【オリジナル】潮風に問う

概要

父が失踪した。 パリアンテ商人の策謀により極悪人に仕立てあげられ、シャルロッテすら居場所を追われる中、彼女はロウ船長に出会う。ついに英領アメリカへ流刑が決定し、ロウ船長の船に乗り込んだが、 逃げるように旅立った彼女を待っていたのは涙と苦難の連続だった。
――悪意の荒波にもまれながらシャルロッテは苦しみを乗り越えて成長していく。二ヶ月に渡る船旅が今始まる。

目次

第一章 一話

 ふと顔をあげると港特有の真っ青な空が頭上に広がっていてめまいがした。盗っ人のようにコソコソと下宿を抜け出したのはまだ月明かりが残る頃だったから、それなりの時間はここでぼうっとしていたのだろう。もしかしたら父の帰還を見逃してしまったかもしれないと思ってシャルロッテは船着き場をぐるりと見回したが、やはりそこに見慣れた船はなかった。その代わりに暗黙の了解で父の場所と決まっていたはずの場所には見知らぬスペイン商船がかれこれ一ヶ月も停泊している。
「お父さま……一体何があったの?」
 潮風に問いかけたって答えは返ってこない。
 いつの間にか港も目を覚ましたようで、裏路地に軒を連ねる娼館の女たちは眠たそうな顔で泊まっていった客をお見送りして、酒場や宿屋の主人はよろい戸を開けてまぶしい太陽に目を細め、船着き場で座り込むシャルロッテを見つけると意地悪な猫のような顔をした。
「昨日はずいぶん忙しかったらしいじゃないか。それでついに父親と同じ運命をたどる気になったのかい? ――ああ、怖い怖い! 父親が悪魔に魂を売ったんだとしたら母親は魔女だね。ほら、どうせ家の様子でも見に行くつもりだったんだろ。だったらさっさとおいき! さっき判事さんが憲兵と野次馬を山のように連れて行くのが見えたんだ。うまくやれば金目の物もいくつかくすねられるだろうさ! もちろん、そのときにはきっちり通報してやるけどね。ほら!」
 ほうきで突かれてシャルロッテはしぶしぶ立ち上がった。突然立ち上がったものだから立ちくらみがして照りつける太陽を呪いたくなった。普段なら分厚い灰色の雲に覆われてほとんど顔を見せないくせに心の沈んでいるときにばかりおちょくるように顔を出すのだから――なんてシャルロッテは思ったけれど、それは被害妄想もいいところでこの辺はいつだってこんな感じだし、それがこの土地の売りの一つでもある。
 シャルロッテがノルマンディーに引っ越してからもう八年がたったがいつまでたってもこの激しすぎる日差しは慣れやしない。年中フランスの上に覆いかぶさっている分厚い雲は一体どこに行ってしまったのだろう。きっとこの港には何かの魔法がかけられているに違いない。
 白い雲は一片たりとも浮かばず空はいつだって海と同じくらい青い色をしている。照りつける太陽は容赦なく、海の遠くにはいつだって発達した入道雲が見える。それから適度な潮風が陸に乗り上げ昼夜を問わずに潮風で枯れかけた植物の葉っぱを大きく揺らし、今日もいつものように華やかな貴族たちを乗せた馬車が――今出てきたところなのか、それとも帰るところなのか――広い一本道を悠々と進んでいく。まるでこの通りを馬車で闊歩することが人生で一番の名誉みたいな様子で。それもそのはず、いつだって日当たり良好で、空気が澄んでいて、港にやってくる世界各国の立派な商船やら軍艦なんかを望めるこの近辺は誰もがうらやむ高級住宅街だった。
 だけど大通りを歩きながらシャルロッテが思い出したのはこの住宅街の一角に住んでいたときのことではなくて――というより、言ってしまえばシャルロッテは引っ越し先は気に入っていなくて、八年間住み続けた今だって自分の家のような気がしないし、たいした思い出もない。人生の半分以上をこの土地で過ごしたって、いつだって夢に出てくるのはずっと前に売り払ってしまった旧家の方だった。
 かつての家はこことはほとんど正反対。めったなことでは馬車の一つも通らないような深い森の中にあって、いつでも分厚い雲が空を覆い尽くしていた。住まいの三マイル先には小さな村があって、そこにいくためにも馬にまたがって整備されていない森の中を進まなければならない。森はのどかで、あちこちに野草が生え、鹿やジリスや野生化した豚なんかが歩き回っている。村には三人しか泊まれない宿屋が一つとそれから小さな教会が一つあるだけ。宿屋はいつも閑古鳥が鳴いていて仕方がないのでシャルロッテが三つのときに一階を改装して酒場に作り替えてしまった。
 村にあるものといえばそれがすべてだ。ノルマンディーのようにいつでも人の声がする場所ではなかったし、豪華な馬車も華やかなドレスもなかったけれど、その分近くに住む全員が親戚みたいで困ったことがあればいつだって支え合って生きてきた。
 シャルロッテはしょっちゅう畑に座り込んで、レタスやクレソンの新芽が大きくなるのを見守り、時には野菜を狙ってやってきた野ウサギを追いかけまわして罠に誘導した。考えてみれば同年代の子供なんてあの集落にはいなかったけれど、自然は子供にとって無限の遊び相手だった。母譲りの絹のような金髪を土だらけにして畑に大の字に寝転び、そうして夕方になると父が森から帰ってくる。シャルロッテはこの瞬間が大好きだった。
 父は片手に猟銃を持ち、もう一方の腕で獲物を担いで、愛娘がおしろいの代わりに顔に土汚れをつけているのをみるなり「いつかは貴族令嬢となる娘がこんなに土で汚れおって!」と、怒鳴りつけながらがさつに頭をなでてくれた。父のガサガサした太い指で頭をなでられると決まって髪が絡まってひどいことになるのだけれど、その不器用な優しさが何よりもうれしかった。
 父は小さな食卓を囲みながら口癖みたいに「いつか貴族になったら――」と、繰り返した。今になって思えば、都会に出て娘を着飾るのがお父さまの夢だったのかもしれない。
 だから父は旧友のパリアンテから声がかかったとき、脇目もふらず飛んでいって、このノルマンディーに共同で会社を立ち上げるとまたたく間にこの地区一の大商人となった。その頃には母は病気でどこか遠くに行ってしまったから、シャルロッテはよく分からないままに父の足にすがりつきながらこの港町にやってきた。
 幼いシャルロッテにとってこの土地は退屈な場所だった。庭は旧家の十分の一ほどの大きさになってしまったし、強い潮風を浴びながら育つ植物なんてほとんどない。それに新しくもらった綺麗なドレスは園芸には不向きで、何かするたびに使用人に叱られた。同い年の子供たちは成金の子供だとか言いながら嫌がらせをして、シャルロッテのことを〝泣き虫シャルロッテ(プルニシヤール)〟なんて揶揄した。何よりシャルロッテは海が怖くて苦手だったのだけど、豪胆な性格の父はそういう細かいところにはてんで気が回らなかった。特にその頃はアヴニール号に惚(ほ)れ込んでいたからなおさら注意散漫だったのだろう――だが、シャルロッテはそんな父を間違いなく愛していた。

 大通りの喧騒はいつの間にかますます大きくなり、いまだに慣れない自宅の前に野次馬が集まっているのを見つけると気分が沈んで思わず座り込みたくなった。パラソルを手にした淑女も工業用油のひどい臭いをまとわせている青年も、とんでもない飲んだくれも、それから通り過ぎる馬車までもがまるでここが観光名所であるみたいに屋敷を見上げて邪推に花を咲かせている。
 鉄製の立派な門は開け放たれ、その前には二頭立ての荷馬車が三台止まっていた。そのうちの二台にはすでに柱時計やキャビネットが積まれ、今も力自慢の男たちが家の中から次々と家具や絵画を運び出している真っ最中だった。彼らを先導するのは立派な身なりの憲兵だ。
「さぁ、退いた退いた! そこのご婦人、一歩後ろへ! ああ、どうも!」
 御者台には昨日裁判で見かけた判事が座っていた。どうやら今日も正義より自分のちょびひげが気になるらしくて、親指と人差し指でずっと形を整えている。シャルロッテと目が合うと判事はただでさえ細い目をさらに細くした。
「これはこれは……ビリー嬢! 昨日はまことに残念な結果になりましたな。わたしとしてもかつての友がかのような悪事に手を染めていたとは――信じがたいを通り越して寒気すら覚えますぞ。あなたもあのような悪党のことはすぐに忘れなさい」
 どうやら相当もうけているようで、ジャケットのボタンはすべて金でできて、カフスには先日購入した金細工のピンが嫌味な老人の金歯みたいにきらりと太陽に反射していた。シャルロッテが思うにこれほどの悪人もそういない。昨日も思ったことだが、こうして光り輝く太陽の下でまじまじと見つめるとなおさら胡散臭く感じた。
「……わたしも残念です。お父さまがいない以上わたしが無実を証明するしかなかったのに」
 あんな裁判、子供のお遊戯にも満たない。最初から結末ありきの茶番だ。裁判に参加した者たちはみなパリアンテの息がかかった者たちばかり。しかもそれを隠そうともせずにテーブルの下で賄賂の金貨を転がしているのが丸見えだった。それに裁判について知らされたのも前日でこちらにはまともな弁護士を用意する時間すら与えられず、父の代理人として参加したシャルロッテが何を言おうと誰も聞く耳を持たないのだから。
「お父さまは無実です。第一、帳簿を見ればはっきりすることです。それなのにパリアンテさんの話ばかり鵜呑みにして、証拠もないのに断罪するなんて――」
「ふん。まぁ、それはあと三十分もすれば書庫から発見されますよ。それもかねてこうして押収しているのですからね。いやいや、それにしてもビリー商人はずいぶんと証拠を隠すのがうまいようだ。お嬢さんも言葉には気をつけた方がいい。もしかすると自室のクローゼットから言い逃れできない証拠が出てくるともしれませんからね。そうなればあなたにも厳罰が下ることになる」まるで判事の気分次第で証拠の場所が変わるかのような物言いだった。「それともいっそのことそっちの方が気が楽かね? 広場を陣取るギロチンは見たことがあるだろう。民も正義が執行されるのを心待ちにしているのだ。あそこでひと思いに頭を跳ね飛ばせば――はっはっは! いやいや、ただの冗談ですよ。奴の大罪は娘の命一つじゃ軽すぎるくらいだ。ハンカチは持ってるな? よろしい……とにかく泣くようなことじゃない。罪人のためにも涙を流すのは優しすぎるってものだからな。それに静かにしていれば同情が集まるというものだ」
 シャルロッテは涙を拭いながら唇を噛みしめた。頭の中にはたくさん言い返してやりたい言葉があるのに、唇が震えてうまく言葉がでない。こんなことなら三つの時の方がもっと雄弁に議論できた。どうやらこの地に越してきて同年代の子供たちの無邪気な悪意にさらされるようになってから、すっかり涙を流して言葉をつぐむのが癖になってしまった。
「だ、だけど……」シャルロッテはすぐバラバラになろうとする単語たちを頭の中で無理矢理つなげてかろうじて小さくつぶやいた。「お父さまが一人で逃げるなんて変よ。それも乗組員もなしに。一人で船を動かすなんてできないし――それに、わたしになにも言わないなんて、あり得ない」
 判事は涙が浮かぶ青い瞳をのぞき込んで勝ち誇ったように笑い大きく手を叩いた。「これは驚いた! どうやらこのお嬢さんはご令嬢よりも弁護士に向いているらしい! 誰かこの泣き虫な弁護士に弁護されたい方はいるかな!」判事が問いかけると野次馬たちの間でドッとした笑いが巻き起こった。いつだってそうだったように、この場にも味方はいないのだ。
 どうやらこの意地悪な男はその反応でようやく腹が満たされたようで、またいつもの薄笑いを貼り付けてシャルロッテに向き直った。
「ところで何か忘れ物ですかな? まだ家の中に残っていればいいが。さぁ、どうぞどうぞ。遠慮なさらずに! 失礼ですが、皆さまあの方のために道を空けて差し上げなさい」その花道はかなり悪質だった。シャルロッテを取り囲む人々は没落貴族をあざけるのに余念がなかった。それから判事の隣を通り過ぎるときには何か意味ありげな独り言も耳に入った。「たった一家族の犠牲で大勢が幸せになるんだ。富はいつも流動させておかなければな。まったく楽しい仕事だ」
 それから判事はいつものようにちょびひげを整えてにやりと悪党のような笑みを浮かべた。「おい! そこのおまえ! 間違ってもその汚い手でそれに触れるんじゃないぞ! こっちの物はすでに買い手が決まっているんだからな!」

第一章 二話

 屋敷に逃げ込んだシャルロッテはあまりの変わりように愕然としてしまってしばらく動けなかった。家の中はがらんどうとしていて普段よりも二倍は部屋が広く見えた。家の中ではシャツを腕までまくった男たちがぺしゃんこの帽子を頭に乗っけて家具や装飾品を一つ残らず運びだそうとしている。キャビネットやテーブルなんかの大物は四人がかりで――けれど連携がとれていないから三歩進むごとにどこかの角が壁や柱にぶつかっていた。男たちは聞いたこともないような訛りで悪態をつき、まるで恨みでもあるみたいに床に唾を吐いている。
 その中でも一階の中央から四方八方に指示を飛ばす年ごろ四十の憲兵はまるでこの屋敷の主であるかのように偉そうだった。他の男たちとは違って、革をなめしたベストをきっちりと身にまとい、怒号のような指示を次々と繰りだしている。彼は視界の端にシャルロッテを捉えると〝動くな〟と鋭い睨みを利かせた(そんなことをせずとも動けなかったのだけれど)。
 次に多忙な現場監督がシャルロッテの存在を思い出したのは随分後のことだった。
「これはこれは、ミス・ビリー。本日はどういったご用件ですかね? 新装開店の準備は一つの滞りもなく進んでおりますよ」男は長い黒ひげをこすりながらしゃがれた声を発した。それからシャルロッテのなりを一(いち)瞥(べつ)してさげすんだ笑みを浮かべる。
「もっともそれを憂いて邪魔しにきたわけじゃあるまいな? 何しろ邪魔だては外の野次馬だけで十分ってもんだ。あいつらときたら今朝から飽きもせずにずっと騒ぎたておって」
「まさか! そのつもりはありません。でも……いくつか回収したいものがあって」
「ほう……少し失礼。おい! おまえら! それは傷つけるんじゃないぞ! それはもう予約済みなんだからな!」
 男が声を荒らげた先には大きな肖像画があった。屋敷に入って一番初めに目につくところに置いてある家族の肖像画は唯一生前の母が描かれているもので、わざわざ旧家から何時間もかけて馬車で運んだものだ。父は酔いどれになるとたびたび古ぼけた肖像画を見上げ、寂しそうな顔をして口の中で恨み言を呟いた。
「肖像画も競売にかけるんですか?」男たちがどうにかこうにか自身の身長の倍ほどもありそうな肖像画を外そうと躍起になっているのをみてシャルロッテは小さく問いかけた。
「財産はすべて再分配しろとのお達しでね」
「ですけど肖像画なんて一体誰が欲しがるっていうんです? できればあれだけは手元に置いておきたくて……」
「そりゃ無理な話ですね。なんたって客が欲しいのはキャンバスと額縁の方だ。何が描かれていようが上書きしちまえば何の問題もない――ほら、サボってねぇでさっさと運びだせ! それで要件はそれだけですかな? だったらさっさとお引き取り願いたい。わたしも多忙な身ですからな――おい、おまえ! それは横にするなよ!」
「いいえ、他にもいくつか。その……階上に上がっても構いませんか?」
「ああ、もちろん。もっともまだ部屋に残っているかは保証しかねますがね」
 屋敷の奥はほこりっぽくて思わず顔をしかめた。階段や廊下からはカーペットも何もかも取り外され、固いむき出しの板が露出している。部屋の奥から次々と思い出の品が運び出され、シャルロッテはそれを避けながら慣れ親しんだ自室へと向かった。
 自室では荒っぽい男たちが二人がかりで、バケツリレーの要領で私物を運び出している真っ最中だった。誕生日にもらった宝石箱が軽やかに宙を舞い、それを男が器用に掴みとる。男たちはシャルロッテの登場に怪訝な顔をした。
「少し忘れ物をとりにきたんです。それはどうぞ持って行ってください。……まだこの部屋にあればいいんですけど……」
「金目の物はこれで最後だぜ」
「それなら残っている可能性が高そうで安心しました」
 部屋に入り、引き出しに手を伸ばすと男はシャルロッテの細い手首をへし折らんばかりに力を込めてつかんだ。
「おおっと、お嬢ちゃん。間違っても直接手を触れるんじゃねぇぜ。まさか〝泣き虫シャルロッテ(プルニシヤール)〟に悪さできるほどの肝が据わっているとも思っちゃいねぇが、万が一重要な証拠でも隠されたら文字通り俺たちの頭が飛んじまう」
「だが証拠は書庫の方から見つかるらしいじゃねぇか。嬢ちゃんもそっちを見に行った方がいいんじゃねぇか? まぁ、行ったところで何も変わりやしねぇか」
 シャルロッテは嫌になってきて両手を力一杯握りしめた。
「……テーブルの引き出しの中です。裁縫道具があるはずです……これも押収の対象じゃなければいいんですけれど」
 男は乱雑に引き出しを開き、そのあまりの衝撃から木材が棚(たな)口(ぐち)桟(ざん)にぶつかる大きな音が響いた。引き出しはほとんど外れかけて空中に宙ぶらりんの状態になっている。裁縫道具をしまった小箱や手紙やお気に入りの詩集は重力に引きずられるように引き出しの手前側に無造作に集まった。
 男はその中から小箱を取り上げ、それをしげしげと見つめると軽く中をあらためてからそれをシャルロッテに投げてよこした。
「いいのか? 階下で威張り散らしてるアイツがいうには家にあるものすべてって話だっただろ」
「構いやしねぇよ。こんな古びた道具を誰が買いとるってんだ。第一商売道具まで奪うのは酷ってもんだろ!」男たちの下卑た笑い声が瀟(しよう)洒(しや)な部屋の中にこだまする。その笑い声はこの綺麗な我が家にはまるで不釣り合いで、悪魔と対峙するよりも恐ろしい。けれどシャルロッテにはのっぴきならない事情があった。 
「それから……」と、シャルロッテは目を伏せながらか細い声をあげた。「その宝石箱の中身も……」
 男たちは自分たちが手にした紫檀の宝石箱をちらりと見ると顔を見合わせてゲラゲラと笑った。
「そいつぁさすがに見逃せねぇな。ただでさえミス・ビリーは倹約家で品物が少ないっていうのによぉ。それに比べて親父の方はすげぇもんだな。あの金庫の重さから考えるに中には相当の金が入ってるに違いないぜ。税金をちょろまかした分の金だ」
「お父さまは……お父さまはそんなことしていません。お願いですからそれを渡してください!」
 シャルロッテは宝石箱に飛びついて手を伸ばしたが、体格が二倍ほども違う男たちにかなうわけがなかった。宝石箱を手にした男はいとも簡単に腕を引いて、そうすると小柄な少女の腕ではどうやったって宝石箱をつかみ取ることなんてできやしない。
「おっと! 油断も隙もない女だ! そもそも宝石なんてその貧相な体のどこに身につけるっていうんだ? ん?」
 未発達な体に視線を注がれると自然と顔の中心に熱が集まり、両腕は反射的にまだ膨らみかけの胸を覆い隠すように動いた。けれどそんな些細な抵抗は圧倒的な力の前には何の意味も持たない。男はシャルロッテの腕をあっさりと引き剥がすとその華奢な体をなめ回した。それだけでなんだかシャルロッテは全身を視姦されているような気持ちになってゾッと鳥肌がたった。
「へへへっ、随分と不満げだな。そう思うなら叫んでみりゃいい。で、誰がお前を助けてくれるっていうんだ? え? 使用人も全員逃げ出してついには実の両親にも見捨てられたっていうのによ。それにしたってビリーお嬢さまともあろうお方が落ちたもんだ――ほらこれが欲しいならもっと下手に出て頼み込んでみたらどうだ? それか、もしくは体でも差し出すっていうなら――」
「おいおい! こんなガキをどうするって!? それほど馬鹿な話もねぇな。こんなガキで遊ぶくらいなら木の棒でも見てた方がまだマシだぜ。で、泣き虫ちゃん。何が欲しいって? ダイヤか? ルビーか? 俺も悪魔じゃねぇ、最後にお別れくらいさせてやろうじゃねぇか」そういいながら男は毛むくじゃらの太い指を小さな宝石箱の中に突っ込み中身をガチャガチャさせた。「チクショウ、このガキ。飾る場所もないくせに一丁前にため込みやがって――ん? なんだこりゃあ。宝石……ってわけでもないな。ガラス玉か?」
 男が青色の球がついた簡素な首飾りを持ち上げるとシャルロッテは目を見開いた。まさしくそれこそがシャルロッテの望みだったのだ。「返して!」はじけ飛ぶようにそれを掴むとシャルロッテは男を力の限り男を突き飛ばして部屋から飛び出した。背後から聞こえる男の罵声を無視してしばらく廊下を駆け抜けて、父の部屋の前まで走るとようやくシャルロッテは足を止めた。立ち止まった途端に全身からドッと汗が流れ、それから先ほどの緊張がぶり返して全身がドクドクと激しく脈打ち始めて心臓がズキズキと痛んだ。両手はいまだに小刻みに震えているけれど、それもコバルトブルーのガラス玉を見つめていれば次第に落ち着きをみせた。
 小さな手の中でまるで宝物のように愛でられたガラス玉はまるで海が太陽の光を反射するみたいに光を屈折させてキラキラと輝いている。球体の内部には空気の気泡があって、それをじっとのぞきこんでいるとまるで自分が水の中を自由に泳いでいるかのように錯覚した。
 これは亡き母が幼いシャルロッテのために買い求めてくれたもので、どこにでもあるような子供向けのお土産でしかなかったけれど、シャルロッテにとっては何よりの宝物だった。それこそ父がこっちにきてから毎月のように買い与えてくれた宝石なんかよりもずっと。母が急死したときも、いじめっ子に泣かされたときもいつもこのガラス玉は寄り添って一緒に泣いてくれた。
 シャルロッテはいつもと変わらない澄んだ青色を見つめながら遠い昔のことを思い出した。
 たしか五つか六つのときのことだ。その日はあまりにも暑い日だった。照りつける太陽は鋭くてまるで突き刺すよう。木の葉の間から差し込む光も肌に当たればやけどしてしまいそうなほど熱くなって、ボンネットもスカーフも何の意味もなかった。ただ日陰で座っているだけでも無性に喉が渇いて全身が今にも干からびそうな夏の日だ。
 森から帰還する父を一番に出迎えるのが生きがいのシャルロッテもその日ばかりは暑さにやられ、いつもよりも早く帰路についた。そのとき青い瞳は森の木々の間に珍しい友だちの姿を捉えた。茶色の光り輝く毛並みに所々白いまだら模様をした牝鹿が幹の間からじっとこちらを見つめていたのだ。数秒ほど二人は見つめ合ってから牝鹿は森の奥へゆっくりと向かっていった。
「待って!」きっとあの牝鹿はそんなつもり微塵もなかっただろうけれど、幼いシャルロッテにはその動きがまるで自分を森の奥に誘っているかのように見えた。それに、鹿は父がたびたび捉えてくる獲物だが、彼らが住み処にしているのは森のさらに奥の方でこうして実際に見ることなんてほとんどなかったのだ。シャルロッテは乾ききった喉のことなんてすっかり忘れ、この牝鹿の子供にでもなったような気持ちで彼女のあとを追いかけた。不思議なことに警戒心が高いはずの彼女も今日ばかりはシャルロッテとつかず離れずの距離を歩いた。実はこの牝鹿も喉が渇いていて四本の足を激しく動かして逃げ出すのも億劫だったのだ。
 それから五分も歩くと涼しげな川辺にでた。川幅は少女の目で見るとかなり広く見えた。どうやらそこは天然の給水所だったようで、森に住む野生動物が一堂に会していた。対岸の丸石が積み重なった浅い岸辺にはリスや小鳥が足まで流水につけながら寄り添って水を飲み、それからこちら側の岸には鹿の群れが水面に首を伸ばしていた。
 川には危ないから近づかないようにと言われていたけれど、この日の暑さはそんな忠告を忘れてしまうほどで――そもそも少女には川の危険性なんて分からなかった。だって兄妹みたいに同じ森で育っている生物たちは夢中になって水を飲んでいるのに、
どうして自分だけ仲間はずれにされるなんてことがあるだろう?
 けれどどうやら人の首は鹿のそれほど長くはなかった。水面をのぞきこんだその瞬間、重心を崩してシャルロッテは水の中に引きずり込まれた。パニックになったせいか足がつかなくて、散々水を飲み込んで――もがいてはみたけれど、体は流され浮かび上がるどころかますます沈んでいく。
 結局どういう経緯で救出されたのかは覚えていないけれど、それから毎晩そのことを夢に見るようになって――それを見かねた母がお守りとして買い与えてくれたのがこの首飾りだった。
 シャルロッテが球体を宙に掲げると曲面には窓の外に広がる海の色が映り込んでより深い青色を示した。頭の中には母の優しい声が響いて、屋敷のあちこちで家具が移動される音も何もかもが意識の外へと消えていった。
「ごらんなさい、シャルロッテ。きれいでしょう? まるで海みたいで……あなたが水中でも呼吸できるように空気がたくさん入ってるものを買ってきたの。もしまた夢の中で溺れたとしても、これがあれば大丈夫。必ずあなたを守ってくれるわ」
 この事件がきっかけとなって今も水は苦手だけれど、あの日のように夢に見ることはなくなった。このガラス玉はシャルロッテにとってまさしく母の愛の結晶だったのだ。
 しばらくの間、思い出に浸っていたシャルロッテだが、ふとガラス玉に逆さになった帆船が映り込みハッとして顔を上げた。開け放たれたドアの向こう側、色あせた窓枠のはるか向こうに広がる海には一隻の立派な船が浮かんでいた。ちょうど長旅から寄港したところらしく、数十人もの船員が一同に甲板にあがって何マイルか離れた屋敷にも聞こえそうなほど騒いでいる。船には無骨な砲台が片側だけでも八門も乗せられていた。見慣れた商船ではない――あれは私掠船〔国王から免許を受け、敵国の船を攻撃し略奪する権利を認められた船のこと〕だ。きっとあの内側には今日も他国の船を襲って手に入れた金銀財宝がうずたかく積まれているに違いない。 
「町のみんなは敵国を貧しくさせて自国を豊かにするあの人たちをありがたがるけれど……わたしにはそうは思えない。こんなの国家ぐるみの略奪に変わりないわ。それも得たお金だって乱痴気騒ぎに使うだけ。それにあの人たちはお金のためならなんだってするわ。そうよ。悪を悪だとも思わないわ。きっと――根拠はないけれど――お父さまはあいつらみたいな連中にはめられたのよ」そう思うとなんだかあの船に乗っている連中が途端に恨めしく思えて、シャルロッテは両手を強く握りしめて悠然と進む船を睨んだ。「それに……わたしは悪の親玉が誰なのかわかってる」
階段を下り、最後に居間を見まわすと先ほどまでそこにあった肖像画はすっかりなくなって、壁には長方形に日焼けしたあとが残っているだけだった。

第二章 一話

 どうやら予定通り書庫から重大な証拠が見つかったようで、野次馬はいきり立った声を張り上げてもはや収拾がつかない。この場を抑えていたちょびひげの判事はこれ以上は〝商品〟が無事では済まないと判断して二台の馬車を連れて一足先に退散していた。おそらく明日にはすべてが競売にかけられることだろう。
 大通りには判事の代わりに新しい登場人物が追加されていた。その人物はシャルロッテが屋敷から出てくるなり誰よりも早く詰め寄った。
「アナベル夫人……」夫人はいつものどぎつい赤色をしたドレスとセットの扇子を唇に当てて口元がにやけそうになるのを必死に覆い隠している。
「まぁ! ミス・ビリー! こんなところで出会うだなんて奇遇ですわね」アナベル夫人の声はかすれている割に甲高くて耳が痛くなった。「わたくし心配していましたのよ。なんでも若い娘さんが裁判にかけられるっていうんですから! こんな話生まれてこの方聞いたことがありませんもの! それで判決はどうなったんですの? じきに息子が知らせてくれるはずですけれど、ここで出会ったのならあなたの口から聞いた方がよっぽど早そうですからね」
「お父さまは――」
「そっちはまさか厳罰が下ったんでしょうね。わたくしはきっと――なんでしたっけ? ええっと、アヴニール号でしたか? あの船と一緒に海に沈んだと思いますけれど、万が一しぶとく生き残っていたとしたって二度とこの国の地は踏んでいただきたくありませんわね。やはり素性の怪しい方はむやみに受け入れるべきではありませんわ。外面はいくら取りつくろえても血筋というのは変えようがないものですもの」最後の方の言葉は父だけではなく娘にも宛てたメッセージらしくシワだらけの顔の中心にさらに深いシワが寄って目が細められた。「わたくしが聞きたいのはそういう話ではありませんよ。死者――ああ、失礼――天に召されたかもしれない方の話なんて興味がありませんから。わたくしが聞きたいのはあなたのことです。いくらあなたが何も知らない無知な子供だと言ってもご自分がどういう処遇を受けることになるのかはご理解してるでしょう?」
 アナベル夫人のトゲトゲした言葉を前にするといつだってシャルロッテの喉は引きつって居心地が悪くなる。別に今日が特別ひどいというわけでもないが、アナベル夫人はシャルロッテのことをとにかく目の敵にしていた。
「……心配していただいてどうもありがとうございます。わたしはアメリカに行くことになりました。……どういう建前だったかは覚えていませんけど……」けれど語られない真意はなんとなく理解できた。要は厄介払いがしたくてたまらないのだろう。それに加えてできるだけ苦しめたくてたまらない。
 実際、最初に白羽の矢がたったのは何年も前からいがみあい、争い続けている英国だったのだが、英国はノルマンディーの目と鼻の先にあり万が一にでも戻ってこられたら不都合だということでより遠い場所が検討された。そこで候補にあがったのが英国領のアメリカだった。アメリカならばまず自力で帰ってくることは不可能だし、うまくいけば海上の不運な事故によって天からの口封じがあるかもしれない。
「まぁ、そうでしたのね!」アナベル夫人はにんまりとして笑った。「そういうことならよかったですわ。わたくし、少し恐ろしい妄想にとりつかれていましたから。つまり――この際、隠し事はなしにしましょう――あなたが父親の正義を主張しすぎるあまり首をはねられるのではないかとやきもきしていましたのよ。でも、そういうことなら安心しましたわ」アナベル夫人の言い草は立派な人ならば確実にそうしただろうというニュアンスを含んでいた。シャルロッテは痛い部分に触られたとばかりにジッと石畳を見つめた。本当はそうするべきだと自分でも思うのだ。だけど――別にこの選択だって逃げるわけじゃないわ。「何にせよ、あなたならどこでもうまくやっていけるでしょうね。それで旅立ちはいつになるご予定で? ぜひお見送りさせてくださいな」
「それはまだ決まってなくて……でも、本当にお気遣いなく。きっと早朝ですし、アナベル夫人のお手を煩わせるようなことでもありませんから」
「いいえ。きっとお見送りしますわ。みなさんも連れてね」その力強い言葉はまるでこれほど楽しめる機会を逃してなるものか、と言っているかのようだった。「そうそう! それからあの下宿はどうですの? わたくし下宿というのはあいにく経験がなくて。あなたがひどい扱いを受けているんじゃないかとみんなで心配していましたのよ」
 ここのところ心ない友だちが妙に増えた。アナベル夫人だって長いことよそ者のシャルロッテを迫害してきたというのに、今やシャルロッテの肩を抱き、まるで実の娘との永遠の別れみたいな有様だ。けれどその瞳は愉悦の心を隠しきれていない。
「まぁ……すべてが今まで通りというわけにはいきませんけど……ところで、アナベル夫人。お父さまについて何かご存じではありませんか? フランスを出る前に少しでもいいから情報が欲しくて……」
「申し訳ありませんけど存じ上げませんね」アナベル夫人は考えることもなく反射的に冷たく返した。「主人も同じように言っていましたわ。どうやらまだ港にも戻っていないらしいじゃないですか。もちろん正規の手続きを踏んでいるならもっと話題になっているでしょう。ですからもしもこの辺で姿を見かけたとなればそれは密入国とか密輸とかのたるいになるんじゃありませんこと? それこそ大問題というものでしょう。それにしても――」夫人は目を細めて意地の悪い笑みを浮かべた。「わたくしはあなたにも善良な市民の心が残っているようで安心しましたわ。てっきりわたくし……もう父親は見つけてあなたがどうにかかくまっているものだとばかり! もちろんわたくしも貴族の勤めとして協力いたしますわ。ええ! ぜひともあの国賊をはりつけにして鞭打ちの刑に処しましょう!」アナベル夫人はシャルロッテの細い指を痛いほど強く握った。夫人の黄土色の肌はシャルロッテの白い肌に妙に映えてグロテスクですらある。続いた言葉は有無を言わせないものがあった。
「それともまさかこの後に及んであの国賊の逃亡を助けたいとでも?」
「で、でも、アナベル夫人。お父さまはきっと無実で……」シャルロッテが震える声を振り絞るとしばらくの静寂が訪れた。それからアナベル夫人がプッと吹き出したのを皮切りに野次馬の中でドッと笑いが広がった。シャルロッテは瞳を閉じてわずかにうつむき、両手を強く握りしめ、続きの言葉は飲み込んだ。けれど左のまぶただけがピクピクとうごめいて異議を主張し続けている。
「でしたらパリアンテさまが嘘をおっしゃっていると? ミス・ビリーはあの由緒正しい家柄のお方がくだらない嘘でわたしたちをだましているとでも? ばかばかしい! それこそ妄想というものでしょう。それにどうやら先ほど決定的な証拠があがったらしいではありませんか。それよりもご自身の奇妙な勘の方が信用に足るといいたいわけではありませんね? まったく気が違ったのかと疑いますわ。それとも不正の証拠があって?」
「そういうわけではありませんけど……でも……」言葉尻はどんどん小さくなり、しまいには空中に霧散した。それを見て夫人は勝ち誇った笑みを扇子で覆い隠した。
「本当に見苦しい。身内をかばいたくなる気持ちも分かりますけれど、あなたが今でも貴族の一員だというのなら二度とそんな言葉を口にしないことですね。ましてや大商人パリアンテさまが嘘をついているだなんて……!」アナベル夫人は吹き出して笑うと今度は高笑いを始めて、その瞳には激しい笑いのあまりうっすらと涙が浮かんだ。
 シャルロッテはその態度にとうとう自分が恥ずかしくなってきて、ついに目頭がじんわりと熱くなった。けれどこんな人たちのために涙を流すのは絶対に嫌で、シャルロッテは唇を強く噛みしめた。それこそ負けを認めたようなものだ。証拠はないけれど、だからといって自分の指摘が間違っているだなんて思わない。
 そのときアナベル夫人の高笑いが響く大通りに焦げ茶色の毛並みのいい牝馬にまたがったミスター・パリアンテが通りがかった。彼は馬上の高いところから群衆を一(いち)瞥(べつ)してその集まりの中に何人かの貴族を――特に今にも泣き出しそうなシャルロッテを――見つけると馬を止めて形のいい帽子を外した。
「これはこれは。みなさんおそろいで!」それからアナベル夫人には特別な挨拶があった。「アナベル夫人も元気そうで何よりですな。数マイル先にも届く笑い声だ」
 唇を噛みしめていて助かった。そうでもなかったら間違いなく「ざまあみろ」とつぶやいていたところだ。アナベル夫人は真っ赤なドレスに負けないほど顔を一瞬で赤くして小さく咳払いした。
「それは――何しろミス・ビリーがおかしなことを言いますからね。この子ときたら、パリアンテ大商人が嘘を証言しただなんてばかげたことをいうものですから。それに父親は無実だのなんだのと……わたくしも失笑を抑えるのが難しいというものです」
「ほう……それはまた荒唐無稽な話だ。馬車の先導という名誉さえなければみっちりと問い詰めてみたいところでしたな」と、いいながらパリアンテ商人は大通りをトロットで駆けてくる馬車を見つめた。馬車は群衆を蹴散らして進み、しばらくしてミスター・パリアンテの少し後ろで停車した。
 それを不思議がって窓からは次女のエーヴ・パリアンテの顔がのぞいた。
「ねぇ、リアーヌったら。みてよ、ロッティがいるわ。まさかこんなところで会えるとは思わなかった! 相変わらずめそめそして……聞いてる? リアーヌったら!」馬車の窓枠に頬杖をついてぼうっと海上に浮かぶ船を見つめていたリアーヌは妹に肩を揺さぶられて渋々陸に目を向けた。
「本当ね。アナベル夫人までいらっしゃるみたい」リアーヌは早口でまくしたてて、じれったいと言わんばかりに腰を半分あげた。ちらりと海の方をみると船はすでに港に入ろうとしていた。「お父さまはこんな往来の真ん中でなんのお話をしてるの?」
「さぁ、知らない。でもロッティと話してるんだったら話題は尽きないわよ。わたしだって一体どういう気持ちなのか一から十まで聞き出したい気持ちだもの」
「ならそうしましょう。わざわざこんなところで話す必要ないわ。家でも港でもどこでも話なんてできるんだから。窓を開けて」
「いいけど……」と、言いながら妹は姉の奇妙な様子に首をかしげた「リアーヌったら何をそんなに急いでるの? ついさっきまでは早く帰りたいだのなんだの言ってたくせに……」
 リアーヌは窓枠から身を乗り出して大きな声をあげた。それと同時に抜けるような金髪が風になびく。
「お父さま! おうちに帰る前に港に寄りましょう。わたし、ロウ船長を舞踏会にお誘いするまではつまらないお勉強なんて絶対しませんからね!」
「うそ!」その瞬間、エーヴはシャルロッテのことも忘れて窓に張り付くようにして港をじっと凝視した。「ロウ船長が帰ってきたの!?」
「それは本当か?」
 激しい興奮を身に宿したのはエーヴ・パリアンテだけではなかった。先ほどまでこの一大イベントを楽しんでいた野次馬たちも、それからシャルロッテを苦しめることに精を出していたアナベル夫人もすっかり彼女のことなんて忘れて一斉に港に目を向けた。
「あれは間違いなくロウ船長の船でした。だからね、お父さま。わたし早く港に行きたいの。多忙なロウ船長が明後日の予定を入れてしまう前にね。ねぇ、お願いです。きっとお父さまが誘ってくだされば解決するわ。ね? お父さまだってエドワーズさまのことは評価なさっているじゃない。海の男にしては珍しく良識があるとかなんだとかって。わたしどうしてもあのお方とご一緒したいの」
「それはそうだが……おまえ。あの男はたしかにその辺の男と比べれば良識はあるが決して家族をつくるような男じゃないだろう。第一海の男は早死にと相場が決まっておる。おまえだって主人を早くして亡くすのは嫌だろう」
「あのお方がそんなあっさり亡くなるわけがないわ。それにもし悲しい運命にあるとしたって、急いで港に向かわない理由にはならないでしょう? そうだわ、ねぇ、ロッティ! あなたも乗っていけばいいわ。方向は一緒でしょう?」
「そうよ、お父さま! リアーヌの言うとおりよ! 早く行きましょう! ロッティもまさか断るなんていわないわよね! お姉さまからの誘いを断る方がよっぽどシツレイってものよ! それに昼間っていったってあなたの――港の奥まったところにある――下宿なら、酔っ払いに襲われたとしてもおかしくないし!」エーヴはいいながらクスクスと嫌な笑い方をした。
 正直にいうのならエーヴはシャルロッテのことを(こういう事情になるずっと前から)嫌いで見下していて、今日だって同じ空間を共にするなんてまっぴらだと思ったが、最後の思い出にシャルロッテのことをいじめてやろうと思ったのだ。「不満があるならいってみたらどう? どのみちあんたは恩も知らないろくでなしってことになるけど! あなたがしばらくいい暮らしをできていたのだってお父さまのおかげなんだから。まぁ結果はご察しの通りだけど――ほら、早く乗りなさいよ! とって食ったりしないから!」
「まったく――口ばかり達者になりおって――」
 シャルロッテは表しようもない感情をすべてぶつけるみたいにミスター・パリアンテのことを睨んだ。目つきの鋭い悪徳商人はその視線にすぐに気がついたけれど、そこに悪事がバレるのではという怯えの表情は一切ない。それどころかミスター・パリアンテは挑発的で、顎ひげをさすりながら腕を組み、鼻を鳴らした。
「ふぅむ。アナベル夫人、どうやらあなたの言い分は正しいようだ。こちらのお嬢さんはたしかに奇妙な妄想に取り憑かれているとみた! まったく実にばかばかしい話だ! この分ですと新天地での活動も相当苦労を要するものになりそうですな」パリアンテ商人が場に問いかけると群衆はクスクスと小さく笑いながら首を縦にふった。「それでは、わたしはこれにて失礼いたしますぞ。もっとも同じ場所で再会することになりそうですが……」
 それからパリアンテ商人は巨大な体躯をかがめてシャルロッテに小さな声でささやいた。
「どうやら人はより刺激的な方を真実だとする傾向があるようだ。それにしてもまさかこれほどうまくいくとは。はなから人望がなかったと疑わざるを得ないな」
「やっぱりあなたが裏で糸を引いていたのね――このことは――」
「いいから黙っていろ」ミスター・パリアンテは息巻くシャルロッテの腕をきつく握って低い声で脅した。「もっとも、口外したところで誰も信じないだろうがな。おまえも父と同じ運命をたどりたくないなら現実をさっさと受け入れることだ。むしろ頼み込むというのなら使用人として雇ってやってもいい。それとも儲けを分けてやろうか? ん?」
「もしかして父がどこにいるか知っているの?」
「さぁな。しかしどうせ今ごろ海の藻屑だろう。だったら少しばかりわたしの役に立ってもらってもいいというものだ」
 シャルロッテの動向は見開かれ、全身が小刻みにわなわなと震え、怒りのあまりブルーの両目には涙が浮かんだ。
「この悪魔め――!」
 商人は退屈そうにシャルロッテの手首を放り投げ、つまらないとばかりに吐き捨てて笑った。「好きに呼べばいい。どれほど吠えたって結果は変わらないんだからな。言葉だけは貧民も貴族も平等だ」ミスター・パリアンテはすごみを利かせてから二人の娘たちに吠えた。
「どうやらこの娘さんは精神的にかなり不安定らしい。父親が汚職に手を染めていたともわかればそうもなるだろう。おまえたちが話を聞いてやりなさい」
「もちろんよ、お父さま。だってわたしたちオトモダチだもの。たくさんおもてなししなくちゃね」
馬車の中ではエーヴだけが楽しそうに笑い、シャルロッテは半ば押し込まれるようにして馬車に乗り込んだ。

第二章 二話

 馬車の中に流れる空気はかなり異様なものだった。
 若い娘が三人も乗っているというのにそこにほとんど会話はない。その代わりに妹のエーヴ・パリアンテだけが早朝の鳥くらいのかまびすしさで延々とシャルロッテをからかい続けている。どうやら商人パリアンテもそれに全面的に協力するつもりで、主人の特権を使って御者に「ゆっくり進むように」と指示を与えていた。可愛い長女の願いをむげにするのは心が痛んだが、その長女は馬車の中でうっとりとしながら飽きることもなく海を見つめていた。恋と憧れに支配されたその耳には妹の小うるさい声もまるで届かなかった。それからその声はシャルロッテ本人にも届いていなかった。
 シャルロッテは二人の正面に腰かけ、ずっと青白い顔をして膝に置いた自分の両手をじっと凝視していた。片方の手首は先ほど悪魔に握られたせいで真っ赤に染まっていたけれど、そんなことすら視界に入らない。
「それにしたって寄宿学校に通っていてよかったわね。こういうときのための教育でしょ? 真面目にやってきた成果が出るってものじゃない。わたしは正直全然集中してなかったし、身についたのは社交性くらいのものだけど――そういえばロッティは真面目な割にしょっちゅう鞭でビシバシされてたわね! わたし、一度だってそういう目に遭ったことがないけど……ねぇ、あの頃は本当に楽しかったと思わない? まさか数年後にこんなことになっちゃうだなんて誰が想像できて? わたしの大切なお友だちがこんな目に遭うだなんてね! それにしたって一体これからどうやって生きていくつもりなの? 知り合いも親戚も誰もいないところに連れて行かれるだなんて、本当にご愁傷様。言ったら悪いけど、変なご家族を持つと大変ね。本当にわたしが変わってあげたいくらい。わたしも、もしお父さまが悪事に荷担していたらと思うとゾッとしちゃう。そうだ、ルドルフとはどうなったの? まさか白紙に戻ったの? あんなに仲良しだったのに、それも残念ね」
 シャルロッテの頭の中はぐちゃぐちゃでまるで整理がつかなかった。とてもではないけれど処理しきれないたくさんの事柄が頭の中で渦巻いている。「やっぱりわたしの直感は間違ってなかった! お父さまは無実よ。でも、だからってわたしに何ができるの? 誰もわたしの話なんて聞いてくれない。それにお父さまはもしかしたらもう……いいえ、そんなはずないわ。お父さまは生きてる。だけど……だけどわたしにはお父さまの無実を証明する力がない……それどころか身に降りかかる火の粉を払うことすら――」
 馬車はやがて港に近づき、港の異様な熱気と賑わいがシャルロッテの頭痛をさらにひどくした。ただでさえ区画整備が追いついておらず、細くて馬車が通るような道ではないっていうのに、通り沿いにある民家という民家から一目でも船長の姿を見ようと人々が身を乗り出し、馬車は彼らの鼻の先を次々とかすめていく。
 それから酒場からも朝っぱらから酒を飲んでいるような船乗りたちのろくでなしが顔をのぞかせ、店前の酒樽に腰をかけて気だるい営業をしていた娼婦たちも途端に顔をあげていそいそと身支度をととのえはじめた。
 それは激しく高鳴る心臓を必死に押さえ込んでいるリアーヌも同様だった。絹のように細くて艶のある金髪を何度も指でとかし、それからしきりに服のレースや刺繍を確認してほつれているところがないかとか変なところがないかとか何度も妹に問い詰めた。その頬はすっかり高揚して同性の目からみても艶やかに思えた。柔らかな肩は桃の果実のようにハイライトが利いていて、美しいドレスに包まれた胸は握りしめたなら指の間からこぼれ落ちそうだった。歳だってほんの一年しか変わらないというのに、一体なにがこれほどまでに違うのだろう? わたしやエーヴが顔を赤くしたってこれほど扇情的には見えないはずだ。それにもちろんアナベル夫人が顔を赤くしたってこれほど愛らしくは見えないだろう。
 港の異変を察知したみたいに暇を持て余していた商人や宿屋の主人も港につながる細い道に詰めかけ始めると、いよいよ道は人間でいっぱいになって二頭立ての馬車ではにっちもさっちもいかなくなった。
「旦那さま、これ以上は無理だ。馬も怯えちまってびくともしねぇ」御者の言葉にリアーヌは間髪入れずに答えた。
「ならここでいいわ、わたしはここで降りるから。ジャック、ここに止めて」
「リアーヌ、わたしは許さんぞ。おまえはしばらくそこで待っておれ!」
「お父さま!」リアーヌの悲痛な叫びは父には届かなかった。なぜなら突然目の前の人混みが歓声をあげ始めて、まるでモーセの海割りのように人混みが左右に分かれたからだ。手綱をつけられた馬はますます怯えてパニックになって飛び跳ねて三歩ほど後ろに飛び退き、それに合わせて馬車が激しく揺れた。
 けれどそんな中でも恋する瞳はその人を捉えて離さなかった。
「ロウ船長!」リアーヌは馬車が完全に止まらないうちに外へと飛び出した。御者が青い顔をしたけれどそんなことまるでお構いなしだ。幸いにもリアーヌはうまく着地して、船長を見上げたままうっとりして口を半開きにした。
 エドワード・ロウ船長はフランスでは知らない人がいないほどの有名人で凄腕の船乗りだった。
 英国との長い戦争の中で軍事力に劣るフランスは経済的な損害を与えるために自国の船長たちに対して数多くの私掠免許を発行した。しかし有象無象に権利を与えたって何の意味もないように、免許を与えられたほとんどの私掠船は半年もしないうちに英国海軍によって沈められるか捕虜にとられて死んだ方がマシだと思えるくらいの扱いを受けた。歴戦の船長ですら惜しくも命を落とす中、このロウ船長という人物は何十回となく生還して、その上帰ってくるたびに目がくらむほどの財宝を持ち帰ってくる――とあらば船長は英雄のような扱いを受けるもので、時には前線で死力を尽くして戦う兵士よりもよっぽど人々の称賛を受け取った。どうやら今回も山のように金銀財宝を得たようで船長の背後では茶色のほつれた服を着た船員たちが木箱を肩に背負って続々と船をおりてきていた。
それにかなりの伊達男。それだけでご婦人方もご令嬢も三割増しの評価を下した。 その顔立ちはかなりはっきりとしていて瞳と眉が近い。輪郭は面長でえらが張って、肌は長い海上生活によって浅黒い色をしていた。それからいつだってロウ船長は貴族が着るような小(こ)洒(じや)落(れ)たシャツに身を包み、開いた胸元からは健康的な肉体がのぞく。腰に巻いたベルトには磨かれたナイフとピストルが輝き、なんと言ったってかき上げられた前髪が顔の右側に流れている感じがなんともいえずセクシーなのだ。
 船長はあまりこの歓迎を快く思っていないようで、面倒そうな顔をしていたがリアーヌに気がつくと眉をあげて、それからそのなりを一(いち)瞥(べつ)して口元に笑みを浮かべた。
「ミス・パリアンテ。まさかわたしのような一介の船長を覚えていてくださるとは。感激ですね。息災でしたか?」
「ええ……。わたしの方こそまさか覚えていただいているなんて……」父と観衆の目さえなければ抱きついてしまいたい。「あの、ロウ船長。実は……」
「おまえは黙っておれ」
「お父さま! わたしまったく進まない馬車にもひしと耐えました」そう言われてしまうとミスター・パリアンテも口をつぐむしかなかった。リアーヌは父に向けて小さく舌を出してから本題に入った。「実は明後日の夜、わたしの家で舞踏会が開かれるんです。女王さまもいらっしゃるんですけど……それで……もしよろしければロウ船長もお誘いしたいと思って……」
 いつもの何倍も緊張して言葉をつむぐリアーヌを微笑ましく思いながらも、シャルロッテは群衆に交じり、父の敵とばかりに船長と船員をにらみつけた。シャルロッテだってまさか彼らが直接手を下したとは思っていないけれど、直接の関わりがなくたって〝船乗り〟という人種がろくでもない人間であることは間違いないのだ。奴らは自分の利益だけのために罪もない商船を次々と襲って懐を潤わせるのだから。もしかすれば父もその魔の手にかかったのかもしれない――いいや、間違いなく! 
 そう思うとこの熱気はシャルロッテには無縁のものだった。それどころか段々と船長に向けた賛辞が父の失踪を喜んでいるような気がしてきた。
「まるで別人だな」
「なんたってあの女は相当な金持ちだ。それに――なぁ。見てみろよ。ちょうど食べ頃だろ?」
 目の前を通り過ぎる船員たちのすえた匂いにシャルロッテは顔をしかめた。
「エーヴ、わざわざ乗せてくれてありがとう。なんだかお取り込み中みたいだし、あとは歩いて帰るわ。パリアンテさんにもそうお伝えしておいて」
「あら、ロッティも挨拶していけばいいのに! ま、何の意味もないのは確かだけどね! さようなら! お元気で!」
 一人だけ流れに逆らって帰路につくと背後からは歓喜に満ちあふれた友だちの声が聞こえてきた。
「本当ですね? わたし、誰とも踊らずにお待ちしておりますわ――ずっと!」

第三章 一話

 下宿に戻るとよろい戸を閉めたままの酒場の中で女主人と鉢合わせた。女主人はでっぷりとした腹の肉を抱えて、シャルロッテを見るなり虫でも見るような顔をした。
「なんだい。ようやく出ていったと思ったのに、まだうちに住み着こうっていうのかい。一体いつになったら出て行ってくれるんだか。部屋に戻るつもりなら今日一日は出てくるんじゃないよ」それから女主人はよろい戸の隙間から港の賑わいを確認してブツブツと小言をつぶやいた。「はっ、どうせあいつらも夜通し馬鹿騒ぎだろう。どれだけ稼いでいるかは知らないけどね。一体どんな権限があって寝静まる夜まで馬鹿騒ぎするつもりなんだかね。うるさくて寝れやしない」
 この人はいつだってわたしに当たりが厳しいけれどそこだけは気があうわ。
 港の保守的な人間たちはみな、家に札付きが住むのを嫌がった。そんな気難し屋の中で唯一、小部屋――それもカーテンもないほこりっぽい屋根裏部屋だ――を貸してくれたのはこの酒場の恰幅のいい女主人だけだった。しかしそれが優しさからくる行動ではないというのは彼女の態度をみればわかることだ。彼女はいつもシャルロッテに当たりがキツかったし――おそらく生来の性格もあるのだろう――下宿として貸し出している酒場の屋根裏部屋に高級ホテル並みのぼったくり価格を提示して、顔を合わせるたびにとんでもない量の小言が口から飛び出し、酒場に客がいるときは姿を見せるなとはっきり言い放った。
 けれどそんなこと序の口にすぎない。たしかに女主人の心ない言葉も心を傷つけたけれど、客商売である以上仕方がないと思うものもあったし。シャルロッテが本当に恐れているのは酒場の主人の方だ。
 酒場の主人はその妻ほど口うるさくもなかったけれど、客と一緒になって酒を飲んだ日の深夜は必ず屋根裏部屋を訪れる。直接何をしてくるわけでもないが、ドアのところからじっとシャルロッテを視姦するのだ。初めてそれに気がついたときは思わず悲鳴がこぼれそうになったけれど、もしも気がついているとしれたらひどい目に遭わされそうで必死に寝たふりをすることしかできなかった。一回だけは腕に触られて思わず目を開けてしまったけれど、酒場の主人は悪びれもせずに舌打ちだけして寝室におりていった。
 それをのぞけば基本的に関わろうとしない二人だが、たった一度だけ夕食のあとに慌てた様子でシャルロッテのもとを訪れたことがある。ノックもせずに飛び込んだ女主人のその手には一通の上質な封筒が握られていた。どうやら中身も確認せずに飛んできたらしくて、手紙にはまだ封蝋もついているままで、ピエロの帽子のように三方向に房があり、その根元を束ねられた下側からいくつかの花びらが生いしげっている。アイリスの花をモチーフにしたその封蝋は見覚えがあった。
「王室から? わたし宛てにですか?」
 女主人は言葉を失って何度も縦にうなずいた。「さっき届いたんだよ。こんなものが届くなんて……まさかあたしたちについて何か書いてある訳じゃないだろうね? さぁ、早く開けて読んでみとくれ――どうだい? 一体なんだって? まさか王族がこのしがない酒場にくるなんてことないだろう? さぁ、ほら、早くなんとかいっとくれ!」
 慌てふためく女主人に対してシャルロッテは冷静だった。どうやら手紙の内容は長旅の安全を祈って女王さまからありがたいお言葉を賜ることになったから、明後日の昼に使いをだすというものだった。手紙によればとうとう旅立ちの日付も決まったらしい。それも併せて当日に伝えるとのことだった。シャルロッテが冷静に手紙を要約して告げると女主人はようやく心を落ち着けて「あんた……本当に貴族の娘だったんだね……」と、つぶやいた。このときほどこの女主人から敬意というのを感じたことはない。当然それも長続きはしなかったけれど。

 その翌々日、約束の日の早朝。シャルロッテは部屋に一つしかない小窓に庭の木がバシバシとムチのように当たる音で目を覚ました。視界は水の中みたいにぼやけていて、まぶたがいつもの何倍も重い。なんだか寝る前に考えていた未来への漠然とした不安が黒い影となって全身にまとわりついているような気がした。それに寝返りを打つたびに背骨が木の板にぶつかるものだから、体はあちこちを殴りつけられたみたいに痛いし、体もまるで休まっていない。つまりコンディションは今日も引き続き最悪だった。
 小窓の外では朝の赤い光が空を染め上げていた。時間はギリギリだ。きっとあと数十分もしないうちに口うるさい大家がトロールのように起き上がって(わざわざはしごまで登って!)悪口を言いに参上するに違いない。
 シャルロッテは重い体を引きずるようにしてベッドから這い出ると、なるべく床をきしませないようにつま先から着地して着替えと身支度を済ませた。細心の注意を払って建て付けの悪い扉を開けておっかなびっくりはしごを下るとちょうど夫妻の寝室がガタゴトと音を立て始めた。ここで鉢合わせたなら「おまえのせいで目が覚めちまった」とか言われることは必至だ。
 ろうそくもなしにほこりっぽい廊下を進み、足早に階段を下る。盗人と酔っ払いの対策のために窓にはしっかりとよろい戸がされて、朝だというのに森の中みたいに真っ暗で、シャルロッテは一歩進むたびにテーブルをなぞりながらなんとか入り口までたどり着いた。
「待ちな! シャルロッテ! そこを動くんじゃないよ!」玄関のかんぬきに手をかけたその瞬間階上から怒鳴り声にも似た大家の声が響いた。
「ああ、朝から面倒なことになったわ」シャルロッテは重苦しい顔でいずれ大家が長いエプロンをたくし上げながら降りてくるであろう階段を見つめて長いため息をついた。このまま逃げてもいいけれど、そうすると今夜こそ扉を開けてくれないような気がして、シャルロッテはしぶしぶ言いつけ通りに薄暗い酒場に立ち尽くした。
 酒場は昨日の馬鹿騒ぎの名残でどこかから野蛮な男たちの酸っぱい匂いとアルコールとたばこのにおいがした。おそらく壁や床にしみこんでいるのだろう。少し掃除したくらいでは何も変わらないくらいに。一歩進むたびに靴は床に張り付いてペリペリと小気味のいい音を発した。
「お父さまが知ったらなんていうかしらね。また貴族の娘が云々って叱ってくださるかしら?」決して生まれついての貴族ではなかったし、ましてや貴族が柄にあっているだなんて一度たりとも思ったことはないけれどすっかり染みついた習慣で粗雑な暮らしはなんだか心がざわついた。
 しばらくするといつもと同じ茶色の薄い布を身にまとった大家がドタバタと音を立てながら階段を下りてきた。あれほど大きく足を動かせば床のベタつきにも気が回らないというものだろう。大家は階段の真ん中でぴたりと足を止めるとじっと暗闇をにらみつけて、暗がりの中にねずみでも探しているみたいな動作をした。何しろ老眼でピントの合わない瞳では暗がりを見通すのは困難極まりなかった。そしてようやくシャルロッテの抜けるような金髪の輝きが舞い上がったほこりと一緒に見えるとフンと鼻を鳴らした。
「そうやってるともう悪霊にでもなったみたいだね。お似合いだよ! なに、ちょいとあたしからも言っておこうと思ったのさ。おかげで今日はなんだか寝不足だねぇ」大家さんは化け物みたいに唇の厚い口を馬鹿みたいに大きく開けて大きなあくびをした。
「一体何をですか?」
「そりゃ決まってるだろう。あんた島流しに遭うんだってねぇ?」それから大家は狂ったみたいにケタケタと笑っていかにも親しげにシャルロッテの細い肩を握った。「あんたそれがどういうことか分かってないだろう。だから王家からの手紙が届いたときも――それから今も――冷静でいられるのさ。そうじゃなかったら自分の命日を知らされて冷静でいられるものか」
 大家の目は寝不足のせいなのかそれとも興奮しているのか血走っていて恐ろしい。シャルロッテは顔を引きつらせながらますます声の大きくなる婦人を眺めてわずかにあとずさった。
「命日って……」
「連中のいう島流しなんてつまるところ処刑に変わりがないんだ。あたしゃ長いことこの港に住み着いてきたがね、港を出てすぐに海に捨てられる罪人を山ほどみてきたよ。教えてやろうか、まず罪人は泳げないように手の健を切られるのさ。ちょうどあんたの部屋の小窓から見えるんだよ、船の甲板に赤い血がばっと広がるのがね」
 大家はシャルロッテの細い手首を力強く握り、青い血管を親指でぐいっと押した。まるでおまえも直にここを切られるといわんばかりに魔女のように長い爪が皮膚に食い込む。大家の両手はシワだらけで、所々に毒にむしばまれたかのような茶色いシミがあり、浮かんだ血管がドクドクと脈打っているのがなんだか恐ろしかった。老婆は唾が飛ぶほどの勢いでまくし立てた。
「それから足かせをつけられる。金属でできた無骨な飾りで、二度と陸にあがれないようにするためのものさ。どれほど呼吸が苦しくなったって、どれほどもがいたって体はどんどん沈んでいくのさ! 連れてきた船はずっとそこにいるけれど助けちゃくれないよ。そうして苦しみながら暗い海にゆっくりと沈んでいくのさ! 船に乗っている連中にあざ笑われながらね!」
「や、やめてください!」
 シャルロッテは小刻みに震えながら荒い呼吸をした。魂はすっかり幼少期の川の中にとらわれ、思わずふらついて背後のテーブルに手をつく。「大丈夫、大丈夫よ。怖くなんてないわ」シャルロッテはもう片方の手で慌てて首飾りを握りしめ、必死に母の言葉を再生しようとした。けれどそれはまるでうまくいかず、その代わりとばかりに女主人の生々しくて甲高い声ばかりが頭の中で繰り返し再生される。
「ああ、本当にいい気味だねぇ。ついに天罰が下るのさ! 父親と同じところにいくといいよ! さぁ、話は終わりだ! さっさと出ていきな、夜まで帰ってくるんじゃないよ!」大家はシャルロッテの絶望顔をたんと堪能してからその肩を突き飛ばして外へ放り出した。そのままバタンと扉が粗雑に閉められ、すぐにかんぬきが刺される音がして――老女は安らかな二度寝につくのだ――シャルロッテはようやく悪魔から逃げおおせた気になってその場にへたりこんだ。
 ガラス玉を握った両手は小刻みに小さく震えて、心臓がバクバクと大きな音をたてている。それからふと手首から赤い血が流れているのに気がついたけれど、今はかまっている余裕もなかった。
「ええ、大丈夫よ。シャルロッテ……大家さんはわたしのことを怖がらせたいだけなんだから――まさかそんなこと起こらないわ。今まで一度だってそんな話は聞いたことがないもの。それにそんな残虐なことが人にできるかしら」
 人は悪だと決めつけた相手に対しては強気になるものだと身をもって知っていたけれどそれは知らないふりをした。

第三章 二話

 昼になると約束通り迎えの馬車がやってきた。やってきた馬車は真鍮の豪華なフレームで車輪までもが金色に光り輝き、馬車につながれた四頭の白馬ですら金の装飾でめかし込んでいる。ひときわ目立つこの馬車は港にはまるで不釣り合いで誰もが酒場から顔をだしのぞき込んでいる。
 シャルロッテは群衆に見守られ、奇妙な緊張感の中、馬車に乗り込んだ。頭の中では繰り返し「命日」という言葉がよぎる。まさか脅しだとは思ったけれどよく考えてみれば積極的に生かしておく必要もないのだ。もしかしたら今日の呼び出しだってすべて眉唾で扉を閉めた瞬間殺されたっておかしくない。
 しかし幸いにも正面に座るいかめしい顔つきの番人は今すぐ事に及ぶつもりはないようだった。むしろその顔立ちや振る舞いからシャルロッテはこの男がかなり任務に忠実な人であるらしいとすぐに気がついた。馬車が動き出しても挨拶以外は一言も言葉を発そうとせず、背筋をぴんと伸ばして、何かあればいつでも腰に差したサーベルで小娘の首をはねられるように右手は常に武器に触れている。
 何か気の利いた世間話でもできればよかったけれど、目の前の男に怯えてシャルロッテは何も口にできず、馬車の中には車輪が小石をはねてガタガタという音と重苦しい沈黙が流れるだけだった。ほどなくして馬車が目的地に到着するとシャルロッテはようやく堅く握った両手をほどいて肩を下ろした。少なくともこのまま断頭台に連行されるわけではなかったということだ。
 王家御用達の高級ホテルの入り口にはがたいのいい男が二人、自分の背丈よりも高い槍を持って入り口を塞ぐようににして立っていた。二人は馬車から降りたシャルロッテに奇異の目を向けた。
「これが例の女か? とてもじゃねぇが悪党って面には見えないな」
「人は見かけによらないからな。特に女はそうだろう」
「違いないな」
男たちの豪快な笑い声をあとに、シャルロッテは二人の間を通り抜けホテルの中に入った。室内はかなり厳かだった。長い廊下の両側には十フィートごとにマスケット銃を持った近衛兵が並び、彼らは背筋をしゃんとさせて微動だにしない。黒い縦長帽子に飾られた赤い羽根はまるで石でできているみたいにずっと高い天井を向いていた。「こちらです」案内人の指示に従いあとに続くと、いつの間にかシャルロッテの両側には二人の男が立っていた。どちらも無愛想な顔で監視にもってこいだ。
 シャルロッテはすっかり宮廷さながらの空気に気圧されてしまって今更ながらに女王の御前にその身をさらすのが恐ろしく思えてきて声も出なかった。歩幅は普段の半分しかなくホテルの奥に進むにつれてさらに小さくなった。右側にひかえた男はまったく進もうとしないシャルロッテに焦れて眉間のあたりがピクピクと動いたが、左側の老練の男はまったくの無反応だった。
 シャルロッテは直接女王の宿泊する部屋に案内された。どこからどうみてもこのホテルで一番の上質であることは間違いない。入り口の大きな扉の周りには金の洒落た装飾が施され、弧の一番高いところには黄金色をしたライラックのレリーフがかけられている。扉の前にはホテルの入り口と同じような格好をした男が二人、扉を塞ぐように立っていて、シャルロッテが到着したのを確認すると王室流の妙に手順の多いノックを披露した。
 扉の中には思わぬ先客がいた。大きな窓を背後にソファーに腰をかける女王の正面にはエドワーズ・ロウ船長がかしずいていた。貴族が着るような白いシャツにほんのりと赤みがかった粋なベストを身につけている。女王の御前だというのに固い服は着慣れないとばかりに少し着崩してはいるけれど、なぜだかだらしない感じはこれっぽっちもなく、それどころか抜群に洒(しや)落(れ)てみえた。実際、女王の様子をうかがうかぎり圧倒的なファッションリーダーである彼女も何も感じていない――いや、むしろその顔をみればわかる通りに好感触なのだ。
 それほどまでにロウ船長の身なりは目をひくものがあって、もしもこれほどの有名人でなければシャルロッテだってどこかの貴族の御曹司だと勘違いして、不覚にもときめいたっておかしくなかった。今だって彼が粉をまぶしたかつらをつけていないのが不思議なくらいだ。ロウ船長は今日もいつものように黒い髪をオールバックにして片側に流していた。
 シャルロッテは予期せぬ状況に困惑しながらも五歩ほど前に歩み出て女王に対して深々と挨拶した。
「これは残念だ。あなたとの逢瀬はいつも邪魔されますね。それとも物さえ手中に収めればお払い箱か――」ロウ船長はそう言いながら部屋の隅に控える使用人をちらりとみた。ワインレッドのクッションの上には見たこともないほど大きなルビーで彩られた指輪が置かれている。口ぶりからして献上品だろう。ロウ船長は小さく肩をすくめて続けた。「まぁいい。事務的な関係は互いにお手のものだ。次の予定もあるようですし、わたしはこの辺りで」
「お待ちなさい、ロウ船長。実はおまえの腕を見込んでわたしから頼みがあるのですよ。その前に紹介しましょう。そちらの娘はビリー家の長女、シャルロッテ・ビリーです」
「初めまして、ロウ船長……シャルロッテ・ビリーです。噂はかねがねお聞きしています」シャルロッテは引きつった笑顔でお辞儀した。数日前は遠巻きに見ていただけだから知らなかったが、こうして間近で観察すると自然とかしこまってしまうようなひしひしとした威圧感がある。
 ロウ船長は黒々とした眉をあげて怪訝な表情を浮かべた。その顔は一体こんな小娘に何の関係があるのかと言っているようなもので、あと数秒もあれば不躾にも女王を直接問い詰めていたことだろう。
 その回答は女王の隣で控えていたえらく格式張った判事が説明した。頭の左右に巨大なカールのついた白いかつらを身につける伝統的なスタイルで、背筋に鉄骨が入っているかのように姿勢をピンと伸ばして、裁判状を懐から取り出すと演劇みたいにわざとらしく咳払いをした。どうやらロウ船長は気が短いようで、もったいぶらずにさっさと話せと男をにらみつけている。
「シャルロッテ・リーズ・ビリー。貴女は父セザール・ビリーの忌むべき犯罪行為を知りながら適切な対処をとらず、悪事に加担した疑いがかけられている。しかし証拠不十分であること、また貴族アデラール・パリアンテの証言から情状酌量の余地があるものとして不起訴とする。ただし、今回の一件は我が国に莫(ばく)大(だい)な損害を与えるものであり事態は極めて深刻であり、滾(たぎ)った国民の胸中を推し量ると――」自分の話をされているはずだが、どうにも雲をつかむような話でまるで頭に入ってこなかった。それからしばらく言い訳のような意味のない言葉が続き、途中でシャルロッテの反応を確認するために顔をあげると船長と目が合って判事は慌てて目を伏せた。ロウ船長の瞳は存分に鋭く、これ以上退屈させたら女王の眼前であることもお構いなしにひどい目にあわされそうな気がしたのだ。その視線に怯えて判事は一番の見せ場だというのに早口でかなり短くまとめた。
「……つ、つまり……つまりですな。以上の経緯よりシャルロッテ・リーズ・ビリーを我が国から永久に追放することに決定した。この決定により、ミス・ビリーは速やかに母国を離れ、アメリカに渡ることを務めとする。さらには同貴族の提言により船長エドワード・ロウには彼女を貴殿の私船に同乗するよう要請をする」
「この人の船に乗るですって!?」シャルロッテは高貴な人が目の前にいるのも忘れて思わず声を荒らげた。それからすぐにハッとして口を押さえて、顔色をうかがったのはロウ船長の方だった。奇妙な上に不遜なことだが、このときは女王よりもよっぽど隣の男の方に気を遣わねばならないような気がしたのだ。
「これは他ならないパリアンテの温情ですのよ」
「だからって……!」冷静になって続きの言葉はどうにか飲み込んだ。「だからって罪もない商船を襲って略奪を――それから、もしかすれば殺人も――繰り返す連中の一味なんて死んでもごめんだわ」きっと父もこういう連中にはめられて今もどこかで苦しんでいるに違いないのだから。彼らに同行するのはそれこそ〝悪事に加担〟するようなものだった。
「しかしミス・ビリー……」女王が何かを言いかけたところで、部屋にはロウ船長の豪快な笑い声が響いた。その声は部屋の者たちを――女王も含めて――黙らせるに十分だった。船長はこれほどおかしなこともないとばかりに大きく肩を揺らした。
「誰も彼も気が違っているとしか思えないな」幸いにも彼のつぶやきは隣にいたシャルロッテしか聞き取れなかったが今度は別の意味で肝が冷えた。船長の態度はまるで自分を皇太子と勘違いしているみたいに横柄だった。「麗しき女王陛下、僭(せん)越(えつ)ながら申し上げますが……いつから我が船は客船になったんです? わたしからも丁重にお断りしますよ。情婦でもない女を船に乗せるだんて何のうまみもない。第一、ただ海を渡らせるだけなら客船でも兵船でもやりようはあるだろう」と、いいながらロウ船長はシャルロッテに品定めするような嫌な視線を送った。
「どうか冷たいことをおっしゃらないで。今のフランスであなた以上に信頼の置ける船長はいませんわ。毎回無事に帰港するのはあなたくらいのものですのよ。わたくしはあなたに期待しているのです。それにこれはわたくしの望みでもあります」
「分かりやすい脅しだ。しかし、まぁもっと実際的な話をしましょう。わたしは褒め言葉と餌が欲しくて駆けまわる犬じゃない」
「もちろん報酬もお支払いしますわ。あなたはずいぶんこの国に貢献しているし、爵位を与えてもいいと」
 そこまで食い下がるのは意外だったのかロウ船長は顎にゴツゴツした手を当ててしばらく考え込み、それからもう一度シャルロッテにじっと視線を向けた。その目線はこの小娘を使ってどこまで要求できるかと考えているかのようで、シャルロッテは小さく身震いした。
「あいにく称号には興味がない質でしてね。しかし……どうしてもというのなら、わたしに考えがあります。そんなものよりもわたしに船を一隻与えていただけませんか? 面倒な利子や支払いの手続きはこの際なしにして」
「貴様、黙って聞いていれば女王陛下に対してなんとぶしつけな……!」部屋の端で黙って話を聞いていた従者たちはいよいよ耐えきれなくなって非難の声を上げたが、この礼儀を知らない船乗りはそれを左手とにらみ一つで制止した。
「どうです? 水夫でもないような浮浪者上がりに貸し出すよりもよほど利益になるでしょう。もう一隻さえあれば二倍……いや、三倍の品物を持って帰ってくると約束しましょう」
 しばらく部屋には気まずい沈黙が流れた。もちろんシャルロッテにこの沈黙を破る勇気はなかった。誰もが女王陛下の次の言葉を伺い、おつきの従者たちは命令さえあればこの男を即刻縛り上げて民衆の前でさらし首にできるようにと気合いを入れている。そんな緊張状態でもロウ船長はまるで余裕を崩さなかった。まるでこの程度の修羅場は日常茶飯事だとでもいわんばかりだ。それにどうやら確実に自分の願いは聞き入れられると確信しているらしくて、女王を見据える瞳にも一寸の迷いもなかった。
 やがて女王陛下は厳かに口を開いた。
「いいでしょう。ただし変わらずわたくしに貢献することです」
「どうも」
 もし仮に相手がロウ船長だけだったとしても大抵の船乗りが持ち合わせているような荒々しさにおののいて何も口にできなかったが、それに加えてこの場には女王陛下までもが席を共にしている。そうなるとシャルロッテの喉は糸と針で縫われてしまったみたいに声の一つもあげられなかった。もっともこの場の圧倒的な権力者二人が意見を合致させたとあらばもう哀れな小娘一人に口を挟む余地なんてこれっぽっちも残っていない。
「冗談じゃないわ……!」知らず知らずのうちに決定した進路に思わずクラクラしてシャルロッテは無意識にガラス玉に触れた。ひんやりとしたガラスの感覚は少しだけ自らを冷静にして、それから思い出したのは今朝の女主人の言葉だった。「だけど、何も悪いことばかりじゃないわ。わたしは私掠船が大っ嫌いだし、この横柄な船長もその下で働く船乗りも信用していないけど……」シャルロッテはロウ船長を横目でみた。船長はシャルロッテなどには目もくれず口元に満足気な笑みを浮かべていた。「どうやらわたしには本当に興味がないみたいね。それに愛国心も――だけどわたしにとってはありがたい話だわ。変に愛国の船に乗って下宿の女主人が言ったようなことになるより空気のように扱われる方がよっぽどいいもの。それにロウ船長は間違いなく一流の船乗りよ」そもそもシャルロッテには拒否権なんてないのだ。もしかすると、どこかのタイミングでは抵抗もできたのかもしれないけれど、今はこの世の不条理と自身の意見はすべて飲み干す以外に他にない。もっとも誰かに意見するだなんて旧家に住んでいたころ以来一度だって試したことはなかったけれど……思えば随分と性格は矯正されたようだ。幼い頃よりもかなり気弱で意気地なしになったと思う。それはこの土地のあどけない幼なじみのせいだったり母を失ったショックのせいだったりもしたが、他ならぬシャルロッテ自身の望みでもあった。父の望む理想の令嬢は少なくともこういう方向性だったから。
「そうよ、お父さま……とにかく今は生きて……生きて海を渡ることだけを考えるべきだわ。そして必ず生きてお父さまの行方を捜すのよ」シャルロッテは自らに言い聞かせるように心の中でつぶやいた。それからこうも思った。「これは決して敗走じゃないわ。わたしがこの国を静かに出て行くのは逃げるわけじゃない。わたしが戦ったところで、どうなるかはわかりきってる。わたしには力がないの。力がないだけよ。その力さえあれば……きっと戦ってたわ。そうよ。だからこの判断は逃げじゃない。とりあえず海を渡って避難して、そこで真実を突きつける力が持てたのなら……きっと、きっと帰ってくるわ。だからこの選択はお父さまの名誉を守るために……」どれほどキツく自分自身を説得してもあまり心は晴れなかった。わたしは後悔するような選択をしたのだろうか? だけど今更どうしようもない。二人は合意し、わたしは船に乗ることが決定しているのだ。しかしどうしても後ろめたい。
 女王との短い面会を終え、高級ホテルの外にでるとロウ船長はシャルロッテのことを引き留めて短く命令した。あの横柄な態度ですら自制が効いていたと思うとこれからが先が思いやられた。
「いいか、船の上ではわたしに従え。一週間後の早朝に出航する」

第四章 一話

 それからの七日は穏やかに、だけど足早に過ぎ去り、ついに旅立ちの日になった。シャルロッテは目を覚ますと髪をほどきながら三十センチの小窓に近づいて眼前に広がる海を見つめた。海はまだまだ暗い色をしていたけれど、水平線に近い空はかすかに明るみ、夜明けを告げるナイチンゲールが列をなして赤い空を飛んでいく。
 この穏やかで心洗われる光景も、今日ばかりは旅立ちをせっついているように思えて仕方がなかった。心臓は浮き足立ち、壊れたメトロノームみたいに不規則な脈動を繰り返す。これからのことを思うと身支度をととのえる手はまるで動かなくて、ようやく旅立ちの支度をととのえたころには水平線に太陽の頭がのぞき海面が真っ赤に染まっていた。揺れる波によって光は絶えず形を変えてオレンジ色の宝石みたいに輝いている。
 思い出をすべて詰め込んだ時点で覚悟が決まったのか、その光景は素直に心に染み入った。「海からみる日の出も今日みたいにきれいだといいんだけど……」
 わざわざぐっすりと眠っている夫妻を起こして顰(ひん)蹙(しゆく)を買うのも申し訳なくて、シャルロッテは置き手紙と相場の五倍ほどの代金をベッドの上に置いて部屋を出た。荷物は女学生のかばんほどのスーツケース一つに収まった。もともと家から持ち出せた物も少なかったからすべてを詰め込んでもまだ空きがあるくらいだ。その割にうんざりするほど重たく感じるのは安物の骨董品だからか、もしくはこれまでの人生をすべて詰め込んだせいだろう。シャルロッテは年代物のスーツケースの取っ手を両手で必死に持ち上げ、酒場のよろい戸からこぼれ出る光だけを頼りに慎重に階段を下りた。しかしあまりに重いものだから三十段もないような階段を下りるためだけに五回は休憩が必要だった。
 ようやく大通りにでると真っ赤な太陽が目に染みてシャルロッテは思わず目を細めた。通りに立ち並ぶ木造の古い建物はどれも朝日を浴びて真っ赤に染まっていた。舗装路は強い光にさらされ、石畳の段差が妙に鮮明で割れ目から生えた小さな雑草が潮風に揺られている。
 シャルロッテは寝ぼけ眼をこすりながら舗装路を進んだ。実のところ緊張と不安と、それから深夜まで階下で客が散々わめいていたのでどうしようもなく寝不足だったのだ――普段はもっと早くに店を閉じるというのに、昨日に限って女主人は意欲に満ちていたらしい。
 港はまだ早朝だというのに活気にあふれてあちこちで怒声と罵声が飛び交い、それがこれからしばらくの間お世話になる船乗りたちによる騒ぎだと気がつくと自然と両肩に力が入った。
 男たちは昨日の酒も抜けていない千鳥足で、手にした積み荷も今すぐにどこかにぶつけてもおかしくない危うさ。船と桟橋の間には一枚の薄い木の板が渡され、船の中から屈強な男たちが現れては山積みにされた木箱を手に船の奥へと消えていく。
 地上では男が一人、長いサーベルを振り回しながらあれこれと激しく指示を飛ばしていた。
「バジル! また酒をぶちまけたら今度こそ容赦しねぇぞ」
「わかってるつってんだろ。今にみてろ、今日はまだ半ガロンも口にしちゃいないんだからな。残り半分は船に乗ってからだ」バジルは呂律も回らない口で言い返した。本人はそういったがそれ以上飲んでいるのははたから見ても明らかだった。彼は見ている方がドキドキしてしまうほど足をもつれさせて荷物を運び、どうにか桟橋まで進むと今度は危うく海に落ちかけさんざっぱら悪態をついた。ただ立っていることもままならなず、意思に反して体が左右に大きく揺れた。それからバジルは焦点の合わない両目をどうにか働かせ、桟橋の手前でその様子を見つめていたシャルロッテに気がつくと酒焼けした声をあげた。
「おい、マルセル。あれが例の女か?」
「俺が知ったことか。だが、多分そうだろ。じゃなきゃこんなところに来るかよ。向こうで突っ立ってる連中とはまた違う雰囲気だしな。まるでこれから戦場にでも行くみたいな面構えだ」
「それほど適切な表現もねぇな」バジルはシャルロッテのことを頭のてっぺんからつま先までなめるように眺めてから、少し離れたところにたたずんでいるエーヴ・パリアンテに目をやった。
 波止場には長年の友に別れをいうためにシャルロッテの知り合いが何人も集まっていた。その中にはミスター・パリアンテや当然ながらアナベル夫人の姿もあった。アナベル夫人はいつもの真っ赤なパラソルを持ちながら朝日に顔を焼かれている。けれど何度辺りを見回したってそこにリアーヌの姿はなかった。彼女は大好きなロウ船長にお別れを言うのが寂しくてとてもではないけれど部屋から抜け出せる状態ではなかったのだ。
 バジルはしばらく二人の姿を見比べてから快活に笑った。
「パリアンテの妹とどっこいどっこいだな。体だけを見るならむしろ妹の方がまだ見どころがあるってもんだ!」大きなどら声は港中に響き渡るかのようで二人はみるみるうちに顔を赤くさせ、エーヴはすぐに父親の背中に顔を埋めたけれどシャルロッテは顔を背けるのがせいぜいだった。ミスター・パリアンテは結婚もしていない貴族の娘が下賎な視線にさらされたとあって、怒りで顔を赤くしてあのバジルとかいう男を撃ち抜いてやろうと――というのもこの人も前日の酒がまるで抜けていないのだ――足を踏み出したけれど、エーヴが自分の服をつかんで離そうとしないのでそれは取りやめになった。それに冷静になって考えてみれば貶(けな)されたわけでもない。これがもし娘の方が下だのと言われたら二度と口を利けなくしてやるところだったが――ともあれ、褒められていることに変わりはないだろう。本人も最初は度肝を抜かれたものだが、すぐに父親と同じ思考をたどり、今度は顔を埋めながらくすくすと笑った。
「馬鹿なこといってんじゃねぇ。日が昇りきる前に準備しねぇとまたどやされるぞ」
「へっ、船長が怖くて船になんか乗れるかってんだ! 俺はあの黒髭の船で働いたことがあるんだからな。わかるか? 黒髭だぞ! 俺の故郷じゃ誰だってその名前を聞けば震え上がったもんよ! あのイギリス野郎、ずいぶん出世したもんだ。あのままあの船に乗ってりゃ、今頃いかつい船の一隻でも与えられて大金持ち、伯爵とか侯爵とかって呼ばれてもおかしくなかったんだがなぁ」
「また言ってやがる! 妄言もいいところだ! 大体、黒髭だか青髭だかしらねぇが、どれほどおっかねぇやつだってうちの船長に比べたらいくらかマシに違いねぇ!」
 男たちが声をあげて笑い仕事に戻ったところを見計らってアナベル夫人はシャルロッテに駆け寄り声をかけた。 
「ああ、ついにこの日がやってきましたわね。これで今生の別れだと思うとなんだか……」アナベル夫人は同情している風を装いたかったみたいだが、夫人の瞳はあざけるようにきらめいて、今日はいつもの扇子も持っていなかったので思わず上がった口角を隠すことはできなかった。「どうかお元気で! きっとあなたほど図太い人ならどこだって大成しますわ。それからあなたのお父さまにも、どうかよろしくお伝えくださいね。――まぁ、見つかればの話ですけれど」
「……ええ。アナベル夫人もお元気で」
 それからシャルロッテとかつての友たちは涙もキスも抱擁もない淡泊な別れを交わし、再びシャルロッテが離れるとエーヴはむすっとして小さく声をあげた。「まさかお父さまがロウ船長の船を推薦しているだなんて思わなかったわ!」エーヴは不満たらたらでシャルロッテをにらんだ。「きっとリアーヌが知ったら悲しいやら悔しいやらで死んじゃうわ。今日だってたった一言さよならをいうのが辛くて三日も前から落ち込んでるっていうのに」
「じゃあなんだ。おまえはあの娘っ子のために今も制海権を争っとる軍艦でも引っ張ってこいと? それこそ言語道断だろう!」
「だからってロウ船長のお邪魔になるじゃないですか。どのみち海軍なんてぼろみたいな服を着てへろへろになって帰ってくるだけなんだからむしろ――」
「つまりおまえは軍を馬鹿にするというのか!? この馬鹿娘が! 先月の賜暇では嫌というほど将校どもの尻を追いかけ回していたというのに、よくもそんな心ないことをいえたものだ!」
「そ、そういうつもりじゃありません……でも……」食い下がるエーヴにアナベル夫人は優しく諭した。
「ミス・エーヴ。わたくしはこれほど素晴らしい采配もないと思いますわ。何しろシャルロッテさんときたらいまだにご自身の立場をよくご理解なさっていないみたいですから、きっといい経験になるでしょう。荒くれ者たちにもまれた方が自分の立場が理解できるというものです。それに、もし万が一貞操に傷がつくようなことでも起これば……」アナベル夫人の高笑いが船乗りたちの低い声と混ざり合って港に響く。万が一なんて言ってみたけれど、実際は九割九分そうなると確信していたのだ。そしてそうなればもう一度成り上がる道も完璧に閉ざされることになる。何も恨みがあるわけではないが、あのうじうじした顔を二度と見ないで済むと思うと胸がすく。
 エーヴはしばらく不満顔をしていたが、シャルロッテが荒くれ者の船乗りたちにすっかり萎縮して、ちっともうれしそうではないのを見るとなんだか楽しくなって、アナベル夫人や父のいうことももっともだと思うようになった。
「ロッティも嫌がっているみたいだし、それならいいわ。それにしたってロッティって本当に変わり者! この町の女たちなら誰だって大喜びして船に乗り込みそうなものなのに。少なくともわたしならあんなところでぼーっとしてないで二つ返事で乗り込むけどな。ロウ船長と船旅だなんてなんだかロマンチックだもの」エーヴは子供らしい妄想で頭をいっぱいにしてうっとりと目を細めた。
長いこと港町で生活してきたシャルロッテだが、こうして船を間近で拝むのは実に六年ぶり、商船の竣工式以来のことだった。普段は大胆な割に過保護な父親は娘が港に近づくのを嫌がり、ほとんど港に連れてきてくれなかった。だけど、こんなことになると分かっていれば大好きな父を困らせてでも船に忍び込むべきだった。貴族社会になじむために苦手なダンスを四時間も練習するよりもよっぽどためになっただろう。
 そしてどうやらこの六年の間に造船技術はかなり進歩したようで、船はますます大きくなり、まるでそれ自体が巨大な生物みたいだった。荷を積み込む船員たちはさながら全身に血液を送り込むポンプだろうか。
 主甲板には丁寧に磨かれた砲台が片側に六基ずつ置かれ、砲門から八基の砲台が口だけを突き出している。外壁はタールを塗り直されて臭いも新しく、威圧的な深い黒色が反射していた。まっすぐ天に伸びた三本の帆柱には何枚もの純白の帆が張られ、さらには船のあちこちに複雑にロープが張り巡らされまるで蜘蛛の糸のようだ。船の側面には縄梯子状に編まれたロープが張られ、今も男たちが素早くそれを上り下りしていた。見上げてみると四人の男たちがヤード〔帆柱に対して垂直な棒。畳んだ帆をくくりつける〕にのぼり、帆を下ろしている真っ最中だった。男たちはうつ伏せになるような体勢で甲板をのぞき込みながら作業している。
「まさかわたしも手伝えなんて言われないわよね?」見ているだけで最悪の場面が容易に想像できて背筋が凍った。それも恐ろしいことに男たちの足場は細いロープがたったの一本だけ! いったいどうしてそんな不安定なものに命を預けられるのか気が知れない。しかも酔っ払っている状態で!
 シャルロッテが巨大な船を見上げながら二の足を踏んでいると、船からブロンド髪の大柄な男が降りてきてマルセルに近づいた。
「これで積み荷は全部か?」
「はい。あとはアレだけです」と、言いながらマルセルはシャルロッテを目で指し示した。
「ありゃ相当重そうだな! 繁殖期の雌牛を乗せるよりよっぽど苦労しそうだ。てめぇらはあの女の荷物だけ持って先に乗ってろ」
「アイ・アイ・サー!」男たちは声を合わせて返事をするとほとんどひったくるみたいにシャルロッテの手からかばんを奪い取り船に向かった。一人残った大柄の男は脇にひっさげたひょうたん型の入れ物を口で開けてラムをあおりながらシャルロッテに近づいた。その口ぶりから判断して平水夫よりは上の立場なのだろう。
 シャルロッテは警戒して体を縮こまらせた。
「よぉ、あんたが没落貴族のお嬢さまか? え? こりゃたしかに船長のいうとおり楽しむにはまだケツが青いガキだな!」男は豪快に笑い、シャルロッテの肩に腕を回してを押しつぶさんばかりに全体重を預けた。男が低い声を発するたびに酒とたばこの入り交じった悪臭が鼻につき――しかもこのとき気がついたけれど、どういうわけか男の左手には小指と薬指が生えていなかった。男はどうにか逃げようと身をよじるシャルロッテの顔を器用に三本だけの指でべたべたとなで回し、少女はなんだかもう恐ろしくて声も出なかった。
 男は意味もなく恐ろしい笑い声をあげて、しばらくすると彼女の細い二の腕をひっつかみ、半ば引きずるようにして桟橋の方へと向かった。男はたしかに酔っているはずなのに進む足取りに迷いはなくて、それもかなりの大股で歩くものだからシャルロッテの足は何度もつれて転びそうになった。
「は、離してください! 一人でも歩けます!」捕まれていない方の手でどうにか抵抗を試みたけれど、丸太みたいな指はびくともしない。しつけのなっていない犬を引きずるみたいにずんずんと進まれると肩から腕が抜け落ちてしまいそうだった
「そういうわけにもいかねぇ。おまえを積み込むのも船長の命令なんでな」男はそのまま船に乗り込み、船内につながる急な階段を駆け下りて――シャルロッテがステップに足を踏み出したその瞬間、彼女は思いがけず船橋〔船尾側の高い場所。舵取りを行う〕の上で水平線にのぼる太陽をじっと見つめるロウ船長を視界に捉えた。
 その瞳はまぶしい光を反射してまるで未知なる冒険に胸を高鳴らせる少年のようでもあったし、金貨や銀貨に対する貪欲な欲望を浮かべているようでもあったし、この旅路の目的地を見据えているようでもあったし、もしくはただ単にその光景に見入っているようでもあった。
 一瞬だけシャルロッテはその光景に心を奪われ両足がピタリと止まり、腕をひく男が気がつかなければ危うく階段から転げ落ちるところだった。
「てめぇ、死にてぇのか!? もっともそうなりゃ俺も楽でいいがな」
 大柄な男が案内したのは階段を一つ下った先にある個室だった。そこはかつて士官室として使われていた部屋だったが、長いこと開かれていなかったせいで部屋のあちこちに埃がたまっていた。それに部屋というにはおこがましいほど狭く、両手をめいいっぱい広げたら両端に指が届く程度の広さしかない。置かれているものといえば部屋の隅に押しやられたベッドと小さな丸机、椅子、それから両手ですっかり覆えてしまうほどの小窓が一つだけだ。最低限のものしか置かれていないというのに、ただでさえ狭い空間にこうも物が詰め込まれていると奇妙な圧迫感があった。その上、天井はかなり低く、この大柄な男なんて少し背伸びすれば天井に頭がついてしまいそうだった。こんな部屋に人間が――それも片方は大男――がいるとなると部屋はますます小さく感じた。
 男はシャルロッテのことを押しやるようにして強引にベッドに座らせると入り口を塞ぐように立ちはだかり、シャルロッテがひどい埃に激しく咳き込むのもお構いなしに話し始めた。
「いいか、一度しか言わねぇからその空っぽの頭にたたき込めよ。といっても何も難しいことはねぇ。貴族サマがどうだか知らねぇが、俺たちはシンプルでわかりやすい掟に従って生きてんだ。ダンスのステップを覚えるよかよっぽど楽ってもんだろ。いいか、お前が従うべき規則はたったの三つだ」いったいどんな恐ろしいことを告げるのかとシャルロッテは途端に緊張した。だが拍子抜けなことに、続いた言葉はまるで旅先で有頂天になる子供に言い聞かせるみたいな最低限の規則だけだった。
「夜八時には床につけ。食事はきちんと食え。それから船員の指示に従うこと。ただし矛盾する指示にはいつも立場の高い方が優先される。規則を破ったヤツは鞭打ちか置き去り刑だ。それからこの際だからはっきりと言っておくが、お前がこの船の上で常に許可されているのは呼吸と食事だけだ。それ以外はすべて船員の許可がいると思え」
 酒で焼けた低い声はまるで地を這(は)うかのようで、シャルロッテはボロボロのズボンの裾からのぞく毛むくじゃらのすねを見つめながら何度もこくこくと頷くしかなかった。
 果たして船長以外で誰の立場が上かなんてまったくわからなかったけれど、幸いなことにもそれはすぐに明らかになった。男の言ったとおりこの船のヒエラルキーはかなりシンプルな構造をして、船長と副船長とそれ以外はすべて平水夫に属する。そしてシャルロッテを部屋まで案内したあの大柄の男がイポリート副船長だと知ったのはそれからすぐのことだ。
 彼は基本的に船の内部、つまり食料や倉庫の積み荷とかいうところを管轄している。それから――重要なことに――シャルロッテ自身の管理を任されているのもイポリート副船長だという。となれば罰を与えるのもあの男なのだろうか? と、思うと首筋が急に冷たくなった。あの力強い巨躯に鞭なんて振るわれたらきっと一撃で肉が裂けて骨が見えてしまうだろう。しかもなんだかあの人は女性だから手加減しようとかそういう気がまるで見えないのだ。

第四章 二話


 
 しばらくすると出航の合図がかかり、船員たちの野太い声が空に響いて錨が巻き上げられた。船が動き出すとシャルロッテは慌ててベッドに膝立ちになって小窓から外をのぞきこんだ。窓の外にずっと見えていた桟橋は次第に船の後ろ側に姿を消して、あっという間に船は故郷に背を向けて進み始めた。頭の中にはいろいろな思い出がよみがえったけれど、だからといって寂しさや悲しさを感じることもなかった。感じたのは途方もない安(あん)堵(ど)だ。シャルロッテはその気持ちを後ろめたく思った。「逃げているわけじゃないわ……それに逃げ延びたことに喜んでいるわけじゃない。ただ……そうよ、希望だわ。あそこに居たって世界は何も変わらなかった。だけどわたしは一歩進んだの」
 そう言い聞かせると遅れて未来への希望が湧いた。たしかにこの国には家族と過ごした思い出が詰まっているけれど、母の優しさはガラス玉にすっかり閉じ込めて封印されているし、父にいたってはこれから新天地でいくらでも思い出をつくれるはずだ。たとえ爵位がなくたって、一文なしでも、家族さえそこにいるのなら何を悲しむことがあるだろう。昔みたいに薪を割って、狩りをして、枯れた土地を耕して立派な畑をつくろう。きっとお父さまは騙されたことに腹をたててピストルを持ち出すだろうけれどそんなことさせないわ。きっと最後にはわたしの言葉を聞いてくれる。田舎暮らしの勘を取り戻すのは時間がかかるだろうけれど……十年もたてばこの現状だって笑って語り合えるわ。そう思うと乗り込んだときの不安な気持ちはすっかりどこかへいってしまった。
「そうよ、怯えている場合じゃないわ。わたしが……わたしがやらないといけないのよ。わたしは生きてなんとしてもお父さまを見つけるの。それで――取り戻すの」
 たくましい決意に反して、シャルロッテはすぐに船旅の洗礼を惜しげなく浴びることになった。
 船が順調に走り出していよいよ外洋に踏み入れると船は縦に揺れたり横に揺れたりとせわしなく予測不可能な動きを繰り返した。それはまるで巨大な手に全身を訳もわからずもみくちゃにされているみたいで、それに合わせて内蔵が揺さぶられ、みるみるうちに気分が悪くなった。まるで五秒おきに喉の奥に指を突っ込まれているみたいなとてつもない不快感が湧き上がり、体の内側を勝手にぐるぐるとかき混ぜられているような気がした。どれほど気合いを入れようとも襲いくる揺れだけはどうしようもない。生まれて初めて味わう船酔いはあまりにも壮絶で、シャルロッテは眉を寄せながら、かび臭いベッドに横になり、体を丸めて襲いくる吐き気にひたすら耐えた。
 昼になるとイポリート副船長が訪ねて食事を持ってきたけれど、当然こんな状態で食事なんて喉を通るはずもなかった。副船長はベッドの上で小さくなるシャルロッテを見下ろしてからからと笑った。
「ずいぶんいい感じに弱ってんじゃねぇか、まるで打ち上げられた魚だな。ま、こればかりは慣れだ。気の強さに関わらず海の上じゃ全員かかる呪いみたいなもんだからな。おっと、食べるか吐くかどっちかにしろよ! それから食い物にありつきたいなら次からははいつくばってでも食堂にくることだ。ここじゃ使用人もいないからな」
 当然こんな状態で食事なんて喉を通るはずもなかった。少しでも胃に物を入れたらそれこそすぐに戻してしまいそうで、昼に受け取った固いパンとパサパサのジャーキーと、それから木製のコップに並々注(つ)がれたラムは一つも手をつけることなく丸い机の上に放置されほとんど置物と化した。それからシャルロッテは寝たり起きたりを繰り返して、一日目の深夜になると(といっても時計なんてものはないから体感なのだけど)空腹で気持ちが悪いのか船酔いで気持ち悪いのかわからなくなり、その段になってようやく固いパンを一口だけかじった。味は悪くないが、焼きすぎで一口含んだだけでも全身の水分を吸い取られた。と、なるとどうしても液体が欲しくなるものだがラムは想像の通りきつい酒の臭いがして、おっかなびっくり口にしてみるとアルコールの独特な苦みが口の中いっぱいに広がり、次の瞬間には喉の奥が焼けるように燃え上がりシャルロッテは慌てて液体を吐き出した。
「冗談じゃない! こんなもの口にしたらますます気分が悪くなるわ」けれど、だからといって真水を探しに行く気力もなくて、シャルロッテは諦めて少しずつ酒を飲みながらパンをかじった。
 シャルロッテがようやく動く気力を取り戻したのは二日目の夜のことだ。目を覚ますと声がかすれるほどに喉が渇いていて、毒薬でも飲み干すかのような覚悟で半分以上残っていたラムを一気に飲み干した。相変わらずこれっぽっちもおいしいとは思えなかったが体は喜んで水分を受け入れた。
 相変わらず気分は最悪で、地面に足をつけているのに宙に浮いているようなこの奇妙な感覚はどうしようもなく気持ちが悪かった。それでも悲しいことにシャルロッテが人間である以上どうしたってお腹は空く。イポリート副船長は宣言通りあれから一度も部屋を訪れなかった。初日の昼に受け取った食事はなんだかんだありつつもすべて平らげてしまって、二日目の夜になれば一時間も前からお腹が何度も寂しそうに泣き声をあげた。空腹の気持ち悪さと船酔いが相まってさらに気分が悪くなってきたのでシャルロッテはついに重い腰をあげて部屋を出る決意をした。シャルロッテはまるで墓場から這い出てきたばかりの亡霊のようなおぼつかない足取りで、船の柱に手をかけることでどうにか歩みを進めた。
 船長室のちょうど真下に位置する広間――船乗りたちは大抵〝会議室〟か〝食堂〟と呼ぶ――では仕事を終えた船員たちが酒を片手に馬鹿騒ぎを繰り広げていた。机に子供の落書きみたいな海図を広げ、毛の生えた太い指で海図を叩くように指し示して、どの顔も真っ赤に染まって声を張り上げている。時折、口論がエスカレートして男たちは粗雑に机を叩いた。それから少し離れたテーブルでは男たちがカードを使って何かの賭け事をしていた。誰も彼も酔っ払って手元がおぼついていないから何度も山札を崩しているようだけれど、それでも全員自分の勝ち数だけはきっかりと記憶している。
 シャルロッテがふらつきながらテーブルに近づくと男たちは日焼けした顔を一斉に上げて彼女のドレスを透かしてみるみたいになめ回した。
「なんだか未亡人みたいななりだな。え? 船旅はどうだ? 世間知らずの嬢ちゃんにはキツいか? まぁ、なんだっていい。そんなところで馬鹿みたいに突っ立ってねぇでこっちにきて酒でもついでみろよ」
 シャルロッテは男たちの粗野な言葉から身を隠すように、肩を持ち上げて軽くうつむきながらテーブルの間をぬって奥へ進んだ。テーブルとテーブルの間は人が一人通れるくらいの幅しかなく、貴族の妙に膨らむドレスは身動きに不便だった。酒で我を失った男たちはスカートに――それからあまつさえは細い腰にまでも――手を伸ばした。
「やめてください……わたし、ただご飯を取りにきただけで……」
「知ったことかよ! その無駄に派手な服を剥ぎ取りゃあ、いくらか見てくれもマシになるんじゃねぇか? そうすりゃ、政治と軍議で頭がいっぱいの貴族どもよりもよっぽどよくしてやるよ。何しろ経験が違う! それによく見てみりゃあ、顔はそこまで悪くないじゃねぇか」男はシャルロッテの顔にかかる金髪を持ち上げてその顔をのぞきこんだ。生温かい息が頬にあたり、シャルロッテは涙目になりながら顔を背けた。その反応がますます男たちの嗜虐心をあおるのはいうまでもない。
「泣いてみろよ。陸でも海でもどうせそのくらいの取り柄しかねぇだろ? なんつったって〝泣き虫シャルロッテ(プルニシヤール)〟っていうくらいだ。いいあだ名じゃねぇか。俺は気に入ったぜ! まさしくその通りだろ! うまくやりゃあ、気に入られて可愛がってもらえるかもな。社交界でもそうやって生きてきたんだろ? 港の連中がさんざっぱらいってたぜ。てめぇは意気地なしのどうしようもない奴だってな」
 この手の言葉は社交界で散々投げつけられてきたが、いつもならばただ心を痛ませるだけのそれも、なぜだか今日は感じ方が違った。目にたまった涙はそのままに、体の奥底から溶岩のようなドロドロとした熱いものがあふれだし、普段は決して表に出すまいと抑圧している淑やかでない心が叫び声をあげた。もう一言でも挑発されたらその顔を激しく叩いてやりたいくらい。長年の癖でシャルロッテは反射的にその気持ちを内側に封じようとしたが、自分でも不思議なことに今日だけはうまくいかなかった。心の炎はますます過激に燃え上がり――日頃、押さえつけている反動もあいまって――もはや制御不能だった。
「そうよ、こんな下衆どもに何を遠慮することがあるの? 今まではお父さまのためを思って飲み込んできたけど――ここにお父さまはいないし、わざわざそれを伝えるオバサマもいないわ。なんでこれほど心が沸き立つのかはわからないけど――いいわ。言ってやる。この男たちからなんと思われたってどうでもいいし、こんな奴ら怖くもなんともないわ!」炎に飲み込まれ、ついにシャルロッテが口を開こうとしたその瞬間、背後に巨大な気配を感じた。そこにいたのはイポリート副船長だった。
「よぉ、ずいぶん仲良くやってんじゃねぇか。おい、マルセル! この嬢ちゃんに食い物を渡してやれ」イポリート副船長は部屋の端の方でカードをしていたマルセルに命じた。よくみればこの広間の一番角のテーブルには手つかずの食事が寂しそうに置かれていて、マルセルはパンや数本のジャーキー、それからでこぼこのレモンを席から立つこともなくシャルロッテに投げて渡した。シャルロッテは怒りも忘れて必死になりながら飛んでくる食材をつかみ取ったけれど、細いジャーキーだけは空を切って何本かが床に落ちた。
「悪りぃな、ラムは飲んじまった!」その言葉とともに空のコップが飛んできて床の上を勢いよく転がった。行き場を失った感情は男たちをにらみつけて発散した。
「あの、イポリート副船長。できればお水をいただきたいんですけど……それか紅茶でも何でも構いませんが……とにかくお酒の入ってない飲み物が欲しくて」
「そんな嗜好品は積んでねぇ。飲み物はラムだけだ」イポリート副船長は短くそれだけ答えるとマルセルたちのテーブルに合流してカードに混ざった。彼がいなくなったと見るや男たちはまたシャルロッテに絡み始めた。
「酒が嫌なら海水でも飲んだらどうだ? せっかくでかい水たまりの上にいるっていうんだからな!」
「それよりも酒の飲み方を叩き込んだ方が早ぇだろ! それから男の喜ばせ方もな。そうすりゃ向こうでも客に困ることはない!」
「そりゃいいな。まずは酒からだ! ほら、飲めよ。それともママのミルク以外は受付ねぇか?」
「こいつの母親はとっくの昔にくたばってんだぞ。口にしてるとすりゃあパパのミルクだ」
 男は並々につがれたコップをシャルロッテに押しつけ、その衝撃で液体がこぼれてドレスに深い色のしみをつくった。男たちはシャルロッテがどんな反応を示すかと下卑た笑みを浮かべている。
「飲めばいいの?」シャルロッテは男たちをにらみつけ一息でそれを飲み干した。喉の奥が一瞬だけカッと熱を持ち、続いて嫌な後味が口の中に広がったがさして気にならなかった。「これで満足かしら!」心のままに空のコップを叩きつけ、シャルロッテは来たときよりもフラフラしながら出口へ向かった。なぜだかまっすぐ歩けないし、頭の中も霧がかっている。ただ不思議と気分だけは悪くない。誰がみても明らかなように、シャルロッテはすっかり酒に酔っていた。寝起きであおったラムが今ごろになって全身に回り始めたのだ。そんな状態でさらに追撃を食らわせればどうなるかは火を見るより明らかだった。
「なれなれしく触らないで! 大体――」と、いいかけてシャルロッテは一瞬口をつぐんだ。いくら自分が訳がわからなくなっているからといって一抹の理性が働いた。だがそれもほんの一瞬だ。「大体、あなたに抱かれるくらいなら野犬の相手でもしていたほうがまだマシよ!」
「言われてやがる!」同じテーブルの男たちはゲラゲラと机を叩いて笑った。
「この野郎――!」
「やめとけよ! 野犬以下がねずみ以下になっちまう! お姫さまは王子としか話したくねぇってよ!」
 男たちの間を通り抜け、ようやく食堂から抜け出した頃には言いたいことも言い終わりすっきりとした気持ちでいっぱいだった。勝利の甘い味は海馬にすっかりと焼き付いている。シャルロッテは満足気に小さく笑って、それから甲板につながる階段を目指した。今夜は勝利の宴だというのにあの狭い部屋では調子がでないというものだ。
 シャルロッテが階段に足をかけると、ちょうどそのときロウ船長と鉢合わせた。彼の姿を見るのもこの船に乗り込んだととき以来だ。なんだかこの狭い船内でみるとその巨躯はさらに威圧感があった。白いシャツの袖はまくられ、腕の入れ墨が露出している。機嫌は悪くなさそうだが、元からつりあがった眉は暴君のようで恐ろしいし、何度対面したってこの船長には何か有無を言わさない雰囲気があるのだ。シャルロッテはオオカミに睨まれた子羊みたいに慌てて階段を上ろうとした――けれど、それは丸太のようにごつい指に腕を捕まれて阻まれた。
「ずいぶんなご挨拶だな。人の顔をみるなり逃げ出すとは。貴族の世界ではそういう文化があるのか?」ロウ船長はたばこをくゆらせながら胸のあたりで低く笑った。体の芯に響くような低音は迫力があったが、酔いのおかげで船長もさして恐ろしく思わなかった。
「離しなさい。少なくとも礼儀も知らないような人に挨拶する風習はないわ」
 それにシャルロッテは先ほどの勝利に酔いしれていた。きっと自分の言葉には誰もかもを服従させる魔法がかかっていると勘違いしていたのだ。そうでもなければ眠れる虎を起こすようなことがどうしてできるだろう?
 ロウ船長は黒い瞳を残虐にギラつかせて指にますます力を込めた。
「黙れ。俺に命令するな。それで、どこへいくつもりだ?」
「……お言葉ですけど、あなたってすべてを把握していないと気が済まないのね。神さま気取り?」シャルロッテはもう一方の腕でどうにか船長の拘束から逃れようとしたけれど、その力強い腕はまるで鋼鉄でできているみたいにびくともしなかった。
「甲板にいくのか?」
「……あなたに伝える必要ってある?」
「いいから答えろ。さもないと腕をへし折るぞ」
「やれるものなら……」言い切らないうちに腕に込められた力がますます大きくなり、骨や関節がギリギリと音を立て始めると痛みで酔いが覚め、目の前の人物が途端に恐ろしく思えた。ああ、なんであんなこと口走ったんだろう! 脳内は後悔と恐怖でいっぱいになり、痛みに歪めた顔に涙が浮かんだ。ついには指先が小刻みに震え始めるとシャルロッテは声にならないうめき声をあげた。
「答えろ」ロウ船長は再び短く命令した。
「……はい、ロウ船長」
 シャルロッテは解放されるなり、足がふらつくのも気にせずに脱兎の勢いで階段を駆け上がった。船長はその背中を追いながら喉の奥で小さく笑い、偶然通りがかったバジルを呼び止めた。
「誰かあの女に酒を飲ませたのか?」
「あー、ほんの一杯だけ。なかなかいい飲みっぷりでしたよ。ありゃあ、船乗りの素質がある」
「そうか。甲板にいくならあの女もついでに見張っとけ。今に酩酊して海に落ちるぞ」

第五章 一話

 それからというものシャルロッテは一日の大半を甲板で過ごすことに決めた。先日は酔っぱらった体に夜風が心地よいのだとばかり思ったけれど昼の潮風も悪くない。長年慣れ親しんだ潮風はかなり爽やかで、あの狭い部屋に缶詰にされるよりも心なしか船酔いがマシに感じた。さらに翌日には悪魔たちが毎日一ガロンも飲んでいるあの毒薬めいた飲み物についても自らに厳格なルールを定めた。

 〝一日に飲んでもいいラムの量はコップ二杯まで〟
 〝間違えても一気に飲み干すなんてことはしないで、小さじくらいの量を慎重  に口にすること〟
 〝コップ一杯のラムを口にしたら午睡をとる〟

 じきにこのルールは形骸化するのだが、シャルロッテが当初設定した規則はおおむねこんな感じだ。変にラムをあおっていい気になって船長か誰かを挑発して逆襲されるのはこりごりだったし、野獣のような男たちからいつでも逃げ出せるように彼女は誰よりも酒に慎重だった。正直言ってあの夜、どれほど恐れ知らずな言葉を言い放ったかは記憶になかったが――とにかくロウ船長の恐ろしさだけは体と脳にしっかりと焼き付いた。シャルロッテはなるべく船長に近づかないように日々を過ごし、廊下ですれ違うときはたとえどれほど気分が悪くても片足を引いてお辞儀をした。腹がたつのは大抵は無視されるところだが、もちろん不満を叩きつける勇気はない。そうでもなかったら挨拶なんて絶対にしてやるものか。
 甲板で毎日を過ごすようになると、シャルロッテはドレスというものがいかに船上生活に不向きなのか痛感することになった。動くたびにレースや飾り糸といった装飾品が必ずロープを縛り付けるための突起だとか、木材のささくれとかに引っかかり、たびたび醜態を晒しそうになるのだ。それに船内の細い廊下だと愛らしく膨らむスカートが廊下を占有してしまってすれ違うこともできない。となると船乗りたちは船長の真似事みたいに「邪魔」だの「退け」だのと口々にシャルロッテを罵(ののし)った――もっとも、シャルロッテが動かなくても船乗りたちは強引に彼女を押しのけて通るのだけれど。
 常にほろ酔いのシャルロッテは船長以外の男なんてこれっぽっちも怖くなかった。それに上から目線の命令に従うのも癪で、シャルロッテはその言葉をはなから無視していた。大体、通路のど真ん中に座っているわけでもないのに、そこにいるだけで目障りだという態度はむかっ腹がたったのだ。だが、そんな取るに足りない些細な抵抗はたいした意味を持たなかった。
 大抵の場合、男たちは二、三回同じようなやりとりを繰り返した後、ことの一部始終を船長に報告して悪魔みたいに恐ろしいロウ船長が派遣されたからだ。シャルロッテがいくらほろ酔いで勢いづいていても、船長の命令にはいつだって従うしかなかった。あのなんともいえない威圧的な態度を前にすると次こそ本当に腕を折られるような気がして、シャルロッテはしぶしぶその場を明け渡す。
 一体船員たちがあの横柄な男のどこに惹かれるのかはいまだに理解不能だった。

 今日も今日とてシャルロッテは甲板を追い出された。時間はちょうど正午で、目を覚ましてから少しずつ口にしたコップ一杯のラムをようやく飲み終えたところだった。先日決めたルールに従うのなら部屋に戻ってベッドで横になるべきだったけれど、この日のシャルロッテはほろ酔いで、ありていにいうなら理性がまるで使い物にならなかった。そんな状態で身体に馴染んでもいない規則を思い出すはずもなく、さらにはあの狭い部屋の壁にある木の節も数え終わってしまったことを思い出してシャルロッテは唐突にこの大きな船の内部を余すところなく探索することに決めた。
 船尾側の船橋の下にあるのが船長室だということはなんとなくわかっていた。たびたび船長がその部屋に消えていくところを目撃していたのだ。だからシャルロッテは滅多なことではその部屋に近づかなかったし、なるべく視界にも収めないようにしてきた。だが今になって一度も気にとめたことがなかった船長室の扉に何やら一枚の日焼けした紙が貼り付けられているのに気がつくと、シャルロッテは不思議な好奇心に駆られた。いったいあれは何? 海図かしら? それとも乗組員の名簿とか? シャルロッテは抜かりなく船長が水夫たちに帆の向きを指示して忙しそうなのを確認してから船長室の目の前まで向かった。
 さびたナイフをドアに突き刺すという古典的な方法で止められた紙には詩みたいにいくつかの短文が連なり、その下には船員たちのサインが書かれていた。インクは海水と雨水でにじんでいたけれど、どうにか読み解けた。

一、すべての乗組員に投票権を与える。新しい条項を発議することや、蒸留酒を手に入れることも同じく公平であり、投票権を行使すること     も棄権することも自由である。
二、すべての乗組員は上官の命令に従わなければならない。戦利品について、船長は二人分を分け前とし、副船長は一・五人分とする。
 獲物なければ報酬なし。
三、仲間内での窃盗はその度合いに応じ、鞭打ち刑または射殺とする。
四、二〇時には蝋燭を消して消灯すること。もし、飲み足りない船員がいれば甲板で飲むことを許す。
五、戦闘中に船や持ち場から逃亡した場合、死刑または置き去りの刑に処す。
六、船上での私闘を禁ずる。揉め事は陸地において剣とピストルの決闘によって解決すべし。
七、船倉内で銃の撃鉄を上げてはいけない。
八、貞淑な女性に対し、相手の同意なく手を出す者は背中に鞭打ち百回の罰を与える。つまり(この一文だけ後から付け足されたようでインクと筆跡が異なっている)たしかな合意がある場合罪は不問となる。                                                              

第五章 二話

 最後の条項を読み終え、シャルロッテは顔を真っ赤にして思わず「冗談じゃないわ!」と、叫んだ。「誰がこんな男たちとベッドをともにするものですか! 今際の際になったとしたって、いったい誰が!」
 ここにいる全員がこんなことを考えていると思うと嫌悪感から全身に鳥肌がたち、不快な思いをぶつけるように眉間にしわを寄せ、甲板にいた男たちを睨みあげた。だが、ほとんどの乗組員はそんなこと意にも介さなかった。口元にせせら笑いを浮かべ、いつも通りのまとわりつくような下品でいやらしい目つきをシャルロッテの小さな胸元や腰に向けている。
 シャルロッテは恥ずかしすぎて死にたくなった。今まで一度だって体を許したことはないのに、よりにもよってこんな人たちにそういう視線を投げつけられるだなんて! 一分一秒でも同じ空間を共にしたくなくてシャルロッテは慌てて階段を駆け下りた。普段シャルロッテが暮らしている砲列甲板からさらに一つ階層を下ると船内は一気に静まりかえり、船長のはっきりとした指示もそれに答える船員たちの声もかすかに聞こえるだけになった。
 この場に一人きりとみるやシャルロッテは途端に機嫌をよくして、幼少期の冒険心が舞い戻った。心の中は好奇心でいっぱいだった。いつだって知らない場所を探検するときは知らない世界に迷い込んだような気分になる。初めて友だちの家に招かれたときだって本当は屋根裏部屋から地下室まで余すところなく見てまわりたかったけれど、貴族の娘はそんなことしないようで両足を地面に縛り付けるのに苦労した。家名のために、はしたないことをするわけにはいかなかった。
「だけど、内々なら構わないと思って地下のワインセラーがお気に入りだなんて白状したのは悪手だったわ。こっぴどく叱られるし、鍵をかけて二度と入れてくれなくなったもの」
 地下の宝箱も屋根裏の秘密基地も令嬢は立ち入り禁止だった。今まで森の中で自由気ままに生きてきたシャルロッテからすれば不満もいいところ。だが今日は行いをとがめる人はどこにもいないのだ。
 天井からはいくつものハンモックが吊され、シャルロッテはすぐにこの階層が水夫たちの寝室であると感づき、それと同時にほんの少しだけ船乗りを不憫に思った。というのも彼女にとってハンモックは普段使いするものではなく、もっぱらピクニックで木にくくりつけて午睡を楽しむものだった。それに正直に言って眠り心地は良いものではない。どれほどロープで頑丈に固定しても布の中央がたわんで背骨が曲がった状態になるからおのずと眠りも浅くなるのだ。午睡ならばそれでもいいけれど、それが毎日となると気の毒だ。
「きっと守銭奴の船長に脅されてこんな生活を強いられているのね」
 けれど、それはシャルロッテのまったくの妄想でしかなかった。実際ハンモックは英国海軍でも使われるような歴とした寝具で、激しく揺れる船内では時としてベッドよりもハンモックの方が安眠が保証されるのだ。少なくとも寝ている間に床に落ちて怪我をする心配はない。
 ハンモックの下には長いテーブルが置かれ、そこには空のコップが今朝のまま放置されていた。その側には船員たちの年季の入った茶色をした個人用の収納が置かれている。シャルロッテはちょっとした好奇心に駆られて茶色の箱に手を伸ばして――その瞬間、雷鳴が轟くようなすさまじい音が鳴り響き――てっきり誰かが自分を殴るために襲ってきたのではないかと思って――シャルロッテは反射的に身を縮こまらせた。けれど冷静になってみれば物音は足下から聞こえてきた。さらには水夫と副船長の慌てた声がやはり足下から聞こえる。
「てっきりこの階層が最下層だとばかり思ってたけれど……まだ下があるの?」シャルロッテは隠された秘密の部屋に瞳を輝かせて辺りをキョロキョロと見回した。見たところ階段らしきものは見当たらない。
 シャルロッテはしばらくその階を探索し、やがて降りてきた階段の裏側に隠された通路があることに気がついた。最初は気がつかなかったがそこだけ床の造りが異なっている。どうやら木の板がふたのように昇降部をふさいで、持ち上げられるようにロープが輪の形をしてふたに固定されていた。
 床に耳を近づけて音を聞くとやはり声はこの下から聞こえてきた。シャルロッテはすっかり探検家の気分になってわくわくしながらロープに手を伸ばした。ふたは金庫の扉くらい重たくて腕の筋肉が小刻みに震え、一〇センチほどの隙間に足を入れ込んでそこから強引に持ち上げるとようやく下層へ続く階段が姿を現した。ろうそくの炎が怪しく壁に揺らめき、人間の黒いシルエットが縦長の化け物みたいになって階段の下まで伸びている。
 ほらね、わたしの目をごまかそうとしたってそうはいかないんだから。シャルロッテは意気揚々として――この頃にはすっかり酒が全身に回っていたし、それも珍しく耐えがたい吐き気よりも高揚感が全身を満たしていた――階段を下り、それから探偵よろしく木箱の影に体を隠して通路の奥をのぞき込んだ。狭い通路の壁一面には酒樽や食料の入った木箱といった貴重品が山のように積み上げられていた。積み荷はロープで縛られ、壁や天井にしっかりと固定され、さらには網をかけて厳重に保管されている……けれど、どんな魔力が働いたのかその一角が盛大に崩れていた。
「さっきの轟音は積み荷が崩れた音だったのね」
 廊下の奥にはイポリート副船長と二人の男がいた。男たちは衝撃で散らばったレモンを木箱に投げて戻しながら悪態をついていた。そのうちの一人は片足のアンドレだ。彼はシャルロッテを嫌う水夫の筆頭で、いつも棒のような義足をガンガンと床にたたきつけるのが何よりも恐ろしい人だった。
 ただでさえ短気な男たちが殺気すらも漂わせているのは狙いを定めた果実が船の動きに合わせて前後左右に逃げ出すからで、シャルロッテは男たちが黄色い小悪魔に翻弄されるのをみてくすくすと肩を揺らして笑った。いつも自分にひどい言葉ばかりを投げつけるアンドレがあんな小さな果実一つの手玉に取られるのが面白かった。けれど悪魔はシャルロッテにも平等だった。一人の水夫が太くて短い指を伸ばしたその瞬間、思いがけず当たった指先が果実を弾き飛ばし――あろうことかレモンはシャルロッテの足元まで這(は)いずり、男たちの視線は自然と出入り口に誘導された。
 シャルロッテは慌てて木箱の陰に隠れ、息を殺したがもはや何の意味もなかった。
「どの船にもネズミがいるもんだな。それにしたってまさかこんな深いところまで降りてくるとは!」イポリート副船長は膝をたたいて笑った。
「どうしますか? 部屋に閉じ込めときましょうか?」
「放っとけ。どうせ上で船長に追っ払われたんだろ。それに家畜だって鎖でつないどくよりお天道様の下で走り回らせた方が健康に育つってもんだ。盗られて困るようなもんもまだないだろ。それよりもこれをなんとかすんぞ」
 二人の水夫のうち一人はすぐに積み荷に視線を戻したが、もう一方はどうしても部外者がこの空間にいることが我慢できなかった。アンドレは泥棒猫が慌てて身を隠した影をじっとにらみつけて激しく舌打ちするといらだちに任せて船底を貫かんばかりに足を鳴らした。
「だから俺は反対だったんだ! 今からでも見張りでもつけて部屋に閉じ込めときゃいいだろ! いいや、この際だ。海に突き落としたって構いやしねぇ! どのみち生きてようが死んでようが誰も気にしないんだ。大体、貴族の――甘やかされて育った箱入り娘なんざ小指の先ほども信用に値しねぇ! じきに俺たちの取り分を根こそぎ奪ってとんずらこくだろうよ。しかも俺らにはそれをとがめる権利がないときた!」
「そんな度胸があるようにはみえねぇけどな」
「いんや、女は信用できねぇ。貴族の女は特にだ! 大体――父が父なら子も子、だ! 国賊の娘の言うことを信じられるってのか? あ? 俺に言わせりゃ、すべては天罰なんだ! この女の父親だってどこで野垂れ死んでるのか知らねぇが……せいぜい地獄の苦しみを味わいながらくたばったことを祈るぜ!」
「あなたがお父さまの何を知ってるのよ!」突然激しい怒りで目の前が真っ赤にそまり、怒りに震える両手をきつく握りしめながらシャルロッテは感情のままに怒鳴りつけた。普段の演技はすっかり頭から抜け落ちて、むき出しの敵意だけが全身を満たしている。
 シャルロッテは大股で男に詰め寄って厳しくにらみつけた。
「大体、盗人はあなたたちの方だわ! 薄汚い手段で私欲を満たして――! あなたたちなんて悪魔に食われてしまえばいいのよ! いっそこの船ごと沈んでしまえ! 神が許したってわたしが呪ってやるわ!」考えるまでもなく喉から罵倒の言葉があふれ出た。こんな言葉を使ったとしれたらどんな目にあうだろう。だけどこれが偽りない本性なのだ。
 男は一瞬たじろいだけれど、次の瞬間にはシャルロッテのことを殴りつけてやろうと思って拳を構えた。
「殴りたいなら殴ったらどう!? わたしは逃げも隠れもしないわよ!」
「このアマ……!」アンドレは脇に差したピストルに手をかけた。その瞬間、シャルロッテの赤い顔が血の気を失ったようにさっと青ざめた。小さな悲鳴が口から漏れて、頭がずんと重くなる。そんなことお構いなしに男は何の躊躇もなく黒々とした銃口をシャルロッテに向け――ついにシャルロッテが死を覚悟したのと同じタイミングでイポリート副船長の怒声が倉庫に響いた。気がつけばサーベルの刃がきらりと輝いて男に向けられている。
「アンドレ! てめぇ、ここがどこだか忘れたわけじゃねぇだろうな! 弾薬庫に引火したらどうするつもりだ!? その腕を切り落とされたくないならさっさと手を離せ! 熱くなって理性を忘れるようなら二度とばかな真似できねぇようにするだけだ! やるなら上でやれ!」
 アンドレはしばらくシャルロッテをにらみつけて、それから機嫌悪そうに義足で床を蹴りつけてピストルをしまった。
「ガキ! てめぇも散れ! 死にたくねぇならこれ以上人を挑発してまわらないことだ。死にたいならどうか一人で勝手に死ね。間違ってもこの船を道連れにしようだなんて思うなよ! 自分が正義の使者だなんて勘違いはしないことだ。それこそガキの妄想ってもんだろ」
 シャルロッテは顔を青くしたまま足早にその場を離れて自室に駆け込んだ。薄い木の扉を閉じて扉に寄りかかりながらずるずると座り込むとようやく全身に血の気が舞い戻った。心臓がドクドクと信じられないほど早く脈打って四肢にエネルギーが送られていく。それと同時に勝利の高揚が少し恐ろしいくらいに全身を満たして、シャルロッテはこらえきれずに大声で笑い始めた。
「ざまぁみろ! お前たちなんて怖くもなんともないんだから!」高らかに叫ぶとシャルロッテはハッとしてスーツケースに走り十字架を取り出して胸の前で握りしめた。「どうかあいつらの魂が悪魔に食われますように!」そう思ったものの、冷静になるとほんの少しだけ良心がとがめた。「こんなこと祈ったら罰が当たるかしら? いいえ、構いやしないわ。商船を襲って私腹を満たす極悪人であることに変わりはないんだから」

第六章 一話

 その日は船乗りにコテンパンにされて、シャルロッテはまだ陽も高いうちから安住のベッドに逃げ込んだ。こうして部屋に閉じこもっていても外から男たちの馬鹿笑いが聞こえてきて嫌になる。ベッドがかび臭くてたまらないのも気にせずにシャルロッテはベッドに突っ伏してシーツをきつく握りしめた。水夫たちのあざけりが耳に入るたびブルーの両目から絞り出すように涙がこぼれでて薄汚れた寝具を濡らした。
 間違いなく三十分はめそめそして、外の話題もすっかり切り替わったころ、シャルロッテは泣き疲れてようやく眠りについた。船に乗ってからというもの、毎日ラムを口にしては気絶するみたいに眠りについていたから長らく夢を見ることもなかったが、今日だけは目を閉じるともうずっと昔のことに感じる光景が広がっていた。
 気が付けばそこは荒波のうねる大海原ではなくて家の狭い庭園だった。足元には青々とした草が生い茂り、花壇には色とりどりの花が咲き乱れている。庭園をしきるフェンスの奥には穏やかな海が広がっていたが、潮の香りなんてこれっぽっちもなく花の甘い香りだけがすべてを満たしていた。空はどこまでも広く澄み渡り、雲一つない晴天だ。
 新居ではたったの一度だってこれほど見事に咲き誇る花は見たことがなかったが、この穏やかな空間では実に当たり前のことだった。花は季節なんて関係なく年中愛らしく咲き乱れ、萎(しお)れたり枯れたりすることもない。
「お母さんったらまたお庭に出てる」花壇の前には淡い紫色のドレスを身にまとった貴婦人が一人かがみ込んでいた。それは懐かしい母の後ろ姿だった。淡い茶色の髪をシニヨンできっちりとまとめ、陶器のような白い首筋にはショールを巻いている。ああ、だけど気に入らない。まるで病人のように首筋には縦に線が走り、娘の頬を撫でる手も肉がなく関節が浮き出ている。
「無茶するとお医者さんに怒られるわ」と、シャルロッテは言った。それにしてもなんで怒られるのだろう? たしかに母は強壮な方ではないけれど、年がら年中病に伏すほどひ弱でもないのに。母の手は温かくて心地がいい。
「カボチャの様子を見てたのよ。そろそろ熟れる頃合いでしょう。来週にはきっとパイを作りましょうね。アナベル婦人にもお裾分けして。それともベリーの方が好き?」
「お母さんの料理ならなんだって好きよ。ねえ、お父さんが呼んでるの。もうお腹が空いてどうしようもないのよ」笑いながらいうと、母も笑いながら返した。
「まぁ、本当にしょうのない人ね。それならお昼にしましょうか。おいで、シャルロッテ」
 食卓には奇妙ないでたちの父親が座っていた。彼はこの場に不釣り合いなことに肩に猟銃をひっさげ、まるでたった今、生家の森から帰ってきたみたいに空いている手で野ウサギの長い耳をひとまとめにして掴んでいる。ウサギは危険を察知して身じろぎ一つせず亡骸のふりを続けていた。
「やっときよったな。さぁ席につけ」父は短気を装いながら待ちくたびれた、とばかりに短く命じた。けれど母も娘もその顔がこの光景にすっかり満足して口元に小さく笑みを浮かべていることに気がついていた。それなのにおかしなことに父だけは一向に自分の表情に気がつかないのだ。本人だけはいつもいかめしく威厳に満ちていると思い込んでいる。優しい女たちはもちろん事実を指摘しなかった。ただいつも互いに目配せして小さく笑い、それからますます愛しく思うだけだ。
「どうやらまたわしの知らんところで通じあっとるみたいだな」
「ご冗談を。いつだってこの家の中心じゃないですか。お待たせいたしましたわ、ビリーさま。シャルロッテのプレゼントを考えていたらあっという間に時間が経ってしまったんです」
 シャルロッテが少し目を離した隙に父の肩から猟銃はなくなり、野ウサギは立派な雄鶏に変わって白い陶器の皿に盛り付けられた。焼きたての肉から白い湯気がもくもくと宙にのぼって消えていく。机の上に乗りきらないほどの料理が次から次へと運ばれ、ついに置き場がなくなると部屋の端にひかえていた使用人は両手に料理を抱えたまま困惑した。そうだ、今日は誕生日だ。
「全部食べていい?」
「まったくがっつきおって。いつかは貴族の令嬢になるというのに……」父はいつもの口癖を繰り返して不満げな顔をした。
「でもシャルロッテはまだまだ成長期ですよ。お花も人も健やかに育つのが一番ではありませんか。それに時期がくれば女なんて食べたくても食べられなくなりますわ。わたしもあまり食欲がありませんもの」そういう母の前に置かれた皿には一つの料理も取り分けられていなかった。
 シャルロッテは心配そうにつぶやいた。「だけどお母さんは食べないと……」ちらりと母に目をやると、その腕はもはや棺に横たわる亡骸と同じにみえた。全身から肉がすっかり落ちて、薄い皮だけが無理に張り伸ばされて筋に合わせてシワをつくっている。そんなことをいう間にも頬の肉がそげ落ち、眼(がん)窩(か)が落ちくぼみ、色白というよりは青白い肌になって母は死の階段を急速に駆け上がっていく。ゾッとしたシャルロッテは慌てて母に声をかけた。「待って、だめ。だめよ、お母さま……」シャルロッテが母の手に触れると、いつの間にか彼女の手のひらには痛々しい木片が突き刺さっていた。まるで母に寄生するかのように、木片は手のひらにしっかりと根を張っている。ああ、それには見覚えがあった。このささいな怪我が最愛の母を奪い去ったのだ!
 その瞬間、地響きのような音が鳴り響き、美しい壁が剥がれ落ちるようにボロボロと崩れ始めた。優しい夢が終わろうとしていた。あれほど美しかった母は机の上に体を伏せてひきつけと呼吸困難を起こし、父は忽然と姿を消した。シャルロッテは慌てて母に駆け寄ったが、今も昔も自分にできることなんて何一つもない。
 そのさなか屋敷の扉が死神によって何度も激しく叩かれた。ドン、ドンという音は屋敷が崩壊する音と入り交じり次第に大きくなり、早く母の魂を明け渡せと言わんばかりに連続した音になって――シャルロッテは無理に覚醒して額の汗と涙を拭った。
 変なタイミングで覚醒したせいで頭が突き刺されるみたいに痛んだが気にしている場合ではなかった。心臓が速いペースで波打ち、全力で走ったあとのようなぐったりした疲労感が全身に広がる。洋服はぴったりと汗で体に張り付いて、肩を激しく上下させているのに頭にはまるで酸素が行き届かない。
 それに悪夢から逃げ出したはずなのに死神が扉を叩く激しい音がどこかから聞こえて、シャルロッテは今にも悲鳴をあげて泣き出したくなった――きっとこれは罰なのだ。父の無念を晴らそうともせずに、責務を投げ捨てて船に逃げ込んだわたしへの……。きっとそうに決まっている。わたしは親不孝者で呪われたんだわ。お母さまの命だけでは飽き足らず、わたしの命までも狙ってるんだわ! ああ、でも抵抗なんてできない。この船に乗り込んだ理由に保身がなかったとは決していわないし、父の名誉をかけて戦わなかったのは本当のこと。本当ならば名誉と誇りと共に怒り狂った民衆に殺されるべきだった。そんなことは分かっているのだ。きっと勇気ある人ならそうした。だけどわたしはそんなことできなかった。あの閉鎖的な港からすぐにでも逃げ出したかったのよ! 武器なんて持ちたくなかった。戦いたくもなかった。ただ怖かったから逃げたかっただけ。あの場所から、父が長年をかけて築いたあの場所から逃げたかった。生きて父を探しにいくだなんてただの方便に過ぎないと、少し心をのぞけばわかることなのだ。でも、そう思うと醜い自分に耐えられなくなるからシャルロッテは必死に言い聞かせてきた。これは敗走ではないのだと。自分は戦えなかったのではなくて、そうする必要がなかっただけだと――けれど少し冷静になればその音が死神の足音なんかではないとすぐに気がついた。この音は扉の外で水夫たちが慌ただしく走り回っているだけだ。
「おかげでひどい夢をみた……それにしたって今度はいったい何の騒ぎなの?」
 船内が騒がしいのはいつものことだけど、なんだか今日は普段と様子が違った。誰もが雄叫びをあげ、大きな足音を響かせながら船内を駆け回り、地鳴りのような音が船を揺らし、何もしていないのに天井から土埃が落ちた。突然壁が崩れ始めたのもこれが原因ね、と冷静になった頭で悪夢を分析しながらシャルロッテはそっと扉を開けてみた。
 外はまるで戦争でも始まったみたいな異様な熱気だ。普段はシャルロッテをからかわずにいられない男たちも今日ばかりは視界にも入らないらしく、大声を張り上げながら甲板へと駆けていく。何かあったのだと思うと一旦は落ち着いた心臓が早鐘を打って、寝起きにもかかわらず頭が冴えていた。男たちの酒焼けした声は張り上げて反響するとかなり聞き取りづらく、聞こえた言葉は「英国」だの「獲物」だの「取り分」だのと断片的なものばかりだ。聞き慣れない単語たちが脳内でつながることはなかったが、とにかく上で何かが行われていることは確実だった。
次の瞬間にはその予想を裏付けるかのように頭上から船長の命令が聞こえてきた。
「おまえら仕事だ! 帆を下ろせ!」船長が声を張り上げると船員たちは喜々として雄叫びを上げて指示を繰り返した。「帆を下ろせ!」
「弾込め!」
 そして次の指示が聞こえたかと思いきや四つの巨大な爆発音とともに船が大きく横に揺れて――まさかそれが大砲の音だなんて思わなかった――シャルロッテは飛び上がり住み処を荒らされたねずみのように慌てて地上へと這(は)いだした。どうやら先ほどの爆発音で耳がおかしくなったみたいで高い耳鳴りが頭の中で鳴り響くばかり。だが、船員たちが甲板に置かれた砲台を囲みながら興奮して何かを叫んでいるのはわかったし、船長が何かを命じたのは理解できた。
 それからシャルロッテは衝撃的な光景を目の当たりにして絶句した。甲板の上にずっと野ざらしにされていた黒光りする砲台が爆発音と爆風をまき散らしながら鉛玉を打ち出していた。重い砲弾は空に白い軌跡を残しながら弧を描いて飛んでいく。その先には。その先には一隻の商船が浮かんでいた。三十トンは積めるような巨体で、船尾には色鮮やかな英国旗(ユニオンジヤツク)をはためかせている。放たれた砲弾は船のすれすれのところに着弾して、大きな水しぶきがあがった。その瞬間シャルロッテは否応なしに理解した。この異様な熱気も、あちこちで張り上げる声も獲物を前にした咆哮なのだと。
 それに気がつくとシャルロッテは途端に恐ろしくなって両手を胸の前で組んで必死に祈った。「神さま! どうかあの人たちをお助けください! どうか当たりませんように……!」
 砲弾は次から次へと宙を舞い、英国船を通り越してさらに先に落ちたり近くに落ちたり。けれどどうやら乗組員の態度を見る限りはなから当てるつもりもないようだった。角度の調整はおろか、着弾点の観測すらしていない。男たちは戦場で無駄に玉を消費する戦士のようにハイになって、一発撃つと喜々として次の準備を始めた。しかし狙わないからといってたまたま当たらないとも限らない。ろくに冷やされない砲台はとんでもない熱をもって膨張して毎回異なる場所に鉛玉を落とした。実際何発かは英国船のすぐ隣に着弾して大きな水柱が船を覆い尽くした。
 砲弾が撃ち出されるたびにシャルロッテは肝を冷やして恐ろしさに心臓が凍りつきそうになった。そんなところで立ち尽くしているくらいならどうか今すぐにでも舵を切って逃げ出して欲しいくらいなのに、英国船は動力を失ったみたいにまるで動こうとしない。
「どうして逃げ出さないの?」シャルロッテはじれったくなって思わず船の縁に駆けだした。今だって船が何マイルも先にみえるくらいなのだから、今からでも必死に逃げれば水平線の白い霧の奥に逃げ込んで助かるような気がするのに。思わず口から漏れた疑問は珍しいことに船長が回答した。
「逃げ切れるわけがないだろう。あれはどんなに頑張ったってせいぜい三ノットがいいところだ。今も動いてるのが奇跡だな。おいセリオ、逃がすなよ!」
「アイ・アイ・キャプテン!」船橋の上から男が威勢よく返事をするとシャルロッテは慌てて階段を駆け上がり操舵手に詰め寄った。船長に言い返すのは恐ろしかったけれどそれ以外なら大して怖くもない。
「追いかける必要があるの? こんなのってひどいわ。わざわざこんな恐ろしいことしないで逃がしてあげたっていいじゃない! お願いだからやめましょう」
「交渉したけりゃ船長とやるんだな――もっとも、万に一つも聞き入れられる可能性はねぇけどな」
「だめよ、こんなの――」その間にも激しい爆音と共に新しい砲弾が弧を描き数マイル先で水面に着弾する。今度は船尾側に落ちた! やはり時間の問題だ。シャルロッテは耳鳴りで自分の声量も分からなくなりながら叫んだ。「もし砲弾が商船に当たったらどうするの!?」
「どうする? そんときや運が悪かったってことだ! 日頃の善行が足りてねぇんだろ。そんなの俺の知ったことか。まぁ――その泣き顔に免じて一つ教えてやるなら、砲撃はじきにしまいだ。自分が誰に襲われているかちゃんと理解してりゃあ、下手な真似はしねぇよ。そのうち諦めて投降する気になる。俺たちだってあの船が沈んだら困るんだ――おい、今のは惜しかったな!」セリオは砲弾が飛んでいった方角を見つめながら笑った。シャルロッテはもう恐ろしいやら何やらで両目に涙がいっぱいにたまって、もはや着弾点を観測することすらできなかった。きっと次こそは当たってしまう。両手で目を覆い尽くし、体の芯に響くような爆音に怯え、当面はセリオの感想だけが状況を知る唯一のすべとなった。しばらくしてセリオは強引にシャルロッテの両手を引き剥がして彼女を船のへりに押しやった。「おい、見ろ。やっと覚悟を決めたぞ。向こうの船長もなかなかの切れ者だな。一箱だろうと積み荷を投げ捨てたら今度こそ船ごと海に沈めるところだぜ!」
 空には砲弾の白い軌跡が何本も残り、はじめの方の軌跡は薄くなってほとんど消えかけている。イギリス商船は水平線の白いもやの中でゆっくりと船首をこちら側に向けていた。シャルロッテはその光景にほとほと絶望してしまった。
「一体これからどうなるの?」私掠船の本分が略奪であることは知っていたが、果たしてその方法は知らなかった。まさか乗組員を皆殺しにするのだろうか? 海賊は港町を焼き払って金品を強奪すると聞く。だったらもしかしてこの人たちも……。そう思うとシャルロッテはますます商船に逃げ出してほしい気持ちでいっぱいになった。敵国だからと言ったって父と同じ商人だ。シャルロッテは両手を胸の前で組み、どうか向こうの船長に神の啓示が訪れることを願った。
 しかしよく考えてみれば、たとえ自分が商船の船長だったとしても、相手がロウ船長だったなら無抵抗の降伏を選ぶかもしれないと思った。命まで奪われるのかどうかは知らないけれど、抵抗したら間違いなくもっと恐ろしい羽目になりそうだ。横目でのぞいたロウ船長の顔には不敵な笑みが浮かび、肩にかけた上質なコートは風にはためいてなんだかより一層凶暴そうに見える。もし少しでも抵抗したなら容赦なく船を沈めにかかるに違いない。
 それに加えて――シャルロッテは知るよしもないことだったけれど――イギリス船はこの大海原で道を失い、海の流れも休憩できる小島もわからず、食糧もほとんど尽きかけそうな状態だったのだ。この私掠船の主が名の知れた男だというのは商船の船長に限らず水夫たちにもすぐにわかった。おそらく抵抗が無意味であることも。ほんの少しのいさかいはあったにしろ、話はすぐにまとまった。水夫たちは帆柱につながる縄梯子にのぼりながら洗い立てのシーツみたいな純白の布を振り回している。
「ピストルは構えとけ」
 船長はそれを見るなりすぐに船員たちに新たな指示を出した。短い言葉でありながらその言葉はそれなりに恐ろしくて、これから起こることを的確に想像するに足る言葉だった。
 遠くから見れば大きくてさも立派にみえた船もこうして近くで見ると見劣りして、船長の言った言葉がようやく理解できた。風を受ける帆はところどころに穴が空き、補修すらされていない。その上、この巨大生物を動かす動力であるはずの船乗りたちはそのほとんどが疲弊の面持ちを浮かべていた。その疲れ切った表情だけでどうやらここまで流されるのに相当な苦労があったのだろうと悟らせた。
 ついに短い板一つかませば行き来できるくらいの距離まで近づくと、商船の船長は甲板にでて両手を頭の高さであげた。初老の男だった。髪も髭も真っ白だが、この人も間違いなく海の男らしく弱々しいところはこれっぽっちも感じない。
「抵抗する気はみじんもありませんよ。エドワード・ロウ船長――それにしたって名が知れているというのはそれだけで大きな武器ですな。たとえそれが悪名であってもそれだけで反骨心を折れるというのですから」と、言いながら初老の船長は仲間たちをぐるりと見回した。そのうちの大半はくたびれ果てて顔をあげようともしないが、一部は納得がいかないという風にロウ船長をにらみつけている。その大半は成人したてみたいな青年だ。今にも腰に差したピストルで脳天を撃ち抜いてやりたいほど気がたっているのに、すんでの所で抑えられているのはこの下衆たちと同列になってたまるかという思いが大きい。
 初老の船長は彼らを押しとどめるのが何よりも大変だったと言わんばかりに口元につかれた笑みを浮かべた。
「もちろん一悶着ありましたが。必要なら武器もこの場にすべて捨てさせましょう」商船の船長はずいぶんと裕福そうな人だった。召し物は荒々しい航海の途中だとは思えないほど上質で、社交界で何度もそういう服を目にしたことがあった。それもそのはず、このシドニー・スラットリー船長は古くからのイギリスの名士だった。目の下には隈が刻まれ、おそらく出港したときよりもシワが濃くなってはいたが、生まれついての立派な性分というものが全身からあふれ出ている。少なくとも彼の態度は投降した人のようにはみえない。口ぶりもまるで旧知の知り合いと再会したようなもので、はたから見ている分には怯えや恐怖なんてものはこれっぽっちも感じられなかった。それどころかこの船長からは呆(あき)れとさげすみのようなものまで感じた。
 その様子は確実に相手に伝わり船員たちの心に火をつけた。男たちは「これだから貴族は嫌いだ」と言わんばかりに床に唾を吐き捨てた。
 シャルロッテはその会合をヒヤヒヤしながら見つめながらも、不屈の態度に拍手を送りたくなった。そういう性質をさして人は立派だというのだろう――賢いかどうかはおいて置くにしたって。少なくとも人の商品を強奪して生計を立てているこの人たちよりかははるかに立派だし、それに加えて父と同じ商人ということもあって漠然とした親近感があった。
「物分かりがよくて助かるな。ぜひともそうしてもらおう」
「全員、武器を地面に落とせ」
 男たちはわめき立てることもなく粛々と武器をベルトから外して床にたたきつけた。それを見るや船員たちは薄い木の板を船と船の間に橋渡しして次々と船を渡っていく。商船に乗り込んだ男たちは無抵抗の船員たちにわざわざ肩をぶつけたり罵声を浴びせたりしながらゲラゲラと笑って船の内部に侵入した。
「まるで野蛮人だな」スラットリー船長はわざわざ聞かせるために独りごちたが、ロウ船長はそんなことまるで気にしないとばかりにうなるように笑った。
「否定する気も起きないな。第一そっちの方が金になる。それから貴金属も頂こうか」船長は野蛮人らしくサーベルを取り出して男のベルトにつながった立派な懐中時計を指し示した。スラットリー船長は金具を外すと懐中時計を床に放り投げた。まるでこの程度の損失、床にはいつくばってそれを回収する姿が見られるのならば惜しくないとでも言わんばかりだ。
 スラットリー船長は船員たちに目で促したが、今度は武器を下ろした時ほどすんなりとはいかなかった。男たちは顔を見合わせて一様に渋い顔をした。というのもやり手の商人ほど稼いでいない水夫たちからすれば貴金属があしらわれた品なんていうものは多かれ少なかれ思い入れがあって数え切れないほどの思い出がある。
「結婚指輪もか?」苦しげに質問した男をみて副船長はにやりと笑った。
「おいおい! 馬鹿なことを聞くなよ。指がなくなったら元も子もねぇだろ。それともてめぇも俺の仲間になるってか?」と、いいながら彼は小指と薬指のない奇妙な手を男の目の前にひらひらとかざして粗野な笑い声をあげた。船員たちはそれを見るなり――何が楽しいのかシャルロッテにはさっぱりわからなかったけれど――呼応するように笑った。男はしばらくためらってから指輪に口づけして名残惜しそうにそれを手放した。
「なぁ、船長さん……これだけは勘弁してくれねぇか? 妻と子供の形見なんだ」
「さすがの俺でも首が飛ぶのはちと痛ぇな!」
 シャルロッテは男たちが激しい葛藤の末に大切なものを投げ出すのをまるで我がことのように呆然として見つめていた。どの顔にも苦しみの色が広がり、涙を流すこともできないほどの深い絶望が嫌でも伝わった。今や、くたびれた商船の船乗りたちはさらに気力を失い、目を離したらどこかへ消えてしまいそうな感じがあった。
 シャルロッテは首にかけたガラス玉を強く握りしめた。もしもこの大切なお守りがむざむざと奪われたら……と、想像するだけで絶え難い痛みが全身に広がった。
「ひどすぎるわ……こんなの略奪じゃない。どうしてこんなむごいことができるっていうの?」シャルロッテはロウ船長が先ほどまでかなり残虐な瞳をしていたことも忘れて矢継ぎ早に質問した。「この人たちをどうするの? まさか殺すの?」
 返ってきた答えはシャルロッテは震え上がらせるに十分だった。「だったら?」船長はうっとうしいとばかりに短くドスの利いた声を発した。そんな態度で挑まれるともはや二の句をつぐ余裕はなかった。もう一言でも彼の気分を害したらきっと最初の餌食になってしまう。
「だけど……だからって……」シャルロッテは困り果てて今日何度目かの涙をその目に溜めた。今朝から泣きっぱなしで目の奥がズキズキと痛む。「だからって殺戮を黙ってみているわけにはいかないわ……ああ、どうしよう……」何があってもそんなこと許されるべきじゃない。だが弱虫で、意気地なしで、ちっぽけな体は石のように固まって動きそうになかった。足は棒のようだし、頭の中は何もできない自分に対する自己嫌悪と義務と恐怖がないまぜになり、心を落ち着かせるために流れ出た涙をシャルロッテは手首の内側で拭った。いつだってどこだってシャルロッテの涙に気を払う人などいないものだが今日だけは違った。
「ロウ船長、一体どうして荒くれ者の船にこのような女性が乗っているのかはさておくとしても、あまり女性を怖がらせるものではない。お嬢さん、不安に思う必要はありませんよ。もう金目のものはすべて渡してしまいましたからな。こちらを傷つける必要がないというものです。何しろ――実に信じがたいことではありますが――この恥ずべき悪行は彼らにとってビジネスですからな。さぁ、これを使いなさい」
 シャルロッテはスラットリー船長のハンカチで涙を拭いながら、今度は感動の涙を流すかと思った。同じ船長なのにどうしてこれほどまでに差があるのだろう! かたやロウ船長は道徳など反吐がでると言わんばかりに眉尻を下げて口元に呆れた笑みを浮かべている。もはやここまで違うと育ちがどうこうとかいうレベルではない。やっぱりこの船長は悪魔の親玉なんだわ。高貴な人がいるところでは馬脚をあらわさないところなんてまさしく悪魔そのものじゃないか! 丁寧なお伺いで人の心をまどわせ、弱みを引き出し、脅し、利用し、価値がなくなったと思えば未練もなく切り離す。好きなものといえば女と金だけ! 
 だからこそ、ロウ船長がスラットリー船長の目に見える挑発に制裁を加えないが意外といえば意外だった。悪魔は大体おごり高ぶっているものだし、プライドを傷つけられれば喜々としてピストルを抜きそうなものなのに。その理由が思いついた頃には心優しいスラットリー船長のおかげで涙もすっかり収まっていた。きっとこの悪魔は人の話なんてはなから聞いていないのだ。それこそまさしく悪魔的じゃないか。決して人間が虫の鳴き声と会話しないように、この悪魔は人の言葉なんて何か鳴いているくらいにしか思っていないに違いない。自分の命令は何があったって絶対に黙らせてきかせるくせに……。
「さて……ロウ船長。そろそろ我々がどれほど海流に流されたのか、ご教授いただいてもよろしいかな――まったく、失態もいいところだ。こんなところで私掠船の世話になるとは――間違いなく人生で一番の汚点だ」
 二人が船長室に消えていくのを見送り、シャルロッテは目の前で血みどろの殺戮が繰り広げられないことに胸をなで下ろした。命より大切な品物を強引に奪われた男たちは深く肩を落としたり目頭に涙を浮かべたりしている姿は見るに堪えなかったけれど、それでも命さえあればいつか立ち直れる日がくるはずだ。
「さぁ、辛気くせぇ面してないでさっさとボートを下ろすんだな! おまえらを運ぶ新しい箱舟だ!」
 その号令とともに男たちは奴隷のようにのろのろと船の側面に取り付けられた小型のボートの縄を緩めて海に下ろし始めた。降参した時点でこの商船そのものも重要な押収品の一つなのだ。船を丸ごと売りさばいて巨益を得るとかいう話を聞いたことがあった。
「本当にぞっとするわ。大砲で脅して強奪した船を我が物顔で乗り回すなんて。父がアヴニール号を愛したようにきっとこの人たちにもこの船に愛着があるに違いないのに……罪もない人たちから人生のすべてを巻き上げて私財を肥やすなんて、そんなことあってはいけないのよ」途端にシャルロッテの小さな体の内側で私掠船に対する憎しみが湧き上がり、それと同時に保身のためだけにこの船に同乗した自分が恥ずかしく思えて顔を覆いたくなった。たとえ悪事に加担していなくたって、これほど間近にいて止められないのならもはや同罪だと思った。
「ええ、そうよ。たとえ生きて無事に海を渡れるかもしれなくたって、こんな犯罪行為を黙認するしかないだなんて、やっぱり耐えられない。それにもうあの人たちにはうんざりよ! ロウ船長もそうだし、他の船乗りも――もううんざり。毎日毎日泣かされて……」考え始めると頭の中は苦しい思い出ですぐにいっぱいになった。この船に乗り込んでからはたったの三週間たらずだが、間違いなく陸での一年分は泣かされているだろう。「それによく考えてみればあの悪魔が安全にわたしを送り届ける保証なんてどこにもないわ。そうよ、あの人はわたしのことをその辺の虫程度にしか思っていないんだから」だけどあの悪魔は不遜にも交換条件として女王に何か提示していなかっただろうか? と、思い至りシャルロッテは苦しみだらけの船上の記憶を追い払って女王との短い面談を思い出した。幸いにも強烈な記憶はすぐに鮮明によみがえり、それと同時に取り返しのつかない今になってシャルロッテは重要なことに虚をつかれた。それに気がついてしまえば、彼が女王に対して船を要求していたとかそんなことはすっかりどうでもよくなってしまい、シャルロッテは記憶の細い糸をたどって判事のくどくどした喋り方を脳内で再生した。
「あのとき……そうよ、覚えてるわ。あの判事はロウ船長に対して、わたしをこの船に〝同乗〟させるようにって言ったのよ。決して〝送り届ける〟ようになんて言わなかったわ」だとしたら、なおさら命の保証はないとシャルロッテは確信した。つまりはじめから生死なんて関係ないのだ。わたしが無事に大陸にたどり着こうが、途中で不慮の事故によって死のうが――同乗させた時点でロウ船長の任務は終わっている。そう思うと自分の短そうな寿命がさらに短くなったのを肌で感じた。
「ああ、どうして気がつかなかったんだろう! この船が安全だなんてとんだ思い違いだわ! わたしが今生きているのは悪魔の気まぐれよ。だめ、こんなところにいられない! どうにかしてわたしもこのボートに乗せてもらえないかしら? たしかにこの船は世界で一番沈みにくいのかもしれないけど……それは船と品物だけであってわたしの命が無事かどうかは定かじゃないわ」シャルロッテは奥歯をかみしめた。今までの辛く苦しい記憶が一気に頭の中を駆け巡ってすぐに決意は固まった。彼女を引き留める要素なんてこの私掠船には小指の先ほども残っていなかった。
 シャルロッテは商船の縁に駆け寄り、海面を覗き込んで六隻の小さなボートが海に浮かぶのを見つめた。ああ、でも、この小舟はなんて頼りないのだろう! 小舟は一人の男が立っただけでクルミのように大げさに左右に揺れている。もし少しでも海が荒れたらすぐに転覆して暗い海の底に沈んでしまいそう! 果たしてこの頼りないボートで本当にどこかの港までたどり着くの? その貧弱な体つきを見ていると人生を預けるには少し足がすくんだ。でも、もうわたしは決めたわ。そうと決まればあの悪魔が帰ってくる前に乗り込んでしまおう。どうせわたしが居なくなったって気がつきやしないわ。
 息巻いて船の側面のはしごに手を伸ばしたところで、シャルロッテは潮の香りに混じって奇妙な臭いを感じ取った。風上からかすかに漂うこの臭いは血のにおいだ。その出どころはすぐに見つかった。
「怪我してるの?」男は甲板で最後のボートを下ろそうとして力任せにロープをたぐっていた。袖をまくられた腕は筋肉で緩やかに隆起して、その凹凸に合わせて赤い血が肘まで滴り、甲板にたれ落ちて濃い色の血だまりをつくっている。肝心の傷口は右腕の外側、手首と肘のちょうど真ん中に創傷とおぼしき痕があった。傷はかなり大きく、鋭い刃物の線がしっかりと見てとれる。幸いなことに太い血管を傷つけてはなかったが、それでも血の気が引くほどの血液が垂れ流しになっていることに変わりはない。
 青ざめて質問したシャルロッテに返ってきたのはなんとも耳を疑う返答だった。
「ああ。だがこの程度なら――」
「だめよ! まるで血が止まりそうにないじゃない! それなのに……」
 どうしてこのときばかりこんな勇気が湧いたのかわからない。他の淑女と同様に血は苦手だし、それに舞踏会だってこれほど体がなめらかに動いたことはなかった。けれどこのときばかりはまるで体が運命に突き動かされるみたいに動いた。
 とにかくその苦痛を少しでも和らげたくて、シャルロッテは気がつけばはしごから手を離して青年の傷口にそっと手を重ねていた。打ちひしがれた上にこんな傷まで負っているのがあまりにも同情的にうつったのかもしれない。
「あんまり無理しないで」青年の体はひんやりとしていて冷たかったけれど触れている部分だけが熱をもって温かい。それにしたってこんなひどい傷をどこで負ったのだろう? 彼は少なくとも血の気の多い連中みたいにことあるごとにサーベルを取り出して決闘を挑もうとする人には見えなかった。
「あなたもこのボートに乗るの?」
「それしか手段もなさそうですから」
 シャルロッテは聖母のような顔をして他の船員たちに比べるとかなり若く見える顔を見上げた。彼はまさしく青年という年頃で、素朴でありながら爽やかな整った顔立ちをしていた。栗色の瞳は優しそうで、頭の方では瞳と同じ色の柔らかな髪が潮風に揺れている。彼がまとう雰囲気はこの恐ろしい海には甚だ不釣り合いに思えてならなかった。例えるなら彼には午後の暖かい窓際で本でも読んでいそうなそんな雰囲気がある。実は貴族だと打ち明けられても何の疑いもなく信じられるだろう。
 この人がいつたどり着くとも知らない流浪の旅に出ると思うと、シャルロッテは途端に悪魔でも見たみたいに背筋を凍らせた。それもこのひどい傷をかかえて。きっと満足な治療ができる環境ではないだろう。だからといって放っておいて治る怪我だとも思えない。ましてや、このボートに乗り込めば血を垂れながしにしながら、傷口を気色悪い虫どもにつつかれ、昼夜を問わずオールを漕ぐことになるだろう。運が悪ければ傷口が化膿してもおかしくない。それに――と、シャルロッテはたしかに神の思し召しを感じた。きっと先ほど汗だくになりながら恐ろしい悪夢をみたのはそういうことだ。本当にちょっとした傷からあっという間にこの世を去ってしまった母。彼女のことを思い出せばこの人をあの小舟に乗せるわけにはどうしてもいかなかった。たとえそれが私掠船の水夫たちだったとしても目の前で人が死んでいく無力感には耐えられない。
 その頃には小さなクルミのようなボートに乗って逃げてしまおうだなんていう考えはすっかり頭の中から抜け落ちて彼の痛々しい傷口に両手を重ねていた。
「そんなこと言わないで――あなたさえよければ、ロウ船長に頼んでみましょう。お節介かもしれないけど、そんな深い傷を負っていながらボートで旅をするなんて正気の沙汰じゃないわ。その傷は治療が必要よ」断られたらどうしよう、とも思ったがその心配は杞憂だった。青年は自分の顔の周りをぐるりと見回し、それから今になってようやく貴族娘らしく着飾ったシャルロッテの姿が視界に入り、一瞬だけ船乗りらしく目と眉を近づけて口元だけで笑みを浮かべた。それは間違いなく彼の薄汚い本性がちらと顔のぞかせた瞬間だったが、青年を心配するシャルロッテはそんなことまるで気がつかなかった。
「もし本当にそうなったなら僕は間違いなく君にキスしたくなるだろうな」
 そのときちょうど二人の船長が戻ってきた。気がついてみれば甲板には青年とシャルロッテだけが取り残されていた。他の男たちは全員、窮屈な思いをしながら膝を曲げてボートに乗り込んでいる。スラットリー船長は彼が甲板に残っているのを見るなりすかさず声を上げた。
「デリック! そんなところで何をしておる! おまえも早く乗り込め! どうやらこの御仁はたいそう気が短いようだからな。話が通じんこともないが……」
「ちょっと待ってください!」シャルロッテは慌てて叫んだ。それから勢いを失って慎重に口を開いた。「ロウ船長……その……この方を連れて行くことはできませんか?」
 ロウ船長はシャルロッテが病気の夫に連れ添うみたいにデリックに肩を寄せているのをみて「感動的な場面だな」と、せせら笑った。どうやら一筋縄で許してくれそうにはなかったけれど今回こそは本気だ。シャルロッテはガラス玉を握りしめ、意を決して一歩踏み出し己の気を奮い立たせた。
「怪我をしているんです」
 ロウ船長はデリックのことを黒い眼でじろりと見回し、冷たい顔をしたままつかつかと大股で距離をつめた。その態度は思わず後ずさりしたくなるほど高圧的なものだった。彼はは黒い瞳に睨まれて、本能的にじりじりと後ろへ逃げ、ついには体勢を崩してその場に尻もちをついた。デリックはすっぽりと船長の影に収まり、そこから見上げるとロウ船長の彫りの深い顔には濃い影がおちて、ますます頑固で気難しい人に見えた。
 シャルロッテはまさかロウ船長がデリックを殺すのではないかと思って悲鳴をあげたくなったが、それは奥歯を必死に噛みしめることで抑えつけた。
「それで?」船長は鋭い視線でデリックを威嚇しながらシャルロッテをせかした。口を開いたら言葉の代わりに悲鳴が飛び出しそうだった。だからといって黙っているわけにもいかない。シャルロッテは一度大きく息を吐いてから、なるべく一定のペースで淡々と話した。ロウ船長がシャルロッテに背を向ける形になっているのが幸いだった。きっと顔をつきあわせていたらうまくいかなかった。
「放っておいたらもっと悪くなるに決まっています。ましてや、あのボートに乗せたら……」といいながらシャルロッテはチラリと海面に浮かぶボートを見つめた。海に放たれたボートは商船の壁面で波が反射してひどい目にあうのを防ぐためにわずかに離れたところで待機していた。各艇で最低でも一人は立ち上がっている人がいて、甲板の状況を確認しようと首を伸ばしている。ボートは波によって左右に激しく揺れて、どうして人が落ちないのか不安なくらいだ。男たちは不衛生な状態で団子になり、遠くにいても悪臭や腐敗臭が漂ってきそうな見た目をしている。やはり彼をあのボートに乗せるわけにはいかない。
「部屋なら空いているじゃないですか。それに彼の看病はわたしがします。包帯が欲しいなどとって言って手を煩わせるつもりもありません」ロウ船長は背中を向けて黙りこくったままだ。そのせいでどんな表情を浮かべているのかすらわからない。「そ、それに……食事がもったいないとおっしゃるのならわたしの分をほとんどさしあげたって構いません。もちろんラム酒だって同じことです。だから……」
 ついに思いつくかぎりすべての言葉を伝えるととシャルロッテは足元の木目を見つめて黙り込んだ。緊張して喉がからからだった。今ならあの毒薬も三杯は息継ぎなしで飲める気がする。
 船長はシャルロッテの言い分をひとしきり聞き終えると乾いた笑い声をあげ、悪魔のように低くつぶやいた。「気に食わないな」きっとこのときロウ船長の瞳は加虐心に満ちあふれてぎらぎらしていたに違いない。そうでもなかったらどうしてそんなことができるだろうか? 船長は尻もちをついたデリックを高いところから見下ろして、その瞳に恐怖と畏怖と、それから巧妙に隠された山師の才覚を認めると今度は大きく笑ってデリックの体を蹴り飛ばした。その勢いは情け容赦なくて、哀れなデリックは甲板を転がり追い詰められた虫のように体を丸めた。
「ちょっと! なんてことをするの!? けが人に対して――」
「黙れ、シャルロッテ!」思わず駆け寄ろうとしたシャルロッテを船長はたった一つの命令と睨みで動けなくさせた。船長の命令に逆らうとひどい目にあうと、この体はすっかり学習してしまったのだ。間違いなくこの命令に逆らったらひどいことになる。
「どうやらこの女には効果覿(てき)面(めん)だったようだが、男相手だとまるで意味をなさないな。つまりお前は海の上では役立たずだ」ロウ船長は再びデリックに近づきながらのんびりとした口調で言った。すべてが自分の思い通りに進み、気を悪くする要因もなかったのだ。「だが、俺の船に乗せてやってもいい」シャルロッテは意外なことの運びに思わず声をあげて喜びそうになって慌てて口を押さえた。そんな些細なことで不興を買って話をなかったことにされるのは絶対ごめんだ。
 船長はなおも歩を進め、デリックの顔に喜びの色が浮かんでいるのを見つけて喉の奥で笑った。
「気に食わないのはお前の態度だけだな」先ほど蹴り飛ばした距離まで近づくと船長はデリックを見下ろし眉を片側だけあげた。それから、ちょうど踏みやすい場所にあったとばかりに彼の手を踏みつけにして――シャルロッテはもう我慢の限界だった。 本能が無意識的に屈しそうになるのを一秒ごとに理性で押さえつけ、シャルロッテは駆けだし、果敢なことに船長の腕を掴んで強引に二人を引き離そうとした――が、はなから分かっていたとおり体格差は歴然でまるで石像を引っ張っているような気分になった。
「この下衆! 悪魔! よくもこんな恐ろしいことばかりできるわね! この――」
「黙れ! シャルロッテ!」
 恐ろしい大声でシャルロッテを怒鳴りつけると、それから小柄な体を腕一つで振り払い、ターゲットはデリックからシャルロッテに移った。シャルロッテはその勢いで吹き飛ばされ、マストに激しく体を打ち付けた。コルセットの金属が体に食い込んで、全身を鈍い痛みが襲う。内蔵に強い圧力が加わったせいで激しく咳き込み、さらには痛みのあまり立っていることさえままならなかった。床にほとんど倒れ込んでいると悪魔が甲板の床を鳴らしながら近づいてくる音が鮮明に聞こえ血の気がひいた。
 こうなることはわかっていたのに。だけど想像と現実はまったく違う。近づく足音は死へのカウントダウンだ。
 ロウ船長はうずくまるシャルロッテの髪をつかんで持ち上げると、怒りに燃えた――それでいて冷たく鋭い研ぎ澄まされた――瞳を強引に合わせ、それからそのままの勢いで激しくシャルロッテの頬を張り飛ばした。どうやらこの船長は人の殴り方というのをきちんと心得ているようで、殴られた瞬間に頭が激しく揺れてとんでもない衝撃が脳に加わった。激しい耳鳴りがして、目がおかしくなってしまったのではないかというほど視界がぐらんぐらんと揺れる。
「命令に逆らうなよ」低い声で脅すように言いつけると、ロウ船長はシャルロッテの髪をひっつかんだまま遠くに放り投げた。シャルロッテは甲板の上をゴロゴロと転がり、そのまま力なく床にうつ伏せに倒れ、次第に目の前が真っ暗になっていってついには気を失った。
「おい、おまえ……たしかデリックとか言ったな。さっさとその馬鹿女を連れてこい。せいぜい二人で傷をなめ合うことだ」
 呆然とその光景を眺めていたデリックはその言葉におもむろに笑みを浮かべて倒れ込むシャルロッテに慌てて駆け寄った。まさかこれほどうまく進むとは! 幸運とはまさしくこういうことをいうのだろう。小柄なシャルロッテを抱きかかえ、腕からだらりと落ちた頭が白い首筋を露出させるとデリックは思わずその首筋に口づけを落としたいような気持ちになった。
 ロウ船長が踵を返すと背後からスラッタリー船長のゆっくりとしたそれでいて威厳を感じる声が響いた。
「ロウ船長。わしは職業柄、詐欺のようなことはしたくなくてな。商品についてきちんと説明をするのは商人の義務のようなものでしょう。一つだけいうなら……その男は中身が腐りきっとる。それも救いようもないほどにな」それからスラットリー船長はデリックのことを見ていまいましげに顔をしかめた。「その哀れな女性はおまえにとってまさしく女神というわけだ。貨物室で盗みを働くところをとがめたのがこうも裏目に出るとはな」
「ええ、こうなるなら僕はあんたに感謝しないといけなくなってきた。さよなら、スラットリー船長。僕は心を入れ替えて真面目に生きようと思いますよ」その言葉は浴びるように酒を飲みながら、明日こそは禁酒すると告げる船乗りのようなものだった。
 船長はデリックが去って行く後ろ姿をしばらく眺めてからくるりと船の端に進み出て海面に浮かぶ小さなボートに乗り込んだ。
「さぁ、おまえたち! 生きて国に帰るぞ!」

第七章 一話

 脳を揺さぶる打撃から目覚めたシャルロッテを襲ったのはひどい頭痛だった。まるで寝過ぎた日の目覚めみたいに頭の奥がずーんと重くて、目を開ける気にもならない。それにいつまでたっても頭の中はかすみがかっていて、しばらくはどうしてこれほど体調が悪いのかもわからなかった。次第に意識が覚醒して倒れる前の記憶を取り戻すと途端に全身の血が沸いた。今、目の前に船長がいたなら容赦なくお返しをおみまいしてやるところだ。きっと彼を目の当たりにしたら冗談でもそんなことを考えられなくなるのは分かっていたが――とにかく今はそう思った。
「わたしがたてついたからって激昂して、まるで子供ね。それも絶対にわたしの判断の方が正しいのに――待って、あの人はどうなったの?」
 シャルロッテがなんとか起き上がろうとベッドの上で芋虫みたいに身をよじっていると頭上から柔らかな声がかかった。その声はこの船上生活では久しく聞かないような優しさに満ちあふれている声だった。
「無理に起き上がらない方がいいですよ。なにせあの船長に殴られたんだから、三日くらい動けなくたってまるで恥じるようなことじゃない。ましてや君はか弱い女性なんだ……クソッ!」デリックは焦(じ)れて足を鳴らした。「それにしたって紳士の名折れだ! 守るべき女性を危険にさらしてしまうなんて。ところで気分は大丈夫ですか? 女性にこんな物を勧めるものでもないですけど……気付けに少しでも飲んだ方が気分もよくなるはずです」
 デリックはシャルロッテをベッドのヘッドにもたれさせて口元にラムを運んだ。正直そんなことどうでもよかったのだけど、親切心をはねのけるのも気が引けて、口内をぬらす程度の量を口に含んだ。飲み込むまでもなくアルコールは舌の上で消えて、いつもの熱がいつまでも舌をヒリヒリさせた。
「ありがとう。おかげさまでだいぶ気分もよくなりました」それからシャルロッテはあらためてその顔を点検して安堵の笑みを浮かべた。「それにしても、本当によかった……今すぐ傷を手当てしますから……」起き上がろうとすると頭がズキズキと痛んでシャルロッテはうめき声をあげた。この分だと本当に三日は起き上がれないかもしれない。
「飲むのが先です。僕はそんな愛らしい演技には騙されませんよ。さぁ、ワインのようなものだと思って」
「でも――」
「僕のことは気にしないでください。むしろ怪我を負ってるのはあなたのほうですよ。話はそれからだ」
押し付けられたラムを受け取り、今度はごくりと飲み込むと体中にゆっくりと血が巡った。すっかり飲み込んでから反省したが、体の中に突然こんな量のアルコールを取り込んだらわけが分からなくなるような気がした。折角なら冷静な頭で、この機会に人の優しさをたくさん味わっておきたい。
 きついアルコールによってひどい頭痛が誤魔化されるとシャルロッテは自然と口元に笑みを浮かべた。
「デリックさん……ありがとうございます。わたし、これほど人に良くしていただいたのは初めてです。このご恩は必ずお返しします」
「そんな必要はありません。当然のことをしたまでです。えっと、ミス――」
「シャルロッテ・ビリーです」名乗っていなかったことを思い出すと頭から血の気が引き、それと同時に恥ずかしくて頬に瞬間的に赤みがさした。血の気の引いた白い肌と羞恥の赤みが同居するとシャルロッテの顔は熟れたりんごみたいに真っ赤だった。さぞ気の利かない女だと思ったに違いない、とシャルロッテは信じて疑わなかったがデリックは彼女が想像したよりもずっと寛容だった。
「きれいな名前だ」デリックはシャルロッテの青色の瞳を覗き込んでわざとらしく呟き、芝居がかった笑みを浮かべた。「僕はデリック・ランスです。きっと互いの名を交換するのはもっと素敵な場の方がいいと思うのですが……」
 きっと彼のいう素敵な場っていうのは舞踏会のことね。そう思うとここだけ背景に古ぼけた木材ではなくて華々しいサルーンが広がっているような気がした。彼の服だって茶色い布切れではなくきちんとノリの効いたシャツで、しっかりと磨かれた重い革靴を履いているような気がする。シャルロッテはデリックの紳士らしい態度にすっかり感動して酔いしれた。「やっぱりこの方は名の知れた紳士に違いないわ。他の船乗りみたいに粗暴で乱暴なところはこれっぽっちもないし、いいえ、陸の上だって初対面の人間にこれほど優しくできるのは才能ね」
 デリックは一つ一つの単語を区切りながら丁寧に話したので、会話はかなりゆっくりだった。それから彼は一つ一つの動作がいちいち役者みたいに大袈裟だったが、シャルロッテはその奇妙な特徴をこれっぽっちも笑う気にはならなかった。彼が母語ではないフランス語を操っているというのにどうして笑えようか? むしろここのところ船乗りのまくし立てるような一方的な言葉しか聞いていなかったから、その穏やかな話し方はより一層好感がもてたし、動作については父だってそうだったから一種の懐かしさすら覚えた。
「名前を交換する場所なんて気にしません。それが素敵な人であればいつだって構わないもの」
「けれど無理をさせていませんか? 今だってどうやらお顔が赤いみたいですし、どこか傷が痛むのでは」そう言われてシャルロッテはますます顔を赤くした。酒のためだけではなく心臓がにわかに強く脈動して、首筋にじんわりと汗がにじむ。「そういうわけじゃないんですけど……」なんだか彼のことをみていると緊張してシャルロッテは小さく顔をそむけた。一体どうしたっていうのだろう。普段ならこんなことないのに。
 軽くうつむき、真っ赤になって黙りこくってしまったシャルロッテをデリックはここぞとばかりに――少し不躾なほど――じろじろと観察した。とりわけ彼がよく観察したのはシャルロッテの白く細い指と手首、それから小さくて飾り気のない両耳と首もと、最後に全身を覆う美しいドレスだ。
「どうやらシャルロッテは僕をいたく気に入っているらしいな」デリックはとある事情によって好意というものに人一倍敏感だった。シャルロッテ本人ですら気がついていなかったことだが、この小さな種のような感情を健やかに育てていけば、それがいずれ愛情として心に深く根をはって大樹となることは確実だ。
 デリックは心のうちでニヤリと笑ったがそれはおくびにも出さずに、極めて紳士的な立ち振る舞いでシャルロッテの細い指に触れた。
「もし起き上がれるようなら夜風に当たりませんか? そっちの方が気分もよくなるはずですから」
 先ほどのラムが効いて身体は熱とやる気を取り戻した。シャルロッテはこくりと首を縦に振ってデリックの手を取った。
 二人が部屋をでると、食事室から男たちの騒がしい声が絶えず聞こえてきた。すでにとんでもない量の酒をあおっているようで、男たちは顔を真っ赤にして呂律もほとんど回っていない。食卓には普段よりも奮発した豪華な食事――といっても陸だったなら見向きもしないような代物――と酒に加えて今日の戦利品がどっさりと山積みにされていた。男たちはそれを囲んで勝利の宴を繰り広げている。あちこちで咆哮にも似た雄たけびがあがり、狂ったようにラムをあおった。
 彼らが明日のことを考えていないのは明白だった。というより、こんな日にまで翌日のことを考えて自制できるような奴はこの船に一人も乗っていないのだ。たとえ次の日に頭が割れるような苦痛にさいなまれると分かっていたって、羽目を外せないのなら決して男ではないし、ましてや仲間でもない。
 やがて一人がテーブルを拳で叩きながら酒焼けした潤いのない喉を締め付けながら、歌にもなっていないような歌詞を歌い始めた。廊下を通り過ぎるシャルロッテにはほとんど聞き取れなかったが、それは船乗りなら全員知っているようなお決まりの歌だった。水夫たちは次々とその輪に加わり、あっという間に三十人以上の大合唱になると船すらも共鳴させた。
 ――よお、ほの、ほ でラム一本!
 そんな熱狂の中で異分子二人が甲板に逃げだそうが誰も気にすることはなく、二人は何の障害もなしに甲板にたどり着いた。
 どうやら気絶している間にすっかり夜になっていたようで、日が落ちて甲板には暗闇と静寂が広がっていた。甲板には誰もいなかった。普段ならば舵を握って調子外れな歌を披露するセリオすら今日は下の喧噪に加わっていた。それから悪魔の恐ろしい船長すらも。
 昼間の喧噪がまるで嘘のようだった。果たしてこの場所で本当にあれほど恐ろしいことが起こったのだろうか。もしも今、隣に優しくエスコートしてくれるデリックがいなければあれが夢だったと錯覚してもおかしくなかった。甲板は静まりかえり、階下から男たちの騒がしい声が聞こえるだけだ。空には神秘的なほど眩いばかりの星々が散りばめられて宝石のようにキラキラと光り輝いている。夜風は冷たくてすっきりとしていて、酒で火照った身体がゆっくりと冷やされていくのが心地よい。
 シャルロッテは甲板の縁に駆け寄って夜風を存分に浴びた。水平線の上には膨らみかけた月がかかり、海面に光が反射している。海はタールのように真っ黒で、波に合わせて揺れ動くブーメラン形の反射はまるで海を泳ぐ巨大魚のうろこのようだった。
 静まり返った海は日中の騒がしさなんてすっかり忘れて、波が船底に当たって崩れる音が響いている。水泡が水面に舞うのが綺麗でシャルロッテは船から身を乗り出して下を眺めた。まるでわたしのガラス玉みたい。 
「気をつけて」デリックはシャルロッテのなだらかな肩に上着をかけた。
「どうしてこんなによくしてくれるの?」シャルロッテは聞いた。
「そりゃあ……女性に尽くすのは当たり前のことでしょう?」それから心の中でつぶやいた。ましてやそれが貴族の娘ともなればなおさらのことだ。デリックは一瞬だけ下衆な視線を浮かべてから「それによくしてもらっているのは僕の方だ」と付け足した。
「シャルロッテ、君ほど心の優しい人を僕は知らないよ。見ず知らずの僕を助けてくれたんだ。尊敬するなって方が無理な相談だ。君の優しさに触れたらどんな荒くれ者だって大人しくエスコートするしかなくなるんじゃないかな。とにかく、僕は感動したんだ。あんなことなかなかできるものじゃない。今だって信じられないくらいだよ。君みたいな愛らしい人が心の中にあれほどの勇気を持ち合わせているなんて」
 あまりに褒められるものだからシャルロッテは段々気恥ずかしくなってデリックから一歩分の距離を取った。家柄ばかりを重視する港町で育ったシャルロッテからすれば、今日であったばかりで、ましてや男性からこれほど真摯な対応をされることだって初めてだった。いうなればこの時のシャルロッテは生まれて初めて男性から優しくされてすっかり舞い上がっていたが、だからといってすぐに自分に気があると思えるほど能天気でもなかった。エーヴ・パリアンテが毎回有頂天になっては泣きをみるのを何度も間近で眺めていたからだろうか? そんなわけでシャルロッテはこれほどデリックにわかりやすく好意を示されてもきっと誰に対してもこうなのだろうとしか思わなかった。
「外国の方って本当に優しいのね。わたしのことを哀れに思って情けをかけてくださるなんて」
「哀れにだって? そんなことない! それに誰にでも優しくしてやると思ったら大間違いだ。シャルロッテ、僕は君だから――」と、いいかけてデリックは大袈裟に口に手を当て「しまった」という顔をした。その反応はあまりにも大げさだったが、内容に気をとられてシャルロッテはそんなことにすら気がつかなかった。彼女の青色の目は驚きで見開かれて言葉を失った。 
「あ……いや、なんでもない。どうか忘れてくれ。気を悪くしたなら謝るよ。本当は心に留めておこうと思っていたんだ。何しろまだ出会って何時間も経っていない。ただ――なんでか初めて会った気がしないんだ。僕たちは長いこと海で隔てられているっていうのに馬鹿なことを言ってると自分でも思うんだけど――いや、やっぱり全部忘れてくれ。きっとあなたのような素敵な女性にはもう決まった相手がいることだろうし――迷惑だっただろう」
「そんな迷惑だなんて!」シャルロッテは声をあげてから「それに……」と続けた。
「たしかに昔は婚約者もいましたけれど……そんな縁はとっくの昔になくなってしまいました」その言葉にデリックは心のうちでにやりと笑ったけれど、そんなことおくびにもださずに続けた。
「まさか、そんな……! 君も?」
「え?」シャルロッテが驚いて何かを発しようとしたそのとき、階段の方から低い怒鳴り声と階段を上る音が聞こえて心臓が大きく飛び跳ねた。悪いことをしているわけではなかったけれど、なぜだかこうして異端者二人が仲を深めていることは秘密にしないといけないような気がしたのだ。そして、それはどうやらデリックも同じ気持ちだった。
「シャルロッテ! こっちだ!」二人は甲板に置かれた木箱の裏に身を隠した。木箱には焼きごてで商館の印が刻まれている。おそらくこれも戦利品の一つだろう。どうやら倉庫にしまい込むのをすっかり忘れたらしい。この場所はちょうど階段から死角になっているのできっとのぞきこまれでもしない限りばれることはない。二人は息を殺して静かに甲板の気配を伺った。どうやら甲板に登ろうとしているのはセリオとマルセルのようで、酒を大量に含んだせいでいつも以上に調子外れな海賊の歌が静かな海に響いている。ほんの十段もないような階段なのに、今の彼らはその階段が何百段にも見えているようで何度も足を踏み外して結局甲板にたどり着くためには莫大な時間がかかった。
 シャルロッテは初めこんな脆弱な防壁はすぐに看過されてしまうのではないかと思って肩をこわばらせたけれど、甲板を見回りにきたのがその二人だと気がつくと少しだけ肩の力を緩めた。彼らは船乗り比較的優しい部類の人間だった。少なくともシャルロッテのやることなすことに目くじらをたて、再起不能になるまでたたきのめさないと気が済まない連中とは違う。もしもこれが船長だったり何かにつけて目の敵にしてくる片足のアンドレだったりしたら首筋に脂汗が滲んでいるところだったけれど。しかし、まったくの新参者であるデリックはそんな事情知るはずもなく、色々な想像をして真っ青な顔をしながら様子をうかがっていた。その姿はまるで人畜無害な小動物に噛み殺されるのではないかと怯える子供みたいでシャルロッテは小さく肩を揺らして笑った。
「なんだかかくれんぼみたいね。わたし昔からあの遊びが大好きなの」
 シャルロッテの意識は一瞬だけ過去に向けられた。幼い頃はよく父に遊んでもらったものだ。父は年甲斐もなくいつだって本気だったけれど、シャルロッテの方はそうでもなく、むしろ積極的に見つかりにいったものだ。そんなことには気がつかず、いつも自信満々な顔をして近づいてくる父を見るのがいつだって大好きだった。
 シャルロッテが頬を緩めたのをみてデリックは信じられないという顔をした。
「何をのんきな! 少しは僕のことも心配してくれよ。この船の女神をたぶらかしたなんて思われたらたまったものじゃない」
「怒られたりしないわ。なんだか咄嗟に隠れちゃったけれど、そんな必要もなかったのよ。だって誰もわたしに興味なんてないもの」
「へぇ……」デリックは瞳をぎらりと輝かせた。ますます都合がいい。「ならここに乗ってるのは男じゃないんだな。君みたいなきれいな人を放っておくなんてあり得ない話だ」
 シャルロッテはデリックの大袈裟な物言いにこそばゆくなって口元に困ったような笑みを浮かべた。それに意識してみると二人の距離は互いの肌が触れ合うほど近くて、互いの息遣いすら鮮明に感じる。もっと静かにしていたら鼓動のたしかなリズムすら聞こえてきそうだ。
 デリックは慣れた手つきでシャルロッテの温かい指先を握り、暗がりのおかげでネイビーにも見える瞳をのぞき込み、神妙な口調で耳にささやいた。
「君のことがもっと知りたい」
 見つめ合う二人の上で夜空は眩く輝いて、二人の間にはどんなざわめきも割り込むことはできなかった。

第七章 二話

 その夜、シャルロッテは心臓が高鳴ってすぐには寝付けなかった。身体こそ昼間の一件で疲れ果ててはいたけれど、彼女の小さな胸の中はこの孤独だと思っていた旅路でついに心を許せる唯一の理解者に出会えた喜びと不思議な息苦しい思いが心臓を締め付けてどうしようもなかった。いくら目を閉じて心を静めようとしたところでまぶたの裏には何度も先ほどの光景が思い返される。結局、シャルロッテが甘い夢の世界に落ちたのは水平線に真っ赤な太陽が輝き出すころだった。小窓から射し込む暖かい光に安心してようやく眠りについた。男たちが起きだす程よい振動や話し声、それからゆりかごのように優しく揺れるばかりの船も彼女を夢にいざなう手助けをしてくれた。
 寝つきの悪さに比べれば目覚めはかなり心地よくて、シャルロッテはこの船に乗ってから初めて熟睡して、ようやく凝り固まった重荷が心から解き放たれたような気がした。旧家のように鳥の優しい音色で目を覚ますことはなかったし、相変わらずマットレスは石のように固くて――それでもあの屋根裏の寝心地に比べればはるかにいい――全身が固まったけれど、心だけは純白の天使の羽が生えて今にでも飛んでいきそうなほど軽い。
 シャルロッテは眠りに落ちる前の記憶をたどって、デリックのことを思い出すとはにかんだ笑みを浮かべた。彼のことを思うと心は自然と温かくなってほんのりと頬が高揚する。この船の上でこれほど晴れやかな気持ちになるとは、やはり何度想像しても不思議だ。
「まるで今も夢を見ているみたいだわ。まさかこんな海の上で新しい出会いがあるなんて」
 寝付くのが遅かったせいもあって、すでに時間は正午を超えて太陽は真上よりもわずかに西に寄っている。シャルロッテはしばらくベッドの上で穏やかな気持ちに身を委ねながら髪をほぐし、それからいつものように扉を五センチほど開いて奥を覗いた。船員たちはいつものように上へ下へと駆け回っていて甲板からはいつものように気性の荒い怒鳴り声や喧噪が響いていくる。
 その光景を目にした途端、シャルロッテの心には暗雲が立ち込めた。いくら心をざわつかせる逢瀬があるからといってここが船長の牛耳る残酷な海の上であることに変わりはないのだ。それにデリックの傷も気になった。商船を我が物とした兼ね合いで、船員は半分ほど向こうの船に渡っていた。船の二大巨頭であるうちの一人、イポリート副船長が商船に移ってくれたのはありがたかった。本当は船長にいなくなってほしいところだが、あまり贅沢をいうと罰が当たると思ってシャルロッテはとりあえずその変化を喜ぶことにした。しかし恐ろしい船員が半分も居なくなったからといって喜んでばかりもいられない。人が減っても船を動かすためには同じ業務を必要とするからだ。水夫はいつも以上に忙しそうで、普段ならばこうやってドアの隙間からのぞき込んでいると絡まずにはいられない連中も、上へ下へと走り回って黙々と業務にあたっている。
 彼らがどれほど忙しく働き、手足に豆をつくって焦げた肌をさらに黒くしようがシャルロッテはなんとも思わなかったし、むしろ胸がすく思いだったがそこにデリックが含まれるかもしれないと思ったら話は別だ。
「まさかデリックさんも無理に働かせてないといいけど。でもあの船長ならやりかねないわ」シャルロッテは不安に駆られて甲板にのぼると辺りを見回した。
 甲板では水夫たちが寄り集まって帆を下ろしている真っ最中だった。大の男が数人がかりで麻縄をひっぱっている。シャルロッテはその中に例の青年の姿を見つけてぎょっとした。昨日も線が細い人だと思ったものだが、荒々しい海の男たちに比べるとやはり彼はいかにも貧弱そうにみえた。華奢とまではいかないけれど、十分痩せ型でその筋肉もあまり使いたがられていないように見える。だからこそ彼が船員たちの間にまじっているとそこだけ空間がゆがんでしまったような気がした。デリックの腕の傷は適当な茶色い布で結ばれているだけで、少しでも動かしたらまた血があふれてきそうで恐ろしい。
 しばらく唖然とその光景を見ているとデリックはシャルロッテの姿に気がつき、とりつくろった笑みを浮かべた。それから仕事が一段落すると、いかにも親しげに彼女に駆け寄りシャルロッテの白い指を手に取ってぎこちなく口づけを落とした。
「体調は? さっき部屋をのぞいて、ぐっすり眠っているようだったからそっとしておいたんだ。もしかしてやっぱり無理をさせたかい?」
「ううん、そんなことないわ。寝つくのが遅かっただけ」
「けれど頬が赤いし……」デリックはシャルロッテの頬に手を当てて大袈裟なほど心配する表情を浮かべた。「まだ傷が痛むかい? それなら無理しないで」
「それは……」シャルロッテはますます緊張して口ごもった。そのときマルセルが怒鳴り声をあげた。
「おい新人! サボってねぇでさっさと働け! てめぇ一人で抜けた穴を埋めてもらわねぇとならねぇんだからな!」
「怪我人一人で埋まる穴なんてたいした大きさだわ。商船に移った人たちはきっと今までお酒を飲むだけで何の仕事もしていなかったのね。とにかく怪我人を働かせるなんてばかげてるわ」相手がマルセルであることと、船長が不在なのをいいことにシャルロッテは珍しくきっぱりとした口調で言ってのけた。彼の腕に巻かれた茶色の汚らしい布はおおよそ傷口にあてるような代物ではなかった。その上、激しく動かしたせいで傷口に薄く張っていたかさぶたが剥がれかけて、布には赤黒い血が滲んでいた。自分がのうのうと寝ている間に彼がいったいどんな仕打ちを受けたのかと想像するだけでシャルロッテはゾッとして昨日無理にでも手当しなかった自分を憎たらしく思った。少なくとも、あの傷はしっかりと治療されるべきものだし適当な布で縛って放っておけるようなものには思えなかった。ましてやこうして肉体労働に殉ずるようなものだとも思えない。
 シャルロッテの脳裏に瀕死の母の姿が思い浮かんだ。かすり傷のようなほんの小さい怪我からあっという間にこの世を去ってしまった母のことを。町一番の名医がつきっきりで治療してもあっけなく天にいってしまった母のことを。
 何もかもが整った地上ですらああも簡単に命が消えていくっていうのに、設備も医者もないようなこの海上でどうして人が死なないと信じられるだろう。もうあんな思い二度とごめんだ。無力に弱っていく人だけは家族でも悪党でも見ていられない。先日見た夢と現実の思い出したくもないようなおぞましい記憶がすぐそこまで蘇り、シャルロッテは恐ろしい妄想を取り払うように慌てて首を振った。
「そんなのダメ、こんなの絶対間違ってるわ。傷が完全に塞がるまでは安静にしていなくちゃ」
 マルセルは鼻を鳴らした。「その程度のかすり傷で仕事が免除になるかよ。それだったら俺だって毎日自分の腕を切りつけるな」母がささくれを指に刺したくらいの傷でどれほど苦しんで死んだのかをこんこんと説明してやりたいところだったが、続いた言葉にその気持ちは飲み込まれた。「第一、この男はそういう契約でこの船に乗ってんだからな」
「どういうこと?」シャルロッテがデリックを見て首をかしげると彼はマルセルに同意するみたいにうなずいた。
「シャルロッテ、心配してくれるのはうれしいけど、あいにくそういうわけにもいかないんだ。どうやら悪魔に目をつけられたみたいでね。まぁ、昨日の幸運を思えばこのくらいどうてこともない。船長に言われたのさ。この船に乗るなら働けってね。それで今朝あの契約書にサインしたから逆らうわけにもいかないってものなんだ」
「脅されたの? どうしてそんなひどいことができるのかわからないわ。怪我人を働かせるだなんて。ましてやろくな手当もせずに! ねぇ、せめて手当だけでもしちゃだめかしら? もしも……もしも船長が何か言ってくるようならわたしが――」
 そのとき甲板にやってきたロウ船長が自分のことをじっと見ているのに気がついてシャルロッテは緊張の面持ちを浮かべた。途端に昨日殴られた場所が熱を持ち始めるような気がしたのだ。緊張から心臓は奇妙に脈拍を早めて首筋を嫌な汗が伝う。何しろ殴られた記憶は鮮明に脳裏に、それから魂に刻まれていた。でも、デリックが言うのなら――。
 しかし実際はロウ船長がシャルロッテを目に留めたのなんてほんの一瞬のことだった。シャルロッテは恐怖のあまりそれが永遠に感じただけだったのだ。彼にとって彼女は自分が昨日殴り飛ばした無知な娘に過ぎず、生きているのならそれでいいのだ。もちろん死んでいたって構いはしないが。船長が目を光らせていたのは船長の方だ。隠すつもりもない視線にデリックは当然気がつき、顎をさすって「さて、どうしようか」と軽く思考を巡らせた。「つまらない仕事から解放されるのはありがたいが……見張られてるのは間違いないからな。少なくとも今は大人しくしておいた方が何かと利がありそうだ。それにシャルロッテには無事でいてもらわないと困る」
 デリックはそう結論づけて、怯えながら船長の様子を伺うシャルロッテの肩を抱いた。
「シャルロッテ、君がそんな危険を冒す必要はどこにもないよ。女性をそう何度も戦地に送り込んでたまるものか。それにどうやら船長は妙に気が立ってるみたいなんだ。変に刺激して反感を買う必要はないだろう。傷が塞がってないのはたしかにその通りだが、昨日みたいに血が止まらないわけでもない。仕事さえ終われば何をしたって文句言われることはないさ。だから、少し部屋で待っていてもらってもいいかい? 終わったら必ずすぐにいくから」
 シャルロッテはデリックの言い分を聞きながらもう一度遠巻きにロウ船長に視線を向けた。彼はすっかりシャルロッテにもデリックにも興味を失ったようで、上等な葉巻をふかして白い煙を全身にまとわせていた。しかしデリックのいうことは少し疑問で、船長の様子は上機嫌というわけでもないけれど特段不機嫌にも見えなかった。何より、シャルロッテはこの船に乗ってからというもの怒りで全身を膨らませて眉を寄せる船長は見たことがあるが、虫の居所が悪い船長なんてみたことがない。それもそのはずだ。不機嫌になるのは自分の要望が叶わないからなのだから。船長はこの船のすべての指揮権を握っているし、それに――シャルロッテは唇を真横に結んだ――機嫌が悪くなれば真っ先にその原因を殴りつけるから鬱憤なんてたまる訳がないのだ。それともこの無敵に思える船長にも手をこまねくようなことがあるのだろうか? そんなの信じられない。第一、意外なことにも船長は自分がどうしようもないもの――たとえば天候だとか獲物となる商船がまるで見つからないとか――そういうことに対して腹をたてる様子がないのだ。船乗りたちが口々に文句をたれるのを馬鹿にしたように笑って、むしろ機嫌のいい表情をみせる。
けれど彼がそういうからにはそうなのだろう。シャルロッテだってわざわざ殴られたくはない。きっとデリックを乗せたことを後悔してるんだわ、とシャルロッテは予想した。いくら彼が拳ですべてを解決できたところで過去の自分を殴りつけることはできないもの。だとすればその八つ当たりのような怒りがデリックに向かせないためにもあまり派手な行動は取らない方がいい。
「……わかったわ。でも無理しないで」
「ああ、もちろん」
 シャルロッテはおずおずと引き返しながら先ほどのロウ船長の顔を思い出していた。
「なんだか一瞬だけわたしのことを心配したような気もしたけれど……きっと見間違いね。それどころかもう起き上がったのかってうんざりしているかもしれないし。何にせよ、また殴られたらたまったものじゃないわ。あんな打撃何回も食らっていいものじゃないもの」もしも彼が罪人に鞭を打つのだとしたら、たとえそれが罪人であっても同情に値するわ。
 自室に戻ったシャルロッテはガラスの首飾りを外して机の上に置き、ベッドの上に座り込んで頭を抱えた。デリックが不当に働かされていることにも頭を悩ませたけれど、それ以上にシャルロッテが頭を悩ませたのは果たしてあの傷をどうやって手当しようかというところだ。
「見た目よりも傷は深くないみたいだけど……」
 幸いにも傷は浅く――危なっかしいけれど――つながっていたので、わざわざ屋敷から持ってきた裁縫道具の出番がなさそうだとシャルロッテは安堵の息を吐いた。さすがのシャルロッテでも外科医よろしく傷口を縫合するなんてできないし、想像しただけでも倒れてしまいそう。軟こうなんて上品な物が積まれていないことは間違いなかったが、さしあたってもあの使い古した雑巾のような悪臭がする茶色い布だけはどうにかしなければいけない。せめて包帯でもあれば……、と思ったがそんな上質なものがこの船にあるとは到底思えなかった。あったとしてもわたしが知らない場所に隠してあるのなら意味がない。あれこれ質問して船長を困らせないと大(おお)見(み)得(え)を切ったからだ。そうでなくたってしばらくは船長と話したくなかったし、他の水夫に聞いたところで意地悪して教えてくれないに決まっている。
 シャルロッテは困り果てて部屋の中を歩き回り、今まで一度も開けてこなかった部屋の引き出しを開けてみたが都合よく包帯が見つかるわけがなかった。引き出しの中に入っていたのは埃と何かのネジが一本と木片だけだ。
 再びベッドに腰を下ろしたシャルロッテが途方に暮れかけたところで、ふと自分のドレスが目に入った。ドレスの裾はふんわりと膨らみ、レースなんかの飾りはどこかへ引っかけてボロボロだがそんなことはどうでもいい。シャルロッテはオーバースカートを持ち上げて何枚も重ねて仕込んでいるペチコートを見つめた。薄い白い布で、裾にはフリルがあしらってある。これはドレスを膨らませるための代物だが、舞踏会では華やかに見せてくれても船上では何の恩恵もなかった。それどころかどこに行っても足を引っ張るばかりなのだから、むしろボリュームなんてない方がいいに決まっている。
 貴族の文化は気に入っていなかったのに、今の今になるまでペチコートを履かないという選択が頭に浮かばなかったことにシャルロッテは苦笑して、その気持ちをぶつけるみたいに純白のペチコートに手をかけて思いっきり引っ張った。ペチコートはは縫い目からブチブチと音を立てながら引き裂かれた。フリルが邪魔だし、このままではすぐにほつれてしまうがそれはあとで直せばいいだろう。そのための裁縫道具だ。
 手持ちのペチコートをすべて裂き終えるとベッドの上にこんもりとした白い布の山ができた。それからはデリックが訪ねるまで間、フリルを丁寧に取り払い、布の端を縫いながら時間を潰した。歌を口ずさみながらひたすらに手を動かすのはなんだかとても楽しかった。思ってみれば船の上で仕事を見つけたのは初めてだった。なすべきことがあるというのはそれだけで精神を安定させるし、それが人のためになるというのならなおさらのことだった。
 シャルロッテは時間を忘れて両手を動かし続け、ふと顔をあげて小さな窓から外を覗くとすでに太陽は落ちて小さな星が空にきらめいていた。ベッドの上にはまだ縫いかけの布が山のように置かれている。減ってはいるはずだが、これっぽっちもそんな気がしない。
 耳を澄ませば外のテーブルで男たちが食事をしながらいつもみたいに騒いでいる声が聞こえた。
「それにしてもデリックさんったら遅いな。忘れていなければいいけれど……それともまた何か理不尽な目に遭っていたりして?」
 そう思うとシャルロッテはゾッとして、布と包帯を片付けて早速彼を探しに行く決意をした。

第七章 三話

 そのころデリックは食堂で船員たちに混じって暇を潰していた。シャルロッテのところを訪ねるという約束は覚えていたけれど、その実あまり乗り気というわけでもなかった。それならば気のあいそうな船員たちと少しばかり机を囲んで酒をあおった方がまだ楽しいというものだ。それに船員の方もまったくの偶然からこの船に乗り込んだ新人に興味津々だった。しかもこの船唯一の女性と妙に親密であるとすれば注目もひとしおだろう。
「随分あの女と仲良くしているらしいじゃねぇか。え? で、どうだった? あっちの方の具合は?」
「馬鹿いえよ! あの女、ついに船長にかみつきやがったんだぞ。気の強い女は具合がいいって相場が決まってんだろ」
「きっとぼろぼろ泣きながら締め付けてくるぞ」
 デリックは涼しい顔をしながら酒をあおり、船員たちの下衆な言葉や質問を軽くいなした。口元には軽蔑とどうしようもない悪への崇拝が入り混じった薄笑いを浮かべている。デリックは床に唾を吐いた。
「あんたらが案外ピュアで驚くばかりだな。この分だと彼女の純潔も無事なようで安心したよ」
「紳士でも気取ってるつもりか?」片足のアンドレが立ち上がり我慢ならない怒りのままに椅子を蹴り倒すと賑やかだった食卓に張り詰めた緊張が立ち込めた。「いつまでその薄ら寒い演技を続けるつもりだ? 俺ァ、人を見る目だけは自信があるぜ。特に同じような出所なら尚更な! 俺を詐欺にかけようたってそうはいかねぇ。もっとも、ころんと騙されるのはあの世間知らずのおぼこくらいのもんだ」
 船員たちに混じって静かに酒を飲んでいたデリックはニヤリと笑って両足をドンと音を立てて机の上に広げた。重力によって上がった裾からは足首からふくらはぎにかけて大きく掘られたドクロの刺青が邪悪な表情で船員たちを見つめていた。
「本当にそう思うか?」それから悪人が悪事を自慢するとき特有の尊大ぶった感じを存分に出してデリックは話し始めた。「俺に言わせりゃあ、女なんてどれだけ歳をくってようが金のなる木だ。それも年がいった死に損ないほどたんまり金を溜め込んでやがる。それにな、世間知らずの娘っ子よりも、案外子供を兎みたいにぽんぽん産んですっかり枯れちまった女の方が食いつくぞ。それもいとも簡単にな! 不満たらたらな分よっぽど楽だ。俺はそこにちょいとばかりつけこんで甘い夢を見させてやるってわけさ。阿片の夢は高くつくがな。まぁ座れよ」デリックは自分の隣の空席を顎で指し示して片足の男をなだめた。アンドレはまるで納得していないらしく、床に突き刺された義足が小刻みに震えていた。「大体、あんたを意気地なし呼ばわりしたわけじゃねぇ。そう取るなら謝るよ。悪かった。とにかくそっちの方が俺に都合がいいってことだ」デリックは口を歪めて人相の悪い笑みを浮かべた。
 このデリック・ランス――本名をジェフリー・クィルターという男はイギリスで名を馳せた盗賊にして悪名高き結婚詐欺師だった。名を変え、場所を変え、分別もつかないような少女を言葉巧みに誘導して、持参金と純潔だけを奪ってあとは姿をくらましてしまう。その対象は娘だけではなく、未亡人や貴婦人までにもおよび、その際には女の宝石や金目のものも残さず頂戴して残さず質に入れてしまう。悪銭は身につかないもので、一人の女性の人生を終わらせてまで手に入れた金銭も大抵すぐになくなってしまったけれど、彼はそんな刹那的な人生を楽しんでいた。何十回となく同じ罪を繰り返し、縛り首を間一髪で避け、ついに故郷を追われることになっても彼はこれっぽっちも反省しなかったし動揺もしなかった。どこであろうと仕事はできるし、それにデリックはこの悪事こそが自分の天職だと思っていたのだ。そんな男にシャルロッテが騙されるのも無理のない話だろう。何しろ、彼はその道のプロフェッショナルなのだから。田舎出身の成金貴族の娘にどうして宝石とガラス玉の区別がつきようか?
「仲良くしようじゃねぇか。ほらよ、お近づきの印だ」と、いいながらデリックはポケットから煙草を取り出して机に放り投げた。「最後の一本だ。どうせこの船でも煙草か金か……まぁそんなのを賭けて遊んでるんだろ? 俺も混ぜろよ。本当に海は娯楽が少なくてかなわねぇな。囚人でもないならなんでこんなところで働いてるんだか」
 憎まれ口を叩きながらもデリックはアンドレに対してきちんと尊敬の目をしたので彼は提案を受け入れて腰を下ろした。しけた煙草に火をつけると白い煙が天井に舞い上がり、やがて空気と混じって消えていった。決してきな臭い新参者を認めたわけではなかったが、煙草は船の上では間違いなく貴重品で、彼は現金だった。女嫌いの彼もシャルロッテがおずおずと煙草や金貨を差し出したなら普段の厳しく一種病的とも言えるような態度を翻して慣れない笑顔すら浮かべるだろう。
 殴り合いを期待した男たちは興味を失って元の会話を再開した。デリックの豹変ぶりなんてもはや誰も気にしていなかった。というのも荒っぽい口調や態度は大人しくしているよりもよっぽどその体に馴染んでいたのであっという間に受け入れられたのだ。
「それにしてもよく気付いたな」
「クズは全員同じ顔つきをしてるからな」
「おっと同意してやりたいところだが、俺はこの顔でかなり稼いでるんでな。どうやら女どもはこの顔が好きらしい」アンドレは鼻を鳴らしたがデリックは怯えもせずに極めて大胆に切り出した。それは彼がこの船に乗ってからというものずっと気になっていることだ。「それであの女はなんなんだ? まさか船長の愛人ってわけでもないだろ? 親族か? それとも大穴で実の娘だったりするのか?」と、言ってからデリックは自分の予想がどれも的外れだと思い直して一人で笑った。まず血がつながっている可能性はないだろう、たとえ義理だとしてもあり得ない。二人はあまりにも違いすぎる。格好も顔立ちも話し方も何もかもが違うが、もっともかけ離れているのは態度だ。シャルロッテがあまりにも多くの言葉を飲み込んで事あるごとに子ウサギみたいに震えるのに対して、ロウ船長はまさしく荒々しい指導者だ。船上の小さなコミュニティーを先導するだけの知識と経験がある。まだ一日しか過ごしていないデリックでもそれはすぐに気がついた。いつだって憎たらしいほど的を射た指示しかしないし、これっぽっちも物怖じしない態度はまさしく船長になるべくして生まれたようなものだ。この船が決して沈まないと言われるのも頷ける。
 だがデリックが最初に思いついた理由はこれではなく、あの船長が血が繋がっているだけの親族や家族の義理を果たすとは思えなかったからだ。きっととっくの昔に家族とは縁を切っているはずだ。自分がどれほど稼いでいようが、びた一文も渡さないだろうし、同情や憐憫といった類の言葉をこれほど嫌いそうな人も他に見ない。
 ましてや女としてまるで魅力のない体を船長が求めるわけがない。しかしだとするとなおさらシャルロッテの出どころが気になった。
「なんにせよ、ありゃなかなかいい女だ」デリックが呟くと周囲の男たちが山のような反論を口にした。そのおかげでデリックはすぐに事情を察した。
「正気か? おまえは何も知らねぇだろうけどな、あの女は没落貴族の箱入り娘だぞ。それも父親が罪人な上、行方不明で財産も全部没収されてるときたら一文だって望めやしねぇよ! さぁどうだ、これでもあの女の肩を持つって!?」
「没落貴族だかなんだか知らないが、穴は空いてんだからやることはやれんだろ」
 ドッとした笑いが船を揺らした。男たちはゲラゲラ笑いながら酒をあおり思い思いに声を上げた。
「世界中のどこを探したってあのガキで満足するのはてめぇくらいのもんだ!」
「だとしたってあの女に手を出したらひどい目にあうぞ。思い入れがあるわけじゃねぇが掟は絶対だ。船長はおっかねぇ人だぞ! 前回はあの鞭打ちで一人天に送ってるんだからな」
「しかしあの掟には抜け道があるだろ。つまり合意の上なら処罰は免れるってわけだ。まぁ、かといってあの娘っ子のケツを追いかけ回す気にゃならねぇが。デリック、てめぇ相当趣味が悪いな」
「何とでもいいやがれ。貴族であることに変わりはないんだろ? だったら話は簡単だ。いいか? たとえ本人が没落していようが何だろうが関係ねぇんだ。ありゃ金の卵だ。ダチでも後見人でも誰でもいいが……とにかく、知り合いの貴族がいる。そいつらに俺を紹介してくれれば一気に社交界への道が開けるじゃねぇか。それで適当な女を見つけりゃ俺は晴れて貴族の仲間入りってわけだ!」
 水夫たちは訝しげに首を傾げた。
「血気盛んでいいことだが、あの女に連絡を取る友人なんているかね?」
「少なくともパリアンテのところのお嬢さんは手紙くらいは書くだろうな」
「姉の方か? それとも妹の方か?」
「馬鹿いうんじゃねぇぞ。姉の方は船長にぞっこん過ぎて周りなんて目に入ってねぇよ。ようやく友達が一人消えたことに気づいたころじゃねぇか? 俺が言ってんのはガキの方だ。あの妹はずいぶんシャルロッテをかわいがってたらしいじゃねぇか。まぁ、わからんでもないな。仏頂面に比べたらびくびくめそめそしてた方が愛嬌があっていいだろ?」
「違いねぇ。女は媚びてるくらいがかわいいってもんだ」
 そんな言葉はもはや耳に入らず、デリックは思わぬ縁に目を見開き自分の幸運に感謝した。「パリアンテ……ってことはあの女は大商人ビリーの一人娘か! まさかこんなところで出会えるとはな! 俺は運がいいぞ」
「ならこんなところで油売ってないでさっさと媚びを売りにいきゃいいだろ。俺は邪魔だてなんてしねぇからよ。そろそろ待ちくたびれてのぞきにくるころじゃねぇか? ほら、噂をすればお出ましだ」
 デリックを探しに、そっと入り口の影から中をのぞいたシャルロッテは中にいる全員が突然自分に注目を向けたものだから驚いて肩を揺らした。いつもなら自分に目も向けないような男たちは下卑た視線は一心不乱に絡みつくように彼女の下半身に向けられ、やがて一人の男が吹き出して笑ってシャルロッテの姿を揶揄した。
「ずいぶんいい格好じゃねぇか。え? 急にサービス精神でも生まれたか!?」と、いわれてシャルロッテは自分の格好を見下ろして顔を真っ赤に染めた。ペチコートを取り払いすべて布に戻してしまったせいでドレスにいつのも膨らみはなく、スカートは足にぴったりと張り付いて足の形が露呈していた。太ももの柔らかい丘陵や鼠径部のくぼみまでもが空気にさらされ、全員の視線がそこに向いているような気さえした。そう思うとなんだかあまりにも恐ろしくて、シャルロッテの左手は自然と首元に動いていつもお守り代わりにしているガラス玉の冷たい感触を求めた。
 しかしこんな時に限って大切なお守りは部屋に置いてきてしまった。その事実にシャルロッテは途端に心細くなって、今すぐにでも走って逃げ出してしまいたい気持ちに駆られた。でも、だめよ。こんな人たちに背を向けて逃げ出すわけにはいかない。小刻みに震える両手を力強く握り締め、シャルロッテは毅然として男たちを見つめた――けれどそのブルーの大きな瞳は恐怖と羞恥で小刻みに震え、その健気で無力な姿に水夫たちは嗜虐心で心を震わせた。男たちは示し合わせたみたいに彼女を取り囲み、馴れ馴れしく肩に腕を置いて取り囲んだ。
「貴族さまも意外と大胆じゃねぇか。かまととぶってんのは顔だけか? え? 貴族らしくダンスでも踊ってみろよ。ただしうんとなまめかしくな。それとも俺らが教えてやろうか? もちろんベッドの上でな」
 肌に張り付いたスカートを軽く持ち上げられたり、ゲラゲラと笑いながら男が腰を前後に動かしたりするといよいよシャルロッテはいたたまれなくなって顔を真っ赤にしながら叫んだ。自然と声が震えそうになったが、それは大声で誤魔化した。
「だ、誰がそんなこと……! あなたたちみたいなけだものこっちからお断りです」
「だとよ! 聞いたかおまえら! お貴族さまは下層の人間は好きにならないとさ! ほらよ、こいつを誘いに来たんだろ? 行ってやれ、王子さま!」
 無数の男に突き出されてデリックは渋い顔をしながらシャルロッテの前に立った。彼女はデリックを見上げて不安と心配と恐怖ですがりつくような目をしていた。船員たちに馬鹿にされるのはむかつくし、シャルロッテが辱められようとなんの気持ちも抱かないが、その瞳だけは何か男心をくすぐるものがあった。
 それに完璧なドレスを身につけているときには気がつかなかったが――デリックはシャルロッテのなりを一瞥して目を細めながら眉をあげた。なかなかこうしてみると女らしい体をしているじゃないか。足の柔らかいふくらみを想像してデリックは口元に薄い笑みを浮かべた。それに、いずれこの女の財産もすべて俺のものになるのだ。果たしていくら残っているのかは知らないが、一シリングも残さずにしぼりとってやろう。それに拾ってもらった恩もある。少しくらい助けてやってもいいか。デリックは恩を仇で返すような計画にほくそ笑み、そうとは知らないシャルロッテを極めて情熱的に抱き寄せ、船乗りたちから引き離すように肩を抱きながら廊下へ出た。変なことを吹き込まれて計画を邪魔されるわけにはいかない。
 シャルロッテは二人の距離が近いことに今度は違う意味でドキドキし始めた。
「シャルロッテ! 何もこんなたまり場みたいな場所にこなくたってよかったのに!」
「でも、遅かったから……。何かあったのかと思って」
「それにそのドレスは一体どうしたんだ?」デリックの瞳が自分の下半身に向いていると思うとどうしようもなく顔が熱を持った。
「包帯を作ってたのよ。綺麗な布があまりなかったから……。ところで一体何の話をしていたの?」
 船乗りたちは食堂の中から口笛を吹いて二人をとことんまで冷やかした。
 デリックは背後で笑い合う男たちを形式だけにらみつけてシャルロッテに偽りの笑顔を向ける。彼女の純真な眼は疑うことを知らないようだった。都合のいいことに。
「もう少し君を丁寧に扱えって抗議していたところさ。ほんとうに、何もこんなところに顔を出さなくたってよかったんだよ。あと数分もしたら向かおうと思っていたんだ。本当にね。いや、でもよく考えてみれば君が来てくれて助かったよ。何しろあいつらときたらあまりにも君を侮辱するものだから、あと数分もしないうちに殴りつけて騒ぎになってもおかしくなかった。本当にね。さぁ、いこう。遅くなって悪かった」

 元々小さな部屋は男女が二人で入るにはかなり手狭だった。シャルロッテはベッドに腰を下ろし、テーブルの方に目をやってそこにお守りのガラス玉のネックレスが置いてあるのを確認してようやく肩の荷を下ろした。本当にあれを家から持ち出せてよかった。宝石ではなくガラス玉を贈った母はきっとお転婆な幼子に宝石なんてまだ早いと思ってのことだろうが、今から思えばあの判断は大正解だった。おかげで誰にも回収されることなく今でも大切なお守りは手が届く距離にある。
 それに水夫たちに混じって一日働いたというのにデリックの調子も思ったよりも良さそうだ。平気だと告げた彼の言葉は強がりではなく事実なのだろう。そう思うとひとまず心の中を安(あん)堵(ど)が満たした。
「さぁ、僕は逃げも隠れもしないよ。君の好きなようにしてくれ」
 デリックは椅子に座ると薄汚れた布が巻かれた腕を投げ出した。「もちろんそのつもりです」シャルロッテは自分の服を切り裂いてつくった包帯をその腕に巻き付けた。傷はかさぶたになってこんもりと盛り上がっているだけでもう血は流れていなかった。よかった、お母さまの時とは違う。あのときは何日たっても傷がよくならず膿がたまっていた。油断は禁物だけど、おそらくあと数日もすれば傷口も完全に塞がるだろう。
「優しいんだね」
「そんなことないわ」シャルロッテはデリックの言葉を軽く否定した。
「いいや、君は優しいよ。自分でなんと言おうとね。なんたって、見ず知らずの男にここまでしてくれるんだ」
「心配性なだけよ。でも、ありがとう。そう言ってもらえるとうれしい。本当よ。だってあんまり言われたことないんだもの」
「本当に? だったらその連中は目がおかしいに違いないな」そんなこと言ったらアナベル夫人が鼻を膨らませてかんかんになるだろうと思うと思わず小さく笑みがこぼれた。
「それにね、自分でも優しいだなんて思ったことないの――本当だってば。騙す必要性がないでしょ? わたし、正直だとは思ってるわ――出会ったばかりの人にこんなことをいうのもなんだか変な話なんだけど、わたし、いつも世界から切り離されているような気がするのよ」
「切り離されている?」
「そうよ」栗色の瞳には魔法がかかっているに違いない。そうでもなければどうしてこれほど心が穏やかになって心の内側をさらけ出したくなるのだろう? おそらく、これは期待なのだ。この人ならば自分のどうしようもない弱みまで認めてくれるだろうという期待。そしてもちろんデリックはどんな打ち明け話であろうと二言目には慰めを与えてくれる。涙すら流しそうな優しげな表情の下でほくそ笑みながら。
「わたしの周りで起こることはね、全部わたしが関与できないところで起こるの。いつも除け者にされている気分よ。この船に乗ったのだってそうだし、港にやってきたのだってそう、それから今だってそう。この船がどこにいてどんな恐ろしいことをしようともどうしようもないの……でもあまりにそんなことが続くからいつからか口に出すのも面倒になっちゃった。あなたはそう言ってくれるけどね、でもわたしの評価はみんなが言う言葉の方が正しいのよ。わたしは何もできないの。お母さまが亡くなったときだってただ見ていることしかできなかった。それに――」一瞬、父のことを言おうとして口をつぐんだ。港の人間は全員父のことを極悪人だと罵ったけれど、この人はなんていうだろう。もしも父を非難するようならば心を閉じなければいけなくなる。それが恐ろしくて、シャルロッテはあえて言葉を濁した。
「時々思うわ。使命も放り出してこんなところで何をしているんだろうって。その上、意気地なしですぐ何も言えなくなっちゃう――こんなこと聞いたところでどうしようもないわよね」
「そんなことないよ。僕は君のことが知りたいんだ」つまり強い自己嫌悪と無力感にさいなまれているってわけだ。デリックが思うにこれほど解決しやすい悩みもない。こういう女にこそ、まさしくデリックは阿(あ)片(へん)のように強い効力をもたらすものだ。
「だけど君が自分のことを追い詰めるのは見ていられないな。きっと君の父上だってそんなことは望まないよ」
「誰から聞いたの?」シャルロッテは顔を上げて首をかしげた。その程度で動揺するデリックではない。
「さっき水夫からね。知られたくないことならすまなかった」
「ううん、全員知ってることだから」だけど、どう思ったのだろう。シャルロッテが不安そうにその栗色の瞳をのぞき込んだのを合図にデリックは彼女の小さな手を左右から力強く握った。
「だが僕には信じられないんだ。君みたいな心優しい人の父親が罪に手を染めるなんて」
「そう言ってくれる人に出会ったのは初めて! そうよ、わたしもそう思うの。ううん、ほとんど自白するような言葉も聞いたの。お父さまは無実なのよ。それを知っているのに……」それなのに、やはりわたしは何もできなかった。それで諦めて、義務も家も何もかもを捨てて逃げ出すようにここにいる。わたしはあれほど愛しているお父さまを、あれほど愛してくれたお父さまを忘れて見殺しにしようとしているのだ。なんて親不孝な話だろう。
「話を変えよう。それで、君はこれからどうするんだい? 向こうに誰か頼れる人でもいるのかい?」
「いないわ。それにお金もほとんどないの」
「形見の宝石とかは?」デリックの瞳がきらめいた。
「たくさん残してくれたけど、全部持って行かれちゃったわ」あらためて口にするとすさまじい絶望感が襲った。今の生活も苦しいがこれはまだ序章に過ぎないのだ。その上、船を下りたなら一人で生きていかなければいけない。だからいい加減強くならなくてはいけない。いつまでも守られているばかりの娘気分で居てはいけないのだ。寂しくとも、だって、お父さまはもう――まぶたが拒むように痙攣した。
「でもきっと海外口座があるはずですよ」デリックは明るく口にした。
「海外口座?」
「そうですよ! 大規模な商人だとすればそれはもうきっと確実に! 何度も海を渡ってたというのなら間違いなく他国に口座があると見て間違いない」
 それはシャルロッテにとってもデリックにとっても希望の言葉だった。
「けれどきっとそれも奪われた後に違いないわ」
「いいや、きっと無事ですよ。本人か親族でもない限りそう簡単に中身を渡すようなもんじゃないし、国が変われば強要もできないはずだ。そうじゃなきゃ銀行の意味がないだろう? もちろん立派な娘である君の一筆でもあれば話は別だよ」デリックは内心でつぶやいた。だからこそ、この女の協力が必要なわけだ。
「当然君に相続する権利があるはずだ。そうすれば君は若くして財産持ちだ! 不安なようなら僕が代理人として取り合ってあげようか?」
「せっかくの提案ですけど……遠慮しておくわ。わたしは父がもうこの世にいないなんて思いたくないの」それに財産が手に入るよりも父が帰ってきてくれた方がよっぽど嬉しい。デリックは心の中で舌打ちしたがそんなことおくびにも出さずに続けた。
「ああ、僕ももちろんそう思う。それが一番だ。それにしてもシャルロッテ、君は本当に父上が大好きなんだな。きっと君に似て優しくて立派な人なんだろうな。何か話してくれ」
「もちろんです」それからシャルロッテは喜々として父のことを語った。デリックはシャルロッテの話を黙って聞いて一言感想をこぼした。
「話を聞いてわかったよ。君は父上を愛しているんだね。それに、さぞ立派な人なんだろう」
「そう! そうなの、お父さまは本当に立派な人なのよ」途端にシャルロッテの瞳から光が消えた。「だけど……わたしはただ逃げてるだけ。きっと本当に立派で勇気がある人なら――たとえばロウ船長なら――こんな所で手をこまねいていないで行動しているはずよ……。だけど、わたしは逃げたのよ。人が怖くて仕方がないの……みんなわたしのことを嫌っているような気がするわ。みんな表では心にも思っていないことを言って、裏でとことん痛めつけるのよ」
 さすがのシャルロッテでも自分がどんな言葉を求めているのかわかった。そしてデリックはいつでも甘い毒のように欲しい言葉を与えてくれるのだ。
「シャルロッテ……そんなことないよ。少なくとも僕は違う。君はもう十分よくやってる。君のお父さまだってきっとそう思ってるはずだ。無理しないでいいんだよ。泣きたいなら泣いてもいいんだ」
 温かい腕で肩を抱かれると今まで押し込めていた感情が全て爆発して、瞳から大量の滴となって頬をぬらした。これは都合のいい夢だと薄々察しながらも、シャルロッテはその思考を胸の奥底に閉じ込めて見ないふりをした。どうしてもその言葉が必要だったからだ。
 デリックは片方の腕でシャルロッテの後頭部を胸に押し付けながら、盗賊の目をして部屋の中をぐるりと見回した。飾り気のない女だが宝石の一つや二つくらい持っているだろう。最初デリックは宝石箱を探したのだが、どこにもそんなものは見当たらなかった。その代わりにデリックの目についたのは机の上に大切そうに置かれた青のガラス玉だった。薄暗い部屋の中で窓から差し込む月明かりを反射する様子は遠目に見るとブルー・ダイヤモンドかサファイアのように見えたのだ。閉じ込められた気泡はクラッチに姿を変えて、少し値は落ちるだろうがそれでも売り払えば高値がつきそうな予感がした。デリックはさりげなく机の上の首飾りをかすめ取るとそれをポケットにつっこんだ。
「さぁもう休んだ方がいい。大体、昨日だってあの横暴な船長に殴られているんだから。それに船での生活は慣れるものでもないだろう。おやすみ。シャルロッテ、また明日」
 デリックは部屋の扉を閉めた途端に笑い出したい衝動に駆られた。
「金庫に出入りする権利が得られなかったのは残念だがそれなりに収穫はあったな」デリックはネックレスを手の中で転がして口角をあげた。「まあいい。銀行の方だってじきに首を縦に振らせてみせるさ。もちろんその金はすべて俺のもんだ」デリックはビリー家の財産すべてを奪った気になり、ついに堪えられなくなって、狂人みたいにひどい笑い声をあげながら甲板へと登った。目の前には金庫に眠る宝石やら百万ポンドもくだらない大金が目に見えるようだ。
「それにしたって、この船の連中は大馬鹿野郎ばかりだ! ガキの機嫌を取るだけで一生遊んで暮らせるような大金が転がり込んでくるっていうのに、そのチャンスをみすみす棒に振るなんてな。ま、俺からしたらありがたい話に変わりない。こうなったらあの女の骨のでがらしまで吸い尽くしてやろう」
 デリックはもう一度海に吠えるように笑ってから手を開きネックレスを月に掲げた。ガラス玉は月の光を美しく透過して、まるで本物の水のように澄み切った光を返した。当然数々の宝石を盗んできたデリックはすぐに真実に気がつき、みるみるうちに顔を真っ赤にしてガラス玉を割れんばかりに握りしめ、ついには我慢ならずに甲板に叩きつけた。
「クソッタレめ! あの女、騙しやがったな!」
 その衝撃で綺麗なガラス玉にはヒビが入り、表面はわずかに欠けた。けれどデリックはそんなことまるで気にせず怒りのままにガラス玉を踏みつけにした。それから怒りのままにネックレスを蹴り飛ばすとガラス玉は遠くへ飛んでいって暗闇の中に消えていった。

第七章 四話

 デリックのおかげで久しぶりに心地よい眠りについたシャルロッテは目を覚まして愕然として悲鳴ともつかぬ声をあげた。昨日はたしかにそこにあったはずの、命と同じくらい大切なネックレスは忽(こつ)然(ぜん)と姿を消して、使い切れなかった包帯だけが机に残されている。シャルロッテはその瞬間どうしようもない不安に襲われ、慌てるあまり机の上の食器や裁縫道具をすべて床に落として、部屋の中のものをひっくり返して探索を続けたが、影も形も見つからない宝物にシャルロッテは目を潤ませてベッドの上で途方に暮れた。
「一体どこにあるっていうの? 昨日は絶対にここにあったのに」
 何度見直してもネックレスは見当たらない。今までも船が激しく揺れる風の強い夜にはネックレスが知らず知らずのうちに机から落ちて見当違いな場所に転がっていることがあった。狭い部屋であることが幸いしていつもならものの数分もしないうちに見つかるのに、今日は様子が違う。どこを探しても見つからず、まるでこの世界から忽然と姿を消してしまったかのようだ。
 いつものネックレスがないというだけで気持ちはすっかり縮んでしまって、身も心もなんだかみすぼらしくなったような気がした。こんな心持ちでこの海の上を生き抜けるような気にはとてもならない。ペチコートのないぺたんとしたスカートの上から膝を抱えてスカートに顔をうずめると心細さに思わず涙がこぼれそうになった。
 そのときちょうど部屋の扉がノックされてシャルロッテは緊張してわずかに入り口から距離をとった。もしも今声と態度の大きな船乗りたちに脅されたらわけもわからずに泣きじゃくるしかないとしっかり理解していたからだ。せめてラムさえあれば、逆境をはねのける力が生まれたかもしれないけれど――机の上に置かれたコップはいつの間にか床に転がって液体がこぼれていた。だがよく考えればこの船の上でノックなんて丁寧なことをするのは一人しかいなかった。
「シャルロッテ? 大丈夫かい? 何か大きな音がしたみたいだけど……」
 シャルロッテはその声を聞くなり扉を開けて彼の胸に飛び込んだ。当のデリックはといえば昨日の悪事なんてこれっぽっちも覚えていなかった。
「デリック……どうしよう! わたしのネックレスがないの! たしかに昨日はあったはずなのに……」
 シャルロッテの声は今にも泣き出しそうで、デリック胸に押しつけられた両手は固く握りしめられてわずかに震えていた。彼女のその態度にデリックはわずかに動揺した。シャルロッテの態度はまるでこの世に二つとない家宝でも盗まれたかのようだったからだ。
「もしかして、相当価値があるものだったりするのか?」デリックの声は真剣味に満ちあふれていた。だとしたらまずいことをした! 今もあの場所に転がっていればいいが……。
「ううん、ただのガラス玉よ。だけどわたしにとってはとても大切なものなの……。それなのに……」シャルロッテはしゃくり上げながら涙を拭った。デリックはシャルロッテのことを慰めながら内心ではほっとして安堵の息をついた。やはり俺の審美眼に間違いはなかった。
「どこかで落としたんじゃないのかい?」
「そんなはずないわ。昨日たしかに外したもの」シャルロッテはだんだん冷静になって心の中でつぶやいた。「そうよ、絶対におかしいわ。昨日の記憶は鮮明にあるのに、目覚めたらネックレスだけがなくなっているなんて。それに何よりおかしいのはネックレスだけがなくなってるっていうところだわ。部屋だって荒らされた痕跡はなかった」
そうして考えているうちにシャルロッテの頭には至極当然の疑惑が浮かんだ。
「……もしかして、まさか、デリックが?」シャルロッテはその疑惑にハッとして首を振った。まさか! とんでもない話だわ! しかし心に立ちこめた霧は晴れるどころか白さを増していく。あり得ない、だって今だって優しくわたしのことを慰めてくれているのに。一抹の罪の意識もなく、そんなことできるもの? あり得ないわ、きっとあの人は高潔な人よ。もし仮に魔が差したとしたって、罪をそのままにして安らかに朝を迎えられるような人じゃないわ。だけど――シャルロッテは不安そうな面持ちでデリックのことを見上げた。デリックはその疑惑の瞳にいち早く気がつき、極めて冷静を装って口を開いた。
「……こんなことを言って怯えさせたくないが……実は昨日の夜、君の部屋に男が入っていくのを見たんだ。もしかしたらそいつが――」もちろん嘘だがシャルロッテはその言葉を真に受けて青い顔をした。「やっぱり、知らなかったのか。もしかしたら君が招いたのかもしれないと思って昨日は放っておいたんだが……他に何か被害は?」
「あれだけよ。だけど誰がそんなことしたの? 早く返してもらわないと……」
「力になれなくてすまないが顔はわからなかったんだ。だけど、これからはあまり外にでない方がいい。今回は何もなかったみたいだが――君はか弱い女性だ」
 デリックは遠回しに言ったがシャルロッテはその可能性に思い至って顔を真っ青にして両腕を抱きしめた。
「君を戦地に送り出すわけにはいかないよ。その宝物は僕が責任をもって探しておこう」
 デリックからするとシャルロッテと船乗りたちとの間に距離がある方が都合がよかった。水夫たちは面白がっているだけで味方というわけではないのだ。シャルロッテの傷つく姿がみたいばかりに真相を伝えられるわけにもいかない。
 そのもくろみは成功した。シャルロッテはデリックの言葉に怯えてその日からほとんどの時間を部屋の中で過ごした。時々外に出るときも船員たちの視線にびくびくして目もあわせずに通り過ぎることがしょっちゅうだった。それでも退屈しなかったのはデリックが夜になれば必ずやってきて相手をしてくれたからだ。
 彼は良き話し相手だった。それに話をするうちにデリックも似たような境遇であることがわかりシャルロッテはますます心を開いた。
「実は僕の父も商人なんだ。とはいっても私生児だけどね。だから君の話はよくわかるんだ。僕も長いこと人に必要とされていない……まぁ、だからって恨んではいないよ。教育だけはきちんと施してくれたんだ」
「ずっと気になっていたことがあるの。フランス語はいったい誰に教わったの?」
「何か変なところがあるかい?」
「ううん、とても上手よ。だけど、時々――びっくりするくらい汚い言葉を聞くから。そんな言葉も教わったの?」
「船に乗っていれば自然と覚えるものだよ。朱に交わればってやつだ」
 もちろんシャルロッテに語った話は口から出任せだった。生まれも何もかもだ。言葉は飲んだくれのどうしようもない父から学び、まともな教育も受けずに人を騙しながら生きながらえてきた。
 二人は毎日顔を合わせ、他愛もない話を語り合いくつろいだ時間を過ごしたが、探してもいないガラス玉が見つかるわけがない。デリックの傷がすっかり良くなったころ、シャルロッテはついに自分の足で捜索にでることに決めた。
 その日の夜、船員たちが皆寝静まったのを確認してシャルロッテは船内を隅から隅まで探し回った。案の定ともいうべきか、この広い船内で小さなガラス玉を見つけるのは砂漠の中でたった一つの砂粒を見つけ出すようなものでまるで見つかる気がしなかった。シャルロッテは何度も不安に襲われ、途方に暮れた。「もしもあれが見つからなかったらわたし……いいえ、きっと見つかるわ」
 最初に探したのは食堂だった。水夫たちは一日のうちかなり長い時間をそこで過ごすからだ。一瞬、船員の私物箱を漁るべきかとも思ったけれどすぐにその必要はないと思い至った。盗まれたにしろ何にしろ、きっと何の価値もないと知ったらどこかに投げ捨てているはずだ。どうか海に投げ捨てていませんように、と祈りながら砲列甲板を探し終えた頃には水平線の空が淡紫色になっていた。
 嫌な予感が頭をもたげたが、それを無視してシャルロッテは甲板にあがった。
 甲板にはロウ船長が一人で立っていた。彼はよく海を眺めている。シャルロッテからしてみれば恐ろしい海なんてものをどうしてそれほど愛しているのか理解できなかったが、どうやら船長にとって海は愛しい妻そのものらしく、海を見つめているときだけは心なしか柔らかな顔をしていることが多い。わざわざ熊の巣穴に突っ込まないように、シャルロッテは今まで一度だって彼の至福のひとときを邪魔をしたことはなかった。そんなことをした日にはきっと恐ろしい船長に逆さづりにされて全身の血液が逆流するまでひどい目に遭わされると確信していたからだ。
 けれど今日だけはその姿を視界に捉えた瞬間思わず飛びつかずにはいられなかった。ロウ船長の浅黒く太い指には青く光り輝くガラス玉が握られ、夜明けの空にかざされていた。それはまさしくシャルロッテが求めていたものだった。
「あなたが持っていたのね!」シャルロッテが大声をあげるとロウ船長はゆっくりと視線を向けた。「まさかあなたが……あなたまでもがそんな人だとは思いませんでした。本当に、軽蔑します。まさかわたしのものを盗むだなんて――」
「ほお、盗まれたのか。それにしても決めつけも甚だしいな。わざわざ俺がこんな物を盗む必要がどこにある」
「言い訳は結構です。犯人を探したいわけじゃないですから。それ――返してください。どうやら商船の物はすっかり奪い取ったみたいですけど、まさかわたしの所有物まで自分のものだって言い張るつもりはないでしょう? さぁ、返して」
「俺の話が先だ」この人はいつだってそうだ。シャルロッテはむっとしたが、ガラス玉を船長が握っている以上どうすることもできなかった。船長は静かになったシャルロッテを見て機嫌よく笑った。それから少し冷静になって聞いた。
「これを見るなり盗んだと決めつけたってことは落としたわけじゃないんだな?」
 今だけはこの悪魔も怖くなかった。大体、悪魔が暴れ回るのは夜だと相場が決まっているのだ。東からゆっくりとのぼってくる聖なる光のことを思えば無類の勇気が湧き上がる。それに、極悪人になんかに屈したくなかった。
「どうせあなたが犯人なのに白々しいわ。でも答えてあげます……殴られたくはないし。間違いなくわたしの部屋にあったものです」
「で、誰か部屋に招いたのか?」
 シャルロッテはギクッとして口をつぐんだ。初日以来一度だってその疑惑が頭に浮かんだことはない。だって彼はいつも力になれなくて申し訳ないと言葉を尽くして謝罪するのだ。そんな人が実は犯人だったなんて有り得るだろうか? それに言っていたではないか。乗組員の誰かが部屋に忍び込んで持ち出したのだと。さっきは勢いあまって船長が犯人だと思ったけれど、デリックが乗組員と言った以上ロウ船長は本当に何も関与していないのだろう。それに、シャルロッテはずっと前からこの船長が誠実であることだけは認めている。だからきっと事実はこうなのだ。誰かが持ち出したあと、甲板に投げ捨てて、それを船長がずっと前から拾っていたのだ。それならデリックに見つけられるはずがない。そうよ、きっと真実はそうなんだわ。でも――。
 彼の名誉のためにもできるだけ顔に出さないように努めたが、ロウ船長はそんなことお見通しだったみたいで彼はそんなシャルロッテの百面相を眺めて腹の底から笑った。
「助けた男に裏切られるとはとんだお笑い種だな!」
「あ、あの人がそんなことするわけないわ!」
「だったら誰がやったって? 俺たちはお前が一文無しで着の身着のままこの船に乗ったって知ってるのに。仮に狙うとしたって貨物庫の方だろう」
「ずいぶんと……推理がお好きなんですね? でも言わせてもらうなら荒唐無稽で幼稚な妄想に過ぎません」とはいったけれどロウ船長のいうことはもっともでこれ以上強く出ることはできなかった。
 ロウ船長は黒い目をギラつかせながらじりじりとシャルロッテに近寄り、シャルロッテはその迫力に気圧(けお)されるみたいに後ろに下がった。けれどやがて背中に固い壁の感触があってシャルロッテはついに追い詰められた。
「妄想か。好きにいえばいい」
 船長はシャルロッテを壁際まで追い込み、逃げ場をなくすと丸太のように太い腕を壁につけてドンと激しい音を鳴らした。シャルロッテは肩をびくつかせ、どうにか恐怖を押し殺すので精一杯だった。瞳にはうっすらと涙の膜が張った。
「ま、また、わたしのこと殴るつもり? やるならやりなさいよ。怖くもなんともないんだから……」
 殴られるとまではいかなくたって、彼の至福のひとときを邪魔したんだから耳をふさぎたくなるような暴言の一つや二つは覚悟していた。だがロウ船長はすっかり黙りこんでこれぽっちも動こうとしなかった。
「――同じ色だ」
「え?」
 いったい何のこと? と、聞き返そうとしたけれど、ロウ船長はガラス玉のことなんてすっかり忘れてしまったみたいで、シャルロッテの顎を持ち上げて食い入るように潤んだ瞳を見つめている。
 今までそれなりの日数を同じ船で過ごしてきた二人だが、互いにこれほどしっかりと瞳を突き合わせたのは初めてのことだった。朝日の強い光に照らされ、船長の瞳は黒く光り輝き、浅黒い肌はさらに黒く、男らしく彫りの深い顔でじっと視線を注がれると心臓がにわかに脈打ち首筋がじんわりと熱を持つのがわかった。頬は勝手に高揚して、両手に汗がにじむような気がした。
「あの――」これ以上見つめ合うのもいたたまれなくてシャルロッテは控えめに声をあげた。どうやらその声はロウ船長には届かなかったらしい。彼は真面目な顔つきでシャルロッテの髪に手を伸ばして――そのとき手のひらからガラス玉が転がり落ちた。
 シャルロッテはそれを見るなり身をかがめてガラス玉を手にして足早に船長の脇をくぐり抜けるようにして拘束を逃れた。これ以上見つめ合っていたらおかしくなりそうだった。
 シャルロッテは何歩か船長から距離をとって赤らめた顔のまま小さく頭を下げた。なんだか心の奥底が奇妙にうずいて落ち着かない。船長はまだシャルロッテの瞳に視線を向けていた。
「あの、ロウ船長。今日は拾っていただきどうもありがとうございました。その、それじゃあ、おやすみなさい」それだけ告げるとシャルロッテは走り去って甲板を後にした。それから急いで自室に駆け込んで、扉に背中をくっつけた。
「わたし……なんだか変だわ……」
 心臓の奇妙なときめきはまるで収まるところを知らない。デリックの時とはまた違う脈動だ。あのときはただ幼なじみと再会したみたいに心の奥底がじんわり温かくなるだけだった。シャルロッテはいまだに彼の温かさが残るガラス玉を手の中で転がしながら鼓動に身を委ねた。

 次の日、船長は昨日の一件なんて覚えていないかのようにまるでいつも通りだった。あまりにも変わりがないから昨日の出来事はすべて夢だったのかと錯覚するくらい。だがシャルロッテの心臓は彼を遠巻きに見つめるたびに奇妙に脈打って仕方がなかった。いったいあれは何だったんだろう。あの食い入るような視線を思い出すと全身がぞくりと震えた。まるで魅入っているみたいだったわ。
 まさしくロウ船長はシャルロッテの青い瞳に魅入っていたのだ。彼が愛する海の深い青色とよく似た瞳にただ吸い込まれ、涙が波のようにきらめく瞳をただ綺麗だと認めていた。
 シャルロッテの心境の変化に気がついたのは本人だけではなかった。デリックはシャルロッテの奇妙な様子に気がついて気が気ではなかった。昨日まではロウ船長を見かけるなり小動物のように怯えていたのに今日はうって変わってぼうっとした瞳で船長のことを追いかけ回して時折何かを思い出したかのように唇を小さくかむのだ。自分の知らないところで二人に何か進展があったのは明白だった。それに加えてデリックが気になるのは、自分に対する対応が素っ気ないことだ。「この女はともかく、あの船長はかなり鋭いからな。まさか妙な入れ知恵でもされたのか?」デリックはシャルロッテの首にかけられたネックレスを見つめながら頭をひねった。
「シャルロッテ、どうやらネックレスは見つかったみたいだね……本当によかったよ。それにしてもいったいどこにあったんだい?」デリックは目を泳がせながら質問した。「まさか俺が盗んだと感づいたか? いや、このお人好しがそんなこと思うとは思えないな。それに容疑者なら他にもたくさんいるだろう。疑念があったとしても少し丸め込めばすっかり信じ込むに違いない」
「……甲板に落ちてたみたい。ロウ船長が見つけてくれたのよ。それで……」シャルロッテは言いにくそうに目を伏せた。「その……デリック。疑うつもりはないんだけど……」
「まさか僕が盗んだとでも!? とんでもない汚名だ!」
「わかってるわ。言ったでしょ、わたしだって疑うつもりはないの」シャルロッテは慌てて弁明した。「だからどうかはっきり言って。あなたが持ち出したわけじゃないのよね?」
「ああ、もちろん。君なら信じてくれるね?」
「わかったわ……」不可解な点はいくつもあるが、シャルロッテはそれを無理に考えないことにした。それは唯一この船で見つけた味方を疑いたくないという純真な心がそうさせていた。きっといつかこの甘さが自分の首を絞める日がこようとも、今のシャルロッテには信じることしかできなかった。

第八章 一話

 ここまで順調だった航海にもかげりが見え始めた。もっとも、船員たちの話を盗み聞く限りこれほど順調なことの方が珍しいらしい。 
 ここ数日というもの風は一切吹かなくて、船は一マイルも動かない日々が続いていた。すると船員たちは昼から仕事を放り出して酒に浸り、決まって馬鹿騒ぎを繰り広げる。しかしその騒ぎ方も船の運航がスムーズな時の方がよほど穏やかで落ち着いていた。
 誰も彼もがどうしようもなく鬱憤をためているようで、酒が入ると素面では決して表には出てこないような些細な不満が爆発して十分に一回はどこかから怒鳴り声が響き、テーブルを蹴り上げる大きな音が聞こえる。
 船はちょうど大陸と大陸の中間点にさしかかっていた。大陸から最も離れたこの区域は特に風が弱くて『無風地帯』と呼ばれ船乗りから恐れられている場所だった。当然彼らの獲物である各国の商船もこのありさまでは足止めを食らっていることだろう。船長は今日もそうそうに操舵手も甲板員も何もかもを引っ込め、早めの宴会を繰り広げていた。船員たちの士気を保つために普段よりいくらか豪華な食事が提供されたがシャルロッテにはほとんど関係ない話だった。
 少し食事の量が多くなったところで、まだ日も明るいうちから晩酌が始まってしまえば行き場を追われたねずみみたいに部屋でじっとしているしかなかった。そうでもしないと少しでも部屋の外に出ようものなら酔っ払った船員たちが肩に腕を回して酒臭い息をさんざ顔に吹きかけながら大声で絡んでくるのだ。そんなわけでシャルロッテがダイニングに顔を出すのは宴も終わった夜遅くで、机に突っ伏して大いびきをかく男たちを起こさないようにそっと間をぬって残っている食事を口に運ぶ。
 狭いダイニングのあちこちに椅子が散乱して、男たちがひしめきあっているせいでどれほど気をつけてもスカートのフリルやレースが男たちの体に当たるようで、シャルロッテが動くたびに男たちは大きく身じろぎをして思い出したみたいに顔をボリボリとかいたりする。そのたびにシャルロッテは寿命が縮む思いだった。何しろ大抵寝起きの凶悪さは普段の二割増しだから――とにかくそっとしておくにこしたことはない。
 シャルロッテは今日もダイニングの賑わいが小さくなった頃合いを見計らってそっと部屋を抜け出した。数時間前から騒いでいた男たちはすっかり疲れ果ててほとんど全員が真っ赤な顔をしながら机に突っ伏して大いびきをかいていた。どうやら今日は全員して飲み比べしたらしく、机の上やら床には空になったコップが山のように散乱していた。シャルロッテはダイニングの入り口から中をのぞき込んで、一人で酒を飲み続けるロウ船長と目が合って心臓が飛び跳ねる気がした。てっきり全員酔いつぶれていると思ったのだ。どうやら飲み比べの勝者は船長らしい。
「デリックは今日もいないのね」シャルロッテは慌てて視線をそらしてあえて別のことを考えた。船長が自分の事なんて眼中にないのは分かっているが、いつだって彼の前に姿をさらすのは緊張する。この間の出来事があったからといって、染みついた恐怖がまったくなくなるわけではなかった。ただ、心臓が今までとは違う脈拍をすることにも気がついていた。
 シャルロッテは目を伏せながら、ロウ船長の動向をうかがった。きっと船長には背中にも目がついているのだ。そして彼の黒い瞳は船の内部で起こるすべてのことが手に取るようにわかるに違いない。シャルロッテはここのところどこへ抜け出しても必ず最終的にはロウ船長と顔をつきあわせる羽目になった。それは偶然というにはあまりにも露骨だった。まるでつけ回され、一挙手一投足を監視されているみたいであまり気分のいいものではない。
 デリックはここのところ毎日繰り広げられるお祭り騒ぎには顔を出していなかった。それどころか、少し前まではしつこいほどにシャルロッテにつきまとってどうにか彼女に気に入られようと画策していたにもかかわらずこのところは彼女の前にもめっきり姿を見せていなかった。
 そうとも知らないシャルロッテはたしかにこの下品な会に彼みたいな人は似合わない、と強引に自分を納得させたが、果たしてこの長い夜を彼がどうやって過ごしているのかは甚だ疑問だった。甲板にもその姿はなかったし、船員たちの話を聞く限り寝室にも姿がみえないらしい。
 デリックは狙いをシャルロッテから船尾倉庫に変えたのだ。すべての船員が集まって宴会を繰り広げる今が事に及ぶ絶好のチャンスだった。しかし船長も甘くなく、昼夜を問わず倉庫には見張りがつけられ、デリックは歯がゆい時間を悶々と過ごしていた。
 ロウ船長の無言の圧に怯え、シャルロッテが食事を両腕に抱え込めるだけ抱え込んで、部屋に逃げ帰ろうとするとふと視界の端の廊下にデリックの姿が映った。
「デリック?」思わず呼びかけても彼は反応しなかった。シャルロッテの声なんてまるで耳にも入っていないようで、歩みを止めることなくえらく大股で廊下を足早に進んでいく。久しぶりにみる彼の姿は何やら様子がおかしかった。腹に据えかねる出来事でも起きたかのように妙にいらだっているが遠くからみてもわかった。わざわざ足音を船内に響かせるようにどしどしと音を立てて歩き、目に映るすべてのものに当たり散らすようなありさまだ。彼のそういう危うい態度はシャルロッテを存分に不安にさせた。
「もしかして何かあったの?」
 そう思うといてもたってもいられなくなってシャルロッテは慌てて席を立ってデリックのことを追いかけた。けれど追いかけたときにはすでにデリックの姿はなかった。その代わりに廊下にはえらく不機嫌な船乗りが三人立っていた。
「デリックは?」
その名前を聞くなりアンドレは顔を見合わせて嫌な顔をして吠(ほ)えた。
「あのくそ野郎め! あの野郎、ついに取りつくろう気もなくなりやがった! ありゃ、あと数日もしないうちにやらかすぞ! だとしてもこれっぽっちもかばってなんかやるものか! あんな下衆野郎、悪魔に食われてしまえ!」シャルロッテはその豹(ひよう)変(へん)ぶりに肩をふるわせた。男たちの目はどれもこれも血走っていて恐ろしい。
「あいつがお前を放って何してたか教えてやろうか? 俺たちの所有物をあさってやがるんだよ! すでに五人以上が盗まれてやがる! しかもあの野郎、どこに隠したのかおくびにもだしやしねぇ!」
「そ、そんなわけないわ! 変なこといわないで。デリックはそんなことする人じゃないわ。一体どんな証拠があって……」
「黙れ!」アンドレは船を揺るがすほどに叫ぶとシャルロッテの近くの壁を力任せに殴りつけて大きな音を鳴らした。シャルロッテの言葉は的確だった。誰も明確な証拠を握っているわけではないのだ。「それともてめぇはまだあの男の肩を持つって? あの澄ましたまぬけ面にだまされやがって! 大体、てめぇのそれだってあいつに盗まれたんだろうが! そのくせ犯人をかばおうってんだからばかげた話だ! デリックの野郎もさぞ喜ぶだろうよ!」ガサガサした太い指は力任せにシャルロッテの首元に伸びてひびの入ったネックレスをつかみあげた。ネックレスの紐ごと吊し上げられるとシャルロッテの首は罪人みたいに締め上げられてヒュッと喉が鳴った。これ以上首が絞まらないようにシャルロッテは必死につま先立ちになって苦しげに男をにらみつける。
「こんなおもちゃの何がいいんだか!」男はガラス玉をしげしげと見つめて憎たらしげに唾を吐き捨てた。ガラス玉を狙ったはずの攻撃は狙いを外してシャルロッテの胸元に着弾し、それからシャルロッテのことを床に投げつけた。小さな体はなすすべもなく弾き飛ばされてシャルロッテは大きく尻もちをつき、固い木の床に勢いよくぶつかったせいで尻の骨がズキズキと痛む。シャルロッテが胸元についた不快な液を拭い取り、痛む体に顔をしかめると突然背後に気配を感じた。背後にはロウ船長が立っていた。男はシャルロッテの後ろに立つロウ船長をにらみつけてさらにまくしたてた。
「うちの船長もずいぶん甘くなったもんだ! 見え見えの挑発にも黙って見過ごすってか!? いつから俺たちはそれほど高潔な野郎になったんだ? あ? これ以上俺が不利になるようなことがあれば俺は何のためらいなくあいつを撃ち殺すぞ! これは脅しじゃねぇ」
 船長は答えるより前にシャルロッテにたくましい腕を伸ばした。なんだかそんな風に気遣ってくれるのが信じられなくて、シャルロッテはしばらく目を見開いて硬直した。三秒もそうしていると船長は焦(じ)れたように舌打ちしてシャルロッテの腕をつかんで強引に立ち上がらせた。
「ハッ、お優しいことで。大体もとをただせばその女が悪いっつぅのによ!」
 シャルロッテは男の憎しみすらこもった視線に怯えて肩を大きく震わせた。
「あいつのことは放っておけ」
「放っとけだと!? 今日だって見張り番があいつのことを見たっていうんだ。狙いは明らかだろう! なのに船長は放っておけって!?」
「それは分かってる――まぁ聞け。デリックは確実に風のない今を狙ってくるだろう。逃走の手はずもなしに反抗に及ぶような馬鹿じゃない。風がない以上、小舟にでも乗られたらこの船じゃ追いかけられないからな」
「だったらなおさら四肢でももぎ取ってどっかの部屋に監禁しとけばいいだろ!」
「そんなのひどすぎるわ! そんなの、何かの勘違いかもしれないじゃない!」シャルロッテは男の言葉にぞっとして思わず声をあげた。
 その瞬間男たちの鋭い視線が全身を突き刺し、もしもその視線が質量を持っていれば刺し殺されてしまいそうだった。船長もそうだが水夫は水夫で小娘が口出しするのを嫌うのだ。険悪な雰囲気が流れそうになる中、船長は一人でからからと楽しそうに笑った。シャルロッテは愕然とした。この人はなんて豪胆なのだろう。自分の獲物が狙われているかもしれないのにこれっぽっちも慌てふためかないなんて。
「そう急かすな。罰せる機会があるんだったらそうした方がいい。心配しなくたって逃がすようなヘマはしねぇよ」
 船長の冷静な言葉に感化されて男たちもわずかに冷静になった。「何か作戦でもあるって言うんですか?」
「明日は倉庫の見張りをなくそうと思っている」
 男たちは思い思いに声を上げて船長にかみついた。船長はそれを左手で軽くいなしながら続けた。「俺の見立てだとあと数日は風が出ないだろうが、ろくに海も知らないあいつは罠だとわかってようが十中八九やらずにはいられないだろう。向こうからすればいつこの好機が終わるとも知れんからな。あいつが動かなくても俺に損はない。その時は既存の罪だけで裁く。それでいいだろう」
 アンドレは不服と納得の入り混じった複雑な表情をした後思い出したみたいに呆然とことの成り行きを見守るシャルロッテを睨みつけた。
「その女は?」急な指名にどきりとしてわずかに肩をあげた。「その女が今の話をあいつに伝える可能性は? それで奴が逃げ出しでもしたなら……」
 船長は今度こそ部下を馬鹿にするように肩を揺らした。返ってきた言葉はもっともなものだった。「不安ならこんなところで喋ってないでボートでも見張りにいくことだな」
 男たちは今度こそ冷静になって少女を脅すように睨みつけ、ボートの前で寝ずの番を果たすため甲板に向かった。
 この話し合いをそばで聞いていたシャルロッテだけはデリックをいまだに信じていた。「まるでデリックは悪人だと決めつけてるみたいだけど、果たして本当にそうかしら? たしかに最近一人で何をしているのかはわからないし、それにネックレスの件もあるけれど……」
 根本的なところでお人好しなシャルロッテはデリックが出会った当初に見せた優しさがまるきり嘘だとはやはり信じたくなかったのだ。

第八章 二話

 そのころデリックはいつ吹き始めるとも知れない風に怯えながらやきもきして船内をあてもなくさまよっていた。 
 デリックはビリー家の財力に見切りをつけ、いくらかの金になりそうな船尾倉庫に目をつけた。何度かの下見はすでに終わっていて、金になりそうなものはすべてリストアップされて彼のずる賢い頭の中に記憶されていた。しかしデリックにとっての風向きはかなり悪い。船長から目をつけられているのはもちろんのこと、船員たちの金目の私物を盗みだし(ちなみにこれはシャルロッテの部屋に隠してある)、倉庫の下見する姿を確認されたせいで凡庸な船員たちからもいぶかしみの目で見られている。だからといって目の前の宝をみすみす逃せるほどデリックはできた人間ではない。
「いつ風が吹くかもわからないっていうのに、クソったれ! まさかこんなところで足止めを食らうことになるとは!」すべては自然の思し召しだ。その点に限ってできることといえば神に祈るくらいだろう。デリックはいらだって壁を殴りつけた。それにしても大胆に動きすぎた。盗みの犯人は割れていないが、ただでさえ風がなくていらだっている連中相手にやるべきじゃない。今や水夫たちは互いに目を光らせ、少しでも妙な動きがあれば報告して罰してしまおうと息巻き、まさに一触即発の様相を呈していた。水の一滴でもあればすぐにでも爆発しそうなこの場にいつまでも留まる気なんて毛頭なかった。そうでもなければ先の見えない盗みなんてしない。
 風が止み始めてからというもの船尾倉庫には見張りがつけられた。デリックからするとそれはかなり厄介だった。「あとはあの見張りさえどうにかできればボートを奪ってこの船からはおさらばだ」
 次の日、デリックはいつも通り食堂で男たちが酔いつぶれているのを確認してから音を立てないように慎重に船尾倉庫につながる階段を下った。窓も何もない最下層は真っ暗で、上の階の光が天井の隙間からわずかに漏れ出るだけだ。デリックは猫のように目を細くして、天井に頭をぶつけないように腰を落とし、倉庫の入り口をのぞき込むとにわかに口角をあげた。
 ここのところ毎日のように扉の前に門番よろしく座り込んで酒を飲む男の姿が今日はなかったのだ。デリックはマッチに火をつけてそれを周囲にかかげた。通路の奥をのぞき込んでも人の姿はまるでみえない。しめたぞ、あいつらとうとう疲れ果てて仕事をさぼりやがった!
 デリックは火をかかげたまま何のためらいもなく倉庫の扉を開いた。倉庫の中には数々の商船から奪い取った略奪品やフランスからはるばる運んできた商品が山積みにされ木箱の中で山のように眠っている。デリックはそれを目にするといよいよ抑えが効かなくなって、マッチを床に投げ捨て足で火を消しながら汗ばんだ両手をこすり合わせた。乱雑に積み上げられた木箱の中からいくつかを山賊のような荒々しさで開けてその中から光り輝く宝石や金の鎖をつかみ取る。貴金属のずっしりとした重さを噛みしめてデリックはにやりと笑った。これをすべて売り払えば二〇〇ポンドはくだらない。
 デリックは自分の腕に巻かれた包帯をほどき、貴金属をくるんでまとめた。倉庫にある貴金属を集めてまわると最終的に包帯はかなりの重さになった。それを腕に抱えてさっさとこの部屋を抜け出そうと踵(きびす)を返したところでデリックはふと嫌な予感に立ち止まった。
「しかし待てよ。本当にあの飲んだくれ共はただ仕事を忘れただけなのか?」信奉者の忠誠と揶揄したくなるほど船長の指示に従う船員たちがそんなことするだろうか? そう思うとなんだか途端にこの暗がりが獲物を捕らえるためのきな臭い罠に感じ始めた。
 しかし宝石の輝きを目の前にするとその思考すらもどこかに霧散して、得体の知れない自信が全身に湧き上がった。もしこれが罠だったとしても、だ。これをこのまま置いていく選択はない。
 デリックは包帯に包まれた宝物を握りしめて倉庫を後にした。重い荷物を抱え、階段を登りきると、まるで示し合わせたみたいに三人の男たちが一つの薄暗いランタンを囲んで床に座り込んでいた。床には四つのコップが置かれて、そのうちの一つはラム酒がなみなみと注がれている。他の三つはすでに手がつけられた痕跡があった。
「よぉ、デリック。こんな夜中に倉庫で一体何の用だ? 何にせよあまり穏やかじゃねぇな。まぁ座れよ。最近はあの女のケツを追いかけるよりも船尾倉庫にご執心らしいな。んで、何を盗(と)ったんだ? あ? さっさと出せよ」アンドレが冷たい口調で問い詰めた。
「やっぱりか」デリックは肩をすくめて空いているコップの前に腰を下ろした。包帯に包んだ宝飾品を床に下ろすといくつかの品物が床に広がった。決定的な場面であるにも関わらず、デリックはこれっぽっちも悪びれた態度ではなく、それどころか顔に不敵な笑みを浮かべている。
「このこざかしい作戦は船長の差し金か? それともてめぇらが勝手にやったのか? まぁなんだっていいが――そう睨(にら)むなよ。ああ、わかったわかった。欲に目がくらんだのさ、お前らだって気持ちはわかるだろう? 折半なんてそれほどばかげた話もねぇ」デリックはひと思いに酒を飲み干して下衆な笑顔を浮かべた。「どうだ、いっそのこと俺と組まねぇか? 四人いりゃぁ、もっとでかい物を持ち出せる。お前らだってこっちの方がよほど金になるのは理解できるだろ? ボートにも見張りをつけてんのか? だったらそいつらも仲間に引き込めばいい。言うほど悪い話でもねぇだろ?」
「てめぇと組むだって!? 目に見える泥船に乗る馬鹿はこの船に一人も乗ってねぇ! 俺を馬鹿にするのも大概にしろよ。せいぜい丸め込めるのは世間知らずの女くらいのもんだ! 今からでもご機嫌とりに躍起になった方が良いんじゃねぇか? てめぇは女の爪あかをなめてるのがお似合いだ」陸で鍛え抜かれた詐欺師の甘言も船乗りの前では無力だった。男はデリックの勧誘をぴしゃりと払いのけて見下すみたいに鼻を鳴らした。「答えろ。俺たちから盗んだ物はどこに隠した?」
「知らねぇな。大体あんな安物ばかりどうなったって構いやしねぇだろ。どこに隠したか知りたきゃ、ここで俺を見つけたことは黙っとくんだな。さもなくば二度と手に入らないようにしてやる。わかったらこの話は忘れてさっさと寝床に戻ることだ」
「この野郎――!」デリックの言葉に船乗りの切れやすい血管はすでに何本か切れていた。男は腰にひっさげたピストルを抜き出して心のままにデリックに向けた。撃鉄をあげると白い火花が暗闇に散った。
「さっさと答えろ。それとも俺とやんのか?」
 ピリッとした緊張が辺りに漂い、その場の全員の視線がデリックと男に向いた。
「馬鹿言え!」デリックは首筋に軽く冷や汗を流しながらほえた。「俺の本職は詐欺師だぞ。わかった、降参だ。陸に戻れば馬鹿な女どもをだまくらかしてもっと楽に大金が手に入るんだ。こんなちゃちな盗みに命を張れるかよ。てめぇらの荷物はあの女の部屋にあるぜ。ちとわかりづらいところに隠したが――」
「明日が楽しみだな。俺は女でも男でも生意気な奴が落ちぶれるのを見るのが好きなもんでな。てめぇが鞭打ちされたらさぞ胸が空くだろう。せいぜい震えて眠ることだ! 明日からは眠りたくても眠れない夜がくる」
 男たちはデリックに唾を吐き捨て高笑いしながら去って行った。デリックは顔をゆがませながらその後ろ姿を目で追って、ついにその姿が見えなくなると怒りのままに空になったコップを床にたたきつけた。
「くそったれ! あの忠犬どもが! すっかり去勢されて女を追いかける気力もなくなってやがる!」床に置かれたランプを蹴り飛ばすとランプは大きな音を立てて壁にぶつかり辺りが途端に暗くなった。デリックは足音を響かせながらさらに階段をのぼり、暗い廊下にただ一つだけ光が漏れ出る部屋を――シャルロッテの部屋を見つけてにわかに笑った。「だが俺はあの馬鹿な連中とは違うぞ」
 デリックはそのまま迷いなくまっすぐドアの前まで進み出てノックもなしに山賊のような荒々しさでドアを蹴り開けた。
 部屋の中にはシャルロッテがいた。日中に着ていたドレスはすっかり脱いで肌の色が透けるような薄いシュミーズ一枚を身につけ、ベッドの上でまんじりとしていた彼女は突然の来訪者に顔を真っ赤にして薄い毛布を胸元でたぐり寄せ目を見開いた。
 久しぶりのデリックは普段とはまるで違っていて、シャルロッテのことをてっぺんからなめ回すように見て、それから何かに突き動かされるみたいに距離を詰めた。
「い、いったいノックもなしに何のご用なの? ちょ、ちょっと待って! いったんドレスを着るから……話ならそれから……」シャルロッテは机の上に置かれたドレスに手を伸ばした。とにかくどうしたらいいのかわからなくて両手は小刻みに震えていた。デリックは彼女の細い腕をつかみ見下すように笑ってベッドに這(は)いずった。
「その必要はねぇな。むしろ都合が良いじゃねぇか」もはや取り繕うつもりなんてこれっぽっちもなかった。デリックがベッドに膝をつくとスプリングがギシッと音を立てた。 
 薄い一枚の毛布越しに足をまさぐられて背筋が凍り、嫌な汗が全身から噴き出す。その瞬間シャルロッテの脳裏でアナベル夫人のあざけりを含んだ言葉がよみがえった。デリックの手が体をなぞるとそこだけ血の気が引いたように肌が真っ白になった。まるで全身の血液が凍り付いてしまったみたいにシャルロッテはしばらく硬直した。何か目の前で恐ろしいことが起こっているような気がするのに頭が理解するのを拒んでいる。デリックが口の中で何かをつぶやいていたけれど、それすらも耳鳴りが邪魔をして聞き取れなかった。
「や、やめて……」
 自分の小さな体がすっかりデリックの体の影に入ったころにはもう遅かった。逃げだそうとしても組み敷かれた体はまるで動かなくて、粗暴な手が手首をつかんでベッドに押しつけるものだから身動きがとれなかった。シャルロッテは恐怖で声も出せずに小刻みに震えた。まるで目の前の人間は見知らぬ人間だった。
 デリックはそんなシャルロッテを見下ろして愉悦の笑みを浮かべた。
「そんなに怯えなくたって、すぐによくしてやるよ」
 シャルロッテはこのときになって初めて男性の心の奥底に潜む獣のような本性を目の当たりにした。それは想像の数倍も恐ろしいものだった。
 デリックのがさついた手はシャルロッテの汚れも知らない柔らかな肩をまさぐるようになで回し、シャルロッテが悲鳴も出せずに顔を背けて唇を噛みしめるばかりなのをいいことに彼はますます大胆になってハイライトの利いた鎖骨をなぞり、ついにはその柔らかな膨らみに手を伸ばした。
「やめて!」その瞬間シャルロッテは我を取り戻して叫び、半狂乱になって四肢をばたつかせて抵抗した。両足を暴れさせると古ぼけたベッドは白い埃を何度も激しく吐き出した。
「暴れんじゃねぇ!」ベッドの上では激しい攻防が続き、シャルロッテは悲鳴のような声を上げながら体を思いっきり動かして体を左右に大きくよじり、ついには二人してベッドから転げ落ちた。右腕を激しく床に打ち付けて重い痛みが走る。けれど痛がっている余裕なんてなかった。慌てて立ち上がろうとした両足はデリックによってつかまれて、シャルロッテは床に這(は)いつくばったまま声を荒らげて叫んだ。
「離して! あなたがそんな人だったなんて思わなかったわ! 離して!」
 デリックの手はシャルロッテの足をなぞり、次第にその手が上に登っていくにつれてシャルロッテはますます激しく抵抗して、ついにその足がデリックを蹴り飛ばすことに成功するとシャルロッテは今度こそ立ち上がって慌てて部屋から抜け出した。どうやらデリックは当たり所が悪かったみたいで恨みがましい目線を向けながら鳩尾(みぞおち)の辺りを押さえていた。
 シャルロッテは固定されていないバストが激しく揺れるのもいとわず甲板へつながる階段を二段飛ばしで駆け上がった。心の中には失意と絶望と混乱と嫌悪感が渦巻いていていて今にでもおかしくなってしまいそうだった。デリックに触られた場所は膿(うみ)がたまったみたいですべてをかきむしってしまいたい。
 甲板には夜の静寂が広がっていた。普段なら一人で歌を歌いながら舵をとっているセリオも今日ばかりはすっかり役目がないのでもう床についていた。シャルロッテは誰もいない甲板を駆け抜けて船の縁によじ登ると帆につながった麻縄を命綱代わりにつかんで黒い絵の具をばらまいたみたいな海を見下ろした。海はすべてを飲み込むほどに黒い。
 心臓はいまだに先ほどの出来事を処理しきれていないようで激しく脈打っている。
「いったいなんなの!? どうしてわたしがこんな目に遭わないといけないの!? 信じていたのに……!」体の奥底からどうしようもない嫌悪感が湧き上がり心を丸ごと黒く染めあげていく。裏切りの衝撃はすさまじいものがあった。混乱した頭は頼んでもいないのに遠い昔に父が口を酸っぱくした言葉をよみがえらせた。
「結婚もしていないような生娘が――」幸いにも長い文章をすべて思い出すことはなかった。何しろその言葉を思い出した瞬間にこの体が途端に汚らわしいものに感じて仕方がなくなって瞳に涙が浮かび始めたからだ。もしも父の厳しい言葉を完璧に思い出していたならほんの一瞬のためらいもなく神に許しを乞うて命を投げ捨てていたことだろう。とはいえ今だってほんの数秒の猶予が生まれただけだ。シャルロッテの頭はすぐに一つの事柄に支配された。
「――死んでやる。もうこんな生活耐えられない」目の前に広がる海は一歩でも足を踏み込んだなら魂までも飲み込んでくれるような気がした。両目から涙がこぼれて、激しい耳鳴りに続いて頭が割れるように痛くなった。「たとえ神のもとに還れなくたって、葬式が執り行われなくたって気にするものですか! どうせ悲しんでくれる人なんてもうこの世界に残ってないわ。それに……」シャルロッテの瞳からは大粒の涙がこぼれた。心臓がどうしようもなくズキズキと痛んでしょうがない。「それに、それに……お父さまだってどうせもう――。それならわたし一人がこの地獄に留まる必要なんて――あるわけがない!」
 一刻も早く飛び降りようと思ったそのとき、突然背後で物音がしてシャルロッテは慌てて振り返った。部屋に放っておいたデリックが追いかけてきたと思ったのだ。人影はデッキの影となり黒いシルエットしか見えなかったが、その瞬間に先ほどの恐怖が巻き上がってシャルロッテは悲鳴のように叫び散らした。
「こないで! それ以上近づいたら飛び降りるから!」その人物はこの声なんて聞こえなかったみたいに一定の速度でシャルロッテに近づいてくる。「わ、わたしは本気よ! 近づかないで!」
「ずいぶん激情的で、勘違いされそうな場面だな」
 ついにその人物が船の影から抜け出して、月光にその姿が暴かれるとシャルロッテは思わぬ人物に目を見開いた。そこに立っていたのはロウ船長その人だった。だけどシャルロッテのパニックはますます加速していくばかりだ。思考は恐怖で塗り尽くされてもはや自分ではどうすることもできなかった。
「い、いったい何の用なの? いや、やめて! こないで! わたしがどうなろうとあなたの知ったことじゃないでしょう!? わたしのことをつけ回すのはいい加減よしたらどうなの!?」
 声を荒らげるシャルロッテに対して船長は冷静そのものだった。歩くペースもまったく変わらず、慌てることもなくゆっくりと距離を詰めていく。なんだかシャルロッテはその態度に自分が追い詰められているような錯覚を覚えた。
「俺がここにいるのは、まさにこうなることを予見していたからだ」
「こうなることが分かっていたのに何も言わなかったっていうの!?」
 ロウ船長は堪えきれずに海に吠えるように笑った。「さっき自分で説明しただろう。俺の知ったことか。わざわざ言ってやるほど優しくないし興味もない」
「だったら今度も放っておいて! 近づかないで! 止めないでよ。わたしはもううんざりなの! ええ、すべてがうんざりよ! わたしのことなんてなんとも思ってないくせに――」容赦なく近づく船長にシャルロッテはたじろいでわずかに後ずさった。片足が船の縁からはみ出して、思わずバランスを崩しかけた。見下ろす海は黒く口を開けてシャルロッテのことを待っている。「落ちるって言ってるのに!」
「落ちればいいだろう。はなから止める気なんてあるものか」
 その瞬間シャルロッテの脳裏はパニックも忘れて怒りで真っ赤に染まった。この人はわたしがそんなことできるはずがないと高をくくっているんだ。意気地なしのわたしにそんなことできるはずがないと! 忘れかけていた勇気が心の中をたしかに灯し、黒いばかりの海に身を投げるようにせき立てた。そうよ、わたしだってできるわ。怖くなんてない。今や船長はシャルロッテの足元で腕を組み、動向を見守っている。不意に全身の震えがピタリと止まった。理性も本能もついに決意を固めたのだ。
 世界に見せつけてやるのよ。わたしが務めすら果たせない女だと思わないで。そのとき、シャルロッテが見ていたのは船長の彫りが深い顔ではなかった。シャルロッテは彼を通して陸の大嫌いな人たちを見ていた。今まで散々馬鹿にしてくれた連中を、それから意気地なしの自分自身を――シャルロッテは最後に勝ち誇った笑みを浮かべた。
 握りしめたロープを放し、背後に重心をかけると体は浮遊感に襲われ小さな体は真っ逆さまに海に落ち、次の瞬間には盛大な水しぶきがシャルロッテを飲み込んだ。体の周りには細かな白い泡がつきまとい、それも時間と共に闇に溶けて消えていく。すると途端に周りは漆黒に包まれた。海は船上からのぞくよりもさらに黒く、真っ暗な空も相まってどちらが空につながるのかもわからない。わかることは、洋服と靴が水を吸い込み信じられないほど重くなって体を海底に引きずり込もうとしていることだけだ。
 さっきまでは死んでもいいと思っていたはずなのに、もうそんなこと考えている余裕はなかった。本能的に体が酸素を求めて、がむしゃらに腕を動かしたが体は浮かび上がるどころかどんどん沈んでいく気がする。この感覚は覚えがある。実家の川で溺れたときとまるで一緒だ! それなのに今は誰も助けてくれる人がいない!
 そのときもう一つの人影が海に飛び降りて水面に水しぶきをつくった。シャルロッテは両腕と両足を訳もわからず動かしながら、水中でその人物がつくる泡をちらりとみた。姿は闇に飲まれてみえないが、どこかそう遠くないところに人の気配を感じる。だけど長いこと注意を払う余裕なんてなかった。そんなことすらすぐに忘れて、肺が、全身の細胞が酸素を渇望するままに暴れ回ることしかできない。
 不意に彼の腕がシャルロッテの腰に回されると、今度こそ彼女は逃れようのないパニックに陥った。その腕は自分を水中に引きずり込もうとしているようにしか捉えられなかった。無力な両手でその腕を押しのけようとしても、彼の腕は強固で外れようとしない。彼は片手でシャルロッテの腰を抱いて、もう一方の腕を器用に使ってまっすぐと水をかき分けていく。
 ようやく二人が空気に頭をさらすとシャルロッテは慌てて空気を吸い込み、あまりに慌てたものだから一緒に海水も飲み込んで大きくむせ込んだ。それからしばらくすればシャルロッテは船長の首に手をまわしたまま、くたりと身を任せて動かなくなった。
 目はゴミが入った時みたいにじくじくと痛いし、鼻の奥は少し空気を吸おうとするだけで信じられないほどの激痛が走る。とてもじゃないけれど暴れる元気なんてなかったし、それに何より少しでも暴れてこの短気で気まぐれな船長に手を離されたのなら今度こそ間違いなく海の藻屑になると確信していた。
「死ぬんじゃなかったのか?」船長はカラカラと笑いながら腕の力をわずかに抜いた。
「や、やだ!」シャルロッテは子供みたいに首を左右に大きくふるった。さっきまでは勢いづいていてまるで気がつかなかったことだが、飛び込んだ海は想像以上に広くて巨大だった。何もない海にこうして二人でぷかぷかと浮かんでいると自分がどれほどちっぽけな人間なのかを痛感させられる。きっとこの冷たい海は無力な女を飲み込むことなんてなんとも思わないだろう。実際、さっきそうしかけたように。
 シャルロッテは極めて人間らしいことに、死を目前にした途端忌むべき死が恐ろしくなった。
「やめて――お願いですから――わたし、泳げないの……」
「ならそうやって必死にしがみついておくことだ」
 船長は髪をかき上げて愉快そうに笑うとシャルロッテの顔にかかった髪を耳にかけて満足気な表情を浮かべ、シャルロッテは素直に両腕に力を込めた。
 それは場面さえ違えば恋人に対してやるような熱い抱擁だった。なんだかそれを意識すると自然と心臓が早く脈打って一瞬だけは先ほどの恐ろしい出来事も忘れてしまった。憎たらしくてありがたくてどうしようもないことに船長はまるでいつも通りだった。密着している心臓も一分間に六十二回のビートをまるで崩そうとはしない。かたやわたしは息つく間もなく心臓が動きっぱなしでクラクラしているというのに。
 船上からは平らに見えた海も実際に泳いでみると水は生物のように絶えず形を変えながら動き続けていた。下半身は水の流れによってふらふらとしてまるで安定感がない。それから上半身だって船長につかまっているとはいえ、真っ白の型がぎりぎり水面から顔を出す程度。それも船にぶつかった水が押し寄せて小さな波のようになるとすっかり覆われてしまう。少しでもうつむこうものなら鼻の先まで水につかってしまうことだろう。
 シャルロッテは気がつけば不安定な両足を船長の足に絡めて、押し寄せる波から逃れようとして顎を高く上げてどうしようもなくすがりつくような表情を浮かべた。それはちょうど恋人にキスをせがんでいるような様相だった。
 ロウ船長はシャルロッテのことをじっと見据えた。涙でうるうるとした瞳は月の光を反射していつかみたガラス玉のようにキラキラと輝いている。白い肩は透明な水に揺れて、その下には柔らかな胸の膨らみがみえる。薄い下着はすっかり体に張り付いて肌の色が透けている。小ぶりで柔らかい胸は押しつけられて形を変えて、甘えるようにすがりつく唇はつややかにみえて、船長は思わずその小さな体を抱き寄せたけれどすんでのところで掟を思い出してつまらなそうに笑った。
 その間にもシャルロッテは水を嫌がる子猫のように体を懸命によじって、押し寄せる波をどうにかしてよけようとしている。
「いじらしいもんだな。しばらく男に囲まれるだけでこれほどの変化が生まれるんだから酒場の女どもが魅力的なのはいうまでもないことだ」何か言われたような気がしたけれどシャルロッテの耳には届かなかった。シャルロッテは船長の首にすがりつきながら、たくましいばかりの肉体と温かいぬくもりに酩酊していた。
「何にせよ」ロウ船長は敬服の意を込めて笑った。「その無鉄砲な勇気は称賛に値するな」

第九章 一話

 海水からあがると散々歩き回った日の夜のような心地よいだるさがあった。全身が床に引きつけられているように重たく、一歩を踏み出すのもおっくうだ。思った以上に全身が冷えていて、風もないのに歯の根も合わないほどの震えが全身を襲った。それに今更ながらシュミーズ一枚で男性の前に立っているのがいたたまれなくなった。水中にいたときはまるで気が回らなかったけれど、薄い布地の宿命でシュミーズは水を山ほど吸い込んでほとんど半透明といっても過言ではなかった。その上、素肌に吸い付いてこれぽっちも離れようとしない。そのせいでシャルロッテの薄い体格は公然にさらされているも同然だった。むしろ体のでっぱりやへこみが強調される分こちらの方がひどい辱めかもしれない。
 ロウ船長がシャツを脱いで水を絞っているのを見て、シャルロッテもシュミーズの裾を絞ったが焼け石に水だった。彼の服もシャルロッテと同じように体にピッタリ張り付いている――だけど船長の方がよっぽど見てくれがよかったのは認めざるを得ない。シャルロッテは水に濡れたウサギのようにほっそりとしてみすぼらしかったが、彼はまるでワニみたいだった。鍛え抜かれた体は見られてこれっぽっちも恥ずかしいものではない。
 短い海水浴ですっかり忘れていたとはいえ、船の上に戻ると否応なく恐ろしい記憶がよみがえり、シャルロッテは内部につながる階段をじっと見つめながら身震いした。長らく安住の地だったあの部屋はもう安住の地ではなくなってしまった。とてもではないけれどあの部屋に戻る気にはならなかった。それに、もしかするとまだデリックがあの部屋で伸びているかもしれないのだ。
 ロウ船長は床に放っておいた上着を拾い上げると短く質問した。
「着替えは?」
「下にあります……でも……」
「一等航海士室に戻るのが嫌なら客室を使え。とにかく濡れた服はさっさと脱ぐことだ。疫病が蔓延したらこの船はいよいよ終わりだ」そのとき不意にやってきたそよ風がシャルロッテの体を震わせた。風は例によってすぐに消えてしまったが、ロウ船長は大気の動きに好機を見出した。「ありがたい。運が良ければ明日には動き出せるぞ。そうでなくともあと数日のうちには確実だ」
 それから彼は自分の上着をシャルロッテに渡した「こんなものでもないよりはマシだ。それ以上体を冷やすなよ」
 今まで使っていたところが客室ではなかったことに若干驚きながらシャルロッテは首を縦に振った。もう無闇やたらに反発する必要はなかった。ようやくシャルロッテにも他の水夫と同じように船長の指示がどれもこれも的を射ていることがわかったのだ。それに今すぐにでもベッドで横になりたくて仕方がなかったのもある。
 本当の客室はデッキに続く階段の下――つまり船長室の隣――にあった。部屋には所狭しと荷物が置かれ、設計図上は船長室の次に広い部屋だがかなり手狭に感じた。その割には手入れが行き届いているようで、部屋に備え付けられた掛け時計の上にもほこりはたまっていなかったし、シャルロッテが濡れた服を脱ぎ捨て、勢いよくベッドに飛び込んでもむせるほどのほこりは飛び散らなかった。
「いったいこの部屋は何の部屋なんだろう……」シャルロッテはベッドの上で眠気に目を細くしながらぐるりと部屋を見回した。客室という割にはベッドも長机も椅子もすべてが端に追いやられている。特に椅子なんてひどいもので、二度とひけないように机とまとめてロープでぐるぐる巻きにされていた。床には船員たちの寝床でみたような古びた個人用の木箱がいくつも置かれている。それから壁には漁師が魚を入れるような麻袋が四つほど吊されている。中にはたくさん物が詰まっているようで見ているだけでずっしりとした重さを感じた。
 シャルロッテは眠りに落ちるその瞬間まで、袋の中身に思いを馳せた。
「金銀財宝かしら……それともゾッとする人骨とか? ……海は知らないけど、陸では戦った相手の首を取ったりするし……それともまさか子供にあてたプレゼントかもね……わからないけど……船長って結婚してるのかしら? ……子供がいたってあまり驚きはしないけど……」布団代わりにした船長の上着から香る潮と葉巻の匂いが自然と心を落ち着け、くだらないことを考えているうちにシャルロッテの意識は闇の中に沈んでいった。
 次の日、シャルロッテは甲板の賑わいで目を覚ました。「どうして船長が昨日あんなタイミングで外に出てきたのかわかったわ。なんだか音が響くのね」
 側面に取り付けられた小窓から太陽の明るい光がさんさんと降り注いでいる。思ったよりも寝過ぎてしまったらしい。
「水夫たちが起き出すより前に部屋に戻ってドレスを着たかったんだけど……」寝る前に脱いだシュミーズはすっかり乾いていたけれど普段の着心地はすっかり失われてゴワゴワしていた。
 甲板に出るより前に、シャルロッテは思い出して寝る前に想像した麻袋の中身に手を伸ばした。中身はまるで子供のおもちゃ箱のようだった。きれいな貝殻やどこのものかわからない古びた銀貨、それから干からびた花やボロボロの布きれ。布きれはどうやらハンカチの一部らしく、A・Gという身に覚えのないイニシャルが刻まれていた。はたからみたらガラクタにしか品々にシャルロッテはますます首をかしげ、他には何かないだろうかと袋の底を漁り、麻袋の一番下に肖像画を見つけた。
 古びた紙は日焼けして茶色に変色している。それに液体が飛び散った形跡があって所々に黒っぽいシミがあった。描かれているのは見知らぬ立派な船と十五人ほどの男性。真ん中に描かれているのがロウ船長であることはすぐにわかった。それからポツポツと見覚えのある顔が描かれている。肖像画の裏側にはかすれた文字で「一七四九年八月二十一日、竣(しゆん)工(こう)」とかかれている。それは今から十三年も前の日付だった。
 果たして十三年前自分は何をしていただろう、と考え始めたあたりで外からデリックの怒声が聞こえてシャルロッテは大きく肩をふるわせた。彼が何か言葉を発するたびに甲板にいる男はそれを覆い隠すみたいにさらに大きなドラ声を響かしてヤジを飛ばした。その熱気はすさまじいものがあり幼いころに父に連れて行かれた断頭台の光景を思い出した。
 シャルロッテは甲板に向かおうとして扉に手をかけて――それから自分のいでたちを思い出し、せめてのも抵抗にシーツで体を覆って部屋を出た。シーツの薄さは言うまでもなく、心もとないことに変わりはないが仕方ないだろう。
 甲板にはこの船に乗船しているすべての乗組員が集まっていた。その理由は鼻持ちならぬデリックの処罰を特等席で眺めるためだ。彼らは思い思いの場所に腰を下ろし、酒と食事を片手にすでに得体の知れない声をあげていた。ただでさえ娯楽の少ない船内で処罰はかなり刺激的な娯楽となるのだった。特に今日のような風のない日は尚更に。昨夜のそよ風はなんだのか、今日も風はないままだ。今日も船長ですら自然に対してなす術がないのは意外といえば意外だった。それとも船員のガス抜きをするために、わざと順風の予定を遅らせたのだろうか? それとも自分が楽しむためだろうか? 遠巻きに群衆を眺める船長は年季が入った鞭をもてあそびながら愉快そうな表情を浮かべていた。その鞭は〝九尾の猫〟と呼ばれる代物だった。九本に分かれたそれぞれの尻尾はところどころで固く結ばれて三つのこぶがある。それはイギリス海軍でも使われるような代物で、殺傷能力は低いが的確に痛みを与えられる優れものだった。
 その手前で水夫たちは目と口に残虐な光を浮かべ、甲板の中央で縄に縛られ膝をついているデリックを取り囲み、軽口と罵倒を山のように与えてからかっている。それはまるで子供が芋虫を木の枝で突いて遊ぶみたいな構図だった。その穏やかなイメージのせいで、シャルロッテは彼らの中に眠る怒りの炎に気がつかなかった。
 デリックはシャルロッテのことを見つけるなり彼女を目の敵にしたように大声で叫んだ。
「あいつだ! 全部あいつがやったことだ! 俺は何も知らねぇよ!」その瞬間、男たちはシャルロッテに詰め寄った。その瞳は怒りにまみれていてこちらの言葉なんて到底通じる気がしない。
「てめぇ、どこに隠しやがった! それとも罰を恐れて全部海に捨てたか!? 黙ってねぇでさっさと白状したらどうだ! てめぇらが裏でつながってることはわかりきってんだからな!」アンドレは苛立ちのままにシャルロッテの肩を押し飛ばした。
「一体……一体、何のことですか?」
「まだシラを切ろうってか!? そこのクソ男があの部屋に俺の荷物を隠したって言ってんだ! 黙ってねぇでさっさと答えやがれ!」
 そんなこと初耳だったが反論するより先に、アンドレの大声が割って入ったのでついにシャルロッテは追い詰められて客室の壁に背中をぴたりとつけた。
「何のことだかわかりません……けど、わたしは何もしてません。それにデリックと裏でつながってるなんて……本当にひどい冗談」シャルロッテは冷たく言い放ってデリックをにらみつけた。幸いなことにももうこれっぽっちの情も感じなかった。裏切られた胸の痛みはいまだに体に響き、この場で彼をかばう気にも到底ならない。しかし男はシャルロッテを犯人だと決めつけているようで一歩も引こうとしなかった。
「んなわけねぇ! だったら何だ。無機物に足が生えたとでもいうってのか!? てめぇの部屋にあったはずの物が見つからないんだぞ!」
 すごまれるとシャルロッテは瞳に涙を浮かべた――が、それはすぐに乾いて代わりに口から反論が飛び出した。昨日わたしはあれほど恐ろしい海に――恐ろしかった海に身を投げたというのに、この程度の脅しの何が怖いっていうのだろう。少なくとも船長はわたしの勇気を褒めてくれたわ。あのとき心に灯った勇気の炎は一晩たったくらい消えはしなかったのだ。
「大体――わたしはそんなものが隠されていたことすら知らなかったっていうのに、どうやって場所を変えるっていうの? それよりもデリックが場所を移して、わたしに罪をなすりつけようとしている方がよっぽど自然だわ」
 そして事実もその通りなのだった。デリックは逃げたシャルロッテを追う代わりに盗んだ私物を隠し直したのだ。
 一度、口を開けば心の中の炎はますます燃えさかり自尊心を守る防壁となった。そうよ、誰に遠慮する必要があるの? なんだって構いはしないわ。だって、わたしがそうなりたいんだもの――お父さまや世間がなんと言ったってわたしはわたしよ。そして何よりも尊い。
 そう思うと今まで何年も何年も体につきまとい、しまいには慣れてしまった重荷から解放されるのをたしかに感じた。世界は色を取り戻し、目の前が燦(さん)然(ぜん)と輝いている。そのときブルーの瞳はふとアンドレの背後に広がる海に吸い寄せられた。果たして、今までの航海もこれほど美しい光景が眼前に広がっていたのだろうか? まさかあの港町にも少し顔をあげればこれほど綺麗な海があったのだろうか? 水面は太陽を反射してキラキラと光り輝き、海の深い青色は見慣れたガラス玉とまったく同じだ。見渡すかぎり何もないどこまでも広がり続ける広大な海。一度たりとも同じ形にはならず、絶えず変化し続けるその姿は人の目を惹きつけるには十分すぎた。その瞬間だけはデリックのことも、目の前のアンドレのことも毎夜うなされる父のことも何もかもを忘れてしまった。
 シャルロッテの思わぬ反論に、アンドレは一理あるとは思いつつも今更引くに引けなくなって大声で彼女を脅し続けた。「だったら証明してみろってんだ! そうでもねぇなら……」その声でシャルロッテは正気を取り戻したが、自然と目線は背後の海に向かった。その動きを悟ってアンドレは激しく舌打ちした。「――てめぇ!」
 船長は海に魅入るシャルロッテの瞳を見ていた。不意に二人の視線が絡み合うと、彼は静かに目を細め、それが合図だったとばかりに鞭でデリックの肌を打った。デリックは予期せぬ痛みに悶絶しているようだったけれど、そんなことこの船の最高権力者には関係なかった。
「そう暴れるな、アンドレ。その件に関して言うなら俺が証人だ。第一、いくらそれが温室育ちだからといって、自分を襲った男の肩なんて持つわけがないだろう」
 船長の言葉を聞いたその瞬間、黙って話を聞いていた男たちは突然湧き上がって思い思いに声をあげた。まさか盗みだけでは飽き足らず、この船のつまらない小娘にまで手をだしたとは露も思わなかったのだ。
「おいおい、マジかよ。まさか本当にやりやがるとはな!」
「俺はお前を尊敬するぜ。やろうとしたって体が反応しねぇってもんだ!」
「それで告発されてるんだからわけねぇな! それとも本望か? 何とか言えよ」
野次馬はデリックの腹を蹴り上げてゲラゲラと馬鹿にして笑った。ひどいことをされたとはいえ、あまり見ていて気持ちのいい場面ではなかった。
「おい、シャルロッテ! 変な優しさで許すなんて口にするんじゃねぇぞ! こういうヤツは一回死にかけねぇとわからねぇんだ!」
「てめぇだって何度もそんな目に遭うのは避けてぇだろ! それとも存外悪くなかったってか? それなら話は別だがな!」
「ひどい冗談だわ」シャルロッテははっきりと言った。「煮るなり焼くなり好きになさってください。許しはしないし、かばう気もありませんから」
「こいつは手厳しいな!」シャルロッテの言葉を面白がって男たちはますます大きな声で笑い始めたが、本人はあまり愉快な気分ではなかった。許すつもりがないのは事実だが、少しばかり言い過ぎたと心の内で反省した。望むのは適切な罰であって、いたずらに傷つけることではないのだ。正義を盾にするようなことはしたくなかった。それは陸で散々自分がやられたのと同じ事だ。
 アンドレが相変わらず不満げに床を棒の足で叩きつけ、マストの目の前という特等席に腰を下ろしたのを見計らってロウ船長は再び愉快そうに笑った。
「話はまとまったな? 掟に基づきこいつに罰を下す。おい、お前ら。とりあえず固定してやれ」
「イェス・サー!」ロウ船長の言葉一つでデリックは両脇をがたいのいい男二人に支えられて無理矢理持ち上げられた。その間にもデリックの口からは絶えずおぞましい言葉が吐き捨てられていたが、両腕を十字架みたいな形でマストに固定されると繰り返した罵声も勢いを弱め、わずかに緊張した面持ちを浮かべた。その様子に野次馬たちはますます興奮の色を伺わせた。
「全部で何発だ?」
「一五〇発です」デリックとシャルロッテはその言葉を聞いてわずかにホッと息をついた――いくら船員たちの目が血走っているからといってその程度ならば命に関わることにはならないだろう。もしかすれば傷だってそこまでひどくはならないかもしれない――しかしその数に安心したのはその二人だけだった。事情を知るすべての船員は含み笑いを浮かべて互いの脇腹を肘で小突きあっている。
「よかったな。今日中にはけりがつくぞ」シャルロッテはロウ船長のその言葉に何か不穏なものを感じ取った。
「たったそれだけなのに夜まで時間がかかるの?」日が沈むまでにはまだ七時間はあるだろう。とてもではないがそれほど時間がかかるとも思えなかった。
「そりゃそうだ! 何しろ船長は何発打ったか数えねぇからな」その答えの意味は分からなかったが含みを持たせた言葉は全身の肌を栗だたせるに十分過ぎた。詳しく聞こうとして口を開きかけたそのとき船長の声が響いた。
「シャルロッテ」船長は目でシャルロッテを呼びつけた。突然の指名にシャルロッテはかなり驚いたが、体はすっかり従順に仕上がっていたので彼女は小走りで船長の隣に駆けた。
「お前は今日一日は船尾倉庫から出てくるな。わかったらさっさと行くんだ」
「待ってください、船長――」と、呼びかけてシャルロッテは慌てて〝ロウ船長〟と訂正した。本人のいかめしい黒い眉が拒むようにぴくりと動くのを見たからだ。思えば今までただ〝船長〟と呼んだことはなかった。それから少しだけ気兼ねなく船長と呼べる船乗りたちがうらやましくなった。どれほどこの船に馴染もうとも、ただ船に同乗しているわたしと実際に身を粉にして働く船員たちとは明確な違いがあるのだ。その事実に少し悲しくなりながらもシャルロッテは続けた。
「……その……終わったら教えていただけませんか?」船長はまた奇妙なことを言い始めたとばかりにいぶかしげに首をかしげた。その顔に先ほどの拒絶はなかった。「だって、きっとまた包帯が必要になると思うから……誰だって死んでほしくないわ。たとえ悪人だって」
「さっさと行け」
 断らないということはきっと了承してくれたのだ。
 シャルロッテはマストに吊されるデリックを哀れみの目で見つめてから言いつけ通り階段を下った。無理に反対する必要はない。船長がそういうのなら間違いなくわたしはあの場にいない方がいいのだ。
 なぜ船長があの部屋ではなく甲板から一番離れた船尾倉庫を指示したのかはすぐにわかった。いざ刑が始まるとあの恐ろしい鞭がデリックの体を叩く音とデリックのくぐもったうめき声が船内に響き渡った。
 シャルロッテはなるべくその音を考えないようにして、ドレスを着替え、縫いかけの包帯を持って船尾倉庫に降りた。倉庫はデリックによって荒らされて、あちこちの蓋が開けられ荷物が飛び出していた。
 シャルロッテは木箱の一つを椅子代わりに腰掛け、隣に愛用の裁縫道具を置いて銀色の針を手にした。糸を犬歯で噛み切って、それから布の切れ端を太ももに乗せ、歌を口ずさみながら両手を絶えず動かすと自然と心が落ち着いた。
 やっぱり船長の見立てはいつも正しいわ。船尾倉庫は奥まった場所にあるから鞭の音もうめき声も何も聞こえてこなかった。聞こえるのは波が船に打ち付ける音と自分の歌声だけだ。

第九章 二話

 マルセルがシャルロッテを呼びにきたのはすっかり太陽が沈んだころだった。
「たった一五〇発にずいぶん時間がかかるんですね。もちろん少ない数ではありませんけど……多すぎるってわけでもないわ」
「さては今まで鞭で打たれたことがないんだな。さもなけりゃ、そんな悠長なこと言ってられねぇだろう」
「寄宿学校で二回だけ経験があります。木の枝みたいな鞭で十回くらいのものでしたけど……」それでも肌が真っ赤になって二度とこんなことするものかとひどく反省させられた。シャルロッテの告白にマルセルは階段を上りながら馬鹿にして笑った。
「そんなのは鞭打ちじゃねぇな! ちょっとなでられたくらいのもんだ! 大体、てめぇを鞭打ちしたのは女だろう。そういうところで女と男は決定的に違うんだ。喜んで血を見たがるところがな。今日だって真面目に数えたら千はくだらねぇだろうな!」マルセルははデリックの痴態を思い出して肩を小刻みに揺らして笑った。「知りてぇなら教えてやろうか? なんせ俺は今気分がいいんだ!」
 酔っ払った男の話をまとめる限り、どうやらデリックは相当ひどい目に遭わされたようだった。話を聞くだけでも頭が痛くなって血の気が凍った。
 一五〇という数を数えるのは打ち手でもなければデリックでもなければ、ましてや天でもない。その場にいる観客が適当に数え上げるのだ。そして観客となる船員はとことんまでに意地悪で見ていなかったとか誠意が感じられないとか訳のわからないいちゃもんをつけてなかなか数を進めようとはしない。打ち手は時折交代して疲れ知らず。そのせいでデリックは約束の何倍も鞭打ちされることになった。
「ありゃ久々になかなかにいい見世物だったな。それに体力だけは大したもんだ。大体途中で気絶して海水をぶっかける羽目になるんだが――おかげで俺が三杯もぶっかけて消毒してやったんだ。おい、これからあいつに会いに行くんだろ? 正気じゃねぇな。あのままマストに吊しておいたって誰も文句は言わねぇよ。まぁ、なんだって俺には関係ねぇ。ああ、そうだ。もし指一本でも触れられたら――いや、触れられていなくても、だ! ――すぐに報告しろよ!」男は上機嫌で腹の底から笑いながらシャルロッテの肩を押した。「そしたら今度は半殺しじゃなくて虫の息まで痛めつけてやるよ! 二度と女と目を合わせられなくなるまでな!」シャルロッテは階段を上ってついにデリックと再会を果たした。
 彼はマストに吊されたままぐったりとしてうなだれていた。両腕は自分の重さがすべてのしかかるから紫色にうっ血して縄が体に食い込んでいる。体には千回を超える鞭打ちの痕がしっかりと刻まれていた。背中側もお腹側も全体的に真っ赤に腫れ上がり、いたるところに青あざがみられた。所々には血がにじんで赤と青のコントラストがますます痛ましい。それになぜだかは考えたくもないけれど、腕や手のひらといった場所には小さなやけどの痕があった。最後に消毒と称して頭から海水をかけられたせいでデリックの栗色の髪は濡れて額から首筋にゆっくりと液体が流れていた。
 デリックはシャルロッテが視界に入ると彼女のことを気持ちだけにらみつけてまた深くうなだれた。痛みなく動かせるのは両目だけでそれ以外を動かそうとすると全身に激痛が走るのだ。
 あまりにも痛ましい光景にシャルロッテはしばらく呆然として、それから震えを押し殺しながらゆっくりとデリックに近づいた。このままここに放っておくだなんて冗談じゃない。
「ちょっと待ってて……今外すから」シャルロッテは苦戦しながらデリックを縛り付けている縄に手を伸ばした。男たちの強靱な力で結ばれた縄はまるで鋼でできているみたいにびくともしない。最終的にシャルロッテは強引に爪を滑り込まして力ずくで縄をほどいた。両手の爪は先端が折れ、その上摩擦でガサガサになったけれど、そんなこと気がつきようもなかった。
 デリックは支えを失ったその瞬間膝から崩れ落ちてその場に倒れ込み、甲板に傷があたって地を這うようなうめき声をあげた。
「下で手当てするわ。えっと……」シャルロッテはデリックのことを上から下までじっと見つめた。見れば見るほどひどい。「その、動ける?」
 傷だらけのデリックに手を伸ばすと彼はその手を払いのけ、軋むような体を強引に動かしながらよろよろと立ち上がった。態度とは裏腹に顔はすっかり憔悴しきっている。
 デリックは一歩歩くたびに地獄の苦痛を味わっているようだった。部屋に向かうために通りがかったダイニングでは男たちがふらふらと歩くデリックを指さして蛮族のような笑い声をあげた。
「おい、シャルロッテ! そいつの手当が終わったらこっちに混じれよ! 何しろ今日一番の立役者はお前なんだからな!」
 シャルロッテはデリックのことを自分の部屋に案内してベッドに座らせた。さすがに今のデリックに何か企みをする気力はなさそうだが、昨日の今日ということもあって扉は開けたままだ。外からは男たちのやかましい声が響いている。そんな賑わいとは正反対に二人の間には一つの会話も存在しなかった。シャルロッテがようやく縫い上げた包帯を体に巻くかすかな音だけが響く。時折予期せずに傷口に指が触れるとデリックは小さく舌打ちをして痛みに顔をしかめた。
 処置が終わるとデリックは傷をかばうようにしながら深い眠りについた。きっと目を覚ましたときにご飯があった方がいいだろうと思って、シャルロッテはそれを見届けてからダイニングに向かった。いつもの通りできるだけすぐに撤退しようと思ったシャルロッテのもくろみはすぐに失敗した。彼女が一歩足を踏み入れたその瞬間、普段は見向きもしない男たちが一斉に顔をあげた。
「よぉ、シャルロッテ! まぁ座れよ。逃げようだなんて思うんじゃねぇぞ! なんたって今日に限っちゃ脅かそうってわけじゃねぇんだからな」
 そのまま肩に手を置かれて強引に座らせられるとシャルロッテはうろたえて思わず表情が凍った。見るからに上機嫌ではあるけれど果たしていつ機嫌が変わるかもわからない。多少は慣れたとはいったって海の天候ほどに変わりやすい彼らの情緒にはまだ戸惑いがある。
「でも……わたし……」
「まぁそういうなよ。俺は今気分がいいんだ。今日ばかりはうまく体を使えば分け前を総取りできるかも知れねぇな! どこぞの誰かさんがそうしたかったみたいによぉ!」アンドレは酒を豪快にあおった。「いい加減このくらいの冗談は受け流せよ。いや、つまりな、今朝は悪かったな。あの野郎、途中でとうとう盗んだ品物の隠し場所を吐きやがったんだ! さっさと吐けば終わるとでも思ったんだろうな――ま、そんなに甘ちゃんばっかりじゃねぇ!」どうやら男もさんざん鞭を振るったみたいで右の手のひらの皮がわずかにむけていた。
「それで見つかったの?」
「それに関しちゃあ、この通り!」アンドレは机の上に銀でできたロケットを叩きつけた。「あとは薄い財布も帰ってきたが――まぁ、そっちははした金だ。これさえ戻ってくるならあの程度譲ってやってもいいくらいだ」
 銀のロケットは表面にくすんだ膜が張り鈍い輝きを返した。彼は柄にもあわず、そんな輝きすら愛しいとばかりに指先で周囲をもてあそんだ。はたから見ても彼がこのロケットを構成する銀以上の価値を見いだしていることは明白だった。アンドレはその中に収められた妻と三歳になったばかりの子供を眺めて愛しげに笑った。その表情はただの父親の顔で、シャルロッテは突然ドキリとさせられた。
「船乗りっていうのは恐ろしい悪魔みたいな生物だとばかり思ってたけれど――陸には別の生活があるし待ってる人がいるのね」それは斬新な発見だった。この船に乗る男たちが得体の知れないならず者の大悪党から自分となんら変わらないちっぽけな人間に見えてくるくらいには。アンドレはシャルロッテの心境の変化に気がついて急に普段の不機嫌な顔つきに戻った。
「話は終わりだ。とっとと失せやがれ。どうせ今日も部屋から出てくるつもりはないんだろ? さすが深窓の令嬢っつったところだ!」
 言葉はいつも通り乱暴だったがなぜだか今まで感じていたみたいな恐怖はなかった。そもそも今まで何を恐れていたのだろう? 育った環境も、生まれた場所も、言葉遣いも身分も何もかもが違うけれど、大切なものがあって大切な人がいて怒ったり笑ったりする根本的なところはまるで変わらないのに。
「わたし、この人たちのことをすべて知ったような気でいたけれど……本当は何も分かっていなかったのね」シャルロッテは男たちの顔を見回して意を決した。結局、必要なのは命綱から手を離すようなちょっとした勇気だけだ。「今日はここにいます。少し……知りたいことができましたから」
 男たちは思わぬ言葉にしばらく硬直して互いの顔を見比べておどけてみせた。
「そりゃ殊勝なこった! まぁ、好きにしやがれ。ところで、その奇妙な心境の変化はあの部屋の呪いが関係してんのか?」
「呪い? どういうこと?」
「どうもこうもあるか、あの部屋は俺たちの墓場だ! この船で死んだ奴らは体だけ海に捨てて遺品はあの部屋に詰め込んでおくのさ」シャルロッテは今朝あの部屋でみた品々を思い出した。「未練なく死んでる奴なんていないんだ。あいつらが化けて出たっておかしくねぇだろ」
 屈強な男たちが大真面目にそんな話をするものだからシャルロッテはおかしくなって小さく笑った。父もそうだったが船乗りというのは迷信深いらしい。「あの部屋で熟睡したいなら枕元にラム酒でも置いておいた方がよさそうね」
「馬鹿言え! 俺たちは海の紳士だぞ!? 寝込みを襲うようなマネするかよ。どこぞのこそ泥じゃねぇんだ。ああ、そうだ。アレはまるで反省してないな。間違いねぇ! 性根っつうのはそう簡単に変わるもんじゃねぇんだ――まぁ、少なくともこの船ではもう悪さはできないだろうがな。次、何かしでかしたらそれこそピストルと一緒に島流しだ。俺ぁむしろそっちの方がスキッとするけどな」
「その通り! あの小悪党のことを思うなら悪さする指は一本残さず切り落としちまった方がいいに決まってる」
「切り落とすなら指だけじゃなくてあっちの方だろ。なぁに、どうせ粗末なもんだ。なくなったって気づきやしねぇよ」
 シャルロッテは男の言葉は聞こえなかったふりをしてラムをすすった。
「違いねぇな。そうなったら結婚詐欺の方も廃業だ。嬢ちゃん、あんたもいい勉強になったな! 男に必要なのは胆力と――ところで陸じゃ――どうなってんだ? その辺は。どういう奴に女が群がるんだ? まだあの気色悪い流行りは続いてんのか?」
 昨日の出来事について感想でも求められたらどうしようかとヒヤヒヤしていたシャルロッテは話題がわずかに変わったことに感謝して頭をひねった。
「気色悪い……何のことだかわかりませんけど……一番の人気はもちろん由緒正しい貴族さまです。けど、あの人たちは生まれたと同時に従兄弟(いとこ)とか又(また)従(い)兄(と)弟(こ)とかと婚約してるから望むだけ無駄ですね。あとは将校さんと――それから、音楽家とか芸術家とか?」
「それだ! それが気にくわねぇ! 陸じゃあ、あの頭でっかちのインテリ共が幅を利かせてんだろうけどなぁ。俺から言わせたら陸の女どもは脳足りんばっかりだ! 度胸がなくて何が男だってんだ! ああ、思い出したぞ。この間あの馬鹿げた野郎をのしてやったときは爽快だったな」
「陸の女が嫌いなら海の女を選ぶしかねぇな。ハーピー〔女性の頭を持った鳥の化け物。老婆のような顔、禿鷲の羽根、鷲の爪を持つ〕から人魚〔上半身が女性、下半身が魚の魔物。航海者を美しい歌声で惹きつけ難破させる〕まで選び放題だ!」
「大体、そんな関係の行く末なんてわかりきってるぞ。つまりパトロンというか愛人だな。ぶくぶく太って夫に相手してもらえなくなったババアたちが必死こいてんだ」
「んなこといったらうちの船長だってそうだろ。なぁ! 船長!」男は突然ロウ船長にやじを飛ばした。ロウ船長は部屋の中央で船員たちとテーブルを囲んでカードで遊んでいて、瞳だけをこちらに向けた。「王室から合計でいくらむしり取ったんだ? そりゃあ、物腰も丁寧になるってもんよ。ああ、だからシャルロッテ、てめぇも大金積めば存分に優しくしてもらえんじゃねぇか? まぁ心配しなくたってベッドの上で退屈するこたぁないだろうけどな」
 シャルロッテはじっとロウ船長を見つめたまま硬直して、男の話なんてこれっぽっちも耳に入らなかった。船長の整った顔立ちはランタンの真っ赤な炎で照らされ、ゆらゆらと光が動く様子は昨日の夜を思い出させた。なぜこれほどまでに魅力的なのだろう。
 その隠しようのない視線に気がついたみたいでロウ船長は自分の隣の空白の席を蹴って示した。「シャルロッテ、来い」張り上げていないのに低い声は喧噪に負けずにはっきりと聞こえた。シャルロッテは促されておずおずと隣に座った。「もっとだ」
 船長はシャルロッテの腰に腕を回して、強引にその体を抱き寄せた。
「楽しんでるか?」
「ええ、まぁ……それなりに」
「そいつはいいな。だが、俺は退屈してるんだ」
ロウ船長は自分の手札をシャルロッテの目の前に伏せて置いた。机の上にはチップとしてスペイン金貨がいくつか積まれている。
「ポーカーのルールはわかるな?」
 その夜は今までの窮屈で退屈な航海がまるで嘘のようだった。
 船長の隣に座らされ、挙げ句海の男たちに囲まれて最初は緊張していたシャルロッテも、気まずさと男たちの口からあふれる淫(いん)猥(わい)な質問から逃げるように酒をすすっているとだんだんとすべてがどうでもよくなってきて、口から飾り気のない本音がこぼれ落ちるようになった。そうすると男たちはシャルロッテの毒だか薬だかわからない言葉にすっかりおかしくなって何度も場が湧いた。だが本人たちも何がおかしいのかはこれっぽっちもわかっていなかった。誰も彼もアルコールにおぼれて、会話も成り立たず、支離滅裂で飛び飛びの思考を何度も反(はん)芻(すう)する。そこに学びや論理性なんてものはこれっぽっちもない。海賊らしい傲慢な時間の使い方だが、そういう時間ほどどうしようもなく楽しいのは言うまでもないだろう。海馬にはこれっぽっちもとどめておかないで、明日にはすべて忘れてしまうような瞬間的な楽しみだ。
 それからその後のポーカーもホイストも、シャルロッテはビギナーズラックですさまじい快進撃を見せた。途中で船長が一枚の価値を教えてくれたが、気がつけば目の前には計算もできないほどの金貨が積まれていた。いつの間にか野次馬すら集まって、次は誰が勝つかと互いに賭けあい、テーブルの周りはすごい賑わいだった。
 その後にはちょっとしたダンス――付け加えるならシャルロッテは元々あまりダンスが好きではなかったけれど今日だけはいろいろな意味で別格だった。
 社交界では決められた音しか奏でない音楽も今日は男たちのほんの気まぐれですぐに拍子が変わった。男たちは心の赴くままに床を激しく踏みつけたり、腕やコップを机に叩きつけたりしてビートを刻み、それから時には頭に思いついたフレーズをそのまま口笛に乗せた。男たちの奏でる力強い音は衝撃波みたいに船全体に広がって心臓もそれに連動して拍動し、次第にテンポが速くなって息が切れて踊り疲れてそのまま死んでしまいそうだった。
 シャルロッテは机と机の、椅子と椅子の、人と人の間を何度も行き来して、机に飛び乗り名前もおぼろげな男たちの腕を何度もくぐり抜けた。酒のせいでふらふらして何度も足がもつれて何もしなくても目が回るみたいだ。
 宴会は日が昇るまで続き、客室でシャルロッテが疲れ果てて眠りについたころには空は鮮やかな青色をしていた。

第十章 一話

 それから何日かしてようやく風が戻ると船はますます生き生きと活気づき、船員たちは気張って帆を張り、声を張り上げて日々の業務にいそしんだ。シャルロッテの仕事はデリックの傷の様子を確認して海水で傷口を清潔にして包帯を巻き直すことだった。
 あの激しい宴会の翌日、デリックは四十度というひどい高熱を出してほとんど一日中目を開けなかった。鞭打ちの傷に病原菌が入り込んだ上、ほぼ半日、上裸で厳しい太陽に身を焼かれたせいで日射病にかかったのだ。時々うなされているのか傷が痛むのか低いうなり声をあげるが傷のせいで満足に寝返りも打てなかった。食事はまったく喉を通らず、あと数日でもこんな様子が続くのならそのまま死んでしまうのではないかとシャルロッテは恐怖に震えた。自分だって二日酔いで頭が割れてしまうほど痛かったし、延々と吐き気が襲いかかったが、その日は丸一日つきっきりで様子を見守った。船がとまっているのが幸いだった。もしここに船酔いまで襲いかかったらきっと看病どころではなかっただろう。
 シャルロッテの祈りが通じたのかそれとも彼の日頃の行いがよかったのか、幸いにも熱はすぐによくなった。とはいえ傷の方はまだまだ不安が残る。最初の数日よりかは赤みが引いてマシになったとはいえ、肌が裂けた部分はじゅくじゅくとして常に臭くて透明な液体が分泌され、体の至る所で傷が膿みはじめていた。それにシャルロッテは誰にも報告しなかったけれど容体は日に日に悪くなっていくような気がするのだ。
 それでも船長は容赦なく、風が吹き始めるなり他の船員たちと同じように仕事に参加させた。デリックは痛む体を引きずるせいでただ船を行ったり来たりするだけで男たちから遅れをとった。ましてや荷物を運んだり帆を張ったり畳んだりなんて作業はやらせるだけで苦悶の表情を浮かべた。筋肉を動かすたびに内部から傷口をいじくられるみたいな激痛が走るのだ。ましてや薄い包帯と洋服越しに麻縄が傷口をえぐりだすともうどうしようもない。
 船員たちはそんなデリックを見かけるなりケラケラと小馬鹿にして笑い、その扱いは彼のプライドをかなり傷つけた。それに内心で見下しているシャルロッテに一日中付き添われて看病されるのも耐えがたい屈辱だった。彼女はここのところ毎日デリックの後ろをついてまわった。彼がいつか海に落ちるのではないかと思って気が気でなかったのだ。だが、それについてデリックは口をつぐんで何も言わなかった。
「まったく馬鹿がつくほどのお人好しで甘っちょろい女だ。だがこの女がそういう性質で本当に助かった。さもなければ本当にあっさり死んでいてもおかしくなかったからな……この女のせいで地獄をみたがやはり女神には変わりなかったってことだ」心根はまるで変わらなかったにしろわずかながら感謝の念はあった。「とにかくこの女から何かを盗み出そうとするのはやめだな。まったく今思い返してみれば――俺としたことが――分の悪い賭けもいいところだ」

 船が順調に進み続けるある日のこと、シャルロッテがいつもの看病のためにデリックの部屋を訪れると彼はまだベッドの中だった。ぐっすりと眠っている彼を起こしてまで包帯を取り替えるのもしのびなくて、シャルロッテは海水の入った桶(おけ)と清潔なタオルを置いて部屋の丸椅子に腰掛けた。風は船に対して真横から強く吹き付けて船体を大きく揺らした。そのたびに桶に入った海水がちゃぷちゃぷと音を立てる。
「軟こうみたいな塗り薬でもあればいいんだけど。それか薬草でもあれば……せめてうなされずにぐっすり眠れていることを祈るばかりね。回復に睡眠が必要なのは間違いないもの」
 窓の外を眺めると東の空がかすかに白んでいた。船長や船員が起き出すのは真っ赤な太陽が顔をだしてからだからあと三十分は寝られるだろう――と、シャルロッテは軽くあたりをつけて、机の上に置かれた茶色の服に目を向けた。
 洋服はすり切れてボロボロになり、ところどころにぽっかりと穴が空いて糸がだらりと垂れ下がっている。シャルロッテはそれを膝に置いてまじまじと見つめた。こんなものほとんど洋服として機能していない。よく見てみれば何度かつぎはぎを当てた跡があって部分によって色が異なっている。
 シャルロッテはそれを見て退屈な待ち時間をこの服の補修にあてようと決めた。 客室に置いてきた刺繍道具を取りに行くために部屋を出るとちょうど当直のバジルが帰ってくるところだった。夜通しラムを飲んだせいで顎の両側がひどくむくんでいた。
「今日も早ぇな、嬢ちゃん。勤勉で素晴らしいこった!」眠たそうに伸びをして大きくあくびするその服にはやはりぽっかりとした穴があった。「水桶は一人で引けるようになったのか? え? ああ、それと昨日はずいぶん運がよかったみたいだがな、あんなのたまたまだ! あんな豪運が毎日続いてたまるかってんだ。貴族よりも賭博師の方がよっぽど向いてやがるぜ。向こうではそれで食っていった方が良いんじゃねぇか?」
「女の賭博師なんて聞いたことないわね。そんなのお断り」
「なぁに、男装でもすりゃあばれやしねぇよ」
「それにわたしきっとお針子とかの方が向いてると思うの。ちょうど今からデリックの服も直すところだったのよ」それからシャルロッテは腕に抱えた彼の服を示した。「もしよければなんだけど、バジルさんの服も一緒に直してもいいかしら。そのくらいならすぐに直せるわ」
「俺の一張羅で練習とはなかなかいい度胸だな! いいぜ、貸してやる。その代わりひどい出来だったら覚悟しやがれ! そのときはこの間のデリックとおそろいの目に遭わせてやる」
 そんなわけでシャルロッテは二人分のシャツを預かると自分のドレスの切れ端をあててぽっかりと空いた穴をきれいに縫い上げた。我ながら縫い目はかなり均等で布もしっかりと固定され、少し引っ張ったくらいではびくともしない。きっとこれなら海上での過酷な使用にも耐えられるだろう――けれど布の色にまで気が回らなかったのは大失敗だった。
 預かったシャツはどちらも土色だというのに使った切れ端が群青色だったせいで仕上がったシャツはかなりコントラストが効いた形に仕上がって、シャルロッテはそれを見つめて顔を引きつらせた。まるでシャツはそこだけ次元が違うみたいだった。
 二人にこの完成品を手渡すときの緊張ときたら計り知れないものがあった。デリックは起き上がるなり奇妙な色味に様変わりした自分のシャツをまじまじと眺めて彼女を横目で見た。実際はそこに非難の色はなかったが、シャルロッテは罪悪感から睨まれたような気がして「勝手に触ってごめんなさい……気に入らなかったらはぎ取っても構わないから……」と、慌てて言い訳した。
 もしデリックがいつもの悪夢と傷の痛みで寝不足だったなら言葉の通りに――もしかするともっと彼女に傷を植え付けるような形で――シャルロッテの努力を引き裂いて悦に浸ったかもしれない。
 しかし今日は夜中に目を覚ますこともなく朝までぐっすりだった。寝起きにわざわざ意味のない嫌がらせをするつもりにもならず、その上、袖を通してしまえば穴のないシャツというのはかなり快適で、今更自らの手で穴を開ける気にもならないというものだ。
 シャルロッテはデリックがシャツを着て外に出て行くのを見届けてからようやく安心して肩の荷を下ろした。これで半分だと思うと気が滅入る。もう一着をバジルに返却するときにだって、シャルロッテは意中の人にプレゼントを渡す乙女くらい長い口上を使って――どんな過激な反応が返ってくるかと嫌になりながら――おずおずとシャツを差し出した。もちろん言い訳も添えながら。
「本当はもっと似た色の布があればよかったんだけど……包帯には手を出したくないし、今はわたしのドレスを使うしかなくて――」
 けれど返ってきた言葉は意外なものだった。
「いうほど悪くねぇ。血色の悪い牛か――あの、あれだ――パナマにうようよと湧いてた毒ガエルみたいな色じゃねぇか! いや気に入ったぜ、俺はな! あんときはあの毒ガエルがそこかしこを飛び回ってやがったんだ。そんであの馬鹿、俺のラムに飛び込みやがってな。すっかり酔っ払って泳ぎ方も忘れやがった! 俺はそのラムをすっかり飲み干して――まぁ、毒があるのは知ってたんだ。そんな強くないってこともな。そう聞けば度胸試しがしたくなるってもんだろ? この通り死にやしなかったが、あまりおすすめはしねぇな。何しろきつい幻覚がみえるんだ。まぁなんだ、とにかくなかなかやるじゃねぇか。いい針子になれるぜ!」
 男の態度からそれをかなり気に入ってくれたことは明白だった。いつになく上機嫌に語る男を見ながら、なんだかシャルロッテは安心の他に胸のあたりが自然と暖かくなるのを感じた。
「喜んでくれてうれしいわ」シャルロッテは照れ笑いを浮かべながら答えた。
「ああ、きっとじきに大忙しになるんじゃねぇか? 誰だって好んでおんぼろのシャツを着てるわけじゃねぇしな。俺らに足りないのは先見性ってやつだ。どれだけ稼ごうが陸に戻れば一ヶ月もしないうちに一文なしだからな――ま、賢いやつもいるにはいるが……」
 何か言いかけたところで甲板の方からバジルを呼ぶ声が響いて話は尻切れになった。シャルロッテはその風変わりな色味の後ろ姿を目で追いかけた。「なんだか変なの。まさかこの船の上で人に褒められたり……ましてや必要とされたりだなんて思いもしなかった。それにこれほど気分が上向きになって……できることならもっと助けになりたいだなんて。少し前からなら想像もできなかったわ」
 それは奇妙な心境の変化だったけれど不思議と心地よくて、シャルロッテはすぐにその変化を受け入れることにした。本人は気がついていないけれど、彼女はもうすっかりこの船と荒々しい海の男たちのことを愛してしまっていたのだ。見た目こそ恐ろしくて言動も目を覆いたくなるほどひどいし、海賊行為だってとても許せたものではないけれどだからといって悪魔ではない。話してみれば案外面白いところもあるし、同じようなことで笑ったり怒ったりするのだ。それに何より今だけはこの広い海を渡る無二の仲間だ。そんな彼らの力になりたいと思うのは考えてみれば至極当然のことだった。

第十章 二話


 
 それからというものシャルロッテは船の業務にも興味をもって果敢に首を突っ込もうとした。日々の帆張りから操舵、それから清掃に至るまで――しかし船の男たちは世間知らずの少女よりもずっと警戒心と縄張り意識が強かった。シャルロッテが自分たちの領分に踏み込もうとすると船乗りたちは全身の毛を逆立てて激しくまくし立てた。
「おい、てめぇ! それに指一本でも触れて見やがれ! その指ごとへし折ってやる! それとも内蔵を引き裂いてやろうか!?」
 シャルロッテは親切心を邪魔されてつまらない顔をしながら手にしたロープを放した。なぜだか今日はいつもならしっかりとぐろを巻いて甲板の縁にかけられているロープが散乱していたのだ。さすがに帆や舵といった見るからに重要そうな部位にまで無断で手を出すつもりはなかったが、この程度なら触っても許されるだろうと思った矢先の出来事だった。
「別に邪魔しようってわけじゃないわ。ただ――」マルセルは焦(じ)れて舌打ちしながらシャルロッテのことを突き飛ばした。「ちょっとくらい話を聞いてくれたっていいじゃない。今朝からずっとこのままだったでしょ。今日はなんだか忙しそうだったから……」
 男は黙れとばかりにシャルロッテをにらみつけると慣れた手つきでロープを直径五〇センチほどの円にぐるぐると巻いて甲板の縁にかけた。
 それを見たことによってシャルロッテはますますふてくされた。
「そのくらいわたしにもできたわ。――きっと」
「あ? てめぇみたいなやつに何ができるってんだ? 縄の結び方も帆の開き方も、畳み方も何も知らねぇやつがよ! これはガキのおもちゃじゃねぇんだぞ」
「何ができるかなんてやってみないとわからないわ」
「いいや、何もできねぇ」マルセルははっきりと切り捨ててシャルロッテの腕をきつくつかんだ。彼がここまで荒々しいのも珍しい。「大体こんな非力な体で何ができる? 体力もなけりゃあ、学があるわけでもねぇ。長生きしたいならいい加減身の丈を知ることだな」
「あとから入った上に盗みまで働いたデリックには仕事を任せられるのにわたしは物を拾うだけでここまでいわれないといけないのね」
「そんなこと誰かに命令されたのか? いいか、これは仕事だ。報酬をもらう以上紙面通りに働く義務がある。てめぇはただ陸を追われた馬鹿なねずみでしかねぇんだ、たまたま同じ船に乗り合わせただけの家畜だ! それから乗組員は全員てめぇの飼い主でもある。いいか、命令されたこと以外やるんじゃねぇ」
「あなたたちの一味に加わったつもりはないし――だとしたって上官は船長……ロウ船長だけだわ」
 シャルロッテはやるせない気持ちを抱えて船橋につながる階段を駆け上がった。捕まれた腕は指の形に赤くなり鈍い痛みが走ったけれど何よりも痛いのは心だ。助けになりたい気持ちは嘘ではないのに、どうしてこうも受け入れてもらえないのか理解できなかった。両目に浮かんだ涙によって視界が滲んだ。舵を握ってのんきに口笛を吹いているバジルにはこんな顔見られたくなくて意図的に顔をそらしたけれど、そんなこと彼には関係なかった。男はシャルロッテの腕をつかみあげるとまるで彼女が何マイルも先にいるみたいな大声を上げた。
「よぉ、シャルロッテ! また泣かされやがったのか? ただでさえひどい顔がさらにひどくなりやがる! その両目がしっかり機能しているところなんざ一日にほんの数秒しかねぇな。まぁ、どちらかというとそっちの方が人気らしい。俺が聞いたところな」
「そんなの――何の慰めにもならないわ。どうやらあなたのお仲間さんはわたしのことをその辺のドブネズミと同じにみえてるらしいもの」
「見たところ尻尾は生えてないみたいだけどな。こりゃつまみ出すのも苦労するぜ!」
 男はシャルロッテの尻を叩いた。軽薄な動作にシャルロッテは少しむっとしたけれど、今更その程度のことで腹をたてても仕方ないと思い直して階段の最上段に腰掛けるとフェンスにもたれかかった。ここから見ると先ほどの諍(いさか)いの場所がさらによく見えた。
「わけがわからないわ。わたしってあの程度もできないと思われてるの?」
「許してやれよ。貴族なんて懐が広くてなんぼのもんだ」
「もう貴族じゃないけど」シャルロッテはますますふてくされた。そんなことまるで何世紀も過去の話をされているみたいだ。
「没落貴族ってやつだろ? いい身分じゃねぇか、え? 大体、俺たちにとっちゃ、貴族も没落貴族も大して変わんねぇよ。どっちも鼻についてきなくせぇからな」
「そうかもね」頬杖をつきながら素っ気なく返すとバジルは天を見上げながら大きく笑った。いつもそうなのだが、シャルロッテがへそを曲げたり悔し涙を流したりするのが水夫たちにはたまらなく面白いらしく決まって上機嫌になるのだ。いわく、泣かせがいがあるとのことだ。
「機嫌悪ぃな。ま、酒でも飲んで忘れるこった。それとも俺がありがたい助言でもしてやろうか?」
「助言?」シャルロッテは顔をあげて聞き返した。 
「ああ、そうだ。何しろてめぇにはこれの借りがあるからな。陸に渡ってから全財産でも請求されたらおっかねぇ! できるだけ海上で清算しちまいたい」
 バジルは自分の風変わりなシャツを指し示しながら言った。何かを求めてやった訳ではなかったが男の助言という言葉も気になった。シャルロッテがバジルを見上げて首をかしげると男はとくとくとして話し始めた。
「いいか? 一番簡単な方法はな、今から俺の腰に刺さったナイフで指を傷つけてあの紙に――わかるだろ? あの掟が書いてある紙だよ。船長室の前に張り出してあんだろう? あれはあんな感じで張り出されてる割に機密書類なんだぜ。いや、本当だ――仕事がしたいってならあの紙に今すぐ血でもインクでも名前を書けばいいんだ。なんたってあれは契約書なんだからな。まぁ、正確にいうなら船長の許可が必要だが……」
 シャルロッテはその言葉を聞いてハッと息を飲みにわかに立ち上がった。たしかにあれが仲間の証だというのなら男のいうとおり今すぐにでもあの古びた紙に名前を書き連ねればいいだけだ。そうすれば少なくとものけ者にされることはなくなるだろう。
 今すぐにでも船長室に向かおうとするシャルロッテをみて男は「だがな……」と、ゆっくりと続きを口にした。「俺はこれっぽっちもおすすめしないな」
「どうして?」
「もしもあのキザったらしい英国海軍にでも捕まったら俺たちは間違いなく処刑されて晒し首だ! わかるか? 晒し首だぞ、わざわざ首を切り落としたあとで槍をここに突き刺して船着き場に飾るんだ。頭が腐りきって蛆も湧かなくなるまでな」男はシャルロッテの首の根元を指ではじいて示した。「とはいえ俺は船着き場の飾りになるのは構いやしねぇんだ。そのくらいの覚悟はある。大体、死んだあとに肉体がどうなろうが、とにかく毎朝の祈りは欠かしたことがないからな。魂の方は救われるに決まってる。たとえ三人を殺していようと、だ。ただ唯一気にくわねぇのは同業とそれから馬鹿な貴族どもが俺の首を指さして笑うってとこだ。そこにてめぇの頭も飾られるって想像してみろよ。並の神経じゃ耐えられないってもんじゃねぇか?」
 それを想像すると首の後ろが電流でもながされたみたいにうずき始めた。
「この船に乗ってるとな、夢見がちなガキがさんざ頼み込んでくる。だから俺は毎回この話をしてやるんだ。持ち上げられるのなんてほんの一瞬で最後は誰よりも惨めっつぅのが船乗りの宿命だ。墓も用意されねぇで惨めに腐る覚悟がないならさっさと失せろってな。――で、俺が見る限りてめぇには向いてねぇよ。何も悪意でいってるわけじゃない」
 彼の言葉には一定の説得力があった。それにたしかにそこまでの覚悟があるとはすぐには断言できないのだ。
「で、でも……この船に乗ってる以上それは同じなんじゃないの? わたしだっておとがめなしってわけにはいかないんじゃない?」だったら本当に仲間に加わろうが何も変わらないではないか、という意味で口にしたのだがバジルは違う受け取り方をしていた。
「ここまできてこの船に乗ったことを後悔したか? てめぇも道連れだと言ってやりたいところだがまずそうはならねぇいだろう。まぁそうだな、むしろ悲劇のヒロインとしてもてはやされたっておかしくねぇな――いいや、冗談じゃないぜ。俺らが海軍に捕まりそうになったらまず何をすると思う? まずあの紙を燃やすか引き裂いて海に沈めるか――とにかく何が書いてあったか読めねぇ状態にするな。そうすりゃ、運がよければ晒し首だけは回避できるかもしれねぇ。俺が自主的に協力してるか強制されてるのかなんてあれさえなけりゃわかんねぇだろ? もちろんにっちもさっちもいかないようならさっさと逃げちまうがな」
「仲間を裏切るの? 船長を売るっていうの?」
「水夫の絆なんてそんなもんだ。俺は女房とガキのためにも長生きしないといけねぇし、何より船長は乗組員を安全に目的地まで運ぶのが仕事みてぇなもんだからな。海軍に捕まってる時点で勤務怠慢ってやつだ。まぁ、だとしてももしまた生きて仲間と会えたらからっとした顔で同じ船に乗るだろうし、首を見つけたら頭に酒でもかけてやるよ。なんだかんだ長い仲だしこの船の連中は気に入ってんでね」バジルは酒をあおって続けた。
「シャルロッテ、要はてめぇは人肌恋しいんだ。だがどれほどの聖女さまだろうが陸に帰って数週間もまともな生活をしてみろ。こんな悪夢みたいな時間すぐに忘れるだろ。それに時期も悪いぞ。長旅もそろそろ終盤だ。このまま風さえ吹き続けりゃ、俺たちは少なく見積もっても一週間後には新大陸ってわけだ。これは船長から直接聞いたから間違いない。そんな中でわざわざそんなリスクをとるのも馬鹿らしいっつうもんだろ。万が一海軍に捕まろうが、今の状況ならおまえだけは間違いなくおとがめなしだ」
 シャルロッテはわずかに緊張しながら男の顔をのぞいた。果たしてこれほど太い首をどうやったらきれいに切り落とせるのだろう。断頭台の凶暴さをもってしたってそんなこと到底不可能に思える。
 シャルロッテは改めて二ヶ月以上の時間を共にした人たちが頭だけになって人目につく場所に晒される場面を想像してみた――自分だけは何事もなかったみたいに生き延びてその光景を群衆にまじって観察する場面を。だとしたらなんて恩知らずな女だろうか? それはなんだか自分が晒し首になるよりもよっぽど恐ろしく感じた。
「怖くないの?」
「怖くはねぇな。ただ不愉快なだけだ」
 シャルロッテは自分の両手を強く握りしめた。
「わたしだって怖くないわ。それに望むなら船着き場に彩りを添えてあげる。知らないだろうけど、わたしって案外頑固なのよ」

「船長……」その日の夜、船内の全員が集まるダイニングでシャルロッテは意を決して船長に切り出した。遠くの方でバジルが酒を飲みながら呆れたように肩をすくめているのがみえたけれどシャルロッテの意志は固かった。目の前のロウ船長はその呼び方に耳障りの悪い言葉を聞いたとばかりに眉をひそめたが、今日はその程度の脅しで屈するわけにはいかなかった。何しろもっと気分が悪くなるようなことを囁こうとしているのだからこれは準備運動のようなものだ。頼み方は色々考えた挙げ句もっともシンプルなものになった。
「船長、お願いがあります。わたしもこの船で働かせてください」同じテーブルを囲んでいた男たちはすでに呂(ろ)律(れつ)も回らなくなるほど酒が回っていたが、聞き捨てならない言葉にすぐに我を取り戻し、それからこれっぽっちも回らない舌で大笑いしながら心のままに声をあげた。
「女が水夫になるなんざ聞いたことねぇ! それも相手はこんなちんちくりんのおぼこ娘だ! 少なくとも女になる痛みくらい経験してから出直してこいよ! そうすりゃ、誰かの愛人枠になれるかもしんねぇ! 言っても器量よしって顔には見えねぇけどな」
「それともそんなフォークしか持ち上げられない体で仕事が勤まるって!? そいつはいいな! よし、そういうことなら俺が相手になってやるよ! 俺は女だって父親の前で殴れるぞ、さぁ立てよ。俺のことをのせるっていうなら認めてやってもいいぜ!」
「おい、待て! モーリス! 俺は絶対に認めねぇぞ! 殴り合いしたいだけなら上で勝手にやれよ!」
 男たちは思うがままに発言してもはや収拾がつきそうにない。あちこちで意見の対立が起こって男たちはそれぞれの胸ぐらをつかみあげて今にも殴り合いが始まりそうだった。だが、どれもこれも反対していることに違いはない。
「一回黙れ」ロウ船長は荒れ狂う男たちを一喝してそのままシャルロッテを睨んだ。その瞳はいわずもがな警戒心に満ちあふれている。「シャルロッテ、いったいどういう風の吹き回しだ? さっさと話せ」
「そんなの決まってる!」男たちはシャルロッテのか細い声なんてまるきりかき消してしまうほどの声量で身振り手振りをさらに大きくした。「今更になって倉庫の宝が惜しくなったんだ! そうに違いねぇ! それともまた性懲りもなくあの男にそそのかされたんじゃねぇのか!? 毎日飽きもせずにあいつのところに通い詰めてるのは間違いないんだからな! おい! てめぇ、なんとか言ってみろよ!」
 その言葉に男たちの警戒心は自然と高まりを見せ盗人に向けるような、一挙手一投足を監視するような視線がシャルロッテに注がれた。シャルロッテはその不名誉を振り払うみたいに大きな声をあげた。
「違うわ! あんなもの、これぽっちも興味ないわ! あるものですか! それにデリックだって無関係よ! 彼の看病をしているのは知ってるはずでしょう?」
「だったら何だってんだ!? てめぇが最近妙に俺たちのことを嗅ぎ回ってるのだってどうにかして倉庫に潜り込もうっていう算段だろうが!」
「だから違うって言ってるじゃない! 大体そんな義理のないことたとえ思いついたとしたって恥ずべきだわ。わたしはただ――」シャルロッテはわずかに息を吐いた。いったいどうして自分はこれほど躍起になっているのだろう? たしかに役に立ちたい気持ちはあるけれど、それにしたって自分の命までかけるのは少しやりすぎな気がする。たしかにここまで何事もなく運んでもらった恩はあるけれど、その分散々な目にもあってきたではないか。
 シャルロッテは少し戸惑ってから控えめな声でつぶやいた。先ほどまで男に負けないように引きつった喉で無理に大声を出したせいで声が喉にひっかかるような気がした。「わたしはただ皆さんの助けになりたいだけです……。それ以外の気持ちなんてこれっぽっちもありません」それは嘘偽りない本音だった。これ以上の言葉は見つかりそうにもない。シャルロッテはただ好きな人たちに喜んで欲しいだけなのだ。その本能のような根源的な欲求の理由を説明するには彼女はまだ幼かったし、船乗りたちは決して信じようとしなかった。
 シャルロッテのか細い声は男たちの声でかき消された。はなから男たちは聞く耳を持っていなかった。倉庫に無断で出入りする権利を得られるのも信用ならないが、たとえどれほどシャルロッテが無実を証明し続けようと、この最終盤で頭数が増えて報酬が減るのを何よりも嫌がったのだ。男たちは悪魔のような剣幕でシャルロッテの胸ぐらをつかみあげた。
「そんなわけねぇ! 強欲じゃねぇ女なんて存在しねぇんだからな! ましてやそれが没落貴族っていうならなおさらのことだ!」
「そうだ! あれに手を出したらてめぇも血祭りだ! いや、構わねぇ! 今やっちまえ! 悪事を企んだ時点で同罪だ!」男たちの熱気はますますすさまじいものとなってもはや誰かが死にかけなければ事態の収拾がつかないまでに膨れ上がっていた。
 そんなとき不意に船長の場違いな笑い声が響いた。「助けになりたい、か! ずいぶんと傲慢な話だな。それに考え得る限り最悪の言い訳に違いない――まぁいい、座れ」船長は自分の正面の椅子を蹴って示した。その言葉には有無を言わさないものがあって、シャルロッテはおずおずと大柄の男たちの間を抜けて丸椅子に腰を下ろした。その間にも船乗りたちの鋭い視線が全身に突き刺さりなんとも居心地が悪い。「さっきの調子で喋るなら話だけは聞いてやろう」
 机越しに向かい合ってみてもロウ船長の心はどちらに傾いているのかまるで見当がつかなかった。少なくとも話を聞いてくれるということは面白く思ってくれているのだろうか? 黒い瞳は楽しげに、だが一定の威圧感を持って細められ、それが好奇からきているのか残虐からきているのかはっきりとは分からなかった。
「それで自分には何ができると思い込んでるんだ?」
「それは……」シャルロッテは言いよどんだ。「力仕事はできないかもしれないけど、料理番とか清掃とかならきっとわたしにでもできます。少し教えていただければ……きっと……」
「あいにくその役割は足りているな」ロウ船長が言い終わるなり水夫の激しい声が響いた。
「それにもっと似合いの仕事があるぜ! 愛人に娼婦だ! 男を喜ばせたいってならこれ以上の手はないだろ。それに向こうで客をとる練習にもなるじゃねぇか? その上、没落貴族ときたらかなり人気がでるだろうよ!」
 シャルロッテは男の言葉を無視して奥歯を噛みしめた。おそらく船長はこちらが一歩でも逃げる素ぶりを見せたら二度と話なんて聞いてくれないだろう。少なくともその黒い瞳が注がれている間は、彼の質問に答える義務がある。
「それじゃあ……ピアノ……いや、歌は?」
「貴族どもの間延びした歌なんて聴きたくねぇな!」
「だったら、聖書の朗読は? いくらかは暗唱できます」男たちはわずかに心を動かされたようだったが、この小娘に朗読ついでに説教されると思うと途端にいらいらしてすぐに却下した。しかし根気強く食い下がった成果がすぐそこまで現れていた。
 男たちはシャルロッテがただ健気に何の悪意もなく自分たちに尽くしたいと思っているのではないかと感じ始めていた。しかし彼らからすればその理由が謎だった。
 そのとき、男たちが揉めるテーブルの背後でバジルの声が響いた。
「そこまでいうならいいじゃねぇか。俺は一票入れてやるぜ。その代わり説教はごめんだ。俺の半分しか生きてないような小娘に講釈を垂れられるのは耐えられねぇ。司祭だろうが耐えられねぇがな」
「だったら何をさせるって? ただ飯食らいに報酬なんて払ってたまるかよ」
「それを考えるのは俺じゃねぇだろ」
 例の奇抜な衣装は多少色落ちしたとはいえどこにいても目立った。彼に目線をくれると図らずともシャルロッテの脳裏に一筋の光明が差した。
「分け前はいりません。わたしは無事に送り届けてもらうだけで十分です。その代わり皆さんの洋服を繕わせていただけませんか? もちろん他の物も必要があれば繕います。わたしもこの船に命を委ねたいの。わたしだけ助かるなんて絶対にいやよ」
 ロウ船長は煙草を喫しながら喉の奥で低く笑った。「まるでプロポーズだな」
 シャルロッテは茶化されて頬を赤く染めた。船長がいかめしい顔を緩めたのを見る限り、ひとまず彼はシャルロッテの頼みを受け入れるつもりになったようだった。それから船員たちもいつの間にか硬い表情をやわらげていた。男たちからしてもシャルロッテの申し出はありがたかったのだ。それに彼女の真剣な態度にも心を打たれた。中にはアンドレのように絶対に認めようとしない男もいたが、過半数以上が同意しているのは明白だった。船長は男たちの顔をざっと見回して、合意がとれたことを確認すると腰に差したナイフを机に突き立てた。
「ペンなんて高尚なものは持っていないからな」
 それからロウ船長はナイフで机に文字を刻んだ。机の上に大きな字で〝シャルロッテ・ビリーには船に尽くすことを命じる。その対価として無事に送り届けると保証する〟と、書き加えると船員たちは寄せ書きのように思い思いの位置に自分の名前を署名した。最後にシャルロッテが船長から受け取ったナイフでたどたどしく名前を刻むと意味もなく歓声が沸き上がった。茶色の机にはびっしりと船乗りたちの名前が刻まれ、まさしく圧巻の光景だった。ナイフを突き立てながら書いたものだから、どれもこれもひどくガタガタした筆跡だったが水夫たちの文字は一様に力強かった。シャルロッテはその中の自分が刻んだ薄く細い文字をなぞって口元に柔らかい笑みを浮かべた。これで水夫たちと同じ立場になれたと思うとうれしくてたまらなかったのだ。
「おい、シャルロッテ! これからはゆっくりと眠れると思うなよ! 直さねぇといけないもんは山のようにあるんだからな」
「望むところだわ」
 その後シャルロッテはデリックの元へ向かった。もし起きているのならこの喜ばしい出来事を報告しようと思ったのだ。しかし何度部屋をノックしても反応はない。きっと寝ているのだろう、それなら食器だけでも回収しようと思いそっと扉を開けてシャルロッテは悲鳴にも似た引きつった声をあげた。心臓が飛び跳ねて頭からサッと血の気が引いた。
「船長、デリックが――!」
 デリックは床でうつ伏せになって倒れていた。
 

第十一章 一話

 それからというものシャルロッテの日常はほんの少しだけ形を変えた。それは些細な変化ではあったけれど心地よい変化だった。毎朝、井戸の要領で海から重い塩水をくみ上げるのは変わらない。それからデリックの容体を確認して何も手が施せないことに唇を噛むのもいつものことだ。
 デリックはあの日からずっと高熱にうなされている。それも初日の熱よりもずっと具合が悪そうに見える。いつ見ても額には大粒の汗がにじんで、包帯も汗でわずかに湿っていた。その上、喉がすっかり腫れ上がって満足に食事すらとれなかった。そのせいでただでさえ細身の体からますます筋肉が落ち、こうなってくると未だに塞がらず蛆がたかっている傷口がますます痛々しく見える。その姿は晩年の母の姿を彷彿とさせた。目の周りが落ちくぼんで頬は痩せこけている。
「ラムは飲んでるんだな?」
「昨日は一日かけてコップ一杯ほどです。最近はほとんど気絶してるみたいで、何をしてもまるで反応がなくて……」
 船長はシャルロッテの話を聞きながらベッドの上で浅く速い呼吸を繰り返すデリックのことをじっと見つめ、それから腹の辺りに残る赤い傷口に爪を立ててぐりぐりと刺激した。それでもデリックは死にかけの魚みたいに口で呼吸するだけでびくともしない。
「らしいな」引き抜いた指には血や膿なんてものが一緒くたにくっついていた。「感染するようなものじゃないだろう。ラムは飲ませ続けろ。コップ一杯も飲まないようなら無理にでも飲ませていい」
「それから少し前まではパンもひとかけら与えていたんですけれど……無理にでも食べさせるべきですか? もうかれこれ三日も何も食べてないんです」
「餓死するほどじゃないな。放っておいていい。むしろ内臓に負担がかかるだろう」
「船長……デリックは本当に大丈夫ですよね?」
 すがりつくようなシャルロッテの視線に船長は少しの間を置いてから答えた。「海の上ではよくあることだ。死ぬほど苦しいが滅多なことで死にはしない」たとえ経験上一週間も持たないと分かっていても事実を口にしない分別は持ち合わせていた。意味もなくシャルロッテを脅す必要もない。
 シャルロッテは船長の言葉でわずかに安心して息を吐いた。
 船はおおむね順調に進んでいた。時折灰色の空に強風が吹き荒れ、真横から風を受けた船が大きく揺れることもあったが水夫たちはむしろ到着が早くなると逆境を喜び合い、実際強い風を帆に受けて船は素晴らしい速度で前進した。
 シャルロッテは高熱にうなされるデリックの看病をしながら部屋で黙々と針を動かし続けた。あれからというもの彼女の元には山のような衣服が届き、それは一週間ではとてもではないけれど終わらないほどの量だった。どれもこれもどうしてこんなになるまで放っておいたのかと言いたくなるようなボロボロ具合で、実にやりがいに満ちあふれる仕事だ。
「本当によかったわ。暇をしてたら一日中デリックのことを考えて何も手につかなかったはずだもの」預かったものはシャツや靴下はもちろんのこと中にはつま先の部分がとれかかっている靴なんてものもあった。
 だからといって誰もがシャルロッテに心を許したというわけではない。中には実は心に一物を抱えているのではと疑う男もいた。もちろんシャルロッテだってひょっと出の自分がすぐに受け入れられるだなんて到底思っていなかった。もちろん狙ってもいない倉庫の品々がどうとか言われるのは心外だし、すれ違うたびに気を張るのはどうにも徒労だと思ったけれど。
 それでも船が順調に進むと自然と船乗りたちの間にも笑顔が増え、陸についたら何をしたいだの何を食べだのそういう会話が船中にあふれるようになった。今まででは信じられないほど穏やかな時間だった。
「俺は今回こそ金を残してみせるぞ! ラムだって毎日飲むもんか。それから貴族の真似事だってしないし女だって買わねぇよ。ああ、今回こそだ! いいか、俺はおまえらとはここが違うんだ。道ばたでくたばるのはごめんだな! それから貴族どものケツを追いかけ回して一ドゥニエのお恵みをもらおうと企(くわだ)てるのもな!」
「たしかてめぇは前回もそんなことを言ってやがったぜ。で、その結果どうなったかも俺はしっかり覚えてんだ! たった一日のうちに全財産をすっからかんにしてやがったじゃねぇか?」
「大体おまえに万年金がねぇのはそういう貧乏くさい考え方が悪いんだ! たんまり稼いでパーッと使えばいいじゃねぇか! 妻帯者ならまだしもな、俺たちみたいな男は今死んだって悔いが残らないように生きるのが一番だ。それによく考えてみやがれ、うちの船長は欲しいものはなんだって逃がさない性質だが知っての通りたんまりと金を持ってるじゃねぇか。こういうのは身近な成功例にならうのが一番だろ?」
「そりゃ、てめぇの脳みそもクルミ程度の大きさじゃなかったらうまくいくだろうな! そのお粗末な頭じゃ百年かけたって厳しいもんがあるぜ」
「馬鹿言え! 俺はここらの連中の中で一番に出世する自信があるぜ。貯金なんてしなくとも、だ! 間違いねぇ。もしかすれば帰りの船が出航するときには一人だけ土地持ちになってるかもな。リスクをとらずに成功がつかめるかってんだ! それにたとえとんでもない貧乏だとしても馬鹿の一つ覚えみたいに道に落ちてる小銭を探さなければ案外さっさと脱出できるもんなんだぜ?」
「そうかね?」
「そうだとも! それは今からこいつが証明するってわけだ」
 シャルロッテは突然自分に話が飛んできたものだから慌てて顔を上げた。「わたしが?」
「俺の直感からいけばこいつはてめぇらなんかよりもよっぽど駆け足で成り上がるぜ。まぁ、ただの勘でしかないがな。だが困ったことに俺の勘はしょっちゅう当たるんだ。生まれついての幸運なやつでね」
「それは認めてやってもいいが――そればかりはありえねぇな。頑張ったって娼館のトップスターが関の山だ――ま、そこまで成り上がったら上手くいった方だ! なにせ客が取れるとも思わねぇ――すがりついて頼み込むっていうなら一ドゥニエくらいは恵んでやってもいいぜ」
「今の話を聞いている限り頼み込むのはジャックの方なんじゃないの? それに、そうやって泣きつくよりもカードで勝負をしかけた方が儲かりそうなものね」
「こいつときたらずいぶんな大口叩きやがる! 大体てめぇはどうするってんだ?」
 シャルロッテは笑顔で答えた。「まずはお父さまのことを探すわ。もしかしたら誰か知っているかもしれないし。それから仕事も探して住まわせてくれるところも見つけないとね。でも不思議だけど、どうにかなる気がするのよ。どれほど大変でも海の上に比べたらいくらかマシでしょ?」
 少し前までだったら暗い想像をしてベッドの中で頭をもたげさせることしかできなかったのにいつの間にか変に未来を悲嘆せずに進むだけの勇気が育っていた。逃げるようにしてやってきたこの船で過ごした濃密な時間がシャルロッテを少しだけ大人にしたのだ。
「そりゃそうだ! ここの飯に比べりゃ、どんな油のない肉だってごちそうに違いねぇ! 俺はとにかく船を降りたらうまい飯が食いたいな。虫が乗ったからっからのパンだって悪くはねぇが――そうだな――とにかく肉だな。海で食うようなジャーキーじゃなくて、いい感じに焼き目がついてジュージューいってる鴨肉だ!」船乗りの言葉をじっくりと想像すると鼻(び)腔(こう)がピクピクとして口の中が唾液でいっぱいになった。きっと何を食べたって感動するほどおいしいに決まっている。
 
 船員たちが上機嫌だったこともあってシャルロッテはデリックの病状を心配する傍ら、未知の土地に対する子供らしい無邪気な好奇心で心を染め上げた。シャルロッテは毎日欠かさずに甲板に上り、目をこらせば水平線の白い霧の中に大陸が見えるのではないかと船から身を乗り出した。
 そんなシャルロッテを見て男たちは何度もゲラゲラと笑った。
「まだ陸にはちと早いな。そんなにかじりつくように見ようが船は早く進まねぇぞ。祈るなら天に、だ! 多少の嵐なら何倍も早く船が進むんだからな。そんでいよいよ視界に入った日には一時間もあれば陸の上だ」
 そう言われてもシャルロッテは舳先〔船の先端部分のこと〕が指し示す先から目を離せなかった。
「本当に気がつくかしら? 通り過ぎたりしないの?」目指す大陸の大きさが想像できないシャルロッテはそんな質問を繰り返した。
「だとしたらその乗組員はよっぽどな大間抜けだな。あんなもん視界に入れない方がよっぽど難しいってもんだ。その上、緯度も経度も何もかも正確にわかってるっていうのによ」
「それに疑うわけじゃないけれど、まるで実感がないの。だって目に映る景色は出航したときと何も変わらないでしょ?」
 目の前に広がるのはどこまでも続くとしか思えない広大な海原だ。この果てしない水平線の先に陸があるだなんて何度説明されてもまるで信じられなかった。それどころか長くて濃密な船旅はこれまで自分が本当に陸の上で過ごしていたのかさえ曖昧にした。実はこの世界に陸なんて存在していないと白状されてもそれほど驚かないだろう。
「まぁそりゃそうだな。海なんてどこだって大して変わらねぇ。何の道標もない海の上で船がどこにいるのか正確にわかるのは船長だけだ。だがいよいよ近いのは間違いないぜ。俺はさっき海鳥が飛んでるのをみたからな」
 海の真ん中というのはひどく栄養がなくて人間どころか魚もそれを食べて生きている鳥すらも存在しない。だからこそ海鳥が飛んでいるというのはそれだけで陸が近い証拠だった。
「わたしはかれこれ一時間はここでこうしていると思うけど……鳥なんて見かけなかったわ」
「だとすりゃ、てめぇの目も節穴だ! 俺は海猫が鳴くやかましい声もたしかにこの耳で聞いたぞ」
「馬鹿みたいに一時間も何もない海に見入ってるこいつがそんなわかりやすいものを見逃すわけがねぇだろ。それこそ大陸を見逃すくらい難しい話だ! つまりてめぇは真昼間だっつうのに亡霊に化かされてんだ。もしくは頭がぶっ壊れたとかな」
「この様子じゃあ、ハーピーを見つけるのも時間の問題だな! 一躍有名人になれるぜ。もちろん希代の狂人としてな!」

第十一章 二話

 その日の夜、シャルロッテは船の揺れで目を覚ました。明かりのない部屋の中は真っ暗で、強風がビュウビュウと容赦なく船体に吹き付け、まるで瓶に詰められてめちゃくちゃに振られているかのような激しい横揺れが続いた。扉の隙間からはおどろおどろしい音が絶えず響いた。船が左右に揺れるたびに壁に吊された麻袋はぼんやりとした黒い影になって壁に打ち付けられ人の足音みたいな鈍い音を発し、袋の中身はかき混ぜられてまるでこの部屋に泊まる人物に警鐘を鳴らしているかのようにやかましい音を発した。
 ベッドから起き上がると揺れはより一層鮮明に感じた。時々なんかは船が四〇度も傾いて進んでいるような気がする。シャルロッテは暗がりに目をこらしながら、壁伝いにどうにかドアを開けた。その瞬間突風が全身に容赦なくぶつかって思わずきつく目をつむった。
 月も星も分厚い雲に覆われ、甲板は閉じきった部屋と同様に漆黒が広がっている。船首の先はさらに黒く、そこだけ世界から切り離されているようにも見えた。その先では時折白い稲妻が空を切り裂くように真横に走り黒雲を照らしあげ、数秒後に雷鳴がとどろく。ピンと張られた帆は強風を受け、一直線に黒雲に身を投げ出そうとしている。波もうねるように高くなり、じきにさらにひどくなることは確実だった。
「船長? ――いや、違うな――おい、シャルロッテ! ちょうどいいところに起き出してきたな! いい船乗りになれるぜ!」操舵手のマルセルは強風に負けないように大声をあげた。「船長を呼んでこい! それから下でいびきをかいてやがる野郎どももだ!」そのとき雷の閃(せん)光(こう)がすぐ目の前の海に落ちて間髪入れずに轟(ごう)音(おん)が響いた。マルセルは引きつりながらも覚悟を決めたような表情をして、心を落ち着かせるためにラム酒を一気にあおった。自然と舵を握る手にも力がこもった。「じきに嵐がくるぞ」
 強風の中かすかに聞こえたそんな言葉にシャルロッテも息をのみ、緊張して一瞬だけ足が凍りついた。けれどそれだけだった。自分のなすべきことははっきりとしている。ポツポツと降り始めた雨を拭ってシャルロッテは一直線に船長室に駆けた。
「五分もないな」ロウ船長は暗い空を見上げてつぶやいた。心なしか先ほどよりも辺りは暗くなって雨も強くなっているような気がする。それからロウ船長は山羊の角笛で船員たちに号令をかけて、不安そうに辺りを見回すシャルロッテに短く命令した。「船内の窓を全部閉じてこい。それから下にシーアンカー〔横波を受けないように船首から海に投入する布製の船具〕がある。誰でもいいから頼んで持ってこさせろ」
 シャルロッテは首を縦に振ってシュミーズを翻しながら船内に駆け込んだ。ぽつぽつと降り始めた雨はあっという間にしの突く雨に変わり、砲台のために開いている窓から容赦なく雨水が吹き込み、にぶい黒色の砲台の下に水たまりをつくっている。
 シャルロッテは言いつけの通りに船内の窓を閉めてまわった。ちょうどそのとき乗組員たちがどれもこれも不機嫌で眠そうな顔をしながら、それでも危険を察知したねずみのような速度で寝床から這い出した。慌ただしく昇降部を登り、シャルロッテを見つけると男たちは声を張り上げて事情を知りたがった。
「おい、シャルロッテ、こんなところで何してやがる! いったい何があった!?」
「嵐がきたの! それでシーアンカーが必要で――」
「わかった。俺がいく」男は短く答えてすぐさま船の奥深くまで降りていった。砲台にもうけられた窓をすべて閉じきると船内は完全な暗闇で満たされた。暗がりに甲板に打ち付ける雨の音が絶え間なく響き、それから船長の的確な号令とそれに応じる威勢のいい返事や慌ただしい足音が聞こえてきた。
「これで全部?」そのときシャルロッテはあの部屋にも小さな窓があったのを思い出し、慌ててデリックのもとに向かった。ノックも忘れて部屋に飛び込むと、デリックはベッドの上でどうにか窓を閉めようとして芋虫のように身をよじり、窓の方にすっかり筋肉の落ちた腕を伸ばしていた。しかしどうやら今の彼には遠近感がまるで感じられないらしくて、伸ばした腕は窓から一メートルもある場所でぴたりと止まり、到底窓に届きそうもない。その間にも窓から雨粒が大量に降り注ぎベッドを水浸しにしている。
「デリック! 気がついたの!? だめ、動かないで! わたしがやるわ」
 自分の細い腕も今のデリックのものに比べればいくらかマシな気がした。しかしその蝶(ちよう)番(つがい)は他のものと違ってすっかりさびていて窓はどれほど力を込めてもびくともしない。頑固な窓と格闘しているうちに全身はびしょ濡れになり、あっという間に体温が奪われて両手がかじかんで震えた。そのせいでますます腕に力が入らなくなった。船のとてつもない揺れもバランスを崩す原因だった。
 ついに頑固な錆(さび)が音をあげたそのとき、一瞬だけ目の前が真っ白に光って一秒もしないうちに落雷の轟(ごう)音(おん)が辺りにとどろいた。全身を揺さぶるかのような爆音にシャルロッテは反射的に耳をふさいで目をつむりその場にうずくまった。音の大きさからすぐそばに落雷したのは疑いようもない。落雷の音は耳の中で何度も反響して、心臓が緊張して途端に速いテンポを刻み始めた。窓を閉めきると部屋はすっかり真っ暗になったが、網膜には先ほどの光が刻み込まれて目をつむっていても目の前に光線のようなものがちらついていた。
 ひとたび恐怖が全身を覆い尽くすと、両足にはまるで力が入らなくなってもしかすればこのまま一生立ち上がれないのではないかとすら思った。なんと言い訳しようがシャルロッテは怖くてたまらなかったのだ。船は今もこの世の終わりみたいに上下に、左右に、激しく揺れている。そのたびに高波が甲板に容赦なく降り注ぎ、こうして力なく床に座っていると船の揺れはますます巨大でなすすべなく感じた。大体、これほど巨大なものがどうやって浮いているのかすら見当がつかないのに、どうしてこれほど激しく揺れて転覆しないと信じられるだろう。時々なんて船は六〇度も傾いているような気がするのに! それに鳴り止まない雷もどうしようもない恐怖だった。船はすっかり嵐の中に突入していて、どこかで落雷があったかと思えばそのすぐ三秒後にはまた激しい光線が空を駆け巡った。それはまるで終わりない神の怒りのようだ。
 シャルロッテはいつだか実家のモミの木に雷が落ちたときのことを思い出した。子供が何人枝に座ってもびくともしなかった老樹はたった一度の落雷で真っ二つに割れて焦げつき、すぐに枯れてしまった。もしもアレが人間に降り注ぎでもしたならばどれほど凄(せい)惨(さん)な結果が待っているかなんて言うまでもない。
 それに何より海は荒れに荒れて、もしもの事があったらと思うと否応なしにトラウマが刺激された。あの日の夜とはまるで違う。こんな海に放り出されたら訳もわからないまま海底に引きずり込まれるに決まっている。
 すっかりすくんで縫い付けられてしまった両足が再び動き出す気力を取り戻したのは窓のちょっとした隙間から船長の力強い号令が聞こえてきたからだった。
 背筋がピリッとしてシャルロッテは顔をあげた。
「いかなくちゃ」彼女はどうにか体をしっかりとさせて、壁に手をつきながら立ち上がった。今この瞬間にだって〝仲間たち〟が危険を顧みずに働いているというのにどうして自分だけがこんなところでうずくまっていられるだろう。
「どこへ?」船の動きに翻弄されてよろめきながら立ち上がったシャルロッテを見て、デリックはとうとう声を発した。喉はかなりがさついていてたった一言のためだけに肺から空気を絞り出すみたいに激しい咳にむせ込んだ。しかしやがて痰と共に血も吐き出すとかなり楽にしゃべれるようになった。
「デリック! 無理にしゃべらないで」
「まさか甲板に上がるつもりか? そんな状態で?」かすれた言葉には馬鹿げているという響きが含まれていた。シャルロッテは小刻みに震える両手をじっと見つめて唇をつぐんだ。「馬鹿げた使命感だな。ここにいればいい。そうすりゃ海に放りだされて見捨てられる心配も高波にさらわれる心配もないだろ。俺ならいくら金を積まれようが絶対に船内から顔なんてだすものか」
 デリックは吐き捨てるように早口でまくし立ててそれから発作みたいな咳をした。それから力を使い果たしてベッドに体を投げ出した。うつろな目はぼんやりと天井を見上げている。
 デリックの言うことももっともだった。今だって信じられないほど恐ろしいし、甲板に戻ったところで何ができるとも思えない。それなのにここに留まるという選択だけはどうしてもできそうになかった。心臓の脈拍は愛する人のためになりたいと叫び続けている。
「本当に馬鹿げてるわよ」シャルロッテは場違いだと思いながらも小さく笑った。「だけどやっぱりわたしだけ逃げるってわけにもいかないの。特別扱いなんてされたくない――もちろん、できることがあるのかは分からないけど――とりあえず様子だけ見てくる」デリックは何も言わずにベッドの上で天井を見つめたままピクリとも動かなかった。シャルロッテは床に転がって中身がすべてどこかへ消えてしまった空のコップを見つめた。「落ち着いたらまたラム酒を持ってくるわ。だから楽にしてて」
 小さな足音が遠ざかり階段を駆け上がる音を耳のどこかで聞きながらデリックは頭の中で毒づいた。「とんでもないお人好しだとは思っていたが――ここまでくると気が違ってるな。わざわざ危険に飛び込むほど馬鹿げた話もない。ましてや二ヶ月しか一緒にいない男のために命まで張ろうっていうんだから――とてつもなく馬鹿な女だ。しかも見返りも何もないっていうんだからなおさらあり得ない」それからデリックは思い出したみたいにうまく動かない両手を動かして胸の前で十字を切った。「何にせよ……この任務にあたらなくていいのは幸運だった。やっぱりあの馬鹿女は女神なのか?」
 ついでとばかりに女神の無事も祈りながらデリックはゆっくりと目を閉じた。もっとも本当に女神であるならばそんな祈りも無用だと思いながら。

第十一章 三話

 甲板につながる昇降部には高波が船内に入らないようにするために最下層の倉庫で見たような重たいふたがしてあった。力ずくで押し開けると甲板にたまっていた水が船内にどっと流れ込み、それから全身に滝のように激しい雨が打ち付けて肌にかすかな痛みを感じた。
「シャルロッテ!? てめぇ、何しにきた! 中にいた方がいいのは馬鹿だってわかるだろう!」
「手伝いにきたのよ! わたしだけ何もしないなんて嫌! わたしだってこの船の一員なんだから!」
 バジルは呆れて言葉もでなかった。しかし、状況はかなり切迫していてシャルロッテを中に押し込める時間すら惜しい。バジルは雨の中でも聞こえるほど大きく舌打ちして「甲板にいたいなら好きにしやがれ! だがてめぇが溺れ死んだって知ったこっちゃねぇからな!」と吐き捨て、すぐに仕事に戻った。
 船は船首を天高くに向けたり波の中に突き刺したりして波を乗り越えながらどうにか今も浮いていた。波を乗り越えるたびに船は急な角度になってまるで床が壁のように立ちはだかり、逆に波を下るときには体がちょっとした浮遊感に見舞われ、少しでも体から力を抜いたら船首の壁に激突してそのまま海に放り出されてしまう気がした。高波は何度も甲板を超えて、大量の水が甲板に流れ込み、そのたびに足をとられそうになる。強風にあおられて帆はバタバタと大きく揺れている。
「急がないと船檣が折れるぞ!」船長は見晴らしのいい船橋で舵を握りながら四方八方に的確な指示を飛ばしていた。それから甲板に張られたロープをぎゅっと握って立ち尽くすシャルロッテを呼びつけた。「シャルロッテ! 来い! こっちだ!」
 シャルロッテは欄干の細い柵を必死につかんでデッキにつながる階段をのぼった。力を込めすぎて両手が震える。まるで川のように階段の上部から絶えず水が流れてくるせいで床の摩擦力はほとんどなくなって一歩足を踏み出すたびに靴が滑って何度も体勢を崩した。
 ようやく階段を登りきって一段高い部分から船全体を見渡すとより一層の恐怖がシャルロッテの体を襲った。甲板を走り回って帆を固定するロープをほどいてまわっている男たちは何度も高波を頭から被っていつかはそのまま波にさらわれてしまいそうだ。シャルロッテのそんな恐怖が伝わったようでロウ船長はこの場には場違いなほどに高らかに笑った。
「楽しんでるか? お嬢さん」これほど上機嫌な船長は見たことがない。目には生き生きとした生気が宿り口元に挑みかかるような笑みを浮かべている。「震えるほど怖いなら中にいればいいだろう」
「いいえ――この船と一緒に沈む覚悟はできてます。わたしだってこの船の一員です」
「いい度胸だ」船長は笑った。「窓は全部閉めたか? よし――なら次の仕事だ。ロープはほどけるな? ――いいだろう。それならさっさとそれをほどいて下に投げ渡せ」
 ロウ船長はデッキの後方につながれたロープを顎で指し示した。そのロープはこの船で一番大きな帆の左下につながっていた。シャルロッテはすぐに首を縦に振って作業に取りかかった。
 ロープは特殊で頑丈な結び方をされていたが、結ぶのとは違ってほどくだけなら何の知識も必要としなかった。むしろほどくだけなら刺繍用の糸の方がよっぽど難しいくらいだ。きつく結ばれた箇所には細い指をねじ込んで力ずくで縄をほどき、そのせいでヤスリのようにガサガサした麻縄が爪に引っかかりわずかに痛みを感じた。作業中にも何度も高波が全身に押し寄せ、そのたびに濡れた髪が顔に張り付いてうっとうしい。
 ついに複雑に絡み合った縄をほどき終えるとシャルロッテは重たい縄を胸の前で乱雑に抱えて上甲板につながる階段まで駆けた。
「おまえ――」階段の下にいたアンドレは、シャルロッテが縄を持っていることに気がついた瞬間、階段を隔てても分かるくらい不満げな顔をした。その瞬間、シャルロッテの脳内で彼の手厳しい言葉の数々が山のように再生された。いつだってアンドレはシャルロッテが――というより女が――嫌いで憎くてたまらず、船の業務に手を出そうものならカンカンになる。船長に仲間になりたいと切り出したあの日も、よかれと思ってロープをたぐったのを思い出した。それからどれほど厳しい言葉を浴びせられたのかも。全身が緊張でピリッと固くなり、たじろいでシャルロッテは目をそらした。
 しかし今ばかりは彼もほんの少しだけシャルロッテに心を許していた。
「いいからさっさと寄(よ)越(こ)せ! こんなに忙しいってのに細かいこと言ったって仕方がねぇだろ! なんつったって助かることには変わりねぇんだ」その言葉は半分は自分に言い聞かせているかのようだった。それにどうやらその暗示が効いたようで、シャルロッテが慌てて縄を投げ渡すと次の瞬間には今までの不満なんて頭の中から消え失せていた。アンドレはロープの束を受け取り叫んだ。「もう一本の方も頼む!」
 ようやく二本目の縄をほどき終え、それを甲板の男たちに投げ渡したその瞬間、突如として視界が白く点滅し、間髪をおかずに稲妻が船檣に降り注いだ。その衝撃はまるで自分が貫かれたかのようだった。次の瞬間には鼓膜を突き破るような爆発音が鳴り響き、シャルロッテはその音を船長の腕の中で聞いた。いつの間にかシャルロッテはロウ船長に抱き寄せられていた。彼はこの正気を失うような落雷の後でも船員たちの安否を――とりわけシャルロッテを――気にかけていた。ここに呼びつけたのだって自分の手が届く範囲なら絶対に死なせない確信があったからだ。だけど、シャルロッテ本人はそんなこと気がつきようもなかった。
 あまりにも巨大な音はか弱い小娘から思考力を奪うには十分過ぎた。シャルロッテは命綱となるロープも手すりも手放して反射的に両耳を塞(ふさ)ぎながら呆然として硬直した。それはこの嵐の中では命を投げ出すに等しい行為だ。もし船長のたくましい腕が届かなければ次の瞬間にはバランスを崩して海に放り出されたっておかしくなかった。しかし当面の間はそんなこと考える余裕もなくて、シャルロッテはいつの間にかそこにあった船長の左胸に頬を押しつけながら小動物のように小さく震えた。胸のぬくもりにどれほど安心したかは計り知れない。
 ようやく両足に力が入るようになっても眼球を少し動かすたびに稲妻の残影がついてまわった。それに爆音を間近で聞いた耳はおかしくなってしまったみたいで、船乗りたちの怒声も荒れ狂う波の音も甲板に全身に絶えず打ち付ける雨の音も何もかもが静寂の中にある。耳の奥では高い耳鳴りが絶え間なく響き、鋭い痛みすら感じるような気がする。
 船長は片手でシャルロッテのことを抱きながらも船乗りたちに声を張り上げ、そのたびに胸の辺りが鈍く振動した。船員だってシャルロッテと同じように自分の声すらも聞こえていないはずだが、大きな声をあげて己をそして仲間を鼓舞して、その熱気はシャルロッテにもたしかに伝わり、シャルロッテは自然と船長を見上げた。
 彼はこれっぽっちもおじけづくことなく――むしろ挑発的な瞳で船首の先を臨んでいた。先ほどの落雷で主檣は根元から半分に割れて断面がすっかり焼けて焦げ付いているというのに、彼の態度にはそんなことこれっぽっちも感じさせない豪胆さがあった。きっとこの様子ならどんな泥船を操作していたって様になるに違いない。
 ロウ船長はシャルロッテが見つめていることに気がつくと視線を下げ、それから明確にシャルロッテを見つめながら何か短い文章を三つほど発した。彼のたくましい胸は口の動きとリンクして優しく振動する。
「なに? 聞こえないわ」彼の言葉が聞こえないように自分の言葉だって届くわけがないとわかりきっていたけれど言わずにはいられなかった。いったいそんな穏やかな、それでいて危険な表情で誰に向けて何をささやいたのかどうしても知りたくてたまらなかったから――もしもシャルロッテの男性経験が豊富だったなら、その表情や仕草から口説かれているとわかったのかもしれない。けれども本能で何かを感じ取って心臓が急に飛び跳ねた。
 船長はシャルロッテの胸中なんてまるで知ったことではなく、相づちもなしにそのままいくつかの文章を身勝手にささやいた。もしかすればその文章の中に何か重要な問いかけがあったのかもしれない。それかもしかすれば事故のような気まぐれかもしれない。真意はいつまでたっても分からないままだ。だがなんであれシャルロッテはそのたった三秒ほどの出来事を生涯忘れることはないだろう。
 船長はシャルロッテの顔に張り付く濡れた髪をかきあげ、さらけ出された唇にキスを落とした。

 気がつけば雨も雷も鳴り止み、漆黒の雲もどこかに消えていた。空には雲一つなく、東の空は徐々に明らみ始めてまた新たな一日が始まろうとしている。嵐は去ったのだ。波だけはまだ多少荒れていたがじきにいつもの姿を取り戻すことだろう。甲板にはまだ水がわずかに残っていてそれが船の揺れに合わせてゆっくりと揺れていた。船員たちはすべての力を出し切ったとばかりに甲板に座り込んだり力なく寝転んでいたりする。
 次第に太陽が海から顔をだすと、シャルロッテはその輝きにすっかり魅入られて疲れ切った両足のこともすっかり忘れて船の端に手をかけた。太陽の暖かい光は目に染みるようで、海から見る日の出は神々しいほどに美しかった。赤い光は海の上にキラキラと反射して、暖かい光が行く先を照らしている。空は見事なオレンジ色に染まり、そこから紫色のグラデーションになってまるで見事な絵画を眺めているようだ。
「きれい……」気がつけば隣には船長が立っていた。朝日に照らされて赤みを帯びる横顔を見つめるとシャルロッテはなんだか妙に意識してしまって頬をわずかに赤く染めた。ありがたいことに船長はじっと海の先を見つめるだけでシャルロッテのことなんて歯牙にもかけていないらしい。
 それからシャルロッテはふと船長のこういう姿を見るのはこれが初めてではないような気がして長い旅路の記憶をゆっくりとさかのぼった。たしかこの船に初めて乗り込んだときのことだった。イポリート副船長に引っ張られて足をもつれさせながら甲板を歩いていたときも、たしか船長はここに立って東の空を見つめていたはずだ。あの日もこの日の出を見ていたのだろうか?
 問いかけようとしたそのとき、船首の方から船員の疲れをしらない大声が聞こえてきた。
「おい、おまえら見ろよ! 陸だ!」

第十二章 一話

 大陸はたしかに見失いようのない大きさで、徐々にその輪郭が鮮明になるにつれて胸の中に抑えきれない冒険心が渦巻いた。シャルロッテは船が港にたどり着くまでの一時間弱、絶えず甲板から見える大陸の形を目に焼き付けた。実に二ヶ月ぶりに見る陸は色であふれていて目がチカチカした。海岸線には白いギリシャ風の建物がずらりと並び、煉(れん)瓦(が)づくりの街道は貴族の馬車が行き交い活気に満ちあふれ、中には桃色や黄色の小さなパラソルに原色のドレスとボンネットを身にまとい、散歩道からこちらを見つめる貴族の姿もみえた。港には赤や青の布を木に貼り付け天井にして日陰をつくる物売りたちの威勢のいい声が響き――きっと世界中どこの港でもそうなのだろう――気だるげな娼婦が樽に座り込んで扇子をパタパタと気ままに仰いでいる。
 シャルロッテは船の上から喜々としてその光景を見つめて、これほどたくさんの人間が生きていることにちょっとした衝撃すら覚えた。船に乗る前まではもちろんそんなこと思いもしなかった。
 ついに船が入港すると男たちは慣れた手つきで船を船着き場に留めて我先にと地上に降り立った。シャルロッテはあの部屋に置いたままにしていた荷物をとるために甲板を下り、それからすぐに異変に気がついた。シャルロッテが使っていた部屋――つまりデリックが長らく寝ていた部屋――のドアは半開きになってすでに彼の姿はなかった。
「デリックは?」シャルロッテは近くにいた船員に問いかけた。マルセルはその名前なんて二度と聞きたくないという風に軽く頭を振った。
「あいつならとっくの昔に逃げてったぜ。あれほど固執してたっていうのに分け前ももらわずにな! まぁ、あの体で大金を持ってたって盗んでくださいと言ってるようなもんだ。それに命があるだけ儲けもんだろ?」
 シャルロッテは不安になって眉を下げた。「あの怪我で大丈夫かしら?」
「海の上じゃないんだ。そう簡単に死んでたまるかよ」
 お別れも言えないのは残念な気がしたけれど、そう言われるとシャルロッテは納得して素直にデリックの旅の行く末を神に祈ることにした。
小さなスーツケースを抱えて、船を下りるとなんだか変な感じだった。波もないのに足元がぐらぐらと揺れ動いているような気がする。それに知らない港に見知らぬ人々、まるで自分がどこか別の世界にやってきたかのようだ。それなのに潮風の香りだけはフランスの港と何一つ変わらない。シャルロッテはその奇妙な感覚に圧倒されてしばらく桟橋から動けなかった。そのとき、ロウ船長が船から下りてきた。
「まともな職にありつきたいならその格好はどうにかするべきだな。この辺の連中も例に漏れず噂好きだ」言われてシャルロッテはハッとした。布地はすっかり包帯や修繕にあててしまってドレスは足首を隠すどころか少し動けば膝の下で止めたソックスの留め具までが露出してしまうほどの短さだったのだ。改めて指摘されるとシャルロッテは顔を真っ赤にして今すぐどこかに逃げ出してしまい気持ちに駆られた。
 船長は喉の奥で楽しそうに笑ってシャルロッテの肩に自分の上着をかけた。厚い布地のしっかりとした上着で、袖や襟には金の豪華な刺繍が施されている。男物な上、船長が大柄なのもあって上着を肩に羽織ると足はすっかり隠され、裾はどうにか地面にすりびかないギリギリだった。
「……ありがとうございます。船長」
 船長は煙草に火をつけて港に集まった人たちを眺めた。風に乗って漂う煙は上着と同じ匂いがした。
 港は船上で確認した以上の人出があった。船が寄港するまでの間に噂が炎のように広まり、人が人を呼ぶ事態になっているのだ。どうやらそのうちのほとんどはロウ船長に用があるらしくて、先に降りた水夫たちには目もくれず波止場の入り口でじっとその人のことを待っていた。若い女たちは船乗りが危険だということはわかっていたけれど、一目くらいみたって罰は当たらないだろうと、わざわざ波止場の近くに移動して世間話をしている体でチラチラと隠しきれない視線を送っている。それから茶色の柔らかな帽子を被った商人たちは何かいい条件で取引できないかとそわそわして、成金たちは着慣れないドレスやシャツに肩肘張りながらとりあえず名前を売っておこうと目をギラギラさせていた。
 船乗りたちは堂々と肩で風を切って群衆の中を進んだ。
「おい、シャルロッテ! 早く来ねぇと置いていくぞ! それともてめぇもあのいけ好かねぇイギリス野郎みたいにさっさと逃げ出すか?」
 シャルロッテは身をかがめながら男たちを追いかけた。こんな船から女が下りてきたとあらば、間違いなくスキャンダルになると思ったのだ。しかし、ありがたいことに群衆は港のスターに夢中で小娘なんか見向きもしなかった。
「船長はどうするの?」群衆を抜けて、シャルロッテは後ろを振り返りながら問いかけた。こうして離れて賑わい観察すると、ミスター・パリアンテに連れられロウ船長を遠巻きに見ていたあの日を思い出した。あの日に劣らず船長の周りには人が集まり、当の本人は一見して極めて丁寧な顔をして対応している。だがしばらく一緒に過ごしたおかげでその表情の皮一枚下に隠された退屈と嘲(あざけ)りの色にすぐ気がついた。
 じっと船長を見つめているとマルセルが茶化した。「少し前まではデリックの尻を追いかけ回してたのに、いなくなった瞬間、今度は船長か?」
「デリックとはそういう関係じゃないわ」シャルロッテはむっとして唇をとがらせた。男たちはその反応がお気に召したみたいで喉の奥で笑った。
「そう心配しなくたって船長はそのうち合流するぜ。船長が成金の馬鹿どもをあしらっている間に俺たちはたんと酒を飲んでうまい飯を食って馬鹿騒ぎするってわけだ! もちろん船長の金でな! 見たところ、今日は相当時間がかかりそうだ。泣くなら胸でも貸してやろうか?」
「失礼ね。寂しくて泣いたりしないわ」
 大勢の人が船長に視線を向ける中、ただ一人、初老の男だけがシャルロッテに目を向けていた。男はしっかりと手入れされた毛並みのいい馬にまたがり、下品なほど羽振りの良さそうな服を身につけ、ジッとシャルロッテをじっと見つめた。その瞳には貪欲な向上心とある種の賢さが混在している。
 しばらく彼女を見つめて男は独りごちた。「決めたぞ! あの女だ!」

第十二章 二話

 船乗りたちは港の大通りをまっすぐと南下した。通りには歴史のありそうな古びた酒場や食事処が建ち並び、店のかすれた看板の下には華美な格好をした女たちが座り込んでいる。彼女たちは道を行き交う馬車や人に手首だけでゆっくり手を振って客を探しているようだった。遠くにいてもきつい香水の臭いが鼻につく。
 それからいくつかの店を通り過ぎ、男たちは赤い外装の前で立ち止まった。といっても最後にペンキを塗り直したのは半世紀も前のことで、至るところでペンキが木の筋に沿ってはげて元の茶色がボーダー模様を描き出していた。同じく赤色で染められた看板には黒い文字で店名が書いてあったようだが、すでにかすれて文字の交点しか色が残っていなかった。先に船を降りた男たちはすでに酒盛りを始めているらしく、扉の中から見知った男たちの騒がしい声が聞こえてくる。
 それからシャルロッテと乗組員は存分に宴を満喫した。船長が合流する前からとんでもない賑わいだったのに、船長が一座に加わると宴はますます盛大になった。机の上に乗り切らないほどの豪勢な料理を並べ飲めや歌えやの大騒ぎだ。
 テーブルの上には鶏の丸焼きやポタージュが置かれ、何よりもシャルロッテが感動したのはそのどれもが調理したてで真っ白な湯気が立ち上り、柔らかくてどれだけ噛んでも顎が痛くならないというところだ。山のように盛られたパンだって船の上で食べていたような水分のないカチカチの代物ではなかったし、二ヶ月ぶりに飲むアルコール分のない液体は体の隅々まで染み渡った。どれだけ飲んでも喉が焼かれることはないし、頭が割れるように痛くなることもない。なんて素晴らしいことだろう! 船乗りたちはこぞってラム酒を飲んでいたけれど、シャルロッテからすれば信じられない話だった。たしかに何か物足りない気もするけれど、わざわざ忙しくテーブルと厨房を駆け回る店主を大声で呼びつけてまで欲しいものでもない。
 男たちは明日のことなんてすっかり忘れて勢いに任せて酒をあおった。まさか船でたびたび目撃した姿がまだ自制が効いていた方だなんて思いもしなかった。陸に降り立ち自らを縛り付ける掟がなくなると酒が入った男たちはすぐに熱くなってあちこちで取っ組み合いの喧嘩が起こった。しかし大抵はどちらも千鳥足で殴りつけた拳も空を切るだけだ。それを肴に観戦者はゲラゲラと笑って男たちをあおった。
「おい! バジル! もっとよく狙え! もっと右だ! 俺はおまえにかけてるんだからな!」
「シャルロッテ! おまえも賭けろよ。まだリベンジが済んでねぇからな」
「そりゃ一生かかったって無理な話だ!」どこかからそんな声が上がったのを皮切りにまた新たな幕が切って落とされようとしていた。
「どっちがどっち?」シャルロッテは机の上をのぞき込んで質問した。机の上には二つに分かれた金貨の山があった。金貨の枚数を見る限り人気はかなり拮抗しているみたいだ。「セリオに賭けるわ」
 普段なら野蛮な殴り合いを好かないシャルロッテも今日だけは特別だった。何しろ二人ともこれほどフラフラなのだから、拳が当たったところで血が流れるはずもない。きっとどちらかが床に大の字になって大いびきをかきはじめて決着がつくに決まってる。だとすればなんて安全な決闘だろう! シャルロッテはしばらくそのテーブルに留まり結末を見届けた。二人はほとんど同じタイミングで床に横になったがコンマの差でセリオの勝利だった。
 それからシャルロッテはさも酒場に活気がありすぎて声が聞き取れないからという体でマルセルの正面に腰を下ろした。マルセルは声を張り上げ、上機嫌で誇張した武勇伝を語っていた。だけどそんなことはどうでもよかった。申し訳ないけれど話にはまったく興味がなかったし、シャルロッテはマルセルの正面に座りたかったわけではなくて、ただ船長の隣に座りたかっただけなのだ。自分的にはかなりさりげなくできたと思ったけれど、はたから見たらあまりにもあからさまだった。
 シャルロッテはマルセルの話に聞き入るふりをしながら横目で船長の様子をうかがった。別れる前にどうしても聞いておきたいことがあった。つまり――あの落雷のあと何を囁いたのか、それから口づけの真意も――シャルロッテは思い出して頬を赤く染めた。意識しなくても唇が小刻みに震えて背筋がぞくりとする。でもいったい何をどうやって質問すればいいのだろうか。口にしようとすればするほど、唇は貝のように閉じてどうしようもなかった。それにわたしはどんな言葉を望んでいるのだろう?
 ロウ船長はシャルロッテの視線に気がついて黒い瞳を向けた。それからわずかに目を細め、彼女の口元に葉巻を持っていった。シャルロッテは少しためらったけれど船長の勧めを断るなんてできるわけがなかった。彼女はたどたどしく両手の指先で葉巻を支え、恐る恐る口にして煙を吸い込んだ途端に激しくむせこんだ。船長はそれを見ながら楽しそうに笑った。
「ゆっくり吸い込むんだ」
 何度かそうしているとクラクラしてきて、シャルロッテは船長の肩に体を預けた。葉巻のおかげで喉がボロボロになって疲れ果て、何を聞こうと思ったのかすら忘れてしまった。だけどそれでいいような気がした。体を支えてくれる肩はたくましく心地よい匂いがした。潮と煙と男の匂いだ。見上げる横顔は彫りが深くて彫刻よりも美しく整っていて、耳に届く低音が胸の中で波紋のように広がる。黒い瞳は自分ではないどこか遠くに向けられている。でも、そんなことどうでもよかった。シャルロッテはこの心地よい時間が永遠に続くように願った。
 そのとき店主が船長に話しかけた。恐る恐るという言葉がこれほど似合う喋り方もなかった。両手を体の左右で固く握りしめ聞き取れないほど言葉尻が小さい。
「お楽しみのところ申し訳ございません……。外にぜひとも話がしたいという方がいらしていまして……」
「誰だ?」
「それがおそらく……お連れさまに……」
「わたしに?」
 店の外には港でシャルロッテを凝視していた初老の男が立っていた。

第十三章 一話

 エーヴ・パリアンテから送られた長い手紙を読み終えるとシャルロッテは時計に目をやって食事会にはまだしばらく時間があることを確認して庭に向かった。庭は海に面している割にかなりうまくやっている方で庭師の努力があちこちにみてとれる。芝生は緑と黄色の中間色で生き生きというには及ばないが一面を覆い尽くしている。花壇には暖色の大きな花弁をもつ花がまばらに植えられている。昔から畑いじりが好きだったシャルロッテはすぐに庭師の苦悩を察した。本当ならば視界を遮るように防風林を置いて、その内側で花壇にあふれんばかりの花を育てたいだろうに、けれどもそれはこの屋敷の主人の言いつけによって禁止されていた。そこで庭師は苦肉の策として、大ぶりの花をまばらに散らすことにしたのだろう。たしかに花の数は少なかったが一輪一輪が見事なことや背景の海とコントラストが効いていることもあって決して寂しいとは思わせない工夫がされていた。
 シャルロッテは庭と海を仕切る白いフェンスの上に両手を重ねた。目の前にはどこまでも続く穏やかな海が広がっている。
 エーヴ・パリアンテから久しぶりに届いた手紙は同じことの繰り返しで、その九割が愚痴で埋め尽くされていた。残りの一割はわずかながらの祝福だ。もっともそのわずかながらの祝福も手紙の構成のせいで追伸まで読むころにはすっかり頭からなくなってしまうのだが。
 手紙はこう始まっている。

 シャルロッテ・ビリーへ
 あなたが新天地で家庭教師をしているとお父さまから聞いたときには驚きのあまり声も出ませんでした。わたしもできることなら貴族の責務を放り出してあなたの後に続きたいくらいです――というのも王室の舞踏会に招待されたものだからマナーとかお作法とかをたたき直されてるの。挨拶の手首の角度まで指定されるものだからもううんざりよ。だけどこれも名誉だと思ってじっと耐え忍びます。
 それにしてもいったいどういう経緯で雇用されたの? 見ず知らずの後ろ盾もないような娘を雇うくらいだからきっと人道に厚くてほどよくいい加減な方なのだろうと勝手に想像しているけれど……とにかく人並みの扱いを受けていることを願っています。
 こうしてお手紙を書く気になったのは、世界を揺るがすような衝撃的な事件が起こってわたしは(それからわたしのお友だちも)それがあなたのせいだと確信しているからです。きっとあなたは否定するでしょうけど、そうじゃなかったらどうしてあの心優しい忠君の紳士であるはずのロウ船長がわたしたちを見捨ててイギリス軍に下るいうの? それも今や敵艦を指揮する立場にあるだなんて信じられないわ! 今まで仲間だった人たちに対して情け容赦もなく攻撃できると思う? 少なくともわたしは信じられなかったわ。でも実際に被害にあったっていう人が山のようにいるのよ。悲しいことにね。
 それにそのせいできれいな宝飾品もまるっきり届かなくなったし、港は戦いに敗れたみたいに静まりかえって本当に張り合いがないの。
 大切なものはなくなってから気付くってよくいうけれど、本当にその通りよ。ロウ船長がどれほどの人格者だったか今なら深く分かるわ。言ったら悪いけど、ロウ船長以外の船長たちは国民の風上にも置けないようなクズばかりよ。小さな頭には自分の利益のことしかなくて、英国船からは尻尾を巻いて逃げちゃうし、ひどいときだと自国の船同士で略奪してたりするんだから。それに時々商品が手に入ったとしても自分の隠し倉庫にしまって値段を不当につり上げようとするのよ!
 リアーヌお姉さまは一日中部屋に閉じこもって亡霊みたいにメソメソと泣くばかりでわたしまで気がおかしくなりそう――絶対に秘密にしてほしいんだけど、いくら悲しいからってご飯のときまで持ち出すのはやめてほしいものよね。妹の勤めだと思ってなぐさめはするけれど、おかげで毎食冷め切ったご飯を食べる羽目になるんだから。それからお父さまも最近は機嫌が悪いのよ。もちろんロウ船長にもカンカンだし、それを聞いてまたリアーヌが泣くの。でもお父さまはリアーヌが泣くのを許そうとしないし、あまりに娘が心を痛めてるからってお母さままでもが病みはじめて――とにかく港だけじゃなくて家の中まで険悪な雰囲気です。
 話し相手もいないからわたしはずっと考えていたのだけれど、本当にどうしてこんなことになったんでしょうね?
 きっとわたしはアメリカ行きの船上で互いによくない影響を与えた結果だと予想しています。他の人の予想はもっと直接的であなたがロウ船長をかどわかしただとかアメリカで魔女に魂を売って彼を操っているだとか――これはアナベル夫人の見解です。わたしはそこまでは思っていないわ。本当よ。だからたとえ真実だとしても呪わないでね――とにかくわたしは真実が知りたいのよ。もし機会があればロウ船長にどうか戻ってきてくださいとお伝えください。港がロウ船長のことを切望しているってことも。中には怒り狂って捕らえ次第処刑しろだなんて言う人もいるけれど、海の上だって陸の上だってロウ船長を捕らえられる人なんていると思う?

 手紙はこの調子で延々と続き、最終的には便せん四枚にも及んだ。その枚数の割に内容は薄く、要約してしまえばロウ船長が去ってしまってわたしが不利益を被っているのは巡り巡って全部あなたのせい。という文面だった。旧友からの手厳しい手紙を読んだところでありがたいと思えどこれっぽっちも辛い気持ちにはならなかった。きっとエーヴがこのことを知ったならさぞ落胆することだろう。
 船長が英国軍に入ったというのは本人の口から聞いていた。それも三ヶ月前に。手紙が届くまでの日数を考えてもフランスの港より自分の方がその事実を早く知っていたことにシャルロッテは機嫌を良くした。それにシャルロッテはエーヴが知らないような裏事情も知っていた。
 ロウ船長からその事実を聞かされたときには驚きのあまり声もでなかった。
「どのみちじきに戦争も終わりだ。そろそろ戦勝国についた方がいい頃合いだろう。それに向こうの美しい女王陛下は寛大にも恩赦までだすと言ったんだ」
「そ、それじゃあ今は船には乗ってないんですか?」
「いいや」船長の話によれば、当初用意されたポストは船の下働きだったらしい。イギリス政府もロウ船長の実力は高く買っていたが、裏切りの可能性も考えてのことだった。それに今まで散々自分たちを困らせてきた男を顎で使ってやろうという魂胆もあったのだろう。
 船長が下働きだなんて想像もつかなくてシャルロッテは目を丸くした。これほど命令されるのを嫌いそうな人も他にいないというのに。軍艦の船長に〝サー〟とか〝キャプテン〟とか言っているのはなおさら想像ができなかった。
 しかし彼らの企みはうまくいかなかったのだ。ロウ船長の噂はもちろん英国にも広まっていて知らない者なんて誰もいなかった。そうなると水夫たちは上官の命令よりもロウ船長の判断をしきりに聞きたがり、上官が何か指示をだす度にロウ船長に伺いをたて、彼が苦言でも呈そうものなら誰もが業務を放棄して水夫たちはほとんど使い物にならなくなった。
 そこで扱いに困った将校たちは〝名誉船長〟とかいうよく分からない肩書きを授け、船長補佐という立ち位置に彼を置いた。だが今や船の指揮権はほとんどロウ船長が握っているのと同じらしい。
 つまり船長は今でも船長というわけだ。その事実にシャルロッテは無性にホッとした。
 一方のシャルロッテはこの地で住み込みの家庭教師として日々を過ごしていた。雇い主は初めて港にやってきたあの日、船長を待ち構えていた新進気鋭の新貴族だ。貿易商を営んでいてかなりやり手であることは間違いなかった。人と商品を見る目に長け、ますます成り上がってやろうという意気込みがある。その姿はほんの少しだけ父に似ていた。
 あの日はちょうど貴族の娘につけるような家庭教師を探していたところだった。シャルロッテを高く買っているのは主人だけで、家柄のいい妻とその使用人は年老いたベテランの家庭教師を推したが最終的には娘の意見が尊重された。
「わたし、この方がいいわ」
 そのときはどうしてわたしが? という気持ちでいっぱいだったシャルロッテもあとから本心を聞けば納得せざるを得なかった。
「ああ、本当によかった! わたし、あのおばさんだけは絶対に嫌だったのよね。だってあの人ったら時代錯誤もいいところ! この間お話したときだって膝の上に愛用の鞭を置いてね――信じられる? あんな凶器がご愛用なんですって――それにビシバシ指導するとかね。あれは比喩とかじゃなくて文字通りビシバシってことよ。一日に百発はお見舞いしないと満足できないって感じのお顔だったもの。それに比べてロッティは優しいしわたしの目に狂いはなかったってわけ」父親に似て目利きの鋭い娘だった。それにシャルロッテから見てもチャーミングで愛らしい教え子だ。
 あれからというもの、船長は半年から一年に一度のペースでシャルロッテの元を訪れている――と、いうと上出来な気がするが用があったのはこの家の主人でシャルロッテはそのおまけにすぎない。船を降りてなお繋がりが残っていて嬉しいと思う反面、いずれ存在すらも忘れて思い出だけの存在になってしまうことはなんとなく分かっていた。彼はどこまでも海の人で、わたしは陸を選んだのだ。それでも未練がましく港町で船長が忘れずにいてくれることを願っている。
 前回の訪問で船長は父の遺品を届けてくれた。本人は「そのうち誰かが見つけただろう」と言っていたけれど、彼が気にかけて探し回ってくれたのは間違いなかった。金目の物はすべて奪われたあとで、手元に戻ってきたのはちょっとした服の切れ端と父が愛用していた手帳だけ。それがどれほど残酷で慰めになったかはあえて記す必要もないだろう。シャルロッテは一日中泣き続け、その間船長はずっとそばにいてくれた。だがこの屋敷の主のように「実の娘だと思っている」とか「家族同然だ」とかそういう暖かい言葉をかけてくれる訳でもなければ、気弱な妻のように一緒になって泣いてくれるわけではなかった。船長はたった一度、崩れ落ちて粉々になりそうなシャルロッテの体を力強く抱きしめ、それから彼女が泣き疲れて眠りにつくまでまんじりともせず、部屋の片隅で煙草をくゆらせながら窓際の椅子に座りじっと海を臨んでいた。そのおかげで、シャルロッテが眠りに落ちた頃には部屋は潮の香りと煙草の香りと大好きな人の香りでいっぱいになった。船長が帰った後でもその残り香は決して消えやしなかった。
「だけどさぞうんざりしたでしょうね――このお屋敷が嫌になってなければいいんだけど」シャルロッテは目の前に広がる広い海を見つめた。この庭は海に面した切り落としの崖のようになっていて、フェンスのところまでくると視界には一面の海しか映らなくなる。ここに立つといつだってシャルロッテはあの短い二ヶ月を鮮明に思い出すのだ。海はいつも同じ色をして水平線までひたすらに同じ光景が広がっている。
 まだほんの少女だったシャルロッテにとって、あの日々は忘れがたい思い出だったし、海の上で植え付けられた強烈な感情はどうしたって取り除けそうにない。
「けれどきっと影響を受けたのはわたしだけね」この手紙のように自分の存在が彼にとって力を持てたのならどれほどいいだろう。そんなことができるのなら魔女とだって契約したい。それかほんの少しでも勇気が湧いてこの気持ちを吐露できるのなら。もしくは別れの瞬間に「次はいつ会えるの?」と聞けるなら……。
 爽やかな潮風が頬をなでる。どうやらどこかの船が港に寄港したらしく、港の方から独特の賑わいが聞こえてきた。その喧騒を耳にするたびに、シャルロッテは目を閉じて想いを馳せ、潮風に問いかけるのだ。
「船長は今どこにいるのかしら? まだわたしのこと覚えているかしら?」彼はわたしの気持ちなんて何も知らないし、知っていたところでなにも気にしないだろう。だけどそれでいいのだ。
「どうかあの人の進む道に幸がありますように」
 きっとあの人は今日も海の上にいるのだから。一生伝えるつもりのないこの思いも口に出せない何もかもすべて潮風が伝えてくれることだろう。いつの日か、どこか遠くの港から気まぐれな風に乗って答えが届くことを祈って。

あとがき

 わたしは海が好きです。といっても実際の海ではなくて空想上の海が好きです。実際の海は意外と汚いことが多いですから。大抵はテトラポットの間に年代物のゴミがたまっていますし、砂浜にはグロテスクな海藻が張り付いています。何よりフナムシが苦手すぎて埠頭には近づけません。出不精で海で泳ぎたくもないですし、そもそも太陽が嫌いです。青い空、白い雲、反対。
 一方で空想上の海ほど気ままで美しくて魅力的な場所は他にありません。もちろん、人によって想像する姿はまちまちでしょうけれど、それでも海がいいようもなくロマンチックで心をくすぐられるという点は海がありきたりなモチーフであることを考えれば納得していただけると思います。なんかいいと思うから描くのです。
 さて、それなら海のどこに惹かれるのでしょうか? それは間違いなく海の広さとか気ままな性質とかでしょう。もし仮に海がコップ一杯ほどの深さと面積しかなければ誰だって見向きもしないはずです。もしくは貴重で限りある水を守ろうとするかもしれません。では海がいつも穏やかで人間に優しくて波の一つもないようだったら? それこそただの大きな水たまりです。
 海にどうしようもなく心惹かれるのは、人間ひとりではにもできないほどに巨大で気ままで人知を超えた存在だからだとわたしは思います。もしも海底まで見通せるのなら海の持つロマンは半減どころか九割減です。
 そういう意味でわたしは海と人生はよく似ていると思います。これまたありきたりなたとえ話ですが、人生には浮き沈みがあってだからこそ楽しいのです。古の船長たちの教えに従い舵をとるもよし。時々には先人の灯台が見つかるでしょうし、疲れたらなすがままに波に流されてみるのもまた一興です。きっとどこかの浜辺には行き着きますよ。それがアメリカかフランスか、はたまたイギリスかは分かりませんけれど。
 きっとシャルロッテが降り立った港も決して綺麗なものではなかったのでしょう。だけど不思議なもので、同じ物でも色眼鏡を外したり付け替えたり、気の持ちようによっては光り輝く宝石のようにみえるものです。少なくとも今のシャルロッテは海も港も案外悪くないと思っているに違いありません。

 このたびはこの本をお手にとっていただきありがとうございました。
 読者のみなさまの心に、ほんの少しでも影響を与えられたのならそれほどうれしいこともありません。わたしもシャルロッテと共に潮風に乗って返事が届くことを待つことにします。

絹地 蚕