ええ、わたしはやってみせますよ。だって、そうすればわたしたちの子供にだって良い教育を受けさせることができるかもしれませんもの! ああ、そうしたら部屋を間借りして……とにかくあのお方はわたしたちにとってのキリストに違いありませんよ! このありがたい報酬のためなら、なんだって苦労とは思いませんもの!」
 ジョンの両腕をしっかりと掴む手にはあらん限りの力が込められていた。声を張り上げるたびにその瞳のギラつきが増していき、更にはデイジーのキンキンした声に怯えて毛並みの良い馬が暴れ始めた。その馬は黒鹿毛の牝馬でまさしくディラン・エドワーズの愛馬だった。
 ジョンはとりあえず様子のおかしなデイジーは置いておくことにして、困った風にその馬を見つめた。何しろ暴れまわるもので手の施しようがないのだ。
「この馬ときたら、今朝からずっと気が立ってておっかなくて触ることもできやしねぇ。持ち主に似てプライドが高いし……」
「それは大変だわ。もし馬が怪我なんてして機嫌を損ねたら大変だし……わたしがお伝えしてくるわ。わたし、あの人とは仲良くなっておいて損はないと思うの」そう言い残すとデイジーは一目散にその場をあとにした。その後ろ姿はまるで自ら不幸への道を歩く罪人のように見えた。浮き足立つ両足ではその足場が今にも崩れそうなことなんて気がつきもしないのだろう。
「あの子、きっといつか大変な目に遭うわね。だってなんだか典型的だもの」
 肩をすくめて振り返ると、アメリアは歩みを進めて庭園に続く南ポーチに腰を下ろした。その間に誰かに会えないだろうかと淡い期待を寄せていたのだが、その期待はあっさりと裏切られることになった。廊下には一切の人気がなく、招待客はおろか使用人すら姿を見せない。きっと招待客は食事室でだらだらと主役のいない退屈なおしゃべりを繰り広げているか、もしくはうんざりして撞球室にでもいるのだろう。雨の日の娯楽なんてそのくらいだ。
 当然のことだが、アメリアは招待客たちが楽しんでいるなんて夢にも思わなかった。
そして実際、現実はアメリアの想像通りの展開を見せていた。招待客は朝から雨と霧にうんざりして、退屈で陰鬱な時間をだらだらと過ごしていた。アメリアは昨日の夜から謹慎処分で姿が見えないし、アンナは朝から体調が優れないからと部屋に閉じこもっていたし、いくら男たちが淑女をもてはやしたいと思っていたところで、その相手がエマ・アボットではやる気もあがらないというものだ。それに、エマはエマでアメリアの昨日の恥ずべき行いを手紙にしたためて女友だちに広めるので手一杯だった。そんなわけで今日の社交は閑(かん)暇(か)でいっそう憂鬱なものだった。
「運良く誰か通りがかってくれれば良いんだけど――オルコット以外で」
 この南ポーチに面した廊下は屋敷の中の主要な連絡通路の一つで、どこへ行くとしたって最短経路で行くのならここを通らないわけにはいかない。その上、使用人たちはあまり通らない。そのためここはこういうときに限らずアメリアの狩り場の一つだった。
 ポーチの先には豊かな庭園が広がっている。今日はあいにくの天気だが、晴れているときのここからの眺めはいつも素晴らしくて、通りがかるたびに足を止めずにはいられない。アメリアはしばらく霧に紛れる美しい庭園を見つめて心を落ち着けた。花壇には色とりどりの花が植わっていて、それが霧のせいで薄ぼんやりとしてみえる。南ポーチから庭園へ続く階段では激しい雨がパチパチと地面に打ちつけられて水滴が弾けるのがみえた。
 しばらくその風景を見つめながら歌を口ずさんでいると誰かが近づいてくる音がした。アメリアはその音には気が付かない振りをしながら歌を続けた。
「アメリアさん?」
 それはミスター・アドルフの声だった。一体どういう経緯でこの回に呼ばれたのかすら分からないくらい接点はなかったけれど(逆に名前を知っていたのが奇跡的だ)、ともかく、今のアメリアは人間で男性ならば誰でもよかったので、名前を呼ばれるなり振り向き、あまりに可憐な笑みを浮かべた。アドルフはその笑みに心を鷲掴みにされかけて、生唾を飲み、慌てて庭園の方に目をやった。それから自分の気持ちを覆い隠すためにも早口でまくしたてた。
「まさか、こんなところでお会いすることになるとは……今朝も朝食の席にいらっしゃらなかったものですから、てっきり厳しい処分が下ったのだろうと思っていたのです。一体どうしてこんなところに?」
「それはわたしの台詞です。屋敷中を探したっていうのに、誰にも会えないんですから。皆さんわたしに隠れて何をなさっていたんですか?」
「玉突きをしていたんですけどね、使用人がまるでやってくる気配がないものだから我慢しかねて探しにいこうかと思いまして――ですが、こうしてあなたと会えるならあながち悪いものでもないですね。それでアメリアさんはどうしてこんなところに?」
「実はとある人を探していたんですけど……なんだか途中でふらふらしてきちゃって。ここで休憩していたんです。それにしたって、ひどい天気ですね。この庭園はうちの自慢なんですよ。もし天気が良ければ二人で庭園を歩けたのに――」と言いかけてアメリアはハッと顔を赤らめた。男はどうやらその言葉を真に受けたらしく心を高鳴らせているのが丸見えだった。心臓から熱とエネルギーが指先まで流れていくのがわかる。どうしたって生を実感するのはこういうときばかりだ。それからアメリアは指先を意味もなく撫でてちょっとした恥じらいを演出した。そのときアドルフはアメリアが手袋をしていないことに気がついて、思わずそれに釘付けにされた。
「どうかここで出会ったことは誰にも言わないでくださいますね? 本当は部屋に居ないといけないことはわかってるんです。でも、一人じゃ、どうしても寂しくて」
 アメリアは白い腕をアドルフの腕にからめて、その腕に頭をもたげた。アドルフはアメリアの地肌があまりにも柔らかくて理性がどうにかなってしまいそうだった。肌の白さはまるで真珠の美しさで、職人が丹精込めてヤスリがけしたかのように滑らかで女性らしい美しさに満ちあふれている。それから露出した肩やバストの膨らみに目を惹かれ、心臓が期待で高鳴った。
「ええ、それはもちろん……。ですが、こんなところにいるのは容認できませんよ。体を冷やしますからね。わたしが話し相手になりますからどこか別の場所へ行きませんか?」
 そうこなくっちゃ。一人じゃ退屈すぎて死んじゃうものね。
 それから二人は恋人のように腕を組みながら廊下を進み、その道中でディラン・エドワーズとばったり鉢合わせた。その隣には今しがたディランを呼びに行ったデイジーが立っていた。相変わらず間の悪い再会にアメリアはうんざりしてすぐに視線をそらし、アドルフの腕にすがりつきながら小さくため息をついた。一方のディランはまるで楽しい見世物でも見ているみたいに、口角をあげて何も言わず優雅に会釈だけして厩舎の方に向かった。あんな扱いされるくらいなら、鵞鳥みたいに騒がれたほうがまだマシってものね。
 二人の正反対の対応にアドルフは首を傾げた。
「一体……お二人はどういうご関係なんですか?」
「別に、大層な名前のある関係ではありませんけど……しいて言うなら〝恩人〟になるんでしょうかね」アメリアのうんざりとした物言いにアドルフはますます首を傾げた。しかしアメリアがこの話をしたくなさそうなことだけは察して、すかさず話題を変えた。もっとも、どっちにしたって登場人物に変わりはないけれど。
「ところで、聞きそびれていましたがアメリアさんは誰を探しておられたんですか?」

第十四章 二話

 二人はしばらくサルーンで楽しい会話に勤しんだ。アドルフは今までろくな接点のない人だったが、話してみると案外話し上手で退屈を紛らわすにはもってこいだった。爆発的な楽しさがあるわけでもないが、だらだらと続くたわいもない話は夏の長夜を思わせた。しかしそんな牧歌的な会話も突然ぱたりと終わりを告げた。不思議に思ってアメリアがアドルフの顔をのぞき込むと、その顔はまさしく顔面蒼白といった感じだった。サルーンの入り口を見据えながら見開いた目は死神でも見たかのように震え、途端に二十は年を取ったように感じる。それからアドルフは慌てた様子で立ち上がり、彼の座っていた椅子が大きな音をたてながら倒れた。その口元はやはり小刻みに震えている。
「アドルフさん?」アメリアはきょとんとしながら入口に目をやり、そしてようやくその意味を理解した。サルーンの半分だけ開いた扉の奥には亡霊みたいに影の薄いリックが何も言わず静かに立っていた。体を半分扉に隠して、なんとも言いがたい表情で二人のことを凝視している。一体いつからそこに居たのかはわからないが、アメリアは直感でかなり最初の方から聞いていたのだろうと察した。そうでもなければ、人がこれほど悲壮感を演出することもできないような気がする。リックは腕をだらりと脱力させて、ただ呆然と一点を見つめていた。口は何かを言いかけたかのように半開きの状態で固まっていて、時折眉が苦しげにぴくりと動いていた。
 アドルフはリックのその姿に途端に罪悪感に駆られ、別れも言わずにそそくさとその場を後にした。アメリアはその後ろ姿を目線だけで追いながら、相変わらず茫然自失としているリックを視界の端に捉えて、はらわたが沸々と煮えくり返るのを感じた。
「せっかく良いところだったっていうのに! 本当にこの人ってわたしをどうにかして苦しめたくて仕方がないみたいね! ただでさえ、婚約者っていう立場であれこれ制限をかけてくるっていうのに、わたしの善良な話し相手まで奪おうっていうんだから。本当にひどい話!」
リックは相変わらず何かを言いかけた状態で硬直していたが、わざわざ自分がこのナメクジみたいにのろまな男を待ってやる必要があるとも思えなかった。ましてや、おそらく傷つけたであろう自尊心を慰めたり言い訳をしたりなんて想像しただけで頭がおかしくなりそうだ。どうか察してくれと言わんばかりの表情は見ているだけでむかっ腹が立って、昨日の傷口がうずくような気がした。 
 アメリアは苛々しながら椅子から立ちあがるとリックとは目も合わせずに黙って廊下を踏みしめた。後ろからはリックが親鳥を追いかける雛みたいな情けなさで追いかけてくるが、わざわざ止まって言い訳を聞くほどアメリアは優しくない。
「いつだってリックは人畜無害な羊みたいって思うけど、今日はなおさらね。それも、ご自慢の毛を全て刈り落とされたあとみたい。なんだか貧相でどこかみすぼらしくみえるもの。それにしたっていつまでついてくるつもりなのかしら。本当に鬱陶しい!」アドルフと出会った南ポーチまで戻るとアメリアは庭園の方へと足を運んだ。前が見えないほどの霧ではあったが、幸いにも今朝のひどい雨は止んでいた。足下はぬかるんだり水たまりがあったり、あまり良い環境とは言いがたいけれど、とにかくこれ以上つきまとわれるのはうんざりだった。「これでどうにか、撒けるといいんだけど」
 庭園の方をぐるりとまわると、厩舎を通って裏口から屋敷の中に入れる。ドレスを汚さないように軽く両端をつまんでアメリアはゆっくりと歩みを進めた。霧によってできた露が庭園の草花にしたたり、庭園にいっそうのみずみずしさが生まれていた。静まりかえった庭園には厩舎から馬が鼻を鳴らす音とデイジーのうわずった声が響いている。アメリアはきっとそこにいるであろうディランのことを思い、ため息をついた。
「ああ、また憂鬱な再会をする羽目になりそう。でもリックとつまらない会話をするよりはよっぽどマシね。エドワーズさんももう少しわたしを丁重に扱ってくれればいうことないのに」なんて思いながらも、アメリアは昨日の一件を思い出して唇に小さく弧を描いた。どれほど否定の言葉を尽くしたって、彼が自分のことを無視できない程度に気に入っているというのは変わりようのない事実なのだ。けむに巻くような言葉の数々の中から、アメリアは確かにその匂いを嗅ぎ取っていた。「あまり素直ではないみたいだけど、きっとそのうちわたしに骨抜きにされる日がくるわ」
 ディラン・エドワーズはアメリアの想像通りデイジーを伴って厩舎の側に佇んでいた。アメリアが背後から近づくとすぐにそれに気がつき、振り向いて軽く頭を下げた。
「今日はよくお会いしますね」
「ええ、わたしたち案外気があうのかもね」
 我ながらなんて気の迷いかしら、気が合うだなんて。アメリアは口にしてから自分自身に驚いた。それからきっとまた小馬鹿にしたような返しがあるのだろうと思ったけれど、予想に反してディランは楽しそうに笑ってそれを肯定した。
「それはそうだろう。なんたって似たもの同士だ。つまり互いに傲慢で身勝手だ」
 アメリアが反論するよりも前に隣に佇んでいたデイジーが妙に興奮しながら口を挟んだ。
「それにお二人とも本当に容姿端麗ですからね! こうして並んでみると本当に際立って素敵ですよ!」デイジーはアメリアの両手をぎゅっと包み込むと相変わらずギラギラした瞳で続けた。「アメリアさまもどうかご心配なく! ディナーまでにはどうにか旦那さまを説得して、アメリアさまが堂々と会話に参加できるようにいたしますから! 全てこのデイジーにお任せくださいね。それでは、わたしはこの辺で失礼します」
 立ち去るデイジーはスキップでもしそうなほど浮かれていて、エプロンで隠れたスカートのポケットが重たそうに垂れ下がっているのが見えた。
「また何か握らせたのね?」
「ああ、もちろん。仕事分は報酬が支払われるべきだろう? 資本主義の基本だ」
「どうしてネックレスやブレスレットなんかにして渡すの? 結局お金を渡すのと変わらないじゃない。次に街にでたら確実に質に入れられるっていうのに」
「君は本当に女心がわかってないな。男たちばかりを気にしてないで、もう少し同性にも気を払ったらどうだ? そうすれば昨日みたく花瓶を取り出す回数も減るだろう。いいかい? わたしがわざわざ現物を渡すのは彼女たちの楽しみのためさ。彼女たちにとっては上手く逸話をつけたりして質屋の旦那をだまくらかして一ポンドでも多く引き出せたときが最も楽しい瞬間なんだよ。だからわたしは甲斐甲斐しくも実際の値段よりも随分低く見積もって彼女たちの手に滑り込ませるんだ。実際に相場よりはだいぶ安い値段で融通してもらっているが――とにかく、その苦労がより一層、金を大切なものにさせるのさ。そういうものだろ?」
「わたしは紙切れと硬貨になるくらいなら金の鎖のままで居て欲しいけど」
「あんなくずみたいな宝石をありがたがるもんじゃない。君にはもっと良いものをあげよう。あの様子のおかしな彼女が嫉妬で狂うくらいの品をね」
「あら、一体どうしてかしら」
「何しろお綺麗なご令嬢を飾りつけるのが唯一の趣味ですから。これで満足しましたか? 傲慢なお嬢さん」
「お言葉はうれしいですけど、あまり高価なものは受け取れませんわ」
「それは実物をみてから決めてもらおう。はねのけるのも馬鹿馬鹿しいと思えるくらいの品をご用意しますよ。きっとね。もっとも、恋人がいる手前受け取りづらいかもしれませんがね」
 アメリアはギクッとして視線をそらした。ディランはその反応が相変わらず楽しくてたまらないようで、肩を揺らして笑っていた。
「いやいや、別に追及しようって気はありませんよ。あなたが恋人を差し置いて他の紳士と密会を楽しもうとわたしには関係のない話ですから。それにしたって昨日はわたしの腕に抱かれていたっていうのに、変わり身が早い人だ。ですが、正直なところをいうなら今の婚約者よりも今日の男の方がまだ良いのではありませんか?」
「それは……わたしの考えることじゃないわ。男性を天秤にかけて選ぶなんて、淑女のすることじゃないもの。それに、第一、昨日の出来事は例外よ。何しろ昨日のわたしは様子がおかしかったじゃない。それにあんなの数のうちに入らないでしょ。ティーンじゃあるまいし、手を握った握らなかったとか、軽く抱きしめたうんぬんでいちいち我が物顔されたらキリがないわ」
「それもそうですね。一つ付け加えるとすればあなたの様子がおかしいのは何も昨日だけではないってところですか? それにしたって行きと帰りで隣にいる人物が変化するなんて不可思議なこともあるものです」そのとき屋敷の窓に亡霊みたいに力なく歩くリックの姿を見つけた。
「恋人はいいのかい?」わかりやすい当てこすりにアメリアはムッとしてディランから顔を背けた。
「あんな人もう知るものですか」
「それは良い。なら今すぐ別れを告げてくることだ」
「あのね、そういう訳にもいかないのよ。婚約っていうのはなんだか複雑怪奇な契約でそう簡単にどうこうできるものでもないのよ。それに今そんな面倒事を持ち込んでご覧なさい。お母さまはいよいよ心労で帰らぬ人になるわ。それに、一体どういう理由で婚約を破棄するっていうの? どうあがいてもわたしが悪者になっちゃうじゃない」
「この期に及んで、まだ自分の名声が気になるだなんて不思議な話だ。気にするならもっと――そんな怖い顔しなくたっていいだろう。まぁ、いつか心底うんざりする日がくるさ」
「その前にあなたがわたしに接近禁止令を出されるわよ」
「その時はその時だ」

第十五章 一話

 アメリアの懸命な祈りも虚しく、三日目の朝にはあっさりと天候は回復した。そしてさらに憎らしいことに昨日までの雷鳴とどろく二日間が嘘のような晴天ぶりだった。空には雲ひとつなく、どこまでも続くようなサルビアブルーの空にコマドリが何羽か列をなして飛び、心地よい初夏の風がスミレの匂いを屋敷へと運んだ。森の原住民である鳥たちは声の出し方を忘れてしまったらしく、ぎこちない鳴き声で愛を囁きあっている。ただし、小屋の鶏だけは例外で数日分の鬱憤を晴らすかのようにかまびすしい声を上げていた。
 エレンの小さな庭園では数日の雨を受けて、長いこと蕾(つぼみ)のままだった花たちが一斉に咲き始め、招待客は思わず感嘆の声をあげた。花や茎を伝う水滴は太陽の光を美しく反射し、その輝きは目が眩むほどだ。活気あふれる朝食が終われば、誰かが庭園を散歩しましょうと提案するのに時間はかからなかったし、勿論それに反対する人なんて誰もいなかった。
 この庭園の守り人であるエレン・スレイターは決して自分の才気を顕示して名声を得ようとする人ではなかったし、普段から主人の後ろに付き従うような歴とした貴婦人だったのであまり知られていないことだが、エレンの審美的な感覚は凄まじいものがあった。
 とくにその中でも、彼女のひそかな趣味であるこの庭園は小さいながらもよく出来た造りで、たとえ何組の恋人が一斉に詰めかけようとも、一度離れてしまえば互いの存在なんてまるで感知できなくなるようにつくられていた。たとえば木で視線を妨げたり、薔薇のアーチで視界を遮ったり、エレンは何かと気がまわる人間だったのでそれがこの庭園づくりにも大いに生かされていた。何気なく置かれたベンチも二人だけの語らいをするのにはうってつけで、幼い頃からその仕掛けを知っていたアメリアはそのベンチで随分といろいろなロマンスを育んだものだった。空に浮かぶ月を眺めながらそっと手に触れてみたり、夕日にほんのりと赤みを帯びる顔を見つめたりすると男たちは面白いくらい簡単にアメリアの虜になるのだ。それに庭園から花を一輪ばかり拝借して、即席の贈り物を用意するのにも事欠かさない。要するに子供の頃から、そして今も変わらずこの庭園はアメリアのお気に入りの場所なのだ。
そして今日も大勢で歩きまわるとありがちなように、全員が列をなして歩いていたのは最初の数十秒だけだった。いつの間にかひそかに互いを想いあっている男女が抜け、そして更に報われない恋に嘆く二人が抜け、最後に余った二人が嫌々細道に入っていった(ちなみに、その二人のうち一人はアドルフさんだ。一昨日の甘い言葉を思い出してアメリアが自分を選んでくれないかとひそかに期待していたのだが、さすがに婚約者の前で出しゃばる勇気はなかった)。そして気がつけば列にはアンナとディラン、それからリックとアメリアだけが取り残されていた。
 先頭を歩くのはアメリアとディランだ。アメリアはリックなんて素知らぬ顔でディランと肩を並べて歩いていた。リックはその後ろを悲痛さすら感じさせる面持ちでトボトボとついてきて、アンナはその斜め後ろで不機嫌そうにアメリアを睨みつけている。アメリアとディランの会話は思わず笑いだしてしまうほど楽しいときもあれば、一触即発の剣呑な雰囲気を漂わせていることもあった。とにかく会話の予測なんてまるで不可能で、一分後に自分が抱いている感情すら予想できない。その点が定型文でしか会話ができないような不出来な紳士とは一線を画していた。
 ディランは会話の中で度々アメリアとリックの関係を茶化した。
「確実に君はいつか刺されるな。いや、つい数日前に刺されたばかりか。いい加減、後ろでビクビクしている彼に微笑むか婚約破棄を言い渡したらどうだい? それか贈り物を突き返すとか。まぁ、伝わらなくもないだろう――もっとも何か贈り物を受け取っていればという話ですが」
「ついこの間リックはわたしに詩集を贈ってくれたわ」
「どうせ開いてもないだろう」
「失礼ね。開いたわよ。開きはしたわ」加えて言うなら最初の一行だけは目を通した。
「一体何を期待してそんなものを贈るのかわたしには理解しかねますね。君をどれほど教育したってその口から愛の詩が飛び出すことはないだろうに。徒労を見かけるといつも胸が締めつけられる」
「あなたって、どうしてもわたしたちの仲をつつきたくてしょうがないみたいね?」アメリアはムッとして答えた。
「ええ、かなり。何しろ最近の何よりも楽しい話題でね。それに歪な関係に首を突っ込みたくなるのはお互いに同じだろう?」
「わたしは人の恋路に口を挟むほど野暮なことはしないわよ。ましてや愛しあってる二人を引き裂こうだなんて一度たりとも思ったことがないわ」なぜだかわたしが登場すると美しい恋物語が終焉に導かれることはしょっちゅうだけど……。
「愛し合ってる?」ディランは怪訝な顔で反射的に聞き返した。「君たちが?」
「そうよ。たしかにうんざりすることもあるけど、でもリックはわたしの運命の相手に違いないもの」
 ディランはアメリアの言葉を鼻で笑って否定した。そういう態度にアメリアがすぐカッとなるのもいつものことだ。
「でしたら、さっさと相手をしてあげたらどうです? その運命とやらも君の態度次第ではそっぽを向くんじゃありませんか?」
「あなたがいうとそういうロマンチックで素敵な言葉も道ばたの小石に早変わりね。言われなくたってそうするつもりでした。行きましょう、リック」
 アメリアはリックの腕をとり、分岐した小道に入った。小道に入ればすぐに二人の姿は見えなくなり、血がのぼった頭も少しは冷静さを取り戻した。前の二人の会話なんてこれっぽっちも耳にも入っていなかったリックは突然の指名に混乱状態で、ただ腕を引かれるがままに歩くことしかできなかった。香しい花の匂いもどこか遠くに感じる。
 二人はレースフラワーの咲き誇るベンチに腰を下ろした。リックは緊張と諸々でせっかくの二人きりだというのに一言も口を利けず、隣に座るアメリアに時折ちらちらと視線を送るだけで精一杯だった。「それにしたって、アメリアさんはどうして急に僕の腕を引いたんだろう? きっと僕はもうアメリアさんに嫌われたとばかり思っていたのに――もしかして――」リックはかすかに期待を寄せて、アメリアのことを横目で何度も見つめた。
強い日差しに照らされ、アメリアの長いまつげが白い肌になんとも繊細な影を落としている。肌は抜けるように白く、凹凸のはっきりした顔立ちはさらに強調され、唇は今日の花々のように艶やかで魅力的に見えた。顔の下には細い首と、なだらかな肩が続き、その先にはバストのはっきりとした膨らみがある。ベンチの周りには白いレースフラワーが寄り添いながら咲きみだれ、どれもこれもみずみずしい美しさがあった。アメリアはそのうちの一本を指先で軽くもてあそんだ。はたから見ればそれはまさしく深窓の令嬢という風体だったが、心の中はそれほど穏やかでもない。むしろ、祖国を侵略された臣民のごとく心の内には革命の火花が散っている。
「本当に、本当にあの男ってどうしてこうも癪に障ることばかりいうのかしら! 何の関係もないのにわたしの心の内にずかずかと入り込んで。少しでも心を許したわたしが馬鹿だったわ。ええ、そうよ! 到底紳士とはいえないような人だし、常識なんて通用しないのよ。ああいう輩には一度がつんと言ってやらなくちゃならないわ。そうして――」思わず手に力がこもり、細い茎がぽきりと折れて、アメリアはふと我に返った。「とりあえずは、わたしがリックのことを何とも思っていないとかいうあのばかな妄想を打ち破らなきゃ。リックとわたしの関係が運命じゃないならなんだっていうの? それで、今日こそはあの男の言ってることはまるっきり的外れで何の役にもたたないって叩きつけてやるのよ――でも、一体どうやって?」アメリアはその気もなしに刈り取ってしまった純白の花を愛でながら頭をひねった。
「その……アメリアさん。怪我の方は大丈夫ですか? ソフィーからひどい怪我だと聞いたので……」
「平気よ」愛の証明ほど難しいこともないわ。心の中をどうやって見せろっていうの? それにしたってあの人は一体何が気に入らなくて毎回毎回わたしに突っかかってくるのかしら! しかもまるでわたしの愛が本当の愛じゃないみたいな口ぶりで。それならあの人は本当の愛をご存知だって言うのかしら! 馬鹿馬鹿しい!
「でも、僕は……その、ずっと後悔しているんです。あれほど近くにいたのに、あのとき僕はただ見ていることしかできなくて、本当に自分が不甲斐なくて……愛する人すら守り抜けないのに、どうして僕が顔をあげて歩けるっていうんでしょう?」
 アメリアは自分の思考に夢中になり、リックの話なんてまるで耳に入らず適当な相づちを繰り返した。
 マリアさまって大変ね。こんな楽しくもない長話を延々と聞かないといけないだなんて。それにしても、一体どうしたらあの男をぎゃふんと言わせられるかしら? 
「――どうか許していただけますか?」
「え? ああ、ええ、そうね。もちろん」
 アメリアは必死に話の前振りを思い出してから、気のない返事をした。正直にいうのならリックの懺悔なんて心の底から興味がないし、謝罪を受け入れたところで何が変わるとも思えなかった。しかしどうやら、リックにとっては極めて重要なことだったようで、彼は安堵に肩を下ろすとようやく仮面のような硬い表情を和らげた。それから顔を喜びでいっぱいにして、彼にしては大胆なことに、アメリアの雪のように真っ白な手を握った。アメリアという絶対的な君主に許され、まるで英雄にでもなったような気持ちだったのだ。そして彼はそのままの勢いで、普段なら気恥ずかしくていえないような言葉を口走った。
「アメリアさん、愛しています」
 その時、アメリアは急に脳裏に電流が走るのを感じた。それは別に、アメリアがリックに対する恋心に目覚めたとかそういうわけではなかったけれど、端からみればそう捉えられてもおかしくない動作だった。アメリアは目を見開いたまま息をのんで硬直していた。「そうよ、わたしったらどうしてこんな単純なことに気がつかなかったのかしら! よく考えてみれば、婚約者だっていうのに今の今まで手を握られたこともなかったのね。それにきちんと言葉を受け取ったのだって初めてのことだわ!」それは衝撃的な事実だった。いつも男性に散々愛の言葉をせがむくせに肝心の恋人にはそれをすっかり忘れているだなんて。けれどもなんだか不思議とリックに対してはそういう気持ちを抱かないのだ。
「ずっとあの人がどうしてあんな勘違いをしているのか気になって仕方がなかったけれど、きっとそういうことね。たしかにそういう一面をまるっきり見せなければ、わたしたちが愛し合っていないとかっていうお馬鹿な結論にたどりついたっておかしくないわ。いや、むしろそっちのほうが自然な流れじゃない」それからアメリアは子供みたいに無邪気で間抜けな笑みを浮かべるリックをちらりと見た。「それに――わたしがこの人に熱中できないのも全部そのせいよ。つまり婚約者だなんてまるで名ばかりなんだから。実感がわかないのだって当然の話だわ。だから、要するにわたしたちに必要なのは――」アメリアは決意を固めて、口元に柔らかく笑みを浮かべた。
「ロマンチックなキスよ。そうすればきっとあの人も口を噤(つぐ)むしかないでしょ」
 アメリアの瞳はあまりにも鮮烈なグリーンに輝き、そこに映るすべてを吸い込まんばかりだ。当然のことながら、リックはその並外れた輝きをもろに受けて心臓を貫かれる思いだった。衝撃は全身に広がり、ドクドクと脈打つ激しい鼓動が耳の内側で聞こえる。そのあとで肺を締めつけられて呼吸が浅くなり、全身から血の気が引くのを感じた。
 哀れなリックはアメリアの横顔一つで二度と戻れない狂おしい愛の沼に沈んでいった。アメリアは柔らかく微笑み、リックの肩にその身を委ねた。肩にかかる重みがこれほど愛おしいものなのだとリックはこの時になって初めて気がついた。
「何だかとっても嬉しくて……リック。わたしも愛しています」
 アメリアの言葉は何の感情もまとっていなかった。教科書通りの発音で、いつも通りのリズム。これほど心のこもっていない言葉もなかったけれど、リックは有頂天でそんなことまるで気がつかなかった。ただアメリアの顔に落ちる柔らかい影にうっとりとみとれて、あらためて自分の恋人の美しさに酔いしれた。
「なんて愛らしい人なんだろう。肌は透き通るように白くて、それに――」リックは思わず淡い桃色の唇に視線を奪われた。その唇はいつにも増して艶やかで柔らかそうで、ぷっくりと膨らんでいる。しかし、どうしたって最後の一歩を踏みだす勇気はまるでなくて、リックは唇を見つめたまま硬直した。
「この人って肝心なところで二の足を踏むのね。本当にどうしようもない。けれど今日はそれじゃあ困るのよ」アメリアは動かないリックの太ももに手を添えた。
「ねぇ、リック――ここには二人しかいないわ」
「ええ……そう、ですね……」
「わたしを本当に愛しているっていうなら愛の印が欲しいの」
 多少強引だけど、構うものですか! アメリアはリックのことを潤んだ瞳でじっと見つめてから、目を閉じて顎をあげた。
 しばらく待ってはみたけれど、しかしやはりというべきか、いつまでたってもその時が訪れそうにはない。リックは思わぬ提案にすっかり思考が止まってしまい、瞳を閉じるアメリアを見つめるだけで精一杯だった。
「まさか、まさか、こんなチャンスが巡ってくるだなんて。アメリアさんのことを傷つけてしまったばかりだっていうのに、こんな機会を恵んでくれるなんてこの人はなんて心の広い人なんだろう。でも、困ったぞ。一体どうすればいいのかなんて皆目見当もつかないし――」最初は混乱していたリックだったが、考えているうちにアメリアの艶やかな肌やたわわな胸元に思考を焼かれた。それからあらためて目をつむる恋人のことをじっと観察してみるとそんな些細な混乱や不安よりも更に大きな感情が全身を襲い、呼吸が止まりそうになった。「――それにしたって、それにしたって、僕の恋人はなんてかわいくていじらしいんだろう! 僕がこうして下らないことに悩んでいる間も、じっと暗闇の中で待っていてくれるなんて。そうだ、アメリアさんにここまで言わせてしまったんだ。その気持ちに報いるのが僕の第一の使命じゃないか!」
 五分にも及ぶ長い硬直からようやく解放されて、リックは恐る恐るアメリアの肩に手を置いた。背中に手をまわすべきかとも思ったが、さすがにそれは勇気がなかった。
 肩に触れた感触にアメリアは「やっとだわ」と心の中で呟いた。「それにしたって、リックってどうしていつもこうなのかしら? わたしが散々お膳立てしてあげてるっていうのに、肝心のところで意気地なしなんだろう。この人にもっと男らしい自信とか勇気とかそういうものが備わっていれば――」唇を突き出し、ついにその時になろうというのにアメリアの脳内ではそんな考察が繰り広げられていた。
 それから数秒後、ようやくリックの唇が触れたとき、冷たい春風が髪を揺らした。想像していたような熱もときめきも訪れることはなく、それらは春風と共にどこか遠くへと足早に通り過ぎていった。そこに好感もなければ嫌悪もなかった。ただ、唇が触れる感触があっただけ。
 しばらくの時間を経て、互いの唇が離れるとアメリアはようやく偽りの愛の魔女の呪いがとけたような気がした。全身からスッと熱が抜けて途端に世界全体が色あせて感じる。太古の昔から呪いをとくのは運命の口づけだと相場が決まっているのに、なんと皮肉なものだろう? 口づけによってその運命が勘違いだったと気付かされるだなんて。
 途端にすべてがひどく退屈でどうでもよく思えてきて、アメリアはリックから顔を背けた。先ほどまではあんなに美しいと思っていた庭園ですら、今やただの花の集合体にしか見えない。
 何気なく視線を落とし、先ほど摘みとった花を見つめると、小さな虫が蜜を求めてうごめいているのを見つけてしまい心の底から嫌気がさした。
「リック、これあげる」
「あなたからこんな素晴らしい贈りものをいただけるなんて……この美しい花をあなただと思って大切にします!」胸ポケットに収められた花は他の花々を見下すみたいに自信満々に咲き誇っている。たまたま選ばれただけなのに結構なことだ。けれどその間抜け具合はリックによく似合っているのかもしれない。
 有頂天のリックとは裏腹に、アメリアは一人で混乱していた。たしかにリックの行いにうんざりさせられることは数え切れないほどあったが、それでも心の底から運命の相手だと信じて疑わなかったのだから。その絶対的な盲信にかげりが生まれ、途端に荒野に放り出された子供みたいな気持ちになったのだ。アメリアはしきりにリックの瞳を探り、何か自分が好意を抱けそうな点を探しだろうとした。
「でも、何かの間違いかもしれないでしょ? だって、だって、そんなはずないじゃない。たしかに何も特別な気持ちは抱かなかったけど……」先ほどディランに得々として話した言葉がすべて手のひらを返して自分に突き刺さる。リックの鳶色の瞳には自信なさげな自分が映るだけだ。「わたしは何か壮大な勘違いをしていたっていうの? ――いいえ、そんなはずないわ。だってもし、そうだとしたら……一体この関係はどう終着をつければいいっていうの? きっとそれこそ勘違いってものよ。だってリックはこんなに優しいし、今だってわたしを思う気持ちはちゃんと伝わってるのよ。でも――」
 期待とは裏腹に手を取られようと腰に腕をまわされようと、こみ上げるものは何一つとして存在しない。心は平静そのもので、心の広大な海原には波一つない。
 アメリアが不安そうにリックのことを見上げると、見上げられた本人はきっとあまりにも感極まってこんな風に自分を見上げているのだと勘違いした。そう思えば、普段はおどおどとしていて頼りないリックにも男らしい勇敢さの一片が生まれ、こういうときほど女性をリードしてあげるべきだと確信した。
 リックは得意げにアメリアの腰に手をまわして、それから一瞬ためらってアメリアの体を自分に引き寄せた。アメリアの体はいとも簡単に自分の方にやってきて、リックはその華奢で軽い体に驚いた。女性というのはこれほどまでに柔らかくて、触れるだけで壊れてしまいそうな存在なのか。なんてか弱くて愛らしいんだろう。
 アメリアはいつも男性にしているみたいにその腕に絡みついた。もしかすれば何か込み上げるものがあるかもしれないと思ったからだ。しかし、アメリアの顔色はますます曇っていくばかりだ。リックはその動作に感動すらして、アメリアの表情にはまるで気がつかなかった。
 それどころか、リックは途端にこの絵を誰かに見せつけたい気持ちにかられた。なにしろこれまでの人生で、これほどまでに美しい女性が自分の腕に絡みついてくることなんてただの一度もなかったのだ。それに女性にこれほど尊敬と敬愛(アメリアはただ不安になって顔を覗き込んでいただけなのだが)の眼差しで見上げられたこともない。それをうけてリックの中で長年封印されてきた承認欲求がうごめき始めたのだ。
 リックはアメリアのことを気遣うように優しく言葉をかけた。
「寒くないですか? そろそろ行きましょうか。傷にさわるかもしれませんし」
 腕を組む二人は、一見すれば仲睦まじい恋人のように見えなくもない。リックはあのキス一つでだいぶ調子付いたらしく、精一杯丁寧にアメリアをエスコートしてみせた。今ならアメリアの細い肩を捕まえて、耳元で愛の告白をするとか普段なら気恥ずかしくてできないことも軽々とやってのけそうな気がした。
 リックは聖戦から舞い戻った紳士さながらの態度で、庭園を歩きまわり自分のかわいい恋人のことを自慢して歩いた。しかしどのペアもエレンの魔術にかかり、二人だけの世界に入り込んでいたのでリックが得意気な顔をしていることも、アメリアが困った表情をしているのも気がつく人はいなかった。唯一、この些細な自慢に気が付いたのはディラン・エドワーズただ一人だ。
 二人が薔薇の咲きみだれる小道に入ると、そこのベンチではディランとアンナが何やら静かな様子で話し合っていた。それは決して退屈そうでもないが、教会でのお説教のように形式張っていて、どちらもその内容には大した思い入れがないように見える。アメリアは腕を組みながら、リックの半歩後ろを困惑した面持ちで歩いていた。足は進まず、綺麗な庭園には目も向かなかったが、腕を組んでいることが幸いして動くことは出来たのだ。
 二人がディランとアンナの前を通りがかったとき、ちょうど強風でリックの胸ポケットから例の花が地面に落ちた。ディランはそれを丁寧に拾い上げ、その花をじっと見つめてからリックに返した。
 それからアメリアのことを横目で見つめて、訳知り顔で眉をあげた。アメリアの微妙な表情を見ずとも、リックの変わりようをみれば二人の間に何か進展があったというのは言うまでもなく明らかだった。ディランはわざとらしく肩をすくめた。
「どうやらミス・スレイターは随分疲れているようですし。そろそろ引き上げてはいかがですか?」
 リックとしても見せびらかす目的は果たせたし、何よりアメリアに無理をさせるのは心が痛んだので、リックは自慢もそこそこにディランの提案に乗ることにした。
「そうですね。たしかに……そうします」
 ところがこのときリックは散々庭園内を歩きまわったせいで方向感覚を失っていた。この庭園を知り尽くしているアメリアに助けを求めても、彼女は自分に一生懸命でリックが困っていることすら気がつかなかった。
 いよいよリックが困り果てて、仕方なく適当な方向に歩き出すとディランはくすっと笑ってアドバイスした。
「向こうから行ったほうがいいかと」

 帰り際になってディランは例の黒鹿毛の牝馬にまたがり、お別れの挨拶代わりに皮肉をいっぱいに含んだ顔色で「ミス・スレイターは随分な進展があったようだ」と楽しそうに茶化した。そんな軽口にもアメリアはまるで上手く答えられなかった。

第十五章 二話

 それから数日が経ったころ、あの冒涜的な医学書を執筆した本人にして、あの不遜な男の友人であるアルフレッド・ウィリアムが屋敷を訪ねた。新しい医者が訪ねてくるなり、使用人たちは果たして本当にあの男が連れてきた医者が奥さまを診るに値するのか徹底的に調べ抜くつもりで、いそいそと玄関の柱の裏からその男を覗き込んだ。当然のことながら、アメリアもあの男の友人ということで興味津々で、使用人に混じりながらその様子をうかがった。
 その人は小洒落た伊達男だったが、軽薄なところは微塵も感じられず、むしろ誠実そうな好青年だった。身につけたコートや帽子は(どうやらピンと来たのはアメリアだけだったようだが)どれも今のトレンドの品で、たしかどちらもエドガーが欲しいと唸(うな)っていたはずだ。その上、着こなしも一流で、光の反射するステッキの代わりに使い古された診察用の鞄(かばん)が握られているのが不思議に思えてしまうくらいだ。
「想像よりもよっぽど素敵な人ね」医者といえばダーシー医師しか知らないアメリアは思わずそんな感想をもらした。たしかにダーシー医師だってコートは羽織っているけれど、それももう二十年は前のものだったし、帽子は帽子でもぺちゃんこで常々みすぼらしいと思っていたのだ。
 オルコットは柱から半分身を乗りだして男のことをまじまじと凝視して、それから悔しまぎれに鼻を鳴らした。あの男の知り合いだからけなしたくて堪らなかったのだが、パッと見る限りつつけそうな粗はなかったのだ。しかし、ディラン・エドワーズの知り合いが清廉潔白なわけがない。そんな輩を愛すべき奥様に近づけるだなんてオルコットからすれば言語道断だった。蛇のように視線を細くして罪状をみつけようとするオルコットをチラリと見てから、アメリアは柱の影から飛びだした。
「そんなに怖い顔をしなくたって、わたしがあの人の本性をきっと暴いてきてあげるわよ」アメリアの瞳は新しい紳士への期待でキラキラと輝き、今にろくでもないことをしでかすのは誰の目から見ても明らかだった。信心深いオルコットはアメリアの横暴を止めるべきかと一瞬悩んだが、今回ばかりは好きにさせることにした。何より、それが一番手っ取り早い方法だとわかっていた。
 アメリアは蝶のように軽やかに医者の前におどりでて、彼女と対面した人なら誰もがお馴染みの甘い香りを漂わせながらにこやかに微笑んだ。
「初めまして、長女のアメリア・スレイターです。あの悪名高いディラン・エドワーズのご学友だっていうから、どんな悪漢がやってくるのかとワクワクしていましたのに」
「ああ、あなたが! 噂はかねがね聞いています。どうも初めまして、ミス・アメリア。アルフレッド・ウィリアムです。それにしても、ディランからの紹介となるとかなり過激な想像をされたのではありませんか?」
「わたしは別に。彼はわたしのオトモダチですから」ただ、最近はめっきり姿を見せないけれど。「でも、想像の何倍も優しそうで拍子抜けしちゃいました。何しろお医者さまってちょっと粗暴な感じの人が多い印象ですもの」
「ご期待に添えずに申し訳ない。わたしは彼の良い方の友人ですから」
「悪いお友だちもいらっしゃるの?」
「それはなんとも、ただ淑女の耳に入れるようなことではありませんね。その辺は直接聞いてください。きっと色々説明してくれるはずですよ」それから若い医者はアメリアのことをじっと見つめた。「それにしても見ればわかるとのことでしたが、たしかに類まねなる美しさですね。実はあなたに一つお渡ししないといけないものがあるんです。ここで渡すと何かよからぬ企みをもってやってきたみたいな印象を与えるかもしれませんが……」と言いながらアルフレッドは柱の陰に隠れて二人を観察する使用人の方をちらりと確認した。「とはいえ、きっと早いうちに渡しておいた方が良いでしょう」そういうと医者は懐から一通の封筒を取り出した。
「これはミス・アメリアに。ディランからです」
「ディランから!?」アメリアは封筒を受け取るとパッと花が咲いたような笑みを浮かべ、それを抱きしめて小さく笑みをもらした。「まぁ! ご親切にありがとうございます!」軽く頭を下げてから、アメリアはドレスをひるがえし階段を駆けあがった。後ろからオルコットの刺すような視線を感じたけれど、そんなものこの手紙を前にすれば些細なことだ。
 アメリアは自室に駆け込むとベッドに勢いよく腰を下ろした。そのせいで埃が舞って、窓から差し込む光を雪のようにきらきらと反射させている。
 その封筒は宛名も何もない簡素なものだったが、今までもらったどんな手紙よりも嬉しくてアメリアはそれを開く前から楽しい想像にふけった。「ああ、一体何かしら。ダンスのお誘い? それとも、もしかして……愛の告白だったらどうしようかしら! もちろん、あの人がそんなことを言うわけないっていうのはわかっているけど!」
 封筒を開いて便箋を取りだすと、まるで贈り物の鮮やかなリボンをほどく時のように心臓が跳ねてくすぐったかった。しかし、いつだって贈り物はリボンをほどく時が一番ワクワクするものだ。その文章を読むなりアメリアの表情からは笑みがスッと消えて、手紙を握る両手に力が入り紙が小さく音を立てた。
 手紙には豪胆な筆跡で飾り気もない一文だけが書かれていた。

   一枚はあなたに、もう一枚はあなたの素敵な恋人に。
  ディラン・エドワーズより

 それ以外に文字はなく、封筒の中には二枚のオペラチケットが同封されているだけだ。アメリアは浅ましくも二枚目の便箋を見つけようと躍起になっている自分がいることに気がついて、その途端に全身の肌をかきむしりたいような激しい衝動に駆られた。それは相変わらずあの男が自分に言及してくれない苛立ちからでもあったし、あんな男に期待して、心を躍らせていた自分が急に滑稽で恥ずかしく思えてきたからでもあったし、単純に寂しいからでもあった。アメリアは自分ではまるで気がついていなかったけれど、その実ディランに会えるのをかなり心待ちにしているのだ。しかし今回もアメリアがその事実に気がつくことはなかった。ただ、胸の辺りが変に締め付けられ、それと同時に喉が締まり、どうしようもなく目頭が熱くなるの自覚するので精一杯だった。
 アメリアは苛立ちに任せて、手紙をぐちゃぐちゃに丸めて部屋の隅に投げ捨てた。それからドレスがしわだらけになるのも気にせずに膝に顔を埋めた。「わたしのことなんてどうでも良いっていうの? こんなに長時間放って置かれるなんて初めてよ。いつまでもわたしが犬みたいに従順に帰りを待ってるとでも思っているの? ああ、それに、それにこの後に及んでまだリックとの仲をつつきたがるだなんて。本当に、最低で――趣味の悪い――最悪な男! あんな男、大嫌い!」
 じっとしていたら今にも目から何かがこぼれてきそうで、アメリアはきつく唇を噛みしめ、力任せにベッドを叩いた。とにかくこの不快な感情を丸ごと発散しないことにはどうしようもなかった。部屋をぐるりと見回して、その緑の瞳が窓際に置かれた花瓶にとまった。色とりどりの花は機嫌良さそうに咲きほこり、とにかく腹が立った。いましめにすべてを滅茶苦茶にしてやろうと近づいたところで、ちょうど部屋が荒々しくノックされ、怒りで顔を真っ赤にしたオルコットが姿を現した。
「一体どういうつもりだい!? 客人の前であれほど軽はずみな行動をとるだなんてねぇ! ドレスをひるがえして階段を駆けあがるだなんて、ああおぞましい!」
「うるさいわね、オルコットこそ黙ったらどうなの? 階下に聞こえるわよ」
 オルコットは黙る気なんてさらさらないらしく、扉を乱雑にしめてからアメリアに詰め寄った。扉の閉まる音はまるで耳元で鳴っているかのように大音量で、アメリアの神経を逆撫でした。
「いや、今日という今日は我慢なりゃしませんよ! それにあたしの目の黒い内にあの男からの手紙を受け取るだなんてねぇ! さぁ、あの手紙を渡すんだよ! 一体どんな恐ろしいことが書いてあるんだか……」オルコットは恐ろしい妄想をして、両手をしきりに揉みながら宙を睨んだ。
「手紙ならそこにあるわよ」アメリアはぐちゃぐちゃに丸まった手紙を指さして毒づいた「本当にご親切な人! わたしたちの冷えきった仲を思って頼んでもないのにオペラのチケットを譲ってくださったんですって! 本当にいい迷惑だわ」
 オルコットは手紙を拾い上げ、その文面に目を通すなり抜け目ない瞳を輝かせ、してやったりという表情でアメリアのことを見つめた。
「あのお方もたまには粋な計らいってやつをするものだね? それにどうやらアメリアさまのことなんてろくに記憶にも残っていないらしいじゃないか」オルコットの手紙を見つめる顔はいかにも嬉しそうでアメリアは尚更腹がたった。
「それで、そのチケットとやらはどうするんです?」
「どうするって――」アメリアはオペラチケットを横目でちらりとみた。どうやら上席のようだけれど、それを見ていると短すぎる手紙の文面を思い出してまた頭に血が上った。「捨てるわ。もしくは今すぐ引き裂いてもいいけど」辛辣に言い放ったアメリアにオルコットは珍しく優しく諭すような口調になった。
「おやめなさい、アメリアさま。それに、そんなことをしてごらん。奥さまに一部始終を報告する羽目になるよ。何しろ今は繊細な時期だからね。まさかアメリアさまも奥さまに心配はかけたくないだろう? それに……ま、あたしがこんなことをいうのもあれですけどね。これはエドワーズ卿からの歴とした挑発ですよ」
「挑発?」アメリアは聞き返した。
「あのお方は最後までお二人の仲を勘ぐっておられましたからねぇ。それどころか、もうすでにアメリアさまは捨てられて縁談ごとなかったことになっていてもおかしくないと踏んでいるかも。あの男なら考えそうなもんですよ」
「このわたしが!? ありえないわ!」
「真意はわかりませんが、最近のアメリアさまの冷たさはロンドン中に知れ渡っているはずですからね。ですがアメリアさま。よくお考えなさい。このオペラをお二人で観にいけば、そのあらぬ疑いを完膚なきまでに晴らせるでしょう? あたしだってかわいいお嬢さまにそんな嫌疑がかかってるとあらば黙っていられませんよ。ええ、もちろん。それから、どうせならしばらくアビー叔母さまのところで気を落ち着けてきてはいかがです? どのみち、あのお方はアメリアさまのことなんてすっかりお忘れのようだし、ここにいたって気がたかぶるだけだろうしねぇ。若いころは誰しもそういう経験の一度や二度はするものですよ。たとえそれがアメリアさまみたいにお綺麗な人であってもね」
 カッとなりやすいアメリアはオルコットの挑発にあっさりと引っかかった。
「言われなくたってそうするわ!」それだけ吐き捨てると、アメリアは廊下へ飛び出した。「ソフィーはどこ!? 荷造りしてちょうだい!」幸いなことにもソフィーはすぐに見つかった。
 ソフィーはエレンのところに届ける水差しを持ちながら、信じられないという顔でアメリアのことを睨みつけた。
「こんなときに一体どこへ行くっていうんですか?」
「アビー叔母さまのところよ!」
「わたしは行きませんよ、アメリアさま。大体、お医者さまも変わったばかりで何かと気苦労の絶えない奥さまをこのままにして、ロンドンに滞在するなんて普通の感性をお持ちなら誰ができるっていうんですかね」
 辛辣な口調で責めたてられると手紙を読んでいた時と同じ場所がズキズキと痛んだ。しかし、一度火のついた脳内はそう簡単に冷静になるものでもない。アメリアは同じ鋭さでソフィーのことを睨み返した。
「ああ、そう。ならいいわ、別にあなたじゃなくたって構わないもの。わたしはデイジーと行くから」
 その言葉にソフィーは痛ましげに眉を下げて、まるでアメリアと同じ場所が痛んでいるみたいに胸のあたりを両手でぎゅっと握った。別にそんな言葉が言いたいわけではなかったけれど、今の頭では謝罪をする気にもならなかったし、だからといってその動作を見ているのも胸が締めつけられる。アメリアは鼻を鳴らしてさっさとその場を後にした。
 ソフィーはアメリアのことを視線だけで追いかけて、何かを言いかけたがそれはオルコットによって制止された。
「放っておくんだね、ソフィー。今回ばかりは止めようとしたらあたしがただじゃおかないよ。きっとしばらくしないうちにあの男はまた屋敷を訪ねてくるさ。そのときにアメリアさまがいない方が都合がいいだろう? それに、うまくいけばリック・アボットとの仲も深まるかもしれないしね。あたしはアメリアさまが、アンナさまの婚約者をかどわかすよりはみそっかすみたいなリック・アボットと結婚してくれた方がよっぽどすっきりするよ」
 ソフィーは困り顔でアメリアが消えていった廊下をただ眺めた。

第十五章 三話

 六月の中旬、アメリアはリックと共にオペラを鑑賞した。正直に言うのなら、リックと一緒にいるのは苦痛以外の何者でもなかった。リックはあの口付け以来奇妙な自信に満ちあふれていると言うのに、なぜだかアメリアはリックの顔を見るだけでどうしようもなく不愉快な気持ちが湧きあがった。
 オペラは『リゴレット』〔ジュゼッペ・ヴェルディ作。リゴレットの娘ジルダが公爵にもてあそばれ、リゴレットは殺害を依頼するのだが、娘は公爵の身代わりとなって死んでしまう〕という題が振られていた。内容はオペラや演劇なんかによくあるようなちょっぴり刺激的なラブストーリーで、リックは「アメリアさんの気分が悪くならなければいいけど……」と要らぬ心配をして、何度も顔を覗き込んだ。
 劇中の主人公はいつかみたメアリーと同じ表情をしていた。果たして自分はリックに対してあんな表情を浮かべる気になったことが一度だってあっただろうか? それに、一度だって手紙を待ち望みにしたり、皮膚が触れあうのを楽しんだりしたことがあっただろうか? アメリアはますます激しくなる愛憎劇を眺めながら、ようやく自分の心の奥底を見通した。
「わたし、やっぱりリックのことなんて好きでもなんでもないのね。ああ、わたしったら一体どうしてあの日、リックに唇を許すような真似をしたのかしら。いや、それ以前に一体どうしてリックなんかのことを好きだと思い込んでいたのかしら?」それからアメリアはこうも思った。「オルコットはなんだか好き勝手言っていたけど、きっとディランはこれが目的だったのね。あの人の考えそうなことだわ。少し気に入らないけれど……この過ちに気づかせてくれたんだから感謝しないといけないのかもね」
 劇が終わるころにはアメリアの心を覆いつくしていた暗雲は影も形もなくなり、すっきりした気持ちでいっぱいだった。ようやく自分の心に整理がつき、この歪な関係を清算する決意が固まったのだ。もう未練も何も残ってはいなかった。
 ホールからでるとアメリアは外の清々しい天気と眩しさに目をくらませた。ロイヤル・オペラ・ハウスの前には沢山の馬車が横付けされていて、人がごった返しとんでもない賑わいだった。あちこちで御者が大声で悪態をつく声が聞こえ、あっちでは娘たちが予期せぬ再会に高い声をあげていたりする。それから男好きで有名なビヴァリー・ルース夫人が今日もまた新しい男を連れていたり(きっとこれは明日の朝にはロンドン中に知れ渡ることになるだろう!)他にも怪しげな関係の男女が見受けられたりした。
 そんな中でアメリアは当然のように大勢に取り囲まれ、数えきれないほどの挨拶を受けることになった。アメリアは機嫌よくそのすべてに対応した。幸いなことにもそれを邪魔する人は誰もいなかった。さっきまでは隣にいたはずのリックですら、いつの間にか人の波に押し流されて、今や道路のはるか遠くでアメリアを見つめることしかできなかったのだ。アメリアはそんなリックには気が付かないふりをした。
「ちょうどいいわ。もうリックと一緒にいる意味もなくなったし、このままこっそり叔母さまの家まで逃げてしまおう。別に、嫌いってほどでもないけど一緒にいてもっと楽しい人はたくさんいるわ」
 劇場から歩道に続くステップを軽やかに降りて、アメリアは誰か暇そうな男を捕まえようと辺りを見回した。その時、アメリアの耳にたまたま二人の青年将校の会話が届いた。一人の方は人混みに随分苛立っているようで、道路に唾を吐き、その口からはとめどなく悪態が飛びだしている。
「ああ、クソ! 一体この人だかりはどうなってるっていうんだか! アンドレイ・アッカー! 誓って言うけど、普段はこんな感じじゃないんだぜ! 本当に一体何がどうなっているんだか……」
 突然耳に飛び込んだその名前にアメリアは頭を金槌で叩かれたような衝撃を受けた。しかしすぐにはその名前をどこで聞いたのかは思い出せなかった。なんだったかしら、ええと。でも、たしかにどこかで聞いた名前だわ。アメリアがその方向をみたまま硬直し、頭をひねっていると悪態をついていた青年将校とふいに目があった。驚いたことにそれも知った顔だった。
 男はアメリアを一目見るなり瞳を輝かせて大声をあげた。
「アメリアじゃないか! どうしてこんなところに? とするとこの人混みの発生源はあなただった訳ですね! なるほど、それなら納得だ。お一人ですか?」人混みをかきわけてアメリアのところまでやってくると青年はその手をとって恭しくキスを落とした。
「ええ、まぁ……」アメリアはちらりと背後を見た。リックの姿は随分遠くになって、リックがどんなに情けない顔をしているのかも視界に入らなかった。「はぐれちゃったみたいね。でも、まさかこんなところでジェームズに会えるなんて驚いちゃった。いつ帰ってきたの?」
「たったの三日前さ」
 会話をしながらもアメリアの視線は度々隣の人物に吸い寄せられ、その名前がアンナの秘密の文通相手だと思いだしたときには衝撃のあまり声が出そうになった。一方でアンドレイはアメリアを初めて見た人々が往々にしてそうなるように、アメリアのことをじっと見つめて心の中でその美しさにただただ感嘆していた。
「こっちはアンドレイ・アッカーです。士官学校時代の友人で、奇妙な巡りあわせで今日まさに運命の再会を果たしたんです。まさかあなたにもお会いできるなんて夢にも思いませんでしたけどね。アンドレイ、この方が例のスレイター家のご令嬢、アメリア・スレイターさんだ。話は何度も聞いてるだろう? それにしたってあなたは本当にますます美しくなるばかりですね」
 若い娘たちがこぞって飛びつく立派な将校たちの間で話題にあがっていると聞いても、かつての恋人(というには幼い頃の話だ)が言葉を尽くして美貌を褒めたたえようとも、アメリアはそれどころではなかった。心の中に不思議な高揚感が広がり、まるで自分が逢(あ)い引(び)きしているかのような錯覚さえ覚えた。
「やっぱり、この人がアンドレイ・アッカーなのね! ああ、どうしよう。まさかこんな所で出会うなんて微塵も思っていなかったのに!」アメリアは背徳感からほんのりと上気した顔をあげ、さり気なくその紳士を観察した。青眼の目はいかにも知的にきらりときらめき、口元には朗らかな笑みを浮かべている。ブロンドの髪は綺麗に整えられて、背筋はしゃんと伸び、軍服のボタンは空を反射させるほどしっかりと磨かれていた。身長は平均的なものだったけれど、その凛々しく引き締まった様子から実際よりも少しだけ高く感じた。
 アンドレイ・アッカーは服についた塵一つ見逃さない勢いのアメリアに少したじろいだ。しかしそれを態度にあらわすのは紳士として見下げ果てる行いだとしっかり理解していたので、努めて顔に出さないように気を配った。何より今まで出会ったどんな淑女よりも美しいアメリアに関心を持たれるというのは悪い気はしなかった。
「初めまして、アンドレイ・アッカーです」
 あのアンナが熱をあげるくらいだからきっととんでもない人なのだろうと思っていたアメリアは拍子抜けだった。素敵な人であることに間違いないし、良識もありそうだし、見た目もいい。とはいえ、アンドレイ・アッカーは何かが決定的に不足しているように思えてならなかった。
 そう、例えるならポセイドンが留守にしている海だ。美しく優美でいかにも雄大だけど、ただ無駄に大きいだけ。水平線はどこまでも平らで、本来あるべき荒れ狂う波だとかそういう荒々しく無骨な部分を全て削ぎ落としたような――ありていにいえばアメリアにはこの人がとてもつまらなく感じたのだ。物静かで綺麗な側面しかない海なんて、水槽と何の変わりがあるのだろう? 古の船乗りたちはどこまでも続く海原の荒れ狂う精(せい)悍(かん)で勇猛な気まぐれにこそ心を躍らせたのではないのだろうか? アメリアは完璧に整った美などにはまるで興味がなかった。
 それからアメリアはいくつか当たりさわりのない質問をした。
 返ってくる答えはいかにも立派でもっともらしいがまさしく教科書通りで劇でも演じている気持ちになった。急速に興味が冷めていくのを感じながらも、二人がそれらしい会話を続けることができたのはエレンの教育の賜物だ。子供のころから淑女としてのあり方を徹底的に仕込まれていたがゆえに、定型文だけのやりとりは頭を使わずともスラスラと勝手に口から出てきた。普段は記憶の深い所に封印していた言葉たちは埃を被っていた割には様になっていると自分でも感じた。
「これはわたしの言葉じゃなくてこの国の文化の言葉だけど、まぁちょうどいいわね。どうせ何の実りもない会話だし、それにこの人ったらわたしが普段の調子で話してたら面食らってちょっと間抜けな感じになりそうだし。それよりも、聞きださないといけないのはアンナのことだわ」
「ところで、アメリアはこれからどこへ? 連れとはぐれたというなら、目的地まで僕たちがお供しますよ。もしよろしければ、ですけど」
「本当に? ありがとう。実は今にでも頼もうと思っていたところだったのよ。ジェームズ、あなたって昔から本当に優しくて立派な人ね」アメリアの言葉にジェームズは気をよくした。

 アメリアが首を傾げるそのはるか後ろで、置いてけぼりを食らった二人の紳士も同様に首を傾げていた。旧友であるジェームズはアメリアの激しやすい性質を知っていたからすぐにショックから立ち直りむしろ懐かしささえ感じたものの、育ちの良い紳士アンドレイはなかなか驚きから帰ってこられなかった。
「ミス・ベネットの婚約者の話をしたのは失敗だったな」
「ああ……何か癪に障るところがあったんだろう。一体どういうことなんだか見当もつかないが、まさかあれほど取り乱すとは」
「きっとミス・ベネットの婚約者だからだと思うね。二人は昔から永遠のライバルだから、人一倍気に食わないのさ。ああ、だからアンナ・ベネットのところへ行くんだったらミス・アメリアに会ったことは言わないほうがいい。さっきの二の舞いになりかねないからな」首を傾げるアンドレイの隣でジェームズは得意気な顔つきになり、自信満々に推理を披露した。その推理にアンドレイも納得して小さく頷いた。
「それで、どう思った?」
 ジェームズは懐かしい日々を思い出しながらアンドレイに問いかけた。馬に乗り、草原を駆けた日々、他愛もない話で笑い転げたあの日々を、士官候補生の学校に行くと告げたあのときのアメリアの大きな瞳に溜まった涙さえも鮮明に思い返せた。すると今もアメリアが自分の恋人で、今日の夜には自分の腕の中に帰ってくるような気がしてくるのだ。
「ああ、とても……美しいなんて言葉では表しきれないほどだ」親友がそう言い切るとジェームズは素晴らしい恋人を持った誇らしい気持ちでいっぱいになった。「それに、噂で聞いていたよりもよっぽど礼儀正しくて立派な淑女じゃないか。きっと町中の紳士が放っておかないだろう。それとももう良い縁談があるのかな」
「そんなこと、この町にあと数日でもいたら嫌でも耳に入るだろうさ!」
 二人は踵を返しながらそんな話を続けた。そんな中でジェームズ・レミントンはだいぶマシになった人混みと、それからもっと遠くをぼんやりと見つめた。
「それにしたって……ああ、後悔がくるのはいつも取り返しがつかないほど遅くなってからだ」ジェームズは口惜しい気持ちでいっぱいになった。「もし俺が学校なんかにいかなければあの美しい人はきっと俺を選んでいたに違いないのに。なんたって、別れ際に涙までみせたのは俺の時だけなんだから」

第十六章 一話

 ロンドンでのアメリアはいつもの傍若無人ぷりを存分に発揮していた。連日将校たちと朝から夜まで遊びまわったり、馬車に乗って遠出したり、はたまた玄関先に何時間も座って道行く紳士を引っかけて遊んだり。リックという足かせが外れたのを良いことにアメリアの横暴はますます加速していった。どうやらアメリアに甘い叔母ですらその様子には少し肝を冷やしたようで、度々食事の席でリック・アボットの名前を出して嘆いてみせた。けれど、それが逆効果であることは言うまでもないだろう。
「アメリア、一体どうしたというんです? リック・アボットと婚約を結んだのを忘れましたか? 毎晩違う方とお会いして、愛嬌を振りまくだなんて何たること! 一体あなたの良心はどこへいってしまったんですか? このことはエレンに報告する必要がありますね」
「確かにわたしの行動に叔母さまが心を痛めているのは知っていますけど――それが一体なんだっていうんです? 叔母さま、お母さまには心労をかけない方がいいんじゃないですか? 最近ようやく元気を取り戻してきたところだっていうのに……それに……リック・アボットとわたしって釣り合っていないと思いません?」
 人の良い叔母は驚愕して口をぱくぱくとさせた。
 人の流動の激しいロンドンではアメリアが婚約していようがいまいが関係なく迫ってくる男が多く、アメリアは最初の一週間が過ぎたころにはリックのことなんてすっかりどうでも良くなっていた。それから更に一週間が経ち、当初の滞在予定だった二週間が過ぎればリックの顔も声も忘れて、たくさんの紳士にせがまれて追加で一週間遊び呆けると自分がリック・アボットなんかと婚約しているのが本当に馬鹿らしく思えてたまらなくなった。
「本当に、わたしったらなんて思い違いをしていたんだか! 世の中にはリックなんかよりもよっぽど素敵な人がたくさんいるっていうのに、よりにもよってこのアメリア・スレイターの運命の相手がリックなわけないじゃない」
 アメリアが楽しい旅行から帰ると、エレンがいつも通り優しく出迎えてくれた(とはいっても、大抵アメリアは出かけるとトラブルを巻き起こして帰ってくるので、実際には優しく出迎えられることはまれだ)。エレンは優しく愛に満ちた表情でアメリアの頬にキスをしてから慈しむように頬を撫でた。シルクの手袋越しに母の体温が伝わり、アメリアは顔を綻ばせた。いつだって、母の温もりはどんなに荒れた心にも花を咲かせる魔法の力が秘められている。
「おかえりなさい、楽しかった?」
「奥さま、それは愚問ってものです。そりゃ、楽しかったに決まってますよ。あれほど破廉恥な行動ばかり繰り返していれば、さぞ楽しかったでしょうよ。アメリアさまの非道な行いはしっかりとこの屋敷にも届いているんですからね。それどころか、このことを知らないお屋敷はこの辺りを見渡したって存在しないでしょうけどねぇ! まったくとんでもないよ。どこにいたって問題ばかり運んでくるっていうんだから。アメリアさまはどうしてもこの家を恐怖に陥れたいらしいですね? そんなにきょとんとしたって無駄ですよ。なんたってご自分がまいた種なんですから。ああ、恐ろしいったらありゃしない」
「オルコット、その事はアミィには言わない約束でしたよ」エレンは優しい声色で、しかし、はっきりと抗議した。オルコットは口をへの字にして鼻を膨らませた。この家で女主人にがみがみ意見して口論できるのはオルコットただ一人だ。
「でもですねぇ、奥さま。今一度しっかり教育なさいませ。アメリアさまのようなやんちゃ娘はソフィーには手に余りますよ。今一度、はっきりと、男性から身に余る贈り物を受け取った淑女がどういう扱いを受けるのかをきっちりと頭に叩き込むべきですよ! そうでもないとうちの若いのみたいになりますからね。まったく嘆かわしい! もしあたしが女主人だったら間違いなくあんな破廉恥な贈り物を受け取った若いのは全員クビにしますよ。ええ! 間違いなく!」
 男性、贈り物、という語句はただ一人を連想させた。
「ディランが来たの!?」アメリアは瞳をキラキラと輝かせ、思わず声が大きくなった。そんなアメリアをみてオルコットは忌々しげに眉間に皺を寄せた。
「ねぇ、きっとわたしに会いに来たんでしょう? どうして教えてくれなかったの? 手紙でも送ってくれればとんで帰ったのに! それで、彼はなんて?」
「全くとんでもない! あの男の来訪を喜ぶなんて、アメリアさまはこのお屋敷がどうにかなってもいいっていうんですかねぇ。それに、アメリアさまについては何の言及もありませんでしたよ。ただ奥さまの容態を確認しにきただけのようでしたし。第一、この間のお手紙を思い返せばそんな馬鹿げた発想には至らないはずだけどねぇ!」
 オルコットは鼻を膨らませながら一息で言い切った。アメリアはそんな様子から「きっと本当はわたしについて言及があったのね。どうしても言いたくないみたいだけど」と、オルコットの嘘を見破った。「オルコットがどんな風に伝えたのかは知らないけど、きっとディランならその見え見えの嘘に気がつくはずだし……きっとしばらくすればまた図々しく訪ねてくるでしょうね。やっぱりわたしのことを忘れたわけじゃなかったのよ」クスクスと笑みを浮かべるアメリアに、オルコットは厳しい顔をして毅然と言い放った。
「おそらくもう二度と顔を見せることもないはずですよ。普通の神経をしていれば自分が望まれていないことくらいわかるはずだからね。それにしたって、ああ、本当に恐ろしい! あのお方は明らかに悪魔のつかいだね、それにあんなくだらないものばかりをばらまくっていうんだからたちが悪いってもんだよ。受け取った若いのはクビとはいかなくたって厳罰を下してもらわないとあたしとしては納得できないね」
「口を慎みなさい、オルコット。それを決めるのはわたくしです。そうやってみんなを脅かすのはおよしなさい。それにその件はもうおしまいにしたじゃないですか。誰だって誘惑に負けて過ちを犯すことがありますよ。それでも改心する心こそが大切だとわたくしは信じています。それにほとんどの子たちは涙ながらに懺悔して、『どうか、あの方が次いらっしゃったときにお返しして欲しい』と言っていたじゃないですか?」
 エレンは優しい表情で机の上に置かれた陶器でできたボンボン入れを見つめた。「ふうん、つまりあれの中に例の〝贈り物〟があるわけね。一体あの人、何をしでかしたんだか!」興味津々で好奇心をたぎらせるアメリアとは正反対に、オルコットはまるで応接室の扉をきつく睨んだ。きっと彼女には扉越しに若い使用人が見えているのだろう。それからオルコットはついでとばかりにその導線に立っていたアメリアを睨みつけた。
「ああ、本当に嫌ですねぇ! 奥さまの命の恩人でなかったら敷居もまたがせたくないのに。一体誰があんな悪漢と縁を結んだんだか。この家にはまるで相応しくないお相手ですよ。あたしは今にこうなると思っていたんです」
「オルコット、それは流石に言いすぎというものですよ」
「確かに雲の上の人だものね。オルコットが恐縮しちゃうのも仕方ないわ。それで一体その悪漢さんから何をもらったっていうの?」
 アメリアは何の戸惑いもなくボンボン入れの中を覗きこみ、そして驚きのあまり言葉を失った。ボンボン入れの中はまさに宝箱! 金の指輪や宝石のついたネックレスなんかがうずたかく積まれて、素朴な家の中でそこだけベルサイユ宮殿のような輝きを放っていた。白い陶器の内側は反射した金の色で黄金色をしている。アメリアの瞳はみるみるうちに輝き、オルコットの鋭い視線はそれを見逃しはしなかった。
「アメリアさまも倫理感のない使用人と同種ですね。良家のお嬢さんならこんなものに心を惑わされたりしないでしょうね」
「ええ……これを突き返すなんてとんでもないお馬鹿さんよ」小さく呟いた本音は幸いなことに誰にも聞かれていなかったらしい。アメリアは宝石を指で撫でながら、頭から血の気がひいていくのを感じていた。それにしたって、なんて素敵な品なんだろう。これを突き返すだなんて、馬鹿げているとしか思えない。
「それに奥さま、使用人たちが改心したっていうのもあたしにとっちゃ信じられない話ですよ。何しろ、あの男が配っていた量は確実にそれの二倍はありましたからね。残りは今ごろ若いのの指やら腕やらにはめられているんでしょうね。奥さまにおっしゃった言葉なんて、賢者の目をあざむくための小賢しい手口に過ぎませんよ! 今にあのならず者がやってきて先週と同じ悲劇が繰り返されると思いますがね。とにかく、アメリアさまもあのディラン・エドワーズとかいう男からは何一つ受け取らないことだ。たとえ綺麗な花とか、そういうものでもね。さもないとどんな恐ろしい目に遭うか……」
 オルコットは言いながら何やら恐ろしい未来を予感したらしく、手をこすり合わせながら全身を身震いさせた。
「いいえ、わたし頂きます。これも、すべて」無意識のうちに口から発された言葉にアメリアは自分でも驚いて大きな目をパチクリとさせ、次の瞬間には強烈な後悔が襲った。ああ、わたしったらどうしちゃったんだろう! ハッとして母の様子を探ると案の定、母はもともと白い顔を更に青白くさせて気絶しそうになっている。椅子の背に震える手を置いて、愕然と目を見開きながら微動だにしないし、息は吐くばかりで、これっぽっちも肺に入っていかない。
 オルコットは怒りのあまりふるふると震えていた。
「まったくなんて娘なんでしょう! 恥を知りなさい! デイジー! 奥さまに気付け薬を! ああ、わたしは絶対こうなると思っていましたよ! ほら、急いで! それから水差しも忘れずに持ってくるんだよ!」
「だ、だってこんなに素敵な品なのよ! 要らないっていうのならわたしが――」
「アミィ!」エレンは力の限り叫び、久しぶりに大声を出したものだから喉が悲鳴をあげて激しく咳き込み始めた。オルコットは一瞬アメリアを睨みつけるとエレンの背中を擦りはじめた。
「何よ、まるでわたしが悪人みたいじゃない。わたしが間違ってるっていうの?」
 しばらくして発作が落ち着くと、エレンは苦しさで涙目になりながら、激しい咳のためにかすれる声を振り絞りアメリアの手を優しく、しかし力強く握った。
「お願いだから、そんな事言わないで。いいですね? これはお返しします。あの方に悪意はないと信じていますが……それでもこんな高価なものは頂けません」
 アメリアは母に手を握られながら全く別のことを考えていた。「ああ、お母さまったら……すっかり老けこんでしまって!」久しぶりに近くで見た母の顔はまるで別人を見ているかのようだった。目は落ちくぼみ、その周囲には細かい皺が刻まれている。あまりにも激しく咳をするものだからシニヨンから逃れた細かい髪の毛が数本飛びだておでこにかかっている。首は筋と骨が浮き出るほどに細く、何をしても折れてしまいそうだし、肩も同じように骨が浮き出ている。それに、この手! 骨と皮だけしかないような手なのに、これほど力強く握ってくることの恐ろしさときたら。それはどことなく恋人を失った幽霊の執着を思わせて背筋がゾッとした。
 アメリアはその剣幕に負けて、渋々ながら首を縦に振った。ボンボン入れの中で宝石たちが泣いている気がした。
「さぁ、奥さま。お身体にさわりますから今日はもう寝てくださいまし。たしかにあのお医者さまにかかってから調子がいいとは言ったって、まだ病み上がりの身なんですからね。アメリアさまにはわたくしからキツく言っておきますから。デイジー、奥さまをお連れしてさしあげるんだよ」アメリアはデイジーの袖口から華奢な金のブレスレットがちょこんと覗いていることをしっかりと気がついた。
「奥さまはああおっしゃいましたがね。わたしはあの男の企みをすっかり見抜いてるんですよ。その失礼極まりない品を渡す時のあの男が品定めするような視線だってしっかりと覚えているんだからね」
「それであなたもその視線にさらされたってわけ?」オルコットはその忌まわしい記憶を思い出したのか闘牛のように鼻息を荒くした。アメリアは苛々して顎を高くあげながら目を細めて挑発的に舌を覗かせた。
「良かったじゃない。一応女性として認識されてるのね。それにしたってあの人も守備範囲が広いこと! こんな枯れ果てた嫌味なおばさんまで相手にしてあげるなんてね」
 オルコットは顔を真っ赤にして怒りのあまりプルプルと震えだし、次の瞬間には生意気な子供をとっちめてやろうと海賊さながらにエプロンドレスの腕をまくり茶色いシミがいたるところに見える腕をあらわにした。鼻息を荒くし、眉をひそめ、ただでさえツリ目で嫌味っぽい目を更に吊りあげて、オルコットはジリジリと獲物に接近する。もう一言くらい悪口を言ってやりたいところだったが、オルコットの怒りは今まさに頂点に達しようとしている。オルコットをからかって遊ぶのは昔からの趣味のようなものだったが、今回の怒りようは尋常ではなかった。乗馬鞭でも手にしそうな勢いだし、そうでなくとも捕まったら少なくとも二時間は解放されないのが目に見えている。ということで、アメリアは肩をすくめるとその場から走って逃げだした。いくらオルコットが年の割に機敏とはいえ、アメリアの若々しくて何の痛みも知らない脚にかなうはずがなく、オルコットはリマウチで痛む脚をさすりながら、アメリアが消えていった階段を睨みつけて大きく鼻を鳴らした。

第十六章 二話

 次にディラン・エドワーズがやってきたのは三日後の午後のことだった。その日は朝から快晴で、森の方から小鳥のさえずりが聞こえる居心地のいい一日で、アメリアは部屋で歌を口ずさみながら化粧台の前に座りブラシで髪をなでつけていた。開いた窓からは初夏の心地よい風が吹きこみ、白いレースカーテンがパタパタと音をたてながら舞いあがっている。
 不意に馬のひづめの音が聞こえ、アメリアの視線は自然と窓の外に向いた。「一体誰かしら?」アメリアはその音の主を確認して、口元ににんまりとした笑みを浮かべた。窓の先には例の牝馬にまたがるディラン・エドワーズがみえた。
 その姿を視界にとらえるなりアメリアの心は自然と弾み、心臓が浮ついて仕方がなかった。ロンドンから帰ると不思議と普段絡んでいる紳士たちが色あせてみえるものだったけれど、その姿は遠目から見てもやはり見惚れるほど素敵だった。
 やがて馬の走り方がギャロップからトロットに変わり、アメリアは髪を手早くまとめるとすぐさま廊下へ飛びだした。それからドレスの裾を軽く持ちあげて廊下を駆け抜ける。するとすぐさま階下からオルコットが悪魔を退けようとする声が聞こえてきた。
「アメリアさまならまだお帰りになっていませんよ。この分だともうしばらくは帰ってこないんじゃないですかねぇ。それにもしお帰りになったって、あなたとお会いすることもないと思いますよ。何しろ、アメリアさまは先日のあなたの行いにそれはそれはご立腹で、二度と顔も見たくないと常々おっしゃっていましたから。ですから申し訳ありませんけど、今日も帰っていただく他にありませんね」
「オルコットったら、どうしてもわたしとディランを会わせたくないみたいね。だからってその思いをくんでやる必要はないわ」アメリアは玄関につながる吹きぬけまでいくと、手すりから身を乗りだして声を張りあげた。
「ディラン! 少し待ってて! 今いくから!」アメリアは大階段に向かって一直線に歩みを進めた。心臓は勝手にテンポをあげて、心が浮ついて、足がすくむような気がする。
「それにしたって、一体何を企んでいるのかしら! わたしに会いにきてくれてるのは間違いないとして……わたしをどうするつもりなのかしら」オルコットに散々言われた言葉がうっすらと脳裏に思い浮かんだ。「いつか悪い人にいいようにされるっていってたっけ。でも……」
 とうとう階段にたどり着くと、アメリアはその最上段から満面の笑みでディランのことをみつめた。ディランの黒い瞳は何やら怪しくきらめき、その視線で貫かれるたびに全身を不思議な高揚が襲った。目的があるのは間違いない様子。狙いを定める蛇のような狡猾で欲望と企みのにじむ瞳で見つめられるとなぜだか肌が汗ばむような気がする。黒い瞳と視線が絡むと、アメリアはどうしようもなくどぎまぎしてしまって慌てて視線をそらした。気がつかれていなければいいんだけど。
「どうやら今日はいらっしゃるようですね」
 オルコットはアメリアを睨みつけて、フンと大きく鼻を鳴らしてからようやくディランを応接室に案内することに決めたようで、大股で応接室へ歩いていった。ついさっきついた嘘は弁解するつもりもないらしい。
 ディランはオルコットのあとに続くよりも、アメリアを待つことを優先した。階段を滑るように降りるのを目を細めて鑑賞して、それか彼女が最後の一段を下りるときにはうやうやしく手を差し出した。
 アメリアはなんのためらいもなくその手を取ろうとして、玄関に置かれた絵画の額縁に反射した自分を見てぎょっとした。何しろ、自分の表情ときたらあの時のオペラの主人公とまったく同じだったのだから。頬は赤く上気して、どんなに隠そうとしても口角は柔らかく弧を描いている。なんだかアメリアはそんな自分のあからさまな表情が途端に恥ずかしくなって、ディランから目を背けてその手を払いのけた。こんなの、なんだかまるでわたしがこの人の来訪を待ち遠しにしていたみたいじゃない。
「ごきげんよう、エドワーズさん。言いたいことも聞きたいことも山ほどあるけど、とりあえず中にいらしたら?」
 照れ隠しのようなツンケンした言葉にディランは楽しそうに喉を鳴らした。
 応接室にはエレンがいて、ディランは少し丁寧すぎるほどに挨拶してからエレンの体調を気遣うような発言をいくつかしてみせた。オルコットはその様子すらも何か裏があると確信してディランのことをしきりに睨みつけている。
「優しいお気遣いに感謝します。ですが、本当に……ここまでしていただく必要なんてどこにもありませんのに……。うちにはお支払いできるものもありませんし……」
「いえ、わたしにも目的がありますからね。どうぞお気になさらず」ディランがはっきりと口にすれば、オルコットとエレンは鳥肌がたつように感じた。
「……それから申し訳ありませんが、これはお返しします。一度は受け取ってしまった物ですが、使用人も良心に責めたてられたに違いありません。きっとお分かり頂けると存じておりますが……その、心遣いだけを受け取っておきます」
「お気に召しませんでしたかね。そうおっしゃるのであれば。それにしても崇高な心の持ち主だ。わたしのせいだとはいえ、一刻も早くその十字架から解放されるように祈りましょう」
 ディランは横目でソファーに腰かけるアメリアをみた。アメリアは母の前では猫を被ることに決めていたので知らぬ存ぜぬを貫き通していたが、眉がぴくぴくするのを抑えるのに精一杯だった。今すぐにでもそのすましたボンボン入れをひったくって自分のものにしてしまいたいくらいなのに。目の前であれほど素敵な品がみすみす自分の手の届かない所にいってしまうと思うと歯がゆさでどうにかなりそうだ。だからって、母の前で二度とあんな失態はしないわ。
「さぁ、奥さま。お話はもう済んだだろう。ベッドに戻りますよ。あのお医者さまもまだ無茶をするべきではないとおっしゃっていましたしね」オルコットはそういいながらディランのことを鋭く睨んだ。その視線はあけすけで、とにかく何が何でもエレンをこの男から引きはがしたいという意思が見てとれた。まるでオルコットのいう無茶とはディランと長時間同じ部屋にとどまることみたいだ。
 二人が部屋を出ていけば、ディランはさも当たり前かのようにアメリアの隣に腰を下ろした。その堂々たる態度や筋肉隆々とした男らしい力強さに圧倒されると自分が実物よりもさらに一回りは小さくなったように感じられた。アメリアは唇をつんと尖(とが)らせて、澄ました顔をしていたが心臓だけはドキドキと早鐘を打っている。
「それで、二ヶ月もわたしを放っておいて今更なんのご用なのかしら」
「わたしが君を追いかけまわさないからってそう拗ねるものじゃない。それに、実際こうして再び足を運んでしまうくらいには夢中なんだから。それとも薄っぺらい手紙の方が良かったですかね?」
「拗ねてなんてないわ。別にあなたに構ってもらえなくても、わたしとお話したいとか一目でも見たいって方は事欠かさないもの」
「普通はそこで恋人の名前が出てくるものだろう」
「リックは――まぁ」アメリアは言葉を濁した。
「それに聞けばどうやら君も随分楽しんでいたらしい」
「わたしはただ、叔母さまの家にいただけだけど」
「少なくともわたしの勧めに従ってオペラは観に行っただろう。どうやら楽しんでもらえたようで何よりだ。ところで、一体誰と一緒に行ったんです? 目撃情報を元に推理すると候補が三〇名もいる。どうやらロンドン滞在中はかなり豪華な日々を過ごしたらしい」
「さぁ、どうだったかしら。記憶にありません」
「まぁそう言い張るならそういうことにしておこう」
「わたしのことはいいじゃない。それで、あなたは何をなさっていたわけ?」
「フランスに遊びに。革命があったっていうのにあそこはたいして変わらないな」
「で、女遊びでもしてたの? わたしを放って?」ああ、やっぱり聞くんじゃなかった。どうせそんなことだろうと思っていたわ。
「いつでもお転婆に付き合えるほどわたしも心が広くなくてね。ときには毅然としてマナーと礼儀と教養のなってる立派な貴婦人を愛でたくなることもあるのさ」
「わたしだって、あなたみたいな札付きじゃなくて立派な紳士と話したくなるときもあるわ」
「で、つまらなくて飽き飽きするわけだ」
「そんなこと、ないけど――」いいながら、アメリアはアンドレイ・アッカーとの会話を思い出して言葉は段々尻すぼみになっていった。
「少なくともわたしは飽きあきしたからここに戻ってきたわけだ」
 何だかおかしい。普段ならこんな軽薄な扱いにイライラして「だったら娼婦のところにでも行ったらどうなの?」と言い放てるはずなのに、心臓が痛いほど脈打って言葉が出てこない。ディランの目すらもまともに見られなくて、アメリアの視線は泳いで、先ほどのボンボン入れに視線が止まった。それに先ほどから若い使用人がドアのところでチラチラと様子をうかがっているのはわかっていた。どうやら彼女たちは今日も何かもらえないかと、気にしないふりをしつつも期待しているみたいだ。
 ディランはボンボン入れの中身をあらためながら、若い使用人たちに同情のこもった表情を浮かべた。
「きっとこれも苦肉の策だったに違いないな」話題が変わったことにアメリアは心底ほっとした。
「そうよ、使用人にまで贈り物をするなんてね。どうせそんなものあなたにとってはどうでもいいものなんでしょう? だったらわたしに譲ってよ」
「かわいい顔した食わせ物だな。取りつくろう必要がなくなった瞬間それか」ディランはからからと笑ってアメリアの瞳を覗きこんだ。「こんなものよりももっとあなたに相応しい贈り物がありますよ」
 そういって取り出したのは白い小箱だった。贈り物らしく箱の隅にはきれいなリボンが巻かれている。アメリアがぽかんとして目をぱちぱちさせているうちにディランはそれをアメリアの手に滑り込ませていた。
「どうぞ」
 白い箱の中には見たこともないほど繊細で豪華な首飾りが堂々たる風格で収められていた。中央には四カラットもある大ぶりのルビー――しかもルビーの中でも最高級の品質で、ピジョン・ブラッドと呼ばれる深い紅色のもの――デザインは十八世紀に流行したガーランド様式で、流れるような曲線で草花のモチーフが細かく表現されている。中心のルビーから一定の間隔で、小さなダイヤモンドの花が飾られ、金のフレームには枝葉装飾の細かい部分にまで小さな宝石が埋められていた。
 アメリアはしばらくその輝きに目を奪われ、目の前にディランがいることすら頭から抜け落ちた。首飾りに手を伸ばして、それから一瞬だけ母の言いつけが頭によぎった。これを受け取っただなんて知ったらお母さまはきっと悲しむわ。だけど――この輝きはとてもじゃないけれど跳ね除けられそうにない。そして一度手にとってしまえばそんな些細な気がかりもどっかへ吹き飛んでしまうというものだった。
 アメリアはその首飾りを手のひらの上に取り上げ、より近くでまじまじと見つめた。それから、満面の笑みを浮かべて小走りに鏡の前までかけた。ここまできてしまうと、早く自分の首元で輝いている姿がみたくてしょうがなかった。
「よろしければ手伝いますよ」
「ご親切に、でも一人でできます」
 とはいったものの、普段のジュエリーとは勝手が違った。留め具は頑固でなかなか繋がろうとしない。しばらくディランはソファーで足を組んで頬杖をつきながら楽しそうにそれを眺めていた。
 視界の端に苦戦するところを楽しそうに見つめるディランが映ると怒りと屈辱でアメリアの指先は震えて、留め具がカチカチいう音が響いた。よりにもよって、この人に見られるなんて最低の気分! むしゃくしゃして、今にでも首飾りを床に叩きつけそうになったところで、それを阻止するかのようにディランがアメリアの細い手首を掴んだ。
 ディランはネックレスを手にとると、アメリアの背後にまわり留め具を丁寧につけた。首筋にディランの指が触れる。その度に心臓は痛いほど収縮を繰り返して目眩がする。昼下がりの応接室は静かで、二人の息遣いしか聞こえない。わたし、一体どうしちゃったの? 鏡の中の自分は顔をほのかに赤くしている。
 けれども、そんな疑問も罪悪感も自分の首元の首飾りをみればどこかへ吹き飛んでしまった。窮屈な箱から取り出された首飾りはアメリアの首元でより一層輝きを増して、アメリアの美しさを更に際立たせているかのようにみえた。
 アメリアは目を輝かせて自分に魅入って、鏡越しにディランに質問した。
「これ、本当に頂けるの?」
「もちろん、どうぞ。わざわざあなたのために作らせたんですから、宝飾師の手を離れた時点でそれはあなたのものですよ。ただ一端の貴婦人なら毅然と跳ね返すだろうがね」ディランの軽口もアメリアの耳には届いていなかった。アメリアは鏡の中の自分に見惚れて、何時間でもこうしていられるような気がした。
「アメリア」
 突然、テノールで名前を呼ばれてアメリアは何の警戒心もなしに振り向き、そして気がつけば腰に腕をまわされ抱き寄せられていた。アメリアは突然のことに顔を真っ赤にして、ディランのことを見上げた。体格の差から、ほとんど抱きしめられるみたいな格好で、アメリアはどうしたらいいのだかわからなくなり、思わず視線を下げた。ディランが喉を鳴らすと、肺のあたりでこもった音がする。ディランはアメリアの髪をもてあそびながら楽しそうに笑い、それから髪に柔らかい感触があった。
 その感触がきっと唇のものであると気がついてアメリアが混乱したのはほんの数秒のことだった。すぐに心の内に途方もない満足感が満ちあふれ、全身が燃えるほど熱をもった。何しろこうして、ディランが、あの不遜なディラン・エドワーズが自分を求めることは初めてだったのだから。散々言ってくれた男が、今ようやくわたしの魅力にひれ伏そうとしている! 一体どうしてやろうか。まずはお決まり通りそんなつもりはなかったなんていって瞳に涙でもためてみせようかしら。それかあなたのことなんてなんとも思っていないって突きつけて、すがりつく様子でも眺めてみようかしら。
 何かからかってやろうと思ってアメリアはうつむきがちに口角をあげ、ディランの黒い瞳を覗き込んだ。その時、なぜだか心臓が痛いほど脈打って飛び出した言葉は出鼻をくじかれた動揺で少しだけ震えていた。
「……こ、こうやって淑女を良いようにしてるのね。でもおあいにく、わたしはあなたのことなんてなんとも思ってないんだからね」
「わたしは気に入ってますけどね。ところで、先ほどからどうして生娘みたいに真っ赤になっているんですか?」口調こそ丁寧で心の底から教えを乞うているかのようだったが、その声色には明確なからかいの色が伺えた。わたしともあろうものが、こんな男に馬鹿にされるなんて! アメリアは顔を赤くしながらも威勢だけはそのままに返した。ただ、それは誰が見ても分かるくらいの虚勢だったし、からかわれた子供がちょっと偉そうに振るまうくらいのものにしかならなかった。
「あなたこそ、いつまでくっついているつもりなのかしら? わたしの婚約者でもないのに。お父さまに言いつけて撃ち殺されたくなかったら今すぐ離れることね。これ以上わたしに触れようとしたら叫ぶからね」
 ディランはそんな言葉、はなから聞こえていないみたいにより腕に力を入れて激しくアメリアを抱きしめた。ラッフル・シャツの胸元に顔を押しつけられると、あまりに甘くて濃厚な匂いが肺中を満たすものだから酒に酔ったみたいに頭がふわふわした。激しく脈打っていた心臓は逆に落ちつきを取りもどして、全身から力が抜けていく。アメリアの目は困惑に揺れていて、力強い言葉とは裏腹に心は不安とちょっとした恐怖があった。
「ところで、わたしはあなたが悲鳴をあげるのを待っているのですが」クスクスという忍び笑いにアメリアはハッとして好戦的な目つきでディランを睨みつけた。
「失礼な人ね! 女性は本当に恐ろしいと声もでないのよ」
「それはそれは」
 ディランは軽く肩をすくめてようやくアメリアを解放した。それからアメリアは素早くディランから距離を取りようやく心臓が落ちつきを取り戻した。それにしたって、どうしてこんなに心臓が早鐘を打つわけ? 抱きしめられるのなんて初めてじゃないし、むしろこの人がわたしに気があるっていうのならこの場の主導権はわたしが握っているようなものじゃない。それなのに……。
 鏡に映る自分がディランの言う通り耳まで赤く染めているのに腹を立て、アメリアは眉をよせた。
「それにしたって、わたしの気を惹くためにわざわざこんなものまで用意するなんてね」
「誰の気を惹きたいだって? まだそんな生易しいことを考えているのか、そうだとすれば本当に能天気なお嬢さんだ。いや、田舎娘なのかもしれないが」
「ならどういうつもりだっていうの?」
「君が罪悪感に耐えきれなくなるまで高価なものを贈ってみようかと。そうすればいつかわたしとベッドを共にしてくれるかもしれませんから」
 あけすけなことを言われてアメリアは頬を赤くして目を見開いた。そして礼儀にのっとって頬を叩いてこの場から逃げ去らなければと理性が語りかけたが、本能は別にそんなこと思ってもいないようだった。

第十六章 三話

 その言葉の通り、ディランはそれからも定期的にやってきては綺麗な布地やボンネットや貴金属の宝石なんかをアメリアに贈った。そのどれもが最高級で、値段を聞かずとも価値のわかるようなものばかりだった。その上、ディランの贈り物はどれもこれもセンスがいい品ばかり、アメリアは毎回今日こそは受け取らないようにしようと心に誓うのだが、一目みれば手放すのが惜しくなって、クローゼットの中を埋め尽くしていくのだ。
 それにこういう贈り物をもらっているのはアメリアだけではなく、若い使用人たちも金の鎖やブレスレットなんかのちょっとした贈り物を大量にもらっていた。そのため使用人のほとんどはディランのことを歓迎して、やってくるたびに盛大にもてなそうとするのだ。遊びに来るたびに金の指輪だの様々な贈り物をくれる相手をどうして嫌いになれようか。
 オルコットはディランを視界におさめるたびに顔をしかめるのをやめなかったが、ときにはそんなオルコットも喜ぶような出来事が起こったりした。
 その日はアメリアがちょうどメアリーの手紙を読んでいるときにディランが訪ねてきた。メアリーの楽しい新婚旅行の手紙は三日おきにスレイター家に届き、そのたびに便箋いっぱいに幸せを詰めてやってくる。その日の手紙はちょうど新婚旅行も佳境で、ようやくフランスまで戻ってきたという内容だった。予定ではあと数週間フランスに滞在し、それからイギリスに戻るらしい。その話を聞いて、アメリアが「羨ましい」とこぼしたのがことの発端だ。
 そうでなくとも、ディランとアメリアの会話は常に一触即発のようなところがあって危なっかしいところがあるのだが、この日はとくに虫の居所が悪かったようだ。
「パリに? 冗談だろう。あの高慢しか取り柄がない貴族と、革命にとりつかれた市民たちの国に? パリの社交界の仲間入りでもするつもりですか?」
 ディランの言葉には大量のとげが含まれていた。
「でも、モードの中心だわ」
「わたしならいくら金を積まれようと、あの国に入らずにすむなら何だってするね。今だって血の一滴でもあれば今すぐに革命を起こそうって奴らがわんさかはびこっているっていうのに。わたしなら少なくともあの膿(うみ)がなくなるまでは近づかないな。ラ・ギヨティーヌに首を狙われないとも限りませんから。それにしたって、この時期にフランスに入るなんてとんでもない男もいたものだ」
 アメリアはかつての恋人を悪く言われて心持ちムッとした。
「そうかしら。それって国民だけの話でしょ、旅行客にも関係があるとは思えないけど。それに身の安全を確保できるくらいのお金はあるはずだし」
「王政が崩されようってときに絶対的な安心がどこにあるって? 大体、奴らに国民かそうでないかの区別なんてできやしないだろう。羽振りの良さそうな連中は全員敵なのさ。それにしたって馬鹿なお嬢さんのフランス信仰は理解に苦しむな」
「そういう言い方しかできないのなら今日のところは帰ったらどうなの?」普通の男ならばアメリアがこういう態度をとれば手のひらを返してこちらの意見に賛同してくれるものだったけれど、ディランがそういう人でないことをアメリアはすっかり失念していた。
「主張を譲るくらいならそうするとしよう」
 それからというものディランの訪問はぱったりとやんでスレイター家には一転して穏やかな日常が戻ってきた。
 これを好機と見るやオルコットは次の来訪までにアメリアとリック・アボットとの仲を確実なものにしてどうにかあの悪漢を追い払う正当な理由を作ってしまおうと考えたらしい。オルコットは手始めに愛すべき奥さまにあれこれと言葉をかけて、どうにかあの素っ頓狂な娘さんを説得してやってください。とその膝にすがりついた。エレンはベッドの上で困り顔を浮かべたが、アメリアさまのためを思えばこそです。と力説されてしまえば押しに弱いのもあって首を縦にふるしかなかった。
 そんなわけでリックはかなり久しぶりにスレイター家に招かれることとなった。しかしやはりというべきか結果は散々なものだった。どうやらリックは何か頭を悩ませることがあるらしくていつも以上に会話がままならなかったし、それに呪いがとけたアメリアからすればリックなんて心の底からつまらないだけの相手でしかない。アメリアは退屈にうんざりしながら窓の外を見つめ、この間追い返したディランがふらっと立ち寄ってくれないかしらと願った。それにディランと一緒にいるときはあまりに早く進む時間がまるで進まないのもイライラする原因だった。最終的にアメリアはリックの後ろ姿を見送りながら「次会ったらさっさと別れを切りだそう」と心に誓った。こんな苦痛もう耐えられない。
「どうせまた意地悪な女たちがわたしの悪評を鳩みたいに言いふらすでしょうけど、それがなんだっていうの? 今の状況の方がよっぽど悲惨ってものだわ! そうだわ、さっさと別れを切り出してそれからまた叔母さまのところに遊びに行こう。そうすればわずらわしい噂ともおさらばね」

 オルコットは二度とディランのことを家に入れてたまるかという剣幕だったけれど、ディランは数週間もすればまたしれっとした顔でスレイター家に居座るようになっていた。空白の時間について質問してもはぐらかされるだけで、使用人たちは何か怪しい事業に片足を突っ込んでいるとか、別に入れ込んでいる娼婦がいるとか、言いたい放題に噂を繰り返した。だけど、当の本人はどれほど悪名高い噂をたてられようと屁でもないみたいな顔をしていつもの余裕を崩さなかった。当然アメリアにとってもそんな些細なことはどうでもよかった。
 そんなある日の昼下がり、アメリアがいつものようにディランと仲むつまじく(というには時折剣呑な香りが漂うこともあるのだが)会話をしていると、屋敷の扉が大きくノックされた。
「アメリアさま。ダリア・エインズワース夫人という方からお手紙とお荷物が届きましたよ」応接室に入ってきたオルコットは一通の手紙と大きな白い箱を抱えていた。「一体どちら様です? わたくしの記憶にある限りそんな名前は聞いたこともありませんよ」いつも浅い場所でかけている眼鏡をくいっと上げて、しげしげと封筒を見つめる。長年生きてきた勘が何か裏があるとささやいている。「でも今回ばかりはうちのお嬢さんも悪さをしてるって感じじゃないねぇ?」
 アメリアは見知らぬ名前に首を傾げながら封筒を開いた。
 手紙の筆跡には見覚えがあった。

  パリにはまた今度、機会があれば。
           どうかあなたの繊細な心が傷つきませんように。

 署名こそないが、一切隠すつもりもない手紙は明らかにディランの筆跡だった。ただわざわざ偽名を使ってまで手紙をおくる意味を理解しかねて、アメリアは不思議そうに首を傾げた。それからすぐ隣にいる送り主をさり気なく見やったがなんの手助けにもならなかった。封筒には手紙の他にもう一枚、名刺サイズの小さなカードが同封されていた。
 もう一枚の小さなカードには『ファヤージュ』という店名とその下にフランス語で、フォーブル・サン・トレノ〔フランスの高級ブランド通り〕と書かれている。それを見るなり、アメリアの瞳は宝石のように輝き、風よりも早く純白の箱を開封しにかかった。リボンの梱包を丁寧にひらくと、中からミントグリーンの発色の美しいドレスがあらわれた。鮮やかな緑のモスリン地に、なんとも繊細なレースが山のようにあしらわれ、オーバー・スカートは十二ヤードもの布が使われて洒落たギャザーが寄せてある。ドレスには金色に輝く糸で細やかな刺繍がびっしりと施され、贅沢ではあるが嫌味な感じは全くしない。スカートの後ろには長いドレープがありギリシア彫刻のような優美でエレガントな雰囲気を感じさせる。
 オルコットは箱の中から出てきた品物を見るなり顔をしかめ不快感をあらわにした。
「一体どうしてそんな物が送られてくるんですかね。アメリアさま、その方とは一体どういうご関係で?」オルコットは自分でも分からないうちにディランのことを鋭く睨んでいた。なんの根拠もないが、オルコットの勘がこの男こそが犯人だと囁いていたのだ。
 ディランは肩をすくめて適当な助け船をだした。
「エインズワース夫人ならロンドンの服飾店を経営しているはずですよ」オルコットは納得いかない顔つきでディランを見つめた。
「随分と顔が広いんですねぇ? 淑女用の店まで網羅されているなんて。ロンドンには滅多に帰らないとお聞きしましたけど」
「わたしが情婦に貢いでいるのは周知のことだとは思いますが……」
 オルコットは目をむいて軽蔑をあらわにした。その激しい嫌悪感を前にしてはオルコットのはかない勘もかき消され、そして次の瞬間にはこんな無粋で無遠慮な悪党をこのスレイター家という聖域に招きいれていることが心底耐えがたくなった。
 一方のアメリアは二人の話なんてまるで耳に入らず、ただ食い入るようにドレスを見つめ言葉もない。
「きっとこの間のオペラか何かで知り合ったんでしょう」
「ええ、そうよ。わたし、ああ、どうしよう! 本当にうれしすぎておかしくなりそうだわ! ちょっと待ってて、着替えてくるから! 絶対に帰らないでね!」ディランの助け船に迷わず乗りこみ、アメリアは両手でドレスをしっかり抱きしめながら階段を駆けあがった。応接間に残されたオルコットは自分がこの悪党と二人きりで同じ部屋にいると思うとゾッとして全身の毛が逆だつのを感じた。自分という門番なしにこの男を野放しにするのも気がひけるが、あと一分一秒でも同じ空気を吸っていると自分までけがされる気がして、オルコットは最後の一睨みを利かせて部屋から出ていった。ドアを激しく閉めて冷静になってみると、情婦だかなんだかの服を作った店のドレスをアメリアが喜々として部屋に持ち帰ったことを思い出して大きなため息をついた。そんな汚らわしい女どもと同じミシンで、同じ空間で、同じ職人の手で作られた衣装を身にまとうだなんて! あの場でドレスをひき裂けなかったのは一生の不覚だ! しかし今となってはどれほど後悔してももう遅い話だ。リマウチに痛む足を抱えながらドタバタと階段をのぼりエレンを驚かせる勇気は持ち合わせていない。オルコットができることと言えば、憎しみに満ちた目を階上に向けることだけだ。
 アメリアは階段を猫みたいに俊敏に駆けあがり、たまたま通りがかったソフィーに思わずぶつかりかけた。
「ねぇ、ソフィー! これみて!」
「またあの男からの贈り物ですか?」
「ま、まさかそんなわけないじゃない。あの人がいくら破茶滅茶だからってそこまではしないわよ」アメリアはうろたえながら先ほど階下でディランが言ったのと同じ言葉をおぼろげに繰り返した。ソフィーは怪訝そうに眉を寄せて、アメリアの腕に大切に包まれたドレスをまじまじと見つめた。そしてすぐに本当の送り主にピンときたらしい。
「それにしては最新型じゃないですか? それに採寸も取らずに、一体どういうことなんでしょうかね。わたしには何か意味ありげな品に見えますね。アメリアさま、悪いことはいいませんから階下の不遜な男に突き返しなさいませ。確かに素敵な品ではありますけど、送り主によってはそういう単純な話でなくなるものです。アメリアさまが良家の淑女であろうとするならば、そんなものを身にまとうなんて言語道断です。男性の見繕ったドレスを身につけるなんて、あまりにも破廉恥ですよ。それこそ、男性に抱かれているようなものじゃないですか?」ソフィーはアメリアのやってきた方をに目をやり、遠くを見つめた。その視線は廊下を通り抜け、階段を下り、その先には送り主の姿までが見えているみたいだ。
 そのもっともな指摘にアメリアはドレスを抱きしめながら考えをめぐらせた。
「ああ、だって、こんなに素敵なドレスなのよ。それを突き返せっていうの? でも、たしかに……わたしきっとこれを着たら……いよいよあの人のことを拒めなくなるわ。だってこんな素敵なドレスをもらって、拒めるものですか。全身をあの人に抱かれているようなものなのに、まだワガママを通そうだなんて流石にわたしも思えないわ。ああ、このドレスに袖を通せば、わたしあの人のものになるのね。それって……」心臓がスッと冷たくなって、視界が急にうるみだす。それから心臓がゆっくりと脈動しているのを感じた。「それって、悪くは……ないかも?」
「アメリアさま、どうかお願いですから。考え直してくださいませ」ソフィーはアメリアの手を包み込んで涙ながらに説得した。その瞳には純粋な心配だけがにじんでいて、温かい手はソフィーの優しい心根が反映されているみたいだった。ソフィーの瞳には信頼があった。真摯に説得すればきっと伝わると信じてやまない心だ。そして事実、アメリアはソフィーの説得に少しだけ心を動かされたのだ。
「どうしてご自身の価値を下げるようなことばかりなさるんですか? わたしはただアメリアさまに幸せになっていただきたいだけなんです。どうか、お願いですからわたしを安心させてくれませんか? わたしのことを大切に思ってくれているのなら、どうかお願いです」
 ソフィーの手は小さく震えていて、切々とした思いが伝わった。アメリアはソフィーを見つめたまましばらく悩んで、ついにきびすを返そうと決意したそのとき背後から不意に悪魔の声がかかった。
「アメリアさま! 素敵なドレスですね。きっとお似合いになりますよ! 早く着たほうがいいのではないですか? 客人をあまり待たせるものでもないですよ」エレンの部屋からでてきたデイジーは相変わらず人を少しだけゾッとさせるような笑みを浮かべながらアメリアに近づいた。手首には病人の看護には不向きなほどの派手なブレスレットが何本もはめられている。ソフィーはそれを見るなり露骨に顔をしかめた。
「仕事に適した服装とは言いがたいですね」
「デイジー……嬉しい言葉だけど、このドレスはやっぱりお返しすることにしたのよ。ちょっともったいないとは思うけど……」
「えっ、どうしてですか? だって、それほど素敵なドレスなんて滅多にお目にかかれませんよ。わざわざ突き返すだなんてそんなことしなくてもいいじゃないですか」
 デイジーのブレスレットが緩やかに揺れて、艶めかしいほど妖艶に光を放っている。デイジーの甘い言葉はあまりにも毒だった。今やデイジーはディランがくるたびに使用人に配っている金の宝飾具や高値の品の数々にすっかりと魅了されて我を失っていた。時々冷静になり、自分の行動を恥じることもあるがそのたびに都合のいい言いわけを何度も自分に言い聞かせた。アメリアに甘い言葉を囁くのだって、自分と同じ罪を共有する生贄が欲しくてたまらないからなのだ。それに、ディランの機嫌を損ねると自分の取り分が少なくなってしまうという打算もあった。金という魔性にとりつかれればどれだけあっても足りることはないのだ。
「デイジー。アメリアさまを巻き込むのはやめなさい。あなただって自分のしていることが立派でないことくらいわかってるでしょ?」
 アメリアはしばらく悩んで、じっとドレスを見つめた。そして、そのドレスがあまりにも自分好みでよく似合いそうだと想像してうっとりとした。デイジーはダメ押しとばかりに甘い言葉を囁いた。
「きっとよくお似合いになりますよ。贈り主を喜ばせるのも受け取った側の義務というものではないですか?」
「そう……そうよね。たしかにちょっと出どころは怪しいけど……だからってなんだっていうのかしら。だってこんなに素敵なのよ? きっとわたし、あの人のことを拒めなくなるけど……でも、でも、いいわ。嫌じゃないもの。それに、喜んでくれるなら――」
 ソフィーはアメリアの表情の変化からすべてを察したらしい。一瞬悲痛そうな顔をしてから、諦めにも似た顔をして呟いた。
「わたしはアメリアさまを間違った道から連れもどすのが天命だと思っていました。きっと辛抱強く言いきせれば理解していただけると。……ですが、そうおっしゃるのであればわたしはこれ以上は口出ししません――残念ですが。失礼します」
 ソフィーの言葉は冷えきっていて、まるで今生の別れのようだとアメリアは感じた。誰かの葬式で、こういう縁起でもないような顔をして棺桶を覗きこむ姿を見たことがある。生前の姿を脳裏に浮かべて、変わり果てた姿に哀しみと諦観をたたえる眼だ。
「デイジー、あなたもそうだけど何だか最近みんな様子がおかしいわ。まるでこの家がこの家じゃないみたい。一体どうしちゃったの? ソフィーは何であんな悲痛な表情でわたしのことを見たのかしらね」
「まぁ! アメリアさまったらおかしなことをおっしゃるんですね。変わらない人なんてどこにいますか? さ、そんなことよりも早く着替えてお披露目しましょう。わたしがお手伝いしますよ」
 アメリアはソフィーの消えていった廊下をしばらく見つめてから、きびすを返して彼女が歩んだのとは逆方向を向いた。

 ドレスは凄腕の持ち主に採寸を取られたみたいにアメリアのサイズにぴったりとあつらえてあった。その上、色の加減も絶妙だった。ミントグリーンの布地は瞳をこれでもかというほど引き立て、まるで宝石のような輝きを引きだしている。オーバー・スカートは綿毛のようにふんわりと大きく広がり、動くたびに純白のペチコートがちらりと顔をのぞかせ可憐な印象がある。胸元はバストのしっかりとした膨らみを強調して、そしてウエストのなんと細いこと! 思わず動けなくなるような美しさが鏡の中にはあった。
 それに、どうやらこの美しさの根源はドレスによるものだけではないらしい。魅了したい男性の前でもないっていうのに、あまりにも自然に頬に赤みがさすのはアメリアがこの贈り物の意味をしっかりと理解していたからだ。生まれてこの方、どんな人間にだって屈したことがないというのに、アメリアは今日初めて征服される悦びを知ったのだ。
 呼吸を整えて階段を駆けおりる。先ほどまでのソフィーとの会話なんてすっかり忘れていた。
「どうかしら?」
 聞かずともその表情をみれば満足していただけたことは丸わかりだった。ディランは指で円を描いて指示を送り、アメリアはその指示通りにその場で華麗にターンしてみせた。回るとスカートがふんわりと上品に膨らみ、アメリアはそれだけでご満悦だった。ドレスはどこからみてもまさしく完璧な出来栄えで、アメリアの美しさをこれでもかというほど引き出している。
 アメリアは上機嫌になってディランにやわらかく微笑み、小さな声で耳打ちした。
「ねぇディラン。このドレス、あなたがくれたんでしょう?」
「さぁ、存じあげませんね」
 ディランは澄ました顔でアメリアの髪を指先で弄んだ。その度に粒みたいな快感が走り抜ける。こそばゆい感覚にアメリアは目を細めながらディランを見つめて口角をあげた。
「たしかあなたのお知り合いだったわね。エインズワース夫人にはこうお伝えしておいてくださる? こんなに素敵な品を頂けるだなんて思ってもみませんでした。もしあなたが目の前にいらっしゃるのならキスでもしてあげたい気分です。って」
 緊張して声が震えていることに勘付かれたくなくて、アメリアは早口で言いきった。心臓が激しく早鐘を打つ。ああ、ついに対価を支払う時がきたのね。意を決してディランの黒々とした瞳を覗きこむ。アメリアの瞳はいっぱいの期待とほんの少しの不安で小さく揺れていた。
「それは光栄だな」
 テノールが耳に響いたと思いきや、ディランはアメリアの後頭部に手をまわしてそのまま何の戸惑いもなく唇を重ねた。唇と唇が触れる感覚に、アメリアはすぐに混乱して顔を真っ赤にした。それは本当に一瞬のことだった。それこそ幻かと錯覚するくらい! だが、唇の感覚が現実であることを知らしめていた。
 全身を電流が駆けめぐるような衝撃と緩やかに首を絞められているみたいな息苦しい心地よさが漂っている。心臓が一拍打っては消えそうなほど小さく二拍打つという奇妙な拍動を繰り返していて落ち着かない。今まで誰と唇を重ねたってこれほど体に異常をきたすことはなかった。
 一体この魂が揺さぶられるようなこの感情は何だというのだろう。それに一体どうしてこの体は動かないんだろう。少し前まではこの人を足元にひざまずかせてからかってやろうと思っていたはずじゃなかったの?
 そのとき、応接室の扉が誰かにノックされ、アメリアは突き飛ばすようにディランと距離をとった。そして窓際にかけて、動揺しながら外を眺めたが、見慣れた風景はまるで目に入っていなかった。ただ視線を向けているふりをしているだけだ。窓の近くはひんやりと冷たくて自分の熱がより一層強調されているみたいだ。
 背後から聞こえるデイジーの有頂天気味な声も、ディランの声もまるで耳に入る余裕がなかった。窓ガラスに映るディランの姿を見るだけで落ち着きを取り戻そうとした心臓がまた暴れ出すのがわかった。
 おかしくなりそう。それとももう――視線は自然とディランに引きつけられる。
「ちょっと、外にでてくるわ」
 外にでると涼しい風が赤く火照った頬を撫でた。相変わらず心臓はおかしな拍動を続けていて、自分がこの場に立っていることすら何か違和感があった。あてもなく外に出てみたはいいけれど、そわそわしてそれどころではなく、アメリアの足はあっちこっちに忙しなく動いた。唇の感覚は今も鮮明に残っている。
「わたし、まさかあの人のこと……好きなの?」その仮説はすとんと腑に落ちるものがあった。その時玄関が開く音がして、アメリアは反射的に木の陰に隠れた。とてもじゃないけどこんな顔見せられない! ああどうか気がつかれませんように! 神さま!
 どうやら神は普段の行いをきちんと知っているようで、アメリアの切実な願いは天に届けられることはなかった。ディランの足音はまっすぐにアメリアに近づいている。アメリアはうつむいて自分の両足をじっと見つめた。そしてついに視界にディランの靴が映ると次の瞬間アメリアは顎を持ち上げられた。
「逃げるなんてらしくないな」
 ディランの手がアメリアの首筋に移動する。ドキドキしているのがバレたのだろう、ディランは喉の奥で笑った。
「わざわざ私を笑うために外まで出てきたの?」
「そういう訳じゃない」
 長い沈黙が二人の間に流れた。ディランはアメリアの髪を耳にかけながら、捕食者のようなギラついた目をしていた。その視線が肌をなぞる度に心臓の脈動は早くなり、皮下のすぐ近くを電流が流れる。
「わたしともあろうものが、こんな気持ちになるなんてね」アメリアは精一杯虚勢を張って言葉を振り絞った。
「こんな気持ちって?」
 ディランはアメリアの事を楽しそうに見つめながら、一歩一歩、追い詰めるように質問する。
「悪い気はしないわ。不服だけど」
「それは光栄だ。随分気に入ったようだし」
 ディランの大きな手がアメリアの頬を撫でる。アメリアは目を伏せて少しの沈黙のあと悪戯っぽい瞳でディランのことを見つめた。そこには先ほどの恥じらいの姿はない。というよりもそれは努めて隠すように努力した。気恥ずかしさは有り余る魅力で包みかくして、それがまた魅力を増長させていく。
「そうね。気に入ったわ」
 アメリアは少し照れながら笑うとディランの肩に手を置いて、うんと背伸びして自らキスをした。その余裕を崩してやりたくなった、ということにしておこう。ディランは一瞬驚いた顔をしたが、すぐにいつもの余裕が戻ってきたらしい。酷い話だ。こちらがどれほど勇気を出したのかも知りもしないのだろう。
「この程度かい?」
 ディランの目は怖いほど輝いているように見えた。次の瞬間、ディランはアメリアの腰を抱き寄せてアメリアに口づけした。アメリアの体は腰を支柱に弓なりになって白い首があらわになる。今までの口付けがが生ぬるいと思えるほど、舌を入れて執拗に追いかけまわされる。アメリアの足はほとんど地面についてなくて、かろうじて爪先が地面をかする程度だ。体の主導権は完全に奪われ、ほとんど蹂(じゆう)躙(りん)されているといっても過言ではない。明らかに、〝良いように〟されている。アメリアはぼうっとする頭でかつてオルコットやソフィーが散々忠告してきた言葉を思い出していた。
 でも、悪い気持ちはしないわ。それどころか全身からみなぎるこの歓喜はどうやって説明をつけよう?
 時間にしたら一瞬のことだった。しかしアメリアにとってはまるで大地が再生するくらい悠久のときのように感じた。ようやく両足が地面についても、力が抜けて上手く立てなくて、アメリアはディランにもたれかかるようにしてまた顔を真っ赤に染めた。どうすることもできずにディランの胸に身体をあずけると、彼の鼓動を感じる。その音はむかつくくらい堂々としていて、アメリアはその音に耳をすませながら瞳を閉じた。きっと彼にとってはこの程度お遊びの範(はん)疇(ちゆう)なのだろう。
 ディランはアメリアの髪を恋人にするように優しく撫でた。その触り方はアメリアにとって馴染みのあるものだった。つまり、愛とか、恋とかそういう熱っぽさ。
 ふわふわする意識の中では上手く言葉も出てこないかもしれないが、初めてみせたそういう態度をどうしても見たくて、アメリアはディランの顔を覗き込んだ。何かからかってやろうと思ったのに、その顔を見たら何も声が出なくなってしまった。その顔はいつもと似ていたが明確に異なっていた。黒い瞳は細められて、口元は緩やかな弧を描いている。だが、そこにあるのはからかいの表情ではなく、明確な執着だった。絶対に逃さないという強い意志。声を出したいのに、まるで言葉にならない。恋心と引き換えにするみたいに、アメリアは言葉を失った。
 その後のことはよく覚えていない。

第十七章 一話

 それからというもの、ディランはますますスレイター家に入りびたるようになり、アメリアもそれを歓迎した。相変わらず、オルコットはディランを毛嫌いして、今や人のいいスレイター夫人ですらその必死の説得に心を動かされそうになっていたが、一体そんなことどうしてアメリアが気にするだろう? アメリアは生まれて初めて味わう恋の甘美な味わいにとろけきっているというのに。
 二人はあれからますます距離を近くして、毎週のようにロンドンへと馬車をまわしたり、二人で散歩に興じたり、あろうことかヘンダーソン夫人の主催した舞踏会では腕を組みながら登場して招待客たちに美味しいスキャンダルを提供してみせた。
 良家の娘できちんとした教育を受けて、順当に名家の女主人となることになったヘンダーソン夫人は二人のその姿を見るだけで気絶しそうになった。それからしばらくして、頭にのぼった血が落ちつくとアメリア・スレイターという悪女がこの由緒正しい家に入り込むことがとんでもない侮辱のように感じて、怒りで顔を真っ赤にした。
「まったく本当にどうかしていますね。昔からスレイター家の子供たちは好きではありませんでしたが、それにしたって最近の行動にはほぞを噛む思いですよ。これならまだあの愛嬌なしの妹の方がマシというものです。なんたって、あの娘は愛嬌と器量こそありませんけど家名に泥を塗るようなことはいたしませんからね。一体スレイター夫人はどうしてミス・スレイターを野ざらしにしているんだか! 言い方は悪いですが、あのお嬢さんは一家の恥さらしですよ。もしうちの家系にああいう娘がいたと思うと……ああ、本当にぞっとしますわ」
 壁際に集まった夫人たちはみな首を縦にふりはっきりと同意を示した。それで勢いづいたらしく、ヘンダーソン夫人は一種の冷徹さを感じるような声色で高らかに宣言してみせた。
「わたくしはもう金輪際、ミス・スレイターはお呼びしません」ヘンダーソン夫人は続けた。「それからあの女とお付き合いをする家にも子どもたちは出入りさせないようにします。ええ、今まで天塩にかけて育てた大切な我が子があの女の毒牙にかかると思うとやりきれませんもの」ヘンダーソン夫人は珍しくはっきりと顔をしかめた。実際、彼女の大切な長男はアメリアにぞっこんで、アメリアがひとたびその瞳を自分に向けてくれたら何だって差しだせるほどの思いだったのだ。同じように年頃の息子を持つ母たちはみな一同に大きく頷きあった。
「それにしたって、ミス・ベネットもベネット夫人も相手があの破廉恥な娘ではやりようがないでしょうね。あの程度の方と張りあうなんて普通の家庭なら恥ずかしくてできませんよ」
「本当にまったくその通りですわ。それにああいう女がいるから結婚できない可哀想な娘が生まれるんですよ。天上の父は対になるようにしか男女をお造りになられてないのに、一人で十人も二十人もそそのかして」その目つきが狐のように鋭くなったのは、男に縁がない愛娘の婚約者をどうにかこうにかあつらえたと思ったらアメリアも微笑み一つで奪われた苦い過去を思い出したからだ。結婚適齢期の娘を持つ母たちは首が取れてしまいそうなほど大きく首を縦にふった。多かれ少なかれ娘を持つ夫人たちは同じような経験があった。
「それに、ご覧になりました? リック・アボットへのひどい仕打ち!」その一言で夫人たちの鋭い視線が一斉にリック・アボットに向き、会場の隅で一人うなだれていたリックは驚いて肩を揺らした。リックはちょうどアメリアをダンスに誘って、いともあっさりと断られたところだった。
「婚約者だというのに踊りもしないどころか、口も利きたくもないというあのひどい態度! 氷よりも冷たい女ですこと! わたくしの聞いた話ですと、このごろは家にすら招かないとか」
「ええ、もっぱらあの紳士とばかり一緒にいるらしいですね。それどころか――あんなうわさまで持ちあがって」
「うわさなんかじゃありませんよ。事実に違いありません」ヘンダーソン夫人がはっきりと言いきると夫人たちはまた顔を見合わせて小さくうなずきあった。
 このごろの二人の様子は誰が見ても好ましい進展があったことを示唆していた。それに、アメリアの羽振りが急によくなったのをみて、疑り深い名家出身の貴婦人たちはきっと二人はすでに……と邪推を言いあい、噂が噂を呼び、いつしかそれが公然の事実となっていたのだ。
「本当に破廉恥ですこと。一体あの華々しいドレスやら宝石やらのために何を差しだしているんだかは存じあげませんけど、ろくでもないことはたしかですわ。その上、名家の紳士をたぶらかすだなんてとんでもないことです」
 違いない、と夫人たちは無言でうなずいた。
「それに、ついにはソフィーまでもが手を焼きかねてお目付役を辞退することになったとか。今はあのパッとしない方がやっているらしいですけど、えっとどちら様だったかしら。たしか、デイジーとかいいました?」
「随分長くもった方ですよ。さぞ清々したはずでしょうね」
 例の一件があった日から、ソフィーはすっかりアメリアを注意する気力がなくなってしまって、その立場をデイジーに譲っていた。そんなわけでアメリアがどこかへ出かけるとなってもソフィーの代わりにデイジーの姿がそこにあった。長らくアメリアのお目付役を務めてきたソフィーは今では家でエレンの看病を行い、本人もそれを新たな天命だと理解していた。一方でデイジーはといえば、同じ罪を背負うアメリアの隣が大層心地良いようで、しょっちゅうアメリアの部屋に入りびたってはディランから受けとった品物を自慢した。
 誰よりも長い時間をともに過ごしたソフィーから距離を置かれるのは少しだけ寂しいものがあったけれど、だからといってアメリアが悲観に暮れていたかというとそうでもない。
それはやはり、ディランの存在が大きかった。心の奥底から勝手に湧きあがる感情はあまりにも甘美で心が躍る。この感情を端から端まで余すところなく楽しむのでアメリアは精一杯だった。ディランと過ごす時間は今までのどんな瞬間よりも楽しくて心地良い。
 ディランは家を訪ねるたびにどこかのお土産だとか素敵な贈り物を持って参上した。そのせいで、いつの間にかアメリアのクローゼットはすべてがディランからの贈り物で埋め尽くされてしまった。ソフィーはそのクローゼットを見るたびに嘆き悲しんだけれど、アメリアがそんなこと気にするはずもない。
 そしてどうやらそんな内情は夫人たちの第六感を用いればいとも簡単に筒抜けになってしまうようで、今やスレイター家の内情は社交界の公共物と言っても過言ではないほどに知れ渡っていた。唯一ご夫人たちが誤解しているのはソフィーの感情くらいのものだろう。ソフィーは最愛のお嬢さまの手を離してしまったことをしきりに思い悩んで枕を涙で濡らしては、エレンに切実な告白をしていた。
「アメリアさまのことを思うなら、諦めるべきではなかったんです……。きっと力ずくにでも止めるべきだったんだと思います。……きっとアメリアさまは悲しい思いをするに違いありませんから……でも、一体どうすればいいのか分からなくて」
 とはいえ、ソフィーの心情がどうであれ夫人たちにはまるで関係のないことだ。
「それにしたって、リック・アボットはよくミス・スレイターとの婚約を破棄しませんね。普通ならばそんな非道な行い、到底許されるべきではないと思いますけどね。今回ばかりは例外ですよ。なんたって女側の落ち度ですから。ミスター・アボットだってまさか、息子がようやく掴んだのがあんな不良債権だとは思いもしなかったはずですよ」
「ええ、まったく。でも、まぁ、世の中の紳士たちの目が残念なのは今に始まったことではありませんわ。あの目にみえる地雷が愛しくて仕方がないらしいですからねぇ。本当、わたくしには理解しかねるところですけど。リック・アボットもそれにもれず、未だにアメリアを恋してやまないっていうんですから。恋は盲目と言ったって流石に限度がありますよ」
「いい加減、あの女に心というものが備わっていないと理解するべきですね」と、この場の取りまとめ役であるヘンダーソン夫人は同意しながら、確信に満ちた言葉尻で続けた。
「ですが、いかにリック・アボットがアメリアに惚れこんでいるからと言ってそう長くはもたないことは確実です。何しろアボット夫人が許さないでしょう。もともと婚約もアボット夫人とエマの反対を強引に押しきる形で結んだと聞きましたし、あれほど悪条件が出てくれば婚約破棄は目前に決まっています」
 夫人たちは扇子の裏で互いの意志と結束を確認しあい、皆ひそかに口元に笑みを浮かべた。たとえどれほどの魅力があろうとも、婚約破棄なんてされたらその娘の人生はおしまい! 結婚はおろか、紳士も腫れ物みたいに扱うし、全員の笑いの的だ。引っかかる男といえば、浮浪者一直線のダメ男とか、ならず者みたいな男しかいない。どうにかこうにか結婚にこぎつけたとしても結果はたかがしれている。そして結婚できなかった娘の人生なんて目もあてられないというのは夫人だけではなく世界の総意だ。
 それからもアメリアにまつわる噂話は尽きることはなかった。夫人たちは膝を突きあわせている内に、アメリアへの嫌な記憶で頭がいっぱいになり、一人の声に呼応してまた一人が声をあげ、それが幾重となく繰り返された。もはやそれは静かなる革命のようだった。誰も口にはしないが、夫人たちの心はただ一つ。「アメリア・スレイターに天罰を!」

第十七章 二話

 ディランはそんな夫人たちの様子をじっと観察して口元に楽しそうな笑みを浮かべた。
「この間フランスに行ったって言っただろう。ちょうどその時もこんな雰囲気だったよ。まさしく革命前夜だ。あとは血の一滴でもあればすぐにでも爆発しそうな雰囲気だな。君もいい加減、義務を果たした方がいい。少なくともあの恋人にそれなりの態度で接していればご夫人方の対応もそこまで悪くならないんじゃないかい? それと、わたしのちょっとした贈り物を自慢するようなことをしなければ」ディランは心底楽しそうに笑いながら言った。
「枯れ果てた皆さんがわたしを悪く言うのはいつものことよ。それにあなたが着飾ったわたしをひそかに自慢したいと思ってることは分かってるのよ」
 ディランは品定めするようにアメリアのことを頭の先からつま先まで眺めて眉を上げた。その視線は明らかにアメリアのことを好ましく思う視線だった。
「ま、否定はしないでおこう。それにしたって、いつだって君の自信には感嘆するね」
「第一、そんなことをおっしゃるならもう金輪際素敵な贈り物をもっておいでにならないことだわ。今度は他の方を飾りたてて楽しむことね。わたしの他に似合う方がいらっしゃればって話だけど」
 アメリアは魅惑的に目を細めてディランを挑発した。
 アメリアの首には異国の女王の首からかっさらってきたみたいな十カラットもの大ぶりのルビーが自ら光を放っているみたいに輝いている。それからディランの贈ったドレスは今ではアメリアの全身を当たり前のように覆いつくして我が物顔を決めこんでいた。
「わたしの些細な悪趣味に付き合って頂きどうもありがとう、お嬢さん。まさか君がわたしのためを思って毎回新たな装いをお披露目してくれているとはね」
 すっかり居心地の良くなってしまったディランの口ぶりに、アメリアは軽く肩をすくめた。
「本当にわたしがあなたのためだって言ったらこの人なんていうかしら。少しでもうろたえてくれれば気分がいいのに」
 最近のアメリアの願いといえばディランからどうにかして愛の言葉を聞きだすことだった。二人の関係に目を光らせるご夫人方はまるで知らないことだが、二人の距離が真の恋人よりも近くなっても、ディランは一度だってアメリアに甘い言葉を囁いたことはなかった。態度では散々愛を語り、熱のこもった贈り物をごまんと贈るというのに。普通の男であればあっさりと脳抜きにできるような、少し過剰なくらいのリップサービスもディランにはまるで意味をなさなかった。いつだってディランはアメリアのことなんてお見通しで、余裕綽々の態度を崩さないのだ。それがディランの絶大的な魅力の一つだったけれど、かたくなに言葉にしない人ほどどうにかして言わせたくなるのがアメリアという人だった。果たしてその言葉を受けとったあと自分がどうなるのかはまるで見当がつかなかったけれど……そのために当然持てる武器はすべて使うつもりだった。しかし、それにはどうしてもその障害になるものがあった。それも避けては通れない大きな障害だ。
 アメリアはリックを眺めて小さくため息をついた。リックはここのところみじめなほどに自信を失っていた。うなだれた頭はもう支えることもできないみたいで、萎れたひまわりみたいな具合だ。そんなリックを眺めているとアメリアは一体どうして一時期はあの人と腕をとってダンスを踊り、ましてや結婚しようだなんて思ったのだろうと思わずにはいられなかった。
 いつだってディランは真新しくて素敵な服に身を包んでいるというのに、リックときたらこのごろはよれてボロボロになった服をだらしなく着ているばかりだ。クラバットはしょっちゅう変な方向を向いて、舞踏会が終わるまでそのままなんてことも珍しくない――何しろ、それを指摘する人がいなかったから。一晩中薄暗い隅の方で頭を抱え、ぼうっと床ばかりを見つめている。それから時折、ディランとアメリアが会場に嵐のような歓声を巻き起こすと、やつれた顔をあげてその風景をぼうっと眺めた。
「一体僕はどうすればいいんだろう……」
 リックの面持ちが暗いのは何も自分の愛しの恋人が素っ気ないだけが理由ではない。
 そもそも驚くべきことに、このちょっと間抜けな男はアメリアの心はいまだに(最初からなかったのだが)自分にあるものだと信じて疑っていないのだ。最近のアメリアの態度もちょっとした照れ隠しのようなものだろうと思いこんでいた。その奇妙な勘違いのせいでリックはますますアメリアに打ち明けられなかったのだ。
 リックはアメリアのことを眺めては深々とため息をついた。彼の目に映るアメリアはいつだって光り輝く小さな宝石のようで、子供のように無邪気で愛らしい。
「でも、どうやったらアメリアさんに真実を打ち明けられるだろう……あんなのかわいい人を苦しめるようなことを、一体どうして僕が伝えられるっていうんだ」アメリアの涙を想像して、リックは再び深いため息をついた。「僕たちが一緒になれないだなんて……一体どうしたら……」
 今やリック・アボットを含むアボット家の面々は有史以来の窮地にたたされていた。というのも、ついにアボット家の強欲な生活に家計が耐えきれなくなり、いよいよ借金で首がまわらなくなったのだ。
 家には毎日のように催促の手紙が届き、アボット夫人のご自慢だったコレクションたちはわずか百ポンドという安値で買いたたかれることになった。それから普段使いの使用人を十人も解雇することになり、ついには長いことキッチンを任されていた熟練の使用人すらも暇をもらうことになった。館の主人であるミスター・アボットは怒りくるい、毎日浴びるように酒を飲んではアボット夫人に悪態をつき、激しく責めたてた。
 ついにはアボット夫人は夫の扱いにヒステリーを起こして家から飛びだしてしまった。それからというもの、家は荒れに荒れた。エマ・アボットは部屋に閉じこもって枕を涙でぬらし、リックは度々呼びだされて長男としての責務を果たせと迫られた。
「たしかにあの娘は顔は良いが、お前もわかるだろう。今、この家が求めているのは金だ。持参金の多い女との結婚しか認めないぞ」
 元々しゃがれ声のミスター・アボットは酒やけでますます声が低くなっていた。リックはうなり声のようなその音を聞きながら、控えめに異議を申したてた。
「で、ですが父さん……、僕はもう婚約しています……」
「お前の意見なんぞ聞いていない。それに、所詮女なんてどれだって同じだろう。どの女を選んだってただ飯食らいのごく潰しのあばずれに変わりない。うちの馬鹿娘もさっさと嫁がせなければな――まだ部屋から出てこないのか。少し言っただけだというのに、流石はあの売女の娘だ。あの女もまだ帰ってこないらしいな」
「はい……そうですね」
「いっそのことどこかで野垂れ死んでくれたらありがたいもんだ。そうでもなければまたろくでもないものを買いこんでくるに決まってる。ゴミばかり集める浮浪者と一緒だ。それに、お前の婚約者とやらもも腹の中では何を考えてるんだかわからん。最近はベネット家の婚約者にずいぶんと入れこんでいるようじゃないか」
「父さん……アメリアがそんな人じゃないってことはわかってるじゃないですか」
「どうだかな。もっともどうせうちに財産がないと知れば手のひらをひるがえすに決まっている。とにかく、お前は一刻も早くスレイター嬢と縁を切って財産持ちの女でも捕まえろ」
「でも、父さん。僕はそのつもりは……」
「なら駆け落ちでもするっていうのか? え? そういうことなら、お前もさっさと出ていくといい」
 リックはついに答えられずに、黙ってうつむき絨毯をじっと見つめた。
 あのときは答えることもできなかったけれど、しかし、今思えば……とリックは顔をあげて、アメリアのことを見た。その瞳にははかない希望がちらついていた。「アメリアさんは……駆け落ちするといったら……僕と一緒に来てくれるかな?」
 それからしばらく、リックは石像のように体を固くして、太ももに肘をつきながら前屈みになってアメリアのことをじっと観察し、ようやくアメリアに話しかける決心がついたのは、さらに一時間が経過したころだった。
 舞踏会はすでに終盤で、年老いた夫人たちは眠たそうにしきりに欠伸をして、若い娘たちの会話もだいぶ間延びしたものになっていた。いつの間にか弦楽団が奏でる見事な音楽もゆったりとした曲調になっていて、時間の進み方が突然遅くなったみたいだ。
 リックはゆっくり立ちあがり、音もなくアメリアに近づいた。少しやつれた顔のせいで、その動きはなおさら亡霊のようにみえた。
「……アメリアさん……その……少し良いですか?」
「あら、リック。なに?」
「できれば、向こうの方で……。少し話したいことがあって……」といいながら、リックは隣に座っているディラン・エドワーズをちらりとみた。ディランは何だか楽しそうに肩を揺らしながら小さく笑っていた。
「ええっと……それって今じゃないとだめかしら? 今、エドワーズさまからありがたいお話をうかがっていたところなんだけど……」
「そんなにつれないこと言う必要ないだろう。せっかくの恋人のお誘いだ。わたしのことはどうかお気になさらず。わたしとの会話なんてただの暇つぶしに過ぎませんから。それに、元々はこの席はミスター・アボットのものですからね」といってから、ディランはアメリアにだけ聞こえる声で耳打ちした。「もしかしたら、君を縛りつけるわずらわしい約束から逃れられる日がきたのかもしれませんね?」
 アメリアはディランのことを一目みてから小さくため息をついて席をたった。リックはアメリアが久しぶりに自分の言葉を聞いてくれたことに有頂天になるあまり、アメリアの手をずいぶん強く握っていることにすら気がつかなかった。
 二人はサルーンを離れて、ついには玄関の前にたどり着いた。人の気配はまるでなく、サルーンの間延びしたざわめきも、弦楽器の音も届かない。しんとした空気にも、リックの思い詰めたような表情にも、アメリアはなんだか途端に怖くなってきて、小さく声をあげた。
「リック、痛いわ……ねぇ、何の用なの? こんなに人気のないところでしか話せないことなの?」しかしどうやら、リックはアメリアの声なんて聞こえていないようだった。「ねぇ、リックってば。一体どうしたの?」
 リックはアメリアの肩を爪が食い込むほど強く握った。白い肌は痛ましいほどに赤く染まっていたが、リックの視界にはそんなこと映っていなかった。頭の中は一体どうやって切りだそうかということでいっぱいでどうしようもない。
「アメリアさん、その……えっと、クソ、なんて言えば良いんだ……その……アメリアさん。僕は、あなたのことを、その、本当に愛しているんです。どうかそれだけは覚えていてください。だから、あなたのことを傷つけるようなことをするつもりは本当にないんです。ですが、ええと……今、アボット家は、窮地におちいっているんです。それで、それで、父はあなたとの婚約を無効だと言い始めて……」リックはアメリアの顔をどうしても見られなかった。アメリアは今どんな顔をしているのだろうか? きっと悲痛に顔を引きつらせているに違いない。ああ、一体僕はどうしてこういう物言いしかできないんだろう。
 リックは絶望しながら声を大きくさせた。
「で、でも、僕は、僕は……僕はそんなつもりまるでありません! アメリアさん、どうか僕と一緒に駆け落ちしましょう! 今すぐに! 僕はあなたさえいれば、他になにもいらないんです、さぁ! 一緒に!」
 肩に食い込む爪のせいでアメリアの肌は真っ赤になり、その表情は苦悶に歪められた。アメリアはいつもとまるで違うリックの様子に混乱して目線をそらしながら小さな声で答えた。
「そ、そんなこと……突然言われたって困るわ」一体リックはなんていったの? 駆け落ち? わたしとリックが? 混乱するアメリアをよそに、リックは両手にますます力を込めた。  
「それなら、それなら待ちます。三日後の早朝に群の入口にある石碑の前にきてください。もしも、アメリアさんが僕と一緒になってくれるというのなら……僕は……」
 リックらしからぬ切り返しにアメリアがびっくりしているうちに、リックは足早にその場を去っていった。そのせいで遅れて頭の中に浮かび始めた文句はどこにも発散できなかった。「駆け落ちなんて、冗談じゃないわ! 一体どうしたらわたしが彼と一緒になるだなんて妄想をああも堂々と話せるの? それにそもそも……三日後は、ちょうどディランとどこかに馬車をまわす予定だったもの」

第十七章 三話

 アメリアは自室でメアリーの行間の詰まった手紙を読んでいた。ここのところ、メアリーの手紙を読むときはいつも緊張で息がつまる。

 わたしの一番のお友達アミィへ
 この間の手紙は読んでくれた? わたしからは確認する術がないけれど、どうか海を越えてあなたの元に届いていることを願っています。でもきっと、こんな心配をするのも今日の手紙で最後だと思うわ。実はね、予定より少し早いのだけれど、そろそろイギリスに戻ることにしたの。
 わたしったら、あの日からずっと舞いあがって自分のこと以外まるで頭が回らなかったんだけど(夫人になったんだから、何事にもはしゃいじゃだめなんて言わないでね! まだ見習いだもの)わたしがこうしてジョンを独占している間にも、彼のかわいい妹さんがどんな寂しい気持ちを抱えているか想像したら、自分のことばかりを優先しているのが何だか恥ずかしく思えてきちゃったの。
 きっとアメリアはそんなこと気にする必要ないっていうと思うけどね。でも、本当にもう信じられないくらい満足しているのよ。今だって隣にジョンがいるのが夢みたい、幸せ過ぎて怖いくらいだわ。きっとこれ以上欲張ったら罰が当たるでしょうね。あまりにも幸せすぎると人ってちょっと不安になるでしょう?
 まだ詳しいことは決まっていないんだけど、イギリスに帰ったらしばらくは親戚をめぐろうと思うの。まだご挨拶もできていないからね。どのくらいの歓迎を受けるかわからないんだけど、きっと大変なことになると思うわ。アミィもなんとなく想像がつくでしょう? たとえばスキナー叔母さんなんて絶対に一ヶ月は帰してくれないわ。何しろ、あの女性は誰よりも祝い事が大好きなんだから。
 わたしの見立てだと、きっと我が家に辿り着くまでには最低でもあと二ヶ月はかかりそう。あなたと会えるのがとても楽しみです。
 追伸、その時にはリック・アボットとの話も聞かせてね。
  メアリーより

 最後の行まで整った字を追いかけてから、アメリアは安堵のため息をついた。「ああ、よかった。まだメアリーの耳には届いていないのね」
 リックと婚約を破棄してからというもの、アメリアはついには毎回楽しみにしていたメアリーの手紙すら、確認するのが億劫で恐ろしく感じるようになっていた。
 メアリーに言えないことばかりが増えていく。方やメアリーは見聞きしたこと、感じたこと、全てを手紙に詰め込んでくるというのに。アメリアを信用して心の奥底まで打ち明ける手紙が届くと、アメリアは決まって自分を恥じる思いでいっぱいになるのだ。こっちはいまだにリックとの一件を報告できていないし、ましてやアメリアが本当に分かち合いたいディランとのあれこれなんて手紙に書けるはずもない! そんなわけで、アメリアは手紙にするまでもない社交界のちょっとしたニュースとか(重大なニュースには大体自分が関わっているのだ)ディランからの心のこもった贈り物の出どころをごまかしながら書いてみたりするのだが……いっそのこと真実をそのままつづれたらどれほど心が楽になるだろう。これほど誠実でまっすぐで純真純朴な天使のような友達に、誤魔化しとつぎはぎだらけの手紙を送るのはこの世で最も恥ずべき行為な気がした。だからといって全てをありのままに打ち明ける勇気なんてどこを探しても見当たらない。そんなことをしたらメアリーはすごくショックを受けるだろうし、幸福の絶頂にいる彼女を絶望に突き落としたくないのは本当なのだ。
 アメリアはため息をつきながら、その手紙をしまってぼんやりと宙を眺めた。「正直にいうなら――今はメアリーに会いたくないわ。もういっそのこと、旅行先でどこか素敵な場所を見つけて定住してくれればいいのに。そうだとしても、リックとの婚約が解消になったって耳に入るのも時間の問題ね。悲しませるのは本望じゃないけど、いつか穏便な形で伝えられるように願っていよう。うん、きっと神さまもメアリーには優しいだろうし、どうにかなるに違いないわ」
 アメリアとリックの婚約破棄のニュースはまたたく間にイギリス全土に駆けめぐり、二人を知る人たちは婚約が白紙になったと小耳に挟んだその瞬間からその理由を面白おかしく邪推して会話の種にした。それは吸血鬼や狼男みたいにファンタジーに満ちあふれたものもあれば、いかにも事実っぽいものも含まれていた。そして山のような人々があれこれ想像をふくらまして、最終的には一つの定説が社交界全体に行き渡り、すっかり事実として扱われることになった。つまり、この婚約解消は表向きはアボット家の財政悪化が原因といわれているが――その実、アメリアの傲慢極まりない態度に業を煮やした結果であると、この説の提唱者であるエマ・アボットはしきりに周囲に言ってまわった。普段なら眉唾と誰も信用しないようなエマの言葉だが、今回は身内の話ということもあって民衆の心をがっちりと掴んで離さなかった。
 この件について、女も男も真実を求めてジャーナリストを気取ってリックを散々問い詰めた。けれどリックは暗い顔をするばかりで大した答えが返ってくることもなかった。そこで、次に白羽の矢がたったのがエマ・アボットだった。エマは重要参考人みたいな気取った顔で、散々聴衆を焦らせてもったいぶらせてから「実は……」と切りだしたので、なんだか聞いている方はすっかりそれが内情なのだと錯覚することになったわけだ。実際、エマがそんな話をでっちあげようと思ったのは実家の財政が悪化していることが原因だったのだが――プライドの高いエマ・アボットがそんな事実を認められるはずがなかった。それにこうしてアボット家の財政悪化の話がイギリス全土にまで噂が広まってしまえば、アメリアだけでなくわたしの立場まで危うくなってしまうじゃない。
 唯一聴衆に事実を伝えられそうなアメリアはもとより邪推に囲まれて生きてきたので、今回の妙ちくりんな噂にも大した興味はなく、エマのやりたいようにさせておいた。アメリアにとっての誤算は、そんな噂が案外民衆に受けいれられて、その余波がスレイター家をも飲み込んだというところだ。
 もちろんミスター・アボットから直接理由は説明されていたけれど、スレイター家の面々は最近のアメリアの行動に頭を悩ませていたのもあって、そこに何か因果関係があると信じて疑わなかった。たしかに財政悪化も原因の一つだろうが、きっと本当に大きな割合をしめているのはこっちに違いない……と。
 そんなわけで家族からの風当たりはこのごろますます冷たくなるばかりだ。けれど相変わらずアメリアはそれどころではなかった。彼女にほんの少しでも後ろめたい気持ちがあったり、普通の令嬢のようにほんの少しの弱さを心に宿したり、人の顔色に注意を払い、普段から外を気にして外面を取りつくろう頭があったのならきっと周囲の視線の温度が下がっていることにも気がつけたのだろうが――何しろ、アメリアには幼少期からつちかった世界に対する絶対的な自信しか持ちあわせがなかった。生まれてこの方、人の顔色だなんてうかがったこともないアメリアに、突然そんなことができるようになるはずもないだろう。
 むしろリックとの婚約を破棄してからというもの、アメリアは久しぶりの自由を存分に謳歌して毎日のように紳士たちと遊びまわった。もちろん心はディランのもとにあるけれど、それとこれとはまた話が別だ。紳士をたぶらかすのはアメリアの生きがいなのだ。ディランが遊びにこない日の退屈しのぎに、紳士をそそのかしちゃいけない理由なんてどこにあるだろう。
 一度婚約して、あまつさえそれを破棄しようものなら一巻の終わりだと長いこと言い聞かされてきたアメリアからすれば拍子抜けだったが、紳士たちはアメリアの美貌を求めてどこからともなく湧いてくるものだった。もちろん気高いご夫人たちの言う通り、中にはアメリアとの付き合いをたつ紳士もいたが、そんなものごくわずかで、むしろこの絶好の好機をものにしてみせるという野心溢れる若者たちがこぞって扉を叩いた。オルコットはそんな紳士たちを「恥も外見もないようなろくでもない人間」だと酷評したが、アメリアからすればそんなことどうでもよかった。確かに身分だけをみるなら格落ちなのかもしれないが、紳士であることに変わりはないのだから。楽しい遊び相手としては申し分ない。
 それに、この時期に婚約を破棄できたのはアメリアにとって最高の幸運だった。もう少しでも遅ければシーズンに入り、シーズン中も忌々しい約束につきまとわれるところだったのだから。それを想像するとアメリアはぞっとして「リックったらいつも間が悪いのに、最後ばかりは上手くやったわね」と思わずにはいられなかった。シーズンといえば、イギリス中の紳士淑女がロンドンに集まる一大イベント。普段は会えないような紳士たちに自分の美しさを見せびらかし、骨抜きにする随一の機会だ。アメリアはそんな未来を想像するだけで心がおどった。
「でも、お父さまは許してくださるかしら?」
 アメリアは夕食を口に運びながら父のことを見た。
 ここのところ、ミスター・スレイターは難しい顔をしてため息をつくばかり。今この瞬間にも、健康そうな顔にはしっかりと隈がきざまれ、眉間にしわがよっていた。それもこれも、アメリアの巻き起こす騒動に頭を悩ませているからに他ならない。
 アメリアもそれに気がついているからこそ、婚約破棄が決まってからはなんとなく父と気まずい関係なのだ。加えて言うのなら、ため息をついているのは父だけではなく使用人もそうだったし、誰もが思い悩むばかりにどこを探したって会話がなく、その重々しい雰囲気もアメリアが言葉を引っこめる原因だった。
 夕食の席だというのに、特にめぼしい会話もなく、アメリアはジョージアナがしきりに睨んでくるので味のしない夕食を喉に流し込んだ。
 夕食の後、アメリアはくたびれ果てた父を呼び止めて交渉に入った。
「お父さま、もうすぐシーズンですね。わたしもロンドンに行っていいですか?」単刀直入にそう告げると父は深いため息をついた。
「だめだ。今年はわたしだけで行こう。お前は家で静かにしていなさい」
「どうしてですか?」
「事細かく説明が必要なら、なおさら連れて行くわけにはいかないな」
「お父さまが例の噂を真に受けていることは分かっています。でも、実際はアボット家の没落が原因です。それも、向こうから言ってきたんですよ?」
「口答えはよせ。事実がそうだとしても、世論はそう考えていないらしい。それに、いい加減お前を甘やかしすぎたみたいだ。エレンと一緒にこの家に残りなさい」
「でも……」
「あまり口答えするようなら修道院にでも入ってもらうぞ」
 アメリアは今にも泣きだしそうな顔で唇を噛みしめると父のことを見つめた。瞳を潤ませるアメリアをみて、父はぎょっとしてアメリアの肩を叩きながらなぐさめにかかった。
「アメリア、そんなことはしないとも。だから泣くんじゃない……。ただ、今回ばかりはわたしも譲れないんだよ。分かってくれるな? そうだ、ならどこにも出かけずに大人しくしていると約束できるならロンドンには連れて行ってやろう」
「そんなのいやです。もっとみじめになるだけですもの……」
「……それなら何か土産を買ってこよう。大人しくしているならな」
 アメリアはふらふらした足取りで部屋を出た。部屋の前には何人もの使用人がいて、その様子から察するにドアの鍵穴から中の様子をのぞき込んでいたようだ。オルコットはその一番後ろで腕を組みながらふんぞり返っていた。
「当然ですよ。アメリアさま、旦那さまのいう通り、一回深く自分を見つめ直すことです」オルコットは盗み聞きを隠そうともせずに言った。アメリアはオルコットのしたり顔に腹が立つやら悔しいやらで、唇を噛みしめたまま喉の奥からうなるような声を発した。
 次の日にもアメリアの気分はまるであがらなかった。味のしない朝食を胃に流しこみ、それからとくにすることもなく応接室のカウチにだらしなく腰をかけた。頭の中ではとりとめのない思考がただひたすらに流れている。「なんとかして、もう一度お父さまを説得できないかしら……。でも、あんなにかたくななお父さまは初めてみるわ。わたしに落ち度がないのは分かってるはずなのに……。ミスター・アボットだって金銭的な問題がなければ婚約を破棄しようだなんて思わなかったはずじゃない。だから、わたしの振る舞いなんてほんの些細なことなのに……みんな勝手に事実をねじ曲げようっていうんだから笑っちゃうわ」
 ふくれ面で不平不満を考えていると、玄関の方が騒がしいのに気がついて、アメリアはハッと顔をあげた。一体だれかしら? 今日はお約束もなかったはずだけど、でも誰だって構わないわ。この気持ちを晴らしてくれるっていうなら誰だって。
 しばらくすると応接室のドアが開かれてその先にディランの姿を捉えると、アメリアは太陽の光を受けて燦然と輝く一輪の花のような笑みを浮かべてカウチから立ちあがった。それからディランの背後にいるオルコットが厳しく睨みつけるのも気にせずに、そのまま吸い寄せられるようにその胸に飛び込んだ。
「いらっしゃるなら教えてくれればよかったのに! 今日は夜までいられるの? 時間があるならディナーも食べていけばいいわ。ちょっとまってて、着替えてくるから!」
 アメリアは浮かれた調子で階段を駆けあがった。先ほどまでの不満はすでになくなって、アメリアの頭の中はどのドレスを着ようかということでいっぱいだった。せっかくだから、この間の新しいドレスにしようかしら? ディランの感想も気になるし……それともこの間大絶賛してくれた白のモスリンのドレスにしようかしら。しばらく悩んで、アメリアはやはり新しいドレスのお披露目をしようと決めた。ちょうど先日エインズワース夫人の名前で届いた新顔だ。
 おあつらえ向きなことに、廊下には丁度デイジーがいた。デイジーもアメリアの様子からきっと例の紳士が来訪しているのだろうとあたりをつけて、上機嫌で着替えを手伝ってくれた。
 着替えが終われば、アメリアは走りだしたい気持ちを必死におさえながら階段を下りた。そして応接間に戻る前にそっと庭園にでて、とりわけ綺麗な生花を庭師に内緒で一本拝借すると、それをサッシュに挿して満足気な笑みを浮かべた。
「アメリアさま!」
 遠くから庭師の声が聞こえて、アメリアは首だけで振り返り肩をあげて狩人に見つかった兎のような速さで屋敷へと舞い戻った。後ろからは相変わらず自分の名前を呼ぶ声がしたが、そんなものでアメリアの足を止められるはずなんてなかった。

 アメリアが応接室に舞い戻ると、ディランはすぐに新しいドレスに気がついた。ディランはアメリアのことを品定めするようにじっと見つめた。
 いつものことながらアメリアはそういう視線を向けられると全身がカッと熱くなり、心臓が妙に早く脈打つのを感じた。そして最近の気づきは、こういうある種不躾で、彼の所有物みたいな扱いを受けるのも存外悪い気がしないということだ。ジョージアナなら怒り狂って我を失っただろうけれど、誰もがうらやむ時の人を夢中にさせているというのはただでさえ気分が良かったし、その上なんだかそういう怪しげな視線にさらされると全身の肌が栗立って、ピリピリとした快感がはしるのだ。
「新顔だな。さぁ、ターンしてよくみせて」
 アメリアは気取ってその場でくるりとまわってからかわいらしい微笑みを浮かべてみせた。ターンを決めればドレスの裾がふわりと広がって真紅のレースのついたペチコートがちらりと顔をのぞかせる。ディランはしばらくその様子を鑑賞してから満足げな笑みをたたえた。
「君は本当になんでもよく似合うな。今度来るときにはそのドレスに似合うボンネットでも買ってこよう」
 アメリアは嬉しそうに笑って、ディランの隣に腰をおろした。今ではディランの隣はアメリアの定位置だった。
「期待しておくわ。また古い方を捨てなくちゃ、あなたのせいでわたしの思い出の品がどんどん少なくなっていくんだから。あなたの家がどうだったかは知らないけど、わたしのクローゼットには限りがあるんだからね。それにしたって今日は一体どうしたの?」
「何やら楽しそうな噂を聞いたからお祝いをと思ってね。ようやくご自身を厄介な約束から開放できたわけだ」
「お祝いを言うのなんてあなたくらいのものよ。みんな重苦しい顔つきばかりして、本当につまらないんだから。お父さまだってシーズン中はこの家でじっとしていろっていうのよ」
「誰もいないこの辺に? そりゃ、さぞ退屈だろ――なら、一緒にいくかい? 部屋も余ってるし。正直デビュタントの相手をしたらどこか外国にでも逃げようと思ったんだが……まぁ、君がいるなら着飾った姿を見せびらかすのも悪くない」
 アメリアはその提案に目を輝かせた。
「本当に!? いいの!? それならぜひお願いしたいわ!」
 シーズン中のロンドンに出向けるのも嬉しかったが、それ以上にうれしいのはディランとずっと一緒にいられるというところだった。今だって数多くの紳士が屋敷を訪ねてはくるけれど、一番楽しいのはディランと一緒にいるときなのだから。

第十八章 一話

 月が変わるとアメリアとデイジーは早朝から二人だけで身支度をととのえ、できるだけ音をたてないように息を殺して屋敷の外へ抜けだした。二人の浅知恵によりロンドンへの旅行は事後報告にすることが決まっていた。大体こんなことスレイター夫妻にどう説明しろというのだろう? たとえどんな詩人が曖昧に言葉をにごして伝えたとしても止められるに決まっている。
 そんなわけで、アメリアは「でかけます」という簡潔極まりない一筆だけを机に残して家をあとにした。行き先や期間なんて細かいことはロンドンに逃げてから少しずつ開示していけばいいことだ。もっとも、どれほど母親に懇願されたとしても宿泊先がエドワーズ家だということは隠し通すつもりだったが。
「だってこんなことお母さまに伝えたら、それこそ卒倒しちゃうもの」
 けれど冷静になって考えてみれば、未婚の女性が男性の家に転がりこむなんて、少しだけ後ろめたく、なんだか危険で魅惑的な響きがした。しかもお目付役は最近なりあがったばかりの新米娘、その上倫理観に若干の難があるともなれば、お目付役なんてあってないようなものだ。
 柔らかい風がアメリアの髪を揺らす。アメリアは屋敷からせっせとトランクを運ぶデイジーを眺めて、お目付役がソフィーではないことを心の底から感謝した。もしもこれがソフィーだったならこれほど簡単にことは運ばなかったはずだ。
「アメリアさま、本当に楽しみですね! エドワーズ邸といったらロンドンでもちょっとした名所なんですよ。なんたって歴史あるお屋敷ですし、その風格ときたらその辺のお屋敷とは比べものにならないらしくって。まさかわたしが生きているうちにあのお屋敷に足を踏みいれる機会があるだなんて、本当に今でも信じられないくらいです。それにまさか、シーズン中のロンドンに同行できるなんて夢のようです! いつだってその役目はソフィーでしたからね。きっと悔し涙を流すはずですよ、間違いなく! 奥さましかいらっしゃらない家で仕事をするなんて本当に退屈なんですから」
 興奮気味にまくしたてるデイジーを横目に、アメリアは〈ネザーブルック〉を見あげた。白い外壁はいつも通りに淑女らしい繊細さで緑の大地に建っていた。外壁には所々アイビーの鮮やかな緑が絡まり白い壁をのぼっている。お屋敷は地平線の朝日でキラキラと輝いているようにみえた。
 慣れ親しんだ屋敷とはしばしの別れだが、心細さはまるで感じず、アメリアは心を弾ませながら輝かしい未来を想像した。
 しばらくすれば、遠くから砂埃が舞いあがるのが見え、それから数分もしないうちに乗合馬車が車輪をガタガタ言わせながらやってきた。見るからにおんぼろの馬車で、つながれた馬も首を地面に近づけてうなだれていた。
「なんだか長旅になりそうね。日が沈まなければいいけど」
 アメリアが予感した通り、馬車は気だるい運行で御者台の太った男は時折思い出したかのように馬に鞭を振った。そのたびに馬車が大きく跳ねあがり、胃の中がかき混ぜられるみたいだ。それに、馬車は一つの町にたどり着くたびに一時間は休憩するものだからまるで進みやしない。「これならまだ牛にでも乗った方が早く着きそうね」三回目の休憩でアメリアはいよいよ我慢ならなくなって膨れながら質問した。「もうちょっと早くなりませんか?」
「そりゃ無理な相談ですな。何しろこいつは俺の立派な商売道具だ。いくらかわいいお嬢さんだからって聞けない話です。なんたってこいつは昨日からずっと歩きづめだったんだからな。お嬢さんが代わりの馬を調達してくれるっていうなら話は別だがね」
 馬は水桶に頭を突っ込んで浴びるように水を飲んでいる。不満げなアメリアに御者は笑って続けた。「そんなに急がずとも、夜までにはつきますよ。お嬢さん方はそれまでにつけば何の問題もないでしょう。え?」
 アメリアが唇を突き出しながら車内に戻ろうとすると、同じ馬車に乗っていた青年将校が手を貸してくれた。
「ロンドンへ行かれるんですか?」
「ええ、そうよ。なんたってシーズンだもの。でも、本当にたどり着くのか不安になってきちゃったわ。将校さんはどちらに?」
「里帰りしていたところだったんです。これから隊に戻るところですよ」
 アメリアは話しながら青年の熱い眼差しに気がついて、愛らしい笑みを浮かべた。「ちょうどいいわ。ロンドンまでこの方と遊んで時間をつぶそう」そうと決まればアメリアの行動は早く、次の瞬間にはキラキラと輝く瞳で青年のことを見上げていた。青年の瞳は胸元の将校バッチと同じように、自信に満ちあふれてきらめいていた。そのバッチが果たしてどういう役職に渡されるものなのかは分からないけれど、似たようなものはウィリアム大佐が持っていた。
「きっとご両親も鼻が高い思いでしょうね、息子が将校さんだなんて。それも、海軍大佐だっていうんだから」
「惜しいですね。残念ながらまだ少佐です。でも、じきになってみせますよ。次の戦いで武勲をあげればその道もすぐにひらけますから」
 馬車はまたゆっくりと進み出した。それからもロンドンにつくまで、アメリアは青年将校と甘いロマンスを演じた。よく揺れる車内は普通に乗っているだけなら気分が悪くなるだけだが、今のアメリアにとってはうってつけで、ロンドンに到着するころには青年将校はすっかりアメリアの魅力の虜になっていた。別れ際になると将校は意を決した様子でアメリアの手を握り「また会えますか?」と質問した。
「どうかしら。でもきっとわたし忘れませんわ。ごきげんよう」アメリアのしなやかな指はするりとその拘束を逃れた。馬車を下りて石畳に両足をつけると例の太った御者と目が合った。
「どうだい、お嬢さん。約束通り夜までにはついただろう」
「それどころか、昼時についてよかったです。わたしのために急いでくれてどうもありがとうございます」
 太った男は軽く帽子をあげ、またのんびりと馬車は走り始めた。
 リージェント通りに降り立ったアメリアはそわそわしながら、早速エドワーズ家の馬車を探した。ちょうど、その道沿いのリージェンツ・パークまで使用人をよこすという手筈になっていたのだ。道はすごい賑わいで、あちこちで名前を叫ぶ声や慇(いん)懃(ぎん)な挨拶が見受けられた。淑女の色鮮やかなパラソルは歩道を埋め尽くして、まるでそこだけ華やかな花壇のようだ。中には巷(ちまた)を――アメリアほどではないが――賑わせるスキャンダルの中心人物なんかもいたりしてそれだけで心が躍った。
「ソザートン夫人とレイクス大佐ができてるっていうのは本当みたいね……! それにあっちにはスターキーさんまでいるじゃない? 確か破産者リストに載って落ちぶれてった話じゃなかったの?」
 しかしそんな街のざわめきもアメリアが登場すれば過去のものとなった。誰もがアメリアに視線を向け、果たしてアメリアが誰の馬車に乗り込むのかと好奇心に満ちた視線を向けている。
 アメリアはその視線をいなしながらキョロキョロと辺りを見回して馬車を探した。そしてそれは誰かに聞くまでもなくすぐに見つかった。
 その馬車はどこにいても目を惹く四頭立ての豪華極まりない馬車で、名札なんてないがほとんど馬車に名前が彫ってあるようなものだった。その周りには自然と空間ができて、誰もがその馬車を見上げて顎に手をあてながら鑑賞している。
 その隣には落ち着きはらった使用人が立っていて、アメリアと目が合うなり柔らかな笑顔を浮かべた。
「アメリア・スレイターさまですね」丸みのある優しい声で、傲慢そうなところは一切ない。誠実で優しそうな雰囲気が全身から溢れでている。おそらく年は五十前後だろう。腰は低いけれど、そこに卑屈っぽいところはまるでなく、むしろ名家に仕える自負を感じる人だった。
「お初にお目にかかります。エドワーズ家の女中頭、バーサ・サリヴァンと申します」
「初めまして。アメリア・スレイターです。こっちはお目付役のデイジーです」デイジーは明らかに高貴そうな使用人に萎縮しているらしく、アメリアの後ろに半身を隠しながら深々とお辞儀をしただけだった。
「どうぞこちらへ、旦那さまがお待ちです。長旅でお疲れでしょうが、もう少しだけご辛抱くださいね」
 バーサは謙遜してそんな風に言ったが、その馬車は今まで乗ったどの馬車よりも乗り心地がよかった。先ほどの乗合馬車と比べればまさしく雲泥の差だ。椅子は柔らかい素材で出来ていて疲れた体は包み込まれるみたいだ。
 道ゆく通行人は絢(けん)爛(らん)豪華な馬車に興味津々で、何度も馬車を覗き込んではアメリアの美しさに息をのんだ。そんなことが何回も繰り返されるものだからアメリアは気分をよくして、機嫌よく窓の外を眺めた。バーサはそんなアメリアを眺めながら優しい笑みを浮かべた。
「それにしても本当に美しいお方ですね。旦那さまには見れば分かると言われましたけれど、たしかにその通りでした」
「他には何か聞いていなかったの?」
「ええ。せめて背格好くらい教えてほしいものですけれどね。ですがこうしてみればこれほど的確な表現もないと驚くばかりです」
 アメリアはふと、この感じのいい使用人がアンナとの一件をどう捉えているのか気になった。
「驚かなかった? 婚約者がいるっていうのに別の女を招くだなんて」
「もちろん驚きましたよ。ご存知ではないと思いますが、旦那さまがお客さまをお連れするなんて本当に珍しいことなんですよ。もちろん個人的には思うところもありますが……旦那さまがそうしたいとおっしゃるなら私は喜んで従います」それに、とバーサは付け足した。「それに、お客さまが見目麗しい淑女とあれば尚更のことです。ここのところ使用人もずっとそわそわしてしまって、まるで仕事にならないんですよ。この家系は女性が極端に少ないので使用人もかなり気合いを入れているはずです。失礼があってもどうかご容赦くださいね」
「ディランのことを随分信頼しているのね」
「それはもう。あれほど素晴らしい人にはお会いしたことはありません。少し贔屓目になってしまうのはご容赦くださいね。何しろ本当に小さいころから見ているものですから。ですが、本当に聡明でお優しい方ですよ」
 そんな総評を聞きながら、アメリアはまるで自分が褒められているみたいなむず痒い喜びを心ゆくまで堪能した。「わたしの男性が褒められるのって本当に気分がいいわ。自分ではどうしようもできないことだからこそ、わたしの審美眼を褒められているような気持ちになるし。それに、褒められるような素敵な男性がこの世に存在するってだけでうれしいことよね。しかもそれがわたしの懇意にしている男性だというのなら尚更のことよ。わたしのことを手放しに褒めてくれる人ももちろん大好きだけど、ときどきこういう出来事の方がよっぽど嬉しく感じるわ」
 どうやらバーサは愛する主人を大々的に褒められるのが心底うれしいらしく、水を向ければ決壊したダムのように止めどなく主人を褒める言葉が溢れ出した。その言葉には心の底からの信頼と素敵な主人に仕える幸せがにじんでいた。
 馬車は通りを真っすぐ南下していき、ついにその邸宅が姿をあらわすとアメリアはその立派な佇まいに言葉を失った。
 その邸宅は家を三軒も合体させたみたいな巨大なお屋敷で、敷地を示すフェンスは終わりが見えないほどどこまでも長く続いている。さびて黒くなった鉄製のフェンスはエドワーズ家の長い歴史を語り、屋敷の堂々とした佇まいは何百年もロンドンの風景の一部として機能してきた自負を感じた。入口の門には鷹の家紋が刻まれて道ゆく人たちを毅然と睨みつけている。その立派な態度は道行く人を釘付けにするには十分だった。
 シーズン中でいつも以上の賑わいをみせるロンドンでは道という道に馬車が行き交っている。大通りでは一ブロックごとに帽子を地面に置きながら一芸を披露する一座が見られ、一本細い道に入るとしつこく貴族の後をつきまとって十ギニーでもせしめてやろうと企むような連中がうごめいている。けれど、この一角に足を踏み入れると金持ちも貧民も関係なく、誰もがぴたりと足を止めてこの豪勢で品格のある屋敷を見上げた。そしてみな同じようにこの館の主人に想いを馳せるのだ。中にはフェンスに手をかけてその小洒落た庭を覗きみる人もいた。
 庭には色とりどりの花々が植えられていたけれど、その中でもひときわ美しく咲きほこっているのはダリアの花だ。赤と白の大きな花は花壇をほとんど占有して、まるでそこだけ花の絨毯が敷いてあるみたいだ。風が吹くたびに華やかな頭が大きく揺れて、ほのかに甘い香りが辺りにただよう。花の周りには二匹の小さなミツバチが羽音を立てながら蜜を求めて飛びまわっていた。
「これは亡き先代の奥さま――つまり、ディランさまのお母さまということになりますね――のお気に入りの花だったんですよ。何しろ古い家ですから何もかもがまったく同じというわけにはいきませんけど、この一角だけはまるで時間が止まったように毎年綺麗に咲いてくれるんです」
 人の良い女中頭は昔を思い出すように優しく笑ってから丁寧に説明した。
「どうぞこちらです」
 普段から家の中で淡々と仕事をこなしているデイジーは初めて足を踏み入れる貴族の家(それも並大抵の貴族じゃない!)に胸が高鳴ってしかたないらしく、目に入るすべての物をまじまじと見つめてはうっとりとしたため息を漏らした。アメリアからすればその態度はちょっと田舎者っぽくって恥ずかしかったけれど、バーサ・サリヴァンは久しぶりの客人にあれこれと逸話を説明するのが楽しいらしい。そんなわけで一行の歩みは牛よりものろまで、十インチ〔約二十センチ〕ずつ応接室に近づくにつれてアメリアも早くあいたいような、少し緊張するような気がして金の額縁を覗きこんではしきりに髪をいじった。
 いよいよバーサが豪華な装飾の施された扉をノックするといよいよアメリアの心臓は破裂せんばかりに激しく脈打った。
「失礼します、スレイターさまをお連れしました」
 応接室に入るなり、アメリアの瞳はこの館の主を捉え、何を考えるよりも前に顔にパッと花が咲いたような笑顔を浮かべた。それだけでこの付近の温度が何度か上がったような錯覚を感じる笑顔にバーサはすっかり心を奪われてしまったようで、顔にうっとりとした笑みを浮かべた。
 ディランはアメリアを見るなり、つかつかと大股で距離を詰めてアメリアの白い手をとった。たったそれだけの動作でアメリアはなんだか心臓がすくむような気持ちを味わった。
「無事に脱出できたようでなによりだ」ディランの視線はなんだかくすぐったくて、アメリアは顔に小さく笑みを浮かべた。
「今ごろ、屋敷はパニックだろうけどね。だって何も伝えずに飛び出したようなものだもの」
「なら夜までに一筆書くことだ。必要ならわたしが口添えしようか?」
「いらないわ。そんなことしたらわたしがあなたの家にいるって丸わかりじゃない。居場所を明かすつもりはないんだから。でも、まさかこんな素敵なところに住んでるとは思わなかったわ。お金持ちって本当だったのね」
「何を今更、そうでもなければ君にそんな贈り物もできないだろう」ディランは満足げにアメリアのことを見つめた。今日の装いは髪飾りからドレスに至るまで、全てディランの贈り物だった。もっとも、アメリアの小さなクローゼットはもう全てディランからの贈り物で埋め尽くされてしまって、元々持っていた服なんて何も残っていないのだけれど。「それにしたって、何を着せても絵になるな。それで、そのチャーミングな笑顔で道行く紳士淑女を籠絡させてきたんだろうな」
「そんなことないわ」
「なら、バーサはちゃんと役目を全うしたってわけだ」
 ディランはアメリアの手のひらに恭しく口づけを落とした。その瞬間全身にぴりぴりとしたものがはしってアメリアは小さく身をよじった。

第十八章 二話

 それからアメリアはエドワーズ邸でまるで本物のお姫さまのような扱いを受けた。何しろこの家には昔から女性がなかなか生まれないらしくて、アメリアのような年頃の娘――しかも愛らしい――に使用人はかなり興奮して、あれこれと世話を焼いた。
 18xx年の夏、この頃に流行したドレスでアメリアの着たことのない形のドレスは存在しないと言っていい。アメリアは毎日違うドレスに身を包み、毎晩ロンドンの名だたる舞踏会に参加しては名士たちの間を渡り歩いていた。もともと自分を着飾るのが好きなたちではあったが、最近では自分の心を征服したたった一人のために着飾っているような面もあって――それに不思議なことに、そういう心持ちでいたほうが同じドレスを身に着けても何倍も素敵にみえるような気がした。そして、その何倍も素敵にみえる自分で紳士たちに微笑みかけると、彼らは明かりに群がる羽虫みたいにアメリアを取り囲んで足元にかしずくことになるのだ。
 どれほど手を尽くしたとしてもアメリアが振り向くことはないというのに、うすうす気がつきながらも愛に溺れる紳士たちはなんて滑稽なんだろう。
 けれど、どうやらこの件はお目付役として機能していないデイジーも肝を冷やしたようで度々口を挟んだ。
「アメリアさま、一体どういうおつもりなんですか?」
「どういうって、何が?」
 アメリアはピンを口にくわえ、新しい髪型にせっせと挑戦しながらデイジーに聞き返した。ディランが議会や付き合いなんかで家をあけているときは、買い物に出かけるかこうして自己研鑽に時間を使うことが多い。今日も彼が帰ってくる前にどうにかこの髪型を完成させたくて、アメリアは今朝ディランを見送ってからずっと鏡とにらめっこを続けていた。
「アメリアさまの行動は少し傲慢というものですよ。この家の主人に散々よくしてもらっているっていうのに、その恩恵を他の男性にぶつけるなんて」
「ついにデイジーもソフィーみたいなことを言い始めるようになったのね、なんだか感慨深いわ。でもその指摘は的外れもいいところよ。あの人がわたしのことを見せびらかしたくてたまらないっていうのは見てればわかるじゃない」
「今に追い出されたっておかしくありません」デイジーはむくれて言った。
「きっとあのお方は不満を口にしないだけですよ。男性にはよくあることです。それである日突然出ていくように言い渡されるんです。わたしはそんなのいやですからね」デイジーはすっかり楽しいロンドン生活に脳を焼かれてしまって、屋敷に戻ったときのことを想像するとうんざりして仕方がなかった。「アメリアさまはお屋敷に戻って毎日奥さまのお体を拭いたり水差しの水を取り替えたりすることに精をだせっておっしゃるんですか? それに……」デイジーは一瞬ためらってから続けた。
「エドワーズさまのことがお好きならなおさらのことです。普通は愛しい人がいるっていうのに他の男性にうつつを抜かすことなんてあり得ませんよ」
「そう? デイジーだってジョンという人がいながら最近あの庭師とよろしくしているような気がしたけどね。まぁ、いいわ。わたし人の恋路には口を挟まないようにしているから。だからデイジーもあまり干渉しないで、これはわたしの作戦なんだから」
「作戦ですか?」
「そうよ」アメリアは短く返した。
 アメリアがここのところ紳士をとっかえひっかえしているのは、もちろんそれが彼女の生きがいだからでもあったけれど、もう一つ別の理由があった。アメリアはディランから愛の言葉を聞き出したくて仕方がなかったのだ。だから毎回、わざと彼が嫉妬しそうな行動をしてその心をあおっている。けれど成果はほとんどあがっていない。アメリアのあからさまな態度はディランには筒抜けのようで、毎回呆れた笑いが返ってくるだけだ。
「作戦だかなんだか知りませんけど、きっと業を煮やしているに違いませんよ。もし追い出されたら一体どうするっていうんですか?」
「そんなことあり得ないわ」アメリアの言葉は確信に満ちていた。「そう、あり得ないわ。だってディランは――」メリアは小さくはにかんで、機嫌よく鼻歌を歌いはじめた。それにしたって、それにしたって昨日の夜の出来事はなんて素晴らしかっただろう! 今でもあの温度を鮮明に思い出せる。

 昨夜、アメリアはロンドンの名家の一人であるウェッバー家の舞踏会に参加していた。普段と違うのはディランが急用で参加しなかったというところだ。アメリアはそれを心の底から残念に思いながらも、久しぶりに一人で門をくぐった。正直にいって、ディランのいない舞踏会なんてメインのないディナーみたいなもので、どうしても盛り上がりに欠ける。そんなわけでアメリアはすぐに帰ろうと心に誓ったのだけど、この日はまるでうまくいかなかった。
 パートナーがいないとみるや紳士からは普段の五倍のアプローチがあった(ちなみに、これはかなり気分がよかった)。さすがにそれほど量があると断るだけでもかなりの時間がかかったし、いちいちもっともらしい理由を考えるのも骨が折れた。
 それから次はウェッバー夫人に捕まって(かなり身心深いことで有名で、何がうんざりするってそれを他人にも押しつけるのだ)信仰の重要性を得々と説明された。アメリアはそれを軽く聞き流していたけれど、うっとうしいことに変わりはない。長話が終わったのは日付がちょうど変わった頃合いで、そのころには三曲程度しか踊っていないというのにもうヘロヘロだった。
 それから、そそくさと帰ろうとしたアメリアはオールポート市長に捕まった。これが本当に最悪だった! この市長は今日の演説の出番がなかったことに腹をたてて、アメリアを聴衆に見たてていつもの長い建国話を始めたのだ。しかも、今日はろれつがまわらないほど酔っているせいで何回も同じ部分を繰り返した。ヴィクトリア女王の即位のところなんて確実に二十回は繰り返していた。そのせいでアメリアはその日オールポート市長がどこの席に座っていたのかやスピーチの内容まで完璧に覚えてしまった。
 オールポート市長はその後も延々と話を続けて、ついには他の招待客が全員帰るまでアメリアを解放しなかった。その挙げ句、老人は柄にもなく飲み過ぎて立ち上がれないほどだったのでアメリアはしばらく市長を介抱する羽目になった。使用人と三人がかりで何分も扇子をあおいでいたものだから右腕がなくなってしまいそうだ。
 最終的に彼の恰(かつ)幅(ぷく)のいい奥さんに押しつけて帰ってきたけれど、そんなわけでこの日は意に反せず長時間の滞在になった。その割に何にも楽しくなかったというのだから、余計に疲れる話だ。
 けれどしばらく馬車に揺られて立派な邸宅が姿を現すとそんな疲れもどこかへと飛んでいってしまった。心はようやく我が家に帰ってきたと喜び、なんだか肩の重荷を下ろせるような気がするのだ。
 エドワーズ邸に戻ると、アメリアは音を立てないようにそぉっと玄関の扉を開けた。屋敷は真っ暗で足音一つも感じない。さすがに使用人も寝てしまったのだろう。
「全部オールポート市長のせいだわ。まったくひどい目にあった!」アメリアは腹を立てて小さくため息をついた。早く部屋に戻って寝てしまおう。そう思ったそのとき、応接室からかすかに明かりがもれていることに気がついて、アメリアはその明かりに誘われるように足を進めた。
 応接室ではディランが一人で酒を飲んでいた。けれど何か様子がおかしい。ディランは無言のままでふらりとアメリアに近づいた。
「ディラン?」
 その表情は無表情もいいところで少し恐ろしい。アメリアは思わず後ずさって、いつの間にか冷たい扉が背後にあった。一体どうしたっていうの? それからディランはアメリアの腕をきつく掴み、ようやく口元だけで笑みを浮かべた。
「随分と遅いご帰宅だ」
 見下ろすような視線は鋭く、壁に押しつけられた手はびくともしない。捕まれている部分は燃えるように熱く、扉のひんやりした感覚がなおさらそれを際立たせていた。ディランの黒い瞳は苛立ちに細められ、耐えがたい苦痛でも感じているかのように眉を寄せている。しかし瞳の奥には溶岩のように湧きあがる激情がちらついていた。それはまさしく嫉妬の炎に身を焼かれるている表情だ。
 アメリアはその表情に心臓をわしづかみにされた気持ちになった。今まで生きてきて、これほどまでに我が身を求められたことがあっただろうか? 全身がカッと熱くなって視界がうるむ。
「アメリア」いつもよりも数段低い低音が鼓膜を揺らす。心臓が静かに、それでも期待に満ちあふれて力強く鼓動している。アメリアは震える瞳でディランのことを見上げた――次の瞬間には息もできないほどの激しさで、唇同士が重なりあった。呼吸が止まり、思考が次々溶けていく。ディランの瞳はこれ以上ないほどギラついていて、その視線を浴びるたびにアメリアの全身がゾクッと震えた。
「ああ、わたし、これからどうなるの?」アメリアはおぼつかない意識の中でかすかに自分に問いかけた。もしかして、このまま――それを意識した瞬間心臓がバクバクと音をたてはじめる。
 まるで地上にいながら溺れているような感覚は恐ろしくもあったけれど、それと同時に心地よくもあった。そんな不可思議な感覚に蹂躙され、アメリアは気がつけば瞳を潤ませながら小刻みに震えていた。
「ディラン……」
 アメリアのかすれた呟きでディランはようやく理性を取りもどし、相変わらず苦しげにアメリアのことを見つめた。そこには先ほどまではなかった軽い後悔の色が浮かんでいる。
 ディランは自嘲するように笑った。
「――悪酔いだな。怯えさせて悪かった」それだけ告げるとディランはアメリアの手を離し、自室に戻った。一人残されたアメリアはその様子をどうにか目で追いながら、全身を抱きしめてひとしきり喜びにひたった。
「怯えさせて悪かったですって!? ああ、まさか! そんなはずないのに! ディランがわたしのことをあれほど求めてくれるだなんて思いもしなかった! 今までまるでそんなそぶりみせなかったのに――」アメリアは受け取った熱をありありと思い出し、唇をそっとなぞった。今だって心臓はバクバクと音を立てている。
「ああ、いつか――いつか今日の続きをしてくれないかしら――なんて――」

第十八章 三話

 お目付役として未熟なデイジーはアメリアの身に舞い降りたそんな出来事にもまるで気がつかなかった。もしこれが、ソフィーだったなら言葉たくみに昨夜の出来事を聞きだしたに違いないのに。
「ですが、今朝はエドワーズさまのご様子がおかしかったんですよ。何だか心ここにあらずという様子で! これはきっとアメリアさまの行動に頭を悩ませているからに違いませんよ」
「ありえないわ」アメリアの確信に満ちた否定も、その根拠を知らないデイジーからすれば不可思議な自信にみえた。そのとき、ちょうど屋敷の前に馬車が止まりそこからディランが降りてきたのをみてアメリアは瞳を輝かせた。それから鏡を覗きこんで満足げに微笑んだ。ギリギリ間に合って良かったわ。新しい髪型はかわいくて大満足のできだった。ディランがどんな感想をくれるか想像するだけで心がおどる。
 アメリアは小さく笑みをこぼすと、いまだに不思議そうに首を傾げるデイジーを放って階下へと向かった。頼まれたってその根拠を教えてやるつもりはなかった。
 アメリアはほとんど足をつかずに階段を駆け下りた。
玄関にはディランがいて、アメリアはその姿を見るなり昨日の力強い腕を思い出して全身が歓喜で打ち震えた。けれどどうやら、ディランは何か思うところがあるらしくて神妙な顔をしていた。
「思ったよりも早くてよかった。あなたがいないと退屈で仕方ないのよ」
いつも通りの笑顔を浮かべるアメリアにディランはようやく安堵の息をついた。何だかその顔が罪を許された罪人のようで、アメリアはおかしくなってクスクスと笑った。
「昨夜とはまるで別人ね」
「実際に別人みたいなものだろう。事故のようなものだといったっていい。本当に後悔している――あんなことするつもりはなかったんだ。君がどういう気持ちを抱いたのかは知らないが」
「それはもう、怖くて怖くて夜も眠れなかったに決まってるでしょ。一体どういうつもりなのかご説明いただきたいところね。わたしのことなんてなんとも思ってないんじゃなかったのかしら?」
 挑発するアメリアにディランはとうとう諦めたみたいに息をついて、アメリアの頬に手をあてた。
「願うのなら事細かく説明してあげよう。わたしは、君のことを気に入っているのさ。それこそ、君が思うより何倍も。それに、許されるのならば――」ディランは熱の籠もった目線でアメリアのことをつま先から頭のてっぺんまでじっと見つめた。その視線は何だか歯がゆくて、アメリアは唇をくっつけたり離したりした。
「それはうれしい話ね。わたし男性に好かれるのって大好き」
 アメリアは期待してディランのことをじっと見たが、どうやら今日はそのつもりはないらしく、返ってきたのは柔らかい笑みだけだった。
 ディランはもともと人との間に明確な一線を引くタイプの人間だった。いつだって一歩引いたところで笑うようなところがあって、それが特にアメリアに対しては顕著だ。それはなぜなら、彼がアメリアのことを心底好いているからだ。その好意ゆえにディランはアメリアを傷つけることをそれなりに恐れた。それに自分の立場を考えてもあまり入れこむべきではないのは明白だ。理想的な関係は付かず離れずの関係で、良き友人であることが何よりも重要なのだ。そうでもなければこの綱渡りのような関係はすぐに破綻すると目に見えている――少なくとも、両方にその気がないのなら。
「なら、君をもっと喜ばせてあげようか。アメリア――これは案外本気だ。認めよう。アメリア、君は本当に魅力的な女性だ。わたしの強靱な理性をとかすなんてな」だからこそ昨日の一幕は信じられないような失態だった。
「お酒のせいじゃなかったのかしら?」
 ディランは小さく肩をすくめて笑った。それからアメリアのことを愛でるように見つめた。
「さぁ、君は一度だってわたしが酔いどれになっているところを見たことがあるのかい?」実際のところ、今だって抱き寄せて腕の中に閉じ込めてしまいたいくらいなのに。いよいよ自分の欲望が理性をはね除けて自由になろうとしている。
「どちらにしたって気分がいいことに変わりはないわね。ねぇ、ディラン。予定がないなら、一緒にリージェンツ・パークの庭園を歩かない? 今日は天気がいいわ」
 アメリアの真意を確かめるのは今じゃなくてもいいだろう。何しろこうして満ち足りた日々を送れているのだから。

第十九章 一話

 なんだかディランが隣にいないのに心臓が動いているのが不思議だった。アメリアはヴァンス家の馬車に揺られながらぼうっと外の風景を眺めていた。一見すると魂が抜けてしまったみたいだったけれど、その心は変わりやすい春の天気みたいにいろいろな感情を抱いていた。
 最初にアメリアの心を埋め尽くしたのは混乱だった。一体どうしてディランがあんな態度をとったのか分からなくて、そしてしばらくすれば泣き出したいほど悲しくなって、最後に残ったのは理不尽に対する苛立ちだ。一体どうしてこんなことになったんだろう。考えてみてもその答えは一向に頭に浮かばなかった。アメリアはため息をついて、どうにか正面の座席に座るメアリーには視線を向けないようにした。今メアリーの顔をみたらひどい八つ当たりをしてしまいそうだったから。
 メアリーはアメリアの正面の席に座り、事切れた人形みたいに馬車の揺れにあわせてなんの抵抗もなく体を上下に揺らしている。時折苦しげなうめき声をあげて、目をぎゅっと瞑る様子はいかにも体調が悪そうだった。
「こんな体調でまだ親戚をまわろうとしていたんだからお笑いだわ」
 この馬車は行き先を変えて〈ネザーブルック〉へと向かっていた。エドワーズ邸に泊まるなんてメアリーが許すはずなかったし、それにいくらアメリアが自分に絶対的な自信があるからってあれほど明確に拒絶されるともうあの家に戻るという気も起きない。アメリアはあのとき行き場を失った手のことを思い出して物悲しい気持ちを抱いた。
「ねぇ、アミィ……」
「メアリー、喋らないほうがいいわ。なんだか相当体調が悪そうだし。わたしのせいじゃなければいいんだけど」
 アメリアは頬杖をついて馬車の外を退屈そうに眺めながら吐き捨てた。外の風景はすっかり田舎の風景で、目に入るものといえば鬱陶しいほど緑色をした大地とかおいしげった木とかその程度のものだ。
「アミィが怒るのもわかるわ……邪魔をしたのはたしかだし……」
 消え入りそうな声が静かな車内に響く。アメリアはその控えめでか弱い声色にも当たりたくなるほど苛立っていた。一体どうしてこの子は黙っていられないのかしら。自分が今にも死にそうだってわからないわけ? 何十年もそのか弱い体で生活しているっていうのに。
「でも、でもね。聞いて、アミィ。あなたにもエドワーズさまにも未来はあるわ。そうでしょう? だから一時のちょっとした気の迷いでその未来を台無しにするべきじゃないって思うの」
「未来、未来って。メアリーもディランも何が見えているんだかわからないわ。それなら、全てが終わったあとにわたしが死ぬって約束すれば――」
 アメリアは口にしてからハッとして、メアリーの顔を覗き込んだ。きっと人のいいメアリーは気絶せんばかりに青白い顔をしているか、もしくはすでに気絶していてもおかしくない。案の定メアリーは顔を引きつらせて唖然としながら乾いた唇を震わせていた。
「冗談よ。ごめん」
 メアリーは愕然としたまま、アメリアの言葉も耳に届いていない様子で馬車の中には気まずい沈黙が流れるばかりだ。メアリーを見たところで罪悪感を刺激されるだけなので、アメリアは先ほどのディランの不可解な行動について考察と反省に時間を使った。
「何よりも、腹がたつのは自分にだわ」
 ああ、一体どうしてわたしはあのとき純粋な恋心よりもちんけなプライドと保身を優先してしまったんだろう。自分の気持ちをごまかしてまで、メアリーの優しさが本当に必要だった? こうして離れてみれば、わたしがいかに彼を必要としているのかがわかるわ。
 それに、あのときのディランの悲痛な表情を思い返してみれば、決定打とはいわなくたってあれが何かのきっかけになっていることは明白だ。
「きっとそうよ。つまり――」アメリアは痛む頭を手のひらで押さえながら結論をだした。「つまりあの人は、わたしが明確な意思表示をしなかったのに腹を立てたんでしょ。よくある話よ。未来だ何だって話はまるで理解できないけど――でも、きっとそういうことよ。思い返してみればわたしは一度だってディランに思いを打ち明けたことはないわけだし……ディランが妙な勘違いを起こして、わたしが彼のことをなんとも思っていないと捉えてもおかしくないわ」そこまで整理すれば暗闇の中に一筋の光明が見えた気がしてアメリアはホッと一息をついた。
「なんだ、そう考えればよくある話じゃない! 今までの恋人だってわたしにまるで気がないってわかれば衝撃的なほどあっさりと身をひく人が大勢いたし、今回は別にその気もなかったけど、何かの手違いで勘違いしちゃったのよ」
 しかしホッとしたのもつかの間、心には分厚い雲が立ち込めてアメリアは再び痛む頭に手を添えた。先ほどよりもすぐに痛みが治まったのは自分の手が氷みたいに冷たかったからだ。
「でも、それなら一体どうしてあの人はわたしの判断が正しいなんて世迷い言を最後に呟いていったの? それに、どうしてメアリーの最後の質問をはぐらかしたの? ああ、単純なはずなのに込み入ってどうしようもない。でも、きっとまたすぐに会えるわ――きっと」
 心はまるで晴れないまま馬車は〈ネザーブルック〉に到着した。
「さぁ、アミィ。ついたわよ」メアリーは子供の手をひくように優しくアメリアの手を握りながら馬車を降りた。アメリアは手を引かれるがままに、地面を見つめながら歩いた。今まで忘れていた足のじくじくとした疲れが再来して、舗装路の小さなひび割れに何度も足を取られる。
「あなたが驚くようなことを始めるのはいつものことよね。いつだってアミィは突拍子もないことをするんだから。わたしがあまり怒られないように事情を説明してみせるわ。だから、わたしにだけは真実を話してくれない?」ささやくようなメアリーの声にもアメリアは首を振った。一体真実なんてどう説明すればいいのか分からない。それに、この感情をありのまま素直に伝えたら全てが解決するっていうの? そんなことありえないわ。
「……わたし、帰りたい」アメリアはぽつりと呟いた。
「帰る場所はこのお屋敷でしょう?」
 そう言われてアメリアは屋敷を見上げた。けれど、いつもならあるはずの安心感なんてものはまるでこみ上げてこなかった。白い外壁も雨風で薄汚れて見えて、普段なら生命力に感嘆する緑の草花もどこか色あせて見える。どうにかして懐かしさを思い出そうとしてもまるでうまくいかなかった。たしかに自分の家ではあるけれど、まるで心が休まらない。
 しばらくすると、使用人が玄関先に止まった馬車を不審に思いやってきて、そこにアメリアの姿を見つけるやいなや使用人はすぐに愛すべきエレンの元へと駆けていった。
「奥さま! アメリアさまがお帰りになりました! 奥さま!」

 アメリアが屋敷に足を踏み入れるなり、待ち構えていたのはオルコットだった。いつもの仁王立ちに腕を組み、鼻の穴を膨らませている様子はさながら狩人のようだ。
「ロンドンでは随分楽しくやっていたそうだね? 噂はお屋敷にもしっかりと届いていましたよ。ええ、もちろん奥さまの耳にも」
 アメリアは嫌な顔をしてその隣を通り抜けようとしたがそれは当然上手くいかなかった。オルコットはアメリアの腕をきつく掴んだ。
「離しなさい。オルコット」
「いいえ、離しませんよ。さぁ、こちらできっちりと、何があったのかお話しいただこうかね。問い詰めたいことは山ほどあるんだ」
「使用人の分際でわたしに盾突こうっていうのね。いいから離して。あなたに話すことなんて何もないわ」
「あたしはアメリアさまにではなく、奥さまに仕えていますからね。大体、そのお嬢さまが尊敬にも値しないような方であるというならどうして丁重に扱う必要があるっていうんだい?」
「何ですって!? もう一度言ってご覧なさい!」
 二人の間には激しい火花が飛びかい、まさしく一触即発という雰囲気だった。メアリーは二人の言い争いを気絶しそうになりながら見ていた。瞳は瞳孔まで開かれて、全身は小さく震えている。
 それでもメアリーはこの大切な友だちのために勇気を振り絞って会話に割って入った。
「と、とりあえず、二人とも落ち着きましょう。気が立っているときに話し合いなんてしても自分の気持ちをぶつけあうだけよ。それにきっとオルコットは何か誤解してるわ」
「ですがね、メアリーさま。分かっているだけでもアメリアさまは十分断罪に値しますよ。ああ、本当にこんなにはしたないお嬢さまがこのお屋敷にいると思うだけでゾッとするよ。見ず知らずの男性の家に転がり込むだなんてね! 一体何があったかを想像するだけで頭がおかしくなりそうだ」
「別に何もなかったわよ。どういう噂を耳にしたんだか知らないけどね」アメリアはつっけんどんに答えながら、どうしてそうしなかったんだろうと悔しくて唇を噛んだ。
 もし一度でもそういう過ちがあれば、きっと自分はこんな場所で問い詰められていないはずなのに! 過去の自分はなんて楽観的だったんだろう! あの楽園のような時間が永遠に続くような気がしていたなんて。チャンスはいくらでもあったというのに! 一度だってこの体をあの人に預けられたなら、こうしてやすやすと引き裂かれることもなかったわ。あの強靭な理性をどうにかできるほど飲ませればよかったのよ。それか、もっと直接的に――。
 黙って唇をかみしめるアメリアの様子はオルコットの不安を確信に導くには十分だった。
「まったく汚らわしい! だからあたしは常々忠告していたんだよ。いつかこんな日がくるだろうと思ったさ!」
「だから何もなかったっていってるじゃない。本当にわたしの言葉はまるで信じようとしないのね」
「そ、そうよ。オルコット。わたしもエドワーズさまはそんなお方ではないと思うわ。あの方はきっと誠実な人よ」メアリーは震える声で言葉を挟んだ。
「どうだか。あたしゃ、誠実な人は婚約者がいるっていうのに他の女性と関係をもとうとする輩が誠実だとはとても思えませんがね」
「誰にだって間違いはあるわ。それに、わたしはエドワーズさまが自ら身をひいてくれるのを見ました。本当に不誠実な方ならそんなことしないと思うわ。そうでしょう?」
 メアリーは話しながらちらりとアメリアの様子をうかがった。アメリアは暗い瞳でどこか遠くをじっと見つめている。「アメリアったらかわいそうに。一体何があったのかは知らないけど、これほど思い詰めているアメリアなんて初めて見るわ。できることならわたしが変わってあげたいくらい」
 心優しいメアリーはそんな様子のアメリアを一人ぼっちにするなんて頭の片隅にも思い浮かばず、エレンが気を利かせて「ぜひ泊まっていってください」というよりもずっと前から、このお屋敷でアメリアの隣に居ようと決意を固めていた。アメリアのことを思えば、自分の体調の悪さもすっかり頭から抜け落ちてしまったのだ。
 オルコットから事の経緯を聞いてもメアリーの立場は一切変わることがなかった。
「でも、オルコット。アメリアだって悪気があってやっているわけではないのよ。それに、スレイター夫人を困らせようとしているだなんてあり得ないわ。アメリアだってジョージアナと同じくらい家族思いの優しい子なんだから。今は教えてくれないけど、何か訳があったんだと思うの。それにきっと今日は疲れているのよ、ね? そうでしょう? だからわたしはこのかわいいお嬢さまを早くベッドに寝かせてあげるべきだと思うわ。誰だって長旅の後は柔らかいベッドに身を委ねたいものでしょう?」
 メアリーの真摯な説得に追撃の矢は途絶え、アメリアはひとまず解放されることになった。しかしメアリー以外は誰もアメリアの味方にならないのは明確だった。何しろアメリアが部屋を出るその瞬間でさえ、オルコットやソフィーは非難の目線を向けていたのだから。
 アメリアは部屋に戻り、泥のように深い眠りについた。

第十九章 二話

 シーズン真っ只中ということもあって、街中どこを見渡したってもぬけの殻だ。娘たちは当然のように張り切ってロンドンへ出向いていたし、女性の集まるところに男性が集まるのは言うまでもないことで、アメリアは世界に唯一取り残された人類みたいな気持ちで不貞腐れながら部屋に引きこもっていた。
 傷心のアメリアをつきっきりで励まそうとしているのはメアリーだけだった――が、相変わらずメアリーのほうが体調は悪そうだった。この幸せな夫婦をもてなすための芸を凝らした料理もメアリーはほんの小さじひとすくいみたいな量しか取らなかったし、庭園を歩いても十歩も歩けば息切れして目眩でまともに歩けなくなってしまうのだ。それから妙に匂いに敏感で、一度ならデイジーのコロンの匂いで気絶したほどだ(気絶する前に苦言を呈せばいいのに、メアリーは倒れるまでは黙したままなのだ。なんなら倒れてからだって、「デイジーのせいじゃないのよ。なんだか最近妙に神経質なの」などと相変わらず顔を青くしながらフォローを入れるのだから)。
 そんな状態のメアリーに気をつかわれたってますます体調が悪くなりそうで、アメリアはとにかく早くお医者さまに見てもらうようにと説得して――思えばこれも随分時間がかかった。「こんなもの、アメリアに比べればなんともないのよ」と言って聞かないのだから――メアリーを部屋から追い出した。心配してくれるのはありがたいけれど、こうもつきっきりで心配されては息が詰まるというものだろう。メアリーときたら、いつもアメリアが楽しめるような話題を探すのに四苦八苦して、目についたものについてあれこれとつまらない話を言いきかせ、常にアメリアのグラスを監視して水がなくなろうものなら目の色を変えて水差しからせっせと水を移すことに精を出すのだから。
 のどの奥はカラカラで粘膜同士が張りついているみたいで気持ちが悪い。ぬるい水を飲み干してアメリアは代わり映えしない部屋の中をぐるりと見回した。見慣れた部屋をみるだけで気分が憂鬱に沈んでいく。ほんの少し前まではロンドンでぜいを尽くした暮らしを満喫していたというのに。それも心の底から愛しいと思える存在が手を伸ばせば触れられる距離にいた。あのころの贅沢を思えば、今はなんて寂しい生活なんだろう!
 それに、アメリアの予想に反してあれ以来ディランは影も形もみせなかった。それどころか、遅れて帰ってきたデイジーは、行きの数十倍にも膨れあがった荷物に加えてとんでもなく衝撃的なニュースを持参した。
「あの日の夜は――本当にエドワーズさまを恐ろしく感じました。何と言っても気が立っていて。あれほど酔っているところは初めてみましたし……それに何を聞いてもはぐらかすだけで何も答えてくれないんです。もちろんアメリアさまのことも! ただ恐ろしい顔をするばかりで……。それで屋敷中のお酒を飲み尽くすとフラフラしながら外へ消えていったんです。信じられますか? あのエドワーズさまがですよ? いつもどれだけ飲んでも意識ははっきりしているっていうのに。その上……これは噂ですけど……あれ以来どこかへ消えてしまってどこの社交界にもめっきり姿を見せていないとか」
 アメリアはその話をそらで聞きながら、心の奥深くのところで「きっとあの人はもうわたしと会うつもりはないのね」と虫の知らせにも似た奇妙な確信を抱いた。その確信はアメリアの心を無惨にも貫いて、今まで受けたどんな痛みよりも鋭くアメリアを傷つけた。冷たい涙が一筋頬を伝い、震えをおさえるために握りしめた指先をぬらした。
 ああ、けれど一体どうやってこれほど残酷な現実を受け入れられるだろう? あの日の激情は今もまだ行き場を探してあえいでいるというのに。その心を交わす相手も機会も永久に失っただなんて、そんな残酷な真実をすんなりと受け入れられるはずがない。
 人々がどうしようもない絶望の中でも、懸命に光を集め、闇を覆い隠そうとするように、アメリアも一筋の涙のあとには光を探した。
「そうとも決まったわけでもないのに、泣くのはやめよう。いつからわたしは予言めいた直感を信じるような女になったの? もう二度とディランに会えないだなんて、とんだ冗談よ。死別したわけでもないし、あの人はアンナの――いや、そのことは今は考えないようにしよう。とにかく、人の縁がそう簡単に途切れるわけないわ」
 そう言い聞かせてみても、その奇妙な予感はアメリアの心の奥でくすぶり続けた。普段は姿を見せないが、ふとした時に脳裏によぎりハッとする。そのたびに心臓は鮮血を流した。
 当然こんな状況が精神に良い影響を与えるわけがない。
 やがてアメリアはセンチメンタルから本当の流行り病にかかり、しばらくのときをベッドの上で過ごした。最初の数日は高熱にあえぎ、悪夢にうなされ、一晩に一時間も寝れない日が続いた。けれども一週間が過ぎるころには熱も下がり、時折黄緑色のたんを喉から吐き出すだけになっていた。しかし、体力が戻ったって心の方はまるで回復しない。
 メアリーはアメリアのことを心配するあまりアルフレッド医師に出会うたびにその細い指先を揉みながら瞳に涙をためて、アメリアの病状についてしきりに話した。それから自分の知っている薬草の名前をかたっぱしから列挙して、大切な友達のために十マイルも遠征する予定をたてたり、少しでもアメリアの気を安らげようと森で綺麗な野草を摘んで部屋に飾ったりした。
「アルフレッド先生、本当にアメリアは大丈夫でしょうか? わたし、街の方で……大勢がお亡くなりになったって聞いて、本当に心配でしょうがないんです。わたしには平気だっていうんですけど……アメリアは気丈で優しい子だからきっと心配させまいとしてそう言ってるんじゃないかって思って……何かわたしにできることはありませんか? 大したことはできませんけど、おしゃべりとか、散歩とかならわたしもできますし……」
 幼いころから病気がちだったメアリーにとって病とは死に直結するものだった。それに風邪をひいているときはいつだって心寂しいし、どうしようもなく孤独を感じる。
「ミセス・ヴァンス、心配には及びませんよ。あの病で亡くなる方は元々弱っている人ばかりなんです。それに、聞けばあなたの大切な友人は今まで何の病気にもかかったことがないというじゃないですか。あの手の娘は本来医者いらずなんですよ。何もしなくたって病は勝手に居処が悪くなって出ていきますから。あとはもう少し元気が戻ったなら、人気のある場所に連れていくことです。ああいうタイプは部屋にこもって一人きりになると途端に悪化するんです」
 メアリー神のお告げを聞くように両手を組み合わせながら何度も首を縦にふった。
「それから――」若い医者はメアリーの下腹部をじっと見つめて神妙な面持ちをした。

 階段を駆け上がる軽快な音が聞こえて、アメリアはてっきり急用を言いつけられた使用人が屋敷中を走り回っているのだろうと予想した。
 しかしその足音は自室の前でぴたりと止まり、ノックもなしに部屋の扉が開かれた。もしかすると本人はノックしたつもりだったかもしれないけれど、余りにも間髪がなくてノックの意味なんて皆無だった。
 飛びだすようにして姿を現したのはメアリーだった。アメリアの姿を見るなり、メアリーは顔をほころばせてアメリアの首元に腕を回した。
「アミィ! アミィ! ねぇ、聞いて? こんなことって信じられる? わたし今でも夢を見ているような気分なの!」メアリーは有頂天でアメリアに途切れなく言葉を紡いだ。
「一体どうしたの?」
「あのね、わたしね……ほら、ずっと体調が悪かったじゃない? それでアルフレッド・ウィリアム先生に診てもらったんだけど……あの、こんなに動揺しながらいうことでもないんだけど、どうかアミィは冷静に聞いてね」と言ってから、メアリーはアメリアの耳に顔を寄せて、小さな声で囁いた。「あのね、わたし――子供ができたいみたいなの!」
「ねぇ、どうしたらいいかしら! こういうのって夫に直接伝えてもいいものなのかしら? でも、あんまり触れまわるようなことでもないわよね。だってほら、みんなはしたないっておっしゃるでしょう? どうにか、それとなく伝える方法でもあったらいいのに!」
 この時ばかりはメアリーも人間特有の身勝手を発揮して、アメリアがどんな思いを胸に抱えてセンチメンタルに陥っているかなんてまるで気が回らなかった。
「わたしね、本当にうれしいの。さっきまでは気分が悪くて本当にうんざりしていたんだけど、今はこの不調が愛しくてしょうがないのよ。おかしな話だけどね」
 とはいえ、アメリアからしてもリックのことは残念だけど――とか、聞き飽きた倫理の話とか、やはり何度聞いても理解できない未来の話とか、そういう話題をふられるよりはよっぽど楽しくて、アメリアは家に帰ってから長らく見せていないような自然の笑顔を浮かべた。そんなアメリアにメアリーは驚いて、思わず瞳に感動の涙を浮かべた。
「アメリア……わたしはいつでもあなたの味方だからね。そのたちの悪い風邪も早く治ればいいのにね。元気になったら二人でどこかへ出かけましょうね」
「あら、三人じゃないの?」
「もう、アミィったら!」

第十九章 三話

 月が変わり十月になればこの近辺にも活気が戻ってきて、それに呼応するようにアメリアも少しづつ元気を取り戻した。時間が経てばどんな辛い出来事も大したことないように感じるのはいつものことだ。メアリーはアメリアが庭園を歩いたり、他愛もないおしゃべりをしたりするの見るだけで瞳に涙を浮かべ、この奇跡的な回復を神に深く感謝した。
 ある日のこと、メアリーはアメリアにこんな提案をした。
「ねぇ、アミィ。もしもあなたにその元気があればなんだけど――一緒にアボット家の舞踏会に行かない? お医者さまのいうところによるとね、活気のあるところに行った方が回復ももっと早くなるんですって。アボット家ならいつだって活気に満ちあふれてるし、悪くないと思うんだけど」
 メアリーが数ある舞踏会の中でもアボット家を選択したのはリック・アボットの存在が大きかった。風の噂で、いまだにリックがアメリアのことを好いているのは聞いていたし、何しろ二人は運命に引き裂かれたようなものじゃないか。アメリアだって自分を思ってくれる人がいるとしれば、きっと慰めになるだろう。それこそ、自分が励ますよりもよっぽど。
 実はこの心の優しい友達は心の底から二人のことをお似合いだと思っていたのだ。それにアメリアは何も語ってはくれないけれど、きっと今回のようなことが起こったのだって、寂しかったからに違いないとあたりをつけていた。きっと二人の間で、何かちょっとしたすれ違いが起きて、運悪くこういう結末になってしまったのだろう。もう一度二人できちんと話しあえばもっとうまくいくはずだ。それにもう一度顔を合わせればアメリアにも恋心がよみがえって全てが元通りになるはず、とメアリーは信じて疑わなかった。
 アメリアとリックの関係を一目でも見たことがあるなら、誰だってそんな酷な選択はしなかっただろう。しかし、メアリーはいつだって人は美しい愛に満ちあふれると信じて疑わなかったし、ましてやアメリアがリックのことなんてほとんど名前ごと忘れているだなんて思いもしないのだ。
 アメリアはその提案に苦い顔をした。「よりにもよってアボット家の舞踏会だなんてね……。きっとメアリーはわたしがディランのことを愛しているだなんて、どれほど時間をかけようと思いつかないでしょうね。それからリックのことをなんとも思っていないってことも」けれど何度言い出そうと思ってもその言葉はどうしても口にできなかった。
「ねぇ、アミィ、どうかしら……?」メアリーは黙っているアメリアを心配そうに覗き込んだ。
 メアリーは本当に優しい子。いつも素直で誠実でこれほどわたしのことを考えてくれているというのに、わたしはどうしてこの優しい人に報いることができないんだろう。メアリーの言い分が絶対的に正しくて、きっとこんな気持ち早く捨ててしまわないといけないこともわかっている。けれど――。
「いいわ。一緒に行くわ」
メアリーはアメリアの返答にほっとして、自然と柔らかい笑顔を浮かべた。
 メアリーのそういう純朴な面に触れると心臓がじりじりと清らかな光に焼かれて痛む気がする。
「でも、いいわ。それがなんだっていうの? この程度の胸の痛みどうってことないわ。あの人に会えるかもしれないというのなら――わたしはなんだって捧げられる」

 アボット家の舞踏会はいつにも増して盛大だった。それこそとても財政難だとは思えないくらいに。企画者であるアボット夫人はまことしやかにだって、そういう不本意な噂が出回るのが許せなかったのだ。そのプライドから彼女は無駄に豪華な会を主催し、ますます悪循環にはまっていく。ミスター・アボットはこの浪費に怒り心頭で、一回なんて猟銃を取り出してアボット夫人に突きつけたくらいだ。
 アボット夫人は金銭については何の悩みもないみたいな顔をしていたけれど、その弊害はいよいよ端目にも明らかになってきた。青銅色の厳めしい門のところにあるはずの紋章は取り外されて、ぽっかりと空いた穴は寂しそうな顔をしている。ついにはギャラリーにも物が何もなくなって、皮肉なことに招待客は空っぽのギャラリーを確認するために何度も足を運んだ。
 アメリアは馬車から降りるなり、いつものように大勢に囲まれた。隣にいるメアリーはすっかり萎縮してしまって、体をアメリアの後ろに隠すようにしてうつむきがちに引きつった笑みを浮かべている。アメリアは数々の挨拶に上の空で応じながら見慣れたその姿を探した。
 冷たい風はびゅうびゅうと吹き荒れて、曇天の下に乾いた土埃が舞いあがる。その日は十月という季節に反して真冬のような寒さで、指先が突き刺されるように痛む。アメリアはその痛みを静かに抱きしめながら、風の便りを読み瞳を伏せた。
「そう……やっぱり、こんなところにあの人がいるわけないわよね。わたしって本当に馬鹿だわ、そんなことずっと前から分かりきっていたのに」
 誰かに手を取られながら、アメリアは屋敷の窓に反射した自分を見つめた。そこに映る自分はいつも以上にめかしこんでいてなんだか滑稽だった。
 そしてそういう匂いに敏感なのはアメリアだけでない。若い娘たちはふんわりとしたドレスを寄せながらクスクスと小さく笑いあい、至るところでアメリアの陰口を叩いた。時折、娘たちはアメリアに意味ありげな視線を向け、その数秒後にはドッと笑いが起こる。
 中には無謀な勇気と残虐な心を持ってアメリアを打ちのめそうとする娘もいた。そういう女たちは大抵目尻をつり上げながら妙に鼻にかけた話し方をして、何があったかなんて全て知っているくせに知らないふりをして嫌みっぽい言い方をした。それに、仲が良いわけでもないのに一年ぶりに再会したかのようにまとわりついてきて、そういうわざとらしい態度がなおさらむかついた。
「あら、アメリアじゃない! シーズン中はどこにいらしたの? ロンドンに出ているっていうから会えるのを楽しみにしていたのに!」
 普段ならば軽く聞き流せるような言葉もアメリアの心のかさぶたをしっかり刺激して、心臓がじくりと痛んだ。
「本当にあなたたちがどうやってわたしの日常を嗅ぎまわっているのか一度くらいは聞いてみたいものね。わたしも死体にどうやってハエが群がるのか気になることもあるわ。どこからともなく湧いてくるんだから」
「うぇ、わたしはそんな気持ち悪いこと考えたことないけどね。そんなつれないこといわないでよ。わたしはただちょっとしたお喋りをしたいだけよ。何しろわたしが行ったころにはあなたなんて影も形もなかったものだから。どこの素敵なお家に出入りしていたのか気になっちゃって。まさかヘンダーソン夫人のお宅には招かれたでしょ? 影も形も見なかったけど。でも、あのご意見番に見捨てられたらいよいよ終わりよね。ちょっと癪に障るけど、それなりに影響力のある人っていうのは確かだもの」
「風邪をひいてずっと家に居ただけよ」
「あっそう、それはお大事に。そういえば、ヘンダーソン夫人のお宅ではね。あなたの代わりにわたしがエドワーズさまの二番手をお相手するっていう大役を勤めあげたのよ。皆さまに褒めていただいたんだけど、なんだか本当に気恥ずかしいわよね? ご指名いただくなんて本当に光栄なことだけど――」
 後半の文言はまるで耳に入らず、アメリアは目を見開いて息を詰まらせた。
「ディランが居たの?」
「ええ、残念だったわね。イギリスにいるのはちょうどその日までだったらしいの、それではなむけに参加したらしいわ」
「それで、今はどこにいるの?」
「お仕事の関係でどこか遠くの島国に行かれるんですって。いつお帰りになるのかは知らないけど」
 アメリアがすっかり口をきかなくなってしまったので会話はその辺でお開きとなり、娘は英雄が戦地から凱旋するみたいに女友だちの元へと向かった。取り囲む娘たちはみな期待と好奇の瞳を輝かせながら英雄の言葉を待っている。
「ねぇ、みんな聞いて! 捨てられたっていうのはどうやら本当みたい! まぁ、まともな人ならそうするに決まってるわよね。でも面白いのは、アメリアが未練たらたらってところよ! いい気味だわ、普段の態度が仇になったのよ」
 娘たちの押し殺した笑い声はサルーンの床を這いずりながらアメリアの足に絡みつき、足取りはますます重くなる気がした。
「とてもじゃないけど耐えられないわね。本当にうっとうしいんだから! 隣にメアリーでもいればあの子たちも少しは大人しくなるかしら?」
 メアリーは会場の隅でご婦人方に取り囲まれ、どうにも厄介な話になっているようだった。時折ヘンダーソン夫人の恐ろしく低い声が響き、その後にはメアリーのか細い反論が聞こえた。どちらが優勢なのかはその声の大きさと、同調する声からも明らかだ。
「メアリー・イーストン。いえ、ヴァンス夫人。あなたももう女主人となったんですから、いい加減に良識をわきまえなさい! あんな女とは即刻縁を切って家に入れないようにしなさいな。いずれあなたも子供が生まれればあんな女百害あって一利なしだとわかりますよ。いえ、今わかってもらわないと困りますがね」
 〝子供〟という言葉に反応してメアリーは顔を真っ赤にして俯いた。誰にも気がつかれてはいないようだけれど、身重の体でこんなところにいること自体本来は恥ずべき行為なのだ。
「でも、アミィだって悪気があるわけじゃ……」
「悪気がなくてどうして婚約者のいる男性の腕にああもからみついて歩けます? あの女は天性の悪魔なんですよ。付きあいのあるお屋敷を軒並み堕落させる悪魔ですよ! まったく恐ろしい話です」
「ま、まぁ。そ、そんな事言わないでください。ヘンダーソン夫人。きっと何か訳があるんですよ」
「でしたら一体どんな理由があればそんな破廉恥な行いが許されるのか説明してご覧なさい! イーストン夫人がなんと仰るか、まさか考えない訳ではないでしょう。あなたのためを思っていっているのです。あなたは若い娘にしてはかなり良識のある方ですからね。そんなあなたがあの女に懐柔されては困ります。さぁ、二度とミス・スレイターには近づかないと誓いなさい。それともあなたはミス・スレイターの行いが称賛されるべきだとでも考えているんですか?」
 メアリーはじっとうつむいて言葉に詰まり、ついには黙りこくった。頭の中では言葉が渋滞していて目には涙が浮かんでいた。そんな様子のメアリーに、さすがのヘンダーソン夫人もやり過ぎたと思ったのかメアリーの肩を抱き、自身の隣に座らせると困った顔をしながら背中をさすった。
「もちろん、あなたがそんな人でないことはわたくしはちゃんと分かっていますよ。ただ若い時代というのはどうにもたがの外れることをしてしまうものでしょう? わたくしはただそれを止めたいだけなんですよ。聞けばミス・スレイターをロンドンから連れ戻したのは他でもないあなただというじゃありませんか。わたしはあなたのそういう聡明なところを本当に好ましく思っているんですからね。さぁほら、涙を拭いなさい。何もあなたを責めようって話じゃないんですから」
 メアリーはめそめそしながらも、ヘンダーソン夫人の寛大な心に感じ入った顔をしていた。アメリアはその光景を遠くから眺めながら小さくため息をついた。
「メアリーはわたしの味方だけど、向こうにいる方がよっぽど性にあっているんでしょうね」アメリアがそう思う程度にはメアリーは夫人たちの中にすっかり溶け込んでいた。きっと彼女ならば厳しい夫人たちのコミュニティーでも生き抜けるだろう。自分とは違って。
 アメリアは重苦しい気持ちになってサルーンをふらふらと歩きながら、冷めた気持ちで人々が音楽に合わせて体を揺らすのを眺めた。このときばかりはアメリアも妹の退屈が分かる気がした。冷めた目で見てみるといい年の人間が馬鹿みたいに有頂天になってどうにか意中の人と踊ろうと画策しているのはかなり滑稽だし、それでいて少しだけ羨ましかった。
「踊る相手がいるっていうのは何よりも幸福なことよね」
 わたしだってほんの二ヶ月前には、この世界で最も素敵な男性を独り占めしていたというのに。あのころのわたしはどれほど贅沢で幸福だっただろう。楽しかった日々を思い返すたびに心臓が締めつけられるように痛み、喉の奥が引きつるような気がした。
「ああ、退屈。こんな気持ちを抱く羽目になるならこんなところ来るんじゃなかったわ。だからって家の居心地もいいとはいえないけれど……」アメリアは壁に背を預けながら自分の爪をじっと眺めた。背中にひんやりとした感覚が広がる。
 舞踏会の喧騒はまるで自分とは無関係なところで繰り広げられているような気がしてならなかった。この耳障りな音楽も、楽しげな談笑も全てが遠く、夢のように感じる。「ディランは今ごろ何をしているのかしら」
 ディランのことを思うと、心臓がズキズキと痛んだ。血圧が徐々に高くなり、訳も分からず口からため息がこぼれる。
 この場にいても、何も楽しいことが起こらなそうで、アメリアは退屈にあたりを見まわした。 
 使用人たちはいつにも増してバタバタと走り回っていて、何人か解雇された影響が如実に表れていた。紳士たちはテーブルを囲みながら、あちこちで使用人を呼びつけ、そこら辺のテーブルには使用人が忘れていったビスケットやアルコールなんかが放置されていた。
 アメリアはそこから適当なグラスを選び取り、透明な液体を一気に喉に流し込んだ。その瞬間、口内と喉が燃えるように熱くなりアメリアは思わずむせ込んだ。独特な苦みが口いっぱいに広がり気持ち悪い。それでも構わずに次のグラスに手を伸ばし、毒薬のような液体を体に流し込んだ。それは淑女の飲むようなものではなかったし、ましてやワインすらも一口しか口にしないアメリアにはあまりにも刺激が強かった。
 心拍数が上がっていくのを感じながら、目を閉じると目の前が回転しているような奇妙な感覚があった。あまり心地が良いとも思えなかったけれど、しばらくすれば何に悲しみ苦しんでいたのかも分からなくなった。思考はうっすらと白い霧で覆われている。
「どうして男性って辛いときにお酒を飲むのか謎だったけど、なんとなく理解出来る気がするわね――もしかしてあの日のディランもこんな気持ちだったのかしら?」アメリアはデイジーの言葉を思い返しながら口元に小さく笑みを描いた。
 そのうちに体が熱くなって、アメリアはグラスを持ったままテラスへと移動した。
 テラスは人気がなく、夜のひんやりとした空気が火照った体を冷ましていく。アメリアは手すりに両手を重ねた。ひんやりとした感覚が手の平を通って全身に広がる。それから退屈しのぎに左足の爪先で床を軽く叩くと背筋を伸ばして夜空を見上げた。今や漠然とした不安は酒のおかげでどこかに消えてしまい、その代わりには淡い期待が胸の中で踊っていた。
「次に会ったら――」アメリアはどこまでも続く星空を見上げ、一つの決心を月に誓った。「今度こそわたしの想い打ち明けるわ。そうよ、今日会えなかったのは本当に残念だけど、次があるわ。この狭い世界で生きている以上二度と会わないなんてことできるわけないもの――」ふと脳裏に聞き覚えのある言葉が浮かんでアメリアはそれを諳(そらん)んじた。
「そうよ、わたしには未来があるもの」

第二十章 一話

 このところ、アメリアはたとえそれがどんなに些細なイベントでも社交があるとあらば毎回最低でも準備に三時間はかけて自分を飾りたてた。細心の注意を払いながらディランからの大切な贈り物であるドレスを身にまとい、たとえどんなことがあろうと同じ装いは一度だってお披露目しなかった。使い古された装いでディランの前に出るだなんて、自分の美意識が許さなかったのだ。
 当然、毎回新機軸を用意するには、それなりに頭を捻る必要があった。けれど、四苦八苦しながら着飾る時間は苦行というわけではなくて、むしろ最近の人生の中では、思わず自然と笑みがこぼれてしまうほど楽しいひとときだった。毎回、時計の針は驚くべき速度で回転し、このときだけは世界の普遍的な法則がゆがんでいると確信をもっていえる。
 今日のアメリアの髪型は巷(ちまた)で大流行している編みこみとシニヨンを合体させたもので、理想のシルエットを追い求めてすでに五回は解いてやり直していた。六回目にしてついに納得のいく出来に仕上がると、アメリアは鏡をのぞき込み満足げな笑みを浮かべた。鏡の中の自分は相変わらず素敵に見えた。多少自信は失っているようだし、どことなく物憂げにも見えたけれど。
「大丈夫よ。きっと今日こそは会えるわ。そうしたらきっと――」自分を慰めるのはこれで何回目だろう。ここのところ、開かれる社交的なイベントには全て参加しているというのに、どの集まりにだってディランは一度たりとも顔を見せることがなかった。
 それでもアメリアは健気に今日こそはと信じて、そして期待はいつだっていとも簡単に裏切られる。そのたびに心の中の大切な何かが麻痺して、そのうち感情さえ忘れてしまいそうだ。しかし今日のアメリアは普段と違っていた。いつもならばこの慰みになんの根拠もないことに絶望するものだったけれど、今日だけはきっと会えるという確信があったのだ。
 アメリアは笑顔を浮かべながら鏡に向かい、ドレスに縫いつけられたタッセルを整えた――どうせ馬車から降りれば付属の小物なんてすべてとんちんかんな方向を向くと分かりきっていたけれど。
 それからベッドに腰を下ろし、ふかふかの綿がたくさん詰まった薄紫色の枕を手に取るとそれを胸の前でぎゅっと抱きしめて顔をうずめた。枕はほのかにラベンダーの匂いがして、自然と心が落ち着いた。
 それからアメリアはハッとして立ちあがり、艶やかな歌声を部屋に響かせ、宝石入れから金の繊細な指輪を手にとってそれを惚れ惚れと見つめた。指輪は純金の確かな輝きを放っている。かつて褒めてくれたことを思い出して(といったってディランはしょっちゅう褒めてくれるのだけど)ちょっとした出来心でそれを左手の薬指にはめるとアメリアは浮かれた笑みをつくった。
「そうよ、きっと今日こそは会えるはずよ」先ほどよりも確信を持ってアメリアは呟いた。薬指の指輪は確かにうなずいている。
 今日の収穫祭はヘンダーソン夫人が毎年開いている一大イベントで、オールポート市長はもちろんのことイギリス中の名家が招かれる。集められた招待客たちは家の裏手にある森でバーベキューを楽しみ、夜には盛大な舞踏会が開かれ、招待客は夜通し楽しい時間を過ごす――もっとも、ヘンダーソン夫人は舞踏会を毛嫌いしていたけれど、あまりに要望が多くてしぶしぶそうしているのだ。
 まさかディランが招待されないわけがないし、その上、ヘンダーソン夫人はベネット家の近い親戚だ。それを知っていれば留守にできるはずがない。
 そんなわけで今日のアメリアは一段と準備に時間をかけて、浮かれる気持ちでいっぱいだった。何をしていても勝手に笑みがこぼれ、じっとしていることすら困難で、落ち着きなく部屋中を歩きまわってはしきりに鏡で自分の姿を確認した。
 馬車に乗り込むとアメリアは緊張と期待で頭の中をいっぱいにして、移動中はずっと冷たい手を揉んだ。心臓は浅い脈動を何度も繰りかえして無性に喉が渇く。
「ああ、今日会えたらなんていおうかしら。話したいことはたくさんあるのよ、それに会うの自体も随分久しぶりだし……今日のわたしの装いを見たらあの人なんていってくれるかしら? 喜んでくれるといいんだけど――」アメリアは指輪(今は中指にうつしている)をくるくると回転させながらはにかんだ笑みをうかべた。浮かれる心は春のように陽気で、澄みきった風が流れている。
「随分と楽しそうですね。アメリアさま」ソフィーの言葉は対照的に氷のように冷たい。デイジーは先日の事件でお目付役をクビになり、空いたポストには再びソフィーが返り咲いた。けれど、何もかもが元通りというわけにはいかなかった。今までの口うるささはすっかりなくなって、その代わりに瞳には諦観があった。「好きにすればよろしいですよ。わたしは関与しませんから」ソフィーはアメリアの顔を見ることもなく言った。
 ソフィーとの冷戦はいまだに続いている。そのせいで馬車に流れる空気はどこか重苦しく感じた。人ごとの態度はただ叱られるよりも心にくるものがあったけれど、誠意を示して許しを請うよりも先に、アメリアはディランに会うことを優先した。何しろ、ソフィーは自分がほんの小さな赤ん坊のころからの仲なのだ。たしかに今は少し複雑な状況ではあるけれど、きっとそれも時間が解決してくれるはずだ。そうでなければ、おかしいじゃないか。なんたって、ソフィーは家族のようなものだし。家族は何があっても家族であることに変わりはないのだから。
 それに、今の精神状態ではとてもではないが他のことなんて頭がまわらなかった。
 アメリアの心の中は希望の光で満ちあふれているのだから。

第二十章 二話

 広い庭園に面した入り口には沢山の馬車がひしめきあって、もはやにっちもさっちもいかない様子だった。そこにはなじみの馬車もあれば、見たことのないような馬車もある。アメリアはひらりと馬車から降りて、ポーチで人に囲まれる主催夫人であるヘンダーソン夫人に近づいた。
 ヘンダーソン夫人は藤色のドレスを身にまとい、押しかける山のような人々に挨拶を繰り返していた。このときばかりはこの貴婦人も自分の腕が十本も二十本も生えていたらと思わずにはいられなかった。長いこと寒空の下で知り合いから顔も知らないような人にまで手を取られて、テンプレート通りの会話をもう何十回も繰り返すものだからヘンダーソン夫人はいよいよ自分が重油で動いているような気がしてきた。血管に沿ってしわのできた手は冷え切って、指を動かす度に関節がこすれる音がする。この収穫祭のあとにはあまりの疲労に赤毛が真っ白になっていてもおかしくないだろう。
「それにしても、スレイター家まで招いたのはやはり失敗でしたね。あの娘がくるだけで空気がおかしくなる」ヘンダーソン夫人はあたりを見回してため息をついた。
 招待客はアメリアの姿に浮かれたり、闘志を燃やしたり、アメリアにまつわるスキャンダルを囁きあったりしている。アメリアが参加するというだけで厳かであるはずの空気は不思議と俗なものになるのだ。それはミサの場でも同じなのだから、今回が例外なはずもなかった。
 きっとこの場にいる全員が本来の収穫祭のことなんてすっかり忘れて、おまけ程度の舞踏会に夢をみていることだろう。嘆かわしいことに。
「ヘンダーソンさま、来年は夜の催しを中止にしましょう」ヘンダーソン夫人は夫に言った。それからその厳めしい瞳がアメリア・スレイターの姿を捉えると付け加えた。それは夫に対する提案というよりかはすでに決定した事柄だったようだ。「それから、ミス・スレイターには招待状は差しあげないことにいたしますわ。参加者が減るよりも、雰囲気を守るほうがよっぽど大切ですから」
 ヘンダーソン夫人は猫みたいなつり目をさらに細くして顎をくいっとあげた。その動作はアンナ・ベネットのそれに似ていてアメリアはさっそく気分が悪くなった。
「ミス・スレイター。ようこそお越しくださいましたわ。みなさまお待ちかねですよ、ええ。それこそ、この場の半数はあなたが目当てといっても差し支えないくらいですからね」アメリアに当たってから、ヘンダーソン夫人は辺りをぐるりと見回して紳士たちを威嚇した。アメリアのことを一目見ようと集まってきた男たちはその睨み一つで、肩をすくめて散り散りになっていった。
 アメリアはその中にディランの姿を探したけれど見つかることはなかった。ディランはどこにいるのかしら? なんだかこのざわめきの中にもその聞き慣れたテノールを見つけられるような気がして、アメリアは耳を澄まして辺りを見回した。しかし耳に入ったのは雑音のような談笑だけだ。
 はやる心をおさえながら、アメリアはヘンダーソン夫人に気持ちのこもっていない挨拶をした。本来ならばきちんと片足を軽く引いて、もう片方の膝を曲げるべきだけど、ドレスをつまみ両足を一瞬曲げるだけで精一杯だった。
「ごきげんよう、ヘンダーソン夫人。ところで、その――」アメリアの心臓はドキドキと浅い脈動を繰り返した。しかしアメリアがディランの居場所を聞くより前にヘンダーソン夫人の文句が挟まった。
「まったく不思議な話です。この歴史ある行事もあなたがいるだけで品のない出会いの場に早変わりするんですから。数年前まではもっと厳粛な場だったはずなんですがね。最近の浮かれ具合は本当に呆れます。豊作を祝おうという気持ちが誰にもないっていうんですから」
「そんなことわたしに言われても困りますけど……。そんなことより、ヘンダーソン夫人に一つ聞きたいことがあるんです」
 ヘンダーソン夫人は感じ悪く鼻を鳴らした。普段ならばその態度に腹をたてただろうが、今日ばかりはそんな余裕もなく、アメリアは歯の裏を舌でなぞりながら小さく問いかけた。
「その、ディランがどこにいるかご存知ですか?」
 その言葉を聞くなり、ヘンダーソン夫人は親の仇の名前でも耳にしたみたいに眉を吊り上げて息を荒くした。
「知りませんね。きっとどこか異国にでもいるんじゃありませんか?」ヘンダーソン夫人のとげのある言葉にアメリアは驚き一瞬思考が止まった。それから、唇を噛みしめ、少し言いよどんでから声のトーンを下げて聞き返した。
「いらっしゃってないんですか?」頭からスッと熱が落ちていき、しまいにはめまいがした。
「あの気分屋が参加するわけないでしょう。もちろん招待状は出しましたけどね。何しろまた行方知れずになったらしいじゃないですか? わたくしはあの方と遠縁になるっていうのがどうにも気に入らないので。長子であり、唯一あの家で生き残っているあとつぎだというのに長年家を放っておくような人と縁続きになるだなんて。本当にゾッとする話ですこと」
 ヘンダーソン夫人はこの長い挨拶劇と、ここ最近たまりにたまった鬱憤を全てアメリアにぶつけるつもりでいるらしく、まくしたてるように言葉を紡いだ。アメリアはディランが不在だということにショックを受けてあんぐりと口を開いたまま黙ってその言葉を聞いて――といってもまるで頭に入ってこなかったけれど――いたので、ヘンダーソン夫人もこれは幸いと次々に文句を並べた。
 ようやくアメリアが意識を取り戻したのはその文句の内容が「ここ最近の治安の悪さについて」に変わったころだった。おかしなことに、ヘンダーソン夫人に言わせればそれも大体はアメリアのせいらしい。
「夜の舞踏会にもいらっしゃらないんですか?」
「あの方の動向についてはわたくしよりも、あなたの方がよっぽど詳しいんじゃありません? ロンドンでの話はわたくしも小耳に挟みました。随分と派手に遊びまわっていたそうじゃないですか? 一回その件に関してスレイター夫人を問い詰めたいと思っていましたの。何しろまだ結婚もしていないような淑女を、使用人見習いみたいな女だけつけて男性の家に送りこむだなんて。わたくしの時代ならまるで考えられないことですからね。あなたもいい加減節度というものをわきまえなさい。ディラン・エドワーズの不在はあなたにとっても幸運なはずですよ。良識を見つめ直すいい機会になるでしょう」
「……ご親切にどうも」
 露骨な落胆を隠すのは困難で、アメリアはため息をついて腕をだらりと脱力させながらその場を離れた。一歩の歩幅は普段の半分くらいになって、なんだか歩くのも億劫だ。窓にうつる自分は随分派手にめかしこんでまるで道化のようだ。アメリアはその姿を眺めながら深いため息をついた。
「何も期待を裏切られるのが初めてってわけじゃないわ……それに、今日が最後のチャンスってわけでもないし、何より約束していたわけじゃないもの」自分を慰めるのはすっかり手慣れたものだ。だからといって、何も感じないわけじゃない。いつだって心臓が締めつけられるほどに痛くてどうしようもないのだ。これほど切望しているのに、そう思うといつだって、目頭が熱くなって勝手に涙がうかび、嗚咽のような音が勝手に口からもれそうになる。大切な感情が蹂躙されて、心がすり減り、期待した分だけ、大きな反動がまるでそれが罪であるかのように加わる。その痛みは毎回新鮮で、何度味わったって慣れることはない。けれどこの感情を投げ出して唯一の繋がりを捨てるくらいならば、この苦しみを受け入れる方がよっぽどよかった。
 アメリアはふらふらしながら無意識に人の集まる方へと向かった。歩くのは億劫だけど、腕を借りたい人はこの会場にいない。ならば一人で歩くしかないのだ。たとえどれほど辛くたって。
 照りつける太陽は収穫祭にふさわしい強烈なものだった。ボンネットもショールも何もかもを貫通して、体の内側から焼き尽くしていくような気がする。
 屋敷の裏手に広がる森からは白い煙がもくもくと立ちのぼり、頭上の雲と混ざりあって消えていく。若い娘たちはすでに木陰の一等席を陣取り、小さなパラソルをさしながら意中の相手に微笑みかけていた。唯一空いている席は、バーベキュー炉から立ちのぼる煙がじかに当たるいわく付きの席で、あそこに座ったら最後、ドレスや髪に煤(すす)がこびりつき、香ばしく仕上がることは明白だった。
「あそこに座ったら本当に死んじゃうわ。それにとてもじゃないけど何かを食べる気持ちにはならない。誰かと話すつもりにも、踊るつもりにも……、とにかく、一人になりたい」鼻孔を刺激する香ばしい匂いも、照りつける太陽も、辺りの喧騒も、何もかもが色あせてみえた。活気あふれるどんな談笑も今やただの雑音にしか聞こえない。
だけど、喧騒から外れた場所――屋敷の裏側――でひそひそとささやく声だけは妙に耳についた。
「ミス・ベネット――本当にいいんですね? こんなこと僕がいうようなことではありませんが……」
「ええ、もちろんです」芯の通ったはっきりとした答えはアンナのものだ。その声が耳に届くなりアメリアはますますげんなりした。それに男の方の声も聞き覚えがある。その声は間違いなくアンドレイ・アッカーのものだ。
「きっとうまくいきますわ。なんといってもアッカーさまのお考えになった計画なんですから」
「いや、ミス・ベネットの助言がなければ思いつかなかったことばかりですよ。あなたは本当に見た目の通り賢い人なんですね」
「早く一緒になれることを心の底から祈っていますわ。あとはアメリアがうまくやってくれることを祈りましょう。祈るなんて言葉、あの子には似合いませんけれど」
「一体あれはなんの話? それもわざわざ人目から逃げるようにして……」なんだか自分が話題になっているようだったし、スキャンダルな言葉が耳に飛び込んだような気もしたけれどそれをいちいち確認する気にもならなかった。今はただ自分の隣をめかし込んだ淑女が通りすぎて、真っ先に意中の人に抱かれにいくのが恨めしい。いないとわかっているのに、体は勝手にディランの幻影を追い求めた。
「わたしって本当に馬鹿みたいだわ……勝手に期待して舞いあがって、一体何度繰り返せば気がすむわけ? あの人はわたしのことなんてなんとも思ってないのよ……きっと」喉の奥が締めつけられて、瞳に浮かんだ涙はいよいよ一滴のしずくとなって頬を伝った。唇が勝手に震えて、呼吸はしゃくりあげるようなものに変わっていく。アメリアは涙を覆い隠しながら足早にその場を立ち去った。
 唯一幸いだったのは誰もそんなアメリアに気がつかなかったことだ。娘たちは自分のことで精一杯だったし、紳士たちはあのアメリア・スレイターが泣くはずがないと思い込んで認識すら出来ないみたいだった。アメリアは逃げるように木々の間に飛びこんだ。道なき道はヒールのある靴で走るにはあまりにも不向きだ。木々の根は隆起して、所々にいやらしい凹凸があった。何度も足を取られて、転びそうになりながらも、今のアメリアには一刻も早くあの場を離れることしか頭になかった。そうでもなければ、つらい妄想で頭がいっぱいになりそうだったから。
 炉から立ちのぼる白い煙がだいぶ後方に見えるようになったころ、アメリアはようやく足を止めた。ここまでくる間に捻った足首が段々と熱を持ち始めている。
 アメリアはかしの木の根元に座り込み、膝を抱えた。一人になったことでいよいよたがが外れて、両方の瞳からは大粒のとめどなく涙があふれた。視界は視界は水彩画に水を垂らしたみたいにぐちゃぐちゃににじんで、全ての輪郭がおぼろげだ。口からは嗚咽のような声しか出てこないし、鼻が詰まってしょうがない。
「ディランにとって、わたしは代わりの利く存在でしかないのよ。たった一秒でもさく時間はないし、たった一文の手紙ですら書くのが億劫なのよ。いいえ、きっと、きっともうわたしのことなんて忘れているわ」心臓に杭を打ち付けられているみたいだ。一つ想像を巡らすたびに、高所から突き落とされるかのような途方もない衝撃が全身に加わる。
 頭の中にはかつての楽しかった思い出が走馬灯のように浮かびあがった。
「わたしは……ただ、ただ会いたいだけなのに……」上質なドレスが目に入る。ただ一人のために着飾ったものだ。「ただ、たわいもない話をして、いつもみたいに褒めてほしいだけなのに……それすらも贅沢だっていうの? ディランは一体どこにいるの? どうしてわたしとあってくれないの? ああ、今ごろはきっと他の女性と一緒に楽しい思いをしているに違いないわ――わたしをこんなところに一人残して――!」深い絶望とどうしようもない怒りがないまぜになって襲いかかる。もういっそのこと髪もほどいてこのドレスも何もかもめちゃくちゃにしたいような荒々しい感情が心を支配していた。見せる相手もいないっていうのに一体どうしてこれほど飾りつける必要があるっていうんだろう。わたしの唯一会いたい人は行方しれずでたった一秒でもわたしに割く時間がないっていうのに……。
 アメリアは瞳を涙でいっぱいにしながら、奥歯を強く噛みしめた。それから今朝散々時間をかけた髪に手をかけたところで森の中から名前を呼ぶ声が聞こえて手を止めた。
「アメリア? 一体どうしてこんなところに!?」それはエドガーだった。アメリアがハッとして顔を上げると木々の間にその姿が見えた。「ちょっと待っててくれ、すぐにそっちに行くから――」ひらりと馬から下りて、アメリアに駆け寄る。エドガーの瞳には思いがけず愛する人に会えた喜びが浮かんでいた。
「びっくりしたよ。キツネ狩りには興味がないだろ? いや、まぁ、でも良いことか。向こうじゃとてもじゃないけど、君を独占するなんてできないからな。隣に座っても?」
「え、ええ。どうぞ」アメリアは震える声を咳払いで誤魔化しながらエドガーから顔を背けた。きっとわたし、酷い表情をしているに違いないわ。エドガーもどうか放っておいてくれれば良かったのに。
 自分の心の内がエドガーに伝わってしまうのではないかと思うと、アメリアは緊張して両手が汗ばみ小さく震えた。
「一瞬だけ妹さんの方かと思ったよ。何しろどんな花よりも日向と賑わいを愛する君がこんな場所にいるだなんて冗談でも思わないだろ? まぁ、妹さんの方だったとしてもここにいるのは不思議でしょうがないけどね」
「そう……そうね」
 アメリアは気のない返事をするので精一杯だった。
「それにしたって一体どうしてこんなところにいたんだい? 途端に社交が嫌いになったとか? まさか君に限ってリック・アボットに会うのが気まずいなんてわけないだろ? 何しろ、この前のアボット家の舞踏会にもきていたわけだし」
「知らなかった、リックもここにいるのね」
「そりゃもちろん。ヘンダーソン夫人がなんだかんだ言いながらこうして大勢を招くのが大好きってことは知ってるだろ? たしかもうずっと前に到着していたはずさ」
 それからエドガーは思い出して笑った。
「それが本当に面白いんだ。どうしても君に会いたいらしくて、ずっと不審者みたいに辺りを見回してるし、もう何十回も人違いをして見ず知らずの女性の手を握っているっていうんだから。僕なら絶対に見間違うはずないのにな。キツネ狩りに誘っても耳に入ってないみたいだったし――それに、これが本当におかしな話なんだが――いまだにアメリアの心が自分にあるみたいな物言いなんだ! 別れるときにきちんと真実を告げなかったのかい? ま、そんなわけで、さっきからエスターがつきっきりで励まして……というか現実を突きつけているんだ」
「そう……」
「エスターが長いことリックを追いかけていたのは知ってるだろ? まぁ、かわいそうに妹程度の扱いしか受けていないけれど。だから君とリックが婚約したって聞いたときには――アメリア?」
 ずっと黙りこくっているアメリアにエドガーは戸惑って問いかけた。アメリアはじっと地面を見つめるばかりで目を合わせようともしない。
「何かあったのかい? 君がこんなに静かだなんて珍しいよ。普段ならリックをからかいにいく算段でもたてているところだろう? もしかしてまだあの流行り病にやられてるとか? メアリーから聞いたんだ」
 エドガーは露骨にうろたえていて少し面白いくらいだった。どうにかアメリアの気を引こうとあれこれ話を振るがまるで成果はあがらない。「一体、アメリアはどうしたっていうんだろう。こんな状態のアメリアは見たことがないぞ。それにどこか涙声に聞こえる。まさか泣いているのか?」エドガーはおっかなびっくりアメリアの手に触れた。「こまったな。号泣しなければいいんだが――でも、理由も分からないんじゃ励ましようもない。かといってこのままここに置き去りにするなんてそれこそあり得ないな。それこそ紳士の名折れだ」 
 雄々しい決意と共に「アメリア」と短く呼びかける。するとようやくアメリアはゆっくりと顔をあげ、泣き腫らして赤くなった瞳でエドガーを見た。上まぶたはぽってりと膨らみ、下のまつ毛には水滴がついて露(つゆ)のようにキラキラと輝いている。今にもこぼれ落ちそうな大粒の涙が目尻にたまり、それをどうにか堪えようと唇を固く結んでいる。
 その表情にエドガーはドキッとして、先ほどの雄々しい決意すら忘れてしまった。必死に涙を堪えようとする表情はあまりにもいじらしくて、心の弱いところをくすぐられる。なんて愛らしいのだろうか、アメリア・スレイターという人は! 今まで見たどの微笑みよりも海馬に焼きつく表情に、エドガーはどんな言葉をかけるつもりだったのかも忘れてしまい、ぽかんと口を開けたまま硬直した。
 その表情は幼なじみのアメリアですら知らない表情だった。今まで一度だってエドガーがこんな間抜けな表情をしているところをみたたことはない。普段のスマートな姿との落差がおもしろくてアメリアは涙を拭いながら小さく笑みをこぼした。
 正直まだ心は痛いけれど、それをこの人に伝えたってどうしようもないわね。それよりも今はこの会を楽しむほうがよっぽど生産的ってものだわ。それにこんなお馬鹿な表情も見られたことだし。
 いつの間にか涙も落ち着いていて、アメリアは肩で小さく笑い始めた。エドガーはいまだに硬直している。
「自分がからかわれているとはちっとも思わないのね。わたし、エドガーのそういうところ大好きよ」
 アメリアがいたずらっぽく目を伏せながら笑うと、エドガーは何度かまばたきをしてからホッとして肩を落とした。すでにアメリアの顔に先ほどの表情はなかったけれど、心臓は今も激しく脈打っている。
「これは一本取られたな。本当に心配したんだぜ? もし泣いてるなら励ましてあげようと思ったんだけどなぁ。何しろ君が少しでも凹んでいるなんて相当レアな状況だろう? 残念ながらそのチャンスははなからなかったわけだ」
「そんなこと天地がひっくり返っても起こるものですか。ちょっとだけ体調が悪かったのよ――あの煙を目一杯吸い込む羽目になったから。だから空気の綺麗な方に避難してたの。でももう平気。もちろんあとでリックもからかいにいきましょ。あなたにしたみたいに泣いている真似でもしたらとっても面白いことになると思わない?」
 アメリアの言葉が嘘であることはわかったけれど、エドガーは指摘しなかった。ただ少し物悲しい気持ちになった。「この女性に頼られる男性は幸せものだな……いや、待てよ。もしかして僕がその役割を担う可能性も……」それからエドガーはあながちありえそうだと思って機嫌を良くした。
「そりゃいいね。アメリアに会ってしどろもどろになるリックも見たいし。今すぐに、といいたいところだけど。その前に君にいいたいことがあるんだ」
「あら、なぁに?」
「もうすぐ君の誕生日だろう? まさかこんなに早いのにもう予約が入っているなんてことないといいんだが――誕生日にはもちろん僕と踊ってくれるだろう? もうリックを優先する理由もないだろうし……まぁ、僕はあれも一種の悪夢みたいなものだと思ってるけどね」
「そういえばもうそんな時期なのね……もうそんなに時間が経ってしまったのね。でも、さすがに気が早いんじゃない? 二ヶ月後なんて永遠にやってこないような気がするのに。それに悪いけど今年に限っては予約を受け付けるつもりはないの。エドガーだってそっちのほうが楽しいと思わない?」
 なんて問いかけてみたが、アメリアの言葉はちっとも楽しそうではなかった。その言葉は抑揚がなく、注意深く聞かなければわからないほどだが、ほんのりと暗い絶望のようなものがにじんでいた。アメリアは言いながらディランのことを考えていたのだ。一緒に踊りたい人はいるが、あの人はどうせ顔を出さないのだろう。そう思うと思わずため息の一つでもつきたい気持ちになった。
「男性陣を代表していうけど、ちっとも楽しくないな。またそうやって誕生日まで全員の注意を自分にひきつけるつもりなんだろう? なんだかそうやって考えるとリックと婚約していたあの悪夢みたいな時間もそういう策略なんじゃないかって思えてならないな。間違いなく今年は君が人生で一番注目された年だろうし、だとしたらさぞ気分がよかっただろう。さぁ、アメリア。約束してくれ。当然僕と踊ってくれるんだろうね?」
「どうしてもっていうなら一曲だけなら約束してあげてもいいわ。でもそれ以外はまだだめ」アメリアの心の奥底では絶望の中に一筋の希望がきらめいていた。もしかしたらディランが来てくれるかもしれないもの。いいえ、きっときてくれるわ。恋とはなんて残酷なのだろう。あとで悲しむだけだとわかっているのに、もしかしたらという希望を持たずにはいられない。たとえそれで毎回心を深い深海に沈められるとしても、だ。
「もっと素敵なお誘いを頂かないとも限らないし……もしかしたらリックの言う通り出会ったら熱い恋心が復活するかもしれないもの」
 エドガーはアメリアの冗談めいた言葉に肩をすくめて笑った。
「なら早く確かめに行こう」それから付け足して「あり得ない話だけど――もしあいつがアメリアに直談判できるなら僕の枠を譲ってやってもいい」

第二十章 三話

 オールポート市長がその後、この話を思い出してディラン・エドワーズに手紙の一つでも書こうと思い至ったのは収穫祭から十日ほどが経過したころだった。本人的には、どうせ読まれもしない手紙をわざわざ書くのも面倒この上ない話だったのだが、今にも泣き出しそうなアメリアの様子を思い出すと少しくらい骨を折って、手を差し伸べてやってもいいかという気持ちになった。それに返信が返ってくるにしろこないにしろ、どちらにしてもスレイター家に出向くいい口実になるじゃないか。十中八九残念なお知らせしか届けられないのは心苦しいが、ま、それもきっとわたしがわざわざ足を運んだという喜びで相殺されるに違いない。
 そんなわけでオールポート市長は重い腰をあげて筆をとった。最初はまるで乗り気でなかった手紙だが、書いているうちに思いがけず筆がのり、少しくどいくらいにアメリアの様子を織り込んだおかげで、その手紙は普通の手紙の何倍も見栄えがするものになっていた。
 オールポート市長は自分の作文の才能に満足して、書き上がった手紙を三回も読み返して悦に浸った。それから、この芸術的な作品を時給三シリングで働くような小僧に預けるのはなんとも心もとないと思い、ちょっとした用事のついでに直接この手紙を渡しに行く気になった。
 そんなわけで風も冷たくなる十一月の始め、立派なひげを生やした市長は新しいコートを見せびらかすようにしながら豪奢な邸宅の前におもむいた。邸宅は門も玄関も開けはなたれて、その奥の廊下を使用人がリネンのシーツを持ちながら行ったりきたりしている。使用人は来客に気がつくと慌てた様子で入り口の方へやってきた。リネンのシーツは冷たい風に煽られてぱたぱたとはためていて使用人を困らせているようだった。
「随分忙しそうですな、誰か来客でもあったんですかね?」とオールポート市長は質問したものの、家主もいないのに客を取るほど変なこともない、と首を傾げた。質問された使用人は喜々としてシーツを抱きしめながら質問に答えた。「旦那さまがお帰りになったんですよ。オールポート市長も旦那さまにご用でしたら、中に居ますからどうぞ。それにしたっていつだってご帰還は唐突で……わたしたちが仕事をサボっていないか抜き打ちで観察される気分ですよ」と言いながらも嬉しそうなのはやはり自慢の主人がすぐ側にいるからだろう。
 オールポート市長は促されるままに中に入り、応接間で山のような手紙を読んでいるディランを見つけた。足を開いて座るディランの顔つきはあからさまに気が立っているようで、その表情はオールポート市長を見つけるなり更に険しいものになった
「玄関を閉めておかないときりがないな。ただでさえ乞食が群がって肉を噛みちぎろうとしているっていうのに。傷心の男にひどい仕打ちをするものだ」
 市長は手紙を見ながら「ほう」と呟いた。
「恋文ですか?」
「まさか。だとしても困ることに変わりはありませんけどね。詐欺まがいの脅迫文ですよ。貧窮院から飽きもせずに使途不明金のために金を出せっていう要求です。それならもっと楽しい使い道があるってものでしょう」
「つまり女ですか」
「ええ、まぁ。昨日もヘンダーソン夫人にお詫びの品を渡してきたところですよ」
「きっとあなたからの贈り物を心待ちにしている淑女は山のようにいるでしょうなぁ。いやなに、お忙しそうなところ悪いですが、わたしにも引き下がれない理由があるのですよ。何しろ愛らしいお嬢さんに懇願されてしまいましたからね」その言葉にディランは手にした手紙を下ろした。「アメリアが?」引きつった顔で聞き返し、ディランは自嘲気味に声を上げた。「どんな悪口を言われているのか楽しみだな」
「それはきっとご自身で伝えるつもりでしょう。わたしが頼まれたのはあなたを社交の場に引きずり出すことだけですから。まぁそれは、アメリア嬢だけでなく他の淑女だって待ち遠しにしているはずですがね」そう付け加えたが、ディランはあまり聞いていないようだった。どこか遠くを見つめる瞳はまるで、もうこの世界に存在しない故人を想っているかのようだ。もしくは諦観と安らぎの表情だった。
「そういえば、この間メアリー・イーストン――いや、今はメアリー・ヴァンスでしたかな――に出会いましたよ。彼女は本当に立派な女性ですね。思慮分別があって、正義感に満ちている。わたしは自分のなすことを正しいだなんて思ったことは一度もありませんが、間違いだと明確に突きつけられたのも初めてだった」
「それで、返答は?」
「もちろん。――どのみち、次の舞踏会に出席しないわけにはいきませんから」

 オールポート市長は踵を返して、スレイター家へと向かった。「これはミス・スレイターに良い土産ができたものだ」

第二十一章 一話

 オールポート市長の吉報に浮かれて、その不吉な予感に気がついたのは当日の馬車の中だった。馬車は小石をはねながら一定のスピードで今日の目的地――ベネット家――に向けて走り続けている。その距離が近づくにつれて、アメリアの心の中でほんの些細な気がかりがささくれとなって心臓を刺激していた。気がかりというのは今日の会場についてだ。
 アメリアは遠くを見つめながら頬杖をついた。 
 よりにもよって、一体どうしてベネット家の舞踏会なんだろう。これが他の家や、もしくはもっと大規模なバザーなんかだったなら何も思わなかったはずなのに。長らく不在にしていたディランが突然面会を許可してくれるだなんて、あまりにも不自然だった。なんだか理由があるような気がしてならない。
「それに――」アメリアは握りしめた招待状を月明かりに照らしてぼんやりと眺めた。招待状にはミスター・ベネットの名前に加え、ディラン・エドワーズとも記されていた。一体どうして連名でディランの名前がつづられているのだろう。まるで主催側みたいじゃないか? アメリアは不吉な予感を振り払うように頭を大きく横に振った。髪に挿した生花が甘い匂いを放つ。
「――きっと、考えすぎね。ベネット家だって、しょっちゅう舞踏会を開いているんだしたまたまに違いないわ。きっと、あまりにもうれしいからそんな不吉な妄想にとりつかれるのね。こんなに上手くいくはずがないって。たしかいつかメアリーも同じことをいってたんじゃなかった?」あのときは何をいっているのか分からなかったけれど、当事者になってみればよくわかる。「でも冷静に考えてみれば、ここまでくるのにも随分と苦労したわ。そろそろわたしにだって幸せが訪れてもいいころじゃないかしら?」そう思えば不吉な予感はすぐに消え去って、アメリアは楽しい未来を想像した。「ああ、今日会ったらなんて言おうかしら? 言いたいことはたくさんあるけれど、まずはわたしの気持ちを伝えよう。真実を知ったらあの人、一体どんな表情をするだろう? そうして……わたしが一体どんな気持ちであの日から過ごしてきたかを伝えるの」緑の瞳は希望に満ちあふれ一等星のようにきらりきらりと輝いた。
「それからいろいろな思い出を話そう。あの庭園での燃えるような出来事や、あのロンドンの夜のこと、それから未来のことも――」
 空には明るい満月が高くのぼり、スレイター家の馬車を見下ろしていた。やがて丘陵の向こうから豪華な邸宅が顔をのぞかせる。そのシルエットが大きくなるにつれて、アメリアの心臓は早く、そして力強く脈打った。 
 邸宅がますます近くなり、馬車が舗装された並木道を通るころになると、アメリアは緊張と興奮でいよいよおかしくなりそうだった。心臓は一拍おきに収縮と弛(し)緩(かん)を、おかしなテンションで繰り返している。全身に満ちあふれたエネルギーはどこかに放出しないと体が破裂してしまいそうなほどだった。
 やがて馬車がスピードを緩め、豪奢な邸宅のポーチと六本の列柱が姿をあらわすと、アメリアは耐えかねて馬車から身を乗り出した。冷たい風は火照った体をゆっくりと冷やし、今日の舞台である〈ノーザングリット〉は宝石箱みたいにキラキラと光り輝いていた。
 アメリアは御者が扉を開けるのも待たずに、馬車から飛び降りるとさっそくディラン・エドワーズを探した。その人物はすぐに見つかった。暗い夜に燦(さん)然(ぜん)と輝く一等星をいつだって見つけられるように、これほど簡単なこともない。ディランはポーチの上段で、いつものように上質な服を身にまとって立っていた。
 アメリアは階段の下からその姿をじっと見つめた。まるで時間が止まっているみたい。体は石像にでもなったみたいにうまく動かなくて、その人から視線をそらせない。もっともそれはディランも同じだった。アメリアの屈託のない笑顔は明確に一人だけに注がれている。まるでそれ以外はどうでもいいといわんばかりに。
 風になびく髪や、動くたびに香る甘いビオラの香り、それから足を小さく動かしただけでふんわりと膨らむドレス――今日のドレスは布地が二十ヤードはあって、信じられないほど柔らかく膨らむのだ――何を取ったってアメリア以上に輝く人物は存在しない。ドレスをひるがえしながら、アメリアはうっとりとしてポーチの上段に立つディランに近づいた。周りには大勢の人間がいたけれど、アメリアの瞳に映るのはただ一人だ。
 ディランはアメリアの姿をじっと見つめ、「本当に綺麗だ」と心の中で呟いた。瞳には一瞬だけ愛する人から一身に思われる喜びが浮かんだ。しかしそれも次の瞬間には物悲しい笑みにとって変わられた。アメリアがきっとこの言葉を待ち望んでいることも分かっていた。それにこの言葉は心の底からの本心だ。けれども口にするつもりはこれっぽっちもない。これからすることを思えばそんな言葉口が裂けても言えるはずがなかった。その代わりに、ディランはうやうやしくアメリアの手を取り無味乾燥した口づけを落とした。
「お久しぶりです。ミス・スレイター。きっとあなたの微笑みを独占できる人はこの世で最も幸せに違いありませんね」
 それはアメリアが初めて出会ったときに切望したような丁寧で、ある種他人行儀な態度だった。アメリアは小さく首をかしげた。「一体どういうこと? まるで初対面のときよりも遠い人になったみたい」きっとまずは装いについて一言コメントがあるに違いないと踏んでいたアメリアは拍子抜けしてしまった。けれども冷静に考えてみればそれも当然のことだった。何しろ周りには何百という目があって、この場にいる誰もがスキャンダルの中心人物である二人を興味津々で観察しているのだから。もしもここで親しげに肩なんて抱いた日には、伝書鳩で情報が伝わるに違いない。見せつけたい気持ちもあったけど、今は牙を潜めておいた方がいいだろう。好奇の視線を向けるご婦人たちは今にでも悲鳴をあげて気絶してやろうとソワソワしていた。そうなれば折角神さまが用意してくれたこの機会も台無しだ。
 アメリアは注意深く声を小さくしてディランに囁いた。
「ねぇ、ディラン、あとで時間をとれる? 話したいことがあるの。できれば、二人だけで……裏の庭園で待ってるわ」
「ああ、すぐに行く」まるで断頭台に向かうような声色だった。黒い瞳は仄暗く沈んでいて、先を見通すことすら困難だ。
「一体どうしたっていうの? なんだかまるで別人みたいだわ」煌々と灯っていた灯りを急に吹き消されて暗闇に迷い込んだような不安感に、首筋をじっとりとした汗が伝った。漠然とした不安にアメリアはディランの瞳をしきりに覗き込んだが、次第にそれすらも怖くなってきた。その黒い瞳は本心を全て覆い隠しているみたいに見えた。
 アメリアは何も言えないままその場を離れた。もしも変に言葉を発したなら良くないことが起こるような気がして。
「何か態度がおかしいのは周りの目があるからだと思ったけど……、もしかして他に何か理由があるの? いや、でも、まさか――」
 思考ばかりに集中して、屋敷の中をおぼつかない足取りで庭園の方へ向かっていくと、客間の一つから娘たちの声が聞こえてきた。この部屋は普段からドレスルームとして使われている部屋で、娘たちはこの部屋で休憩をしたり、女だけでしか話せないような事柄についてあれこれ語り合ったりするのだ。といっても、今日みたいに扉が十センチも開いていたら彼女たちの甲高い声は外に丸聞こえだ。
「まさかアメリアも招くなんてね。ほんとーに驚きだわ。ベネット夫人は婚約披露のときの災難を忘れちゃったのかしらね」
「知らないの? わたし実はベネット夫人がぼやいてるのを聞いちゃったのよ。なんでもアメリアを呼んだのはディラン・エドワーズさまなんですって!」
「それって本当? だとすればちょっと残酷かも。アメリアはまだ真実を知らないわけでしょ? あーあ、可哀想だわ。ほんとうに!」そのあとには二人のくすくすと笑う声が聞こえてきた。その現場を直接見ていないアメリアですら、二人がどういう姿勢で、どんな表情をしているのか容易に想像できた。きっと二人はソファーに体を預けながら、これっぽっちも同情していない人特有の薄ら笑いを顔にはりつけているに違いない。本当なら扉を開けて真っ正面から叩きのめしてやりたいところだったけれど、アメリアは娘たちの言葉に思考を奪われていた。「真実を知らない?」なんだか嫌な響きだ。のけ者にされることは慣れっこだし、今更なんとも思わないけれど、その言葉だけはどうしても聞き流せなかった。
「でも、もしかしたらアメリアが本命って可能性もまだあるわよ。可能性っていうのはほーんとうにちょっとの期待でも可能性だもの。でしょ?」
「そんなこと万に一つもあり得ないわよ。絶対にね。それにしたってアメリアって本当にみじめったらないわ。だって負けが見えてるじゃない。どれほどアメリアが綺麗で――ありえないことだけど――品行方正で非の打ち所がないような人物だったとしてもありえないでしょ? だって相手はもう婚約済みだもの。婚約破棄なんて馬鹿な話を聞かないわけじゃないけどね? 現にあの子はリック・アボットに捨てられたわけだし! でもエドワーズさまがそんな馬鹿な真似するわけないわよ。だって互いに無傷ってわけにはいかないもの、正当な理由がなかったらね! それにしてもアメリアって本当に馬鹿よね! 確かにリックはいい男でもないけど、あんなことしたら自分の評判がズタボロになるってわからないのかしら? 遊ばれてるとも知らずに夢中になっちゃうんだから!」
間延びした声も自分をけなす言葉も何もかもがアメリアのはらわたをかき回した。今すぐにでも部屋に飛び込んで、そんなことないと突きつけてやろうしたけれど、アメリアはすんでのところで足を止めた。心にはさっと暗い影がさして、何かに急きたてられるかのように不安感が脳裏を満たす。それを意識すると指先が冷たくなり、内臓が変に収縮した。
「ディランは確かにわたしを愛しているはず……なら一体どうしてこんな気持ちになるんだろう。この娘たちの言葉をまるきり信じるわけではないけれど……でも、一体どうして、わたしのことを愛しているはずなのにアンナとの関係を続けているの? まさかあの娘たちの言う通り、まさか本当にわたしを放ってアンナと結婚するつもりなの?」
 今まで考えもしなかった事柄が次々と頭をよぎり、今まで気にも止めなかった事柄が急に重要な意味を帯びた。心臓が不規則に脈打つのを感じながら、アメリアは必死に頭の中で二人の思い出をかき集めようとしたけれど、思考はまるでまとまらず、断片的な思い出はするすると手の隙間からこぼれていく。
 アメリアはクラクラして壁に手をついた。
「たしかに今まで一度だって愛していると口にされたことはないけど……でも、それは機会がなかっただけでしょ。わたしだって一度もきちんと伝えていないわ。たしかに今までの恋人は誰だって何かにつけて――それこそうんざりするほど――愛を語ったとけれど。それがなんだっていうの? その分あの人は態度で示してくれるわ」
 心は唐突に冷ややかになり、自分の過去の行いが脳裏をよぎった。不安が募り、アメリアは心臓のあたりをぎゅっと握りしめた。
「――けれどアメリア。あなたも昔そうやって散々紳士をからかったんじゃなかった? 望んでる言葉は決して言わずに、態度だけで愛を語って。内心でばかにしながらスリリングな駆け引きを楽しんだんじゃなかった? それで自分が最後に何をしたか覚えてる? どうして自分には同じことが起こらないと確信できるの?」
 頭が痛い。一体どうしてこんなに不安な気持ちになるんだろう。それもこれも全てあの娘たちのせいだわ。そんなはずないのに、杞憂ばかりに花を咲かせている。アメリアは気力を奮いたたせて廊下の奥を睨んだ。
「そうよ、わたしはあの庭園での出来事をしっかりと覚えているわ。たとえ言葉でなくても……心と心が一つになって身体すらも溶けて一つになってしまいそうな、あの衝撃を今でもしっかりと覚えている。まさかあれが全て演技だったなんて思えない。それに、あのロンドンでの夜の出来事も! あの夜、瞳に浮かんだ炎が偽物なはずがない!」
 それは何よりの証拠だった。アメリアはスッと背筋を伸ばしてお腹の前で両手を組んだ。「そうよ。こんなところでうじうじしている場合じゃないわ。どうせわたしのことを愛しているのは分かりきっているんだから、その言葉を引き出せさえすれば全て丸く収まる。何もこんなところで一人で不安になることないわ。庭園へ向かって、それで一言聞き出して、そうすれば……!」
 そのとき、ちょうど部屋の中から二人の娘たちが姿を現した。二人はぎょっとしたみたいだったが、アメリアを見下す態度だけは変わりようがなかった。
「あら、アメリア。盗み聞き? 何かいい話は聞けた? お顔が真っ青だけど」
 そんな言葉も耳に入らず、アメリアはさっさとその場を立ち去った。気丈な雰囲気だけは保っていたが、不安にさいなまれてその顔からはすっかり生気が失われている。 二人はアメリアの後ろ姿を見送りながら、またくすくすと小さく笑った。
「ねぇ見た? アメリアのあの顔。断頭台にでも向かうみたいな表情だったと思わない?」
「もちろん! 何かあったのよ、あるいはこれから起こるのかもしれないけど!」
「あの顔をすっかり覚えちゃったから画家にあれこれ指図して額縁に記念しておこうかしら」
「やめときなさいよ。不吉だもの! そんなもの飾ったら恋が実らなくなるわ」
 背後できゃあきゃあと笑いあう声を耳にして、アメリアはさっき二人の息の根を止めなかったことを心の底から後悔した。「でも、あの子たちが生きていなければ悔しがる顔を見ることもできないもの」
 アメリアは庭園に向かうとベンチに腰かけて冷たい手をこすった。庭園は閑散としていて鳥の鳴き声一つ聞こえない。先ほどまでは晴れていた空もいつの間にか分厚い雲が覆っていた。時折突風のような風が吹き、枯れ葉を空へと舞い上げる。
「何を心配することがあるっていうの? きっと大丈夫よ、アメリア。あの人の気持ちはちゃんと分かってるわ。わたしたちは確実に同じ気持ちを抱いているわ。そうでなかったら、今までのことに説明がつかないじゃない」アメリアは何度も自分にそう言い聞かせた。そうでもしないと不安でおかしくなってしまいそうだった。いつの間にかこすっていた両手は祈るような形になって胸の前にあった。「ああ、どうか。この不安が全て杞憂でありますように――」
 そのとき、枯れ葉を踏みつける音がしてアメリアはハッと顔をあげ、立ち上がった。そこにはディランがいた。あれほど焦がれた姿がそこにある。それだけでアメリアは長いこと心にぽっかりと空いていた穴が埋まるのを感じた。その腕の逞(たくま)しさや鍛えられた胸筋の厚さを思うだけで、背筋がぞくりと震える。その輪郭も瞳の色も匂いも、その瞳が楽しいときにどういう風に細まるのかも何もかもを知っている。まるで何も変わらないその姿はアメリアの不安をどこかに吹き飛ばすには十分だった。
 アメリアは愛らしい笑顔とともに、ディランに駆け寄り、なんのためらいもなくその胸に飛びこんだ。まさかこの人がわたしを拒むわけがないと知っているから。それから背中に腕を回した。しかし胸板は厚くて、完全に腕をまわすことはできなかった。懐かしい匂いが全身を包む。アメリアは安心して目を閉じた。きっとすぐにこの逞(たくま)しい腕が自分の肩を抱き寄せ、次の瞬間には熱い口づけがあるに違いないと信じていた。それなのにいつまで待ってもその感覚は訪れなかった。その代わりとばかりに、ディランのどこか冷たい手は両肩に触れて、そっとアメリアを引き離すように動いた。
 アメリアは少し動揺しながらも問いかけた。
「ねぇ、ディラン。一体どうしたっていうの? 今日のあなたはなんだか変よ……どうして抱きしめてくれないの? わたしが何かした? いつもなら――」アメリアの瞳は不安に揺れていた。先ほど娘たちが話していた嫌な妄想が着々と現実をおかしていく。「どうして何も言ってくれないの?」
 シャツを握る手は小刻みに震えていた。それに、息が詰まってうまく言葉が出てこない。ディランはアメリアの肩に優しく手を置いたまま、静かに言った。その瞳はまるで自分が傷つけられているみたいだ。
「アメリア……、君を傷つけるつもりはないんだ」そんな言葉を贈られたってこれぽっちも嬉しくない。心臓はどんどんその音を小さくしていく。嫌な予感に理性がここからすぐにでも逃げ出すべきだと叫んでいたけれど、体はこれっぽっちも動かなかった。肩に触れる手がとてもとても遠く感じる。
 アメリアはただ困り果ててディランのことを見上げた。だってこの人はいつだってわたしの味方なはずだから。それなのに。
「一体なんなの? 傷つけるとか……訳がわからないわ。それに今日の態度も、何もかも! わたしは……わたしは、そんな言葉を聞きに来たわけじゃないの。ねぇ、分かるでしょ?」声が小さく震える。一体、一体どうすればいいんだろう。こんなはずじゃなかったのに。頭は高速で回転するのに、考えれば考えるほど残酷な結末しか浮かばない。ディランの手は温かいのに誰よりも冷たかった。
「どうして? どうして何もいってくれないの? だって、わたしたち同じ気持ちなはずじゃない! ええ、そうよ。わたしたちは絶対同じ気持ちのはずなのに。それなのに、それなのに――! わたしは……、わたしはあなたのことを愛しているわ……ええ、愛していますとも! この世界で誰よりも!」声は詰まり、全てが絞り出すような声色だった。自分でも訳が分からないほど、感情が昂(たか)ぶり、瞳からは大粒の涙がこぼれた。
「アメリア……。許してくれ」ディランの返答はそれだけだった。アメリアの瞳は涙で潤んでそういったディランの瞳がどんな色をしているのかさえ分からなかった。  シャツに顔を埋めて声にならない嗚(お)咽(えつ)を漏らす。
「どうして……わたしじゃだめなの……? わたしのことを愛していないの……?」続いた言葉は先ほどよりもずっと弱々しくて、今にも消えてしまいそうだった。
「わたしは君の心を弄んだんだ」ディランの声はひどく穏やかだった。
 いつの間にか空には曇天が立ち込めていて月明かりは地上に届かない。遠くで不吉な雷鳴がとどろき、風が草花を押しやる音に混じって、雨の足音が迫っている。ぽつぽつと振り始めた雨はアメリアの頬を伝い落ちた。
「戻ろう。じきに雷雨になる」肩に回された腕をアメリアは力なく振り払った。顔面蒼白でじっと地面の一点を見つめ、両手を固く握りしめている。アメリアはそのままの表情で、気丈なふりをして冷たく言い放った。
「触らないで。こんな気持ちを抱く羽目になるのなら、初めからあなたになんて会いたくなかった」喉の奥が収縮する。本当なら頬を張り飛ばしてやりたかったけれど、そんなことできるはずもなかった。ディランになんと言われようと、この気持ちがなくなることはないのだから。ただ自分からこんなことを言わないといけないのが心底辛くて、悲しかった。アメリアは言葉の代わりに、唇を一直線に結びディランのことを睨みつけた。こんなこと本当はまるで言いたくないのに。「あなたなんて、あなたなんて――だいきらい」自分で口にしておきながら、一番に傷ついたのは自分の心だった。こんなこと言いたいわけじゃないのに、本当にどうしてこうなったのかわからない。ただ、魂が引き裂かれるような耐えがたい苦痛が全身をおそった。

第二十一章 二話

 どのくらいこの場所に留まっていたのだろう。ディランが去ってアメリアだけが庭園に取り残された。打ち付けるような雨はますます強くなって、くすんだ白の線が空から降り注ぎ、地面にぶつかっては次々と破裂していく。体はすっかり冷え切ってもはや痛みも何も感じない。
 いつの間にか屋敷の中からは弦楽器の優雅な音がこぼれていた。ついに舞踏会が始まったのだ。けれど雨の音はノイズのように耳にふたをして、その音楽はとても遠くに感じる。雨の檻は外界と自分をすっかり断絶してしまった。まるでこの世界に一人だけで取り残されたような不安が全身を支配している。「あの部屋に閉じ込められたときと同じだわ……けれど今日は助けてくれる人は誰もいない。もうすべて終わったの」先ほどの残酷なやりとりを思い出すと肺が締めつけられて息が苦しかった。目はうるみ、一度は落ち着いた涙がまたぶり返しそうになった。けれどそれだけはどうにか我慢した。
 アメリアは糸で吊されたマリオネットのようにふらりと動き始めた。頭の中で一つのことだけを呟きながら。
「とにかく――、とにかく今は家に帰ろう。それでお母さまありのまますべてを話すの――きっとわたしの恥知らずな行動にショックを受けるだろうけど、でもその後にはわたしを慰めてくれるわ。そうしたら、そうしたらもうこんな愚かな真似は終わりにしよう。オルコットやソフィーの言う通りだわ。こんな思いをするくらいなら、初めからいい淑女であるべきだったの。でも、それすらもきっとお母さまは許してくださるわ。とにかく――今は家に帰るのよ」
 致命傷を負った敗残兵が敵地から逃げおおせるように、アメリアは覚束ない足取りで馬車が草を踏みつけたあとを歩いた。足は悲鳴をあげ、かかとはじんじんと痛み、土踏まずは腱(けん)がピンと張って、今にでもつりそうな状態が延々と続いている。
 そもそもこんな酷使を想定されていない靴底はすり減ってほとんど裸足で歩いてい変わらなかった。その上、左足の方に関してはどこかで落としたらしい。それに気が付いたのは左足で石を踏みつけて、あまりの痛みに呆然とした意識が浮上したからだ。
 顔を上げてあたりを見回す。もうすでに屋敷はなだらかな丘の向こうに消えて、大きな樫(かし)の木の先端がちらりと見えるだけになっていた。逃げおおせたという安堵はなく、むしろ冷静になればなるほどあの耐えがたい言葉が脳に響く。ディランのあの表情も、あの声色も……あの光景がさめざめと脳裏によみがえり、心の居場所を追いたてるような気がした。心臓と肺が押しつぶされ、呼吸は浅く、息遣いは泣いているかのように何度もしゃくりあげてはいたけれど、最後の気力で涙だけは流さなかった。
「家に帰りさえすれば……お母さまがいるわ。涙はそこまでとっておこう。一人で泣いていたら二度と立ち上がれないから」
 吹き荒ぶ雨風が身体に打ち付けて体温を奪っていく。ドレスは水を吸って罪人に取りつける鉄球と同じ役割を果たしていた。自分がどんな罪を犯してきたのかなんて、言われなくてもわかっている。ただこれほど辛い目にあうのだから神はよほどお怒りなのだろうと思うとなおさら心は暗い場所へと沈んでいった。一度足を取られると二度と抜け出せなくなる泥沼のようだ。ああ、とにかく、今は家に帰りたい! 一刻も早く! 暖炉の火の側でいつもの安楽椅子に腰掛けてせっせと裁縫にいそしむ母の声を聞いて安心したい。きっとどうにかなるわ、そう、家に帰りさえすれば――。

アメリアは家にたどり着くなり倒れ込むように眠りについた。母も父も使用人もアメリアがひどい雨の中、馬車にも乗らず歩いて帰ってきたものだからとんでもなく驚いた。特に母はアメリアをかなり心配して、倒れ込むように眠ったアメリアの側を早朝まで離れようとせず、最終的にオルコットに一時間も説得されてようやくそこを離れた。
 次の日はどうやって過ごしたのかまるで覚えていない。何度か使用人が扉を叩いたけれど、開ける気にはならなかった。それどころかベッドの上でうなだれるのが精一杯だ。
 全身には昨日の疲労が残っていて、足はいまだにうずくように痛み、地面に足をつけようものなら筋肉が引き裂かれるみたいな痛みが走る。胸を締めつけるどうしようもない痛みと耐えがたい絶望は何度も心を飲み込んでアメリアはそのたびに涙を流した。ひっきりなしに涙があふれるせいで涙腺は腫れて、頭も押しつぶされそうなくらいに痛い。それに、喉がきゅっと狭まって呼吸がほとんどままならない。
 カーテンを閉めきった部屋は薄暗く、カーテンレールからほのかにこぼれる明かりと暖炉の炎だけがこの部屋のすべてだ。アメリアはベッドの上で長い髪をだらんと顔にかけながら呆然としていた。
「一体、どうしてこんなことになってしまったの?」問いに対する答えは一向に見つからない。まるで自分の中の一番大切な物が粉々に砕け散ってしまったような気がする。心にぽっかりと穴が空いてしまったみたいだ。何もかもがその穴からこぼれ落ちていく。
「わたしはこれほどあなたを愛しているのに――」今でも目を閉じれば何もかもが鮮明に思い出せる。その瞳も、そのぬくもりも。それなのにあなたはここにいない。
 言葉にならない感情が心の中でずっとうごめいて行き場を求めている。それはもう会えないという悲しみだったり、受け入れてくれない事に対するやり場のない怒りだったり、ただ会いたいと願う無垢な恋しさでもあった。
 やがて感情は全てが入り交じり、どうしようもないもどかしさになり、次第に苛立ちへと変わった。
 アメリアは視線を上げて部屋の中をぐるりと見回した。置物も花も宝石もドレスも何もかもが自分をあざ笑っているような気がする。
 アメリアは突然立ち上がり、宝石入れを掴むとそれを感情のままに床に叩きつけた。激しい音を立てて、きれいな石が部屋に散らばる。それからクローゼットからきらびやかなドレスを掴むと、それを片っ端から床に投げ捨てた。ドレスが破ける嫌な音が頭に響く。けれど、だからってこの体を止めることなんてできない。だって、それは全てがディランからの贈り物で、一着一着に思い出があって、見ているだけで胸が張り裂けそうなほど痛んだからだ。そのうちの一着を手にしたとき、アメリアの動きはぴたりと止まった。それは初めてもらったドレスだった。今見たって思わず感動するほど素敵だ。それでいて思い入れ深い。この部屋で有頂天になって着替えたことも、それからそのあとの庭園の出来事も、頭の中を途端に駆けめぐり、アメリアは思わず涙があふれそうになって唇を噛んだ。
「こんなもの! 一体なんの価値があるって言うの!? しょせんきれいなだけの布きれよ! 見せる相手もいないっていうんだから!」アメリアはドレスをしわになるほどきつく握りしめると暖炉の前に走り、そのまま赤い炎のあがる暖炉にくべた。
 ドレスの裾に施されたレースに一気に火がつき、真っ赤な火花が部屋中にパラパラと舞っていく。アメリアはその光景をただぼうっと見つめていた。赤い炎がアメリアの整った顔に反射して、悲しい影を作り出した。それから徐々にドレス本体が燃えていく。
 なんだかもう見ていられなくて、アメリアは目を背けてその場に力なく座り込んだ。部屋のあちこちには先ほどばらまいた宝石が散らばっている。どれもこれもディランからもらったものだ。
「もういや、こんなことがしたいわけじゃないのに……でもどうしたらいいのかわからない。どうしたらこの気持ちはなくなるの? 一体どうしたら楽になれるの?」アメリアは苦しくて膝に顔をうずめた。自分でも何がしたいのか分からない。ただ、早く忘れてしまいたいのにまるで忘れられなくて、一緒にいられないとは分かっているのにどうしようもなく求めてしまってしょうがない。
「ああ、こんなことなら、助言に最初から従っておくんだった! 思いを伝えるんじゃなかった! 幸せを待ち望むんじゃなかった! ロンドンになんて行くんじゃなかった! 近づくべきじゃなかった! いいえ! そもそも最初から、最初から出会わなければ――」そのとき、アメリアの目には色鮮やかなドレスたちがうつった。
 その瞬間、アメリアの頭の中には今までの思い出がまるで走馬灯のようによみがえった。彼のためにドレスを吟味する時間も、一緒に話す時間も何もかもが楽しかった。くだらない話だっていっぱいしたし、間違いなく誰よりも心を許していた。それから彼を待ち望む時間だって、いつも決まって心が弾んで、一言一句が心をときめかせたんじゃなかった? 少しでも喜んでもらいたくて何時間も悩んだんじゃなかった? そんな時間を一体どうして不幸せだったなんていえるんだろう。一年にも満たない時間だけれど、その時間は確かに幸せで、舞い上がりそうなほど幸福だった。「いやよ、そんなのいや。今がどれほど苦しくたって、あの人に出会わなければよかったなんて思えない。忘れたくない。けれど、それじゃあわたしはどうすればいいの? 今だってあなたに触れたくて触れたくて仕方がないのに」気がつくと頬に涙が伝っていた。
「今だって、何もかもを覚えているわ! 声も姿も、あのぬくもりも! 何もかもを今でも鮮明に覚えている!」
 どうしようもない激情が体の中を駆けめぐり身を焦がす。この気持ちが恋なのは間違いなかった。でも、それはおとぎ話にでてくるような甘い感情ではなかった! この気持ちはまさしく身を焼く激情だ! 燃えさかる炎だ! 体の奥底から燃え上がる炎は全てを焼き尽くすことしかできない。この火が消えるときは間違いなく自分の体が冷たくなるときだと確信できる。
 ああ、いっそのこと忘れられたらどれほど楽だろう。いっそのこと嫌いになれたらどれほど楽だろう。この激情も恋も愛も何もかもを知らなければどれほど良かっただろう。けれどこの感情は苦しくて切なくて、それでいてこんなに愛しい。
 胸がぎゅっと握られているみたいだ。息苦しくて、大きく息を吸おうとすると喉が焼けるように痛くて何度もむせ込んだ。何だか本当に息苦しい。吸っても吸っても酸素が肺に入っていく気がしない。それに頭の側面が締め付けられるように痛くて、首を動かすと視界がゆがんだ。何かがおかしい!
 アメリアはようやく我に返って部屋をぐるりと見回し、そしてあらん限りの声で悲鳴を上げた。
「燃えてる――!?」
 いつの間にか部屋に散らかったドレスは真っ赤な炎を放って燃えていた。白い煙が部屋の上部をもくもくと覆い尽くしている。暖炉にくべたドレスが火だねとなって別のドレスに燃え移ったのだ。レースの多いドレスはいい燃料となってあっという間に燃え広がっていく。
 思い出が燃えていく。繋がりが消えていく。アメリアはしばらく呆然とその光景を眺めた。それからハッとして立ち上がると、ドレスを膝が見えるほどたくしあげて何度も足で火を踏みつけにした。けれど一度燃え移った火はまるで消えない。そんな間にもますます火の手は強くなっていく。それどころか、何度も自分のドレスに引火しそうになって、アメリアはそのたびに肝を冷やしながら半狂乱でドレスを叩いた。
 もはや部屋の中は白い煙でいっぱいになっていた。目を開けるだけでしみる感じがする。ついに火がごうごうと燃えはじめるとアメリアは真っ青な顔をしながら後ずさった。
「もう無理だわ、手に負えない! このままじゃわたしも燃やされちゃう! 逃げなくちゃ――」
 突然動いたのがよくなかったのかもしれない。アメリアが炎に背を向け、逃げようとしたその瞬間、突然両足から力が抜けてアメリアはその場に崩れ落ちた。もともと今日は体調が悪いと思っていたのだ。それに酸欠とパニックが相まって、アメリアは想像以上の煙を吸い込んでいた。頭の血管が収縮して、脳に運ばれる酸素がほんのわずかな量になると目の前が歪んだ。それから全身が奇妙に震えて自分の両手の位置すらもわからなくなる。視界が次第に狭まっていき、アメリアはそのまま気を失った。
  
 次に目を覚ましたとき、アメリアは大勢に囲まれていた。どの顔も心配そうに自分のことをのぞき込んでいる。ソフィーはアメリアが目を覚ますなり大きな声をあげた。
「アメリアさま! ああ、アメリアさま、大丈夫ですか!? すぐにダーシー先生を呼んできますから、少しだけ待っていてください!」
 起き上がろうとしてもなんだかひどい倦怠感でそれすらもままならない。一体何があったんだっけ? アメリアは何だか重い感じのする頭を強引に働かせて記憶をたどった。ああ、そうよ。倒れたんだわ、わたしの部屋が燃えていて――。
「待って、ソフィー!」アメリアはハッとして、ダーシー医師のところに駆けていこうとするソフィーを呼び止めた。アメリアの顔は真っ青であの恐ろしい光景を思い出して両手が小さく震えていた。
「わたしのドレスは全部燃えてしまったの?」
「えぇ。ですがアメリアさまにたいした怪我がなかったのは本当に幸いでした。もう少し遅ければきっと大変なことになっていたはずですよ。奥さまも旦那さまも本当に心配していて……とにかくまずはダーシー先生に診てもらいましょう。ああ、昨日のうちから声をかけておいて本当に正解でした。実は昨日アメリアさまの様子がおかしかったから奥さまが心配して呼びにいかせていたんですよ。呼んできますから少しお待ちくださいね」
 ソフィーは優しくアメリアに言ったけれど、アメリアの耳にはほとんど届いていなかった。心は深い絶望で埋め尽くされている。
「すべて燃えてしまった。わたしのせいで――」けれどそれで良かったのかもしれない。毎日ディランのことを思い出すよりはよっぽど諦めがつくじゃない。包帯の巻かれた両腕よりもズキズキと痛む心臓は一旦忘れて、アメリアはそんな風に自分を慰めた。
 ダーシー医師はすぐにやってきた。いかにも怒り心頭という顔立ちでベッドの隣に置かれた椅子にどかっと腰を下ろすと深いため息をついた。
「さて、アメリア嬢……またずいぶんな無茶をしたようですな。まったく、その程度のやけどで済んだのが奇跡みたいなものだ。全身火だるまになっていても何もおかしくなかったんだからな」
「……けれど、ドレスは燃えてしまいました」
「まったく淑女というのはどうしようもないな。その綺麗なドレスだって命あってこそだろう。むしろあんたは感謝しないといけないくらいですよ。あれがなかったらこうして会話もできてなかったはずだからな」
 そう、助けられたっていう見方もできるのね。隣にいなくてもわたしを助けてくれるのね。
「あとでソフィーさんにたくさん礼をいうんだな。炎に囲まれるアメリア嬢を無理矢理引きずりだしたんだ。かなり衝撃的な光景だっただろうに、あれはかなり立派な使用人だ」
「そんなこと分かっています」
「ただ、本人には伝わっとらんのだ。ソフィーさんは最近あんたに厳しくしていることを妙に気にしとるらしい。もちろん気にしてるわけがないとは言っておいたがな。まったく本当に女性は妙なことを気になさる。これを機にきちんと話しあうことです」ダーシー医師は「さて」と本題に入り、両腕を組んだ。
「わしは昨日アメリア嬢の様子がおかしいと聞いて駆けつけたわけですが……。聞けば昨日はあの雷雨の中〈ノーザングリット〉から歩いて帰ってきたというじゃないか。わしとしてはやけどよりもそっちの方が心配だな。足をみせてみなさい。腱(けん)がきれたら一体どうするつもりです?」アメリアは何も言い返せずに口をつぐんだ。「それからひどい熱だ。雨の中を何時間も歩けばどうなるか容易に想像がつくでしょう。まったく、無茶をするからだ。一体何があったんです?」
 アメリアは何も答えずにただ深くうつむいた。どうやらまだ知られていないのね。けれどじきに大勢の知るところになるわ。何の関係もない外野がどれだけ喜々としてこの噂をばらまくかと思うと頭が割れそうなほど痛くなった。それに心も。
「ダーシー先生……わたし、あとどのくらい生きられるんですか?」アメリアは今にも燃え尽きてしまいそうな心を抱えながら目を伏せてダーシー医師に問いかけた。医者はその言葉を聞いて、鼻の上にしわを寄せた。
「何をいっとる。それほどひ弱な体でもないだろう。ヴァンス夫人でもあるまいし。あんたがめったに風邪をひかないからといって、毎回そんな風になっては困りますぞ。命に関わるような病気じゃないし、どちらかというなら、この間の流血事件の方が肝を冷やしたくらいだ。とにかく今は少し気分が落ちこんどるようだが、体さえ元気になればそんなことを考えていたのがばからしくなるだろう」
「ですが……。ダーシー先生……外傷じゃなくたって、人は死んでしまうものでしょう?」
「あり得んな。例えば?」ダーシー医師は短く問いかけた。
「たとえば――恋い焦がれて?」
「ばかなことをおっしゃる。ありえんな、それだけで死にはせんよ。そんな人間みたこともない」
 ダーシー医師はそういったが、アメリアは納得がいかなかった。それがいつだかは分からないけれど、そんな予感がするのだ。いつかこの恋心に身を焼かれて土に帰る日が来るような、そんな気が。
「何はともあれ、あまり長時間話すと傷に良くない。しばらく安静にしておくことだ。まったく、エレンさんも心労が絶えないわけだなな。せっかくこの頃体調が安定しとったいうのに、また悪化したらどうするつもりです? あまりご婦人を困らせるようなことをするべきじゃない」
 短い問診を終えてダーシー医師は部屋を出た。部屋の外には使用人が不安な表情をして立っている。ダーシー医師はため息をつきながら言った。
「怪我の方は大したことはない。あの年代のお嬢さんならすぐによくなるでしょう。ただ――どうしてだかは皆目見当もつきませんが――精神が弱っているようだ。何か心当たりは?」
 使用人たちは顔を見合わせて首をかしげた。
「ふむ、まぁとにかく。しばらくは構ってやることです。監視も兼ねてな。ないとは思いたいですが、またボヤ騒ぎを起こす可能性もある」それどころか、希死念慮のような奇妙な予感に取りつかれている。とはさすがにこの医者も口にしなかった。しかし考えたくはないがその可能性だって十分ある。「エレンさんを呼んできとくれ。寝ているようにと言ったが、どうせ今も気を揉んでいるだろう。ただしあまり刺激せんように」

第二十一章 三話

 エレンはその知らせを聞いてすぐにアメリアの部屋に駆けつけた。ダーシー医師の予想通り、とてもではないが寝ているなんてできるわけがなかったのだ。何十年ぶりに廊下を走るとすぐに息があがった。
「アメリア?」エレンは部屋に入ると不安そうに目を伏せながら控えめな声で呼びかけた。「体調はどう? あまり悪くなければいいんだけど……。本当に、かわいそうなアメリア。怖かったでしょう? わたくしがずっと一緒にいられればこんなことにはならなかったのに……どこか痛いところはない? それか何か不自由は? ああ、まだこんなに若くて愛らしいのに大怪我を負って……」
 エレンは瞳に涙を浮かべながらアメリアの頬をなでた。その手は何よりも温かい。母のぬくもりは何よりもアメリアの心を落ち着ける効果があった。
「お母さまのお顔をみたらだいぶ良くなりました」
「……体温が高いですね。お願いだからあまり無理をしないで。小さい頃からまるで風邪なんてひかない子だったから、勝手がわからないでしょう? お医者さまは心配はいらないと言いますけれど、やはりわたしは心配ですよ。大切な我が子ですもの」エレンの瞳はどこまでも優しくて、思わず涙がこぼれそうになった。それと同時に今までの恥ずべき行いの数々が頭の中によみがえってきて後ろめたい気持ちになった。わたしはこんな優しさを受けるに値しないのに。わたしはいつもお母さまに心配をかけてばっかりだわ。お母さまはこんなに優しいっていうのに……。
「そうよ、お母さまにすべて包み隠さず話そう。もう心配をかけるのはやめにするのよ。そして、ディランへの気持ちは忘れて正しい光の中で生きるの。それがきっと一番いいに決まっているわ。少なくとも、お母さまの言葉に従っていればもうあれほど苦しい思いをしないで済むんだもの……お母さまはきっと許してくださるわ。そうしたらきっと理想的な淑女になろう。そう、メアリーみたいな子になるの。それで深い喜びも、悲しみもないような人生を歩もう。変に反抗するのはやめて従順に生きるのよ」
 アメリアは決意を決めると今までのことを包み隠さず母に打ち明けた。まさか娘が人の婚約者とそこまで懇意にしているとは思わず、母はひどくショックを受けた顔をしていた。とくにあの山のような贈り物が一人の男性から贈られていると知ったときの表情は饒(じよう)舌(ぜつ)に尽くしがたいものがあった。
最後まで聞き終えたとき、エレンはショックで倒れそうな顔をしていたけれど、最終的には一つの非難もなくアメリアの懺(ざん)悔(げ)を受け入れた。たしかにその内容はあまりにもひどいものだったけれど、ぽつりぽつりと思い出を消化するみたいに話すアメリアの表情があまりにも悲しげで、とてもではないけれど叱りつける気にはならなかった。
「わかりました。よく話してくれましたね。きっと勇気のいることだったでしょう。けれどアメリア、あなたが何をしようと何を考えようとわたしの大切な天使であることには変わりないのよ。だからどうかそれほど思い詰めないで。わたくしはあなたの盾になるには少し弱いかもしれないけれど、いつだってあなたを助けたいと思っていることだけは忘れないでください」
 母の言葉は温かい。アメリアはこっそりと涙を拭った。
「お母さま……わたし、これからはお母さまのおっしゃる通りに生きようと思うんです。今更理想の淑女にはなれないかもしれないけれど……けれど、少なくともこの家の恥にはならないような人になろうと思うんです。できるかどうかは分からないけれど、わたしきっといい子になります。もうあんな思いはしたくないもの。それからお母さまが望むのなら結婚だって――」
 エレンはその言葉に少し驚いた表情を浮かべた。
「もうスレイターさまから聞いていたの? わたしはてっきりまだ知らないものだとばかり……」
 母の言葉にアメリアは首をかしげて聞き返した。
「一体何をですか?」
 エレンはしばらく悩んでから答えた。
「先日、エドガー・リードから婚約の申し入れがあったんです」

第二十二章 一話

 それから使用人は医者の言いつけ通り、アメリアに心の底から優しく接した。それこそ少しやり過ぎなくらいで、本当のお姫さまのようにアメリアは甘やかされた。
 ディナーには毎食アメリアの好物が並び、着替えはもちろん、最近ではソックスだって自分で履いていない。アメリアには常に三人の使用人がついてまわり、少しでもアメリアに苦難がないようにと細心の注意を払った。
 それから両親もアメリアに一段と優しく接するようになった。父はアメリアのためにあちこちから素敵なお土産を買い与え、母は常にアメリアを第一に優先した。ジョージアナだけはいつもの呆れ顔を変えなかったけれど、家に波乱を巻き起こすよりはいいと思ったのか特に何も言ってくることはなかった。
 長らく忘れていた温かい我が家に帰ってこられたことはアメリアにとって何よりも望ましいことなはずだったけれど、当のアメリアは喜びも悲しみもすっかり忘れてしまった。
 アメリアは母に真実を打ち明けたあの日から、自分の心を押し殺して生きていたのだ。そうすれば誰からもとやかく言われることもなかったし、ディランのことを思い出して涙に暮れるようなこともなくなった。けれどその代償はあまりにも大きくて、アメリアは苦しみを手放すのと同時に人生のほとんどの楽しみも全て明け渡してしまった。
 世界はまるで彩りがなく、毎日退屈な日常が繰り返されるだけ。
「だけど、きっとこれこそが幸福なのよ」アメリアはすっかり輝きを失った瞳で、まるで自分に言い聞かせるみたいに唱えた。「心が締めつけられるように痛むこともなければ、非難の目線と戦う必要もない。家には心優しいお母さまがいて、お父さまがいて、かわいい妹がいる。それで十分じゃない。わたしは守られているし、何者だって襲いにこないわ。ここにいれば何も苦しいことなんてない。わたしは間違ってなんかいないわ――きっと」
 けれど、時々心の奥で正直な本能が暴れだそうとする。だけどアメリアはきっとこの気持ちは罪なのだと思い込んで、その声にはまるで耳を傾けようとはしなかった。
「わたしのいるべき場所はこの家なんだから、他に何を気にすることがあるっていうの? そうよ、ずっとここにいればいい。何も恐ろしい外へ出なくたって……。縁談はわたしが口を挟まなくたってお母さまが進めてくださるわ。それに十数年しか生きていない子供の思うことよりも、お父さまやお母さまの方がよっぽどその道に長けてる。わたしはただ言われた通りに生きればいい。それが楽しいかどうかは置いておくとしたって、幸せではあるんだから……そうでしょ? 波瀾万丈な冒険で多くの傷を背負うより、平穏な我が家で温かい日々を過ごした方がいいに決まってる」だけど、それなら一体どうして人は時々命を賭けてまで何かを切望するのだろう。「だめよ、アメリア。考えないようにするの、何もかも。荒波に逆らうのは疲れるでしょ。どうしようもない流れに流されれば何もかもが楽に終わるわ」
 エドガーとの縁談についてはまだ正式な返答を返していない。というのも、アメリアの痛ましい事故を聞いてリード家が直々に返事は急がないと申し入れたのだ。
 きっと妻になる人が性懲りもなく怪我を負ったと聞いて婚約を取り下げるだろうと思っていた使用人は拍子抜けした。それから次の瞬間にはエドガーさまはなんて心の広いお方だろうと両手を叩いて大喜びした。きっとこれほど心の広い紳士は他にいない。
 それに、エドガーは度々大きな花束をもってアメリアの見舞いにやってきた。そのたびに使用人は浮き足だって、早くアメリアのウェディングドレスを仕立てにいくように愛する奥さまに打診しにいくのだ。
「きっとエドガーさまは心の底からアメリアさまを愛しているに違いありません! 返事を先延ばしにする必要なんてまったくありませんよ! いいえ、むしろ、相手方を待たせる方が失礼ってものです! あの方と一緒ならアメリアさまは間違いなく世界で一番幸せな花嫁になれるんですから!」
 けれども、浮き足立つ使用人とは正反対なことにアメリアの心は冷えきったままだった。かつてはあれほど心をときめかせたエドガーの言葉もどこかさびれてみえる。それに手を握られても瞳を見つめられても心に湧き上がるものは何もない。まるで心ごとどこかへ置いてきてしまったみたいに、心はただひたすら平穏でなんの動きもなかった。
「けれどきっとわたしはこの人の妻になる。それに文句はないけれど――まるで実感がわかないわ。だけどそれでいいのよ。結婚なんてそんなものだってソフィーも常々いっていたもの」
アメリアはすっかり理想的で凡庸な淑女に成り果てていた。かつてはあまりにも鮮烈な輝きを放った両方の瞳はすっかりその輝きを失い、小鳥のようにあまりにも甘い囁きをした唇はすっかりその色を失った。両手には男性と腕を組むかわりに針や糸を握り、舞踏会で動きっぱなしだった両足はすっかりその役目を終えた。
 アメリアは男性をむやみやたらに口説き落とすのはやめて、その代わりにアメリアは慣れない裁縫やピアノに精をだすことにしたのだ。もちろんどちらも唐突に上手くなることはなかったけれど、アメリアが我が身をあらためたというだけで喜ばしいことだろう。
 例のボヤ騒ぎから数日もすれば、予想通りあの日の出来事はいろいろな尾ひれをつけながらイギリス全土に出回ったが、そのことを話題にする人はスレイター家には誰一人としていなかった。過去のことをいつまでも引っかき回して何になるというのだろう? アメリアさまは今やこんなに立派な淑女になっているというのに! あの日のエレンとの会話を知らない使用人はアメリアのあまりの変化に首をかしげたが、誰もがその変化を歓迎してますますアメリアに優しくなった。

 それから月日はあっという間に過ぎて、十二月も後半にもなれば街はクリスマス一色になった。社交界はどこもかしこも寒さなんて忘れてしまったみたいに賑わいであふれている。
 ソフィーは昔みたいにアメリアの部屋に入り浸りながら興味津々でたずねた。ソフィーの手には来週の誕生日会でアメリアが着ることになっているドレスが握られている。
「それでアメリアさま。舞踏会で誰と踊るかはお決まりになったんですか? 誰であろうと、きっとこの装いをみたらびっくりするに違いありませんね。こんなに素敵なドレス、わたしはみたことがありませんよ」
「そうね、本当に」アメリアは特になんの感動もなく答えた。たしかに素敵なドレスだとは思ったけれど、不思議と心はまるで躍らない。それに誰と踊るかなんてもっとどうでもよかった。「普段ならこの時期にはすでに予約でいっぱいってものでしょう? 誰かにお返事は書かれなかったんですか?」
 ソフィーは机の上に置かれたままの山のような手紙を見つめながら質問した。誕生日に向けて、アメリアは相変わらず山のような手紙を受けとっていた。
「まだ返していないけれど、お母さまの言いつけに従うわ。それにきっと付き合いで踊らないといけない人もたくさん居るでしょ? それにね、あなただからいうけれどわたし本当に誰でもいいのよ」
 ソフィーはアメリアの退屈そうな声色に一瞬寂しそうな顔をして続けた。
「ですが、まさかエドガーさまとはご一緒するでしょう?」
「ええ、そうね。ずっと前から予約されてたもの。信じられる? 二ヶ月も前から予約されていたのよ」
「それほどアメリアさまに真剣だということですよ。アメリアさまがどうおっしゃるかは分かりませんけどね、わたしは本当にお似合いだと思いますよ。わたしはお二人がほんの小さなときから見て参りましたけど、ずっとそうなればいいと思ってきましたから。きっと旦那さまもお喜びになりますよ。これでお屋敷も安寧ですね」
 アメリアとエドガーの婚約は今や屋敷中の知るところだ。使用人たちは当の本人よりも落ち着きがなくて、まだ返答も返していないというのに屋敷にはほんのりとお祝いムードが漂っている。
「アメリアさまも早くお答えを返して差し上げたらどうですか? なんといったってエドガーさまは本当に素敵な方じゃないですか。旦那さまもエドガーさまのことは認めていらっしゃいますし、一週間に何度もお見舞いにきてくれて、普通あんな殿方いらっしゃいませんよ。それにお二人は幼いころからの仲ですし、ロマンチックじゃないですか?」
「ええ、そうね……きっと」アメリアは心ここにあらずという様子で答えた。その瞳は光を失ったままどこか遠くを見つめている。
「わたしは幸せ者よね」
「そうですよ。エドガーさまほど素敵な人なら今に取り合いになったっておかしくないんですから。関心のあるうちに決断するべきですよ」といってからソフィーはすべてを見通したみたいに続けた。「まぁ、なんにせよきっと当日には決断を迫られるでしょうね」 

第二十二章 二話

 誕生日当日、アメリアは退屈を持て余しながら壁際の席に座っていた。男性にちょっかいをかけてはいけない舞踏会というのは想像以上に退屈だった。
 アメリアは母の言いつけ通りの人と踊り(やはり楽しいわけではなかった)、人々にうわべだけの笑みをうかべ、淑女がよく使うような言葉だけで全ての会話を終わらせた。紳士たちはアメリアのあまりの変わりように驚いたみたいだったけれど、そのはかない笑みが心を引きつけるようで、アメリアの周りには常に誰かしらの姿がみえた。
 その中でも、エドガーはアメリアの隣という名誉を片時も譲ろうとはしなかった。
「まるで今日は別人みたいだな」
「わたし、今までの振る舞いはすべてあらためることにしたの。子供じみた反抗はやめて立派な人になるって決めたのよ」アメリアの瞳は暗く沈んでいる。
「ああ、だから最近訪ねるとピアノや裁縫に精を出してるってわけか。それにしたって一体どんな風の吹きまわしだい? まさか炎に巻かれた衝撃が大きすぎて人格が入れ替わったとか?」
「そういうわけじゃないわ。けど、どうやらみんなこっちの方が好きみたいだから。あなただってそう思うでしょ?」
 エドガーはアメリアの瞳をじっと覗き込んだ。そこにいつもの輝きはなく、瞳の奥には怯えるような小さな光がチリチリと宿っている。
「なんだかよくわからないけど、珍しくアメリアは自信を失ってるらしい。けれど都合がいいことに変わりはないな。少しかわいそうだけれどきっと僕ならその悲しみも癒やせるはずだ。いいや、間違いなく」
 エドガーは自信に満ちあふれた表情で笑うとアメリアの手を取った。その瞳はすっかりアメリアの答えを確信しているみたいだ。
「どっちにしろ君がかわいいことには変わりないね。なぁ、アメリア、抜け出さないかい?」
「ええ……いいけど……」アメリアは小さく震えた。「ついに答えをいうときがきたのね。だけどなんの問題もないわ。こうなることは分かりきっていたもの……それにきっとわたしは幸せになれるわ……きっと」
 アメリアは手をひかれながらエドガーの後ろ姿を眺めた。その後ろ姿は堂々としていて間違いなく立派だった。ダークブラウンの髪は柔らかく跳ねていて好ましい。
 けれどやはり何か特別な感情が湧き上がることはなかった。力強いその手はただの触覚だけを脳に運ぶ。
 テラスまで歩くとエドガーはくるりと振り返ってアメリアの両手を握った。弦楽団の演奏はここには届かない。冬の凜とした空気の中、輝かしい満月が空高く輝き、二人を見下ろしている。
「それで、アメリア。わざわざ僕がこんなところに君を連れてきた理由は分かってるだろ? そろそろ答えを教えてくれてもいいころだと思うんだけどな」
 その瞳は言いようのない自信に満ちあふれている。
「……ええ……そうね。そうよね」アメリアは不安に満ちた瞳でエドガーのことを見上げた。それから返事を言いかけて、愛らしい唇をひらいたけれどその口からはため息のような音しかこぼれなかった。
 エドガーは素敵な人だと思う。アメリアの知っている紳士たちの中ではかなり流行に敏感で、それでいて堅苦しいところもなく、少年のような純真さをもっている。アメリアだって、エドガーのそんな性質を間違いなく気に入っていた。むしろ悪いところを見つけるのが難しいくらいだ。
「そうよ。それなのに何を不安に思うことがあるの? ただ頷けばいいだけ。わたしはエドガーと結婚するって決めたのよ。それなのに――」アメリアはエドガーを直視できなくて目を伏せた。「一体どうしてわたしは返事に踏み切れないんだろう。この人は本当にいい人よ。それは分かってる……」心がモヤモヤとして自分がどうするべきなのかまるで分からない。今まで一度だってこんなことなかったのに。まるで嵐の夜の中、灯台もなしに船をこいでいるような気分だ。行き先も何もわからず、ただ心だけが疲弊していく。
 だけど、わたしは決めたの。
「エドガー……わたし、あなたのことは本当に素敵な人だと思うわ。それに昔から気に入っていたのも事実よ。だから他でもないあなたがそういってくれて本当にうれしかったの。だからわたし――」ついに答えを口にしようとしたその瞬間、頭の中にディランの姿が思い浮かびアメリアは思わず息をのんだ。もう忘れると心に誓ったはずなのに、あの日の鮮烈な思いが途端にぶり返して心の奥でパチパチと火花をたてる。自分でも制御できないほどのどうしようもない激情が、また自分を飲み込もうとしている。彼の居ない人生を歩むと決めたのに。
 それなのに、どうしてこれほどまでに求めてやまないの?
 アメリアの瞳は今にでも泣き出しそうなほどに震えていた。頭の中の葛藤はますます激しくなって今にでもこの身を引き裂かんばかりだ。
「君だって僕のことは好ましく思っているだろう?」 
「それはそうだけど……でも、わたし……」アメリアはエドガーの手を振り払って胸元に当てた。心臓は氷のように冷えきって、小さい脈動を繰り返している。エドガーはその瞳が葛藤とともにあまりにも鮮烈な緑に輝くのを見逃さなかった。エドガーはその輝きの意味に気がついて嫉妬混じりに顔を歪めた。
「ああ、分かってるさ。いまだに君の心には忘れられない人がいるんだろう? ディラン・エドワーズだ。だけど、彼は君の申し入れを断ったんだ! それに――」エドガーの声色には自分が選ばれない苛立ちや恨みがつまっていた。それはまさしくアメリアを傷つけるためだけに発された言葉だった。「それに――今週末にはアンナと結婚式をあげるんだ!」
 アメリアはその言葉に思考を止めた。目を見開いたまま硬直するアメリアの姿をみて、エドガーはようやく冷静さを取り戻し、それから「しまった」と顔をしかめた。
「なんですって? 結婚式? そんな話聞いてないわ! 誰からも!」
「それは……その」エドガーは言いづらそうに頭をかいた。「口止めされてたんだよ。君のご両親から。きっと使用人も知ってて言わないように指示されてるよ」
「一体どうして!? 教えてくれれば――」
「だって参加するだろ? それに、もしかするとまた前回みたいな事故が起こるかもしれない」
「ええ、もちろん参加するわ。もちろんね。それにしたって本当に呆れたわ、みんなわたしの味方みたいな顔して裏側ではそんなことを企んでいたのね」アメリアは落ち着きなくツカツカと辺りを歩きまわった。エドガーはそんなアメリアを眺めながら小さくため息をついた。「困ったことになったな」
「これも君を思えばこそだよ。アメリア、どうか頼むから今からでも聞かなかったことにしてくれないか? 第一、今更エドワーズ卿に会いに行ってどうなるっていうんだい? まさかアンナから奪うつもりなのか? そんなの無理に決まってる」
 アメリアはくるりと振り返ってはっきりと答えた。その瞳にはもう戸惑いの色はなかった。
「そんなことしないわ。わたしはただ――会いたいだけ」咄嗟に口をついた言葉は揺るぎない本心だった。言葉はすとんと腑に落ちて、途端に心の霧が晴れていくような気がする。アメリアは思わぬ言葉に目をパチパチとして、それからどこか安心したような笑みをうかべた。
「そうよ……わたし、ディランに会いたいの。ああ、そういうことだったのね。やっと気づいた。わたしやっぱりディランのことを忘れるなんてできない! わたしはあの人のことを心の底から愛しているんだわ、誰よりも!」
 その途端アメリアの瞳はまばゆいばかりの輝きを放った。どんな宝石よりも鮮烈に、まるでそれ自体が光を放っているみたいだ。心は久しぶりにあるべき場所を取り戻した喜びに満ちあふれている。誰になんと言われようと、どれほど忘れようとしたって到底忘れるなんてできない。
 久しぶりのこの感覚は死にたくなるほど苦しくて、それでいて抱きしめたいほど愛おしくて仕方がない。
 アメリアは柔らかな笑みとともにエドガーの瞳を見つめた。 
「エドガー、ごめんなさい。わたしやっぱりあなたと結婚はできない。わたし……やっぱりディランが好きよ。どんなに言われようと、わたしはあの人を愛している」
「……そんなの君が苦しむだけだ」
「苦しんだって構わないわ。だってこの感情はわたしのものだもの。痛みも苦しみも何もかもをわたしは受け入れてみせるわ。だって恋ってそういうものでしょ?」
 エドガーはアメリアの瞳に自分と同じ炎が浮かんでいるのをみて、肩をすくめて大きなため息をついた。

 アメリアは家に帰るなり母の元へ向かい高らかに宣言した。また昔の愚かな自分が顔を出したけれど、そんなこと恥とも思わなかった。それよりも心は明るくて、久しぶりに生き生きとした笑顔をその顔に浮かべていた。
「お母さま、わたしアンナの結婚式に参加します」
 母はそれを聞くなり驚愕の表情で目を見開いた。手にしていたグラスがガシャンと大きな音をたてて床にぶつかる。けれどエレンはそんなことまるで気にせず、アメリアに詰め寄った。
「アメリア――それをどこで――? それがどういうことだか分かっているの? どうしてわたくしがあなたに伝えなかったのか察してくれませんか?」
 けれどアメリアの答えは変わらなかった。まっすぐな瞳で母を見つめかえすとはっきりとした声色で宣言する。
「いいえ、お母さま。わたしは行きます。もしこれが罪だとしても」

第二十二章 三話

 そう決めてからのアメリアはいつにも増して元気と明るさに満ちあふれていた。まるで今までの息苦しさが嘘のようだ。白黒だった世界にはようやく色が戻った。長い冬が明けてようやく大地から新芽が伸びてきたみたいに、アメリアの心は穏やかで、それでいてたしかに燃えていた。
「どうして今までこんな簡単なことに気がつかなかったのかしら?」アメリアは上機嫌で度々自分に問いかけた。
 感情を偽ることは自分自身を否定し続けることだとようやく気がついた。たとえこの先に幸せがないとしても、それが一体何だっていうのだろう。自分の心を騙し続けて、何もなかったかのように生きるなんて、本当に生きているといえるの? 平穏で暖かいシェルターに閉じこもって、死んだように生きることがわたしの望みだったの? そんなのきっとつまらない。
 何も得るものがなくたって、その先に苦しみしか待っていないと知っていたって、この感情を、気持ちを、なかったことになんてできない。たとえそれが罪だとしても。
「なんだか不思議な気持ちだわ。鏡なんて毎日見ているはずなのに、まるで別人に見える」鏡の中の自分は今までみたどの自分よりもまばゆく輝いている。けれど使用人たちはそんなアメリアをどうにか押しとどめようと必死だった。
「アメリアさま、一体どうなさったんですか? こんなの、まるで……」ソフィーはどうしたらいいのか分からない顔をして問いかけた。
「少し前のわたしの方がよかった? けれどね、わたしはもう死んだように生きるのはやめたのよ」
「ですが、アメリアさま……ご自分だって分かっているでしょう? きっとその方が奥さまも旦那さまも安心するに違いありません。それに、エドガーさまだって悪いお人じゃないじゃありませんか、今からだって遅くありませんよ」
「いやよ、だってわたしエドガーのことなんて好きじゃないもの」ぴしゃりと言い放つアメリアに、もやは未練なんてものはみじんもなかった。
「……まさか今日も本当に行くつもりなんですか?」
「きっとみんな驚くでしょうね。わたしがディランに断られたのは周知の事実だもの」
「驚くなんて言葉では言い表せないでしょうよ。アメリアさま、この際だからはっきり申し上げますけど。アメリアさまの思うようなことは起きませんよ。また辛い思いをなさるだけです」
「わたしが思うようにって?」アメリアは鏡をのぞきこみながら聞き返した。鏡に映る自分はあまりにも魅力的で、思わず小さく笑みがこぼれた。きっと誰もが目をとめずにはいられないだろう。アンナがどれほど着飾ったってわたしの輝きには到底かなわないと確信できる。
「はっきり申し上げますけど」とソフィーは二回目の忠告をした。「つまり都合良くアンナさまのことを捨ててアメリアさまと一緒になる未来がくるわけないということですよ」
 ソフィーの心配にアメリアは吹き出して笑い、鏡越しにソフィーの顔をみた。ソフィーは不満を絵に描いたような表情でアメリアを睨みつけている。
「大体、もう懲りたんじゃなかったんですかね。いまだに人の婚約者にちょっかいを出そうという気概があるなんて、まったく信じられませんよ! ご自身の罪をしっかり自覚したんじゃなかったんですか? その挙げ句、幸せな二人を邪魔しようだなんて……」
「ソフィー、わたしはね。そんなこと本当に思ってないのよ。きっと信じてくれないだろうけど、わたしは二人の邪魔がしたいわけじゃないの。ええ、そんなこと本当にどうでもいいわ。わたしはただ愛しい人を一目みたいだけ、それってそんなに悪いことかしら?」
「一目見るだけで終わればいいですけどね。その一目が何に繋がるかは想像に難くないですよ。オルコットに言ったらその一目が不貞に繋がると断言されることでしょうね。わたしだってそこまでの想像はしたくありませんけど、きっと良くないことが起こるというのは想像できますよ」
「まぁ、そうかもね。一言も喋らないなんて約束はしないし、そのチャンスがあるならわたしはきっと思いを伝えるわ」
 その返答にソフィーはますます顔をしかめた。
「何が邪魔がしたいわけじゃない、ですか! そういう気持ちが少しでもあるのなら、わたしは絶対に認めませんよ! 言語道断です! 往生際が悪いにもほどがあります。きっと奥さまもお許しになりませんよ!」
「別にわたしの気持ちを伝えたっていいでしょ。どうせ同じ結果が返ってくるだけよ。わたしだって、そうそう自分に都合のいいことが起こらないってことは分かってるんだから」
「その通りですよ。アメリアさまの思い通りになんてなるものですか。分かってるならおやめになってくださいませ」とソフィーは言ったが、本心では「もしかすると」と思わずにはいられなかった。ここのところのアメリアは同性のソフィーから見ても危険な美しさに満ちていたのだ。この輝かしい魅力がどう作用するのかはわからないけれど、もしもそんなことになったらなんて想像もしたくない。人の婚約者――しかも結婚式を控える――をスレイター家の娘が奪ったなんて広まったならそれこそ一家の名誉にも関わってくる。ベネット家がどんな報復にでるかもわからないし、それに間違いなく社交界からは締めだしをくらうだろう。恐ろしい話だ! スレイター家には未婚の女がまだ二人もいるというのに。
 そう思うとソフィーはゾッとして声をあげた。
「やっぱり認めるわけにはいきません! アメリアさまに少しでもやましい心があるというのならなおさらのことです! ご友人の幸せを願っているならまだしも……」
「認めてもらわなくたって結構よ。この両足は行きたい場所に行くためにあるんだからね」アメリアは身支度を終えて、ソフィーに向き直るとはっきり宣言した。「とにかくわたしは参加します」それからアメリアは真っ赤なドレスを大きく膨らませて部屋を出た。窓は開け放たれて廊下ではレースのカーテンがパタパタと舞っている。そこから吹き込む風はひんやりとして透き通っているみたいだ。
 ソフィーはアメリアの後に続いた。 
「そこまでして何を望んでいるっていうんですか」
「だから、ただ会いたいだけよ。恋人になるとかならないとか、誰と結婚するとかどうでもいいの。わたしはただ会いたいの。その後どうなるのかは分からないけど……。別にわたしのことを見てくれなくたって構わないわ」
「ですが――」
「それすら許さないっていうの?」
「――ええ、許されません。やっぱりやめましょう、アメリアさま。そりゃ、倫理的にいっても許されるべきじゃないと思いますけど……。わたしはアメリアさまを心配しているから言っているんですよ。何しろ先日もボヤ騒ぎを起こしたばかりじゃないですか。あれと同じくらいの衝撃を受けたのなら、今度こそとりかえしのつかない結果になったっておかしくありません」
「つまりわたしが死ぬかもって言いたいわけね。そうかもね。わたし、昔からひいお祖母さまにそっくりだと思ってきたの。同じように愛しい人を空目して海に沈んだっておかしくないわ」
「縁起でもない! なんてことをおっしゃるんですか! そんなことをおっしゃるのならなおさら許すわけにはいきませんよ!」
「だから許されなくても行くのよ」
 アメリアはソフィーを睨むと足を止めることなく階段へと向かった。
 階段の下には母が立っていた。不安そうに小さな両手を揉みながら、眉を下げている。その肩は不吉な予感を抱いて小刻みに震えていた。
「アメリア、本気なの?」
「お母さま……。別にわたしはアンナの邪魔をするつもりはないんです。確かにアンナは嫌いだけど――どうか許してください。ただ女友だちの晴れ舞台に参加するだけです」
「けれど奥さま、どうせ大変な結果が待っているに違いありませんよ。わたしは絶対に反対です。アメリアさまときたら何をしでかすか分かったものじゃありません。それに、この間の件もありますし……。ダーシー先生にあまり刺激しないようにと言われていたから招待状もアメリアさまの目につかない場所に隠したんじゃありませんか! ここでアメリアさまの参加を許してしまえばすべて水の泡です!」
 ソフィーはエレンの足元にすがりつかんばかりの剣幕でまくし立てた。エレンはその言葉に何度か頷いてから口を開く。
「――そうね、アメリア。わたしも反対です。幸せな二人に水を差すべきじゃないわ。昔から言っているでしょう? 人の恋路に口を挟むべきではありません。それにソフィーのいうことももっともですよ。この間ひどい目にあったのを忘れたんですか?」
 アメリアはそんなこと関係ないとばかりに玄関へ進んでいく。母の言葉を無視して扉に手をかけたその瞬間、オルコットはアメリアの手首を掴んだ。どうやら怒り心頭らしくて、顔は真っ赤で手にこもる力もすさまじい。手首がきしむ音を感じながらアメリアはオルコットを厳しく睨んだ。
「離しなさいよ。本当に失礼な人ね」
「いいえ離しませんとも! まだお話の途中でしょう。もっとも話し合いがどんな結末に終わろうとあたしは手を離すつもりはないですがね!」
 アメリアはむくれながら振り返り、軽くため息をついた。「きっと舞踏会が終わるまでわたしをここに縛り付けておこうって算段ね。いざとなったらオルコットの腕に噛みついてでもここを逃げ出してやる」
「アメリア、お願いですから考え直して。大体何をしにいくっていうの? どんな結末になろうとあなたが苦しい思いをするのに変わりはないわ。よく想像してごらんなさい」
「奥さま、何をしにいくかなんて火を見るよりも明らかですよ。アメリアさまはこの期に及んでまだあの男に未練たらたらなんですからねぇ! そうでもなかったらこれほどご自身を着飾るはずがないでしょう! どんな手段を使ったってあの男と接触して、うちの評判をズタボロにしようっていう算段でしょうよ。ああ恐ろしい。せっかく素敵なお心が目覚めたと思ったら途端にこれなんですから」
「オルコット、わたくしはアメリアを信じています。そんなことは決して起こりませんよ」はっきりと言い切ってからエレンはアメリアのことを不安そうな瞳でみつめた。「ですが……アメリア。わざわざ苦難に飛び込む必要はないのではありませんか? あなたがミスター・エドワーズのことを好いているの知っています。それからそれをひどく後悔していたことも。だからこそ、わたくしはあなたのことが心配でたまらないんです。一度は好いた人が他の女性と結婚するのを眺めるのはきっと苦しいことでしょう? わたくしはできることなら、大切なあなたに傷ついてほしくないのです。少なくともこの間のようにボロボロになったあなたを見たくなんてない。ここにいればいいでしょう?」
「いいえ、お母さま。わたしは参加します。だって、わたしは今もディランのことを愛していて、どうしても彼に会いたいから! もう心を偽るのはやめにしたんです」
 ソフィーは今にも気絶しそうになって階段の柱を掴んだ。
「会ってどうするというの? アメリア、まさかオルコットの言うとおり――」
「それはわからないけど……でもわたしはどうしても会わないといけない気がするんです。そうしないと絶対に後悔するって本能でわかるの。どうかお願いします、お母さま! 今日で最後にします。絶対に! わたしだってさすがに人の旦那さまに色目を使うつもりはありません。だから今日が最後のチャンスなんです!」
アメリアはエレンの前にひざまずき神に祈るみたいに両手を組んだ。エレンはその剣幕に気おされて思わず口をつぐんだ。
「お母さまはお姉さまに甘すぎます。お姉さまなんて勝手にすればいいのよ」しんと静まりかえるホールに響いた声はジョージアナのものだった。
 いつの間にか階段の最上段にはジョージアナが立っていた。その瞳はいつにも増して冷徹で小さな手には聖書が握られている。「お母さまも、お姉さまなんかに構う必要はありません」まるでその言葉は神の言葉を代弁しているようだ。
 アメリアはドレスについた埃を払いながら立ち上がると小さな声で悪態をついた。
「なんでこう次から次へと刺客ばっかり送られるのかしらね」
「そんなの決まってるじゃない。お姉さまが馬鹿な真似をしようとするからよ。お姉さま、お母さまを困らせようっていうならわたしが許さないわ。大体過去の男がなんだっていうの? また家に火をつけようって算段?」
「あなたには関係ないでしょ」
「いいえ、関係あるわ。お姉さまがまたこの家に泥を塗ろうっていうならね。わたしはそんなこと許せない。それにお母さまを苦しませるのも許せないわ。いい加減に、お姉さまの身勝手に付き合わされる身にもなってくれない? 最近は大人しくしているから我慢してあげようと思っていたけれど、もう我慢の限界よ。お姉さま、そんな馬鹿な行動はよして。それでも行くっていうならわたしは容赦しないわ」
「何をしようとしているんだか知らないけど、勝手にすればいいわ。退きなさい、オルコット。わたしは行くんだから!」
 ジョージアナはアメリアの態度に奥歯を噛みしめた。
「ならお姉さまは好きにすればいい。だけど二度とこの家に帰ってこれると思わないで! アメリアなんてもう姉でもなんでもないわ!」
ジョージアナは珍しく大声で叫ぶと手にした聖書を開いた。そして怒りのままに、家族欄に記されている「アメリア・スレイター」の名前を駕ペンで真っ黒に塗りつぶした。
「ジョージアナ、あなたなんてことを――!」
 その場にいる全員がジョージアナのことをみて青い顔をしていた。アメリアもその行動には少し驚いたけれど、だからといって悲しいと思うこともなかった。それよりもジョージアナのつくってくれたこの隙を有効活用するべく、アメリアは一人で外へ飛び出した。
 背後からは母の声が聞こえる。
「待ちなさい、アメリア!」
 
 まるで自分を縛り付ける重い鎖から解き放たれたみたいだ。空はどこまでも青く澄み渡っていて、爽やかな風が頬をなでる。アメリアは晴れ晴れとした気持ちで大地を踏みしめた。いつの間にか心を覆い尽くす白い霧は晴れて、心には快晴が広がっている。色の薄い草花の間からはみずみずしい新芽がのぞき、初春の力強い雰囲気を感じた。
 馬車の用意はなかったけれど、それならば歩けばいい。この両足は間違いなく愛する人に会いに行くために存在している。脳裏にはダーシー医師にこっぴどく怒られた記憶がよみがえったけれど、そんなことどうでもよかった。
 この足が二度と動かなくなったって構わない。
 きっと家の人間はみんなわたしのことを恥さらしだというでしょうけど。それがなんだというの?
 一歩歩みを進めるたびに心臓が痛いほど脈打ち、全身に活力がみなぎる。それは全身の血管という血管を駆けめぐり、無限の原動力となって体を突き動かしている。どうして今までこれほどの激情を忘れて暮らせたのかが不思議なくらいだ。全身を飲み込む激動は、ただひたすらに足を前へ前へと動かし、一秒でも早くあの人の元へ向かうようにと指示している。
 この激情は恐ろしいくらいで、今にも飲み込まれて消えてしまいそうだった。けれど構わない。たとえ燃え尽きて死んでしまうとしても、後ろ指を指されるとしても、最後のときに周りに誰も居なくたっていい。
 馬車の轍(わだち)を踏みしめながらかなり長い距離を歩いたが足の痛みは感じなかった。ディランに会うためならばたといどれほど長く険しい道のりでも乗り越えられる気がする。 

第二十二章 四話

〈ノーザングリット〉の堂々とした館から漏れる煌々たる灯りが視界に入るといよいよアメリアは逸る心を抑えきれなくなり駆け出した。全身で感じる風は心地よくて思わず笑いだしたくなる。
 先ほどの家での一悶着のせいでどうやらすでに舞踏会は始まってしまったようで、玄関ホールはがらんとして、招待客はおろか使用人の姿すら見えない。屋敷の中もしんと静まりかえって、時折、遠くからかすかに人のざわめきとワッと沸く歓声が聞こえる。アメリアはその賑わいに誘われるように大階段を駆け上がった。廊下を進み、サルーンへと急ぐ。ざわめきが大きくなるたびにアメリアの心臓も呼応するように心拍を早めていく。
 ついにアメリアがサルーンに足を踏み入れると、会場の視線は示しあわせたみたいに一斉にアメリアに向かった。壇上で悦に浸っている無精髭の市長だけが唯一先ほどまでの調子で能天気な演説を繰り広げている。けれど次の瞬間にはオールポート市長も演説を中断せざるを得なくなった。会場には一瞬だけ集中した沈黙が訪れ、次の瞬間には爆発しそうなざわめきが広がる。
「皆さま! どうかご静粛に! 今晩のパーティーにレディが一人増えたからといってそれほど殺気だつ必要がどこにありますかな――さぁ――」市長の言葉はもはや誰も耳に入っていない様子だ。
 今や会場はほとんどパニックに陥っていた。あちこちで招待客たちは大声でわめきたてている。一体どうしてアメリアが? 一体なんのために? たしか手痛い報復を食らったはずでは? よくものうのうと顔を出せたものだ! あの恥晒しが帰ってきたのだ!
「誰かミス・スレイターをつまみ出しなさい! ああ、本当になんて娘なんでしょう! ここのところなりを潜めていると思ったらまさかこんなことをしでかすとは!」ヘンダーソン夫人は手にした扇子を折りそうなほど両手に力を込めた。ざわめきの中では夫人の声なんてほとんど通らなかったけれど、それでも言わずにはいられなかった。「それもわざわざこれほどめでたい日を狙ってやってくるだなんて、淑女として、いいえ、人として見下げはてた人ですこと!」
 声の限り叫ぶヘンダーソン夫人の背後で誰かがぽつりとつぶやいた。その言葉は波となって瞬く間に会場全体に広がった。
「でも、綺麗だ」
 誰もがアメリアの途方もない輝きに目を奪われ、釘付けになっていることに気がついてヘンダーソン夫人は奥歯を噛みしめた。アメリアの緑の瞳にはたしかな自信がきらめき、全身から活力が満ちあふれている。
「ディランはどこ?」
 人はまるで壁のようでアメリアの身長では会場すべてを見回すなんて不可能だった。なんだかこの人混みは最初に出会ったときのことを思い出した。たしかそのときも同じくらい激しい人混みで、渦中の人物を拝むなんてできなかった。ああ、だけど思えばあのときからわたしの人生が動き出したのよ。
アメリアは椅子を台にしてテーブルの上にのぼるとサルーン全体を見回した。なんだか人の頭が下にあるのは不思議な感じだ。誰もがアメリアのことを見上げ、良家のご婦人たちは怒りでわなわなと肩を振るわせている。それから娘たちはスキャンダルにきゃあきゃあと声をあげ、紳士たちはひとしきりアメリアの美しさに酔いしれている。
ぐるりとサルーンを見回して、心にしっかりと刻まれたその人の姿が見当たらないことに気づくとアメリアは小首をかしげた。それどころかアンナまでいない。
 いつの間にか会場は何かが起こる期待にしんと静まりかえっていた。嵐の前の静けさのような静寂を破ったのはヘンダーソン夫人だ。
「だ、誰かあの女をつまみ出しなさい!」普段よりも二トーンは高い声がサルーンに響き渡る。
「ディランがいないならこんなところに用はないわ。言われなくたって出ていくところだけど……」
 それからアメリアは全員が自分に注目していることに気がつき、気分をよくしてにんまりと微笑んだ。これほど注目されるのも久しぶりだ。ここのところずっと大人しくしていた分の鬱(うつ)憤(ぷん)がたまっていたし、それに今日は記念すべき日だ。少しくらいのサービスがあったっていいわね。
 アメリアは小さく笑うとテーブルの上で片足引き、ドレスの裾をつまんで民衆に完璧な挨拶を披露してみせた。それは間違いなく今世紀で最も可憐で優雅で心に残る挨拶だった。その瞬間、会場のボルテージが跳ね上がり、もはや誰であろうとどうしようもない段階にまでになった。あちこちで悲鳴のような歓声があがり、アメリアのとんでもない態度に気の弱いご婦人は気絶しかけ、そのパニックが会場に連鎖していく。
 いつの間にか隣にはエドガーがいて、テーブルをおりるアメリアに手を貸した。
 エドガーの瞳は呆れと感心が入り交じっていた。
「まさか本当にくるとはなぁ。姿が見えなかったから、きっと諦めたんだろうと思っていたんだ。それどころか、まさかあんなパフォーマンスまでやってのけるなんて。君はいつだって想像を超えてくれるな」
「わたしが注目されるのも話題にされるのも大好きだって知ってるでしょ?」
「ああ、根っからのスター気質だ。だけど今日ばかりは早く逃げた方がいいよ。ヘンダーソン夫人が正気に戻ったら今度こそ社交界を追放されるだろうからね」
「ありがとう、エドガー」
 エドガーはアメリアの瞳をのぞきこんだ。その表情は不満げな子供のようだ。
「なぁ、アメリア。本当にエドワーズ卿に会うつもりかい?」
「ええ、そうよ。ここにはいないみたいだけど、きっと見つけてみせるわ」
 アメリアの声は生き生きとして希望に満ちあふれている。この間の表情がまるで嘘みたいでエドガーは小さくため息をついた。正直、心の整理なんてつかないし、エドガーはいまだにアメリアを心の底から愛している。その返答を聞くだけで嫉妬や恨みが心を埋め尽くそうとしたけれど、アメリアの屈託のない笑顔をみればそんな気持ちもどこかへ消えてしまった。
 エドガーはサルーンを後にしたアメリアの背中を見つめながら心の中で呟いた。
「それにしたってエドワーズ卿がうらやましいな。ま、なんにせよ……アメリアの企みが失敗したなら今度こそ傷心につけこもう。だけど、直感だけで言うなら僕が出る幕もなさそうだ」なんだか今日のアメリアはいつにも増して愛らしくみえた。
 サルーンを出るとアメリアの足はまっすぐに庭園へと動いた。何も知らないはずなのに本能でそこにいるとわかる。背後から聞こえるサルーンのざわめきはますます大きくなり、オールポート市長がどうにかして聴衆をなだめようとしている声が聞こえた。でも、きっともう何の意味もないだろう。皆の脳裏にはアメリアの姿がこびりついてしまって、夢の中でも先ほどの光景が再生されるに違いない。
 もうアメリアを縛りつけるものなんてなにもない。心はどこまでも軽く、澄み渡り、たった一つの願いのためだけに全身の細胞が声をあげている。
 ああ、廊下がこれほど長いのが恨めしくてたまらない! アメリアは力の限り廊下を走り、いくつもの客間や絵画を通り過ぎて、そしてついにたどり着いた。
 この長い長い旅路の最後に、ついにあなたのもとに! 
 ガラス張りの両開きのドアを開き、アメリアは庭園に飛び出した。
 そこには夢にまでみたディランが立っていた。いつもの堂々とした態度も、自分を力強く抱きしめてくれる逞(たくま)しい両腕も、厚い胸板も、思わず心臓が飛び跳ねそうになる黒い瞳も何もかもが懐かしくて思わず涙が出そうになる。
 いろいろ言いたいことはあったはずなのに、そんなことまるっきり思い出せなかった。ただ、呼吸をするだけでも精一杯なほど胸が一杯になって、苦しくて、どうしようもなく愛おしい。
 ディランは力強い瞳はまっすぐにアメリアのことを捉え、アメリアの鮮やかな緑を食い入るように見つめている。二人の視線は自然と絡みあい、その瞬間、爽やかな風が二人の間を駆け抜けた。庭園はどこまでも静かでまるでこの世界に二人きりのようだ。かつて大勢を虜にした両方の目はただ一人だけをじっと見つめている。そこには愛しい人に出会えた喜びがありありと浮かんでいた。
「君の瞳は時々雄弁すぎるな」ディランはアメリアの瞳を眺めていつものような笑みを浮かべた。
「久しぶりね、会えてうれしいわ」心臓がとくとくと小さく、しかし速く脈打つ。
 ああ、どうしよう。まるで言葉にならない。言いたいことが頭のなかで渋滞しているみたいだ。今までどうやって話していたのかもわからなくて、アメリアは目を伏せながら照れくさい笑みを浮かべた。
 ディランはそんなアメリアを見て、優しく微笑むとその手を差し伸べた。
「せっかくだ。歩こうか」
 二人はいつかのように肩を並べて歩いた。
 庭園には色とりどりの花が咲き乱れ、それは見事な景色だったけれどアメリアの瞳にはディランしか映っていなかった。なんだか夢でも見ているようでまるで実感が湧かない。それでも、つながれた手のたしかなぬくもりがこれは現実であると伝えている。
「まさかここまでくるとは思わなかった。スレイター夫妻はどうやって言いくるめたんだい? それにあの手厳しい女中頭が黙ってないだろう」
「それどころじゃないわよ。ソフィーもジョージアナも猛反対なんだから。挙げ句の果てには御者も馬車を用意してくれないんだもの」
「それじゃあここまで歩いてきたっていうのかい? 相変わらずやることなすこと無茶苦茶だな」ディランは肩を揺らして笑った。
「だって――どうしてもあなたに会いたかったんだもの。馬車を出してくれないっていうなら歩くしかないでしょう? わたし案外体力はあるのよ」
「知ってるさ。夜通し踊ったってまるでへばらない。付き合う方が大変ってものだ」
「でもあなたは一度だって疲れた顔を見せなかったわね。エドガーなんてあれほどわたしと踊りたがるくせにすぐに疲れてテラスや庭園に行きたがるんだから」
「そんなこと、知っているだろう。わたしは君を見せびらかすのが好きなんだよ。それから君が分かりやすい挑発を繰り返すのも楽しくてたまらない」
 そう知っている。この人がわたしをどう思って、どれほど大切にしてくれたのか。どこに愛情を感じて、どこを好ましく思っているのか、何もかもを知っている。
「そうだわ、わたし、謝らないといけないことがあるの……。この間、うちでボヤ騒ぎがあったのは知ってるでしょう? そのときにわたしの不注意でドレスが全部燃えてしまって……せっかく贈ってくれたのにごめんなさい」
「別にそんなこと構わないよ。それよりも君が焼かれるようなことがなくてよかった。それにしたって君は誰か助けてくれる人がいないと早死にしそうだな」
あなたが側にいてくれればいいんだけど。と言いかけて口を開いたけれど緊張で言葉はでてこなかった。
「……美人は薄命って太古の昔から決まっているわ」
「それもそうだ。だから君が途端に自分をあらためたと聞いたときにはついに命を大切にするつもりになったのだと感動したものだ。美人っていうのは少なからず世間知らずで破天荒で突拍子もない人間しかなれないものだろう? それで、アメリア。ここにいるってことはつまらない演技は終わりにしたのか?」
「ええ、そうよ。あまりにも退屈だったものだから。それなりに好評だったんだけどね。でもわたし短命でもいいから輝いていたいわ」
「ああ、だから君はこれほど魅力的なんだろうな」
 ディランの瞳は本当に愛おしい存在を見つめるかのように細まった。
 二人でいる時間はあっという間に過ぎていく。庭園が終わりに近づくにつれて、アメリアの心臓は比例するみたいに冷たくなっていった。次第に歩幅は小さくなって、ついには足が止まった。
「ああ、どうしよう。庭園が終わってしまう。せっかくあなたに会えたのに。こんなところでお別れなんて絶対にいやよ」
アメリアは震える両手を抱きしめてディランの広い背中を見つめた。冷たい心臓が小さく脈動を繰り返す。それに、わたしは本当に大切なことをまだこの人に伝えていないわ。一瞬だけ頭の中にこの前の苦しい記憶がよみがえったけれど、気がつけばアメリアは声をあげていた。 
「待って!」
 アメリアはディランに駆け寄ると両手を握って、その瞳を見上げた。
「ディラン、わたし――あなたのことを愛しているわ」
 ディランの瞳は思わず泣きたくなるほど優しい。分かっているわ。この人は本当に優しい人よ。どれだけわたしのことを大切に思ってくれているのかもわかっている。どれだけわたしの幸せを願ってくれているのかもわかっている。でも、だからこそ踏ん切りがつかないというのなら――。
「アメリア……どうか分かってくれ。君なら幸せになれるはずだ」
「いやよ! 誰が分かってやるものですか! あなたなしでどうやって幸せになれるっていうの!?」
「君から当たり前の幸せを奪うわけにはいかないんだ」まるでその声色は自分に言い聞かせているみたいだ。
「わたしの幸せはすべてあなたに預けてしまったっていうのに、いつからあなたはそんなにいい人になったの? ええ、たしかにあの日のわたしは愚かにもメアリーの手を取ったわ! 唯一の味方がいなくなるのが怖かったからよ。だけど、でも、あなたと離れて気づいたの! わたし、あなたさえいれば他に何もいらない! 誰になんと言われようと、わたしはあなたのことが誰よりも好きで好きで仕方がないの!」
 心臓があまりにも大きく脈打つせいで自分が何をわめいているのかすら分からない。だけど、これは偽りようのない本音だ。
「わたしがどれほどあなたを恋い焦がれているか知らないわけではないでしょ!? ええ、知らないなんて言わせるものですか!」
 アメリアはいつの間にか瞳に涙をためていた。今にも目尻からこぼれようとする水滴は光を屈折させてそれ自体が一つの宝石のようだ。
「アメリア……」
 ディランはただ苦しい顔をするばかりだ。だけど、アメリアはその瞳にかすかな葛藤がにじんでいるのを見逃さなかった。
「あなただってそうだったはずでしょ! ええ、わたしはあなたがどれほどわたしを愛しているのか知っているわ! あなたが忘れたっていうのなら何度だって思い出させてやるわ!」
 瞳はゾッとするほど輝き、それにつられてディランの瞳にもチリチリと熱が灯る。アメリアはディランのシャツを掴んで荒々しくキスをした。それは子供がするような技工も何もない、頭突きのような代物だったけれど、唇を通して生じる感覚はあの日と何の変わりもなかった。
「わたしはあなたのすべてを覚えているわ! あの日みせた執着も、心が通じ合う快感も、笑顔も、何もかも! あなたの思いはその程度なの!? ちょっとした不安で簡単に手放せるような代物なの!? わたしは……わたしは……」
 アメリアはついに感極まってアメリアの厚い胸板に顔をうずめて泣きじゃくった。
 いつもと変わらない優しい匂いが全身を包み込む。
「君は本当にキスが下手だな……」
 それからディランはアメリアのことを抱きしめた。そうよ、この感覚も知っているわ。なんだか窮屈で、それでいてどこよりも安心する場所。
 ドクドクと耳の中で音がする。心臓がどうにかなってしまいそう。頭はクラクラして、足から力が抜けるけれどもう一人で立つ必要なんてどこにもなかった。
「わたし、あなたが好き」アメリアは涙声で必死に言葉を紡いだ。
「本当にわたしでいいのかい?」ディランの優しい低音が耳に響く。その言葉は甘くて、静かに心の内を侵食するような麻薬だった。身体が溶けてそのまま飲み込まれてしまいそうな高揚感の中、アメリアは体をディランに預けてゆっくりと目を閉じた。
「あなた以外に考えられない」
 ディランの心臓の音は暖かいぬくもりと力強さに満ちている。その瞳にはアメリアと同じ熱が浮かんでいた。二人の視線が絡みあうたびにその熱は勢いを増していく。
 アメリアは潤む瞳で必死にディランのことを見上げた。
「君は本当にかわいいな」
 どちらともなく唇と唇が重なる。そのたびに全身をすさまじい歓喜が駆け巡る。唇が触れるたびに全身の細胞が歓喜に湧き、繊細な感触が脳を焼いていく。頭は甘く痺れてふわふわと宙を漂っているかのようだ。キスを落とされるたびに全身にゾクゾクとしたものが流れ込み身体を内側から冒されていくのがわかる。
 気がつけば足から力が抜けて、アメリアはディランに抱きかかえられていた。まるで全身が蹂(じゆう)躙(りん)されるような途方もない快感にアメリアは目を静かに目を閉じた。だからかもしれないけれど、次のディランの言葉はあまりにも鮮明に脳に届いた。
「アメリア、愛している」

第二十三章 一話

 あの日、舞踏会に参加した人はもちろん、さらにはその噂を小耳に挟んだ人も誰もがこの話は大層込み入ったものになりそうだと囁きあった。そしてそのうちの大半は、ミスター・ベネットかディラン・エドワーズのどちらかが撃ち殺されるまでこじれるに違いないと予感した。
 何しろ紛れもない良家の淑女であるアンナ・ベネットが不当な理由で婚約を解消され、その挙げ句あのアメリア・スレイターと一緒になろうというのだから。そのくらい劇的な結末が待っていてもおかしくない。
 アメリアはそんな恐ろしい噂を耳にして恐怖で眠れなくなりそうだったが(本当に撃ち殺されてもおかしくないのに、ディランはいつも通り飄(ひよう)々(ひよう)としていた)、現実には案外あっさりと決着がついた。
 ミスター・ベネットとディラン・エドワーズの間ではたった一回の話し合いがあっただけだ。そこでいくらかの慰謝料を渡し――ちなみにとんでもない大金らしい――事態はあっさりと収束した。てっきりディラン・エドワーズの死体があがるとばかり思っていた民衆は拍子抜けして、あまりにもつまらない終結にこのスキャンダルはすぐに忘れ去られた。
アンナはあれから例の将校アンドレイ・アッカーと正式に婚約を結んだ。ディランと比べると見劣りする経歴だったけれど、これもことのほかあっさりと決まった。というのも、ベネット夫妻は娘が婚約破棄なんてされたら一巻の終わり! もうもらい手なんてあらわれやしないと嘆いていたので、そこに救い主のようにあらわれたアンドレイは都合がよかったのだ。常に収入や家柄を気にするミスター・ベネットも二つ返事で了承するしかなかった。この期を逃せば次にいつ神が救い主をつかわせるかもわからない。今にして思えば、アンナは初めからそういう計画をもって動いていたのかもしれない。
 それから目ざといアンナはもちろんディランとの縁も最大限有効活用するつもりだった。
 アンナはアンドレイと結婚すると二人でアンドレイの故郷であるフランスに移り住み、家業の寂れたブティックをまたたく間に復興させた。当然それにはまとまった金額が必要で、その出資者となったのがディラン・エドワーズだ。だけどどうやら施しは気に食わないらしくて売り上げのいくらかはディランの懐に入るような契約になっている。
「それにしたってあの才気は本当に恐ろしいくらいだな。きっと数年もしないうちにサントノーレ通りに二号店を構えるはずさ」
リックはどうにか苦しみを乗り越えてついにエスター・レミントンと内々に合意に至った。けれど、どちらもあまりにも奥手なのでそれを互いの両親に伝えるのはあと三年は時間がかかるだろう。それから、出会いがないのはエドガーだけど、彼はかなり人気者なのでリックとエスターがもたもたしているうちに誰かいい人を見つけるだろうというのがアメリアの見たてだった。もっともアメリアの毒が抜けるにはしばらく時間がかかるけれど。
 それからアメリアとその家族は相変わらず国交断絶状態だった。アメリアは特に気にしたこともなかったけれど、エレンはかなり気に病んでいるようで、定期的に「ジョージアナはああ言ったけれど、帰ってきてもいいのよ」という内容の手紙が届く。アメリアはその手紙が届くたびに母の優しさを懐かしく思い、「わたしは元気にやっています。どうか気に病まないでください」と短い返信を書いた。
 アメリアとディランは婚約してからちょうど一年後に結婚式を挙げた。その夜のことは今でも鮮明に覚えている。
 この日、アメリアは朝から(なんなら一週間前くらいから)有頂天で、夜になるころにはすっかり心地いい疲労が体にたまっていた。それで、いつものように寝る前の挨拶をして自室に帰ろうとした。
「アメリア、今日はこっちだ」
 ディランは目を細めながら、手のひらを差し出した。それからわけも分からないままに手をひかれ、アメリアはしばらくきょとんとしていたけれど、その足がディランの部屋の前で止まるとさすがにその意味を理解した。
「まさか同じ部屋で寝るってことなの!?」アメリアは顔を真っ赤にして硬直した。たしかにお母さまもお父さまも同じ部屋で過ごしていたけれど、それが自分に訪れるとは今この瞬間までまったく想像もしなかったのだ。
 それからアメリアは新婚の夫婦がやる儀式的なあれこれを想像して、何の想像もつかないことに絶望した。知っていることといえば、二人で一つのベッドを使うことくらいだ。
 普通であれば結婚する前に母親から、そういう事柄についていくつか教わるようなものだったけれど、何せアメリアは家に帰っていなかったので、先人にこれからするべきことについて教えを受けることもなかった。ともすれば、夫婦のあれこれは全てディランに任せるしかなくアメリアは未知の行為に期待と不安で胸がいっぱいになった。
「こんなことなら事前に情報を仕入れておくんだった! お母さまじゃなくたってソフィーからでも、もしくは生意気なジョージアナからでも、先に結婚したメアリーにでも聞けることじゃない!」 
 けれど結論からいうならその不安は杞憂だった。
 ディランはアメリアに詳細を話して怯えさせることも、自分の欲望に任せて身勝手に振る舞うこともなかった。それに、アメリアが恐怖や痛みや恥じらいを感じる余裕なんてほとんどなかった。アメリアは訳もわからないうちに、ほだされて、甘やかされて、容赦なく快楽の海に沈められていた。辛うじて覚えている感覚は心の奥底が満たされる恍惚とする感覚だけだ。 
 アメリアは目を覚ますと昨晩の自分の痴態を思い出して顔を真っ赤に染めた。
 ディランの背中には恐らく自分が付けたひっかき傷が残っていた。

第二十四章 一話

 三人は庭園の茂みに身を隠して座っていた。
「お姉さま……。それってお母さまのものじゃないの?」
 少女はひどく言いにくそうに質問した。まるでそれが姉の逆鱗に触れると分かっているかのような口ぶりだ。姉の首には不釣り合いなほど大きなルビーの首飾りが重たそうにかかっている。
「バレたら怒られるっていいたいの? あなたが口を割らなかったらバレようがないわよ。いい? だからどれほどお母さまが怖くたって口を割ったら許さないからね。今日一日借りるだけよ。明日の朝には元の場所にきちんと返すんだから」
「でも、もしなくしたらどうするの? それでこの間こっぴどく叱られたのを忘れたの? わたしお姉さまの巻き添えなんて絶対いやだからね。お兄さまもなんとかいってよ。お兄さまだってこの間巻き込まれて怒ってたでしょ」
「だからって今更母さんに申し出ても結果は変わらないだろ。なら俺はバレない方にかけるね。それからこの件に関してはまったく知らなかったことにする」
「そもそもお母さまはちょっとごーまんなのよ。首なんて一つしかないのにとんでもない数のネックレスをもってるんだからね。わたしだってもう立派なレディーなのに、お父さまもまーるで相手にしてくれないし!」
「そりゃそうだろ。ちょっと前に六つになったばっかだ」
「それってレディーってことでしょ。それに、たしかにお母さまは昔はとんでもない美人だったかもしれないけど、すぐにわたしの方が上になるわ」
 姉は自信たっぷりにそう言い切った。
「それは楽しみだな」
 背後から聞こえたテノールに三人は小さな体をびくつかせた。特に一番うろたえているのは先ほどとんでもない豪語をした長女だった。彼女は素早く両手を胸の前で組むとその足元にすがりついた。
「お父さま! 今の言葉はお母さまにはぜったい内緒にしてください! そうしないときっと怖い目にあうわ。だって、お母さまときたらいまだに自分が絶対的な一番だと思っている節があるもの」
 ディランは楽しそうに笑うだけだ。それからディランは背後をちらりと見て、小さなパラソルを手に近づくアメリアを見つめた。その視線で子供たちは危機を察したようで、ハッとして立ち上がると庭園を駆けていった。
「ま、待って! お兄さま、お姉さま!」
 末の妹が遅れてその後を追いかけるのを愛おしげに眺めながら、ディランは背後を振り返った。
「実の母だっていうのに、これほどライバル視されているなんておかしな話だ」
 ディランはアメリアの腰に手をまわした。その手はいつも通りぬくもりに満ちている。アメリアは遠くに走り去っていく子供たちを眺めながら小さく笑った。緑の瞳は今日も星のようにきらきらと輝いている。
「それはそうよ、だってわたしの娘だもの。もちろんわたしには遠く及ばないけどね。でも、きっとあの子たちはいい線いくわよ」
「違いないね」
 庭先ではスミレの花がいっぱいに咲き誇り、春の爽やかな風が屋敷のカーテンをはためかせている。色とりどりの花の間を蜂が元気よく飛び回り、どこからともなくコマドリの鳴き声が響く。どこまでも続くような鮮やかな緑の平原には子供たちの屈託のない笑い声がこだましている。
 女中頭は屋敷の窓からその光景を眺めて柔らかく微笑んだ。
「お子さまがいらっしゃると賑やかでいいですね」


                                   (了)

あとがき

「恋」と「愛」の違いはなんでしょうか? 検索窓に「恋」「愛」と入れればサジェストの一番上に「違い」と出てきます。
 手持ちのスマホで調べたところによると、見返りを求めるのが「恋」で相手に見返りを求めないのが「愛」なんて言葉が書かれています。果たしてどうでしょう? 一見するとそれらしい言葉に聞こえます。わたしもかつて学校の帰り道で友だちに聞いたときには「なるほど! そういう違いがあるのか!」と思ったものです。
 けれど、なんだかあまりにも都合がいいような気もします。果たして恋愛における「愛」はそんなに穏やかな感情でしょうか? 植物に水をやるように一方的に与えて満足するでしょうか? 愛しているのなら、たとえどんな扱いを受けても許すしかないのでしょうか? 
 きっとサジェストの一番上にのぼってくるのも、数多くの人間が「これは愛なのか? 恋なのか?」と答えを求めてさまよった結果でしょう。
 わたしは両者に大した違いなんてないと思っています。というより、言語化すること自体がナンセンスです。感情をそのまま文字起こしするなんて到底不可能なんですから。けれど、「恋」と「愛」という二種類の言葉はたしかに存在しています。ということは、言語化できない気持ちはどちらかに当てはまるのでしょう。
 定義を決めるのは難しくても、自分の気持ちがどちらに当てはまるのかは簡単に分かるはずです。それは単純に「愛している」と思ったら愛なんです。それ以外は恋です。簡単ですね。
 つまり何をいいたいのかというと「恋 どうなる」とか検索窓に入れているようでは、まだまだ未熟ってことです。それが本当に運命の恋なら間違いなく本能でわかるはずです。何しろ根源的な感情ですから、分からないはずがないのです。
 もちろん人の数だけ愛の形があることでしょう。わたしはそれを否定するつもりはありません。なのでどうぞ今までの文章は忘れてください。
 けれどどうかこれだけはお忘れなく。アメリアはディランのことを愛していますし、ディランもアメリアのことを愛しています。 

 このたびはこの本をお手にとっていただきありがとうございました。
 読者のみなさまの心に、ほんの少しでも影響を与えられたのなら(それがいい影響であれ、悪い影響であれ)これほどうれしいこともありません。どうかアメリアの人生を楽しんでくれたと信じています。 


   絹地 蚕