熱帯人魚

 思い返せば起きた時から気分は悪かったのだが、昼をまわった辺りから徐々に耐えきれないほどの頭痛と吐き気に襲われ、同僚の冷たい視線に見送られながら定時で会社を出た。
 不思議と夕日を浴びると気分は回復したから、きっと精神的なものなのだろう。思えばここのところ仕事ばかりだった。
 このまま家に帰る気にもならなくて、僕は反対方向の電車に乗った。たまには散歩も悪くない。
 ろくな下調べもせずに降りた駅はキラキラとした都会というよりは、金持ちが住んでいる街という雰囲気だった。すれ違う人の身なりがあまりに立派で、どことなく居心地が悪い。
「あっ、すみません……」
 超高層マンションを見上げて歩いていると白髪の老人と肩がぶつかった。ただでさえ肩を縮こめて歩いていた僕はさらに萎縮して小さくなったが、老人は僕のことなんて眼中にないようだ。
「あ……」
 はらりと老人のポケットからハンカチが落ちた。
「あの、すみません!」
 老人は振り向きもせず、何かに取り憑かれたように歩みを止めようとしない。仕方がないので僕はハンカチを拾い上げた。その拍子にハンカチに挟まれていた薄い何かが地面に落ちた。
 よく見ればそれは鱗だった。それも手のひらの半分くらいのサイズがある美しい鱗だ。僕は首を傾げながら、それを再びハンカチ包み込み、小走りで老人を追いかけた。

 彼は路地の間に消えて行った。慌てて後を追えば、そこは人が一人ギリギリ通れるくらいの細い道だった。どれだけ気をつけて歩こうとも、コートが汚い壁に擦れた。道の隅ではドブネズミが夜を待っていてゲンナリする。
(一体、こんなところに何の用なんだ。それとも抜け道だったりするのか?)
 やがて老人は建物の中に消えた。その建物は店にしてはクローズドな雰囲気だったし、個人の住宅にしては古ぼけすぎていた。
 僕はしばらく悩んで、扉を数回ノックした。
 返事はない。
 僕は仕方なく、立て付けの悪い扉を持ちあげるようにして開けた。室内は嫌に暖かくてカビ臭かった。雑然とした店内は現実以上に狭く感じる。
 窓は外界を拒絶するように木の板を打ち付けてあった。薄暗い室内を照らす豆電球の下には異国情緒あふれる植物が天井に届きそうなほど勢力を増している。ぼんやりと見ていると、なぜか人間に見える瞬間があって胃がぞわぞわした。
 風もないのに葉が揺れて見えるのは何かの間違いだろうか? それとも――と、植物に手を伸ばすと突如、机の影から黒い影が飛び出した。
「ワン!」
「うわっ!?」
 思わずよろめいて尻もちをついた。彼女は一目散に僕の上にまたがり顔をベロベロとなめ回す。
「ちょっ……や、やめてください!」
 暴れた拍子にペット用のおもちゃが指に触れて転がった。軽やかな音を立てるボールを彼女は口で拾い上げて、僕の足の間に落とす。唾液をたっぷりと含んだボールは床にぶつかって嫌な音を立てた。
「……大丈夫っすか?」
 ハッとして顔をあげると、そこには店員らしき男が立っていた。
「いや~。すみませんね~、そいつ人間が大好きなんですよ。ティッシュ使います?」
 混乱のあまりこの男も無から湧いて出たのかと疑ったが、よく見れば店の奥に壁とほとんど同化した木製の扉があった。
 僕は彼女から距離を取って問いかける。
「こ、この人は?」
「犬っすよ」
「犬って……」
 僕は再び足元にすり寄る彼女に目を向けた。ご丁寧に男と同じパーカーを身につけ、四つん這いになる彼女はどこからどう見ても人間にしか見えなかった。べっとりと顔についた唾液が外気にさらされて冷えていく。
「ああ! よく驚かれるんですよ。海外の犬種らしくて、日本だとあんまり見ないかもしれないですね」
「犬種というか……どこからどう見ても人間じゃないですか! 耳も尻尾もないし……」 
「別にそんなの些細な問題じゃないっすか? 耳と尻尾があるから犬みたいな暴論はこの時代に合わないですって。多様性ってヤツっすよ」
「……」
 狂人の言い分は聞いているだけで抑えきれない吐き気を催した。そんなわけないだろう! この男も、女も気が狂っている。
 とにかく一刻も早くこの場を去りたくて僕は本題に入った。
「あの、さっき男性がいらっしゃいませんでした? 落とし物を渡したくて……」
 慌てるあまり指がもつれ、ハンカチがはらりと床に落ちた。僕の周りをぐるぐると回っていた彼女はまるで獲物でも見つけたみたいに素早くそれをくわえて店員に手渡した。
「いい子でしょう? よく俺のことも助けてくれるんですよ」
 頭をわしゃわしゃと撫でられて彼女は嬉しそうに目を細めた。
「そうですか……。それじゃあ、僕はこれで……」
「え、もう帰るんですか?」
「はい……」
「せっかくの縁ですし、奥も覗いていってくださいよ。うちの目玉なんです」
「いや、遠慮しておきます。急いでいるんで」
「まぁまぁ、そう言わずに!」
 突然、店番の男が僕の手をぐいっと掴み、その力の強さに思わず足がもつれた。
「ちょっと……!」
 抗う間もなく、半ば引きずられるように、店の奥に繋がる古びた木製のドアの前に立たされる。彼はガサガサした硬い手を離して悪びれもせずに笑った。
「そこの穴から覗いてみてください。あ、でも……なるべく静かに。バレると俺が怒られるんで」
 逃げだそうにも出口までの道は二人によって閉ざされていた。
 僕は息が詰まるような緊張と身体の震えを誤魔化しながら虫が食べ進んだような小さな穴に目を覗き込んだ。二人がかりで守っている扉の奥だ。どんな非合法的な世界が広がっているのかと思いきや、光量が絞られ、思うようにピントが合わず、青っぽい光が広がっていることしか分からなかった。
 僕は心底安心して胸をなで下ろした。と、同時に扉のカビっぽい臭いが無性に気になり始めた。
 とにかく今すぐにこの場を離れたくて仕方がないが、だからといってあまりに早く離れすぎて難癖をつけられても困るから、僕は心の中で数字を数えた。
(五……四……三……)
 そのときだった。目の前で赤と青のひらひらとした何かが舞った。
 すぐに気がついた。
 魚のひれだ。
 花嫁のベールのように滑らかに、優雅に、水中で揺らめく姿に思わず目を奪われた。水槽の中の生き物が身体を翻すたび、ひれは見事な曲線を描いて水の形をかたどっていく。スポットライトのような強い光に照らされ、うろこはまるで宝石のように鮮やかに輝いた。
 心臓が跳ねる。気がつけば僕は全身をドアに押しつけて、全神経を片目に集中させていた。目をこらせば、薄い肌の下の健康的な血管まで見通せるような気がして。けれど、次に視界に入ったのはそんなものよりもよっぽど衝撃的だった。
 腕! 間違いなく人間の腕だ! それも魚のひれが一体化している!
「あ、アレは!?」
 店番は慌てて人差し指を立てて唇に当てた。
「静かにって言ったじゃないっすか……!」
「だって……!」
 その光景を思い出すと鳥肌がたって身震いした。明らかにアレは人でもなければ魚でもない。自分の知らない化け物のような生物だった。
「一体何なんですか!?」
 混乱を誤魔化すために大声で店番に詰め寄る。何よりも恐ろしいのは未知の生物そのものではなくて、未だにアレを美しいと感じている自分自身だ。
「何って、魚ですよ。熱帯魚です」
「魚!? 魚だって!? そんなわけないでしょう! 魚に腕があるっていうんですか!?」
「そりゃ腕くらいありますよ。あった方が便利じゃないですか」
「……正気じゃない」
 僕はここに来てから再三思ったことをついに言葉にした。怒らせるかもしれない、という危惧はあったが、もう限界だった。
 しかし残念なことに男の方は話をやめるつもりはないらしい。
「あはは。それに魚っていっても人魚ですからね。多少は人に似た形もしてますよ」
「人魚?」
 もういい加減、勘弁して欲しい。疲れた脳みそは徐々に感情に訴えかけるのをやめて、理性的に彼の主張がどれだけ馬鹿馬鹿しいかを指摘することにシフトし始めた。
「人魚なんて……馬鹿馬鹿しいですよ。そんなものが本当に実在するんですか?」
「まぁ……世界は広いですから」
「だったら、なんでこんなところで飼われているっていうんだ。こんなの世紀の大発見じゃないんですか? どうして発表しないんです?」
「俺はただの店番なんでそんな権限ないっすよ。発見者の権利じゃないですか?」
「じゃあなんで、その発見者とやらは名乗り出ないんだ」
「さぁ。独り占めしたいタイプなんじゃないですかね?」
「それに……さっき熱帯の魚だと言っていたが、外来種だったら連れてくるときに誰かの目に触れるんじゃないのか? そうすれば確実に騒ぎになるはずだ」
「お兄さん、細かいこと気にしますね。俺は学がないもんで何がなんだか。あくまで俺の仕事はここの店番と動物たちの世話だけなんでね」
 まるで話にならない。どの質問ものらりくらりとかわされて、質問すればするほど怪しさが募った。あの生物が何にせよ、ここがまっとうな場所でないことだけは確かだった。
「警察に通報します」
 はっきりと宣言すると店番は困ったように眉を下げて頭をかいた。
「……まぁ。俺に止める権利はないんで。正直に言うなら面倒だからやめて欲しいっすけど」
「……何か弁解の言葉はないんですか?」
「特にないっすね。お話したことがすべてです」

 僕は家に帰った。
 店を出て、ようやくの思いで細い裏路地を抜けだし、大通りに出て、ようやく肺一杯に空気を吸い込んだ。都会の空気は嫌な味がしたが、それでもあの店よりは随分マシだった。
 帰りがけに「ぜひ、また来てください」と言われたが、誰が行くかと思って、その言葉ごと今日の出来事を丸々ぐちゃぐちゃにして頭の中のゴミ箱に放り投げた。
 あの場では警察云々なんて脅し文句を使ったが、通報する気もなかった。理由は単純で、もう二度と関わりたくなかったのだ。この晩のことは忘れて、数十年後にそんな馬鹿げた夢も見たなとベッドの中で思い出して、すぐに忘れるくらいの記憶にしたかった。
 それなのに僕の考えとは裏腹に、体は内側が沸騰して張り裂けそうなほど熱く燃えたぎっていた。

 ようやく寝付けたのは朝日が昇ってからだった。今日が祝日で助かった。平日だったら寝坊は免れなかった。
 昼頃にベッドから起き上がり、半分寝ぼけたままカーテンを開いた。この時には確かに昨日のことなんて忘れていたのに、窓の外から差し込む光が半透明の薄いカーテンで屈折して、床に水面のような模様を描き出すと僕の心臓は壊れそうなほど速く脈打ち始めた。
 耳の奥では耳鳴りが響き、悪夢に取り憑かれたように全身から汗が噴き出る。頭の中では昨日の光景が何度も繰り返し再生されて、耐え難い焦燥感が心を満たした。
 何がなんでも人魚に――彼女に会いたい。一目でもいい。彼女のしなやかなひれの動きを思い出すだけで全身が歓喜で打ち震えていてもたってもいられなくなる。まるで昨日のあの瞬間に、体の内側にあの人魚が入り込んで、今も脳髄の中で彼女が泳ぎ回っているみたいだ。
 気晴らしに外に出てもそれは変わらなかった。
 掲げられた日本国旗がはためくたびに急かされているような気持ちになり、道路ののぼりも、しまいには川の音すらも僕の両足を駆り立てた。
(……いや、だめだ。そもそも何でこんなに昨日のことが頭に残っているんだろう?)
 確かに綺麗だったけど、生活に支障をきたすほど恋焦がれるなんて明らかにおかしいじゃないか。
(そうだ……きっと僕は疲れているだけだ。無意識のうちに動物の癒しを求めているだけに違いない)
 それから僕は近くのホームセンターのアクアリウムのコーナーに足を運んだ。引越ししてすぐのときに一度訪れただけだったが、アクアリウムコーナーがやたらと充実していたのを思い出したのだ。
 祝日ということもあって、綺麗に並べられた水槽の前には小さな子供たちが群がっていた。
「ママー! みてー、さかなー!」
「そうだねぇ……って、こら! 水槽には触らないよ! お魚さんがびっくりしちゃうでしょ!」
 目を輝かせる子供を押し退けるわけにもいかず、僕はちょっとだけ背伸びして水槽を覗きこんだ。水槽の中ではメダカやグッピーなどの小さな魚が子供に愛嬌を振り撒きながら泳いでいた。隣の水槽では丸々とした姿の琉金が泳ぎづらそうに腰を振っている。
 僕は不意に一つの水槽に目を奪われた。それは一辺が十センチ程度しかない小さな立方体の水槽で、中にはたった一匹の魚しか泳いでいない。
 一目みて確信した。
 あの人魚と同じ種類だ。色とサイズこそ違うが体の半分ほどもある大きなひれを優雅に動かす様は間違えようもない。
「そちらのお魚、かわいいですよね」
 突然店員に話しかけられて肩が跳ねた。顔をあげると子連れの家族も他の客もいなくなっていた。気が付かなかったが、相当長い時間眺めていたのだろう。
「そちらはベタという魚でして、このくらいの比較的小さな水槽でも飼えるお魚です。水槽が小さいのでお手入れも簡単ですし、エアレーションも必要ないので、今まで魚を飼育したことがないお客様にもオススメできます。ただ熱帯魚なので飼育される場合は別途ヒーターを購入していただく必要がありますね」
 飼う気なんて一切なかったから丁寧な説明に申し訳なさが募る。
「また、こちらの魚は漢字で闘う魚と書くほど気性が荒い一面がありまして……特にオス同士は縄張り意識が非常に強く同じ水槽で飼育すると、どちらかが死ぬまで戦ってしまうんです。なので基本は一つの水槽で一匹ずつという形になりますね。ただ他の種類の魚となら混泳も可能でして……何かご予定はございますか?」
「いえ、その……ただ……綺麗だなと思って見ていただけなので。すいません、わざわざありがとうございました」
 確かにどの魚も綺麗だが、昨日のあの姿には遠く及びはしない。代替品は心を満たすどころか火に油を注いだだけだった。

 建て付けの悪い扉を開く。結局、僕は再びこの店を訪れていた。
 扉を開くなり「ワン!」と、入店のベルの代わりに女性が吠えた。覚悟していたとはいえ、やはりその様子は異常で不気味に思えた。たじろぐ僕のことなんてお構いなしに、彼女は僕の足に顔をこすりつける。
 店内に店番の姿はなく、今はこの人懐っこい番犬に警備が一任されているようだ。
「……お座り」
「ワン!」
 ちょっとした好奇心から呟いてみれば、彼女は元気よく返事をして床に正座した。首を伸ばして目を細める姿はまるでご褒美を待っているようだった。
 少しだけ迷って、手を伸ばし、実家の犬にやるように首のあたりをくすぐってあげると彼女は嬉しそうに笑った。笑うと長い犬歯がよく見えた。
「……あの……どうして犬の真似なんてしているんですか?」
 聞いて良いものか、と思いながら僕は言葉を選んで質問した。しかし返答はなく、彼女は不思議そうに首を傾げただけだった。
「もしも何か困ってることがあるんだったら……」と、言いかけたそのとき、背後のドアが開いて僕は思わず飛び上がった。
「あれ、お兄さんじゃないっすか。また来てくれたんですね、よかったです」
 店番の男はニコニコしながら業務用の分厚い手袋をバケツの中に放り込んだ。手袋には血と脂が付着していて、何とも言えない嫌な臭いがした。
「すいませんね〜、もうちょっとだけ待ってください。ほんと人手が足らなくて。犬の手も必要な状態なんですよ。もしあれだったら、その辺に座ってくれちゃって大丈夫なんで」
 昨日の帰りがけの押し問答を思い返すと、気まずくて曖昧な返事をすることしかできなかった。
「……それは?」
「気になります? 実はちょうど餌やりしてたところなんです。裏に水槽に繋がる入口があって。人魚は高貴ですからね、新鮮な餌じゃないと食ってくれないんですよ」
「……そうなんですね」
 僕はバケツから目を逸らした。どんな餌を与えているかなんて知る必要はないからだ。
「お待たせしました。それで今日はどうしたんですか? 今度はユニコーンの角でも拾いました?」
「実は……その……昨日の……人魚を見たくて」
 自分でもあまりに都合がよくて笑ってしまいそうだった。どう思われているのか気に掛かり、まっすぐ目をみることすらできなかった。
「んー……申し訳ないっすけど……今すぐには無理っすね。餌あげたんで水換えしないといけないんですよ。夜なら案内できますけど、どうします?」
「夜……」
 ここまでくれば渇きのような欲求が満たされると思っていたばかりに落胆は大きかった。僕はどうにか頭を動かして掛け時計を見上げた。夜まではまだ相当時間がある。
「……都合のいいことを言ってるのはわかってます。けど……どうにかなりませんか? 一目でもいいんです」
「んー……そっすねぇ。それか……汚くてもいいなら今すぐでもいいっすけど……」
「本当ですか!?」
「でも俺はオススメしませんよ」
「構いません」
「それじゃあ五万でいいですよ。ちょっと安くしておきます。あとで文句いうのだけはなしでお願いしますね」
 僕は何も言わず財布から五万円を取り出して机の上に置いた。
「まいど。それと携帯だけ預からせてください」
 言われるがままに携帯を手放す。
「すみませんね。ゴタゴタが起こると面倒なんで。あと注意事項がいくつかあります。といっても当たり前のことなんて楽に聞いててください。まず水槽を叩かないこと。それから――携帯も預かってるんでないと思いますけど――写真撮影、動画、録音、全部禁止です。あと、生体を傷つけるのももちろん禁止です。注意事項はそのくらいですね。何か質問あります?」
 僕は首を横に振った。 
「俺は外にいるんで何かあればいつでも呼んでください。あ、中の備品は好きなように使っていいんで」
 店番は鍵を開けて扉に手をかけた。この先に広がる光景を想像すると心臓が高鳴って両手に汗が滲んだ。
「十七時になったら呼びに行きますね。それじゃ、ごゆっくり」
 扉が開かれる。
 視界に飛び込んだのは前日とは打って変わって真っ赤な水槽だった。水槽の中には絵の具を垂らしたように、ところどころ赤色が濃い場所があって、人魚はその間を縫うように優雅に尾ひれを動かしていた。
 彼女はまるでドレスを纏った貴婦人のようだった。よく見れば真珠のように白い腹部はわずかに膨らんでいて、その微かな膨らみすら美しくて愛おしくて仕方がない。
 夢中になって彼女を見上げていると、彼女は不意に動きを止めた。水槽の中央でスポットライトのような強い光を浴びて、こちらを――僕を――見下ろすその瞳と確かに目が合った。まるで稲妻に貫かれたみたいだった! 全身が歓喜で打ち震えて、足から勝手に力がぬけて思わずよろめいて、そのまま僕は柔らかいソファーに沈み込んだ。
「は……はははっ……」
 笑うよりどうしようもなかった。目の前にあるのは圧倒的な神秘で、美しさそのものだった。この世の何よりも尊い存在がそこにはいた。

 そのまま指先すらも動かすことができないままソファーに身を委ねているうちにあっという間に時間は過ぎた。気がつけば彼女の腹部の膨らみもだいぶ落ち着いて、心なしか動きも軽やかになった気がした。

 時間になって、部屋から出ても興奮は収まるところを知らなかった。夢見後心地で、まるで水中にいるみたいに身も心もふわふわとして定まらない。
「楽しめました?」
 店番の声にハッとして顔をあげた。
「はい……本当に、こんなに綺麗な存在がいるなんて……本当に、感動しました……!」
 興奮しすぎて自分でも何を言っているのかよくわからなかった。どうやらよくあることらしくて、店番は軽く笑って水の入ったグラスを差し出した。
「動きもそうですけど、なんと言ってもあの見た目が本当に幻想的で……!」
 思い出すだけで全身に鳥肌がたつ。記憶を反芻するたびに彼女の姿はより美しく完璧なものになっていくような気がした。
「本当に……本当に素晴らしかった! あなたは毎日彼女を見ているんですよね? どうしてそんな冷静でいられるんですか? あんな、あんな姿を見て冷静でいられるなんて……」
「あー……正直なところ……俺には良さが分からないんですよね。だって中途半端じゃないですか?」
「中途半端!? そんな、とんでもない!」
「何にせよ喜んでもらえたなら何よりです。はい、携帯お返ししますね」
「ああ、ありがとうございます」
 携帯を預けたことなんてすっかり忘れていて、きっとこのまま返ってこなくたって何も思わなかっただろう。
 もはや、この店番に対しての不信感なんてどこかへ吹き飛んでしまった。あれほど綺麗な生物と時間を共にしているのに、悪事なんて働けるわけがない。彼女を一目見たら、どんな極悪犯罪者だって悔い改めることだろう。
 今も僕の足元で暖を取っているこの犬は相変わらず少し引っかかるが、それでも彼が犬だと言い張るならきっとそれが正しいのだ。
 まるで生まれ変わったみたいに目に映るすべてが輝いて感じられる。こんなに清々しい気持ちは初めてだった。

 それからというもの、僕は毎日のように店に通い詰めた。回数を重ねるごとに何かと理由をつけて値段が高くなっていったが特に不満はなかった。
 僕にとって、彼女は人生の光で日々の希望だった。彼女の存在はとてつもなく大きく、偉大で、素晴らしい。
 しかし筆舌に尽くし難い幸せと引き換えに貯金残高はすぐに底をつきた。
「先輩……最近ちゃんと食べてますか? なんか悩みがあるなら相談に乗りますよ」
 後輩は不安そうな顔をしながら僕の顔を覗き込んだ。
 貯金が底をついて、最初に減らしたのは食費だった。それから使ってないカバンや時計などを売り払い、集めていたCDも売り、最終的には家財道具も売り払った。
 しかし無理に現金を生み出してみても、一回分の代金にもならなくて、数日でも時間が空くと気が狂いそうになる。だから消費者金融で金を借りた。抵抗はあったが、冷たい機械から現金が吐き出されればそんなことどうでも良くなっていた。
 僕は現金を握りしめて真っ先にあの店に電話をかけた。
「もしもし。今から行ってもいいですか?」
「ああ、お兄さん! お久しぶりですね。ちょうど良かったです。俺からも連絡しようと思ってたんですよ~。もちろん大丈夫ですよ。お待ちしてますね」

 店の扉を開けると店番はスーツケースに荷物を詰め込んでいた。僕はかがみ込んで歓迎しに足元にやってきた犬を撫でながら問いかけた。
「どこかに出かけるんですか?」
「そうなんですよ。出張っていうんですか? それでしばらくここも空けないといけなくて」
「しばらく? それじゃあこの子たちはどうするんですか?」
「留守番ですね。まぁ、しばらくっていっても一週間もかからないと思います。早く終われば三日くらいですかね」
「誰かに餌やりとかお世話とかを頼んだりしないんですか?」
「しないっすよ。もし何かあったら誰が責任とるんですか。幸い、その子は賢いんで一人で餌も食べてくれるし、向こうも魚なんで一週間くらいは絶食できます」
「でも……」
「まぁまぁ。心配になるのも理解できますけど、そこは俺に任せてくださいって。俺だってプロなんすから。……いつも通り一時間でいいっすか?」
 背後で扉が閉まる。それだけで別世界に隔離されたかのように静寂が部屋を満たした。
 水槽の中を泳ぐ彼女は今日も変わらずに美しい。完璧に調整された唯一無二の美。しなやかな動きも整った肉体もすべてが可憐で、どこを切り取ったって宝石以上の価値が眠っている。
 そんな尊い存在を、たかが人間の事情で、食事も与えずに置いていく? もしもその間に何かがあったら――それを想像するだけで気が触れそうだった。
 分厚い水槽はまるで彼女を閉じ込める冷たい檻だ。
「そんなの、可哀想だ……」
 その時だった。奇跡が起こった。
 この分厚い壁を超えて僕の思いが通じたのだ! 彼女は水中を軽やかに舞って僕の目の前にやってきた。その行動はまるで僕の考えは間違っていないと保証してくれているみたいだった。
(……そうだ! きっと彼女だって不安なんだ! そういえば、今日はいつもよりも水槽を往復する回数が多いじゃないか! それに今だって僕に助けを求めるみたいに近づいてきた! そうだ。そうに決まっている。やっぱり僕の考えは間違ってない! 僕が……僕が彼女を助けてあげないと……そうすれば僕たちはずっと一緒にいられる)
 その考えはちょっとした思いつきに過ぎなかったが、なんとも甘美で素晴らしい響きだった。

 一時間が経ち、部屋を出る頃には決意は使命になっていた。
 僕は帰りがけにホームセンターに寄って、目についた工具を買い漁り、何もない部屋で作戦を練った。といっても、やることは水槽を破壊するだけだ。
 決行日は三日後の深夜に決めた。あの非情な男がいつ出かけるのか聞き忘れたから安全をとってのことだ。本当は今すぐにでも助け出したくて、決行までの三日間は両足がしきりに疼いた。

 何も手につかないまま三日が過ぎた。早朝から何度も太陽の位置を確認し、陽が落ちたのを確認して家を出た。リュックなんてとっくの昔に売り払ってしまったから、片手に工具を握りしめてあの店へと向かう。
 足取りは軽かった。
(とにかく、まずは入り口を破壊しないと……それから水槽に繋がる扉もだ)
 しかし、その必要はなかった。なぜかすでに店の扉は破壊されて、光が外まで漏れ出していた。番犬の甲高い鳴き声がうるさいくらいに路地裏に反響している。
 店の中も荒れ果てていた。水槽へ続く扉は原型も残らないほど完全に破壊された後だった。その先には十数人の人影。
 彼らの姿は後ろからみると、まるで姿勢を低くして腰を折り曲げて、まるで神々しい存在に向かって祈りを捧げているみたいだった。
 予想外の光景に驚いて動けないでいると若い女性が叫んだ。
「あんた、何、ぼっとしてんの!? 見てるなら手伝ってよ! ああ、もう……!」
 彼女の中指の大きな指輪が邪魔だと判断したのか、それを乱雑に放り投げて、その手に似合わないキリとハンマーを握った。
 よく見れば彼らの足元には僕が今握っているような大小さまざまな工具が転がっていた。
「あんただってそのつもりで来たんでしょ!? 早く出してあげなきゃ!」
 ハッとして水槽を見上げる。水槽の中の彼女は右へ左へと壁にぶつかりそうなほど慌てていた。そうだ、早く出してあげないと。可哀想なことに彼女はいつもよりも痩せ細って見える気がした。
 ここに集まった老若男女の素性は知らないが心は一つだった。僕はいてもたってもいられなくて、ドリルを水槽に突き立てた。
 手を通して全身に響く振動と駆動音が僕の心を高揚させた。全身で力いっぱいドリルを水槽に押し付ける。
「……大丈夫だよ……すぐに僕が助けてあげるから……」
 頭の中はただそれだけだった。まるで逆らいようのない運命に突き動かされているみたいに一心不乱に水槽を壊していく。
「ワンッ!」
「痛ッ……!」
 若い女性が突然、腕を押さえてその場にしゃがみ込んだ。腕から血が滴って、ポタポタと床に落ちた。
「あんたに構ってる時間はないの! 殺されたくなかったら邪魔しないで!」
 赤く染まった犬歯を剥き出しにして番犬は威嚇する。女はそれを無視してすぐ自身の使命に戻った。番犬はしばらく吠えていたが、効果がないとみるやいなや、いつものように僕の近くへやってきて悲しげな声をあげた。
「ごめんね……でもこうするしかないんだ」
 どれほどそうしていただろう。水槽から水が滲み始めた。徐々に水圧が高まり、水の束が太く、力強くなっていく。
 大きな破裂音が響いた。水槽全面にヒビが広がって彼女を閉じ込める檻が崩壊する。それと同時に濁流が僕たちを飲み込んで揉みくちゃにしていく。
 水槽の水がすべて外へ流れ出て、僕はフラフラとしながら立ち上がった。鼻の奥がツンと痛い。むせ込みながら辺りを見回すと部屋の真ん中にひれを大きく広げた彼女が横たわっていた。彼女はぴくりとも動かない。顔を背けているせいで表情も読み取れない。
 僕と彼女の間にわずらわしい壁はもうない。ついに僕は彼女を救い出したのだ。誇らしさと達成感で胸をいっぱいにして僕は彼女に手を伸ばした。
「えっ」
 乾いた音とともに彼女は僕の手を払いのけた。僕を見る目は冷たく憎悪すら感じる。呆然と立ち尽くす僕をよそに、人魚は上半身だけを持ち上げて、床に落ちていたキリを拾い上げた。そこにあるのは明確な敵意。
 その時になって僕はようやくベタという魚の特性を思い出した。気性が荒く、縄張り意識が強い……一つの水槽で飼えるのは一匹まで……縄張り争いはどちらかが死ぬまで終わらない。
 鋭い槍が僕の喉元に迫る。
「ワン!」
 今まで人間の皮を被っているようにしか見えなかった番犬が初めて野生の獣に見えた。番犬は人魚に飛びかかり、何度も立場を逆転させながらゴロゴロと床を転がった。犬歯が人魚の肌を食い破り、キリが犬の肌を裂く。
 水中ならまだしも陸上では哺乳類の方が有利だった。しばらくの取っ組み合いののち、人魚は尾ひれをぐったりとさせて動かなくなった。番犬がトドメとばかりに人魚の首に噛みつくと最後の力で人魚の体がビクッと震えた。
 番犬は動かなくなった人魚の体を僕の目の前にぽとりと落とした。
 長い静寂があった。
 やがて一人が「あーあ」と落胆の声をあげた。一人一人と彼女の周りに座り込み、その腹部から乳白色に輝くうろこを剥がして帰って行った。
 僕もそれにならってうろこを一枚だけ剥ぎ取って家に帰った。
 帰り道の途中、工具を売り払って古着のジャケットを買った。こんな寒い夜に上着も着ないで歩くなんて馬鹿馬鹿しかった。