薬にも似た毒
「チャーリー、あー……ちょっといいか? 頼みがあるんだが……」
チャーリーは思わず桃色のペンを落とした。ペンが落ちた先は制作途中の張り紙の上だった。彼女の優しさを象徴するようなハートフルなイラストのまわりには細かい文字でホテルのアピールポイントがずらっと並べられている。――この試みは通算四十四回目になるが、今回も実入りはなさそうだ。とハスクは心の中でつぶやいた。何しろ、罪人のほとんどはヤク中かアル中なのでこんな細かい字が読めるわけがない。俺が保証する。
実際、一文くらい読んでみるかと思い立ち目を細めてみるもインクだまりと細い線が虫のようにうごめいてみえるだけだった。
「ハスク……!」
チャーリーは大げさに息を飲んだ。
ハスクを見つめる瞳には星が浮かび、キラキラと光り輝いている。
それもそのはず。普段はバーテンダーとして粛々と働く彼がチャーリーに頼み事をするなんてかなり珍しい。そしてそうでなくとも、チャーリーは自分の手の届く範囲ならすべて助けたいと思う心の持ち主だった。
「もちろん! 任せてちょうだい、私にできることなら喜んで協力するわ!」
「また新しい酒を入れたいっていうならあたしは絶対反対だからね」と、すかさずヴァギーが釘を刺す。彼女の手には家計簿のようなものが握られていた。それを鼻先に押し付けて、ヴァギーはハッキリとした口調で問い詰める。
「ホテルの維持費よりも酒代の方が高いってどういうこと?」
「そんな飲んだか? まぁ、そうだな……酒飲みが大勢泊まってるんだろ、このホテルには」
「主にハスクとエンジェルね。とにかく! 新しい酒はしばらくなし!」
元から鋭い眼光がいつにも増して鋭く研ぎ澄まされ、もはや取り付く島もない。ついでにそれも頼もうと思っていたハスクは企みを見透かされ、誤魔化すように酒瓶を傾けた。
「まぁ、それもあったんだが……」
「じゃあ諦めて」
「ヴァギー? でも……」
「チャーリー、甘やかさないで。たしかにお酒は必要かもしれないけど、中毒患者が増えるのは本望じゃないでしょ」
「それはそうだけど……とりあえず話を聞きましょうよ」
チャーリーにたしなめられ、ヴァギーは腕を組んで椅子に深く座り直した。本人的にはまったく納得はしていないが、優しい恋人の手前、これ以上話の腰を折るのもはばかられた。
ヴァギーのまるで協力的じゃない視線にハスクは若干の言いづらさを覚えながらも口を開いた。
「しばらくホテルを空けたい」
「ど、どうして? 何か気に入らないことがあった?」
ホテルの主は不安そうに眉を下げる。すかさず隣の恋人の目つきが険しくなったのを機敏に感じ取って、ハスクは「そういうわけじゃないんだが――」と、慌てて事情を説明した。
「実は次の満月から三日間、酒の品評会をかねた催しがあってな。アラスターがいないときには勝手に行ってたんだが……今回はそういう訳にもいかないだろう? だから、どうにかアイツを言いくるめてほしい。俺が言ってもどうせ拒否されるだけだからな。おまえさんから言ってもらった方がまだ勝機がある」
「つまり酒じゃない。チャーリー、こんな酔っ払いの話聞かなくていいから」
「ねぇ、ヴァギー」
チャーリーはそっとヴァギーの手に触れた。
「たしかに決められたルールを守るのも大事だとは思うわ。だけど厳しく縛るだけが更生の道じゃないと思うの。それに、私、大切な友だちの頼みはできるだけ引き受けたいわ。ね? 何よりハスクが私を頼ってくれるなんて珍しいでしょ?」
「そう? 酒とギャンブルで金が必要なときはしょっちゅう頼りにされる気がするけど」
ヴァギーがどれだけ言おうとチャーリーの意志は固かった。こうなった以上テコでも意志を曲げないことをヴァギーはよく理解している。
「私も手伝うわ。でも私に任せっぱなしはだめ、一緒にお願いしに行くの! そんな顔しないで、きっと大丈夫よ。アラスターはああ見えて意外と優しいもの! この間だってそう! 人食いタウンまで私の話をずーっと文句も言わずに聞いてくれたし」
「それは……」
天下のラジオデーモンを差し置いて、口を挟む暇すら与えず一方的にまくしてたていたんだろう。と思った頃にはチャーリーはすでに廊下の奥に駆けだしていた。足音はすっかり遠ざかり、代わりに「アラスター!」と呼びまわる声が聞こえてくる。
酒の一杯も飲む間もなくチャーリーの元気いっぱいな声がハスクの名前を呼び、本人はため息にもならないうなり声をあげて酒をあおった。
「あたしは失敗すると思うけど。ま、頑張ってね」
やる気のない天使の加護に苦笑いをつくる。正直言ってヴァギーの言う通りだった。チャーリーを間に挟んだところで飼い主が外出を許すとも思えない。ハスクの体感では勝算はよくて十パーセントといったところだ――十パーセントもあれば容赦なくオールインするが――ともかく。一言目ではねのけられても驚きはしない。
だからといって勝負を下りる気もなかった。そもそもギャンブラーはいつだって人事を尽くして低確率を狙うものだ。何しろ奇跡はいつ起こるかわからない。そのためなら迷信めいたお守りも地獄のプリンセスの力も天使の加護もありがたく頂く。
久しぶりの大勝負に両手にじんわりと汗が滲む。ハート型の肉球をきつく握りしめると、じりじりと熱いものが体の内側から湧き上がり胃が震えた。分が悪ければ悪いほど熱くなるのもギャンブラーの性(サガ)だった。
「それでね、ハスクがあなたにお話があるんですって! さぁ、どうぞ!」
アラスターは背骨が針金でできているみたいに背筋をピンと伸ばしてマイクを足元に突き立てた。ホテル全体を揺らすような低い振動が体に響く。かわいらしく首をかしげているが、口角が裂けそうなほどの凶悪なスマイルと「言ってごらんなさい」みたいな顔のせいで全然キュートじゃない。
威圧感に気圧され何も言えずにいるとチャーリーがすかさず耳打ちした。
「お願いするときのコツはね、ちゃんと相手の目をみることよ。私はヴァギーにそうされると本当に幸せな気持ちになってなんでも叶えてあげたくなっちゃうの。さっ、やってみて!」
益のないアドバイスを受け取ったハスクは眉をピクピクと上下に動かした。
そりゃ、恋人同士だったらそうだろう。なんならこのお人好しなら誰の願いでも喜んで叶えるに違いない。
だが目の前にいるのは泣く子も黙るような恐ろしきラジオ・デーモンで、加えて言うならハスクは彼に魂までも握られているのだ。魂をビリビリに引き裂くだのなんだのと恐ろしい脅しをかけられたのは記憶に新しい。それを思い出すと体が張り付けられたような気がして喉がカラカラになった。ついでに手足も震える。くそ、ダメだ、酒が足りてない。
ウイスキーを逆さにして飲み干すもワンショットも入っていなかった。文句を口の中で潰して渋々口を開く。まさかその程度でアラスターがほだされるとも思えなかったが、一応プリンセスのアドバイスには従った。ギャンブラーはできることは全部するのだ。
「……三日ばかり休暇が欲しい」
「なぜ?」
事情を説明するとアラスターは手の中でマイクをぐるりと回した。
「つまりハスカー、あなたは自分の楽しみのために職務を投げ出すと?」
「帰りに何本か酒をくすねて――あー……いや……もらってこようと思ってる」
「ふむ……」
アラスターはしばらく考え込んだ。思いの外悪くない反応に期待が高まる。
「……まぁ、いいでしょう。好きにしなさい」
「アラスター! ありがとう!」
ハスクがリアクションするよりも早く、チャーリーが彼の首元に飛びついて感謝の言葉を伝えていた。
アラスターはビビッとノイズらしき音を発し、やんわりと彼女を引き剥がす。
「当然のことですよ。私は友人に優しい男ですから」
「……本当に優しい奴は魂まで奪わないだろう」
「奪う? 人聞きの悪い! 私は差し出されたから頂いただけです。大体、賭ける方も悪いと思いますがね〜?」
そう言われると返す言葉もない。
「でも、たった三日とはいえ会えないのは寂しいし……ということは……お別れ会の準備をしなきゃいけないわね! ヴァギー! ちょっと相談があるの!」
「そんなの必要ですかぁ? 用があればいつでも私が呼び出せますよ」
まったく同意見だ、と思ったが口には出さなかった。どのみちこうなったチャーリーは暴走機関車のようなものだ。それにここの連中が大のパーティー好きというのもわかっている。
あれこれ楽しげな妄想を繰り広げるチャーリーを遠巻きで眺めていると背後からブーツの音が響いた。
「何の騒ぎ?」エンジェルは色の違う両目を好奇心で大きくしながら問いかけた。その様子はまるでパーティーを楽しみにする子供みたいで、ハスクは自然と柔らかい表情を浮かべた。
「ポルノ・スターさまはずいぶん遅いお目覚めだな」
「ま、俺の仕事はお子ちゃまが寝てからが本番だからね」
エンジェルは茶化して笑った。いつだかの自分を偽るための息が詰まるような笑顔ではなくて、晴れた草原を思わせる笑顔だった。
「何? もしかして惚れちゃった?」
「今日も調子が良さそうで何よりだ」
「そりゃそうだ。俺はいつでも絶好調だよ。――黙って愚痴を聞いてくれるバーテンダーもいるしね」
「そりゃ大事にした方がいいな。酒でも差し入れてやったらどうだ?」
いつからだか、桃色の瞳には素直な感情が浮かぶようになった。ポルノスターの仮面の下は案外子供っぽくて、誰よりも純真だった。
きっと本人に言ったら否定するだろうが、魂だってそこまで堕落していないと思う。少なくとも今のようにただただ楽しそうにしている彼を見るとそう思わずにはいられない。
「仕事前に一杯飲んでくか? ちょうど開けようと思っていたんだ」
カウンターに置いていたクローズの立て札を退けて酒をつくりながら、先程までの一幕を説明する。エンジェルはひとしきり話を聞き終えると目を見開いて声をあげた。
「品評会!? そんなお上品な会が地獄にあるんだ」
「ああ、金持ちの道楽だ。趣味はそんなによくないがな」
「ふうん……ハスクもそういうのに参加するの? なんか意外かも」
エンジェルの言葉を耳にするなりハスクは黄色い瞳孔を半分ほど伏せて白い歯をニッと覗かせた。
「エンジェル」彼の白い手をひいてカウンターから身を乗り出す。喉の奥を響かせるような低い囁き声にエンジェルは挙動不審になって、捕まれていないもう一対の腕がカウンターの下であっちこっちに動いた。
「ちょ、ハスク!? なに!」
「まぁ聞けよ。おまえだけは特別だ。誰にもいうなよ。ここだけの話なんだが……実は品評会なんてのはただの建前だ。いや、もちろん品評はするにはするんだが……正直俺はそんなのどうだっていいし、誰も真面目にやってない。ただ、その品評会ってやつは主催の金持ちのボンボンが集めた年代物の酒が飲み放題なんだ。ついでに何本でも持ち帰り放題ときた」
「――つまり……」
エンジェルは近すぎる距離にまったく動かない頭を必死に回転させた。
「つまり、ただ酒目当てってことか」
「ま、そういうことだ」
「でもハスクっていいお酒なんてわかるの?」
「馬鹿言うなよ。ここのバーテンダーだぞ」
ハスクは酒瓶を垂直に傾けた。白い毛の下で喉仏が大きく動く。
「……まったくわからん。アルコールが入ってれば大体同じ味だ」
「だと思った!」
「だが、ここの連中の好みはわかってる。エンジェル、おまえは甘くて度数が高いやつ。プリンセスは軽くて飲みやすいやつ。ニフは……彼女の口を満足させられるだけの酒が置いてあるといいんだが」
「酒を増やすとヴァギーに怒られるよ」
「ああ、さっきも釘を刺されたところだ」
「今度やったら槍で突かれたりして」
「ハハッ、そりゃ勘弁願いたいな」
軽快なリズムで進む会話に終止符を打ったのはエンジェルの方だった。一拍の間の後に発された言葉には先程の掛け合いにはなかった真剣さが滲んでいた。
「それってさぁ、二泊三日? それとも三泊四日? いや、別に、どっちでもいいんだけどね! でも……ほら、外で飲むと高いし、変なヤツに絡まれるし。もし、ここが開いてるならこっちで飲みたいっていうか。その……」
グラスをくるくるとまわしながらボソボソと言葉をつむぐ姿は暗に不安で仕方がないと訴えているかのようだった。
「なんだ、寂しいのか? 意外にかわいいところもあるもんだ」
「別に! そういうわけじゃない。ただ……」桃色の瞳孔が暗く沈む。「仕事がある日は毎晩が辛い夜だし、そんな時に黙って話し相手になってくれるヤツはそういない。それから絶対俺の嫌なことはしないって心の底から信じられるヤツも……」
それが本心であることは簡単に分かったから茶化すようなことはしなかった。 エンジェルは口をつぐみ、今度は必死になって明るく続けた。
「……なんてね! まぁ、楽しんできてよ。俺のことは気にしなくていいからさ。たまの休みでしょ? 三日だか四日だか知らないけど、ここに来る前だって俺はなんだかんだ元気にやってたし、そのくらい――」
「エンジェル」
震える両手を包み込むように握りしめる。酒が入っているというのにエンジェルの指は氷のように冷たかった。
「たしかに酒は出せないが……話ならいくらでも聞ける。辛いことがあったら電話すればいいだろ」
「……ハスク、スマホなんて使えるの?」
「まぁ、たぶんな」
「……ただ酒する暇もないくらい愚痴っちゃうかも」
「望むところだ」
エンジェルは「そっか」と呟いて柔らかくはにかんだ。少し前なら間違いなくこんな表情は見せなかっただろう。出来ることならしばらくそれだけを肴に酒をあおりたいくらいの気持ちだが、穏やかな時間はそう長続きしなかった。
唐突にエンジェルの携帯が震え、画面を確認したエンジェルはあらかさまに顔をしかめた。携帯は絶え間なくメッセージを受信し続ける――もちろん相手はヴァレンティノからだ。ハスクはエンジェルの表情変化からそれを察して心底同情した。
「はぁ……ヴァルが呼んでる。ほんと、予定を変えるならもっと早く教えろって感じ。行ってくるよ。それと……ありがとね。ハスク」
ひらりと足を高く上げて椅子から降りたエンジェルは一転していたずらっぽい笑みを浮かべた。
「話の続きはまた今夜、ベッドの中で」
「ハッ、悪いが夜はコイツと先約があってな」
「ケチ!」
◇◆◇
ハスクのお別れ会(たった三日の小旅行なのにこんな盛大にやるのも冷静になれば変な話だ)はいつも通りの大賑わいの中で行われた。普段だと多忙でなかなか準備に参加できないエンジェルも、最近は比較的仕事が落ち着いていたのもあって得意の料理で大いに力を振るった。
メインの魚料理はもちろん完璧な出来だったし、天国にも届きそうなほど高く積み上げられた豪華三段ケーキはとぶように売れた。――正直、ブランデーを効かしすぎたような気がしなくもないけど。それを除けばうまくできた方だと思う。エンジェルはケーキを口に運びながら満足気な笑みを浮かべた。
「あっちに混じらなくていいのか?」
ハスクがグラスを拭きながら問いかける。
「今日はハスクが主役でしょ、ハスクこそ向こうに行ってきた方がいいんじゃないの? きっと大喜びするよ」
「酔っ払いどもに絡まれるからな」
ハスクはエンジェルの肩越しにサー・ペンシャスとチャーリーを見つめた。
二人とも言うまでもなく完全にできあがっていた。二人はやたらとハイテンションで、休むことなくひたすらに口を動かしている。当然そこに文脈もなければ理論もない。加えて随分前から呂律も回っていなかった。はたから聞いている分には何が何だか分からないのに、酔っぱらい同士だと通じるものがあるらしい。
今や三歳児以上に目の離せない存在となった二人の面倒を見ているのはヴァギーだけで、他の面子はそれぞれ安住の地に非難していた。
「俺も酔っ払いの子守はパス」
ヴァギーには悪いけれど、そんなことをしている場合じゃない。
焦燥感にかられると得意なはずの軽口もまるで頭に浮かばない。エンジェルはカクテルを傾けて水面をジッと見つめた。琥珀色の液体に反射した自分の顔は笑えてくるほど酷い有様だった。眉間にはグッとシワが寄り、どれだけ笑おうとしても唇は横一文字から動こうともしない。
これが撮影だったら間違いなくヴァルはブチギレてるだろうな。試しに壁の向こうにカメラがあると想像してみたが一向に成果は上がらなかった。グラスを揺らしていくじなしの自分をアルコールに溶かす。
「酔いがまわったか?」
「まさか! 普段に比べれば飲んでないようなもんだよ」
「確かにな。というか普段が飲み過ぎだ。今日はいいのか?」
なんと返そうか。答えを探して黙り込むとグラスの中は再び静かになって、情けない顔をした自分と目が合った。
「んー……そりゃ酔っ払うのは楽しいし、普段は忘れたいことがいっぱいあるから飲んでる。でも……今日は楽しいからちゃんと覚えておきたい。……忘れるのはもったいないでしょ?」
「まぁ、そうかもな。たしかに今日は楽しかった」
背後で酔いつぶれた二人が延々と話してくれているのが幸いだった。黙り込んでも気まずくない。
エンジェルは口をつぐみ、カウンターの下で携帯をぎゅっと握りしめた。カメラアプリは三〇分も前から起動したままだ。パーティーが始まってからというものずっと機会をうかがっていたのに、ずるずるとこんな時間にまでなってしまった。いつかいいタイミングがあるはずと思っていたのに、むしろお開きが近づくにつれてますます言い出しにくくなっていくような気さえする。
〝一緒に写真を撮りたい〟なんて頼み、本当に子供っぽい。だけどどうしても楽しかった今日を記録に残したいのだ。それなのに声帯はまるで言うことを聞かないし、一度意識してしまうとハチャメチャに恥ずかしくて、エンジェルは気恥ずかしさをカクテルで誤魔化した。カウンターに移動してからというものずっとこんな調子で話に身も入らない。
カメラアプリの左下には、チャーリーの意識がはっきりしていたとき――ちなみにサー・ペンシャスはその時点でへべれけだった――に全員で撮った集合写真が表示されていた。
「こんなことならあのとき言い出せばよかった」
大勢いる場だったらさり気なく言えたかもしれないのに、こうして面と向かっていると出てくる言葉も出てこなくなる。だからといって諦める気はないし、離れるつもりもないのだが。
「あのさ、ハスク……」
「ん?」
「あの料理さ、俺が作ったんだけど……おいしかった?」
「ああ。酒のつまみに最高だった。よく作ってたのか?」
「昔はね。でも最近はあんまり……食べてくれる人がいないと作りがいがないっていうかさ……」
「勿体ないな。また作ってくれ」
にやけそうになるのを必死に押し殺してカクテルを飲み込む。舞い上がってしまいそうなほど嬉しかった。同じ時間を共有して、一緒に食卓を囲んで、それだけでも十分過ぎるのに手料理を褒めてくれる。些細だけど、穏やかで間違いなく幸せな時間。
舞い上がった心臓はまるで全力疾走した後みたいにバクバクと脈打ち、それを静めるためにカクテルに手を伸ばしたがいつの間にかグラスは空になっていた。
空になったグラスをのぞいても自分の頼りない揺れる指先がみえるだけだ。どうしよう。早く切り出さないと。こんなことをしているうちに背後の話し声も段々と小さくなり、確実にお開きが近づいていた。
「チャーリー、そろそろベッドに行こうか。楽しかったのは分かったからさ。またハスクが帰ってきてからやればいいでしょ? ペンシャスは……」ヴァギーはちらっとカウンターに目をやって小さく息を吐いた。
「……まぁ、いいや。ペンシャスもあたしが連れていくよ。エッグボーイは? 全員いる?」
「はぁい、ボス!」
ヴァギーは壁に向かって敬礼したり机の脚に何度も激突したりする小さな卵を拾い集め、両腕にペンシャスとチャーリーを抱きかかえる。地獄では小柄な部類の彼女が二人(と卵をたくさん)抱えているのは奇妙な光景だった。
「二人も早く寝なよ。おやすみ」
足音が遠ざかるとホールは途端に静かになり、それに合わせて二人の声も囁くように小さくなった。周りが静寂に包まれているのならさっきまでみたいに声を張り上げて喋る必要もなかったし、ましてこの距離だ。吐息が届くほど近くはなく、だからといって手を伸ばせば簡単に触れられる距離。エンジェルはこの距離感が何よりも好きだった。
できることならずっとここにいたい。それからいつだってハスクはここにいてほしい。たった三日であってもどうしようもなく寂しくてたまらないのは本当なのだ。約束通り電話はかけるし、本気で酒を飲む暇もないくらい話を聞いてもらうつもりだけど、やっぱり写真の一枚くらいもらわないと割に合わない。
「あいつらも帰ったしそろそろ店じまいにするか」
「えっ、もう!?」
エンジェルは慌てて思わず身を乗り出した。どうしよう。全然切り出し方がわからない。でも、早くいわないと。焦燥感ばかりが募り、頭の中がパンクしそうだ。
「ポルノスターさまは知らんが、俺は明日早いもんでな。さて、ラストオーダーだ。締めに何か飲むか?」
「……じゃあ、おすすめ」
シェイカーに何種類かの液体が注がれ、手際よく振られるのを静かに見守る。グラスに注がれた薄ピンク色の液体をぐっと飲み込むと、さっぱりとした桃の味が口の中に広がった。
静寂が流れる。ハスクはウイスキーを生で飲みながら、黄色の瞳をエンジェルに注いだ。表情は柔らかく、なにも言わずにただ待っている。
エンジェルは気まずさを誤魔化すように目を伏せてカクテルを口に運んだ。
「あのさ……ハスクって、写真苦手?」
ひねり出した声はかなり小さく、かすかに震えていたがハスクの耳にはしっかりと届いた。再び液体に口をつける。緊張でアルコールなんてほとんど感じなかった。
「別に、苦手ってことはないな。誰かさんみたいにドアに張り付けたり壁中に張り付けたりはしないが」
「じゃあさ……その……」
言葉に詰まってグラスに手を伸ばしたがもう中身は空っぽだった。小さく息を吐いて覚悟を決める。今までもっとヤバいことはたくさんしてきたはずなのに、抗争よりもショーよりも緊張して手が震えた。
「チャーリーほどじゃないけど、俺も……さ!」
ああ、どうしよう。もっと考えてから言えばよかった。だけど一度言葉を止めたらそれこそ二度と喋れなくなってしまいそうで、どうにか必死に言葉をつむぐ。
「ほら、あの……、別にたいしたことじゃないんだけど……ちょっとだけね……ほんとちょっと……寂しいから。だからさ!」
恥ずかしくて顔があげられない。次第に声も小さくなっていく。こんなことならベッドに誘う方がよっぽど簡単だ。
「だから、その……よかったらなんだけど、本当に、嫌じゃなかったら……一緒に写真……撮らない?」
「何を言うのかと思えばそんなことか。さっきまでチャーリーが散々撮ってただろ。あれじゃだめなのか?」
「あれは集合写真だろ! 乱交もののパッケージじゃないんだからさ! ツーショットがいいの! なんでわかんないかな!?」
身を乗り出して抗議するとハスクの指がからかうようにおでこをぐっと押した。
「早とちりだな。別に撮らないとは言ってない。そっちに行った方がいいか?」
肩と肩が触れる。カウンター越しよりもずっと近い距離に心臓がさっきまでとは違う理由からバクバクと音を立てた。どうしよう。嬉しすぎておかしくなりそう。推しアイドルとチェキを撮るときみたいに卑屈になってやたらと体が丸まる。
ハスクは何枚か写真を撮り、画面を傾けてエンジェルに見せた。エンジェルは写真を確認して思わず声をあげた。いくらなんでも解像度が低すぎる!
「ちょっと待って! そのスマホいつのモデル!? 骨董品!? いい加減、新しいの買いなよ。別に俺のも最新じゃないけどさぁ、さすがにそれよりは画質いいよ」
「これで不便はないからな」
「うそ。ヴォックス・テックの商品って後続機が出るタイミングで絶対壊れるじゃん」
「そんなことないだろ」
「そんなことあるの。ヴォックスなら間違いなく仕込んでるよ。――あんまり話したことないけど……とにかく俺のスマホで撮ろう、俺に任せて。写真は撮るのも撮られるのも得意なんだ」
数十枚の写真の中から一枚のベストショットを選び抜く。ハスクは隣でエンジェルの画面をのぞき込みながら「何が違うのかわからん」と首をかしげていた。
「ハスク、スマホかして」
「何してるんだ?」
「アイコンに設定してる――はい! ありがと!」
「……何が変わったんだ?」
「俺に電話かけてみて」
ハスクがぎこちない手つきで電話をかけると、ファンシーでかわいらしい着信音が鳴り響いた。
「……こんな着信音に設定してるのか……」
「え? なに。不満? かわいいじゃん。そんなことより見てよ。ここがさっきの写真になったってわけ。前々からデフォルトののっぺらぼうで味気ないと思ってたんだよね。ついでにロック画面とホーム画面もその写真にしといたから」
ハスクはカウンターに頬杖をつき、喜々としてまくし立てるエンジェルを穏やかに見つめた。
「……なに?」
「変わったな」
その言葉にエンジェルは眉を寄せて複雑な表情を浮かべた。
「……それ最近ホテルのみんなに言われるんだけど。みんなして俺を騙そうとしてる? 俺は何も変わってないよ。だってあんまり自覚ないし」
「少なくとも薬はやめてるじゃないか」
「……それはそうだけど……」
これは変な自己嫌悪じゃない。本当に、心の底から、変わっただなんて思えないのだ。だけど、みんながそういうから時々勘違いしそうになる。
たしかに薬はやめた。だからといって、その程度で腐りきった性根がどうにかなるとも思えない。いつも体の奥底には醜い部分が潜んでいるような気がする。それなのに、誰もそれを指摘しないのはここの連中があまりに優しくて汚れを知らないからで――ぐるぐると考え込んでいるとハスクは暗雲を吹き飛ばすかのように豪快な笑い声を上げた。
「そもそも、こういうのは他人の評価の方があてになるものだろ。特にバーテンダーのいうことは信憑性が高い」
「酔っ払いでも?」
「そりゃ難しいケースだな。ま、信じるかどうかはおまえさん次第だ」
「なにそれ。テキトー」
エンジェルは小さく笑みを浮かべた。ハスクと話しているといつの間にか悩みがどこかへ消えてしまうのが不思議だった。どれだけネガティブに沈んでいても、多少は自分のことを認めてあげたくなる。体のうちに暖かい感情が満ちた。――もしかして、少しは変われているのかな。そうだといいな。
「……だとしたらみんなのおかげだね。――ああ、なんかしんみりしちゃった。もう寝た方がいいのかも!」
ぐっと伸びをして立ち上がり、黄金の瞳をジッと見つめる。多少は立ち直ったとはいえ、三日もこの輝きと離れるのはやはり寂しかった。名残惜しむようにカウンターを指先でなぞり、ちらりとハスクを見る。
今ここで腕を掴んで引き留めればきっと行かないでくれる。ハスクはそういうヤツだ。だけど。エンジェルは不安を自分の心の内側に押しとどめて目一杯の笑顔を浮かべた。
今は自分の些細な安心感よりもハスクの楽しみを優先したかった。
「おやすみ。楽しんでね」
「ああ、おやすみ」
自室に戻ったエンジェルはふと壁に目をやった。壁には何枚もの写真が貼り付けてある。
そうだ。さっきのツーショットを印刷して特別目につくところに張ろう。帰ってきて、一番に見えるところに。どれほど辛いことがあっても今日を忘れないように。
◇◆◇
「カット! 休憩だ!」
ヴァルの怒気を含んだ声がスタジオに響く。スタッフたちはその一声で力なく足元に座り込んだ。誰もが疲れ果てていた。撮影は難航を極め、ほとんど座礁しているといっても過言ではない。
ベッドの上で伸びていたエンジェルは〝休憩〟の一言を聞いた瞬間、ボロ雑巾のような体を強引に動かし、ローブをひったくって控え室に逃げ込んだ。真っ赤な瞳が鋭く睨みつけていたがそんなこと気にしている場合じゃなかった。
控え室に飛び込むなり鍵をかけて扉から距離をとり壁際に座り込む。体を折り曲げると男優に殴られた腹部がずきずきと痛んで天を仰いだ。
今日の撮影はいつにも増してハードで、例えるなら死ぬ一歩手前の状態を何時間もずっと続けているようなものだった。叫びすぎて喉の奥で血の味がした。加えて酸欠で頭がズキズキと痛む。
ハードSMだかなんだか知らないが、エンジェルに言わせればこんなものただの暴力でしかなかった。何度も意識が飛んで、そのたびに内蔵をえぐるように容赦なく腹部に拳がめり込み、胃をぐいぐいと圧迫されて盛大に吐いた。さらに最悪なのが、そこが最大の見せ場だと言わんばかりにカメラが寄るところ。もちろん今更羞恥心なんてあったものじゃない。ただ単純に不愉快だった。あんな映像で抜くヤツの気が知れない。
「――ああ、でも飲み込んだ精液しか出てこなくなる絵は結構おもしろかったな……二度とやりたくないけど」
せめて媚薬かアルコールが効いていればいくらか楽しく撮影できたかもしれないが、あいにくどちらも序盤で吐き出してしまったから苦痛は苦痛として受け取るしかなかった。
全身に広がる疲労とほんのひとときでも撮影から解放された安堵からまぶたが重くなる。だが、雇い主は一時の休憩すらも許す気はなかった。
次の瞬間、激しくドアが叩かれる。ドンドンドン!という容赦のない音は身の危険を感じさせるには十分過ぎた。扉を壊さんばかりの猛攻はますますエスカレートし、ドアノブまでもがガタガタと揺れる。続けて怒り狂ったヴァルの怒声が全身に響く。
「エンジェル!! さっさとここを開けろ! このアバズレ!!」
恐怖で体が震えて呼吸が詰まった。視線だけは吸い寄せられるようにドアに向けられて硬直する。だめだ。絶対にドアは開けられない。だって今日の撮影内容だと痣が一つ増えようがなにも変わらないのだから容赦なんてするはずがない。
扉を叩く音に混じって蝶番が軋む音が響いた。小指ほどしかない薄い金属で一体いつまで耐えられるだろう。それに鍵だって、扉を破られてしまえば何の意味もなさない。
一度その事実に気がついてしまうと気が気じゃなくて、とてもシラフでは耐えられそうになかった。エンジェルははじかれたように立ち上がり、震える腕で棚の奥を漁った。ガラス扉の奥には撮影の小物や差し入れの怪しい酒なんかが乱雑に詰め込まれている。普段ならそんな怪しいものは受け取るだけ受け取って口をつけることなんてないけれど、今日は何でもいいから気を紛らわせるものが必要だった。
腕がいうことを聞かないせいで酒瓶を棚のあちこちにぶつけて、そのたびにガシャンと大きな音が鳴った。グラスを持った手が滑りガラス片が床に散乱する。
「クソ……!」
エンジェルはじれったくなって酒瓶を逆さにして腹に流し込んだ。当然、味なんてするはずもなかった。代わりに喉から食道にかけてカッとした熱が広がる。
続けて洒落た小瓶に入った桃色の液体を原液で飲み込んだ。ラブポーション――これはヴァレンティノとヴェルベットが共同開発した強力な媚薬だ。一滴飲むだけでどんな淑女も娼婦のように乱れるとかいうキャッチコピーは決して嘘ではない。濃度の高い液体は喉の奥に絡みついてゆっくりと胃に落ちていく。
欲望にまかせて媚薬と酒を交互に流し込み、酒瓶の半分ほどの量を飲み干したところでエンジェルは扉の外が妙に静かになっていることに気がついた。 さっきまでの脅迫的な態度はすっかり影を潜めて、代わりに脳をしびれさせるような猫なで声が響く。
「なぁ、エンジェル……ハニー。ドアを開けてくれよ……怒鳴るつもりはなかったんだって、ちょっと話がしたいだけだ。おまえのかわいい顔をみせてくれよ」
「……いやだよ」
思わずこぼれた本音を取り繕うように、開ける気もない扉に向かって言い訳を混ぜる。
「――だって、今日の俺はダサいし。ヴァルに合わせる顔がない」
空っぽの内臓が急速にアルコールと媚薬を吸収していくのがわかる。体の内側がじんわりと温かくなって、体の痛みも恐怖もぼんやりとしてくる。きっと生意気なことを言ったから烈火のように怒るだろうと思ったのに、意外にもヴァルの機嫌は悪くならなかった。つくづく予想できない。それが何よりも恐ろしい。
「だからなんだよ、ベイビー。俺は別に反省しろなんて言ってないだろ? それにおまえは今日も最高にかわいいよ。俺のかわいい子蜘蛛ちゃん。なぁ、撮影が押しててイライラしてたんだ。とにかくここを開けてくれればそれでいいんだって。頼むよ、パンプキン。そう拗ねるなよ~」
まるで恋人に対するようなとびっきり甘い声色。どこを切り取っても先ほどまでの燃え盛る怒りは感じられなかった。もしかして暴れまわって本当に満足したのかな。だとしたら機嫌のいいうちに出て行った方がいい。
恐る恐る鍵に手を伸ばすと金属のひんやりとした感触が指先に伝わった。
次の瞬間、ドンッ!という重い音とともにドアが震える。
「エンジェル! さっさと出てきやがれ! ブチ殺されたいのか!?」
再び扉が激しく叩かれる。エンジェルはドアから距離をとり、壁に背をつけるとその場にずるずると力なく座り込んだ。
酒がまわっているのか、目をつぶっても視界がぐるぐるする。ふと、ソファーの上に置きっぱなしにしていた携帯が震えて手を伸ばした。目で見る分には近く見えるのに、どれだけ腕を伸ばしても携帯には届かない。どうやらアルコールのせいで距離感覚がおかしくなっているらしい。
わざわざ立つのは億劫で目だけで内容を推し量る。角度のせいで文章は読めないが、かろうじてハスクからのメッセージであることはわかった。
「ハスク……」
昨日の記憶が頭によぎる。ああ、やっぱり酒を控えめにしておいて正解だった。おかげで今日も覚えている。体はスタジオに縛り付けられ、今にも崩れ落ちてしまいそうなのにハスクのことを思っただけで心がスッと軽くなった。
そうだ。今日は帰りにあの写真を現像するんだ。いい写真屋さんで。安いプリンターなんて使わない。それでかわいいペンでいっぱい飾り付ける。
しばらくそうして空想に浸っていると次第に体にアルコール以外の成分が回り始めるのを感じてエンジェルは両手をきつく握りしめた。酒の酩酊感ともドラッグの高揚感ともまた違う。呼吸が荒くなって、肌の皮一枚奥を電流が流れるような奇妙な感覚。肌がしっとりと湿って、じんわりと下腹部に熱が集まる。
エンジェルは自然と両膝をこすり合わせた。感覚が過敏になり、粘膜が刺激を求めてうずく。後孔は質量を求めてすでに小さく痙攣を繰り返している。
エンジェルはゆっくりと立ち上がりドアへ歩みを進めた。いつの間にかドアを叩く音はなくなっていた。代わりに定期的に発砲音がするけど、恐怖はない。エンジェルはその音を聞きながらぼんやりと昨日のクラッカーを思い出していた。そういえばクラッカーなんて人生で初めて開けた。
ドアを開くとすぐにヴァルの真っ赤な瞳と目があった。
「よぉ、エンジー。意外と早かったな。もっと休んでもいいんだぜ」
ヴァルの機嫌はそこそこに回復していた。少なくとも目があった瞬間殴られるほどではなかった。その代償として、ピンクの銃を弄ぶ彼の足元には血だまりができて、スタジオのあちこちに死体が転がっている。
「おまえがスケジュールを遅らせるたびにスタッフを撃ち殺すことにしたんだ。なかなかいいアイディアだろ? で、全員死んだら今日の撮影はバラシだ」
心底楽しそうな笑みを浮かべる彼の金歯がスタジオのまばゆい照明に照らされてキラリと光を放った。言い終わるなり乾いた音が響き悲鳴を上げる間もなく一つ目のスタッフが撃ち殺される。弾丸はちょうど彼の瞳孔を貫いた。
その瞬間、現場の空気が変わった。スタッフたちは貫かれた彼の死体を数分後の自分のように見ていた。誰もが肝を冷やして、自然とエンジェルに非難の目が向く。誰だってとばっちりを食らうのはごめんなのだ。
刺すような視線は鋭く、エンジェルはローブの裾をぎゅっと握った。
――嫌だな。たとえどれだけ酔いが回っていても素面に戻れるほど嫌な感覚だった。はなからそこまで高くない自己肯定感がガリガリと容赦なく削り取られていく。
「……そんなことしないよ、ヴァル……」
そう答える以外に道なんてなかった。そのはずなのにヴァルはからかうように大げさに笑ってエンジェルの体を抱き寄せる。
「おいおい、ハニー! おまえは本当にワガママで手が焼けるなァ。俺はおまえのためを思って提案してるんだぜ」
ぴったりと押しつけられた体が熱を伝え、四本の手が体をまさぐる度に全身に淡い電流が走って体が跳ねた。自然と体に火がついて腹の奥がうごめいた。
荒い呼吸を抑え込むために大きく息を吸い込むとヴァルのフェロモンに当てられ、全身から力が抜ける。
「俺はどっちでもいいからおまえが決めろ」
両目を動かせば不安そうな顔つきでこちらを見つめるスタッフと目があった。さっきまでは非難の眼差しだったというのに、今や救世主を見るような表情がおかしくて笑い出しそうだ。
どいつもこいつも都合がいい。結局みんな自分のことばかりだ。自分さえ助かれば、男娼一人が使い物にならなくなったって何も気にならないのだろう。そう思うと、うんざりすると同時に安心した。だって、きっと俺だってそうするから。自己犠牲なんて崇高な選択肢が頭に浮かぶなら端から地獄に落ちていない。だから、いいよ。そんな顔しなくたってきちんと助けるよ。
幸いにも何を答えればいいのかは分かりきっていた。エンジェルは恋人のようにヴァルの体に腕を這わせて甘く名前を呼んだ。
「……俺、今さ……めちゃくちゃえっちな気分なんだ」
「そんで?」
ヴァルの細い指が顎を持ち上げる。
「……だから、ヴァルの好きにして」
見上げた彼の顔には邪悪な笑みが浮かんでいた。
「だったらさっさとベッドの上に戻れよ、クズ。よぉし、再開だ! 人数が減った分は気合いでまわせ。エンジェル! 次、萎える演技したら覚悟しとけよ。分かったらさっさと持ち場につけ!」
かくして撮影は再開した。大丈夫。このくらいいつものことだ。
◇◆◇
撮影中からうすうす分かっていたが今日はキマりすぎていた。胃が空っぽだったのもあるが、十中八九あの酒にドラッグでも入っていたのだろう。それも粗悪なやつ。ファンからの差し入れにはよくあることだ。それか飲み合わせが最悪だったか……。おかげさまで苦痛はすべて快感に変換され、その後の撮影は順調に進んだ。問題はそこからで、撮影が終わっても変な高揚感が心を満たしてベッドの上からろくに動くことも出来なかった。
「困ったな……」と、使い物にならない頭で考える。
文字通り命の恩人だというのに、スタッフは薄情なものでベッドの上でバテているエンジェルのことなど気にする様子もなかった。まるで透明人間になったみたいだ。一瞥もくれることなく撤収作業を続けるスタッフを薄目で眺めると胸の奥がチリチリと痛んだ。
誰でもいいから構ってほしい。嘘でもいいから俺はここにいていいと言って欲しい。媚薬に犯された体は火照って人肌を求めているのにエンジェルはどうしようもなく孤独だった。薬が悪さしているのは分かりきっているが、抜けるまで一人で耐える力はありそうにない。
「……こんなときにハスクがいればな……」
会いたい。
今朝見送ったばかりだというのに、もう会いたくて仕方がなかった。すべてが恋しくてたまらない。あの金色の瞳も、ゴワゴワの毛も、笑った顔も怒った顔も、何もかもが愛しくてたまらないのに。話を聞いてほしい。温かい手に触れたい。優しい腕に包まれてそのまま眠ってしまいたい。ハスクならどんな俺でも受け入れてくれる。それなのに――。
一人には大きすぎるベッドのシーツを握りしめる。シーツは冷え切ってひんやりとしていた。ハスクのことを考えてもますます心細くなるだけだった。どのみち三日は帰ってこないし、なるべく迷惑はかけたくない――俺のワガママで楽しい休暇を台無しにしてほしくない。
でも、だったら。この寂しさは誰が埋めてくれるんだろう。
天井をぼうっと見上げていると視界に赤が映り込んだ。ヴァルは煙草をくゆらせながら瞳孔のない目でエンジェルを見下す。
「できるなら最初からやれよ」
「……ごめん……」
お褒めの言葉があると思ったわけではない。ましてや気遣いなんて最初から求めていない。それなのに柔らかい心は簡単に傷ついてズキズキと痛みを発した。この後に及んでこんな男であろうと求めてしまう自分が情けない。ヴァルが俺のことをなんとも思っていないのは随分前から分かりきっているというのに。
ヴァルは真っ赤な煙を吹きかけた。
「明日も同じ時間からだ。遅れんなよ」
それだけ言い残すとヴァルはさっさと去って行った。嗅ぎ慣れた匂いに身を委ねる。毒も薬も本質はそう変わらない。ハイでもバッドトリップでも、より強い毒で上書きすればいいだけの話だ。
スタッフがいなくなった頃になってようやくエンジェルはベッドから体を起こした。気絶していると思われたのか、いつの間にか電気も消され、窓もないスタジオは真っ暗闇だった。
「……帰ろ」
でもどこに? こんな状態でホテルには帰れない。馬鹿げた話だがこんな自分を紹介してみんなを悲しませたくなかったし、失望されたくなかった。でも、ここには居たくない。スタジオはいつも静かで冷たくて寂しいから。
そんなわけでエンジェルは行き先も決めないまま、おぼつかない足取りで夜の街に繰り出した。ネオン看板のまぶしい明かりのおかげで酩酊していても道を見失うことはなかった。地獄の夜は長く、真夜中だというのに道端にはギラついた目をした男たちが立って、エンジェルに下卑た視線を送っている。
絡みつくような視線を肌で感じながら、エンジェルは自然と自分がその中でもマシそうなヤツを品定めしていることに気がついた。この乾きをどうにかしてくれるのなら誰だって構わない。しいていうなら金払いが良さそうで、後腐れがなさそうなヤツがいい。ホテルに身を寄せる前なら、これに加えて、良質なドラッグをくれそうっていう条件があったけど、今日はどうでもいい。
しばらく歩いていると細い路地の中から小さな話し声が聞こえた。高いビルとビルの間、真っ赤な月明かりも届かないような暗がりにはスーツを着込んだ男たちが集まって何か怪しげな話をしていた。おそらくどこかのギャングだろう。怖そうな人ほど金回りがいいのは生前も今も変わらない。
暗闇にブーツを鳴らして近づく。誘い方は薄汚い体が覚えていた。
「ねぇ、お兄さんたち。俺、今どうしようもなく構ってほしい気分なんだよね。よかったら一緒に遊ばない?」
脚を絡めて期待感をあおるように股の内側をなぞる。男のそれは簡単に大きくなってズボン越しでも膨らみを感じた。
「疲れてるけど、少しくらいならサービスするよ。どう?」
低い笑い声とともに取り囲まれる。そうこなくちゃ。
「あはっ、モテすぎて困っちゃうなぁ。がっつかなくたって俺は逃げないよ」
手頃なセックスクラブに移動し、当然のようにVIPルームに通される。広々とした部屋の真ん中にはキングサイズのベッドが置かれ、ソファーや机など一通りの家具がそろっている。テーブルの上にはサービスの酒瓶が何本も置かれていた。ムーディーな暖色の間接照明は誰かが早々に電源を落として、代わりに今は白色のLEDが煌々と光を放っている。こちらとしてもムードなんてどうでもよかったので助かった。それに酒もあるに越したことはない。唯一の誤算は、ねずみのようにぞろぞろと仲間が増えて想像よりも大所帯になったことだが、賑やかな方が楽しいし孤独を忘れるにはうってつけだった。
「パパ~、喉渇いた。俺にもちょうだい」
対面座位の姿勢で腰を緩く動かしながら、舌を突き出して恋人に媚びるように甘く誘えば口移しで甘い液体が注がれる。アルコールの味はもう分からないし、喉の渇きも大して癒えない。それでもお礼代わりに腰の動きを早くしてやれば男は悦びの声をあげた。
なんだかんだ言っても、こうやって馬鹿になって快感と暴力にまみれるだけの時間はシンプルで楽しくて、気が楽になる。少なくともヤッている間は変な自己嫌悪に飲まれることもないし、たしかに愛されているような気がする。
しばらく夢中になって腰を動かしていると突然隣からぐいっと腕を引かれた。
「おい、エンジェル・ダスト! おまえもやれよ。どうせこれが目当てで誘ったんだろ!?」
男は大声でまくし立てた。机の上には白い粉が細いライン状にひかれている。エンジェルはそれを見て顔を引きつらせた。
「あー……太っ腹だね。でも最近クスリはやめてんだ。勝手に楽しんでよ。俺は酒だけで十分」
腕を振り払うも今度は間接が外れそうになるほど強く腕を引かれ、体勢を崩してエンジェルは惨めに床に倒れ込んだ。間髪入れず髪を掴まれて、強引に机に頭を押さえつけられる。
「あんっ、乱暴しないで」
「ヤク中のおまえが!? ふざけた冗談だな! エンジェル・ダストの名が廃る!」
「ヤク中のアバズレだって気分じゃないときはあるよ。そんなことよりさぁ、もっとイイコトしようよ」
男たちは極悪に笑うばかりでちっとも話を聞いている感じではない。いつの間にかエンジェルを取り囲んだ男たちは彼の六本ある腕をきっちりと掴んでひねりあげていた。
「……ほんと話通じないなぁ……。悪いけどさ! 本当に今日はもう十分! 粗悪品を掴まされて最悪な気分になったばっかりなんだよ。だから――」
どのみち逃げ道なんてありそうになかった。
言い終わるより前に鼻と口を塞いで呼吸をたたれる。抵抗しようにもすべての腕を塞がれていればどうしようもない。全身が酸素を求めて暴れるのを力任せに押さえつけられる。
こんなことなら、あのときの――サー・ペンシャスが初めてホテルにやってきたときの――ふざけた寸劇ももっと真面目に取り組んでおけばよかったな、なんて、どうしようもない後悔が頭をよぎった。けれどそれも一瞬の話だ。
限界寸前で呼吸を解放され、ひとたび粉を吸い込めば脳が軽快にスパークしてそんなことどうでもよくなった。ドラッグもアルコールも届かない心の奥底で、あとでとんでもない後悔に襲われそうだとも思ったけれど、上物のクスリは理性すらも軽々と上書きしていく。
そこからは先はなし崩しだった。クスリ漬けにしようという魂胆が見え透いていたとしても、もはやどうすることもできなかった。
ハイになって馬鹿みたいに大笑いして、感覚が過敏になって喉が痛くなるほど鳴かされた。男たちは体中の水分をアルコールで置き換えようとしているみたいにキラーカクテルばかりを与えて、よく分からないうちに何かの錠剤も飲み込んだ。
しばらくして、ついに体が悲鳴を上げ始めたのか何度も透明な液体を吐いた。
まるで人形になったみたいに体がいうことを聞かなかった。呂律も回らない状態なのに、後ろに突っ込むとキツいほど締め付けて男を悦ばせようとするエンジェルを馬鹿にして男たちは笑って、ご褒美のようにクスリが追加される。もはや刺激が気持ちいいのかクスリが気持ちいいのかわからなかった。体は飛んでいきそうなほど軽いのに、心だけが重く地獄に取り残されている。
後半はむしろ進んでドラッグと快楽に溺れた。冷静になったら死にたくなるのが目に見えているから、少しでもその時間を遠ざけたかった。いっそのこと生前みたいにオーバードーズでどうにかなってしまいたい。せめて今日一日の出来事を全部忘れられたら。
散々輪姦されて、いよいよ反応が鈍くなると男たちはエンジェルを容赦なく店の外に放り出した。まるで壊れた玩具を捨てるような気軽さだった。外はバケツをひっくり返したような土砂降りで、全身を突き刺す雨が痛い。
「じゃあな! ポルノ・スター! なかなか使い勝手のいい穴だったぜ!」
笑い声とともに携帯が投げ捨てられアスファルトの上を転がった。もはや拾い上げる気力すらなく、エンジェルは倒れるように歩道に座り込んだ。凍てつくような雨が火照った体を冷ましていく。
店の外は静かで降り注ぐ雨の音と排水溝の金網に水が勢いよく流れ込む音だけが響いていた。先ほどまでの喧噪が未だに耳鳴りのように頭の中で鳴り続けている。
不意に携帯が軽快な着信音とともに震えた。携帯に手を伸ばし、画面に表示された名前をじっと見つめる。チャーリーからだった。まるで気がつかなかったけれど何件もの不在着信とともに帰りの遅さを心配するメッセージが何通も届いていた。その優しさは心を温かくする一方で鋭く突き刺した。やっぱり、彼女は優しい。彼女だけじゃない、ホテルのみんながそうだ。本当に優しくて――俺にはもったいない。
手の中で小刻みに震える端末を握りしめて赤色のボタンを押す。着信音が消えると再び世界を雨音だけが満たした。なぜだか今はその方がしっくりきた。
できることならしばらくここに座っていたいところだったが、道端に座り込んでいるポルノスターというのはそれだけで目をひく。気がつけば数人の男がエンジェルの様子をうかがっていた。エンジェルは一人一人を丁寧に睨み付けて、体に伸びる手を払いのけた。
「……なに? 見世物じゃないんだけど。さっさと失せろよ、インポ野郎。それとも俺に抜いてほしいの? だったら金用意して出直してきなよ」
もう今日は酒もドラッグもいらない。金を積むというなら話は別だが、貧乏人相手にタダ働きなんて絶対にごめんだった。冷たく言い放てば男は捨て台詞と共に唾を吐いた。
「チッ、小汚いヤク中の男娼風情が偉そうに! 体しか価値がないくせによ! くたばりやがれ!」
男の言葉は上がっていた心をアスファルトに叩きつけた。こんなこと言われ慣れているはずなのに、全身を殴られたような衝撃が襲いかかり、次いで柔らかい心が砕け散る。ズキズキと痛みを放つ胸を押さえつけて、エンジェルは顔をしかめた。心臓が不規則に脈動してすべての音が遠くに聞こえる。
「……そんなこと。俺が一番わかってる」
結局、俺は何も変わってない。
今もあの頃も同じ、ヤク中のアバズレのままだ。
薬をどれだけ遠ざけようと一度吸えば我を忘れて快楽に溺れる。太陽のように暖かい人たちに囲まれて、自分もその仲間になったような気がしていただけだ。自分がそっち側の人間じゃないことは分かっていた。それなのに、何かが変わるかもと希望を抱いてしまった。希望の先にはいつも絶望しか待っていないと知っているのに。
再び手の中で携帯が震えた。不審に思ったチャーリーがかけ直したのだ。彼女はその優しさが俺を追い詰めていることに気がついているのだろうか。優しくされればされるほど、自分のろくでもない部分が明らかになるような気がする。
やっぱり自分は嫌いだ。少しは変われたつもりでいたけれど、軽くひっかけばすぐに地がでる。金メッキでどう加工しようが中身は腐りきって腐臭が漂っている。こんな俺が、あのホテルになんて帰れない。帰りたくない。大切な人たちを汚したくない。
再び着信を拒否して「心配しないで。今日は帰らない」と短くメッセージを送った。間髪入れずに「本当に大丈夫?」と返信が送られたが、それに答える気力はなかった。
ほら、チャーリーは何も分かってない。
根が綺麗で輝いているから。俺は世界が綺麗だとは思えない。手を触れればすべてが腐っていく。欲望だらけの世界。俺は汚れてるんだ。どれだけ取り繕ったって変わらない。いやだ。こんな気持ち悪い内面を吐き出すのも、気をつかって受け入れられるのも嫌だ。そもそもこんな気持ち悪いヤツ、誰も相手にしない。俺に何の価値があるっていうんだ。価値があるのなんて俺の穴だけで、それ以外は何も――。
一定の間隔で携帯が震えてチャーリーからのメッセージがロック画面の通知欄に並ぶ。軽くスクロールすると何時間も前にハスクから送られたメッセージが目に入った。その瞬間、まるで分厚い雲が裂けて晴天が覗くように一筋の光明が差す。
「ハスク、」
会いたい。
せめて声が聞きたい。
その一心だけで震える指先で通話ボタンを押す。コール音の回数が増えていくに従ってエンジェルは体の内側をかきむしりたくなるような衝動に駆られた。自然と携帯を握りしめる手に力がこもり、いっそのこと物言わぬ携帯を投げ捨てたくなる。
なんで出てくれないんだろう。そんなの簡単だ。きっとハスクもうんざりしてる。誰だってこんな面倒なヤツの相手なんてしたくない。そんなことないと頭では分かっているのに、そう思わずにはいられなかった。――でも、どうしよう。もし本当にそうだったら、俺はどうしたらいい? 誰が俺を愛してくれる? 誰が俺の側に居てくれる?
祈るように握りしめた端末からは無機質なコール音が鳴り響くだけだ。
次第に呼吸が荒くなって、視界がぐっと狭くなる。頭の中がぐるぐると回って叫びだしたいほどの不安が押し寄せるのに、喉が締まって声もでなかった。ヒュッと喉が鳴る。
どうしよう。俺はどうしたらいい? 大丈夫、大丈夫だ。何もバッドに入ったのは初めてじゃない。だから平気だ。いつも一人でやり過ごしてきた。今更。一人だから何だっていうんだ? 昔からずっとそうだった。呼吸は。どうするのか忘れたけど。大丈夫。息を吐けば、そのうち勝手に吸うはず。慌てるともっとまわりが早くなる。けど、どうしたらいいんだろう。だって俺は汚い。帰れない。帰りたくない。息が吸えない。喉がヒューヒューいうときはどうするんだっけ。落ち着け、そうだ。ヴァルに教えてもらった。
ああ、そうだ。ヴァル、ヴァレンティノ。ヴァルならきっと俺を助けてくれる。
この苦しみを取り除いてくれる人が存在するというだけでパニックを起こした体は次第に落ち着いた。胸に手を当ててどうにか呼吸だけに意識を集中させる。それでも水面下では今もどうしようもない恐怖がくすぶっていた。心も体も突然垂れてきた楽園からの救いの糸にすがりつきたくてたまらなかった。
良くも悪くも彼の隣にいれば何も考えないで済む。何をされたって、何をしたって俺のせいじゃないし、俺の意志じゃない。それに機嫌さえ良ければそれなりに優しくしてくれる。むなしいだけの恋人ごっこも空いた穴を埋めるにはうってつけだと知っている。
最後のコール音が終わり、聞き慣れた機械音声が留守番電話の案内を始めたところでエンジェルは通話を終わらせた。もう決意は決まっていた。助けてくれる確証はどこにもないけど、こんな道端でパニックに怯えるよりははるかにマシだ。それにヴァルに追い出されたとしてもスタジオなりロビーなり、雨風をしのげる場所にありつけることは間違いない。
「――ああ、それに、ひどい目に遭わされたって」
ずる賢くてかわいくない頭が思う。
「ひどい目に遭わされたって被害者ぶっていれば、かわいいおひげちゃんはきっと同情してくれるだろうな」
……やっぱり自分のことは嫌いだ。きっと、バッドに入っていなくてもそう思った。
◇◆◇
エンジェルは気がつけばVタワーに戻っていた。タワーはまるで誘蛾灯のように煌々と光を放っている。年中無休で明かりが灯っている上にペンタグラム・シティでも有数の高層ビルであるこのタワーは街のどこにいても簡単に見つけられた。
エンジェルは口の中でブツブツととりとめもない独り言をこぼしながら真っすぐヴァルのタワーへ向かった。エレベーターの中で、ポツポツと垂れる水滴を見下ろしてぼんやりと思う。
一体、俺は何をしてるんだろう。ヴァルのことは嫌いだ。大嫌い。好きだったときもあるのは否定しないけど、それでも嫌いだし、ここでの生活に嫌気が差したからホテルに移り住んだ。後悔はしていない。むしろ俺の人生にしては珍しく英断だったと思う。どれほど脅されたって二度と戻るものかと今だって本気で思っている。それなのにわざわざ地獄に身を投じにいくだなんてどうかしている。
エレベーターの数字が大きくなるにつれて、心臓がキツく締め付けられる。まだ毒にむしばまれている。なんて救いがいのないヤツなんだろう。俺ならとっくの昔に見切りをつけている。あのプリンセスも猫ちゃんも、もしかしたら引き際を知らないだけなのかも。降りた方がいいゲームがわからないんだ。だからこんな不良物件に投資し続けている。
あの二人を下げたいわけではないのに、もはや自分のものとは思えない脳みそはどうしようもなかった。
チンという軽い音とともにエレベーターが開く。廊下の時点でヴァルの部屋に繋がる扉の奥から甘い香りが漂っているような気がした。豪華で大それた扉に手を伸ばし、小さく息を吐いて手を引っ込める。
「やっぱり帰ろうかな……何の連絡もなしにきちゃったし……もしかしたら迷惑かも。それに……」
すがりつくように服の裾を握りしめる。
たとえ相手がヴァルでも、今、否定されたらどうにかなってしまいそうだった。受け入れてもらえる保証なんてどこにもない。だったら行きずりの男でもひっかけて一晩でもいいから必要とされた方がいい。薬だって放っておけばそのうち抜ける。睡眠薬でも飲んで寝てしまえば嫌な想像もしないで済む。そうだ、わざわざヴァルを頼る必要なんてない。帰ろう。わざわざ傷つく必要なんてない。
そう思ったはずなのに、両足はまるで縫い付けられたかのようにその場から動かなかった。理由はわかってる。エンジェルは知っているのだ。気まぐれな四本の腕が自分の体を包み込んでくれる暖かい感覚を。腕の中に閉じ込めて聞きたい言葉だけを囁いてくれることを。誰の言葉よりも軽薄なはずなのに、なぜだか真剣味があって思わず信じたくなってしまう言葉の数々を。――もっとも体験したのはずいぶん昔のことだけど――もしかしたら、ヴァルならこのどうしようもない寂しさを埋めてくれるかもなんて期待を最後まで捨てきれなかった。
結局、エンジェルは地獄の扉を開けた。重い感触が腕に伝わり、真っ赤な煙が手招きするみたいに体にまとわりついた。唇を真横に結び、室内へ一歩、足を踏み入れる。
ドアを開けるとすぐに真っ赤な瞳が自分を捉えた。瞬間、反射的に心臓が跳ねて表情が硬くなる。甘い時代の記憶よりも酷い目に遭わされた記憶の方がよっぽど鮮明だった。
「あ……ヴァル……」
絞り出した声はかすかに震えていた。どうしよう。せめて口実くらい考えてからドアを開ければ良かった。軽い後悔とともにヴァルの表情を伺う。
「あの……さ。俺……」
ヴァルは一瞬だけ現実をいぶかしむように目を細めた。それから糸で操られるようにソファーから立ち上がり、ふらふらとした足取りでエンジェルに近づく。唇は小さく動いてはいるけれど一言も音にはならなかった。その表情からは何を考えているのかさっぱり分からない。
エンジェルは体を小さく縮こまらせて顔を伏せた。それ故にコツコツと響く足音しか彼の居場所を知るすべがない。足音はエンジェルの目の前で止まった。視界にヴァルのよく磨かれた革靴が映る。つま先同士がふれあいそうなほどの距離。
ヴァルの大きな手が顔に伸びるとエンジェルは反射的に目をつむった。だが覚悟した痛みは襲ってこなかった。代わりに躊躇いがちに頬に触れた指先は何かに怯えるように小刻みに震えていた。
驚くべき感覚にエンジェルが慌てて顔を見上げると、アシンメトリーな二本の触覚が顔にかかり、今にも泣き出しそうな瞳と目があった。
あ、こんな顔もできるんだ。と思ったその瞬間、四本の腕がキツく全身にまわされる。エンジェルの六本の腕を封じ込めるように、全身の骨が折れそうなほど力いっぱいに抱きしめられると圧迫感で胸がいっぱいになった。それから遅れて懐かしい香りが全身を包み込む。
「よかった……」
長い沈黙の末、呟くようにヴァルがこぼした言葉にエンジェルは耳を疑った。
その声色はまるで心底安堵しているみたいだった。四本の腕はエンジェルの存在を確かめるように何度も体の表面をなぞる。すべてが昔と同じだ。胸が締め付けられて大切にされていると錯覚してしまうのも、何もかも。
髪から首筋に水滴がこぼれてエンジェルはようやくハッとした。
「ヴァル、俺……濡れてる」
胸板を軽く押してみるも抱きしめる力が強くなっただけだった。
「だからなんだよ……」
「だってさ……濡れちゃうよ……?」
「……離すとすぐ逃げるだろ。おまえ……」
まるで子供が拗ねるような声色。エンジェルは昔からこの声にめっぽう弱
かった。どことなく庇護欲をくすぐられるのだ。もちろん、この男に庇護なんて必要ないと頭では分かっているのだが――これが演技なのか、それとも本心なのか分からない。でも、これが演技なら騙されてもいいと本気で思ってしまう。
「……逃げないよ、ヴァル」
一言呟けば、ヴァルは子供のように無邪気な笑顔を浮かべて「そっか」と返した。それからエンジェルを解放して愛おしそうに頬をなぞる。
「ハニー、ここで待ってられるか?」
「あ……うん……」
しばらくするとヴァルはバスローブとバスタオル、それからコップ一杯の水を手に戻ってきた。鼻歌まじりで戻ってきたところをみると相当機嫌がいい。
エンジェルは手渡されたコップをのぞき込んだ。透明な液体が手の中で軽やかに揺れる。……なんだか妙に優しい。なんで今更、と思う間にもヴァルはバスタオルでエンジェルの髪を拭き始めた。まるで本当に愛しくて、純粋に帰ってきてくれたことが嬉しくてたまらないかのような態度にますます困惑が広がる。
「……もっと怒られると思った」
「ハァ? なんで?」
「だって……ずっと連絡無視してたし……」
「まぁ、たしかにな」
ヴァルは短く答えると機嫌が悪くなったのか、それとも単に飽きただけか、水を吸ったバスタオルを片手でつかみあげてエンジェルに投げつけた。後は自分でやれという明確な意思表示だ。
「あと、それも脱げよ。惨めったらしく小さくなってんじゃねぇ。風邪ひいて撮影に穴開けたら許さねぇからな」
「……、うん……」
言われたとおりに濡れた服を脱ぐ。彼はどうやら一切の興味を失ったようでエンジェルに目もくれなかった。寂しさが心を震わせる。ひとたびヴァルのぬくもりを失うと凍えそうなほど寒くて仕方がなかった。
バスローブ一枚だけを身にまとい、呆然とその場に立ち尽くす。きっと惨めだったに違いない。体感、十分以上その場で立ち尽くした後、ヴァルは思い出したようにエンジェルの方を見てニッコリと笑い、自身の膝の上を指で示した。
おずおずと膝の上に座ると意思に反して緊張で体が硬くなる。そんなことも気にせずにヴァルはじっとテレビを見ていた。つられてエンジェルも薄暗い部屋に唯一灯った青白い光に目を向ける。
テレビの右上ではLIVEの文字がくるくると回転していた。その下でヴォックスが何かを早口でまくし立てていたけれど、使い物にならない頭ではなにも入ってこなかった。かろうじて理解できたのは新しい携帯のモデルが出るということだけだ。
「こんな時間にセールスなんてして誰が見るんだと思う? ヴォックスときたら、この俺を差し置いて四角のかわい子ちゃんとデートときた。むかつくだろ? 今度はあのチビを高く売りつけたいんだってさ」
という割に、ヴァルは薄い板の中で息つく暇もなくまくし立てるヴォックスから目を逸らそうとはしなかった。ヴァルの目を見なくたって、角が取れた甘い声だけで、むしろこの状況を楽しんでいるのが伝わる。
膝の上で縮こまっているエンジェルなんてまるで蚊帳の外だった。呼吸音すら聞こえる距離にいるのに心はどこまでも遠い。
エンジェルはヴォックスをにらみつけて自分の太ももにキツく爪を立て、ふいっとテレビから目をそらした。どうせ何を言っているのかはわからないし、テレビ向けの百面相も魔眼もすべてが気に障った。その代わりに、ヴァルの隣にいる事実を第三者に誇示するように胸にしなだれかかった。
「……気に入らないんだったらさぁ、テレビ消せばいいじゃん」
出会い頭に少し優しくされただけで馬鹿な頭は昔にタイムスリップしたらしい。心がかき乱され、真っ赤な瞳に自分だけを映してほしいと願ってしまう。もしかしたらまた優しくしてくれるかもしれないなんて、決して実らない希望にすがりたくなる。
「だって、ヴァルのことを放っておいてるわけでしょ。約束してたのかは知らないけどさぁ……」
言葉を紡げば紡ぐほど声は沈み、心もどん底に落ちる。テレビからは相変わらずヴォックスのハイテンションな売り文句が流れてきた。
「あぁ、スウィーティー……おまえは優しいな。ふふ、そんなダサい顔すんなよ」ヴァルの大きな手がエンジェルの長い前髪を持ち上げ、四本の腕が全身を撫でる。
「おまえは本当にかわいいなぁ。テレビ野郎とは大違いだ」
唇が重なるが、もはや何の感動もなかった。ヴァルのことを待つことはあっても、待たれたことなんてない。いつも身勝手に呼び出されて、好きなように扱われてそれでおしまいだ。結局、今日の俺はヴォックスの代理でしかないのだろう。
エンジェルの心が沈んでいるのに気がついてヴァルは目を細めた。
「おい。喜べよ、かわい子ちゃん。褒めてやってんだろ? それとも口直しが必要か?」
今度はもっと濃厚に唇が重なった。すぐに彼の長い舌がにゅるりと口内に侵入してエンジェルの舌を絡めとる。浅いところから深いところまで、好き勝手に蹂躙されるとじんわりと目に涙が浮かび、背筋をぞくりと何かが駆け上がった。
今更キス程度でどうにかなるほど純情ではないが、ヴァルが相手だとそんな余裕もない。舌を絡めるどころか、意識を保つだけで精一杯で、エンジェルはキツく両手を握りしめた。
「ん……っ……」
酸欠と甘いフェロモンで段々と頭がとろけていく。
「へたくそ」ヴァルは舌を引き抜いて妖艶に笑った。真っ赤な唾液がなまめかしく光を反射する。
「俺がこんなに教えてやってんのに全然上達しねぇなァ」
ヴァルは何度も執拗に口づける。フェロモンの混じった唾液が胃に落ちる度に体の内側からドロドロに溶かされて思考が真っ白に染まる。閉じなくなった口から、つうっと赤い涎が伝った。呼吸のタイミングすら選べず、ヴァルが気まぐれで許したタイミングで慌てて酸素を取り入れる。何度も死の淵に追いやられ、手をひいて連れ戻され、そのたびに単純な生の喜びが体に満ちあふれる。
さっきまでバッドに入っていたのが嘘のようだ。何も考えられない。まるで最高に時間をかけたセックスみたいだった。体の奥からドロドロに溶かされて、気持ちよくて、ぼうっとして、飛んでいくというよりはとろけてしまいそうだった。まぶたが勝手に落ちて、この甘美な感覚に身を委ねてみたくなる。それと同時にかすかに残った理性が警鐘を鳴らしたけれどもうなんだってよかった。
「っん……う゛ぁる……っ、……もっと」
開ききった口元から熱に浮かされた甘い声がこぼれ、今度は自ら毒蛾に体を捧げた。上半身を密着させて舌を伸ばす。いつの間にかうるさいテレビは沈黙していた。部屋にはエンジェルの荒い呼吸とヴァルの低い笑い声だけが響く。
「ノってきた? いいぜ……」
受け入れるとますます毒が体を巡り、血管が沸騰して全身が熱くなった。ヴァルの心情を反映しているのか一層濃くなった体液を溺れないように必死に飲み下す。目の前でチリチリと火花が散って小さく腰が揺れた。
「俺のフェロモンすき?」
「……うん。すき……」
とろけた頭で答えればご褒美とばかりにフェロモンが注がれる。ヴァルの目が楽しそうに細まるのを眺めながら、まるで調教だな、とフワフワした頭で思った。
「気持ちよくなれて幸せだろ?」
「うん……」
「素直なおまえは好きだぜ。かわいいビッチちゃん。もっと欲しいか?」
「うん……いっ!?」
突然絡めた舌に牙をたてられエンジェルは驚きと痛みで声にならない声を発した。口の中で血の味が広がる。何が起こったのか分からなかった。混乱しながらヴァルを見上げれば、体の芯まで凍らせるような低音が降り注ぐ。
「もっとそそる台詞吐けよ。それともカメラが回ってねぇとろくに演技も出来ねぇのか?」
「っ……ご、ごめん……」
「じゃあやり直しだ」
適度に与えられる痛みと快感で頭の中がぐちゃぐちゃになって目が回った。唯一分かるのはヴァルが気に入る言葉を吐かなければいけないということだけ。それは自分の言葉でありながら、自分の言葉ではなかった。いうならば引き出された言葉だ。
「お、おれには……ヴァルしかいないから……さ」
ちがう。
俺にはハスクがいるし、チェリーもいる。それにチャーリーもヴァギーもペンシャスもアラスターもニフティもいる。はっきりとそう言って跳ね除けてやりたいのに何も言葉にならない。ヴァルに触れられた箇所ばかりが熱を持って、存在を主張する。
「おまえ、本当に俺のこと好きだよなぁ〜」
「……うん、好き。だいすき……愛してる……ヴァル……」
だいきらいだ。きらい。すぐに殴ってくるところも、その後には決まってとろけるほど優しくされるところも全部嫌い。自分に言い聞かせるように何度も心の中で呟いた。それなのに身体はもっと甘やかしてもらいたくてヴァルにピッタリと密着して腰に腕を回した。心と体が真っ二つに分断されているみたいだ。
「んふふっ、俺もだよ、愛しい人(amorcito)♡」
うそだ。うそに決まってる。それなのにまるで本物の恋人に語りかけるような声色に頭が狂いそうだった。
「俺に会えなくて寂しかった?」
「うん、……寂しかったよ」
操られているみたいに、ますますヴァルを喜ばせる言葉が口からこぼれる。
こんなもの子供の人形遊びだ。台本はないけど、明確な正解があるから、模範解答をなぞっているだけ。そんなことは分かっているのに、馬鹿な頭は段々と本気になって、何もかもを真実だと思い込もうとしている。
「そうだよなァ? でもその割には随分強情だったんじゃねぇか?」
「そう、だよね……ごめん、俺が悪いよ……。だって、ヴァルは何度も電話してくれたし……俺が、わがままだっただけだから……」
「あぁ、ハニー。そんなに自分を責めないでくれ。おまえが本気で反省してんのは分かってんだ。だろ?」
「……、うん……」
「そんで」ヴァルの瞳が暗闇に発光するみたいにギラリと光った。「いい加減、あのおんぼろホテルを捨てて戻ってくる気になったか?」
エンジェルはこの問答が始まってから初めて言葉を詰まらせた。
「俺はおまえのためを思って言ってるんだぜ、スウィーティー。おまえがかわいいマゾ猫ってのは分かってる。けど苦しけりゃいいってもんじゃねぇだろ? 更生なんてふざけた目標よりももっと楽しいことが世の中にはたくさんある」
心臓がバクバクと音を立てる。ヴァルが何を言わせたがっているのかがはっきりと分かるからこそ恐ろしくてたまらない。この数分でしっかり躾けられた唇は固く横に結んでいないと今にでも彼の求めている言葉を呟いてしまいそうだった。
「大体、何が気に食わないんだ? なぁ、エンジー。答えろよ。俺はおまえをこんなに愛してるのに」
猫撫で声に耐えられなくなって思わずエンジェルは口を開いた。
「――ヴァルが好きなのは稼ぎになる俺の体じゃないの」
「もちろん体も好きだぜ。こんな触り心地のいい体は他にない。一度触ったら誰だって虜になる。顔もかわいいし、ステージ映えするし、それに度胸だってある。……なぁ、ハイになるのは楽しいだろ? 今日だって存分楽しんだって顔してる。それなのにあのお姫さまはなんで禁止するんだ? 辛いことなんてさっさとやめちまえよ」
「……俺が、ヤク中のアバズレだから変われないって?」
いつだか留守番電話に残っていた音声が頭の中に反響した。
「そんなこと言ってないだろ。俺が言いたいのはわざわざそんな苦しい思いする必要ないってことだ。ベイビー、わかんだろ?」
ヴァルはエンジェルの肩を優しく抱いた。ほのかに温かいものがこみ上げるのと同時に、否定はしないんだ。とぼんやり思う。そりゃそうだ。元々はヴァルの言葉だ。それに正しいと思う。結局、今日だって欲望に負けてここまで来たわけだから。そもそもコカインの時点で断れていればこんなことになっていない。
「で、どうなんだ?」
ヴァルの手が肩から首に移動する。それだけで呼吸が苦しくなった。
すべてがヴァルの言うとおりだった。ドラッグはやっぱり好きだし、セックスも好き。それにこの仕事だって天職だと思う。チャーリーの言っていることは夢物語で、拾い集めた砂粒でお城をつくろうみたいな馬鹿げた話だと思う。それに俺だって辛いことはしたくない。
だけど――。
エンジェルは両手を握りしめて、しっかりとヴァルの目をみた。
だけど……ハスクはこんなろくでもない俺を見て変わったって言ったんだ。だから俺は自分を信じたい。それだけで希望を信じる理由は十分だった。浮き沈みはあるだろうけど、いつかは肩を並べて誇れるような自分に変われると信じたい。
「俺はここに戻るつもりはない」
ヴァルの表情を伺う余裕はなかった。次の瞬間には体を突き飛ばされ、床を転がっていたから。テーブルの脚が脇腹を打って鈍い痛みが走る。
「ふざけやがってッ! この、穴しか価値のない能無しがッ!! 誰に向かって物言ってやがんだッ!?」
すぐに煙が首元に絡みつき、金属の重い音が響いた。ヴァルは容赦なく鎖を引っ張りエンジェルの体を力任せに足元に引き寄せる。覆いかぶさるように見下ろされると体がすっぽりと彼の影に飲み込まれた。
「お前は誰の物だ?」
低い声が地を這うように問いかける。エンジェルの腕を掴む手に容赦はなく、柔らかい白い毛がいびつに歪んだ。
「俺は誰の物でもない。お前にだって魂までは売ってない!」
舌打ちと共に首に手を伸ばされ、地面から足が離れた。本能的に暴れるもヴァルはそんなこと意にも介さなかった。その代わりに真っ赤な瞳は残虐に見開かれて裂けそうなほどの笑みを浮かべている。
「――いいぜ、エンジェル――もう一度教えてやるよ」
「ッ……くっ……!」
首を絞める手にギリギリと力がこもる。爪を立てて引き剥がそうとするもまるで効果がなかった。顔に血が集まり、目の前がぐらりと揺れる。自分の手の中で酸素を求めて喉が収縮するのを感じてヴァルは声を上げて笑った。
「なぁ――エンジェル。このまま喉も潰そうか。そうすりゃ二度とそんなふざけたこと言えなくなる。それにそういう趣旨のヤツは撮ったことがないだろ? 知ってるか? 喉を潰して、叫ばせるとするとクソ惨めな音が出るんだよ。声にならない声っていうの? お前は悲鳴もかわいいし、きっと様になると思うんだ。それか死姦モノもいいよな。俺は趣味じゃないけど、そういうのが好きな変態はたくさんいる」
冗談じゃない。エンジェルの表情は引きつり、かすかに焦りが生まれた。もしかしたら今日ばかりは本当に殺すつもりなのかもしれないという焦り。
「おいおい、そんな酷い顔しないでもっと笑えよ。子猫ちゃん。おまえはポルノスターのエンジェル・ダストだろ? 俺がやれと言ったらやるんだよ、このクソビッチ」
エンジェルの首を掴む手はまるで離れる気配を見せなかった。酸素を求めて口がパクパクと動く。
「それとも、まさか変われると本気で思ったのか? 救いようのないアバズレのお前が? 笑わせんなよ。エンジェル、お前は変われない。頑張ったところでどうせいつかボロがでる」
ヴァルの言葉が体を縛り付ける。
「ッ……俺は――」続く言葉は出てこなかった。脆い心はすでに限界だった。ヴァルの言葉は的確にエンジェルの嫌なところを引っ掻き回してキズだらけにして粉々に粉砕した。
喉につかえた感情は涙となって目に浮かぶ。反論の代わりに震え出した奥歯をエンジェルは強く噛み締めた。どんなに惨めな思いをしたって、情けなくたってコイツの前でだけは泣きたくなかった。顔はぐしゃぐしゃで、口角もアーチ型に下がり、固く結んだ唇は小刻みに震えて、ほとんど泣いているのと同じとはいえエンジェルに残った一欠片のプライドだった。
きっと声をあげて笑うだろうと思ったのに、ヴァルは意外にも純粋な子供みたいに目を見開いて硬直した。首の圧迫も緩くなり、最後の力を振り絞って暴れると拘束は簡単に解けた。大量の酸素を取り入れてむせ込む体を無視して入り口へと駆ける。慌てるあまり足がもつれて何度も体勢を崩した。
ヴァルは何も言わない。というより、エンジェルが逃げ出したことにすら気がついていなかった。まるで何かに取り憑かれたみたいに一点を見つめて、まばたきもせずに呆然としている。
その様子はもはや不気味ですらあった。
ついにエンジェルの指が扉に触れる。その瞬間、背後から地獄中に響き渡るような笑い声と一発の銃声が響いた。
突如、左足から力が抜けてエンジェルは床に崩れ落ちた。嫌な予感がして見てみればドクドクと流れる血が床に広がっている。
「クッソ……!」
アドレナリンのおかげで大して痛くはなかった。だが的確に撃ち抜かれたようで立ちあがろうとすると力が抜けて床に潰れる。
「エンジェル、スイートハート……俺のかわいい天使ちゃん」
ヴァルの手には撮影でスタッフを撃ち殺したのと同じ銃が握られていた。ハート型の銃口から細い煙がゆっくりと天井に上がっていく。機嫌のいい笑い声と硝煙の匂いが混ざる。
彼を取り囲む空気は目で見て分かるほど赤く染まっていた。発生源はもちろんヴァルだ。それが彼のフェロモンを多量に含む微粒子だということは分かっている。厄介なのは本人が自分の能力をまるでコントロールする気がないところだった。昂った感情のままに放出されるそれは一回吸い込んだだけで動けなくなるくらいの効力がある。
どのみちこの状態では逃げられない。エンジェルは片足で床を這いずりながら的確にヴァルと距離を取り続けた。
「エンジェル〜、どこ行くつもりだよ。俺は感動したんだ、本当に――ああ、ヴォックスがムカつくからってカメラをぶっ壊すべきじゃなかったな」
ちらりと脱ぎ捨てた服に目をやる。護身用の拳銃は二丁だけだ――ヴァルとやりあうにはあまりに分が悪い。殺すのはまず無理。一撃加えたところで激昂するのはわかりきっている。キレてくれれば嫌になるほど正確な照準がブレるかも、と思ったがそんな甘い考えはすぐに捨てた。なんだか今日は調子が良さそうだ。こういうときのヴァルはどんな精神状態でも一本の血管だけを的確に射抜けると分かっている。
ヴァルはステージの上を歩むときのように思わせぶりな態度で重い革靴をコツ、コツ、と響かせながらゆっくりとエンジェルに近づいた。
「無理に動くなよ。痛むだろ? それともそれが楽しいのかな」
追い詰められて、ギリギリの最中でもエンジェルの頭はどうにか回転を続けていた。ただ、きっと冷静ではない。そりゃそうだ。一日中アルコールとドラッグでキマった頭に加えて、こんなに出血したら誰だって冷静でいられない。
でもヴァルと渡り合おうというのなら、それはむしろ好都合だ。こんな化け物、冷静じゃ太刀打ちできない。
エンジェルは必死に逃げ道を探した。唯一、逃げられる道があるとすれば窓だけだ。借金取りに追われて二階から飛び降りたことはある。ワンナイトした男の財布を盗んだのがバレたとき――あのときは確か三階だった。人生経験は豊富な方だと自負しているけど、さすがに高層ビルから飛び降りたことはな
……いけるだろうか? ――たぶん。蜘蛛の運動神経を信じるなら。
少なくともここでヴァルとやりあうよりははるかに勝機がある。といっても勝算は数パーセントもないだろうけど。それでも試す価値はある。
エンジェルはさりげなく置きっぱなしの服に近付き、服の下で銃を握りしめた。ヴァルは機嫌良く話しているばかりで特に不審に思っていないようだった。
「エンジー、お前は俺に何回嘘をつけば気が済むんだよ〜。おまえはもっとお利口さんだと思ったんだけどな。俺が聞き分けの悪いヤツが嫌いだって知ってんだろ?」
「……嘘なんてついてないよ」
窓とヴァルに一発ずつ。最大限引きつけてから、目眩しで撃ってそれと同時に駆け出す。立つこともままならない足で駆け出せるかどうかは不明だが――火事場の馬鹿力というものを信じるしかなかった。
静かに、呼吸を整える。
「自覚がないんだとしたらもっと悪いぜ、エンジー。自分の発言をよぉく思い返してみろよ」
ヴァルは余裕の態度を崩さない。まだだ、もう少し。銃を握りしめる手にじんわりと汗が滲む。
「……ごめん……全然心当たりがないや」
ヴァルは肩をすくめて笑う。
心がざわつく。何かがおかしい。だけど、冷静にそれを分析する時間も頭も残っていなかった。
「ふふふっ、だってさぁ〜」
あと一歩――。
「だって、おまえ逃げないって言ったじゃん」
いつの間にかヴァルの腕は二丁の銃が握られていた。慌てて隠し持った銃を構えるも、ヴァルの方がわずかに早かった。銃弾が拳銃を弾き飛ばして明後日の方向に吹き飛ぶ。衝撃で腕がじんじんと痺れた。
「今日は二丁しか持ってないのか? それともブラフか?」
足取りは一歩も変わらず、ヴァルは着実にエンジェルを追い詰める。
もはや打つ手なしだ。もう逃げる手立てはない。ヴァルの甘い香りが体にまとわりつき、空気を一層重くした。
「……ヴァル……本当に勘弁してよ……」
思わず口からこぼれた本音にヴァルは「んー……」とわざとらしく顎に手を当てて考え込む仕草をしてみせた。
――もっとも、答えは分かりきっていた。
◇◆◇
「っ、もう、や、だ……!」
「だから逃げんなよ」
自由を求めて暴れ回る六本の腕を絡め取って口を塞ぐ。掴んだ腕からエンジェルの激しい鼓動が伝わった。体内に直接フェロモンを流し込む。次第に抵抗の力も弱くなり、だらりと弛緩した腕がソファーに落ちた。弛緩した体を真っ赤な翅で支える――そうでもしないと膝の上の小さな体は今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
エンジェルは目をぐるぐる回しながら何度も深い呼吸を繰り返した。彼はほのかに赤く色づいた息を吐き出している。
エンジェルの肺を満たした毒は内側からじわじわと体をむしばみ、全身に巡っていた。強制的に高められた体は、腕に触れる翅の些細な凹凸にすら快感を見いだすようで、時折肩がぴくっと跳ねて甘い吐息が漏れた。
「っ……や……だ」
処理しきれない感覚に生理的な涙がぽろぽろとこぼれ落ち、それをヴァルが舌を伸ばして舐めとる。
「そんなかわいい顔で泣くなよ、ベイビー。ああ可哀想に。まだ傷が痛むのか?」
エンジェルが反射的に体を硬くして首を大きく横に振るのを無視して、傷口に手を這わせる。包帯が巻かれた足は痛々しくてとびっきり甘やかしたくなった。
「俺だって本当はあんなことしたくなかったんだ。でもお前だってつれないだろ? 俺はこんなに心配してたのに、お前は体目当てときた」
「っ……う……ごめっ……ごめんなさっ……」
焦点の合わない瞳が小刻みに震えて、うわ言のように何度も同じ台詞を繰り返す。ヴァルはそんなエンジェルを見下ろして目を細めた。
「お前は本当にいい子だなぁ。もっと気持ちよくなろうな」
ヴァルの四本の腕が視界の端で下半身を狙うようにゆっくりと動いたのを見て、エンジェルは小さく悲鳴をあげた。
「……っ、ゔぁる……」
切羽詰まった訴えかけるような声に「ん?」と聞き返すも、とても話せるような状態でないことは分かりきっていた。しばらく黙って様子を伺うと、エンジェルは投げ出した腕を必死に動かして何かを探しているようだった。その手はしばらくいろいろな場所をさまよって、やがてヴァルの二回り大きい手を見つけると、指先をからめて握った。
かわいい要望に応えてぎゅっと指先に力を込めてやれば、エンジェルの両目からぽろぽろと涙がこぼれた。ヴァルはそれを眺めてクスクスと小さく笑った。
「嬉し涙かな」
ちょっとした意地悪で一本の手を振りほどいてみると、離れないでとばかりに緩い動きで追いかけるのがなんとも健気で愛らしい。
「おまえは本当に俺を喜ばせるのが上手だなぁ~。嬉しい?」
問いかけには反射的な頷きが返ってきた。とても脳を経由しているとは思えない。ましてや冷静に思考できるとも思えない。だがヴァルはそれで満足だった。というよりエンジェルの意志なんて始めからどうでもよかった。
不意に遠くで電話が鳴った。官能的な部屋には似合わないファンシーでかわいらしい着信音が響く――ハスクからの電話だった。その瞬間、鈍い反応しか返さなかったエンジェルが動いた。音に反応できるほどの理性が残っていたのも意外だったが、それよりもヴァルの機嫌を害したのはエンジェルが遠くで鳴る携帯に手を伸ばしたことだ。
ヴァルはキティが差し出した携帯を掴み取り、画面を確認して邪悪に口角を歪めた。
「ほしい?」
高いところで持ち上げるとエンジェルがつられて腕を伸ばす。どれほど腕を伸ばそうが、そもそもの体格差もあって携帯に手が届くことはなかった。それでもエンジェルは決して諦めない。その必死さはいっそ不愉快ですらあった。
さらにムカつくのは、電話主も諦めを知らないところ。まるでエンジェルなら絶対に電話に出るだろうという確信があるみたいにしつこい。
ヴァルは途端につまらなくなって、携帯を握りつぶして壁に投げつけた。エンジェルの表情が一瞬で絶望に染まる。
「……お前ってやっぱり傷ついてる時が一番そそるな」
シンプルな感想を呟いてエンジェルの顎を掴む。瞳だけは壊された携帯の方を向くのが鬱陶しいが、そのうち壊れた機械のことも忘れるだろう。
「携帯なんて必要ないだろ?」
仕事の連絡ができなくなることだけが気がかりだが、そんなものエンジェルを再びこの建物に縛り付けてしまえば何の問題もない、とヴァルは身勝手に判断した。快楽漬けでも単純な拷問でも、首を縦に振らせる方法は山ほどある。
つまり、この場に踏み入れた時点で物語の結末は決まっていたのだ。
ヴァルはエンジェルの体を軽々と抱き上げ、寝室へと歩き始める。
「ぁ……」
エンジェルは声にならない声をあげて、反射的に壊れた携帯に手を伸ばした。けれど四本の腕でキツく抱かれているせいでろくな動きにはならなかった。
「もしかして後悔してる? ベイビードール……いくらお前が馬鹿だってどうなるかくらい予想できただろ?」
エンジェルはピクリとも反応しなかった。それでも構わずヴァルは続ける。
「それとも、そんなに俺が恋しかったのかな? ふふっ……なぁ、エンジェル。変わる必要なんてないだろ? ――俺はどうしようもなく救いがいのないおまえが好きだよ」
◇◆◇
ヴォックスが当たり前のようにヴァルの寝室のドアを開くと、すぐに部屋の主と目があった。ヴァルはヘッドボードにもたれて煙管をふかしていた。その隣にはエンジェルが寝ていたが、はたから見ても分かるほどに様子がおかしかった。体のあちこちに真っ赤な歯形をつけて、体は小刻みに痙攣を繰り返し、口から真っ赤な唾液がこぼれている。
「……人形か?」
「ふふふっ、かわいいだろ? 妬ける?」
「あー、そうだな……」
ヴォックスはベッドサイドまで歩みを進め、ヴァルの手を取った。それから演技がかった態度で手の甲にキスを落とす。
「天国から落ちてきたならさぞ痛かったんじゃないか?」
「ハハハッ、あんまし痛くなかったからてっきりプリンスが受け止めてくれたんもんだと思ってたんだけどなぁ?」
機嫌がよくて助かった、とヴォックスは胸をなで下ろした。一応、替えの頭も準備させたが杞憂だったようだ。しかし、運良くエンジェルが戻ってこなければこうはならなかっただろう。そう思うと代わりに犠牲になってくれた彼を揺すり起こして「よくやってくれた!」と熱く感謝の言葉を語りたくなった。それから「これからもヴァルの癇癪を根気強く受け止めてくれ」とも。物に当たられるよりは人に当たった方がいい――物は壊れたらそれきりだが、怪我はそのうち治るし、地獄ではたとえ死んだって復活するのだから。
「ところでそれは、生きてるのか?」
「俺の目の届くところで死なせるわけないじゃん。ちょっとキマりすぎてるけどな」
「それで……それをどうするんだ? 監禁でもするのか?」
「監禁?」ヴァルはきょとんとして首をかしげた。「おまえってそういうのが好きなの? なんか意外だな。首輪つけて見せびらかすタイプだと思ってたけど」
「……私の好みはどうだっていいだろう」
「あっそう? 俺は知りたいけど――単純に、こっちの方が素直でかわいいだろ? 俺のことをほったらかして仕事するつかえねぇ板と違ってな」
ヴァルは唐突に昨日のことを思い出して唐突に悪態をついた。
「ああ、その件は本当に申し訳ないと思っているよ。昨日の分は後でたっぷりと埋め合わせしよう。今夜なんてどうだ?」
「今なら空いてる」
「そうか……それならそうしよう」
ヴォックスは休息にあっさりと別れを告げた。いくらエンジェルのおかげで機嫌がいいとはいえ、ここで断ったらヴァルは容赦しないだろう。そういうバランス感覚においてヴォックスの右に出る人間はいなかった。だからこそ、彼は長いことヴァルの隣を歩けている。
「せっかくだし、エンジェルも起こして3Pにする?」
「いや、今日はやめておこう。君がいるのにわざわざ男娼を抱くまでもないからな」
「お口が肥えてらっしゃる。でも、ま、それは認める」
二人は邪悪に笑い合ってベッドに沈んだ。
(了)
緊縛ショー:クラブ666にて
ヴァルが真剣な顔をしているときは大抵ろくなことがない。思い返せば、いつぞやの水責めブームも始まりはこの顔だった。
あの苦労の日々を思い出すと鼻の奥がツンと痛くなって思わず呼吸を止めてしまう。控えめに言って、もう二度とやりたくない――ようやく長い流行が終わったと思いきや、またすぐに新しい流行が始まるとは――エンジェルはこれから告げられるであろう無理難題を想像して、ため息を覆い隠すように高級チョコレートを口に運んだ。もちろんヴァルが用意してくれた訳ではなくて、戸棚を漁って勝手に食い漁っているだけだ。
珍しくスタジオではなく、彼の自室に呼び出されたエンジェルはソファーの上で思いっきり寛ぎながら死の宣告を待っていた。それも、もう一時間も。何を悩んでいるのか、呼び出した割にヴァルはなかなか用件を言わないし、話にも空返事。
暇を持て余したエンジェルの目の前には、高級チョコの包み紙や年代物の酒瓶(これは美味しかったから、持って帰ってハスクと飲むことにした)なんかが積み上げられている。気分は重いが、どうしようもないことは受け入れるしかない。せめて普段は値段を見ただけで買う気が失せるような金目のものを、これでもかと食らっているのは、ちょっとした憂さ晴らし、つまり些細な抵抗だった。
高級そうなソファーの上でブーツも脱がず横になり、ふかふかのクッションを堪能する――まるで重力がなくなったみたいだ。ほんと、こういうところだけは最高。
気がつけば六粒しか入っていない高級チョコは空になっていた。エンジェルはしぶしぶ立ち上がって戸棚を物色する。当然、右手に持ったスマホで値段を確認するのも忘れない。
戸棚には多種多様なお菓子が折り重なって詰め込まれていた。その大半はリボンで可愛らしく包装され、ご丁寧にヴァレンティノ宛のメッセージカードなんてものまでついている。エンジェルはほんの少しだけ、健気な贈り主に同情の心を寄せた。まさかヴァルが目を通したとは思えないし、きっと存在自体忘れているに違いない。
「ま、俺には関係ないけど」誰からのプレゼントだか知らないが高い順に食べてやる。
ろくでもない決意とともに、貪欲に六つの腕に大量の食料をうずたかく抱えてソファーに戻ると、ヴァレンティノはサングラスの下で非難するように目を細めた。
「なに? まさかメッセージカード読みたい?」
「は? んだそれ、知らねー。……食ってもいいけど太るなよ」
エンジェルは的外れな指摘に嫌気がさして顔をしかめた。
「俺がここんところどんだけ必死こいて練習してると思ってるの? このくらいじゃ変わんないよ。おかげさまで、あちこち痣だらけだし、毎日筋肉痛」
差し迫ったポールダンスの日程を思ってエンジェルはため息をついた。ショーの練習のせいで最近はろくに休みが取れていない。優雅な動きとは裏腹にしっかりハードな肉体芸術は一夕一朝の努力では身につかない。
もちろん地獄の変態どもはどれほど難しい技をそつなくこなしているかなんてこれっぽっちも興味はないだろう。そんなことエンジェルだってよくわかっている。彼らが気にすることといえば、高く上げた脚とかこぼれ落ちそうな偽の胸とかその程度のものだ。とはいえ、そこは曲がりなりにもプロ意識が働く。
ヴァルは何のことだか一瞬図りかねたように首を傾げた。二本のアシンメトリーな触覚がふわりと揺れる。
「練習? ――ああ、ポールか」
ヴァルはしばらく考え込んで、あっけらかんと告げた。
「アレ。もうやんなくていい。しばらくポールダンスはなしだ。今度のショーも中止な」
「はぁ!? こんなに練習したのに!?」
「そんなの俺の知ったことじゃないし~」
ヴァレンティノはケタケタ笑いながら、六本の腕をわなわなと震わせて怒りをあらわにするエンジェルに真っ赤な煙を吹きかけた。不思議とどれだけ吸い込んでも息苦しくはならない煙が、踊るように体に巻き付き、最終的に白い手首を縛り上げる。
「代わりに緊縛ショーやるから。さっさと服脱いでそこに座れ。――あ、その痣は三日やるからさっさと治せよ。俺が萎えるから」
「……そんなの、聞いてないんだけど」
絞り出した声は怒りでかすかに震えていた。虫を追い払うように軽く腕を振ると腕にまとわりついた煙はあっさりと霧散して、甘い香りだけがその場に残った。
「今言ったじゃん」ヴァレンティノは煙草を二本の指で挟んで前後に動かしながら、あくまで軽く言ってのけた。こちらのかけた時間や努力なんてまるでお構いなしだ。もはや怒る気力すらも湧かない。
「不細工な面すんなよ。不満か? ベイビードール」
「そりゃね」
「でも俺には関係ない」
隣からぬっと伸びた腕がエンジェルの顔を掴み、強引に二人の目があう。
「それで? 返事は?」
喉に引っかけるような低い声色ですごまれ、エンジェルは言葉を詰まらせた。どれほど抵抗しようと返事なんて一つしかない。そんなこと痛いほどわかってる。
釈然としない気持ちをどうにか噛み砕き、エンジェルは半ばヤケクソ気味に叫んだ。
「……はい、ヴァル。仰せのままに! やればいいんだろ、やれば!」
「よく分かってんじゃん。物分かりのいいヤツは好きだぜ」
ニヤニヤした含み笑いの手元には、いつの間にか彼の瞳とよく似た色の麻縄が握られていた。部屋にそぐわない異質な質感。否応なしに目を惹きつける赤色。まるで納得いかないとはいえ、エンジェルの瞳はヴァルが手にした縄に釘付けだった。
「それで……なんで急に思いついたわけ?」
「ん? ああ、この間ヴォックスとAV見てて思ったんだけど――」
思った以上に最悪な出だしだな。と思いながらエンジェルは黙りこみ、好奇心を抑えきれずに縄に手を伸ばした。つくづく好奇心が人生を台無しにしているような気がする。手に触れた感覚は思いのほか硬かった。指を滑らせると、縄のゴツゴツした感触が伝わる。
「緊縛ってやったことないだろ? 俺も話には聞いたことがある。でも、そもそもうちには縛れるヤツがいなかった。俺もやったことないしな。だからこの間、地獄の負け犬どもを片っ端から探して、手取り足取り教えてもらったんだよ」
「ふぅん……ちょっと待って。ヴァルが縛るの?」
「嬉しい?」
エンジェルはヴァレンティノの言葉に複雑な表情を浮かべた。別に嬉しくはない。嬉しくはないが――正直に言って、まったく興味がないと言えば嘘になる。
何しろ、あのヴァレンティノだ。上司としては最悪でも、同じ演者としては尊敬できる部分もある。それにセンスにかけては間違いなく超一流。監督業に専念するようになってから、彼が主演を張ることはめっきり少なくなったが、今でも根強い人気がある。クソ上司だということを抜きにすれば、業界のレジェンドとの共演なんて興味を惹かれないわけがない。
加えて、エンジェルも緊縛の存在自体は知っていたが未体験だった。SMモノの撮影で使うのは基本的にボンテージだ。拘束という意味ならそれだけで十分だし、雰囲気も出る。それに何より手軽だ。
とはいえ緊縛にはそれとは一線を画した良さがあることも知っていた。無骨な縄が滑らかな肌を締め付ける様子だとか、日常では絶対にお目にかかれない扇情的な雰囲気とか、縛り自体の美しさだとか――つまり、端的に言えばエロい。気にならないか?と問われれば、これもまた答えは決まっている。
「……気になりはするけど……」
エンジェルの呟きをヴァルは聞き逃さなかった。言質は取ったとばかりに瞳が楽しげに細められ、束ねられた縄がするりと地面に落ちる。ヴァルは四本の手で縄を横に引いて嗜虐的な笑みを浮かべた。
そう。何も好奇心旺盛なのはエンジェルだけじゃない。それに、認めたくはないのだが思いのほか息があう――特に今日みたいに明確に共通の目標があるときは。
「よぉし! とりあえず腕だしな」
エンジェルはヴァルに向かい合い、言われたとおりに二本の腕を差し出した。四本も残しておいたのはいざというときに抵抗できるようにするためだ。
正直、ヴァレンティノほど体を預けるのに不安になる相手もいない。見る限り、今は気分上々といった感じだが、五秒後にどうなるかは誰にもわからない。きっと本人だって分かっていないだろう。
縄が腕を滑る。教えてもらったというだけあって、ヴァレンティノの手つきは迷いなくスムーズだった。真っ白な腕に映える赤。確実に拘束されて動かなくなる両腕。エンジェルは最初のうちはその様をじっと見つめ、やがて天井の豪華な模様に目を移し、最終的に耐えきれなくなって口を開いた。
「……これって、何が楽しいの?」
すぐにヴァルの不満げな声が響いたが、エンジェルは気にせずにまくし立てる。
「だってさ! 俺は何を楽しめばいいわけ!? 退屈なんだけど!」
「そんなこと俺にいうなよ! おまえの楽しみなんて知ったことじゃねぇ!」
「大体、こんなので五分も場が持つと思う? 絵も地味だし、台詞もないし」
ヴァルは黙り込んで不満げに口を尖らせた。すぐに鉄槌が飛んでこないあたり、本人も思うところがあるのだろう。
「……そんなの、おまえがどうにかしろよ」
「じゃあどうしろっていうの」
「喘げ」
「あんっ」
「うるせぇ! 気が散るッ!」
「ヴァルがやれって言ったんだろ!?」
「黙れッ!」
いよいよヴァルの機嫌が悪くなり、エンジェルは残る四本の腕を器用に動かして縄をほどいた。経験上、これ以上藪をつつくのは自殺行為だ。ひらりと身をひるがえし、机の上からお土産の酒をひったくる。
「まぁ……とにかくさ。なんかイケてる演出考えてよ、監督。できれば俺も楽しめそうなヤツで。練習にはちゃんと付き合うからさ」
じゃ、お疲れ!と、爽やかに告げてエンジェルは部屋を後にした。自分が蒔いた種でもヴァルの怒りに付き合うなんてごめんだった。
◇◆◇
ヴァルが真剣な顔をしているときは大抵ろくなことがない。いや、口角が裂けそうなほど笑っているときもそうだし、機嫌が悪くてもそうだ。
ヴォックスは監視カメラの映像を食い入るように見つめて、衝動のままに机に身を乗り出した。マグカップが倒れ、中から黒い液体がこぼれたが気にする余地もない。
「そんなの聞いてないぞ!」
思わず画面の中のエンジェルと同じ言葉を叫び、ヴォックスは頭を抱えた。左目が意志を持ったようにぐるぐると動きまわる。
まさか急にショーを中止するとは。どうせヴァルのことだから観客に周知もしていないだろう。誰がするのかと問えば、当然のように私の名前が呼ばれるに決まっている。そもそもショーの手配をしたのだって私だ。会場とスタッフを抑え、多忙なスケジュールの合間を縫ってミーティングをこなした。
「今回はすごいから期待してろよ。もちろん俺のショーが最高なのはいつものことだけどな」
なんて楽しげに笑うヴァルの姿が脳裏に思い出された。ああ、たしかに最高のサプライズだ。今後のことを考えて重くなるばかりの頭を強引にあげてモニターを見る。
画面の中では、こちらの苦悩も知らずにヴァルが屈託のない笑みを浮かべていた。払わないといけない契約違約金、それから各種方面への謝罪、法外の値段のチケットを買った馬鹿どもの対応……とにかくやらないといけないことは山ほどある。そしてヴァルはそんな苦労、微塵も想像もしていないだろう。
「さすがに甘やかしすぎたか……」
自覚はあるし、たびたびヴェルヴェットにも言及されている。さっさと気持ちを切り替えて頭の中でタスクを整理しながらヴォックスは頬杖をついた。要は、彼は一回のショーにどれだけの細かな雑務が伴うかを知らないのだ。だから傍若無人で現場泣かせの発言が飛び出す。
型にとらわれないところが彼の美点であることは重々承知だ。だが、ここは一度私のありがたみをきちんと分からせた方がいいだろう。少なくとも、こんな面倒ごとを二度と起こさないように。
ヴォックスは秘書に今日の予定をキャンセルするように手短に伝えてから、目の前の課題に取りかかった。
あれから数日、エンジェルとヴァレンティノは毎日、何時間も練習を続けていた。最初の数日はポルノの撮影も並行して行っていたが、ついには撮影すらなくなり、エンジェルは文字通り一日中、例の真っ赤な縄で全身をがんじがらめにされていた。
モニターでその様子を監視しながら、ヴォックスは目を鋭くした。ヴァルの機嫌は目に見えて悪い。理由は単純明白だ。どれだけ練習を重ねようとも、満足のいく演出は生まれなかった。珍しいことだがヴァル自身にも正解が分からないようで、日に日に機嫌は悪くなるばかりだ。
そしてヴァルのスランプは長くてタチが悪い。さらに悪いのが、一度そうなるとヴァルは逆に意固地になって納得がいくまで諦めようとしないところだ。
正直に言って、ヴォックスにそこまでの熱量はなかった。クリエイター気質のヴァレンティノやヴェルヴェットと違って、ヴォックスは最初に数字を見る。コストに対するリターンがないのならやる意味はない――少なくとも、乗り気にはなれない。
ましてや、今回はヴァルも行き詰まっている。彼が乗りに乗っているなら、間違いなくショーは成功するだろうが、今回ばかりはわからない。
ヴォックスは監視カメラ越しに悪戦苦闘する二人を眺めた。暴れ狂う毒蛾と哀れな子蜘蛛。心が洗われるような光景だ。若干の愉悦を感じながらヴォックスは電気に乗って移動した。
「やぁ、ヴァル。ご機嫌いかがかな」
「何の用だよ、ヴォックス」
ヴァルは不機嫌を隠そうともせずにヴォックスを睨み付けた。体が震えるような低音をものともせずにヴォックスは続ける。
「いや、用というほどでもない。ただの視察だよ。それにしても……見たところ新しい試みはあまりうまくいってないようだ」
蜘蛛の巣よりも複雑に縛られたエンジェルにチラリと視線を向ける。エンジェルは目に見えて嫌な顔をした。ヴォックスの表情からしても、火に油を注ぎにきたことは明らかだったし、何より互いに口には出さないものの、薄らと嫌いだった。
「別に。お前に関係ねぇだろ」
「いや、そういうわけにもいかない」ヴォックスは食い下がり、本題に入った。
「――それで思ったんだが、いっそのことショーは中止にしたらどうだ?」
「テメェ、俺が失敗するって言いてぇのか!?」
赤色のサングラスが画面にぶつかってカチャリと軽い音を立てた。ディスプレイの縁に力が加わり、ミチミチと嫌な音を立てる。
「そうは言ってないが……あくまで私は君のビジネスパートナーであって、君のやりたいことに何でも金を出すパトロンとは違う。採算が取れそうにないビジネスに出資したくないだけだ」
あくまでヴォックスはツラツラと話を続ける。脅しが利かないことを思い出し、ヴァルは舌打ちしてヴォックスを解放した。爆発しそうになる怒りを無理に押さえつけ、ソファーに深く腰を下ろして肺を煙草で満たす。真っ赤な煙と共に、ヴァルはようやく言葉を返した。
「……採算ならとれるよ。成功すればな」
「どうやら練習はうまくいってないようだが。成功する根拠を聞いても?」
「根拠? そんなの、俺が出るってだけで十分だろ」
「そもそも、こういう形態のショーは大規模に客を入れるのが難しいだろう。何せ動きが小さい。会場のキャパは必然的に小さくなるし、加えて客を煽ることもできない。つまり見込まれる収益はどれだけ高く見積もっても――」
「……つまり、何が言いたいんだよ。ヴォクシー」
普段考えようともしないことを矢継ぎ早に述べられ、途端に痛み始めた頭に顔をしかめながらヴァルは質問した。
「君にしては話が早くて助かるな! つまり、私は一切協力するつもりはないと明言しにきた」
部屋に静寂が広がる。どうやら耳から入った言葉をうまく脳で処理できなかったようでヴァルはしばらくの間、固まって、小首を傾げた。吸い殻がソファーに落ちて焦げ臭い匂いが部屋に広がる。
最初にヴァレンティノの心を満たしたのは怒りというより困惑だった。あまりの衝撃に突発的な怒りも湧かなかったのだ。その後、心が沸騰するみたいにふつふつとした怒りがわき上がった。次第にそれは我慢できないほどにまで膨れ上がり、ある地点を超えた辺りで唐突に爆発した。
「ハァ!? じゃあ全部俺にやれっていうのかよ!?」
「まぁ、そうなるな。たまには自分だけの力で物事を成し遂げるのも悪くないだろう。そして、いい加減私のありがたみに気付くべきだ」
「……してるよ。十分。ヴォックスにはマジで感謝してる」
「まさか君からそんな言葉が聞けるとはな」
つれない言葉しか返さないヴォックスにヴァルは駄々をこねるように大声を上げる。
「なんで怒ってるんだよ。おまえ! 大体、俺が謝ってるのに許さないなんてどうかしてる! なんで急にそんなこと言い出すんだよ! そんなの酷いだろ!」
「いい経験になると思っただけだ。君のような優秀なクリエーターはいろいろ経験した方がいいだろう? 新しい刺激が創作の手助けになるかもしれない。……それと、謝ってはないだろう」
「やっぱ怒ってんだな。なら回りくどいことしないでそう言えよ」
「別に、怒ってはいないさ。ただ……君の思いつきに毎回付き合うのもうんざりだと思っただけだ。金になりそうならまだ折り合いもつくが今回はそういうわけでもないし」
「ふざけんじゃねぇぞ!」
ヴァルは心の赴くままに、怒りを露わにし、裏切ったヴォックスをなじり、自分がどれだけ傷ついたか全身で表現して、思う存分嘆いて、それでもヴォックスが首を縦に振らないとみるや、心の底から困り果てて口をつぐんだ。
ヴァレンティノが黙ると途端に部屋は静まりかえった。
「……本当に何も手伝ってくれないのか?」
ヴァルのアシンメトリーな触覚が芯を失ったように垂れる。心なしか、十フィートを超える長身すらも縮んだように思えた。さすがに言い過ぎたか? いや、これがこの男の作戦なのだ。だが――と頭の中で思考がぐるぐると渦巻いた。
ヴァルの態度はとても演技とは思えなかった。固く誓ったはずの心が絆されて決意が揺らぐ。たしかに面倒には違いないが、ヴァルに雑事をやらせるなんて、冷静になれば酷な話だ。そもそもできるわけがない。長く続く沈黙が気まずい。
「ヴァル……、その」
沈黙に耐えかねて名前を呼んだその瞬間、ヴァルはゆっくりとソファーから立ち上がった。身長差と防御壁のような白い毛の中に顔を深く埋めているせいで正確な表情は窺い知れない。だが一瞬だけ、チラリとサングラス越しに覗いた瞳はいくらか寂しそうな色をまとっていた。
「……わかったよ。おまえがどうしても手伝わねぇっていうならそれでいい」
ふいっと顔を背けて四本の腕で体を抱きしめる。体を包む翅が小刻みにさざめいているのを目撃するともはや黙ってはいられなかった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。まぁ、その。まったく手伝わないというのは、さすがに言いすぎたよ。会場くらいは抑えてもいい。相場もわからないだろう? いくつか候補を見繕って、あとでリストにして渡そう。ただ……私の懸念点は君がポルノの制作も投げ出していることで……期限を設けたい。譲歩して一ヶ月だ。それ以上は待てない。それでもいいかな」
ヴァルは「うん」とも「いいえ」ともつかない音を返した。二人の間に流れる空気は相変わらず重苦しく、どこかぎこちない。
「……別に……君を信じてないわけじゃないが……そうだな……」
何を言おうとしたのかは本人にも分からなかった。言いかけた言葉は宙に消え、続きを思考するよりも前にポケットにしまった端末が震えた。普段なら目の前で仕事の電話でも取ろうものなら容赦なく携帯を叩き割られるというのに、今日に限ってヴァルはそんなことにすら気が回らないようだった。
「ああ、私だ。――その件か。わかった。すぐに向かう」
最後にちらりとヴァルの様子を窺い、先ほどの言葉の続きを探したが言葉は見つからず、結局、別れの言葉すら残さずにヴォックスは電気になり部屋を後にした。
ヴァルはしばらくヴォックスが消えた監視カメラを眺め続けた。
「キティ」
低い声は絞り出すような音で、喉に引っかかってかすかにかすれていた。名前を呼ばれただけだというのに、高性能なアンドロイドは的確に主人の要望を見抜き、軽いモーター音を響かせながらクローゼットから拳銃を持ち出して主人に手渡した。
「……ッ、あの野郎!! 俺のやることにケチつけやがって!! 誰が頼るか! あんなヤツ!」
ヴァルは怒りのままに監視カメラに弾丸を撃ち込んだ。監視カメラは煙を吹き出し、破壊された部品がパラパラと床に落ちた。
「クソッ!!」
とどまることを知らない怒りは遠巻きにその様子を眺めていたエンジェルに向かった。苛立ちのままに真っ赤な縄に手をかけ、怒りのままに引き絞る。
「アイツ、俺のこと捨てやがった! 大体、俺が何したってんだ!? どう考えたって俺は悪くないのに!」
「ヴァル」
麻縄は容赦なくエンジェルの肌に食い込みギチギチと苦しげな音を発する。そこには気遣いの欠片もなかった。というよりもヴァルはエンジェルのことなんて見えていなかった。
「ヴォックスのヤツ……ッ! 俺に向かってふざけたこと言いやがって……絶対許さねぇ。絶対殺してやる……!」
「ヴァル!」
エンジェルは痛みに顔をしかめ、大きく声をあげた。縛られた腕はあまりにキツく縛られたせいで血流が止まって指先が痺れている。ヴァルはブツブツと文句を呟くばかりで、エンジェルの言葉なんて何も耳に入っていなかった。
「ねぇ! ヴァルってば! 痛い!」
「ああ!?」
ヴァルの体を強引に突き飛ばしたところでようやくヴァルはエンジェルを見た。
「別に、そんな荒れる必要もないじゃん。一ヶ月もあればどうにかなるよ。ヴォックスだってそう思ったから言ったんじゃないの? それにヴァルなら助けてくれるヤツは山ほどいるでしょ? テレビ頭じゃなくたってさ。わざわざヴォックスにこだわる必要もないじゃん」
ヴァルは釈然としない様子で黙り込み、やがて縄を放り出した。とにかく何度も爆発を繰り返す怒りはなくなったようだった。
「……クッソ萎えた」
ヴァルはそれだけ呟くといつの間にか床に落ちていた帽子を拾い上げドアの方に向かった。
「今日は終わりにするの? ならせめて解いてからにしてよ」
エンジェルの文句にヴァルは顔だけ振り返り口角を歪めた。
「なんで俺が手伝わないといけないんだよ? そんくらい自分でどうにかしろ。てか、お前がダセェのが悪い。――あ、そうだ。エンジェル、それ貸してやるからおんぼろホテルで練習しろよ」
「はぁ!? ヴァルは遊びに行くのに?」
「それに何の関係があんだよ。じゃ、俺は腹いせに馬鹿なビッチ連れ込むからさっさと出てけよ。じゃあな、ハニー」
ヴァルが出ていくのを見送り、エンジェルは内心でガッツポーズした。言いつけ通りに練習するつもりなんてこれっぽっちもなかった。夜は始まったばかりだ。時間はまだ二〇時にもなっていない。
「ラッキー。俺も遊びにいこっと」
とにもかくにも、この無茶な拘束を解くところからだ。
◇◆◇
それからしばらく。案の定というべきか、うまく行かない日々は続いた。むしろタイムリミットが近づくにつれて二人のコンディションは悪くなるばかりだった。そうなると、もともと歪な契約で結ばれている二人の間には日ごとに険悪な空気が流れ始めた。毎日長いこと研究を続けているというのに何の成果も得られないのだ。それも仕方のない話だろう。
「もっとセクシーなポーズしろよ」
体をがんじがらめにされている状態でどうしろと、と思いながらもエンジェルはヴァルの言葉に忠実に軽く上半身を突き出してみせた。
「だせぇな。へたくそ。もっと声とか出せねぇのか?」
「この間嘘くさいって言ってたじゃん」
「それはお前が下手だからだろ。いいからやれよ!」
エンジェルの口からは自然とため息がこぼれた。気分がまったく乗らない。それもそうだ。こんな一触即発の状態で艶やかな態度なんてとれるものか。それに未だにとっかかりの一つも得られていない。
何度も縛ったおかげで緊縛の腕自体は上がっているとはいえ、ただそれだけだ。エンジェルは姿見の中に映る自分をジッと見つめた。
はたからみてもかなり綺麗に縛られていると思う。偽の胸を強調させるように首の付け根から斜めに縄が走り、その下の部分は蜘蛛の巣を模した飾り縄で飾られている。腕はオーソドックスに後ろで縛られている。どうなっているのか分からないが、本当に動けないのが不思議だった。脚はM時開脚のような形で、太ももとすねの部分が束ねられている。完璧に左右対称で、結び目の大きさも均等。綺麗だが、ただそれだけだった。
縄を握るヴァルの指先からはかすかに焦燥を感じた。
「……ちょっと休憩しようよ、ヴァル。焦る気持ちも分かるけどさ。こんな状態でやってうまくいくわけないよ」
ヴァルは舌打ちして煙草に火をつけると監視カメラを睨み付けた。するとカメラはバツが悪そうに顔を逸らす。
ヴォックスとヴァルは未だに仲違いを続けていた。いつの間にかヴァルが破壊した監視カメラは何事もなかったかのように直されていた。直接顔を見せることこそなかったが、ヴォックスが練習をのぞき見ているのは明らかだった。
そのせいでヴァルの機嫌はさらに悪くなり、柄にもなく焦っている。ヴォックスにあそこまで言われ、プライドを傷つけられた以上、成功以外の道は許されていないのだ。
◇◆◇
「ヴォックス! 今度の会場の件なんだけど――」
スマホから目も上げずに、態度悪く足でドアを開けたヴェルヴェットはモニターに映る映像を確認して「うわっ」と心底嫌そうな声をあげた。
「ちょっと、まだやってんの? アンタのストーカー趣味はいいけど、アタシがいないところでやって。こんなダッサいショー見てられないんだけど!」
「そういうな! 君も見るといい! なかなか見応えがあるぞ! それに君もヴァルの癇癪にはたびたび悩まされているだろう。たしか先月もモデルを引き裂かれていたな」
「しかも十七人もね。月間最高人数だわ。逆に仕事にならなくてリフレッシュできたくらい」
ヴェルヴェットはヴォックスの椅子に腕を置き、モニターをのぞき込んだ。モニターの中ではエンジェルとヴァレンティノが四苦八苦している映像が映し出されている。
「……相変わらずスランプなのね。うちのガキは」
「ああ。この分だとショーも失敗するだろうな! だから私は言ったんだ!」
嬉々として語るヴォックスをヴェルヴェットは「ガキ臭」と一蹴した。
「人の失敗を喜ぶほど性格悪くないわよ。それがアタシに関係ないヤツだったらなおさらね。たしかにあの坊やは暴れすぎだけどショーが失敗しろとまでは思えない」
「この私の代わりに、どこのならず者に頼んだんだか知らないが絶対に失敗するさ。ヤツのこだわりにその辺の馬鹿がついていけるとは思わないからな」
「という割にはずっと監視してんのね。結果が見えてるなら放っておけばいいじゃない。アタシにはむしろ成功してほしそうみえるけど?」
ヴォックスは画面から一瞬たりとも目を離さず、ヴェルの言葉を笑い飛ばした。
「成功してほしい? そんなわけないだろう! これはただの監視だ。ヴァルを野放しにすると何をしでかすか分かったものじゃないからな。誰かがリードを握らないとダメだろう?」
「で、その役は自分が一番適任だと思ってんのね。ていうか、そんなに気になるんだったらいつもみたいにアンタが一から十まで世話すればいいじゃない」
「はっ、私が!? 絶対にお断りだな。一言謝罪があれば考えなくもないが」
「謝罪!? ヴァルが? 冗談でしょ。そんなのいつまで待ったってありえない。期待するだけ無駄ね」
言ったもののヴォックスは諦めていないようで、じっと画面を見つめていた。ヴェルヴェットもつられて画面に視線を向ける。
「――つまりアンタもアンタで構ってもらえなくて拗ねてんのね。はねのけたり求めたり……ほんと、うちの男たちって頑固で面倒」
「私は――」
「黙って。アンタの言い訳なんて求めてないのよ」
それにしても、ひどいショーだ。見ているだけで歯痒くて思わず叫び出したくなった。今すぐにでも現場に乱入して全てを叩き直しやりたいくらい。そんなに身体を反らしたら見ている方の気が散るし、ゴテゴテした縛り方も鬱陶しい。アタシならもっと――と思ってヴェルヴェットは一度冷静になった。いけない。どこぞのテレビ頭の癖がうつってる。
横目でヴォックスを見ると、彼はまだモニターに夢中だった。こんなに釘付けなくせに、まるで失敗してほしいみたいな口ぶりなのがおかしくてヴェルヴェットは小さく笑った。
「ほんっと、おかしいわ」
ヴォックス自身も、自分の行動がチグハグでどっちつかずなことはわかっていた。当然、その原因も分析できている。
ヴァルの理不尽な横暴に振り回された怒り……というより、正確にいえば、自分以外の援助を受けて、ヴァルのショーが成功して欲しくない。かといって、ひたすら呪詛を吐いて失敗を祈れるかというと、そこまで単純な話じゃない。いや、何度もそうしようとは思ったが、その度に先日会った時の、ヴァルに傷ついたような寂しそうなあの顔が脳裏によぎって喉が詰まるのだ。それにこうして、華麗に飛び立つために翅を震わせている彼を見ると自然と好感に天秤が偏る。
こうなると、もはや手伝わないというより、自分の言葉が足枷になって手伝えないが正しいような気さえする。そういう意味ではヴェルの言葉は真理を突いていた。つまり、頑固で面倒。互いに変に意固地になっている。
「……だったら君は成功すると思うのか?」
「するでしょうね」
ヴェルヴェットはあっさりと言い切った。そこには少しの疑いもない。あるのは圧倒的な信頼だけだ。
確信に満ちたヴェルの言葉にようやくヴォックスは視線をあげた。
「正気か? これを見て?」
「もちろん、今の状態じゃてんでダメ。話になんない。これなら豚小屋のセックスでも見てた方がまだマシね」
でも、とヴェルヴェットは続ける。
「あの坊やはこんなもんじゃないでしょ。この程度のヤツだったらアタシは最初から手なんて組まない。アンタだって心の底ではそう思ってるんだから、さっさと認めればいいのに」
ヴォックスは何も答えず、再びモニターに目を戻した。まるで今、この瞬間にでも奇跡がおきてヴァルがスランプを抜け出せるのを信じているかのように。
せっかくだから、イメージカラーのアイシャドウでも開発しようかしら。なんて思いながら、ヴェルヴェットもモニターに視線を戻した。
「ああ、それにしても……馬鹿な坊や。原因なんて端から見れば一発じゃない」
◇◆◇
ヴェルヴェットは腰に手を当ててため息をついた。目の前で繰り広げられる子供のお遊戯会のような白けたショーは三十分も前から見る気がなくなってひたすらシンスタグラムで今期のトレンドを漁っている。
時々顔を上げて、五秒ほど現実をみて、顔をしかめて携帯に目を戻す。ムーディーな音楽も固い動きも表情も監視カメラ越しに見るより何もかもが最悪だった。練習用に部屋の全面が鏡面張りになっているせいで二倍は見るに堪えない。
前言撤回、今回ばかりはダメかも。
「いい加減にしな、ヴァレンティノ! こっちはアンタのダッサいショーなんて見てるほど暇じゃないのよ! うちのモデルたちにランウェイの指導したいからさっさと撤収してくんない!?」
「はぁ!? ふざけんなよ!」
「ふざけないでほしいのはこっちの方だわ。ごっこ遊びも大概にして」
もはや我慢なんてしていられなかった。そもそもこの部屋を明け渡してもらわない限り仕事にならないのだ。性根を叩き直したいモデルは山ほどいる!
「まずエンジェル! アンタは表情も体も固すぎ。あと集中してないでしょ。坊やに付き合わされてうんざりしているのは分かるけど、態度に出すんじゃないわよ。プロでしょ? それから選曲も古くさいし――」
立て続けに指摘を飛ばして、ヴェルヴェットは一度息を吐き、ヴァレンティノを見つめた。
「何よりも一番の問題はアンタね」
「はぁ? 俺!? 俺のどこが悪いッてんだよ!」
ヴァルはエンジェルを放りだしてヴェルヴェットに詰め寄った。エンジェルはこれ幸いとばかりに肩の荷を下ろした。皮肉なことにヴェルヴェットの言い分はもっともで、今の方がよっぽどリラックスしていた。
「アンタ、エンジェルのことちゃんと見てないでしょ」
「嫌というほどみてる!」
「だったらアンタの目は節穴ね。テレビっ子がいきすぎて目がくらんでるんじゃないの?」
「あのクソテレビは関係ねぇだろ! 訳わかんねぇことばかりごちゃごちゃ言いやがってッ!」
「それが理解できてないからうまくいかないんでしょうね。ま、可哀想だなんて思わないけど」
話は終わり。とばかりにヴェルヴェットはヴァルに背中を向け、エンジェルに人差し指を振るった。指を振るう度に、まるでシンデレラに出てくる魔法使いのように装いが変わる。
エンジェルは黙って着せ替え人形になりながらも、ヴァルの機嫌を伺った。鏡張りの部屋ではどこにいようと彼の姿が目に入る。そしてどの角度から見ても、その怒りは爆発寸前だった。
「ほら見てよ。こっちの方がよっぽど似合ってる。もちろんアタシの作った服はいつでも最高だけど、モデルが白けてたんじゃ話になんないでしょ。分かったらさっさと退いて部屋に引きこもってな、クソビッチ!」
その瞬間――ガシャン!と激しい音が部屋に響いた。ヴァルが怒りのままに鏡を叩き割ったのだ。彼を映す鏡には大きな亀裂が入り、粉々に砕け散った破片が床に散らばってスタジオのまばゆい光をあちこちに散乱させる。
ヴァルは鋭利な破片に囲まれながら、静かにそこに立っていた。何もしていないはずなのに、ギチギチと革を締めるような音が聞こえる。
誰が見ても刺激しない方がいいのは明らかだが、ヴェルヴェットはそんなこと気にしなかった。
「ああ、もう最悪ッ! アンタって、ほんとガキね! 当たるなら物じゃなくてテレビ頭にしな! スランプだかなんだか知らないけど、自分の機嫌は自分でとって!」
「あ!? うぜぇ! さっさと失せろ!」
ヴェルヴェットは肩をすくめた。
「ま、なんだっていいわ。アンタの怒りに付き合う気もないし。でも、転けるなら派手に転んでね。炎上もせず、話題にも上がらないなんて最悪! そんときはアタシが直々に燃やしてやるから覚悟しな! じゃあね、ビッチ!」
中指を立てながらヴェルヴェットが立ち去り、部屋にはヴァルとエンジェルだけが残された。ヴァルの怒りは未だに彼の体に渦巻いていて、ふつふつと湧き上がる怒りは目に見えるようだった。
「……ヴォックスもヴェルヴェットも……俺が悪いってのか!?」
燃え盛る怒りのままに、ヴァルはエンジェルの首をつかみあげる。苛立ちのあまりエンジェルの服をビリビリに引き裂いてやりたい衝動に駆られたが、すんでのところでヴェルヴェットの趣向を凝らしたデザインが目に入りヴァルはピタリと動きを止めた。
「……離してよ。ヴァル」
エンジェルはもはや恐怖も何も感じなかった。ただ全身が寝不足の朝みたいに気だるい。いい加減、同じことの繰り返しにうんざりする。昨日もこんなことになったし、一昨日もそうだ。
「俺に指図すんじゃねぇ! 大体、全部、おまえが悪いに決まってんだろ!?」
その言い分もいつもと変わらない。普段ならこの程度の言葉、なんとも思わずにやり過ごせる。だが、なぜだか今日に限って無性に抵抗したくなった。
「……別に持ち上げなくたって話はできるじゃん。いいから離せよ」
体を掴み上げるヴァルの手に容赦なく爪を立てる。ヴァルは力を緩めるどころかむしろ力を強めた。ポタポタと床に血が滴り落ちる。
「いい度胸だなァ……エンジェル。もう一度立場ってヤツをわからせた方が良さそうだ」
体の芯に響くような低い声は恐ろしくもあったが、それ以上に、エンジェルはイライラして堪らなかった。
何も進展がないのに苛立っているのはヴァルだけじゃない。むしろ、毎日理不尽に怒りをぶつけられ、体の自由を何時間も制限されるエンジェルの方が、その度合いは何倍も大きかく、本人ですら気がつかないうちに、蓄積した怒りは限界を超えて表面に溢れ出るほど肥大化していた。
加えて、ヴェルヴェットのもっともな指摘も背中を押していた。何もうまくいかないのは俺だけの責任じゃない。そのくせ、ヴァルは俺を上から押さえつけて、全ての責任を押し付ける。
いい加減、限界だった。
「ッ……だからさぁ……ッ! ヴァルのそういうところが嫌なんだよ!」
ついに、というより今までがおかしかったのだ。今日まで続いた険悪な雰囲気が、ダムが決壊するように崩壊しただけのことだった。元からうまくいくはずなんてなかった。そもそもSMに信頼が必要なら、契約の鎖で繋がれた二人にとってこれほど不向きなものはない。
「大体、何度も言ってるけど俺は楽しくもないし! 今だってヴェルヴェットの服がなかったら酷い目に遭わせてただろ!?」
「それが何だって言うんだよ。おまえをどう扱おうが俺の勝手だ。おまえの意見なんて聞いてねぇ!」
「いいや、おまえは俺の意見を聞くしかないよ。だって今回は俺も演者だからね! 代役を立てるなら好きにしろよ。どっちに転んだって俺は構わないからさ!」
エンジェルはヴァルの手を力ずくで振り解き、つかつかと出口まで歩くと最後にくるりと振り返った。ヴァルは滅茶苦茶になった部屋の中央で目を丸くしていた。
「当日だけは行ってやる。でもそれ以外は本当に期待しないで。じゃあね!」
勢いよく扉を閉めると威圧的な音が響いたがもはやヴァルの機嫌なんてどうでもよかった。何もかもがうんざりだった。うまくいかない練習に長々と付き合わされるのも、自由を奪われるのも、何もかもだ。
そして翌日、この日々が始まってからというもの、エンジェルは初めて練習をサボった。鬼のように着信がかかってきたが、無視しているうちに携帯は静かになった。後ろめたさが全くないといえば嘘になるが、昨日の大喧嘩の後にしれっと顔を出す気にはとてもならなかった。一晩経って冷静になってみても自分の言動に間違いはないと思う。それに行ったところで進展があるとも思えない。
そんなわけでエンジェルは久しぶりにぐっすりと豊かな睡眠をとった。夕方になってようやくベッドから抜け出した頃には、目の下に深く刻まれた隈もだいぶ薄くなっていた。昨日縛られた縄の痕だけは鮮明に、赤っぽくなって肌に残っているが、この体に何の傷もない日なんてほとんどないので特に気になりもしない。
「大体、ヴァルも悪いだろ……絶対に俺だけのせいじゃないし……ていうか、馬鹿の一つ覚えみたいに同じことを繰り返したってうまくいかないに決まってるだろ……」
身支度をととのえながらブツブツと小言を呟く。洋服を着替え、髪を整え、いつもの癖でうっかり外出用のサングラスに手を伸ばし、エンジェルは深くため息をついた。ここのところの連勤のせいですっかり癖になっている。
「あんなとこ、誰が行くもんか……! 少なくともこの痕が消えるまでは絶対にいってやんない。アイツもいい加減頭を冷やせばいいんだ……!」
ふとサングラスの隣に乱雑に置いてある真っ赤な麻縄が目に入った。いつだかヴァルに強引に押し付けられた代物だ。それを見るなり、エンジェルはすぐに目を逸らした。オフの日に見たいものではなかった――もちろん、もう仕事だとしても見たくない。
ともあれ、あまりに久々の休暇すぎて特にやりたいことも思いつかなかった。仕事中はあれこれ思いつくのにまったく変な話だと、エンジェルは肩をすくめてロビーに向かう。空間を切り取ったようなバーではハスクがグラスを磨いていた。ハスクはエンジェルのことを視界に捉えるなり、目を丸くして驚き、ニッと口角を上げる。
「今日は休みだったのか?」
「休みっていうか、サボり。誰があんな奴のところ好んでいくんだよ。今回ばかりは向こうが頭を下げるまで絶対いってやんない」
「そりゃまた、強く出たな」
久しぶりに酒で腹を満たすと次第に気が大きくなり、エンジェルは声を張り上げてまくし立てた。思えばここのところ酒も飲んでいなかった。
「だってさ! ポルノは、百歩譲って監督が上で俺が下っていうのはわかるけどさ! 今回に関しては同じ演者なわけだからさ、対等なはずだろ!? そのくせ俺の話は全然聞かないし、ヴォックスはヴァルの機嫌を悪くするしでほんと最悪」
「うまくいってないんだな。通りで最近帰りが遅いわけだ」
「まぁね。でもうまくいく方が珍しいよ。そもそも俺とヴァルは見ている世界が違うんだと思う。おかげで痕は残るし、ほら見てよ!」
エンジェルはいつもの光沢感のあるピンク色の手袋を外して腕をカウンターに置いた。文字通り傷跡は努力の証だ。
「俺って本当に真面目だよね。ここまで付き合っただけでも十分すぎるくらい。大体、あんなにきつく縛らなくていいっていうか……ま、言うと機嫌悪くなるから言えないんだけどさ……」
腕を引っ込めようとすると、ハスクが腕を掴んだ。エンジェルは一瞬、ドキッとして目を丸くした。心臓が飛び跳ねてどうしようもないのを必死に誤魔化して、あえて挑発的な言葉を発する。
「なに? 子猫ちゃん。俺と遊びたくなっちゃったとか?」
「馬鹿言え。……内出血ってわけでもないんだな。どのくらいで治るもんなんだ?」
「……もしかして、心配してくれてる? このくらい大丈夫だって。すぐ治るよ。マジで! むしろヤバいのは縛られてるときでさ。変に縛ると血流が止まったり神経をやったりするから……それに相手はヴァルだし。えっと、だから……」
エンジェルはぐるぐると目を回し、机に手をついてバーの天井に頭をぶつけそうなほど勢いよく立ち上がった。
「その、いったんやってみる!? ホテルでもやれとか無茶言われててさ! 縄はあるんだよね! ほら、やり方は俺が教えるからさ!」
「なんでそうなるんだ!」
「だって、まぁ、その、やってみないと分かんないもんじゃん? ちょっと待ってて、持ってくる!」
エンジェルは部屋に駆けて、真っ赤な縄を手にすぐに戻ってきた。未だについていけない様子のハスクを放ってエンジェルの心は妙にやる気に満ちあふれていた。というのも、ここにも奇妙な好奇心が働いていて、単純にハスクがどういう風にやるのか気になったのだ。
真っ赤な縄を手渡すとハスクは縄の感触を味わいながら心底嫌そうに顔をしかめた。
「練習が嫌でサボったんじゃなかったのか」
「相手が違うからこれはノーカン。やってみようよ、俺を縛れるチャンスなんてなかなかないよ? ほらほら、人助けだと思ってさ!」
こうなったエンジェルは止まらない。ハスクは酒を飲み干し、深いため息をついた。
「……あらかじめ言っとくが、下手だぞ。やり方がわからん」
「そこがいいんじゃん! まぁいいから軽い気持ちでさ。俺が手取り足取り教えてあげるよ」
白く細い手首に真っ赤な縄が這う。縄をしめるとキツく軋んでエンジェルの背筋にぞくりとしたものが駆け上がった。思わず体が硬くなる。縄越しにそれが伝わって、ハスクは動きを止めた。
「大丈夫か?」
自分の手首から顔をあげるとハスクの金色の瞳と目があった。
「だから心配する必要なんてないんだって。いつもはもっとぐるぐる巻きにされてるんだよ?」
「ハハハッ、何の自慢にもならないな」
つられてエンジェルも笑う。自然と体の力が抜けた。
なんというか、変な気分だった。状況は異常で、明らかに日常の延長線上には存在しないのに、いつもと変わらないふざけた会話が繰り広げられる。
かと思えば、急に怪しげな気配が流れ始めて、エンジェルが静かに冷静に指示を飛ばす声だけが響く。二人を取り巻く空気は変幻自在で、まるで予測不可能なジェットコースターのようだ。
ハスクはしきりにエンジェルの体を気遣いながら縛りを進める。縛りが進むにつれて、エンジェルは言葉少なになってじっと一点だけを見つめた。
「痛くないか?」
エンジェルは答えない。じっと自分の腕を見つめながら深く考え込んでいる。
「エンジェル?」
「えっ、あ、ああ。うん、平気……」
エンジェルはまるで集中できていなかった。決して嫌なわけじゃない。むしろ……なんだろう。愛されている。身の動きを封じるためじゃない。もっと、慈しむみたいな、優しさを感じる。ハスクの手は縄を握っているというのに、縛られている部分を優しく支えられているかのような感覚だった。ほどよい圧迫感はむしろ安心感を与えて、縛られた箇所がじんわりと暖かくなる。無意識的に脈動が大きく、ゆっくりになって、それがなんだか心地よかった。
性的な快感とはまた違う。もっとスローペースで体の置くにじんわりと響くような心地よさ。
――これって……なんか……今までは一切感じなかったけど、本当にちょっとだけ……。
「……なんか……いいな……」
ハスクのつぶやきはまさしくエンジェルの言わんとしていることだった。エンジェルは途端に顔をあげてカウンターに身を乗り出した。
「――や、やっぱりそう思う!? 俺もそう思うんだけど……うーん、ヴァルと何が違うんだろ。もしかしてハスクに才能があったりして?」
「別に嬉しくないな」
「はーぁ、本番もハスクが相手ならいいのに」
二人の違い、その答えは明白だった。なんといってもハスクは優しい。何をするにしても心と体を気遣ってくれる。そのおかげで、ほどよい緊張感はありつつも存分にリラックスできていた。それに絶対に酷いことはされないという信頼があったから、何の恐怖もなく身を委ねられた。何より、縄を通した歪なコミュニケーションを楽しむ余裕があった。
――どれもこれもヴァルにはなし得ないことだ。
「優しさねぇ……」
ハスクはエンジェルの手首をなぞりながら呟いた。
「そうなるとおまえの上司はうまくいかなそうだな」
「だね。本当に正反対だもん」
ふと昨日のヴェルヴェットの台詞が脳裏によぎった。ヴァルは俺をみていない。それでいうなら俺だってヴァルのことは見ていない。ろくに心も通わせないまま、形だけなぞっているのだからうまくいくわけがないだろう。さすがカリスマインフルエンサーだ。あの短い時間で真実にたどり着いたのだから彼女の審美眼には目を見張る物がある。
とはいえ、うまくいかない原因が分かったからって、それをわざわざヴァルに伝えようとは思わなかった。
「ショーなんて失敗すればいいんだよ。俺の知ったことじゃない」
ぶっきらぼうに言い放った言葉は紛れもない本音だった。
だからエンジェルは宣言通り、その後も練習を休み続けた。早い時間から街に繰り出してクラブで遊び回ったり、一日中ホテルで寛いだり、時にはチェリーと買い物に繰り出したりして、とにかく久しぶりの休暇を満喫した。仕事をサボるならいっそのこと満喫しないと損だと自分に言い聞かせて。
◇◆◇
「ちょっとエンジー! 見てよ、このアイシャドウ。かわいくない!?」
チェリーが示したのは真っ赤なアイシャドウだった。しかもヴェルヴェットの新作。エンジェルはそれを確認して「あー」と複雑そうな声をあげた。
「何、その反応」
「いや……かわいいけど、仕事のこと思い出した」
真っ赤な色は言わずもがなあの真っ赤な縄を想起させた。
「はぁー、アンタそのうち何も買えなくなりそうだね。いっそのこと同じ色で統一すればいいじゃん! むしろそっちの方がいいでしょ」
「今は思い出したくないからパス」
「じゃあアタシ買ってくる! 買ったら教えてよ。双子コーデしようぜ!」
なんていいながらチェリーは意気揚々とレジへと向かった。エンジェルは手にしたアイシャドウを棚に戻して深いため息をついた。まったくもってその通りだ。この調子だと全色に嫌な思い出がつきまといそう。
あれからというものヴァルからの連絡は一切ない。それだけがわずかに気がかりだった。いや、でも、きっと彼も休んでいるだろう。これまで休みなく練習していたのは彼も同じだ。短気なヤツだし、いい加減、実りのない練習に嫌気が差していてもおかしくない。
「なんて言ってさ……俺ってほんと真面目だよね」
ショー当日まで残り三日という瀬戸際になって、エンジェルはふらりとスタジオに立ち寄った。チェリーとクラブで散々遊び明かした帰りだった。
ヴァルから呼び出されたわけでもない。ただ、体からすっかり縄の跡が消えて、いい加減腹を立てているのも馬鹿らしくなってきたのだ。それにこの数週間をヴァルが何をしていたのかも気になった。何より、一番の理由は、宿題を先延ばしにし続けた時のような、心の奥底にずっと引っかかる感覚が引かなくてクラブすら満足に楽しめなくなったからである。
これではサボりの意味がない。それならばいっそのことスタジオに足を運んでみるのが一番手っ取り早いだろう。
いつも人で溢れているロビーを抜けて、関係者専用の扉を開ける。エンジェルが真っ先に向かったのはポルノスタジオだった。どうせどこかから新人でも引っ張ってきて憂さ晴らしのように撮影に明け暮れているだろうと予想したのだ。
だが予想に反して、スタジオはがらんとしていて誰の姿もなかった。驚いて目を丸くしているとスタッフのうちの一人が廊下を通りがかった。
「あれ。エンジェル・ダストさん……今日、撮影ですか? ボスからは何も聞いてないんですが……」
「いや、そういうわけじゃないよ。――まだ何も撮ってないの? 俺以外も?」
「え? ああ、はい。ボスからは何の話も」
「そっか……ありがとう。ところでヴァルがどこにいるのかわかる?」
エンジェルは短い会話の後、ツカツカと先日大喧嘩した鏡張りの部屋に向かった。スタッフから聞いた話によれば、ヴァルは変わらず身にならない練習を続けているらしい――ヴェルヴェットの仕事部屋をほとんど占領するような形で。どういう契約で部屋を使い続けているのかはわからないが、ヴェルヴェットの方が折れたのかもしれない。
最近ではスタッフたちの間でちょっとした名物のようになっているとも教えてもらった。
どうか冗談であって欲しい。はっきり言って、そう思った。
長い廊下には電気がついておらず、真っ暗だった。ドアの隙間から白い光が溢れ、その中からは確かにヴァルの声が聞こえる。ブツブツと呟く声は不鮮明で何を言っているのかは聞き取れない。だが、うまくいっていないのだけは確実だった。
エンジェルが廊下に足を踏み入れると人感センサーが反応して奥に導かれるように灯りが灯った。
足音を殺して近づき、ドアの隙間からそっと中の様子をうかがう。縛られているのは何度か撮影でも見たことがある獣人の女だった。表情からしても怯えまくっているのは明らかだが、ヴァルは相変わらずそんなことには気がつかないようだ。相変わらずそこに気遣いはないし、自己満足の領域でない。
やっぱり、何も変わっていない。ヴァルは四本の腕をしきりに動かしながら、ああでもないこうでもないとブツブツと繰り返す。なんだかその姿が、いっそのこと哀れで、エンジェルは思わず部屋に足を踏み入れかけた。ヴァルはまるで、同じ場所で何度もぐるぐると回って、目的地を失っているみたいに見えたのだ。
だが、すんでのところでエンジェルは踏みとどまった。俺がそこまでしてやる必要がある? どうせ今出て行ったところで、酷い目にあって終わるだけだ。会った瞬間に今までの怒りが波となって襲いかかることはわかってる。だったら、危険な橋なんて渡る必要ないじゃない。どうせあと三日ですべてが終わるんだし。ショーが失敗したところで俺は困らない。
だけど。ちょっとだけ。ちょっとだけ……助けてあげてもいいかも、と思った。でも、思っただけだ。
エンジェルはその帰り道、先日チェリーと買い物に行ったコスメショップに向かった。理由は言わずもがな、あのアイシャドウを手に入れるためだ。きっとあの縄と同じで自分のまぶたによく映えるだろう。決して、ちょっと絆されたとか、そういうわけではない。決して。――ただ、そう。チェリーとの双子コーデも楽しみだったし、何よりあのパレットは抜群にかわいかった。
◇◆◇
約束通り、ショーの当日一時間前というギリギリになってエンジェルはようやく楽屋に姿を見せた。まぶたには例の真っ赤なアイシャドウ。細かいラメが楽屋の明かりに照らされてキラリと光る。
下見なんて当然していないから、エンジェルは今日初めて会場に足を踏み入れて、そのボロさに驚愕した。
会場は場末の小さなステージだった。こぢんまりとした入口――しかも関係者入口すらない――から地下に長い階段が伸びていて、重苦しいドアを開けた先に、二〇人も人を入れたらいっぱいになってしまいそうなほど小さい部屋がある。
部屋の中央には一段高くなった円形のステージがあった。部屋にあるものといえば、ただそれだけだ。一応、天井に備え付けの照明が一つあるが、それもステージ用とはとても思えない薄暗さだった。豆電球ほどしかないサイズで部屋全体を照らせるのだから、どれだけ小さい部屋なんだって話。その上、音響はもっとひどくて、ヴォックステックのスタジオから持ってきた小型スピーカーが部屋の端にちょこんと置かれているだけだった。
さらに驚くべきことに、一人一人の楽屋すらない。ようやく楽屋に入ったエンジェルの背後では大勢のスタッフがしっちゃかめっちゃかになって走り回っている――知っている顔はなかった。ヴォックスがあーだこーだと言っていたからその影響なのだろう。
それもどうやら見たところ素人の集まりで、大した働きは期待できそうにない。何より、皆、怒り狂うヴァルに怯えて仕事どころではなかった。
「あの野郎――ッ!」
ヴァルは監視カメラに向かってノータイムで銃弾を放った。激しい音とともにカメラが爆散して花火のように破片が床に散る。
「クソッ! ヴォックスのヤツ! 最初から乗り気じゃねぇとは思ってたが、こんなクソみたいな嫌がらせしやがって! ブチ殺してやるッ!」
エンジェルが楽屋に足を踏み入れた瞬間からヴァルの怒りは最高潮だった。近くにいたスタッフを捕まえて事情を聞き出すと、どうやら音響設備に不具合があって一切の音を発さないらしい。
怒りで目の前すら見えていないのか、エンジェルが目と鼻の先にいてもヴァルは何の反応も示さなかった。
「エ、エンジェルさん……私たちはどうすれば……」
スタッフたちは救世主を見るような目でエンジェルを仰ぎみる。あまりに遅い楽屋入りだから嫌味の一つくらい覚悟していたのに、思わぬ歓迎だった。
「あー……ヴァルは俺がどうにかするよ。まぁ……時間通りには出れるくらいにはするから準備を進めといて。よろしく」
健気にうなずいて走り去っていくスタッフたちを見送りながら、さて、とヴァルに向き直る。とはいったもののヴァルを落ち着かせる自信なんてこれっぽっちもない。
「……これって本当にヴォックスの仕業なの?」
「ああ!? 嫌がらせ以外に何があるんだ? アイツが寄越した機械だぞ!?」
「CEOは敵に回すと厄介だね――どうしても失敗してほしいって感じ」
「厄介!? あんな板、俺が鉛玉ぶち込めばそれで終わりだ! 最初からそうしてやればよかったんだ! アイツ、俺の邪魔ばっかりしやがってッ!」
「だったら尚更、心を乱されるなんてヴォックスの思うつぼじゃん」
ヴァルの手に指を絡ませる。ヴァルはわずかに冷静になったようで口をつぐんで不機嫌な顔をした。
「それに俺たちなら本番に強いから大丈夫だよ。相手が俺でよかったね」
「……クソッ。エンジェル! うまくやれよ!」
「わかってるよ。ヴァル」
――きっとうまくいかない。会場はさぞ白けた空気になるだろう。ヴァルも無茶を言っているのは分かっているはずだ。何しろ今まで一度もうまくいっていないのだから。加えて無音の中なんてさらに気まずいだけだ。
しばらくして、ついにショーが始まった。エンジェルはヴァルと共にステージに上がり、一度会場を見回した。
二〇人も入ったらいっぱいだろうと予想した二倍の人数がすし詰めになっていた。ステージの目の前まで客が詰めかけ、足元というか、目の前にいる。手を伸ばさずとも触れそうな距離感だ。男たちの熱い視線を感じるだけに、これから始まる白けたショーを思うとどこか申し訳なくなった。
薄暗い照明が二人を照らし、ぬるりと本番は始まった。音楽も挨拶もないから最初の数秒は始まったことにすら観客は気がつかなかった。
始まって早々、エンジェルの気持ちは遠く離れた場所に霧散した。結局、スピーカーが壊れている以外はすべてがいつも通りだった。打ち合わせ通りの動きに打ち合わせ通りの反応を返すだけの簡単なショー。
会場に渦巻いていた熱気も徐々に失われ、白けた空気が広がる。きっとヴァルは機嫌を悪くして、ますます酷い空気になるだろうと思ったのに、意外なことにもヴァルは静かに、機械のように淡々と決められた動作をこなしていた。彼の性根を知る全員が不気味に思うほど静かにしながら、ヴァルは珍しく考えていた。
「――何が悪い?」
ヴァルは独り言のようにつぶやいた。口の中で小さく放たれた言葉は観客には届かず、エンジェルの耳にだけ届いた。エンジェルからすれば意外だった。ヴァレンティノは明らかに感覚派でこういうときも頭を使おうとしないことが常だったから。
ヴァルが困っている。それも本気で。いつもよりも、迷ったような縄さばきからも彼の困惑が伝わった。
「……別に、もういいじゃん」
エンジェルは小さくこぼした。
「席は埋まったでしょ。たしかにあることないこと感想で書かれるのはちょっとムカつくけどさ。機材トラブルもあったわけだし、仕方ないじゃん」
「はぁ? 嫌に決まってんだろ」
ヴァルの答えははっきりしていた。相も変わらず、ムードなんてあったもんじゃない。
「ヴォックスの嫌がらせが何なんだよ。その程度、問題じゃないだろ? 互いにその程度で乱されたりしない。間違いなく演者は最高級だ。俺はもちろん言うまでもないし、おまえだってそうだ。舞台も用意した。んなことは分かってる。それなのになんでうまくいかねぇんだ?」
エンジェルはグッと口をつぐんだ。生じた奇妙な間にヴァルはこれぽっちも気がついていなかった。それほど彼にも余裕がないのだ。
エンジェルは答えらしきものを説明する代わりにずっと気になっていたことを問いかけた。
「……大体、ヴァルはなんでそんなに頑張ってるの?」
「そんなの当たり前だろ。仕事だし、ヴォックスにも煽られたし……失敗とか柄じゃねぇ。それに俺が見たいんだよ。悪いか?」
「――わかった」
エンジェルは一つ覚悟を決めた。
別に、ヴァルの行いを許した訳じゃない。決して絆された訳じゃない。これは強いていうなら情けだ、とエンジェルは自分にキツく言い聞かせた。
それに、このまま終わるにはかけた労力があまりにも勿体ない。ここまでやったのだから、せめて成果の一つくらいあげて、あのテレビ頭をぎゃふんと言わせてやったっていい。だからまぁ、ちょっとくらいヒントをあげてもいいような気がした。それで気がつくか気がつかないかはヴァル次第だ。
「……ヴァル、見てよ。このアイシャドウ、今日のために買ったんだけどさ」
「あ? ――ああ、ヴェルの新作か。舐めたメイクできやがったらただじゃ置かなかった」
ヴァルはそう言ってからあらためてまじまじとエンジェルのことを見つめた。ある種、真剣に。よく考えてみれば今日初めて目があったような気がする。いや、もっと前からずっと目はあっていなかったのかもしれない。なんたってエンジェル自身も、ヴァルの瞳がアイシャドウと同じ色味をしていることに今気がついたくらいだったから。
続くヴァルの言葉を聞く限り、彼も同じことを思ったのかもしれない。
「――そういえば、おまえってかわいい顔してるよな。おまえがサボってる間さ、ずっと獣人の女とやってたんだ。アイツ、何でもするっていったくせにすぐ音をあげやがって。あのビッチは最悪だったな。それに比べたらおまえは我慢強いし、俺のことをよく分かってるし、何より触り心地がいい」
ヴァルの手が縄の上から腕をなぞり上げる。まるでエンジェルに縄の痕を残すことを楽しんでいるみたいに。
「そりゃそうだよ。だって俺はエンジェル・ダストだ。……でも、ここにいる変態どもは俺の感触なんて知らないんだ。だからさ――このショーの間だけはさ、全部忘れてヴァルのことだけ見てあげるから。ヴァルもそうしてよ」
「はぁ? 俺はいつもそうしてる」
ヴァルはあっけらかんとそう言った。この嘘つきめ。おまえが俺だけを見たことなんて一度たりともない。――だが、いいことにした。これが演技なのか、本心で言っているのか、つまらない冗談なのか分からないが、それもすべてひっくるめて信じよう。すべてはショーの成功のためだ。
それにこの後に及んで単純だけど……あのヴァルがそこまで高く評価してくれて、他でもない俺がいいと一番だと言ってくれるなら、悪い気はしなかった。
互いに目的だけは一致している。行くべき道さえはっきりしていれば、それほど見当違いな方向に進んだりしないものだ。
「いいよ、わかった。――好きにしていいよ。全部信じるから、その代わり絶対ヴォックスに一泡吹かせよう。そもそも俺、あいつ、あんまり好きじゃないんだよね」
「ハハハッ、知ってた。だからおまえを呼ぶときはヴォックスも呼んでる。二人とも嫌な顔するからおもしろいだろ?」
「あれってわざとだったの!? てっきりヴォックスがヴァルの部屋に入り浸ってるのかと思ったのに」
「んなわけないじゃん。アイツは放っとけば倒れるまで仕事してる」
ほんの些細な会話だが、エンジェルの体からはすっかり力が抜けて、ステージ上にいるとは思えないほど素の状態だった。
その瞬間――体を縛る縄がぐっと体に食い込み、エンジェルは思わず声をあげた。今までみたいな演技じゃない。ヴァルによって引き出された反応だ。
突然のことに驚いて顔を見上げるとライトが目に突き刺さった。目を細めて、必死にヴァルを見つめる。彼は感覚を確かめるように縄をジッと見つめ、やがて、いたずらが成功した子供のような心底楽しそうな表情を浮かべた。
「わかった」
「わ、わかったって、何が?」
「そんな野暮なこと聞くなよ、エンジー。コツ掴んだってこと」
ヴァルはクスクスと楽しそうに笑う。これほど上機嫌なヴァルを見るのも久しぶりだった。エンジェルはそんなヴァルを懐疑的な視線で見つめる。だって、これまで散々うまくいかなかったのに、たかだかこの程度の会話一つですべてを理解できるはずがない。――だが、それはヴァレンティノを見くびりすぎていたとすぐにエンジェルは認識を改めた。
伝説的なポルノスターの嗅覚は今も健在だった。たかが会話一つ、視線一つ、吐息一つ、それだけで彼には十分すぎる。
ヴァルの手は不思議なほどにエンジェルから離れなかった。常に体の一部に触れ続け、気が緩んだその瞬間を見計らって縄が這う。
当然、こんな動き打ち合わせにはなかった。だが、散々練り合わせた動きよりもよほどしっくりきて、何よりも即興のライブ感にたまらなく心が躍った。何といってもヴァルも同じ気持ちなのだということが、肌で伝わって嬉しかった。
演者の二人が乗り気になったことで、白けていた会場にも次第に熱が伝播した。それもじんわりと肌を焦がし、心をゆっくりとわしづかみにするような熱だった。観客たちは思わず前のめりになり、真っ赤な縄で飾られていくエンジェルを息を止めて見つめた。
真っ白で柔らかそうなふわふわの毛が縛られて食い込み、時折熱っぽい息がこぼれる。エンジェルは薄暗い照明に照らされて艶めかしく見えた。最前列の観客はもちろん、最後尾の観客ですら思わず手を伸ばしたくなるほどの熱気だった。
そんな中でも、エンジェルは一瞬たりとも観客なんかに目を向けなかった。その瞳は常にヴァルを追いかけ続け、ヴァルもそれに応えた。
それが観客を煽り、さらに想像を加速させた。すべてを委ねた瞳で見上げられたらどれほど気分がいいだろうか。その柔らかそうな肌を自らの手で縛り上げることができたら。観客はヴァルを自分に置き換えてその甘美な感覚に酔いしれた。
「なぁ、エンジェル。最前のアイツ知ってるか?」
エンジェルはヴァルの視線を追った。
「知ってるよ。よくタワーの前で出待ちしてる。ヴァルの古参でしょ、俺にはあんまり興味ないみたいだけどね。ヤッたことあるの?」
「そりゃ当然。最悪だったけどな。ストーカー気質だし、独りよがりだし。でも金払いだけはいい。それに俺が誰と遊んでも怒らない! いい奴だろ? だからさ、あれ。おまえにやるよ」
何のことだか分からなかったが、すぐに言葉の意味はわかった。ずっとヴァルばかり追っていた男の視線はいつの間にか吸い寄せられるようにエンジェルに向いていた。
今日のヴァルは絶好調だった。これまでの不調がまるで嘘のように、会場のすべての視線と感情をコントロールしていた。まさしく圧倒的な支配者。一度こうなってしまえばヴァルは無敵だ。もはや会場に音がないことを気にする人は誰もいなかった。みな、呼吸すらにも気を遣い、一秒たりとも目の前で繰り広げられるショーを見逃すまいとしている。
すっかりタイマーの仕事を忘れていたスタッフがようやく意識を取り戻して腕時計に目をやった頃には予定されていた時間を一時間も過ぎていた。それでも一瞬、この事実を胸の中にしまっておこうかと思ったのは、ひとえにこの時間が終わって欲しくないからだった。
やっていること自体は同じで、ヴァルがエンジェルを縛りあげているだけだというのにこれっぽっちも飽きやしない。実際、ヴァルの縛りは多彩でレパートリーは無限大だった。それに、エンジェルが返す反応も一辺倒ではなくて味がある。
二人の調子は時間とともにひたすら上がっていくばかり。対して興味がなかった自分ですらもここまで雰囲気に飲まれてしまうのだから彼らを求めてやってきた観客たちなんてその比じゃないだろう、とスタッフは同情した。こんなものを間近で見せられたら、今後の人生何をしたって味がしなくなる。
予定時間を過ぎていることなんて誰も気がついていなかった。窮屈で、とても快適とは言えない室内から誰も出て行こうとしない。
「ん、ヴァル……そろそろ時間みたい」
エンジェルがスタッフの様子に気がついて伝えた。
縄を解く仕草すらも甘美に見えるのだから、見ている側からすれば甚だ不思議だった。深紅の縄がはらりと床におちて、とうとうエンジェルの体が解放される。その白い体には赤い痕がくっきりと刻まれていた。
ヴァルは、力が抜けて自力で立っていることすらままならないエンジェルの腰をさも当たり前のように抱き寄せ、観客に軽く手をあげてラフに挨拶した。
観客はそのときになってようやくこの時間が終わってしまったのだということに気がついて、口々に落胆の言葉を発した。しかしヴァルはそんなこと気にする様子もなく、上機嫌でその場を後にする。
「エンジェル・ダスト!」
袖に戻ろうとする二人に最前の男が手を伸ばした。それは長らくヴァルに貢ぎ続けていた例の男だった。彼はすっかりエンジェルの虜になっていたのだ。
そんな男にヴァルはにっと笑って自分の自慢の真っ赤な翅でエンジェルのことを包み隠した。
「おまえには見せてやんない。見抜きは別料金だ。見たかったら金払いな」
◇◆◇
「挿入もなし、派手なパフォーマンスもなし、加えて演者は観客を楽しませようって気がまるで感じられない。というレビューが殺到しているわけだが」
ヴォックスはタブレットにまとめたレビューを淡々と読み上げた。彼の正面のソファーにはエンジェルとヴァルが隣あって座っているが、どちらもヴォックスの話なんてほとんど聞いていなかった。
「賢者タイムなんだろ。大体、そんなこと俺が気にすることか? ポルノに長文レビューしてくるヤツと一緒だろ。どうせ今も思い出してオカズにしてるに決まってる。とにかく、俺は超楽しかったし、間違いなく最高のパフォーマンスだった。ぶち込むだけがセックスだと思ってるヤツにはわかんねぇかもしれないけどな」
ヴァルはこのやりとりに飽き飽きしたように四本の腕を広げた。
「それに絶賛しているヤツもいんだろ? 都合のいいところだけ切り取んなよ、ヴォクシー。おまえに構ってやれなかったから拗ねる気持ちも分かるけどさ。もう寂しい思いはさせないぜ?」
「だが、結局売り上げも――」と、食い下がるヴォックスの液晶をヴェルヴェットはカクテルグラスでコツンと叩いた。小気味のいい音が部屋に響く。
「ちょっと、うちの今月の売り上げ知らないの? 本当に、アンタたちって最高! 見た目もいいし、話題性もあるし――緊縛ブームの立て役者ってわけ。本当にいいタイミングだわ。最近、しけたネタしかなくて困ってた所だったの。あっ、アンタたち明後日は予定空けときなさいよ。ライブ配信して宣伝用の写真とるから」
エンジェルがいい宣伝になり、新作のアイシャドウは飛ぶように売れて、もはや製造が追いつかないくらいだった。加えて、このタイミングで緊縛をモチーフにした新作衣装を発表したことで、凄まじい売り上げを達成していた。
「大体、アンタがブームに乗り遅れるのが悪いでしょ。この坊やが失敗するわけないんだから、簡単なことだと思うけど?」
ヴォックスは黙りこみ、静かに酒をあおった。エンジェルは珍しくヴォックスよりも優位に立てているのが嬉しくて口角をあげた。それをみて、ヴォックスの指先からバチッと電流が流れたのもエンジェルは見逃さなかった。
「……それで、これからもやるつもりなのか?」
「当然。客も入るってわかったし、やり方もわかった。何より俺が楽しい! むしろやらない理由があるのかよ。あー、稼ぎがっていうなら、エンジェルに二倍働かせればいい。それで文句ないだろ?」
「はぁ!? 嘘でしょ」
唐突にとんでもない話をぶち込まれ、エンジェルは慌てて声をあげた。
「んだよ、あんなのおまえからしたら実質休憩じゃん。動いてるのは俺だけだし」
「なるほど! さすがヴァルだ! それなら私も納得だ。それから、これからはいつも通り私が諸々の手配をしよう。やはり君にはショーに集中して欲しいからな。それでもいいかな?」
「ん、いいよ。俺もそっちの方が楽だし。それにおまえの用意したステージの方があがる」
ヴォックスはちらりとエンジェルを見下ろして勝ち誇った笑みを浮かべた。いつの間にか、二倍働くような形で話が進んでいることに絶望してエンジェルは深くため息をついた。
「それならよかった! 話は以上だ。私は仕事に戻ることにするよ。ヴァル、君は久しぶりにゆっくり羽を伸ばしてくれ」
ヴォックスが立ち去ったあともエンジェルは硬い表情のまま硬直していた。それを見て、ヴァルはニッコリと口角をあげる。
「大丈夫だって、おまえはできる子だろ? なぁ、エンジェル……返事は?」
結局のところ、二人の関係は何も変わっていない。だが、まぁ、ほんの少しだけ息がしやすくなったのも事実だった。
エンジェルは深くため息をついてお決まりの言葉を返す。
「――はい、ヴァル。仰せのままに」
(了)